山上俊夫・日本と世界あちこち

大阪・日本・世界をきままに横断、食べもの・教育・文化・政治・歴史をふらふら渡りあるく・・・

2010韓国日記(3)

2010年08月21日 10時22分04秒 | Weblog
    10韓国日記(3)

8月15日 光州市発 → 珍島(チンド) → 木浦(モッポ)
      珍島では秀吉軍と戦った李舜臣の像が迎えてくれる。干潮のときに打ち上がった秀吉軍の死体を村人が弔ってくれた倭徳山の墓地。珍島は東学農民軍が最後に追い詰められて皆殺しされたところ、ソンヒョンリという土地の天台宗の寺の前の坂道に50体の死体がならべられた現場。丘の上の農民軍の共同墓地。古くモンゴル軍と戦った高麗・三別抄ゆかりの地。旧日本領事館。木浦近代歴史館。
      昼食はイシモチの塩焼きがでておいしい。
8月16日 木浦発 → 韓国縦断・新幹線でソウルへ → 昼食後金浦(キンポ)空港へ → 関西空港

 東学農民軍は、1894年春、地方役人の過酷な取立てに抗して蜂起し、朝鮮半島西南部穀倉地帯の全羅道首府の全州を占領した。これが反封建の第1次蜂起だ。手を焼いた政府は清に派兵を要請、これに対して日本も出兵した。だが、日清両軍が出兵してくると、政府軍と「全州和約」を結び農民軍は即日解散した。農民たちは故郷で改革にとりくむ方向にすすんだ。
 7月23日、日本軍は朝鮮王宮を占領し、国王を捕らえた。その上で、日清戦争におよんだ。8月に入って農民軍指導者達は王宮占領を知り、蜂起の準備をすすめる。日本軍排斥・民族的抵抗の第2次蜂起・第2次東学農民戦争である。10月、農民軍は全羅道から北上。11月には、慶尚道、江原道、黄海道など全国各地で農民軍が蜂起。激しい戦闘をくりかえした。近代的な日本軍に対して、一部は銃をもっていたが竹やり中心の農民軍はかなわず敗北に追い込まれていく。南の端の珍島で最後までのこった農民が殺される。
 広島にある大本営は、東学農民を「ことごとく殺戮すべし」という命令を出していた。日本は朝鮮に宣戦布告はしていない。農民軍の死者は、3万人を優に越え、負傷後死亡した者を加えれば5万人に迫る数であった。日清戦争での日本軍の戦死は1418人で、たくさん出た病死者をくわえて約2万人といわれる。清国軍の死者は約3万人である。農民軍殲滅作戦投入された日本軍は約4千人、死傷者はほとんどなかったようである。『日清戦史』全8巻の中でもわずか3頁しかふれていないという。全貌は隠されてきた。日清戦争中の最大の犠牲者は朝鮮人農民だったことが。
 教科書でも書き方はいびつだ。山川の高校日本史では清国の出兵の要因としての農民戦争という扱いで、農民軍殲滅にはふれない。分厚い『詳説日本史研究』という参考書がある。だがこれは、当時の日本政府の軍事外交方針をなぞる記述が中心で、朝鮮を歴史の主体として十分位置づけない。詳細な記述にもかかわらず、農民戦争については、教科書とほぼ同じもので何も説明しないのと同じだ。日清戦争を始める前提としての朝鮮王宮占領と国王をとりこにした重大な事実も無視している。
 今度の旅行のために、日清戦争期の研究の第1人者で、未発見史料によって日本軍の朝鮮王宮占領を明らかにした中塚明先生(奈良女子大名誉教授)に参加者一同、事前講習をしていただいた。中塚先生は東学農民戦争の事実をもっと学ぼうと調査旅行を毎年のように実施している。中塚先生の諸論文や井上勝生先生(北海道大学教授)の諸論文を勉強させていただいた。

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