暘州通信

日本の山車

00107 本庄祭

2007年07月18日 | 日本の山車
00107 本庄祭
埼玉県本庄市宮本町
金鑚神社(かなさなじんじゃ)
祭は十一月上旬。
山車十一臺を曳く。

□山車
・宮本町
明治一五年の建造。
本座人形は日本武尊。江戸(東京)日本橋の人形師、原舟月の作。
山車は臺輪部と本体部に分かれる 本体部は臺輪の上で回転できる構造になっている 車軸は車臺に固定され大八とよばれる車輪は四輪とも同じ大きさである 街の角を曲がるときは、車輪を梃子棒でこじりながら少しづつ向きを変えるが 逆方向に方向を変えるときは、本体部だけ回転させてひきかえせるようになっている このような装置を備える山車は、台町にもあったが今は使用されていないので いまは宮本町だけの特徴である。
大幕を彩る豪華な刺繍は玉亀の作。
上臺の幕には飛雲と龍の図。
下臺の幕は萌葱色の羅紗地に楽器。
額は「宮本町」と書かれており「山岡鉄舟」の書
鉾柱をつけると八メートルにも及ぶ大きさだったというが、最近は鉾柱は取り付けられない。
祭礼の日には以前山車に乗せて曳かれた大きな獅子頭が宮本町会館に飾られる。
祭囃子には、逢魔、屋臺、神田、神楽がある。
・泉町
明治二八年頃の建造。
本座人形は武内宿禰、江戸(東京)浅草の横山友治郎、号を朝之というの作。
明治二十八年頃から建造にかかったといわれる 日清戦争の戦勝を記念して作られた この山車には唐破風の屋根がない。いままでほとんど改造の手が入っていない 上臺の人形座の前面勾欄が開かれている この山車が出来る前には旧臺があったといい、三輪車だったとか、牛に曳かせたなどの伝承がある。
明治三十二年、新臺の完成を挨ってこの山車は上町に譲られた。 人形の箱書に「明治二十八年十二月吉祥日」 上幕(三重幕)の箱書きに「上幕明治二十九年十一月泉町」 建造にはおよそ四年をかけ、曳行されたのは明治三十二年と思われる 上幕は赤地に鶴と雲 赤色の下地は取り替えられた 中幕(二重幕)はすべて交換された 上臺にたてられる「錦の御旗」は日輪と月輪 曳行の時ははずされる。
泉町と上町の山車の作者は同一人の建造。
祭囃子は、さんてこ囃子、かわりめ。
・上町
明治三五年の建造。
本座神功皇后、江戸(東京)浅草区榊町一番地横山友治郎の作。
出来たときは泉町の山車と同じように唐破風の屋根がなかった 現在見られる唐破風の屋根は、後年の補作である このとき勾欄にも手が加わっている 山車は明治三十五年九月九日、重陽の節句に発注された 請負約定書に「十月二十八日必着」とあるのは、 作者が出張により作るいわゆる「出造」ではなく 東京で作って 中山道を本庄まで曳いてきたことをあらわしている 人形は神功皇后 泉町の竹内宿禰と一対をなしている 中臺の大幕は「猩々緋に岩と波」 製作された当時のままである 下臺の彫刻があり神功皇后ゆかりである 額の書は 「明治臨池の三代家」といわれた島村出身の「金井之恭」 かないしきょう 貴族院議員になっている 腰板の一面には上町の文字を図案化したものを彫ってある 金具は「銀杏唐草模様」の手のこんだもの 祭礼の床の間にかける「金鑚神社」の軸は、松平越中守定信 の書で金鑚神社の鳥居に懸けられている 扁額の拓本である 明治五年の祭礼には家臺人形菊童子とある 新臺の発注と縁起を併せてある
祭囃子は、大間(おうま)、屋臺囃子(やたいばやし)、通り囃子(とおりばやし)
・照若町
明治三十三年(一九〇〇)の建造。
本座人形は桃太郎、浪速屋七郎兵衛の作。
江戸(東京)浅草の庄田七郎右衛門の作 七郎右衛門は屋号を浪花屋といったので浪花屋七郎右衛門といわれる 本町の石橋人形を作った浪花屋とは同一人である 明治三十三年山車を建造したときの「寄付金人名簿」にはこの山車のことを 「鉾花車」とある 山車彫刻、刺繍は桃太郎に因む 破風下の懸魚に犬と猿が向き合っている 雉はは鬼板にとまっている 鬼ヶ島は中段大幕に描かれる 波と岩が刺繍される 囃子臺の正面上手の左柱(向かって右)に赤鬼が 下手の右柱には青鬼がいる 鬼ヶ島から持ち帰る金、銀、珊瑚、綾、錦、打ち出の小槌、大福帳などの宝物が 囃子臺の欄間にみられる この山車には泉町と同じように破風屋根がなかったが昭和十二年頃補ったといわれる
現在の人形は二代目 上町の米福の作。米福は近隣の山車人形をいくつか手がけている。
囃子は、大馬(おうま)、テンガスク、屋臺囃子。かっては「通り囃子」も あったとわれるが、今は行われない。 宮本町、上町、本町、南本町にはそれぞれ同名の囃子があるが、演奏がいずれも若干異なる。
・七軒町
大正十三年の建造。
本座人形は加藤清正。町内の人たちが作る。
この山車は一度に出来たのではなく、大正十二年頃より、臺輪、枢臺、屋根、 せり上げの採用、上臺 などが、年を逐って加えられてきた 上臺人形も一定ではなく、 「八たの鏡」「太平樂」「大黒」「加藤清正」などがあったといい 年毎に変えていたともいう。 昭和八年皇太子誕生を記念して新たに人形を作ったが今の加藤清正。この加藤清正は虎退治ではなく、「地震加藤」だという 慶長元年(一五九六)正月、伏見において加藤清正が蟄居していたとき 七月十三日大地震があり伏見城が壊れた が、このとき一番に駆けつけたのが加藤清正で、これを賞して蟄居を解かれた という このときの出で立ちすがたである。
この人形は本庄町上町の「松壽軒米富久」の作 本名は松崎福松、東京浅草の人形師に弟子入りし、人形製作を学び 本庄に帰郷して「米福」の屋号で開業した 本庄近在はもとより、群馬県方面にも屋臺や、山車人形を作っている。
昭和三十五年、前臺に唐破風の屋根がつけられた。主任工匠・棟梁は町内の脇坂新太郎 彫刻は神崎助三郎。
幕も何度か作られたが、現在の物は昭和五十六年群馬県の桐生で調製。
額の書は塚越泉南。やはり地元本庄の人である 本名は塚越伊三郎 弘化五年、塚越門之助の長男として生まれた 漢籍や書画の鑑定に長じ、書も巧みである。 大正十三年七十七歳の時に揮毫されている。
・仲町
明治五年の建造。
本庄市最古の山車。
明治二五年に山車改修と人形新調。
東京日本橋本石町の原舟月、本名、原金五郎である 本庄に残る山車の中では一番古い 古文書「龍女人形出シ印仕用帳 法橋原舟月 本庄宿仲町御世話人衆中様」 人形は龍女の木彫 目に玉が入っている 「唐団扇」と「金の龍玉」を持つ 上臺に懸かる水引幕には白の羅紗地に四神が刺繍されている 東青龍 西白虎 南朱雀 北玄武 山車は中国の故事に「天子は南面す」とあることから 定位置では南に向かって留め置かれる 正面には朱雀が来るように張られる 中段の水引幕は萌葱色の羅紗地に龍が刺繍されている 下段の水引幕は龍と立浪の模様がある 前大幕は紫地に白羅紗の「巴紋」が縫いつけられている 三味線胴 雲に玉丸入りの白鶴の彫刻 中段勾欄には白鶴の透かし彫りがある この山車を作ったとき舟月は四十二歳である
山車創建時の人形は龍女だったという。
この十年後、五十二歳のとき宮本町の山車を作ることになる 刺繍はいつもの提携者「玉亀」があたっている 明治二十四年やはり舟月に伊頼して大改修を施している 神武天皇の人形はこのとき新調された 昭和十年大改造を行い、「唐破風屋根」がつけられた 大工は仲町の粟野清吉、塗師は五井富蔵 彫刻は玉井村(現在は熊谷市)の小林栄吉 下段の幕も神武天皇にゆかりの「三種の神器」である 剣、鏡、勾玉が高崎市の新井道平により刺繍されている 山車を収蔵する収蔵庫、「山車小屋」といわれる収蔵倉もこのとき作られた 「仲町」之額は書家の松本薫仙 松本薫齋の子で名は宗祐、字を成義といい、文久三年頃は東京の泉町に住んでいた 書の中井敬義(薫堂)之流れをくむ 祭りのとき「会所」の床の間にかけられる「金鑚神社」の軸は小暮雪堂の書 屏風の画は小倉青於 いずれも地元の文人。
囃子は、大麻、屋臺囃子、通り囃子、ひょっとこ囃子、籠丸。

・本町
本座人形は石橋、庄田七郎兵衛の作。
建造期は不明。
町内に「竹田近江大掾縫殿之助清兼 明治二十八年拾弐月大祥以壱周年」と書かれ た木簡がある からくりにゆかりの「竹田近江」であろうが 「翁」の人形の制作者ではないか? と考察されている 山車の製作者とは思われないが、詳しいことはわかっていない 当初は三番叟だったと思われる 町内の言い伝えでは現在の山車は二代目で、初期の物は原舟月の作だったといわれる 昭和三年十一月に、人形を「翁」から「石橋」に変えた 石橋の製作は東京市浅草区茅町二丁目二十一番地 浪花屋、庄田七郎兵衛 中臺の幕牡丹の花の図」もこのとき取りかえられた 人形は能の五番もの「石橋」 清涼山 前半 後半 寂昭法師(大江定基)と、獅子は面で表現されている 中段の幕に描かれる牡丹は、能舞台に見立てている 昭和九年、唐破風屋根、鬼板、腰板を台町に譲り、あらたに 唐破風屋根が作られたが、囃子臺の「半柱」に上り龍」「下り龍」 の彫刻がつけられた 彫刻は玉井村(現在熊谷市)の小林という彫刻師による (小林については詳しいことがわからない) 本町と書かれた額は福羽美静(ふくばびせい)の書 明治二〇年子爵に叙せられ、のち貴族院議員になった。 「金鑚神社の軸は中沢雪城の書 雪城は巻菱湖の四天王の一人といわれる ちなみに、上町の額を書いている金井之恭は雪城の門人である 囃子がどこから伝えられたかよくわからないが 対象の初め頃までは仁手村から指導にきたという 岡部町の屋臺囃子の中に本町と同じものがあり この囃子を、境町では「武州囃子」とよんでいる
祭囃子は、大間(おうま)、屋臺囃子、通り囃子、籠丸(かごまる)、新道、貴船、ひょっとこ囃子。
・南本町
昭和四十八年の建造
人形は天宇受売命(天鈿女命)で、表記は「古事記」に則っている 製作は町内のひとたちの手による。
本庄の山車の中では一番新しい 高崎線が電化されたことから、それまでは曳行されていた本町の山車が 架線のため駅南には曳くことが出来なくなった 山車の本体は鉄骨製 「駅南会」の額を上げ本町の山車の「供車」として参加した 人形もまた町内の人の手になる 昭和五十五年四月、駅南会は新たに南本町自治会として発足した その年の秋祭りには、それまで掲げられていた額をおろし、「南本町の額を 掲げ、南本町の山車として正式に参加した。 本庄の山車はこの南本町の山車を加えて、九町九臺となった。 昭和五十六年南本町会館と山車蔵(山車小屋)ができた 会館にかけられる「金鑚神社」の軸は本庄の金鑚神社宮司、中山訓好の書。
囃子は「大間」「屋臺囃子」「通り囃子」「籠丸」「ひょっとこ囃子」「数え歌」 「四丁目」で本町の囃子を伝承している。 この四丁目は寄居町の同名の曲と同じ囃子となっている。
・台町
本座人形は素盞鳴命(スサノオノミコト)。
町内に「明治十八年十二月東京浅草浪花屋七郎兵衛」の木札がある 浪花屋七郎兵衛は、照若町、本町の山車も製作している この山車は宮本町の山車と同じように、枢臺が回転する ように作られていた しかし、後の改修以来出来ない構造になった。 旧構造を懐かしみ惜しむ声がある 昭和十年頃唐破風と腰板を本町より譲り受け改造が行われた 大工は町内の清水林平、 塗師は野村源光 中臺の幕もこのとき福島梅吉により新調された 町内に残る逸話 「昔京都で中古の山車を買ってきた」 「東寶齋壽山作」と書かれた木札が山車に掲げられている 「東寶齋」という人物は不明である 人形は、素戔嗚尊のヤマタのおろち退治 上臺大幕には、ヤマタのおろちが刺繍されている 中臺の大幕には、おろちに飲ませる酒樽が八個描かれている 「臺町」の額の書は尾高藍高 下手計村(現在深谷市) 通称新五郎、字を子行 後年、惇忠といった、諡号もまた惇忠という 水戸額を学び、後に彰義隊にはいった 明治に入り民部省に招聘されて、富岡製糸の工場長になった 「金鑚神社」の額は、中沢雪城 越後の人で、名は俊卿、字は小國、通称を行倉と言った 巻菱湖の門人囃子は「大間」「神田丸」「屋臺囃子」「「ひょっとこ囃子」「貴船」 「屋臺囃子は、通称「さんてこ」といわれ、地が「さんてこ」「変わり目」が 「屋臺囃子」
・諏訪町
平成五年の建造。
本座人形は太田道灌。日光兼光、纏屋義郎の作。
・南本町
平成三年の建造。
本座人形は連獅子、町内の人たちが作る。
昭和四八年の創建。

□問い合わせ
本庄市商工課
電話0495-25-1174

□山車文献資料
・本庄祭りの山車 本庄市教育委員会
・中山道の旅(一)」(日本歴史一九七二年一月号)岡田章雄翻訳文
フランス人レイモンド・ド・ダルマスが明治十五年(一八八二)十一月三日 中山道を通った時の記述

00106 岩谷観音祭

2007年07月18日 | 日本の山車
00106 岩谷観音祭
岐阜県坂祝町(さかほぎちょう)勝山
岩谷観音
□祭は七月中旬
小型山車一臺を曳く。

□山車
大正末期には山車が曳かれていたといい、昭和三十五年ころからしばらく休止状態にあったが、平成一三年に、地元勝山地区の消防団OBが組織する勝栄会により再建された。
工匠は勝栄会の会員、小島勝成