今日は冬の寒さが戻った一日でした。
たまっていた事務仕事を片付け、市役所でいくつかの用事を済ませ、「こんにちは ただち恵子です №822」の配布をし、夕方は松ノ浜駅前で政党助成金廃止署名、夜は会議。
一日が終わって、ひとりになると思うのは、やっぱり母のことしかありません。
子育てと仕事の両立、というより「女は家にいるもの」という強烈な意識の父との間での摩擦に疲れていた母が、私が大学に入学した年になぜ仕事をやめたのか?
子育ての時期を乗り切って、子どもは自立した時期になぜ?
今日、ふと思い出して納得しました。
母は「子どもたちと思いっきり、かけっこできなくなったら学校はやめようと思っていた」と私に言ったことがありました。
50歳を前にして、母は体力の衰えを感じたんだと思います。
「子どもとかけっこ」するだけが教師ではなく、年を重ねたベテランの教師にはそれなりの魅力があるはずだけど、母はどこまでも子どもたちと体でぶつかり、体で受け止める教師でありたかったんだろうと思います。
いつも決断の早い人でした。
人生の幕引きも潔く、決断してしまったんだろうかと思います。
母が残してくれた手記、「あらぐさの呟き」の最後のページをここに転載しておきます。
著者の了解を得ることはできないので、私の独断です。
でも、このメッセージを母は、多くの人に伝えたかったに違いないと思います。
最後に一件、どうしても言わなければならないこと。
かつて教え子たちに私が言った言葉「職業に貴賎はない。どんな仕事についても、その仕事で第一等になる努力を重ねることが大事だ。ただ共産党のような考えを持つ人にはなるな」
この後半の部分については私の不明を侘びて訂正しなければならない。時の流れとは言え、自分の偏見を正義と信じこんで若い頭脳に刻み込んだ罪は大きい。情報を自由に選択できる現在、おとなになったあなた達は、どうか私を乗り越えて「自分の眼」を持ってほしい。
泉大津で短歌のグループに入れてもらって毎月の例会に参加していた頃、母はこんな歌を詠んだ。
遠き日の不明を詫びて
壮年となりし教え子らに 入党を告ぐ
このブログに「母」というカテゴリーをつくった。
明日は、もっと元気になろう。
おやすみなさい。
たまっていた事務仕事を片付け、市役所でいくつかの用事を済ませ、「こんにちは ただち恵子です №822」の配布をし、夕方は松ノ浜駅前で政党助成金廃止署名、夜は会議。
一日が終わって、ひとりになると思うのは、やっぱり母のことしかありません。
子育てと仕事の両立、というより「女は家にいるもの」という強烈な意識の父との間での摩擦に疲れていた母が、私が大学に入学した年になぜ仕事をやめたのか?
子育ての時期を乗り切って、子どもは自立した時期になぜ?
今日、ふと思い出して納得しました。
母は「子どもたちと思いっきり、かけっこできなくなったら学校はやめようと思っていた」と私に言ったことがありました。
50歳を前にして、母は体力の衰えを感じたんだと思います。
「子どもとかけっこ」するだけが教師ではなく、年を重ねたベテランの教師にはそれなりの魅力があるはずだけど、母はどこまでも子どもたちと体でぶつかり、体で受け止める教師でありたかったんだろうと思います。
いつも決断の早い人でした。
人生の幕引きも潔く、決断してしまったんだろうかと思います。
母が残してくれた手記、「あらぐさの呟き」の最後のページをここに転載しておきます。
著者の了解を得ることはできないので、私の独断です。
でも、このメッセージを母は、多くの人に伝えたかったに違いないと思います。
最後に一件、どうしても言わなければならないこと。
かつて教え子たちに私が言った言葉「職業に貴賎はない。どんな仕事についても、その仕事で第一等になる努力を重ねることが大事だ。ただ共産党のような考えを持つ人にはなるな」
この後半の部分については私の不明を侘びて訂正しなければならない。時の流れとは言え、自分の偏見を正義と信じこんで若い頭脳に刻み込んだ罪は大きい。情報を自由に選択できる現在、おとなになったあなた達は、どうか私を乗り越えて「自分の眼」を持ってほしい。
泉大津で短歌のグループに入れてもらって毎月の例会に参加していた頃、母はこんな歌を詠んだ。
遠き日の不明を詫びて
壮年となりし教え子らに 入党を告ぐ
このブログに「母」というカテゴリーをつくった。
明日は、もっと元気になろう。
おやすみなさい。