暘州通信

日本の山車

仮称F地

2019年03月21日 | 日本山車論
仮称F地

 既述しましたが、高山旧市街西部に、西之一色(にしのいしき)、越後、花里とよばれる区域があります。かつて、ここを産土(うぶすな)とする物部氏は、松倉山を御神体山とし、その東麓に、里宮である「花里神社」を祀っていました。
 三木自綱は、下呂市萩原に鎮座する「久津八幡宮」を篤く敬い社伝を寄進していますが、飛騨高山への入府に際し、豊前宇佐(大分県宇佐市)より分祀を受け、花里神社の御神霊である、オオヤマクイノカミ(大山咋神)を宮川右岸の片野(かたの)に遷し、そのあとに、八幡神を勧請して、花里八幡宮とし、松倉城の鎮守としました。
 片野に遷坐した、オオヤマクイノカミを祀る神社は、山王宮と呼ばれましたが、金森氏の治世時にされに遷坐し、いまは、「日枝神社」と呼ばれるようになりました。この日枝神社は、上町とよばれ、全国でも屈指の屋臺(山車)を曳行する、春の高山祭を齋行する神社としてよく知られます。

 また、高山市江名子町に鎮坐する「錦山神社」も、もとは、背後にある、錦山を御神体山とし、そのふもとに建てられた里宮で、祭神として、モノノベモリヤオオムラジノミコト(物部守屋大連命)を祀る神社でした。

 飛騨高山の物部氏は、用明天皇期(五八七)に蘇我馬子とのあいだに争いが起きて、滅びました、守屋の一族は飛騨高山に難を逃れました。このとき一族は、信州諏訪の地にも分かれて住み、守屋山を御神体山として奉安して定住することになりました。

 物部氏に従って斐太に居を定めた工匠の一族は、のちの、斐太ノ工とよばれる名工の集団としてよく知られるようになりました。
 神社裏に祠があって、守屋ヶ洞、守屋宮などとよばれています。

 この錦山神社、花里神社は、のちに、近江(滋賀県)の一色氏が祭祀にかかわったことから、錦山神社を祀る地を東之一色、花里神社を祀る地を西之一色とよんだようです。

 

最新の画像もっと見る

コメントを投稿