泉大津市会議員  ただち恵子です

私の市政報告、毎日の活動、そのなかで思うこと.




母を想う

2017-03-21 22:41:44 | 
2年前の今日、母とお別れした。

92歳の大往生だった。


初めての市議選を翌年に控えた秋、母が住み慣れた街を離れ、私と幼かった子どもたちのところへ来てくれたのは、母67歳のとき。

その時の母の年齢に近づいている。


若い人たちに交じって「社会発展史」の講義を聞くために、夕方の電車に乗って出かけたのは70歳の頃。

「もの覚えが悪くなった」と嘆きながら、好奇心は衰えなかったし、納得するまで考える人だった。



母が亡くなったとき、たくさんの方から「いつも穏やかなお母さんでした」と言っていただいた。

母は、私の前では、「いつも穏やか」ではなかった。


よく怒り、よく泣く人だった。

森友問題、南スーダン日報問題、過労死を生み出す「働きかた」、子どもの貧困。

どんな言葉で怒りをぶつけたことだろう・・・。


そんなことを想いながら、今日一日を過ごした。








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6年目の3・11に 母の3回忌

2017-03-11 23:42:14 | 
2年前の3月21日に亡くなった母の3回忌で、関空から日帰りで東京へ。

母が、いつか来る「別れの日」のために、いつからか残していた「お別れの言葉」は、出会った全ての人たちへの感謝に続けて、「この世の中に、大きな災害が起きないように、ましてや戦争などに2度と会うことのないよう、祈ります」と結ばれていました。

そして、その横に、小さな赤い文字でおきてしまいました。2011年3月11日と書き添えられていました。


その3月11日。6年目の3月11日に、兄たち、叔父、叔母、・・・集まって、母を偲ぶ一日を過ごしました。

一日、心の中で、母とたくさんのことを話しながら過ごしました。


特割切符で予約していた帰りの飛行機には充分時間があって、羽田での待ち時間は、週明けからの予算員会関連と議会運営委員会の視察資料を読みながら過ごしました。


帰って開いた新聞に、「南スーダンから自衛隊撤退」「森友学園申請取り下げ」の文字。

また、母に問いかけています・・・。
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母の納骨

2016-10-29 21:29:14 | 
2015年3月21日、1年半前に急逝した母の納骨でした。


急逝と言っても、92歳の安らかな旅立ちでした。

母は生前に献体の手続きをしていたので、ようやく今月の7日、母が望んでいた「最後の役目」を果たして、骨となって帰ってきました。


白い骨壺がお墓に納められるのを、二人の兄とともに見届けました。


そして親戚の人々と母を偲ぶひと時を過ごしました。


母が亡くなった後、遺品の整理をしてくださった義姉が私にと、まとめてくださったもので帰りは荷物がふくらみました。



手仕事が好きだった母の自作の鎌倉彫の手鏡。毎日、母の傍らにありました。




リュウマチを患って、鎌倉彫の彫刻刀が持てなくなってからは、小さな筆で絵を描きました。

毎日のように、身の回りにある花や野菜を描いていました。


そして、母が愛用していたパジャマ。今の季節に着るジャケット。


母と密度濃く、一緒に過ごしたのは大阪での7年間でした。

私にとっても娘たちにとっても、かけがえのない時間でした。

そして母にとっても、大阪での7年間は、楽しく輝いた日々だったと思っています。



今も、ふと母の息遣いを感じるような気がします。



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あれから一年

2016-03-21 22:51:51 | 
1年前の今日、母が92歳でその生涯を閉じた。

未明、というより深夜に兄からの電話を受け、「朝までもつかどうか・・・と病院で言われている。」と告げられた。


土曜日の朝だった。

それからの数時間で、いつも土曜の朝に配る日曜版を配り、その日の森下議員の事務所開きへのメッセージをメールで送り、出かける用意をした。

電車の中で、何度か義姉とメールのやりとりがあり、「意識はないけれど落ち着いて呼吸をしている」という言葉に奇跡を祈り、そして新大阪で、最期の知らせを聞いた。


新幹線の中で、娘たちに知らせた。


横浜の病院で、眠っているように安らかな、そして呼んでも応えてはくれない母と対面した。

母の遺志によって献体の手続きをし、遺体の傍らで半日を兄達、叔父、叔母、従兄弟達と過ごした。


遺体を見送ってから、母が過ごした部屋に立ち寄った。

読みかけの本、編みかけのセーター、テーブルの上のメモ、それら全ては母が昨日までそこにいたことの証。


本当にもういないのだということを思い知らされたような気がした。どっと涙があふれた。


優しい義姉が、いつもまでも背中をさすってくれた。

その暖かさに身をゆだねて甘え、いつまでも子どものように泣いた。


それが1年前の3月21日。


遺体はないけれど、母が望んだ通りに、母の手による自画像を遺影代わりにして、花で囲まれた祭壇は、とても美しかった。




この1年、たくさんのことを母と語り合ってきた気がする。

母はもう答えてはくれない。

それでも、私は「こんな時にはどうしたらいいのかな?」と母に問うてみる。


「母はきっとこう言っただろう」と、思いをめぐらせるヒントをたくさん残してくれたから。

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母の「お別れの会」

2015-04-29 19:19:33 | 
3月21日に亡くなった母の「お別れの会」で、日帰りで横浜へ。

長女とその二人の子どもたちも一緒に、南海電車の始発で関空から羽田。


次女とその家族は新大阪から新幹線で、三女は東京から、それぞれで参加。現地で合流です。


以前のブログにも書きましたが、母の生前の意志で献体の手続きをしていました。

「通夜、告別式は不要。そのかわり、できればささやかな『お別れの会』を」と母の書き残した通りに、今日の集いを二人の兄と私の3人の名前で案内しました。

(と言っても、準備は全て東京にいる兄達、私は今日の当日参加だけですが。)


親族と、母の教師時代の教え子の皆さんで、卒業してから毎年クラス会をして母と交流の続いていた方々を中心として、母を偲ぶ会でした。


会場は母の終の住まいとなった高齢者共同住宅のすぐ近くで、ディ・サービスなどで母も楽しいときを過ごしたお寺の広間をお借りしました。





会場には、母の絵、そして写真。







70歳を過ぎてから、絵を描き始めた母のたくさんの作品の中から、義姉たちが選んでくれた絵が並び、母の最初で最後の個展のようでした。

絵は、「よろしかったら好きな絵をお持ちください」と声をかけたら「え~!、いいんですか!」と声が上がり、飾った全ての絵を参加者の皆さんがそれぞれ選んで持ち帰ってくださいました。



遺体はないけれど、母自身の手による自画像を置いた祭壇に、参加者の皆さんに白いカーネーションで献花をしていただきました。

お花で彩られた祭壇はとてもきれいだったのですが、残念ながら写真はありません。



70歳を過ぎて尚、お元気な母の教え子の皆さんから、私の知らない母の話をたくさん聞かせていただきました。

参加者の中に、私の中学の同級生で、別々の高校に進学したけれど青春の時期を深く心通わせた友人の姿がありました。

40数年ぶりの思いがけない再会でした。母が会わせてくれたんだと思います。



母の部屋の押入れの目に付くところに置かれた「旅立ちの日」と書いた箱に、その日に着る着物、遺影代わりの自画像、そして「お別れの言葉」がありました。


表紙を今年の1月に描かれた母の遺作で飾り、「お別れの言葉」を参加者の皆さんにお渡ししました。





「お別れの言葉」の最後は「この後の世の中に大きな災害が起きないよう、ましてや戦争など二度と会うことのないよう、祈ります。」と言う言葉で結ばれています。


これを書いたのは、東日本大震災以前だったようで、「大きな災害」という文字の横に、赤字で おきてしまいました。2012年3月11日と添え書きがあります。


母が「旅立ちの日」の箱を用意したのは、20年以上前のこと。母が大阪に住み、私と私の幼かった子どもたちの暮らしを支えてくれた時期でした。


除夜の鐘 ききつつ今年も「旅立ち」の

衣装収めし箱 確と閉ず



1994年年末、母72歳のときの歌です。








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母・・・最後のメッセージ

2015-03-23 23:13:37 | 
今日は冬の寒さが戻った一日でした。

たまっていた事務仕事を片付け、市役所でいくつかの用事を済ませ、「こんにちは ただち恵子です №822」の配布をし、夕方は松ノ浜駅前で政党助成金廃止署名、夜は会議。

一日が終わって、ひとりになると思うのは、やっぱり母のことしかありません。


子育てと仕事の両立、というより「女は家にいるもの」という強烈な意識の父との間での摩擦に疲れていた母が、私が大学に入学した年になぜ仕事をやめたのか?

子育ての時期を乗り切って、子どもは自立した時期になぜ?


今日、ふと思い出して納得しました。

母は「子どもたちと思いっきり、かけっこできなくなったら学校はやめようと思っていた」と私に言ったことがありました。

50歳を前にして、母は体力の衰えを感じたんだと思います。

「子どもとかけっこ」するだけが教師ではなく、年を重ねたベテランの教師にはそれなりの魅力があるはずだけど、母はどこまでも子どもたちと体でぶつかり、体で受け止める教師でありたかったんだろうと思います。


いつも決断の早い人でした。

人生の幕引きも潔く、決断してしまったんだろうかと思います。



母が残してくれた手記、「あらぐさの呟き」の最後のページをここに転載しておきます。

著者の了解を得ることはできないので、私の独断です。

でも、このメッセージを母は、多くの人に伝えたかったに違いないと思います。


最後に一件、どうしても言わなければならないこと。

かつて教え子たちに私が言った言葉「職業に貴賎はない。どんな仕事についても、その仕事で第一等になる努力を重ねることが大事だ。ただ共産党のような考えを持つ人にはなるな」

この後半の部分については私の不明を侘びて訂正しなければならない。時の流れとは言え、自分の偏見を正義と信じこんで若い頭脳に刻み込んだ罪は大きい。情報を自由に選択できる現在、おとなになったあなた達は、どうか私を乗り越えて「自分の眼」を持ってほしい。



泉大津で短歌のグループに入れてもらって毎月の例会に参加していた頃、母はこんな歌を詠んだ。


遠き日の不明を詫びて

壮年となりし教え子らに 入党を告ぐ



このブログに「母」というカテゴリーをつくった。

明日は、もっと元気になろう。


おやすみなさい。
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母のこと・・・・仕事と子育て

2015-03-22 23:57:10 | 
母の突然の死について、このブログとフェイスブックに書いたので、たくさんの方からお悔やみの言葉、慰めと励ましの言葉をいただきました。


親を見送るということは、ほとんどの人がいつかは迎える日。

私にとっては、それが昨日、3月21日でした。



母が、「私が死んだら読んでね」と言っていた「あらぐさの呟き」と題した一冊の「私だけの本」を読んだ。



立派なケースに入っているけれど、中は白紙のページに手書きで231ページ。


私の幼いころの母の記憶は、小学校の教師として働く姿。

母が仕事をやめたのは、私が大学に入学し、家を離れた年だった。

だから、私の記憶には、朝は私達は学校に行き、それより早く仕事に行く母の姿しか残っていない。

そのとき、母はまだ49歳だったことに驚く。


仕事を続けることと、子育て、家庭の主婦の仕事を両立させることに、母は悩み続けていたことを私は知らなかったわけではない。

でもこれほど深く、ずっと悩み迷い、苦しみながら仕事をしてきて、50歳になるまえにやめた母の気持ちは考えたこともなかった。


「あらぐさの呟き」にはさまれた、包装紙の裏に鉛筆で走り書きしたものがある。

そこに記された私の年齢からすると、それを書いた母は36歳。


「勤めていながら家庭を第一義として学校のことは要領よく片付けて、さっさと引き上げていく人たちのまねは私にはできない。毎晩遅くまで公務で飛び歩きながら夫に労わられ助けられて活躍している人はうらやましいけれど、私には望むべくもない」

という文章に続き、「私はやめよう。あと10年子どもの成長を見守ろう」という言葉で結んでいる。


「中途半端」ができない母は、私が義務教育を終える頃までの10年間、「家庭の主婦」の仕事に専念しようと決めたことがあったようだ。

「女は家にいて家庭を守るもの」という考えの父との間での、小さな衝突、大きな摩擦は日常だった。

でも母はやめずに末っ子の私が大学に入学する年まで働き続けた。


そして一旦退職して、非常勤で近くの小学校や幼稚園で講師の仕事をしていた。


母の葛藤を、私は自分の心のなかでなぞっている。


そんな母を「先生」と慕い、ずっと交流を続け、半世紀以上たったいまでも、毎年決まった日にクラス会を続けている卒業生のグループがふたつある。

母が大阪で暮らしていたときも、そのクラス会には必ず出かけて行った。幸せそうだった。

「私の母はどんな先生だったんですか」と、いつか聞いてみたい。





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母とお別れしました

2015-03-21 22:45:52 | 
今日の未明、3時過ぎに、母が倒れて救急搬送されたという知らせを受けました。義姉からの電話でした。

いくつかの用事を済ませ、母のいる病院へ向かう途中で、間に合わなかったことを知りました。

3月21日午前7時2分。母は最後の呼吸を止めました。


母の部屋を最後に訪ねたときに「私がいなくなってから読んで。」と言われていた「母の本」を帰りの新幹線の中で読みました。



幼い頃のこと。結婚。子育てと仕事。そして最後は「日本共産党との出会い」という一文でした。


眠っているより安らかでした。

生前の母が書き残した望みの通り、献体の手続きをし、遺体はそのまま運ばれたので通夜も葬儀もありません。

お骨になって帰ってくるのは、1年ほどあとになるそうです。



兄達、叔父さん、叔母さん、従姉妹たちと一緒に、お別れをしました。




遺体は、50年前、母が障害児教育に携わっていたときの子どもたちの寄せ書きで覆われました。

これは、母が「旅立ちの日のために」と書いて残していた、自分で縫い上げた衣装とともに箱に入れてあったものです。


今、寂しくないといえばウソになりますが、それ以上に、体の中から不思議な力が湧いてくるのを感じています。

これ以上ないほど、見事に美しく、母は最後の幕を自分で引いたと思います。


92歳でした。
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「少しの支えで その人らしく」・・・91歳の母が暮らす場所

2014-02-13 23:57:50 | 
昨日と今日、横浜で開催された自治体問題研究所主催の「第25回市町村議員研修会」に参加しました。

今日の講義が終わったのは3時前。

新横浜から新幹線で帰るまでの時間、横浜市内に母が暮らす小さな高齢者の共同住宅を訪ねました。

「せっかく横浜まで来たのだから母の顔を見て帰りたい」ということもありますが、一緒に研修会に参加した森下議員と一緒に施設長さんのお話を聞かせていただくことが目的でした。

泉大津市内でも様々な形態の高齢者の専用住宅が増えているものの、「これでいいのだろうか?」と疑問に思うことも少なくありません。

森下議員はさすがに一歩踏み入れたとたんに、「暮らしの匂いがある暖かさ」を感じてくれたようで、その印象をブログに書いてくれていました。



↑ 写真も森下議員のブログからいただきました。

開設から15年。ちょうど介護保険スタートの年だったということ。
でも、介護保険とは全く関わらず「高齢者共同住宅」として建てられました。

今は有料老人ホームとしての指定を受け、ケアステーションとし訪問介護、ディサービス(別の場所で)もやっています。
事業の内容は変わっても「できるだけ自由に、その人らしい暮らし方を支える」と言う考え方は一貫しています。

施設長さん自身が御両親の介護をする中で「自分で納得できるような施設がなければ作るしかない」と思われたそうです。
認知症の高齢者だけを対象にしたグループホームなら市の補助金制度があることを知っても「元気な人も、少し心細くなった人も、そして認知症の方もいろんな人が一緒にいるのが、普通の暮らし」と考えたとおっしゃいます。

母は第1号の入居者でしたがしばらくは「入居者よりスタッフの方が多い」時期が続いたとか。今は、10室が満室。

小さな事務室に続いた食堂は、入居者の皆さんの団欒の場でもあります。
手仕事が好きな母は、いつも編み物をしていますが週に一度は「編み物サークル」の場にもなり、そして一年に一度、手作りの作品を持ち寄ったバザーで地域の方々に来ていただきます。

母が家での一人暮らしに不安を感じるようになったときに、ちょうどこの場所ができました。
老人福祉法に掲げられた理念が、そのまま生きて形になったような場所。

老人福祉法 第二条  老人は、多年にわたり社会の進展に寄与してきた者として、かつ、豊富な知識と経験を有する者として敬愛されるとともに、生きがいを持てる健全で安らかな生活を保障されるものとする。

母が暮らす「無憂樹」のHPを見つけました。



「年を重ねてきた人々が共に、なるべく自由に暮らせる場」「介護、医療、福祉・・・それらは必要な時、手の届くところにある暮らし」
これを“あたりまえ”と考える施設長さんは、その実現のために介護保険法も老人福祉法も「使えるものは使う」という立場なのだと思います。

研修会で勉強してきたことについては、もう一度資料を読み返し後日書くこととします。
それにしても明日も朝から会議、一般質問の締め切りも迫り、明日の夜は議会基本条例の説明会。そして明後日の朝までに後援会ニュース作成・・・なかなか大変です。







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91歳になった母は「要支援1」

2013-10-26 23:44:32 | 
母と一緒に、ソウルの長女一家を訪ねる3日間の旅から帰ってきました。

次女とその子、1歳の○ちゃんも一緒に。

帰りは母は金浦空港から羽田へ、母が乗る飛行機を見送ってから私たちは関空へ。

母から「定刻通り無事に羽田に到着。その後の電車もバスも順調で8時過ぎに帰宅しました。素晴らしい旅をありがとう。長生きして良かった。・・・」とメールが届きました。

母と3日間一緒にいて、母の健康、体力には感心しました。
毎日、よく歩きました。
昨日の夜は、夕食後、ホテルに帰るのにタクシーが拾えず、結局40分ほど歩きました。

それだけ歩けて、横浜から一人で新幹線に乗って大阪の私の家まで来ることができて、海外の空港からひとりで飛行機に乗って帰ることができるのは、91歳という年齢からすると「健康と体力に恵まれている」のだろうと思います。
それがわかったのは、私にとってもとても嬉しいことです。

それと同時に、その体力を維持するのに、相当の努力をしていることもわかりました。
「体を動かさないいと動けなくなる」と言います。
毎日、自分なりの体操をします。数日、それを怠ると「足に力が入らなくなる」と言います。

介護保険が始まったときに77歳だった母は、リュウマチのため荷物を持ったり、手先に力を入れることができませんでした。すぐに認定を受けて「要介護1」、それから「要支援2」になり、今は「要支援1」。
週2回のディ・サービスを利用し、週に一回、ヘルパーさんにトイレ、浴室、部屋の掃除をしてもらっています。

ディ・サービスでは、体操、手話コーラスや太極拳をして、ディ・サービスに行かない日も部屋の中で体操はします。

もし母が、在宅の一人暮らしで介護サービスを使わずに暮らしていたら、今のような「91歳」ではなかったと思います。

3日間、一緒にいたら少し手を貸さないとできないことがいろいろあることがわかります。
少しの段差でも何かにつかまらず足をあげることはできないし、指先に力を入れて「袋をあける」ことなどもできません。
娘たちの会話は「早口で何を言ってるのかわからない」と言います。
とても元気そうであっても、母はやっぱり「支援が必要な高齢者」です。
その「支援」を受けることができてこそ、「健康で文化的な生活」を楽しむことができて「長生きしてよかった」と言える母がいるのだと思います。

自分の意志で行きたいところに行くことができる91歳。それは言葉の本来の意味で「自立した高齢者」です。
公的支援を利用し、私的支援にも支えられ、「自立した生活」を楽しむ母から、「介護保険のサービス」を取り上げないで欲しい。
羽田へ向かう飛行機に乗り込む母の背中を見ながら、願ったことです。
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市政報告懇談会。90歳の母も参加して・・・

2013-10-23 23:49:54 | 
朝から雨。

午前中は定例の相談会で、事務所に。
電話での相談が2件。「明日から留守にしますので・・・」とお断りして、具体的な対応は週明けにさせていただくようお願いしました。

夕方、明日からのソウルへの旅行に同行するために母が来て、雨の降っているので最寄の北助松駅まで迎えに行きました。
横浜から新幹線に乗って、ひとりで来るくらい元気な90歳。明日で91歳になります。

母は、明らかに10年前より元気です。

4年に一度の私の選挙のときは「何も手伝えないけど」と言いながら、やっぱり気になるのか来てくれました。
6年前、10年前は数時間座っているのも辛そうで、よく横になっていました。

きょうは夕方、家に着いて食事をした後、一緒に市政報告懇談会に参加してくれました。

そして、9時過ぎに家に帰ってから私が机の上に置いてあった本を手にとって、「読み出したらやめられない」と言って一冊読んでからお風呂。

母は、介護保険制度が始まってすぐに介護認定を受けました。
リューマチで手に力が入らないので、お風呂やトイレの掃除はヘルパーさんの助けを借り、ディ・サービスも利用してきました。

高齢者共同住宅に住み、夜はみんなと一緒の食事を楽しみます。
自宅で一人で暮らしていたときと違い、「いつも見守られている安心感」が嬉しいと言います。

住環境、医療と介護、毎日自分のやりたいことをする暮らし。
それらが、「10年前より元気な90歳」の母を支えているように思います。

市政報告会の「報告」をするつもりが、つい母の話になってしまいました。

前半は、岩手・陸前高田の報告をさせていただきました。
そして、9月議会の報告です。

次々といろんな意見が出て、皆で怒ったり、励ましあったり・・・。
今夜もなかなか楽しい懇談会になったと思います。
小雨ふるなか、出かけてくださった皆さんに感謝です。









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母の卒寿を祝う

2013-01-02 18:31:52 | 
少し遅れた母の卒寿のお祝いで今日は日帰りで東京です。

子ども3人。孫7人。曾孫7人。そして子ども達と孫達のパートナー。皆が揃うのはお正月の休みしかないということで今日になりました。

一緒に暮らしていた20年ほど前には好んで着物を着ていた母でした。
外出のときも、家にいるときも着物で過ごしていて特に冬は「着物は暖かくていい」と言っていました。

私が子どもの時の母は仕事と家庭と・・・いつも「走っている人」だったので、その母が着物を日常着にしたことは意外でしたが、着物が好きだったのだと思います。
リューマチを患って、自分で着物を着るのが不自由になってまた洋服にもどりました。

きょうは颯爽と(?)パンツスーツで現れたのにはちょっとびっくり。



思わず一枚

90歳の母の足どりはしっかりしていてまだまだ元気。うれしいことです。



長いローソク9本
「ハッピーバスディ おばあちゃん」のみんなの歌声に囲まれて、見事、一息でローソクの灯が消えました。

一番年長の孫のギター伴奏で「ふるさと」の合唱。

参加予定だったけれど急遽、来られなくなった私の長女と三女からも「おめでとうメール」が届いたようです。
私が議員活動始めたころは小学生で、おばあちゃんに一番にお世話になった娘たちです。

帰りの空港で「またね」とメールしたら「私は世界一幸せなおばあちゃん」と返信が返ってきました。

誰もがみんな長く生きたことを心から喜べる社会でなければ・・・と思います。

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母、まもなく90歳

2012-09-24 23:39:22 | 
昨日は、夕方6時過ぎの飛行機で関空から羽田へ。
そして横浜の母の部屋に泊まりました。

私達が子ども時代をすごした家はすでになく、母は高齢者共同住宅の1室に暮らしています。
6畳の部屋にベッドを置き、対面には仏壇と本棚。
その間に、冬にはこたつになる小さなテーブル。そして座椅子。

それでほとんど、床は見えません。

壁には母が描いた何枚かの絵。
出窓には私が何年も前の母の日に贈った鉢植えが、今も元気です。

私が母の部屋に泊まるときは、このテーブルと座椅子をどけて、そこに布団を敷きます。

この部屋にあるものが母の持ち物の全てです。
四季を通じて着る物も、朝、昼の食事に使う食器も(夜は食堂で、入居者のみなさんと一緒に食事)、読み書きするものも、子や孫の写真、思い出の品も。

絵や、手話コーラス、太極拳などのグループに参加して、毎日のように出かけます。
部屋にいるときは半日かけて新聞を読み、あとは好きな編み物。

母の暮らしのスペースは「畳6枚分+α」でありながら、行動範囲の広さ、心の世界の広さはなかなかたいしたものだと思います。

介護認定は「要支援1」で、週に一度ヘルパーさんに部屋の掃除をしてもらいます。


   
   見はるかす 米軍基地なり 地をゆすり
   嘉手納の空を破りて爆音

   腰かがめ 岩角つかみ濠に入る
   負傷兵看護乙女ら 終焉の跡

   天皇を信じて果てし人々の 
   血を吸いし濠に 我は今立つ

母70歳、沖縄を訪ねたときの歌です。
20年たった今も、平和、憲法について語るときは熱くなります。

そんな母と、11月にソウルにいる私の孫1号、母にとっては曾孫4号に会う旅に出かけることにしました。



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食卓の彩り

2012-04-12 11:32:39 | 
昨夜の夕方、新横浜に着き、そのままバスで生まれ育った家に直行。



この階段を下りたところが、懐かしい「我が家」です。
ここに住んでいた頃は、手すりはありませんでしたが、小学生のときはこの階段で遊びました。
じゃんけんして、勝った方が「グー」なら「グリコ」とか言いながら一段づつ階段を登ります。飽きもせずに、毎日毎日、遊んでました。



私も兄たちも、それぞれに巣立ち、母はこの家で夫と母、私にとっては父と祖母を看取ったあと、大阪に移り住んで私と幼かった子ども達の暮らしを支えてくれました。

再び横浜に戻ってからは自分は近くに建ったばかりの「一部ケア付き高齢者共同住宅」に住まいを移し、その後、住む人のいなくなった自宅に「とものいえ」の看板を掲げました。



おとなも子どもも出入り自由、近所の方が気楽に集う場所をつくるのが、ずっと前からの母の秘かに抱いていた夢だったようです。

おしゃべりしながら編物をしたり 太極拳をしたり・・・・と使っていただいた家もいろいろ不都合が出てきて取り壊すことになりました。

昨日は、子ども時代を過ごした家の見納めです。

夕食は母の暮らす無憂樹で入居者の皆さんと一緒にいただきました。
きんぴらごぼう、胡麻豆腐、白豆の小鉢。お寿司に梅の花が一輪添えられ、マットも桜。あとから揚げたての海老で天ぷらうどん。見た目も味も美味しくいただきました。



食卓に添えられた季節の彩りに、スタッフの皆さんの「毎日の暮らしを楽しく豊か」にという心配りを感じます。
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