こんにちは! ただち恵子です

政治と社会、日々の暮らしの小さな喜び。思いつくままに綴ります。

10月24日

2023-10-24 17:52:20 | 父・母のこと

1922年10月24日。

母は生まれた。

もし今も命があれば101歳。

1923年9月1日、関東大震災。

教職にあった母の母、私の祖母が2学期の始業式を終え、生後10ヶ月の母を膝に抱いていた時に、大地震が襲った。

祖母が、母とその兄、幼い二人を両脇に抱えて家の外に飛び出した直後に家が崩れ落ちた話を、祖母からよく聞かされた。

12万人もの死者が出たと言う大災害で、生き延びたのも奇跡かもしれない。

母は、子どもの頃は痩せて顔色が悪く、学校でもよく倒れたという。

女学校の受験は、健康診査で不合格だったという。

その後、どうやって健康を手に入れたのかはわからないが、とにかく私の記憶にある母は元気な人だった。母が病気で寝込んでいる姿を見た記憶がない。

働きながら3人の子どもを産み育てた。

母が生まれ、そして災害にも病気にも、その命を奪われることなく生きてくれたから私がいる。

 

 

 

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77年年目の8月15日

2022-08-15 23:45:03 | 父・母のこと

8月15日。

今日という一日、70歳で逝った父のことを思う。

 

父が、故郷の山形を離れたのは何歳のときか。

父のことをあまりにも知らないこと。

知らないと言うことを深く考えることもなかったことに、いまさらのように驚いている。

取り返しのつかない悔いの念がある。

 

もっと話を聞きたかった。

聞けるときには、「聞きたい」と思わなかった。

聞きたいと思う今、それは、かなわない。

 

母が書き残したもので、父が戦地で6年の軍隊生活を共にした、友人を山形県に訪ねたのが、亡くなる前の年。

父の最後の旅行であったことを知る。

 

父の青春は、戦争と貧困。

多くは知らなくても、母から聞いた話の断片で、そう思う。

 

貧しい農家の3男でとして生まれ、「口減らし」のために(と推測する)故郷を出た父と、たくさんの人を雇って手広く農業をする、地域の有力者(だったらしい)の息子であった人とが、唯一無二の親友としての友情を育んだのが、軍隊という場所であったことに、考えさせられるものがある。

 

 

 

 

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母からのメール

2020-01-29 23:02:02 | 父・母のこと
宅急便の社名やAmazon・・・「荷物が届いています」など、いかにもそれらしいメッセージで誘導する迷惑メール。

毎日のように届く。煩わしい。今朝は「母です。大事なお知らせです」というのがきた。

母が亡くなって、もうすぐ5年。天国の母からの「大事なお知らせ」なら、どんなに嬉しいことかと思う。


古い携帯を充電したら、メールボックスに残っているメッセージを読むことができる。


母からのメールの最後は2015年1月17日だった。

娘たちが毎年つくってくれる写真のカレンダーを送ったので「かわいいカレンダー届きました」と。

短いメールは「もっと言いたいことが有りそうだけど、時間切れ。編み物教室が始まります」という言葉で終わっている。

92歳にしては元気で、毎日忙しく暮らしていた。そして、それからわずか2か月後に、母は静かに生涯を終えた。

「もっと言いたいこと」は何だったんだろうか。


2月2日に投票日を迎える京都。

終盤を迎えた選挙の最中、京都新聞の現職候補のとんでもない広告。「大切な京都に共産党の市長は『NO』」。顔写真を掲載された著名人の多くが「許可なく掲載された」と抗議しているというお粗末さ。


毎日新聞の記事は、この広告を「共産党を攻撃している」ものとしている。

攻撃されているのは、共産党(だけ)だろうか。共産党を攻撃しているようにみせて、多様な価値観をもって生きる人々が創る社会そのものが攻撃されているのではないか。

暖かい給食をみんなで食べる学校給食を!

返さないでいい奨学金制度で学びたい人たちが学び続けることができるように!

高齢者の医療費の負担軽減とお出かけ支援!


・・・福山候補の政策は、市民の願いがいっぱい詰まったもの。

政策への批判ではなく「共産党」というレッテルで排除する。

「そんな暗い時代に逆戻りさせてはいけない」と、天国の母はきっと言うだろう。

最後まで、この国の行く末を心配していた母だった。


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亡き父へ

2019-02-11 23:16:30 | 父・母のこと
父が亡くなったのは1987年の今日、2月11日。

65歳で胃ガンの手術。5年目の再発。70歳だった。

「A(私の3女)の1歳の誕生日には、大阪へ行くからな。・・・もし行けなかった、連れてこい」

父が私にくれた最後の言葉。

そして、Aの1歳の誕生日を待たずに逝った。


今日ばかりは亡き父を思う。


「女は勉強しなくていい。」「女は新聞なんか読むな」と言うのが口癖だった。

それでも私の高校の入学式には父が付き添ってくれ、1年浪人して希望する大学を受け直すこと(結局、翌年の受験も落ちましたが)もすんなり許してくれた。


孫の写真を送っても、何の反応もなかったが、亡くなってから父が座っていた後ろの引き出しに、私が送った写真と手紙がひとつにまとめてあった。


小学生の時には学校に提出する「保護者の学歴欄」に、「父 農学校卒」と書かれているのが恥ずかしかった。

山形県の貧しい農家の3男として生まれ、「農学校卒」で一人、横浜に出てきた。

戦争から帰って、隣の市の職員として定年まで勤めた。

子どもの目から見ても、達筆で美しい字を書いた。


そんな父が私に言わなかった言葉を、今、探している。

貧困と戦争の中で若い日を過ごした父の言葉を。





2週間以上前にいただいたお花のチューリップが、元気です。

名前を知らない小さな花たちに囲まれて、すっと背丈が伸びました。
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「戦争のない世界」を願って生きた母

2018-12-13 23:40:42 | 父・母のこと
後援会ニュース12月号を作りました。


「戦後73年 平和への思い」はシリーズ23回目。

戦争の時代を生きた方々の経験を書いていただいたり、お話を聞かせていただいたりして続けてきました。


9月~11月は、途切れました。


今回は、私の母のことを書かせてもらいました。

母が、私と当時、まだ幼かった子ども達のために、住み慣れた家を離れて、ここ泉大津に来てくれた歳に私自身が近づいています。

私以外の身内は皆、横浜と東京にいる中で、「大阪に行く」というもの、「横浜へ帰る」と言うもの、決めるもの、行動するもの早かった。

そんな母が言っていたこと、していたこと。思い出して、今、気が付くこともあります。


母のことを書いた部分を、ここにも残しておきます。良かったら読んでください。


戦後73年 平和への思い㉓ 大正生まれの軍国少女が日本共産党員に

 2015年3月21日未明、義姉からの電話を受けて母の暮らす横浜へ向かった。「間に合わなかった」という知らせを聞いたのは新大阪駅のホーム。突然の別れだった。
 母が生前に書き残したノートが、今、私の手元にある。
 母が19歳で教職についた1941年、日本は太平洋戦争に突入。ある日、戦地に向かう同僚教師を見送った。壮行会で勇ましい挨拶をしたその人は、母と二人になった時「行きたくないよ。人殺しに行くんだよ・・・そして自分も殺されるんだ」とつぶやいたと言う。軍国少女として鍛えられた当時の母にとってそれは「口に出してはいけない。考えることも許されない言葉」だった。「彼は戦地に到着する前に輸送船とともに海の藻屑と消えた。人殺しすることのないまま戦死したのは、彼にとってむしろ幸せだったのかもしれない」と母は記している。
 母のノートの結びのページ。「最後に、どうしても言わなければならないことがある。かつての教え子たちに私が言った言葉。『職業に貴賤はない。ただ共産党のような考えを持つ人にはなるな』この後半の部分については、私の不明を詫びて訂正しなければならない。時の流れとは言え、自分の偏見を正論と信じ込んで若い頭脳に刻み込んだ罪は大きい。」
 父を看取った後、母67歳の秋、住み慣れた横浜を離れ、市会議員選挙に立候補する私の元に来てくれた。7年間、私と幼い娘たちの暮らしを支えてくれた。平和や暮らしを守る運動に参加し多くの仲間と出会い、横浜に戻ってからも92歳で命尽きる最後の時まで「戦争のない世界を」と願い、行動した。
 「共産党は怖い」「反社会的な危険分子」「共産主義には自由がない」・・・刷り込まれた偏見の壁を鮮やかに乗り越えて、晩年を日本共産党員として生きた母。母の中に燃え続けた平和への思いを胸に刻んで、母と一緒に歩いた道を行く。    ただち恵子
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母を想う

2017-03-21 22:41:44 | 父・母のこと
2年前の今日、母とお別れした。

92歳の大往生だった。


初めての市議選を翌年に控えた秋、母が住み慣れた街を離れ、私と幼かった子どもたちのところへ来てくれたのは、母67歳のとき。

その時の母の年齢に近づいている。


若い人たちに交じって「社会発展史」の講義を聞くために、夕方の電車に乗って出かけたのは70歳の頃。

「もの覚えが悪くなった」と嘆きながら、好奇心は衰えなかったし、納得するまで考える人だった。



母が亡くなったとき、たくさんの方から「いつも穏やかなお母さんでした」と言っていただいた。

母は、私の前では、「いつも穏やか」ではなかった。


よく怒り、よく泣く人だった。

森友問題、南スーダン日報問題、過労死を生み出す「働きかた」、子どもの貧困。

どんな言葉で怒りをぶつけたことだろう・・・。


そんなことを想いながら、今日一日を過ごした。








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6年目の3・11に 母の3回忌

2017-03-11 23:42:14 | 父・母のこと
2年前の3月21日に亡くなった母の3回忌で、関空から日帰りで東京へ。

母が、いつか来る「別れの日」のために、いつからか残していた「お別れの言葉」は、出会った全ての人たちへの感謝に続けて、「この世の中に、大きな災害が起きないように、ましてや戦争などに2度と会うことのないよう、祈ります」と結ばれていました。

そして、その横に、小さな赤い文字でおきてしまいました。2011年3月11日と書き添えられていました。


その3月11日。6年目の3月11日に、兄たち、叔父、叔母、・・・集まって、母を偲ぶ一日を過ごしました。

一日、心の中で、母とたくさんのことを話しながら過ごしました。


特割切符で予約していた帰りの飛行機には充分時間があって、羽田での待ち時間は、週明けからの予算員会関連と議会運営委員会の視察資料を読みながら過ごしました。


帰って開いた新聞に、「南スーダンから自衛隊撤退」「森友学園申請取り下げ」の文字。

また、母に問いかけています・・・。
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母の納骨

2016-10-29 21:29:14 | 父・母のこと
2015年3月21日、1年半前に急逝した母の納骨でした。


急逝と言っても、92歳の安らかな旅立ちでした。

母は生前に献体の手続きをしていたので、ようやく今月の7日、母が望んでいた「最後の役目」を果たして、骨となって帰ってきました。


白い骨壺がお墓に納められるのを、二人の兄とともに見届けました。


そして親戚の人々と母を偲ぶひと時を過ごしました。


母が亡くなった後、遺品の整理をしてくださった義姉が私にと、まとめてくださったもので帰りは荷物がふくらみました。



手仕事が好きだった母の自作の鎌倉彫の手鏡。毎日、母の傍らにありました。




リュウマチを患って、鎌倉彫の彫刻刀が持てなくなってからは、小さな筆で絵を描きました。

毎日のように、身の回りにある花や野菜を描いていました。


そして、母が愛用していたパジャマ。今の季節に着るジャケット。


母と密度濃く、一緒に過ごしたのは大阪での7年間でした。

私にとっても娘たちにとっても、かけがえのない時間でした。

そして母にとっても、大阪での7年間は、楽しく輝いた日々だったと思っています。



今も、ふと母の息遣いを感じるような気がします。



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あれから一年

2016-03-21 22:51:51 | 父・母のこと
1年前の今日、母が92歳でその生涯を閉じた。

未明、というより深夜に兄からの電話を受け、「朝までもつかどうか・・・と病院で言われている。」と告げられた。


土曜日の朝だった。

それからの数時間で、いつも土曜の朝に配る日曜版を配り、その日の森下議員の事務所開きへのメッセージをメールで送り、出かける用意をした。

電車の中で、何度か義姉とメールのやりとりがあり、「意識はないけれど落ち着いて呼吸をしている」という言葉に奇跡を祈り、そして新大阪で、最期の知らせを聞いた。


新幹線の中で、娘たちに知らせた。


横浜の病院で、眠っているように安らかな、そして呼んでも応えてはくれない母と対面した。

母の遺志によって献体の手続きをし、遺体の傍らで半日を兄達、叔父、叔母、従兄弟達と過ごした。


遺体を見送ってから、母が過ごした部屋に立ち寄った。

読みかけの本、編みかけのセーター、テーブルの上のメモ、それら全ては母が昨日までそこにいたことの証。


本当にもういないのだということを思い知らされたような気がした。どっと涙があふれた。


優しい義姉が、いつもまでも背中をさすってくれた。

その暖かさに身をゆだねて甘え、いつまでも子どものように泣いた。


それが1年前の3月21日。


遺体はないけれど、母が望んだ通りに、母の手による自画像を遺影代わりにして、花で囲まれた祭壇は、とても美しかった。




この1年、たくさんのことを母と語り合ってきた気がする。

母はもう答えてはくれない。

それでも、私は「こんな時にはどうしたらいいのかな?」と母に問うてみる。


「母はきっとこう言っただろう」と、思いをめぐらせるヒントをたくさん残してくれたから。

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母の「お別れの会」

2015-04-29 19:19:33 | 父・母のこと
3月21日に亡くなった母の「お別れの会」で、日帰りで横浜へ。

長女とその二人の子どもたちも一緒に、南海電車の始発で関空から羽田。


次女とその家族は新大阪から新幹線で、三女は東京から、それぞれで参加。現地で合流です。


以前のブログにも書きましたが、母の生前の意志で献体の手続きをしていました。

「通夜、告別式は不要。そのかわり、できればささやかな『お別れの会』を」と母の書き残した通りに、今日の集いを二人の兄と私の3人の名前で案内しました。

(と言っても、準備は全て東京にいる兄達、私は今日の当日参加だけですが。)


親族と、母の教師時代の教え子の皆さんで、卒業してから毎年クラス会をして母と交流の続いていた方々を中心として、母を偲ぶ会でした。


会場は母の終の住まいとなった高齢者共同住宅のすぐ近くで、ディ・サービスなどで母も楽しいときを過ごしたお寺の広間をお借りしました。





会場には、母の絵、そして写真。







70歳を過ぎてから、絵を描き始めた母のたくさんの作品の中から、義姉たちが選んでくれた絵が並び、母の最初で最後の個展のようでした。

絵は、「よろしかったら好きな絵をお持ちください」と声をかけたら「え~!、いいんですか!」と声が上がり、飾った全ての絵を参加者の皆さんがそれぞれ選んで持ち帰ってくださいました。



遺体はないけれど、母自身の手による自画像を置いた祭壇に、参加者の皆さんに白いカーネーションで献花をしていただきました。

お花で彩られた祭壇はとてもきれいだったのですが、残念ながら写真はありません。



70歳を過ぎて尚、お元気な母の教え子の皆さんから、私の知らない母の話をたくさん聞かせていただきました。

参加者の中に、私の中学の同級生で、別々の高校に進学したけれど青春の時期を深く心通わせた友人の姿がありました。

40数年ぶりの思いがけない再会でした。母が会わせてくれたんだと思います。



母の部屋の押入れの目に付くところに置かれた「旅立ちの日」と書いた箱に、その日に着る着物、遺影代わりの自画像、そして「お別れの言葉」がありました。


表紙を今年の1月に描かれた母の遺作で飾り、「お別れの言葉」を参加者の皆さんにお渡ししました。





「お別れの言葉」の最後は「この後の世の中に大きな災害が起きないよう、ましてや戦争など二度と会うことのないよう、祈ります。」と言う言葉で結ばれています。


これを書いたのは、東日本大震災以前だったようで、「大きな災害」という文字の横に、赤字で おきてしまいました。2012年3月11日と添え書きがあります。


母が「旅立ちの日」の箱を用意したのは、20年以上前のこと。母が大阪に住み、私と私の幼かった子どもたちの暮らしを支えてくれた時期でした。


除夜の鐘 ききつつ今年も「旅立ち」の

衣装収めし箱 確と閉ず



1994年年末、母72歳のときの歌です。








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母・・・最後のメッセージ

2015-03-23 23:13:37 | 父・母のこと
今日は冬の寒さが戻った一日でした。

たまっていた事務仕事を片付け、市役所でいくつかの用事を済ませ、「こんにちは ただち恵子です №822」の配布をし、夕方は松ノ浜駅前で政党助成金廃止署名、夜は会議。

一日が終わって、ひとりになると思うのは、やっぱり母のことしかありません。


子育てと仕事の両立、というより「女は家にいるもの」という強烈な意識の父との間での摩擦に疲れていた母が、私が大学に入学した年になぜ仕事をやめたのか?

子育ての時期を乗り切って、子どもは自立した時期になぜ?


今日、ふと思い出して納得しました。

母は「子どもたちと思いっきり、かけっこできなくなったら学校はやめようと思っていた」と私に言ったことがありました。

50歳を前にして、母は体力の衰えを感じたんだと思います。

「子どもとかけっこ」するだけが教師ではなく、年を重ねたベテランの教師にはそれなりの魅力があるはずだけど、母はどこまでも子どもたちと体でぶつかり、体で受け止める教師でありたかったんだろうと思います。


いつも決断の早い人でした。

人生の幕引きも潔く、決断してしまったんだろうかと思います。



母が残してくれた手記、「あらぐさの呟き」の最後のページをここに転載しておきます。

著者の了解を得ることはできないので、私の独断です。

でも、このメッセージを母は、多くの人に伝えたかったに違いないと思います。


最後に一件、どうしても言わなければならないこと。

かつて教え子たちに私が言った言葉「職業に貴賎はない。どんな仕事についても、その仕事で第一等になる努力を重ねることが大事だ。ただ共産党のような考えを持つ人にはなるな」

この後半の部分については私の不明を侘びて訂正しなければならない。時の流れとは言え、自分の偏見を正義と信じこんで若い頭脳に刻み込んだ罪は大きい。情報を自由に選択できる現在、おとなになったあなた達は、どうか私を乗り越えて「自分の眼」を持ってほしい。



泉大津で短歌のグループに入れてもらって毎月の例会に参加していた頃、母はこんな歌を詠んだ。


遠き日の不明を詫びて

壮年となりし教え子らに 入党を告ぐ



このブログに「母」というカテゴリーをつくった。

明日は、もっと元気になろう。


おやすみなさい。
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母のこと・・・・仕事と子育て

2015-03-22 23:57:10 | 父・母のこと
母の突然の死について、このブログとフェイスブックに書いたので、たくさんの方からお悔やみの言葉、慰めと励ましの言葉をいただきました。


親を見送るということは、ほとんどの人がいつかは迎える日。

私にとっては、それが昨日、3月21日でした。



母が、「私が死んだら読んでね」と言っていた「あらぐさの呟き」と題した一冊の「私だけの本」を読んだ。



立派なケースに入っているけれど、中は白紙のページに手書きで231ページ。


私の幼いころの母の記憶は、小学校の教師として働く姿。

母が仕事をやめたのは、私が大学に入学し、家を離れた年だった。

だから、私の記憶には、朝は私達は学校に行き、それより早く仕事に行く母の姿しか残っていない。

そのとき、母はまだ49歳だったことに驚く。


仕事を続けることと、子育て、家庭の主婦の仕事を両立させることに、母は悩み続けていたことを私は知らなかったわけではない。

でもこれほど深く、ずっと悩み迷い、苦しみながら仕事をしてきて、50歳になるまえにやめた母の気持ちは考えたこともなかった。


「あらぐさの呟き」にはさまれた、包装紙の裏に鉛筆で走り書きしたものがある。

そこに記された私の年齢からすると、それを書いた母は36歳。


「勤めていながら家庭を第一義として学校のことは要領よく片付けて、さっさと引き上げていく人たちのまねは私にはできない。毎晩遅くまで公務で飛び歩きながら夫に労わられ助けられて活躍している人はうらやましいけれど、私には望むべくもない」

という文章に続き、「私はやめよう。あと10年子どもの成長を見守ろう」という言葉で結んでいる。


「中途半端」ができない母は、私が義務教育を終える頃までの10年間、「家庭の主婦」の仕事に専念しようと決めたことがあったようだ。

「女は家にいて家庭を守るもの」という考えの父との間での、小さな衝突、大きな摩擦は日常だった。

でも母はやめずに末っ子の私が大学に入学する年まで働き続けた。


そして一旦退職して、非常勤で近くの小学校や幼稚園で講師の仕事をしていた。


母の葛藤を、私は自分の心のなかでなぞっている。


そんな母を「先生」と慕い、ずっと交流を続け、半世紀以上たったいまでも、毎年決まった日にクラス会を続けている卒業生のグループがふたつある。

母が大阪で暮らしていたときも、そのクラス会には必ず出かけて行った。幸せそうだった。

「私の母はどんな先生だったんですか」と、いつか聞いてみたい。





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母とお別れしました

2015-03-21 22:45:52 | 父・母のこと
今日の未明、3時過ぎに、母が倒れて救急搬送されたという知らせを受けました。義姉からの電話でした。

いくつかの用事を済ませ、母のいる病院へ向かう途中で、間に合わなかったことを知りました。

3月21日午前7時2分。母は最後の呼吸を止めました。


母の部屋を最後に訪ねたときに「私がいなくなってから読んで。」と言われていた「母の本」を帰りの新幹線の中で読みました。



幼い頃のこと。結婚。子育てと仕事。そして最後は「日本共産党との出会い」という一文でした。


眠っているより安らかでした。

生前の母が書き残した望みの通り、献体の手続きをし、遺体はそのまま運ばれたので通夜も葬儀もありません。

お骨になって帰ってくるのは、1年ほどあとになるそうです。



兄達、叔父さん、叔母さん、従姉妹たちと一緒に、お別れをしました。




遺体は、50年前、母が障害児教育に携わっていたときの子どもたちの寄せ書きで覆われました。

これは、母が「旅立ちの日のために」と書いて残していた、自分で縫い上げた衣装とともに箱に入れてあったものです。


今、寂しくないといえばウソになりますが、それ以上に、体の中から不思議な力が湧いてくるのを感じています。

これ以上ないほど、見事に美しく、母は最後の幕を自分で引いたと思います。


92歳でした。
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「少しの支えで その人らしく」・・・91歳の母が暮らす場所

2014-02-13 23:57:50 | 父・母のこと
昨日と今日、横浜で開催された自治体問題研究所主催の「第25回市町村議員研修会」に参加しました。

今日の講義が終わったのは3時前。

新横浜から新幹線で帰るまでの時間、横浜市内に母が暮らす小さな高齢者の共同住宅を訪ねました。

「せっかく横浜まで来たのだから母の顔を見て帰りたい」ということもありますが、一緒に研修会に参加した森下議員と一緒に施設長さんのお話を聞かせていただくことが目的でした。

泉大津市内でも様々な形態の高齢者の専用住宅が増えているものの、「これでいいのだろうか?」と疑問に思うことも少なくありません。

森下議員はさすがに一歩踏み入れたとたんに、「暮らしの匂いがある暖かさ」を感じてくれたようで、その印象をブログに書いてくれていました。



↑ 写真も森下議員のブログからいただきました。

開設から15年。ちょうど介護保険スタートの年だったということ。
でも、介護保険とは全く関わらず「高齢者共同住宅」として建てられました。

今は有料老人ホームとしての指定を受け、ケアステーションとし訪問介護、ディサービス(別の場所で)もやっています。
事業の内容は変わっても「できるだけ自由に、その人らしい暮らし方を支える」と言う考え方は一貫しています。

施設長さん自身が御両親の介護をする中で「自分で納得できるような施設がなければ作るしかない」と思われたそうです。
認知症の高齢者だけを対象にしたグループホームなら市の補助金制度があることを知っても「元気な人も、少し心細くなった人も、そして認知症の方もいろんな人が一緒にいるのが、普通の暮らし」と考えたとおっしゃいます。

母は第1号の入居者でしたがしばらくは「入居者よりスタッフの方が多い」時期が続いたとか。今は、10室が満室。

小さな事務室に続いた食堂は、入居者の皆さんの団欒の場でもあります。
手仕事が好きな母は、いつも編み物をしていますが週に一度は「編み物サークル」の場にもなり、そして一年に一度、手作りの作品を持ち寄ったバザーで地域の方々に来ていただきます。

母が家での一人暮らしに不安を感じるようになったときに、ちょうどこの場所ができました。
老人福祉法に掲げられた理念が、そのまま生きて形になったような場所。

老人福祉法 第二条  老人は、多年にわたり社会の進展に寄与してきた者として、かつ、豊富な知識と経験を有する者として敬愛されるとともに、生きがいを持てる健全で安らかな生活を保障されるものとする。

母が暮らす「無憂樹」のHPを見つけました。



「年を重ねてきた人々が共に、なるべく自由に暮らせる場」「介護、医療、福祉・・・それらは必要な時、手の届くところにある暮らし」
これを“あたりまえ”と考える施設長さんは、その実現のために介護保険法も老人福祉法も「使えるものは使う」という立場なのだと思います。

研修会で勉強してきたことについては、もう一度資料を読み返し後日書くこととします。
それにしても明日も朝から会議、一般質問の締め切りも迫り、明日の夜は議会基本条例の説明会。そして明後日の朝までに後援会ニュース作成・・・なかなか大変です。







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91歳になった母は「要支援1」

2013-10-26 23:44:32 | 父・母のこと
母と一緒に、ソウルの長女一家を訪ねる3日間の旅から帰ってきました。

次女とその子、1歳の○ちゃんも一緒に。

帰りは母は金浦空港から羽田へ、母が乗る飛行機を見送ってから私たちは関空へ。

母から「定刻通り無事に羽田に到着。その後の電車もバスも順調で8時過ぎに帰宅しました。素晴らしい旅をありがとう。長生きして良かった。・・・」とメールが届きました。

母と3日間一緒にいて、母の健康、体力には感心しました。
毎日、よく歩きました。
昨日の夜は、夕食後、ホテルに帰るのにタクシーが拾えず、結局40分ほど歩きました。

それだけ歩けて、横浜から一人で新幹線に乗って大阪の私の家まで来ることができて、海外の空港からひとりで飛行機に乗って帰ることができるのは、91歳という年齢からすると「健康と体力に恵まれている」のだろうと思います。
それがわかったのは、私にとってもとても嬉しいことです。

それと同時に、その体力を維持するのに、相当の努力をしていることもわかりました。
「体を動かさないいと動けなくなる」と言います。
毎日、自分なりの体操をします。数日、それを怠ると「足に力が入らなくなる」と言います。

介護保険が始まったときに77歳だった母は、リュウマチのため荷物を持ったり、手先に力を入れることができませんでした。すぐに認定を受けて「要介護1」、それから「要支援2」になり、今は「要支援1」。
週2回のディ・サービスを利用し、週に一回、ヘルパーさんにトイレ、浴室、部屋の掃除をしてもらっています。

ディ・サービスでは、体操、手話コーラスや太極拳をして、ディ・サービスに行かない日も部屋の中で体操はします。

もし母が、在宅の一人暮らしで介護サービスを使わずに暮らしていたら、今のような「91歳」ではなかったと思います。

3日間、一緒にいたら少し手を貸さないとできないことがいろいろあることがわかります。
少しの段差でも何かにつかまらず足をあげることはできないし、指先に力を入れて「袋をあける」ことなどもできません。
娘たちの会話は「早口で何を言ってるのかわからない」と言います。
とても元気そうであっても、母はやっぱり「支援が必要な高齢者」です。
その「支援」を受けることができてこそ、「健康で文化的な生活」を楽しむことができて「長生きしてよかった」と言える母がいるのだと思います。

自分の意志で行きたいところに行くことができる91歳。それは言葉の本来の意味で「自立した高齢者」です。
公的支援を利用し、私的支援にも支えられ、「自立した生活」を楽しむ母から、「介護保険のサービス」を取り上げないで欲しい。
羽田へ向かう飛行機に乗り込む母の背中を見ながら、願ったことです。
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