今日の未明、3時過ぎに、母が倒れて救急搬送されたという知らせを受けました。義姉からの電話でした。
いくつかの用事を済ませ、母のいる病院へ向かう途中で、間に合わなかったことを知りました。
3月21日午前7時2分。母は最後の呼吸を止めました。
母の部屋を最後に訪ねたときに「私がいなくなってから読んで。」と言われていた「母の本」を帰りの新幹線の中で読みました。
幼い頃のこと。結婚。子育てと仕事。そして最後は「日本共産党との出会い」という一文でした。
眠っているより安らかでした。
生前の母が書き残した望みの通り、献体の手続きをし、遺体はそのまま運ばれたので通夜も葬儀もありません。
お骨になって帰ってくるのは、1年ほどあとになるそうです。
兄達、叔父さん、叔母さん、従姉妹たちと一緒に、お別れをしました。
遺体は、50年前、母が障害児教育に携わっていたときの子どもたちの寄せ書きで覆われました。
これは、母が「旅立ちの日のために」と書いて残していた、自分で縫い上げた衣装とともに箱に入れてあったものです。
今、寂しくないといえばウソになりますが、それ以上に、体の中から不思議な力が湧いてくるのを感じています。
これ以上ないほど、見事に美しく、母は最後の幕を自分で引いたと思います。
92歳でした。
いくつかの用事を済ませ、母のいる病院へ向かう途中で、間に合わなかったことを知りました。
3月21日午前7時2分。母は最後の呼吸を止めました。
母の部屋を最後に訪ねたときに「私がいなくなってから読んで。」と言われていた「母の本」を帰りの新幹線の中で読みました。
幼い頃のこと。結婚。子育てと仕事。そして最後は「日本共産党との出会い」という一文でした。
眠っているより安らかでした。
生前の母が書き残した望みの通り、献体の手続きをし、遺体はそのまま運ばれたので通夜も葬儀もありません。
お骨になって帰ってくるのは、1年ほどあとになるそうです。
兄達、叔父さん、叔母さん、従姉妹たちと一緒に、お別れをしました。
遺体は、50年前、母が障害児教育に携わっていたときの子どもたちの寄せ書きで覆われました。
これは、母が「旅立ちの日のために」と書いて残していた、自分で縫い上げた衣装とともに箱に入れてあったものです。
今、寂しくないといえばウソになりますが、それ以上に、体の中から不思議な力が湧いてくるのを感じています。
これ以上ないほど、見事に美しく、母は最後の幕を自分で引いたと思います。
92歳でした。