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教育改革

2006-11-06 07:07:48 | Weblog
 平成18年11月4日(土)の22時から90分間、NHKのETV特集で、「学校がかわる、子どもがかわる」と題して、放映があった。東京都杉並区にある298名の生徒数の和田中学校に、平成15年から、(校長・教頭の資格要件の緩和で)民間人の藤原和博校長が赴任して、今までの学校とは違った感じで、それなりのアイデアを出して実践している。
 土曜は、土曜寺子屋(ドテラ)を開いて、希望者に補習授業を安いお金(月に2200円)でしている。講師は、教育者希望の大学生が主体となって。
 ここでは、50分の授業が、45分にして、980コマの授業数を1200コマに増やして、無駄なく無理なくしようとしている。3学期制を4季制にしている。
 目玉は、校長のアイデアの「よのなか科」である。弁護士や技術者など、その専門の関係者も壇上に立ってもらって、オープンに授業が行なわれている。
 教育が難しいのは、成果が出るには、それなりの時間が掛かることだ。その人間を一生見ないと理解できないこともある。

 教育現場が、今まで、何か、世間と大きくかけ離れて来たことに問題がある様な気がする。いつでも、一般の人が、授業に参観に出来る様に、何故出来ないのだろうか。教育委員会は、校長に多くの強い権限を与える様に、何故、出来ないのだろうか。ニュージーランドでは、それぞれの学校独自の教育が認められているので、ひどい所では、小学校で、九九をちゃんと教わっていなくて、中学に進級するケースがあると、ある日本人の親が嘆いていたが・・・。
 学校は、生徒も教師も、共に楽しい場所であるべきだ。自分の時を考えてみると、小学校では、楽しかった。学校から帰ると、友達との遊びに一所懸命だった。小学校高学年では、学級でグループを作っていて、グループ学習なるものがあって、授業でよく理解できない出来ない所を教え合うシステムが出来ていた。私は、中学や高校に行っても、数学や英語で、同級生から質問されることが多く、丁寧に返答していた。今考えると、いい雰囲気だった様に思う。
 塾がこれだけ繁栄すること自体が、異常である。大学の勉強を殆どしなくても、すんなりと単位が取れることも、異常である(自分なりの勉強を大学でしていれば、それなりに、いいとは思うが)。受験勉強の結果、基礎的な学力が低下したり、体力低下を招いたり、大学入学後にやる気がなくなっていれば、今まで何の為の勉強してきたのか、分からなくなってしまう。終戦までは、クラスで今の高校(昔の中学)に行ける子は、一人か二人しかなく、行けない子は行ける子にエールを送っていた。教育基本法には、教育の目的は、人格(人間)形成の為とある。
 これ以上に、競争を煽り立てたり、知識偏重になることは、教育の危機である。そうでなくても、子ども達は、いじめや不登校などでサインを大人にどんどん送っているのだ。
 トップかが変わらなければ、改革は難しい。トップとは大学だ。大学の在り方が、小さな子どもの教育にまで影響している。企業と言う人もいるだろう。しかし、企業は、既に変わって来ているし、この先もっともっと変わるだろう。学歴を重要視してきた企業は、業績が上がっていないのだ。経団連会長の会社、キャノンでは、かなり前から、学歴を書く欄がないことで有名だったが。
 学歴が大きく物を言う世界も、確かにある。官僚やタレント、更には、結婚式の披露宴の時は、確かに高学歴がいいだろう。大学での教授の席を狙っている人も、それなりに、学歴がいるだろう。しかし、多くの人が思っている程、有名大学での学歴の価値は下がっている。企業は、とっくの昔に、単なる受験秀才でしかないことに、気付いていた。
 ある大分県の進学高校の受験のプロの教師が言った、「予習復習をちゃんとして、学校の授業に付いてきさえすれば、九大は、医学部や工学部の難しい科は別として、まず、多くの生徒に、合格させる自信があります」と。6カ年一貫教育のラ・サール出身の人に尋ねると、「高校から入った場合、中学から入っている人には、かなわない。凄い差が出来ているし、東大の医学部に入れる人なんかは、高校3年生になっても、ゆとりがあって、ガリガリしてないね」と。
 マスコミで、1年間、芸能人を特訓して、東大に合格させる番組がある。必死になれば、多くの人は、それなりの成績を上げられる。環境とやる気で、多くの学生が、高学歴になれる。しかし、それで真の教養が身に付いて、人間的に成長するかと言えば、全く関係ないことだ。問題は、多くのことを偽性にして、それに高い価値観を持つ必要があるかどうかだ。世の中に出れば、自分で切り開くしかない。
 福岡に修猷館と言う、素晴らしい県立高校がある。校則がない。伸び伸びとしていて、3年生になっても、秋の体育祭までは、それで一生懸命だ。下手な教師には、そっぽを向いて、皆が後ろ向きになる。教師も大変だ。父兄からは、補習をどんどんして、現役の九大合格者を増やしてとの要望が多いが、それを敢えてしない(かって、修猷館高校の隣に隣接した予備校の修猷学館に通っていた時の話で、今は、どうか、定かでないが)。高校には、実に、いろんなタイプの高校があり、想像を絶する感じで、スパルタ式に鍛えている高校が今も、現存している。
 あるMRの人が言われていた、「私の会社では、採用は、6大学中心ですね。九大の薬学部出身者ですか、全く、最初から、相手にされませんね・・・」と。東大卒の人が、入社して、まず、販売の係りに配属されると、欝になるか辞める人が多いとの話を聞いたことがある。エリートには、人に頭を下げたり、謙虚な気持ちになったり、人の気持ちがよく理解できる感性が、少し欠けている様な気がする。
 成績がいいからと言うだけで、医学部を勧める受験関係者がいるのは事実。成績が悪からとの理由で、教育学部を勧める受験関係者もいる。有名大学合格数を増やす為に、一人に、何校も受けさせる学校もあるのも、事実。もう、それは、教育でない。
 旧帝大を失くし、少なくとも、医学部と教育学部は、大学卒業後に、受験する(大学院大学)。多くの大学では、その大学の出身者が教授になることを出来なくし、教授や校長の採用をオープンにして、その期限もしっかりと設ける。義務教育であっても、基本的なことが出来ていない場合は、落第の制度をしっかりと設ける。それ等のことが本当に実践されれば、大きく前進すると思うが、無理だろうなあ・・・。
 ある人の言だと、してきたことは、10年で半分に、さらに10年で、その半分になって行くと言う。それで行くと、20歳でのその人の業績が1でも、後、努力しなければ、30歳で、2分の1、40歳で、8分の1、60歳の定年の時には、わずか、16分の1の価値でしかないことになる。人生、それから先も、まだ、長いのだ。

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