暘州通信

日本の山車

00008 城端祭

2007年03月10日 | 日本の山車
00008 城端祭
富山県城端町
神明神社
□祭は五月上旬。
山車、庵屋臺、笠鉾各六臺がでる。

□山車
・千枚分銅山 大工町
三國志の関羽と周倉の像を安置する
原作は享保年間の創建。
明治三十一年の火災で焼失
明治三十九年に復元再建された
寛政八年(一七九六)に唐津屋和助が「主従二体様式」による関羽、周倉像を作った、しかし、和助が人形を作るまでは「千枚分銅」の模型をご神体として安置していたのではないかといわれる。


・鶴舞山 東上町 
壽老人の像を安置する
享保年間の創建。安永年間に七代小原治五右衛門により改作された
壽老人は安永二年(一七七三)唐津屋和助の作。
大正末期まで下段の脇座に綾織り人形を飾り、地山内のお囃子にあわせて演じる巧妙なからくりがあったが、故障のため中止となって、今は山宿に飾られるのみとなったのは惜しい。
神座の後に飾る見返し(後屏)には「鶏阿和勢稚游」と題する浮き彫り(高肉彫刻)は寛政三年(一七九一)唐津屋和助の作で唯一のレリーフ。天井は金箔張の平天井となっている。
明治四〇年城端で一番大きな大八車を新調。鶴舞模様の金具をつけ塗装を施し曵山も大型に改良した。
明治四十五年、波に飛龍の腰彫りを加える。
屋根を二重構造とした。
傘鉾は鶴舞

・西上町 傘鉾は三宝に玉手箱と鈴

・東下町 傘鉾は打出の小槌

・西下町 傘鉾は諫鼓鳥

・出丸町 傘鉾は将棋盤に柳枝

・新町は 傘鉾は手筥に鼓と桜枝

・野下町 傘鉾は大鼓に喇叭と月琴

□汎論
城端町の沿革。
永禄二年(一五五九)浄土真宗善徳寺がこの地に寺地を定める
天正元年(一五七三)六斎市が開かれる
以後門前町、市場町として発展してきた
古くから絹織物の町として知られる

曵山祭の成立
天正二年(一五七四)城端神明宮が勧請される
貞享二年(一六八五)社殿を再興し、春秋の祭りが行われるようになる
亨保二年(一七一七)秋祭りには御輿が出来る
獅子舞や傘鉾の行列が始まる

亨保四年(一七一九)曵山が完成する
記録の最初

亨保九年(一七二四)御輿の巡幸に曵山が初めて供奉する
現在の曵山祭の基礎が出来た

御輿渡御の行列には獅子舞、剣鉾、八本の傘鉾が三基の御輿を先導し
六臺の庵屋臺、六臺の曵山がこれに続く

曵山祭の改革
明治五年(一八七二)、暦制改革が実施される
明治五年十二月三日を明治六年一月一日とする

城端町の構造
寛永十四年(一六三七)以来、城端町は今石動町奉行の支配下におかれていた

宝永七年(一七一〇)以後、今石動奉行は金沢で執務することになり
必要に応じて金沢より出張するようになった

宵祭
曵山は解体して山蔵に保管される

五月十四日山蔵の扉が開かれ曵山や庵屋臺が組み立てられる
六か町の山宿の家々では御神像の飾り付けが行われる
夕暮灯のともる頃より人々は美しく飾り付けのなった飾り山を見物に行く

御旅所
五月十四日の夜は、野下町と新町の南に、隔年交替で築造されるお旅所で
宿泊される
御旅所が設けられたのは、藩政時代越中では城端のみといわれる

庵唄の奉納
十四日、夜八時頃より六か町の若連中による御旅所への参拝が始まる
御旅所への参拝は囃子屋臺に提灯をつけ笛、大鼓、三味線
により賑やかに庵囃子を演奏しながら行われる

御輿と曵山の順路
五月十五日の祭礼には春日、石清水、神明宮の三基の御輿が渡御される

曵山の曳順
前年六番であったものが翌年には一番山となる
庵屋臺も同じ

庵唄の所望
祝儀を出して庵唄を自分の家で聞くこと
所望した家では親戚知人を招き、簾を巻きあげ庵屋臺を待つ

六か町の庵屋臺が次々所望する家に横付けし各町自慢の庵唄を披露する
囃子方、唄い手は各町とも二十から三十代の若者に限られ
女性は入らない

帰り山
城端の曵山は「ぎゅうやま」といわれる
車の軋む音に特徴がある

午後7時頃出丸町を出発した提燈山は九時半頃までに、新町に達し
十時頃には各町の曵山や庵屋臺が勢揃いする
曵山と庵屋臺は交互にならび
しんまちから大工町を経て各町内に帰る

山車の解体
五月十六日午前九時頃より曵山、庵屋臺が解体され、山蔵に収められる

庵唄
端唄
江戸時代から伝承されたもの
年によっては替え唄が作られたこともある

元唄は夕暮、薄墨、玉川、夏は蛍、重ね扇、宇治、川竹、忍ぶ恋路
などで、最近は小唄調もとりいれられている。

曵山の起源
よびかた
多様な説がある
神が降臨するときに迎える神座を象徴する三大要素、山、木、人形が重要な要素
「やま」と称する神座、それに移動性が加わったものが曵山の原型
それがしだいに発達したものという説が有力

傘鉾
傘鉾によって神を迎える、傘鉾の神迎え神事が行われる。

城端の曵山
曵山の形は六臺ともほとんど共通
地山という基礎枠に長柄と四輪の大八車をつける
地山の上は飾り桟、雛臺をのせ、雛臺の四隅にそれぞれ柱を立て、
鏡天井を張った屋根を乗せる
雛第二は四周に勾欄がめぐらされる
雛臺の四周、後屏には彫刻で細やかな細工が施され、全体を漆で仕上げる
漆は城端塗り
小原治五右衛門系統の手になる。
人形はほとんど唐津屋和助による。
城端の曵山は工匠を始めその総てが町の人々によって行われている。
庵屋臺の漆塗りには各所に立派な春慶塗が行われており、はじめは飛騨の漆職人によるかと考えたが、これも城端の作だそうである。
江戸時代、越中では十六カ所の町に山車(曵山)があった
城端の曵山でもっとも装飾の施されている箇所は山車の周囲にめぐらされた勾欄、欄間の彫刻、そして塗物
六臺の曵山は、総て入母屋作り、軒唐破風の屋根を構える本坐座(神座)には、福神人形を祀る。これを支える地山の上下二層で構成される。
曵山本体を構成する木組み
創建時代の古格を伝える欄間彫刻
城端塗といわれる塗り

彫刻、彫金、障子や天井画は狩野派の影響を受ける

下絵や絵画には、唐津屋和助、城端蒔絵七代から十一代におよぶ小原治五右衛門
堀川雪江などの絵師が腕を揮う

意匠の題材
霊獣、動物、植物、唐人物、自然を取り合わせたもの。
日本や中国の古典に取材したもの。

謡曲、石橋より水波と石橋

□参考文献
「城端曵山史」:城端曵山史編集委員会
「富山県の曵山」:富山県教育委員会
「富山県史:富山県編
寥郭堂文庫・資料


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◆谷口與鹿と藤本鉄石

2007年03月09日 | 日本の山車 谷口與鹿
◆谷口與鹿と藤本鉄石
藤本鉄石は、出羽(山形県)の斎藤家(清河八郎の実家)、小布施(長野県)の高井家にしばらく止宿しているが、摂津伊丹郷(兵庫県伊丹市)の岡田家も訪ねているが、ここで橋本香坡、谷口與鹿とも面談している。
藤本鉄石は、名古屋に宿泊したとき、高山の郡代であった父親の小野朝右衛門の名代で伊勢参りの途中だった山岡鉄舟とおなじ宿になり、林子平について語り合ううちすっかり傾倒し、伊勢まで同行している。


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26882 高山片原町の屋臺・崑崗臺の見送り

2007年03月08日 | 日本の山車
26882 高山片原町の屋臺・崑崗臺の見送り
春の高山祭・山王祭(日枝神社)で曳かれる片原町の屋臺・崑崗臺の見送りは、下二ノ町もと鳩峯車にかけられていた南極老人圖だったという。
林和靖の屋臺からくりがあり、町内では林和靖圖を探したが該当品がなかった。やがて南極老人圖も古くなったのと、ちょうど林和靖圖が見つかったこともあって、早速注文してかけかえられた。しかし、届いた図は寿老人(南極老人)であった。
町内組ではそのまま架けることにしたのだが、いまも寿老人図ではなく林和靖だと信じる人は多くいる。はたしてどちらだろうか?
ちなみに、脇にいる動物は鹿で、鶴ではない。

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00247 富山山王祭

2007年03月07日 | 日本の山車
00247 富山山王祭
日枝神社
富山県富山市
日枝神社
□祭は
山車は現在曳かれていない。
□汎論
江戸時代は山王社の祭には山車が曳かれ、富山城まで曳いていって上覧に供した。
前田家文書である『町吟味所御触書、宝永四年(一七〇七)』の記録によると、
猩々山、紫式部山、蓬莱山、諫鼓山、織姫山、業平山、揚貴妃山、分銅山、梅松山の各山車が曳かれている。

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◆00830 三河内曳山祭

2007年03月02日 | 日本の山車
00830 三河内曳山祭(みごちひきやままつり、みごうちひきやままつり)
京都府与謝郡与謝野町(旧野田川町)三河内
倭文神社
□祭は五月上旬。
山車、子供屋臺を曳く。三日は宵宮、四日は大幟を先頭に神楽殿、四臺の山屋臺、五臺の子供屋臺を曳く。見送幕などは丹後縮緬の里にふさわしい見事なものである。

□山車
・梅谷
大幟と子供太鼓臺
・下地
神楽臺と子供太鼓臺
・上地
浦島山、藝屋臺、太鼓臺、子供太鼓臺
・大道
春日山、藝屋臺、太鼓臺、子供太鼓臺
・奥地
倭文山、藝屋臺、太鼓臺、子供太鼓臺
・中坪
八幡山、藝屋臺、太鼓臺、子供太鼓臺

 祭は、大幟を先頭に山屋臺や太鼓臺が御旅所に集まり、賑やかに囃しながら町中を神社まで巡行する。途中で神招きの儀礼も行われる。三河内祭とよぶ祭礼は、古くは旧暦の八月朔日(ついたち)に行われる八朔祭であったが、明治時代に春祭となり、近年になって五月三日に宵宮、四日に祭礼がおこなわれている。
 華やかな屋臺囃子を奏する。なお、かっては近江長浜の影響を受けた藝屋臺を曳き、子供歌舞伎の上演もあったが近年は巡行していない。
 この日、村境の御旅所に集結し、二輪の臺車に大きな幟を立てた大幟を先頭に、神楽臺、山屋臺がにぎやかに、神社へと神幸する。途中神招きの儀式もおこなわれる。祭にかかる人々は、各町内の法被を着用して屋臺を曳く。
 ちりめんの産地らしい祭であり、豪華絢爛な丹後の誇る祭である。山町の記録によると、江戸時代の末期にはこうした屋臺が出揃っていたことが知られる。


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