3/2 天気は晴れていますが、外は寒い。7時現在0℃。
7時半にホテルを出て、街道歩きの前に「三井寺」に行ってきます。ホテルから三井寺まで徒歩約15分。
歩いていると「琵琶湖疏水」が見えてきます。琵琶湖疏水は、大津市三保が関で取水し、三井寺の山下を通って京都・蹴上へ流れる人工の水路です。
両岸には、桜が植樹されており、桜のシーズンは、最高のロケーションでしょうね。
三井寺は、天台宗寺門派の総本山で、観音堂は西国三十三所観音霊場第十四番札所。大友皇子の皇子・大友与多王が父の霊を弔うために寺を創建し、
天武天皇に「園城寺」という勅額を賜ったことが名前の由来です。また、境内には天智・天武・持統の三帝の産湯に用いられたという霊泉があり、
「御井の寺」と称されたことから「三井寺」と呼ばれるようになりました。金堂をはじめ、国宝や重要文化財の数は圧巻で、近江八景「三井の晩鏡」でも知られています。
春には境内の千本の桜が咲き乱れます。また、戦国時代の武将、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などとも大いに関係のあるお寺です。
境内の地図を見るととてつもなく広い敷地です。全部見て廻るには1時間半ぐらいかかりそうです。今日は、石山寺にも行く予定にしていますので、今から全部見て廻るのは無理かな?と思い、
仁王門の所で引き返すことにしました。また、いつか、行ってみたいですね。
北国街道、長等(ながら)神社、菱屋町商店街を通り、旧東海道に向かいます。
長等神社は、天智天皇が大津京鎮護のため長等山の岩倉に須佐之男大神を祀ったのが始まり。貞観2年(860)円珍が園城寺の守り神としてまつったといい、
天喜2年(1054)庶民参詣のため山の上から現在地に移りました。
菱屋商店街には、お漬物屋「八百与」の宮内庁御用達という看板が目に飛びこんできました。八百与は、漬物屋としての創業は、1850(嘉永3年)、それより以前は、三井寺、円満院、
比叡山延暦寺などの精進料理を生業としていたそうです。
更に商店街を進んでいくと、「寺田屋お登勢実家 升屋跡」の石碑が建っています。寺田屋というと、坂本龍馬襲撃事件ですね。
旧東海道に戻りました。これから草津宿に向かって歩きます。このあたりは、京都へ通じる道ということで京街道とも呼び、街道沿いの町を「京町」と名づけたそうです。
「御饅頭處」というお店があります。屋号は「餅兵」といって、創業は、江戸・宝暦年間(1751~1763)。
昔は、店の前に床几(しょうき)を置き、ここで旅人が足をとめて一服したそうです。私も床几でお饅頭を食べてみたかったのですが、営業が9:30からですのでまだ開店してませんでした。
「すだれ屋」さんもあります。大津の町は、古いお店が多く残っていて歩いていても何か落ち着きますね。
「露国皇太子遭難地の碑」があります。そうそう大津事件でした。歴史で習いました。
馬場1丁目には、「義仲寺(ぎちゅうじ)」があります。ここには、木曽(源)義仲と松尾芭蕉の墓があります。木曽義仲の愛妾巴御前が供養したから巴寺、木曽寺とも呼ばれたことがありました。
ここでも朱印をいただきました。
翁堂の中を見ると、天井の絵は、伊藤若冲(じゃくちゅう)の「四季花卉の図」、正面祭壇は、松尾芭蕉座像です。
義仲寺を出ると横浜から東海道を歩いてこられた方と出会いました。今日は、石山から歩いてこられたそうです。京都まであと少しですね。
膳所(ぜぜ)城総門跡を通ると右側に石坐(いわい)神社が見えてきます。
石坐(いわい)神社、祭神は、海津見神を主神とし、天智天皇、弘文天皇、伊賀采女宅子、豊玉比古命、彦坐王命を祀っています。
昔、干害にあったこの地の人が雨乞いをしたらひじょうな応験があって里人の信仰が深かったと伝えられています。本殿は、滋賀県の指定文化財になっています。
大津は、神社、寺院が多いですね。和田神社の境内にある銀杏の樹は高さ24m、樹齢600年から650年で、関ヶ原合戦で敗れ、捕らえられた石田三成を京都に護送中につないだという伝説があります。
難解な地名で有名な「膳所(ぜぜ)」。この一帯は、昔の膳所城下町です。
膳所城址公園というのがありましたので行ってきました。最初、お城みたいな建物が公園かな?と思いましたが、ここは、大津生涯学習センターでした。
膳所城址公園は、本丸町の信号の所でした。
公園内には、芭蕉の句碑が建っています。 「湖や 暑さを惜しむ 雲の峰」
近江大橋西詰のすぐ南側に突き出た地にあった膳所城は、徳川家康が関ヶ原の合戦の後、築城の名手といわれた藤堂高虎に最初に造らせた城でした。
城構えは、湖水を利用して西側に天然の堀を巡らせた典型的な水城で、白亜の天守閣や石垣、白壁の塀・櫓(やぐら)が美しく湖面に浮かぶ姿は、実に素晴らしかったといいます。
この美観は、「瀬田(せた)の唐橋(からはし)唐金擬宝珠(からかねぎぼし)、水に映るは膳所の城」と里謡(さとうた)にも謡(うた)われています。
戸田(とだ)・本多(ほんだ)・菅沼(すがぬま)・石川と城主が変わった後、本多6万石代々の居城として長く偉容を誇りましたが、明治維新で廃城になり楼閣(ろうかく)は取り壊されました。
城門は重要文化財で、膳所神社や篠津(しのづ)神社に移築されて残っています。(琵琶湖観光案内より)
膳所神社にも行ってきました。膳所神社の表門は、膳所城二ノ丸から本丸の入口にあった門が移設されています。
膳所神社の由来を見ますと、
天智天皇の大津京遷都のとき、膳所の地が御厨(みくりや)の地と定められ、天武天皇の代に大和国から食物の神を移して祀ったのが膳所神社の始まりとされていますが、
確かな資料は、平安時代、この一帯が天皇の食事としての湖の魚介類を献上する場所に指定されたことによると言われています。
御祭神は、食物をつかさどる豊受比売命(とようけひめのみこと)です。
江戸時代、膳所藩の領地になると、本多家歴代藩主に信仰され、神社の領地や社殿の寄進がたびたびありました。
なお、正面に建っている薬医門は、もともと膳所城の城門を移築したもので、重要文化財に指定されています。(神社案内板より)
そういえば、伊勢神宮外宮も確か、豊受比売命でした。「膳所」と名がつくのも納得します。
篠津神社 の表門も膳所城北大手門でした。
JR東海道本線のガードを潜り、左側に行くと、JR石山駅、京阪石山駅です。
これから、ここからバスで「石山寺」に向かいます。 (続く)
義仲寺を訪れたときはカーナビが上手く作動せず、寺の周りを3回も回ってやっとたどり着いたこともありました。
天智天皇は母親の斉明天皇が福岡県朝倉市で亡くなられたこともあり、筑後川沿いの朝倉でも過ごされたこともあり、親近感を覚えますね。
義仲寺は、さっと見て帰るつもりでしたが、寺の人が熱心に案内してくれ1時間近くおりました。
見る所が多くて大変です。(笑)
天智天皇は、太宰府の観世音寺とも関係があるのではなかったでしょうか?
木曽義仲・巴御前・松尾芭蕉・・・・・懐かしいです。
伊藤若冲の天井絵も印象的でしたね。
そのことを思い出しながら先日若冲の絵を身に東京まで行ってきました。
それにしても詳細に調べられておられるのにビックリです。
芭蕉の句の版があり、そこで作ることができます。
それにしても大津は、京都に負けないぐらいの神社仏閣がありますね。
そうそう、大津は、真宗大谷派のお寺が多かったです。