母の突然の死について、このブログとフェイスブックに書いたので、たくさんの方からお悔やみの言葉、慰めと励ましの言葉をいただきました。
親を見送るということは、ほとんどの人がいつかは迎える日。
私にとっては、それが昨日、3月21日でした。
母が、「私が死んだら読んでね」と言っていた「あらぐさの呟き」と題した一冊の「私だけの本」を読んだ。
立派なケースに入っているけれど、中は白紙のページに手書きで231ページ。
私の幼いころの母の記憶は、小学校の教師として働く姿。
母が仕事をやめたのは、私が大学に入学し、家を離れた年だった。
だから、私の記憶には、朝は私達は学校に行き、それより早く仕事に行く母の姿しか残っていない。
そのとき、母はまだ49歳だったことに驚く。
仕事を続けることと、子育て、家庭の主婦の仕事を両立させることに、母は悩み続けていたことを私は知らなかったわけではない。
でもこれほど深く、ずっと悩み迷い、苦しみながら仕事をしてきて、50歳になるまえにやめた母の気持ちは考えたこともなかった。
「あらぐさの呟き」にはさまれた、包装紙の裏に鉛筆で走り書きしたものがある。
そこに記された私の年齢からすると、それを書いた母は36歳。
「勤めていながら家庭を第一義として学校のことは要領よく片付けて、さっさと引き上げていく人たちのまねは私にはできない。毎晩遅くまで公務で飛び歩きながら夫に労わられ助けられて活躍している人はうらやましいけれど、私には望むべくもない」
という文章に続き、「私はやめよう。あと10年子どもの成長を見守ろう」という言葉で結んでいる。
「中途半端」ができない母は、私が義務教育を終える頃までの10年間、「家庭の主婦」の仕事に専念しようと決めたことがあったようだ。
「女は家にいて家庭を守るもの」という考えの父との間での、小さな衝突、大きな摩擦は日常だった。
でも母はやめずに末っ子の私が大学に入学する年まで働き続けた。
そして一旦退職して、非常勤で近くの小学校や幼稚園で講師の仕事をしていた。
母の葛藤を、私は自分の心のなかでなぞっている。
そんな母を「先生」と慕い、ずっと交流を続け、半世紀以上たったいまでも、毎年決まった日にクラス会を続けている卒業生のグループがふたつある。
母が大阪で暮らしていたときも、そのクラス会には必ず出かけて行った。幸せそうだった。
「私の母はどんな先生だったんですか」と、いつか聞いてみたい。