よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

第30回「筑後吉井のおひなさまめぐり」(福岡県うきは市吉井町)

2022-02-24 07:24:37 | ウォーキング

八女市から耳納トンネルを越えてうきは市吉井町に来ました。

吉井町は、江戸時代、有馬藩の城下町久留米と天領日田を結ぶ豊後街道の宿場町として栄えました。筑後川に堰を築き、水を引き込み、豊かな農産物が育ち、酒造業、製麵業、精蝋などの

産業が生まれ財を蓄えます。今ある白壁土蔵の家々は明治初期までに三度の大火の経験から防火対策の意味も含め建て替えられたものです。平成八年には、文化庁より「伝統的建造物群保存地区」に

福岡県内で第1号の選定を受け町並み保存に取り組んでいます。その町並みを背景に「筑後吉井おひなさまめぐり」を平成五年より始め今年で30回目を迎えました。

うきは市吉井のおひなさまの大きな特徴は、宿場町いわゆる庶民のお雛様といえる「おきあげ」と「箱雛」です。「おきあげ」とは、おひなさま、歌舞伎や浮世絵を題材に各家々の女性が

手作りしたものです。羽子板の押絵と同じように下絵を描いて、厚紙に写し、綿をのせて着物の端切れ等の布地でくるみ貼り合わせていきます。その中に細く削った竹を取り付け、当時は

ワラや畳のへりに挿して「箱雛」の周りを彩るように飾りました。(案内パンフより抜粋)

 

車を駐車場に置きウォーキングスタート。

 

以久波(いくは)は、旧石田家住宅で築110年の古民家ゲストハウスです。

 

先ずは、工房雛子(ひなこ)へ。ここでは、雛人形、雛道具を単品で揃えています。

 

 

 

菓子処ひた福富  おひな様用のお菓子が揃っていました。お土産に雛あられを買いました。

  

林家(林肥料店) 店内に入ると大きな古時計が目に飛んできます。まだまだ現役だそうです。 

  

林家の雛飾りは、明治・大正のおきあげ、明治の箱雛、豪華絢爛な御殿雛、平成の京雛が飾られています。

 

 

たばこの販売も行われていたのか、店内にはゴールデンバット、いこい、わかば、キャスターなど懐かしいタバコが並べられています。

また、写真には撮りませんでしたが、オート三輪車がありました。これも現役で活躍されているそうです。

 

町歩きを続けます。

ステンドグラスのおひな様がある立丁尾花。残念ながら店内は撮影禁止ですのでパンフより引用しました。

 

  

観光会館「土蔵(くら)」

 

店内に入ると、大きな享保雛が目に留まります。日本最大級の享保雛の復刻版だそうです。

 

 

帰りに駐車場近くで見つけた「夏目漱石の句碑」

夏目漱石は、熊本~久留米~福岡~小倉~宇佐八幡宮~耶馬渓~日田を通り、明治32年(1899)1月に吉井を訪れています。

その時に詠んだ句です。

 

 


八女福島ぼんぼりまつり(福岡県八女市)

2022-02-22 10:31:42 | ウォーキング

2/20(日)福岡県八女市福島で行われている「八女ぼんぼりまつり」に行ってきました。

ぼんぼり祭りには、約10年前、JR九州ウォーキングで一度だけ歩いたことがありますが、今回自主トレを兼ね、家内と歩いてきました。

八女市中心部の福島町は、古くからの町です。天正15年(1587)豊臣秀吉による九州平定後の「九州国割り」により筑後国に五大名が配置され、上妻郡(現在の八女)は、筑紫広門が領主と

なり、福島に平城の居城を築きました。これが「福島城」の始まりです。

慶長5年(1600)関ケ原の功により田中吉政が筑後一国の領主に封じられ、三男康政の居城として新しく本丸・二の丸を築き、城内に内堀、中堀、外堀の三重の堀を巡らし、堀を深く築地を

高く、矢倉(櫓)を建て防備を堅固にして福島城を拡張構築しました。田中吉政は、転封の過程で居城とした近江国八幡(滋賀県近江八幡市)、三河国岡崎(愛知県岡崎市)、筑後国柳川など

各地の都市設計を行い、今日に残る町並みを数多く残しています。福島にもそのノウハウが生かされ、街道沿いに寺院、神社を移動させて寺町を作ったことや花宗川の開削など産業発展の為の

基礎作りを行い、材木などの産業の要所。、起点をつくったとされています。

元和6年(1620)断絶した田中氏に代わって翌7年、領主に封じられた有馬豊氏が入国しましたが、江戸幕府が慶長20年(1615)制定した一国一城令に従って筑後領内にある福島城は、

破却され、福島町は在方町として再出発し、繫栄しています。(説明文より)

 

まずは、八女伝統工芸館へ。伝統工芸館の前には、日本一の石灯篭があります。高さ10,5m、重量108,8トン。中の空洞にはしゃがまなくても通り抜けできます。

  

この伝統工芸館があるところは、廃止になった「矢部線」筑後福島駅のあった所です。

矢部線は、昭和20年(1945)羽犬塚駅から黒木駅間(19,7km)で開業しましたが、昭和60年(1985)廃止されました。

  

  

八女伝統工芸館では、八女福島仏壇、八女提灯、八女石灯篭、八女手すき和紙、八女矢、八女和コマなどの伝統工芸を紹介しています。

日本一の大型金仏壇は、高さ6,5m、幅3,8m、奥行き2,5m、重量2t。

 

八女のひな人形の特徴は、「箱雛」です。箱雛は、江戸時代後期から昭和の半ばまで八女福島の仏壇店や大工の副業として、注文に応じてつくられたものです。

杉や檜を利用して作った2つの箱に、男雛と女雛を1体ずつ収納したもので、衣装には仏具の布、冠などの金具には提灯の部品を利用するなど八女の文化がこの雛人形に集結しているともいえます。

 

 

 

「ごんたさん」とは、市松人形です。筑後地方では、「ごんたさん」と呼んでいます。雛飾りの出迎え人形として雛飾りの所に立っています。

 

堺屋(旧木下家住宅) 「堺屋」の屋号で酒造業を営んでいた旧木下家住宅。明治41年の建築の豪邸で見事な離れや庭園などが見学できます。(当時八女市内には、17軒の酒造業があったとか)

 

妻側は、富士、鷹、茄子の縁起物が描かれています。

 

家の中に入ってみます。

 

 

床柱は、黒渋柿の木を長年川に浸し柔らかい部分を腐らせ残った堅い芯の部分を使用しています。

お座敷にも、富士、鷹、茄子の縁起物が描かれています。明治時代には、乃木将軍も泊まられたそうです。

   

庭園には、「水琴窟」があり、静かな佇まいにこの水琴窟の音が癒してくれます。

  

堺屋を出て町を歩きます。何か懐かしいブリキ看板が目につきます。水原弘さん、由美かおるさん、大村崑さん、浪花千恵子さん、松山蓉子さん(琴姫七変化)・・・・

  

  

 

 

福島八幡宮は、江戸時代の寛文元年(1661)に福島城のやぐら高台に建立されました。以来今日に至るまで、人々は旧福島城内住民の氏神様として、地域と家庭の永遠の安寧と繁栄を

お祈りされております。 祭神は応神天皇神功皇后武内宿禰の三柱をお祀りしており、江戸時代には特に、主祭神である応神天皇を勝運の神として崇め、武士層からも厚い信仰を集めていたと

言い伝えがあります。 (神社HPより)

本殿は、工事中で仮本殿にてお詣りします。手水舎、本殿などに飾られているお花は、生花です。

  

 

福島八幡宮というと、秋に行われる「八女福島燈籠人形」があります。

福島八幡宮の放生会に、人形の燈籠を奉納したのが「燈籠人形」の始まりです。
明和9年(1772)には、浄瑠璃作者福松藤助(松延甚左衛門)が大坂より帰郷。人形を動かす工夫や当番町制の上演に力を貸して以後、動く人形が登場しました。それが、主役となり現在の

「からくり人形」の基礎ができます。
天保15年(1844)に久留米藩の大倹令(倹約規制)により上演が禁止されていましたが、明治4年(1871)燈籠人形の奉納が復活します。以後、第二次世界大戦による燈籠人形奉納の中止期間を

経て、昭和52年(1977)には「八女福島の燈籠人形」として国の重要無形民俗文化財に指定されます。(八女観光より)

 

  

八女市横町町屋交流館」は、江戸時代に建てられた造り酒屋をそのまま生かして整備された人と文化の交流拠点。当時の風情が未だ健在の館内には月替わりのギャラリーをはじめ、

八女にゆかりのある現代作家の資料室や、日本を代表する窯元・酒井田柿右衛門の作品展示室、地域の交流が行われる「町並み談話室」など、八女市の今と昔が同居する見所満載のスポットです!

 

部屋いっぱいに広がったおひな様には圧倒されます。

 

  

     

二階に上がってみると、昭和時代の福島の写真がありました。

 

横町町家交流館から市役所の方に歩きます。八女市役所の庁舎は現在工事中で令和7年(2025)2月末竣工予定です。

 

おりなす八女の向かい側が八女公園。八女公園には、九州を旅した山頭火の句碑があります。「うしろ姿のしぐれていくか

八女公園の所が「福島城」があった所です。

 

駐車場へ戻る途中にあった「旧寺崎邸」

 

久しぶりに八女を訪れました。白壁通りを歩くと何か心が落ち着きますね。また行ってみたいですね。

この後、耳納トンネルを通って「白壁の町吉井」に向かいます。この分は次回のブログにて。

 

 


柳川さげもん巡りウォーク(福岡県柳川市)

2022-02-16 17:41:31 | ウォーキング

コロナまん延防止重点措置の中、他県には行かず県内のウォーキングに徹しています。

2/15(火)雛祭り「さげもん」で賑わっている「柳川さげもんめぐり」に行ってきました。 

さげもん」は、江戸末期頃より、女の子が生まれると初節句のお祝いにお雛様の代わりに元気で丈夫に育ってほしいという願いを込めて祖母や母親、親戚、友人が着物の端布や

布団の残り布を利用して様々な縁起物を作って贈りました。

飾り物には、鶴、亀、エビ、ヒヨコといった縁起物で一つ一つが袋物になって物を入れることができます。

飾り物は、七本の糸に七個ずつと中央に二個の柳川毬を合わせて51個取り付けます。四十苦労(49)しなくてもいいように、又人生50年よりも長生きできるようにと願いを込めて

50に1個多い51個の飾り物を吊るします。(関東では、吊るし雛と言われています)

代表的な飾り物としては、

<這い人形> 生まれて、這い這いするようになった親の喜び。子供の豊かな成長を願う。

<三番叟> 祝いの席の舞を踊ります。

<ひよこ> かわいらしさ、あどけなさ。

<桜> 桜のようにかわいく育ちますように。

<梅> 寒さに耐えて、春に先駆けて咲く。

<えび> 年老いて腰が曲がってもなお元気。

<セミ> 泣く子は育つ。土の中に何年もいて辛抱の象徴。

<蝶> サナギから蝶へ。きれいに着飾らせて嫁に出したい親心。

<宝袋> 心が豊かになるように。

<ネズミ> 金運、子だくさん。

<鶏> 朝早起きで、つがいで仲良く卵を温め育てる。

 

スタートは、西鉄柳川駅。

柳川は、「水郷の町」として知られ、市内は江戸時代の掘割が総延長約470km網目のように張り巡らされています。ここでの一番の楽しみは、どんこ舟で市内を回る「川下り」です。

 

先ず「三柱神社」へ。

三柱神社(みはしらじんじゃ)は、「西国一の強者」と称された百戦錬磨の武将 初代柳川藩主 立花宗茂公、岳父 戸次道雪(べっきどうせつ)公、宗茂室 誾(ぎん)千代姫の三神を祀ったことから、

三柱神社と称します。

天明三年(1783)、七代藩主 立花鑑通公が柳川城内三の丸 長久寺境内に社を建立し、道雪公を奉祀したのを起源とし、文政三年(1820)坂本村日吉神社近くに遷座され、唯一宮と称し、

のち梅岳社に合祀し、三柱宮と改称しました。

文政八年 九代藩主 立花鑑賢(あきかた)公により、現在の地(約二万坪)を境内として社殿の建立を計画し、翌九年(1826)旧八月十六日に御神霊が遷座され、これより三柱神社と

なりました。柳川をはじめ、地方の尊崇はもとより、その御神威御神徳は年々輝きを増すと共に武神軍神、水利・干拓・開田・郷土繁栄の守護神として、近年では御功績を以て必勝・就職・

再就職・復活の社として、遠方を問わず多くの方に崇敬されています。(三柱神社HPより)

 

  

平成17年(2005年)放火により拝殿を始め楼門、唐門などが全焼する被害を蒙り、現在復興事業を計画されています。

社務所には、さげもんなどの雛飾りがありました。

 

三柱神社からマップを見ながら商店街に入ります。

  

 

  

柳川よかもん館には、巨大な「さげもん」がありました。

 

 

辻町から沖端に向かいます。

伝習館高校は、詩人北原白秋の母校。来年創立200周年を迎えます。

 

日吉神社は、正応3年(1290年)日吉大社(大津市)を勧請したことに始まるとされ、祭神は大山咋神。その後は初めてこの地に柳川城を築いた蒲池家を始め、立花家、田中家など

歴代柳川藩主の庇護をうけてきた由緒ある神社です。

  

本殿の前には、さげもんがありました。このさげもんには、願い事が書かれていました。

  

 

先に進むと、甲子園の常連校「柳川高校」があります。

 

柳川高校の校舎の先には、「柳川城址」があります。柳川城は、室町時代末期に筑後国衆であった蒲池氏により蒲池城の支城として築かれ、1587年の豊臣秀吉の九州平定に伴い、

功績を挙げた立花宗茂公が入城しました。関ケ原の戦い後、立花家は改易され、代わって田中吉政公が筑後一国の領主として入城し、城郭の整備を行いました。

1620年にに宗茂公は、柳川藩主として旧領を回復し、この城を拠点に筑後柳川藩10万9千石を治めました。

周りには掘割が張り巡らされ5層の天守閣を持つ堅牢な城であったと伝えられています。残念ながら明治5年に焼失してしまいましたが、現在も石垣の一部が残っており、市民の憩いの場として

親しまれています。

  

 

柳川城址から沖端に向かいます。柳川といえば「うなぎ」ですね。本日火曜日は、定休日が多かったです。

今日15日は「水落ち」と言って掘割をクリーンにする日です。午後4時からの開始だそうです。

  

1738年に柳川藩5代藩主立花貞俶が構えたという立花家別邸の「御花」(おはな)は、

四方に掘をめぐらせた総面積約 7000坪の敷地全体が国の名勝「立花氏庭園」に指定されています。立花家の歴史を伝える「立花家史料館」をはじめ、樹齢200年超の古木ばかりで作られた

鑑賞式の庭園「松濤園」など見所豊富で、この景観をもっとも美しく見渡せる大広間も要注目です!(福岡よかなびより)

中に入ろうかと思いましたが、今日火曜日は定休日で入れませんでした。

  

御花から北原白秋生家を訪ねます。

 

 

北原白秋は、1885年(明治18年)柳川藩御用達の海産物問屋を営む旧家(現・白秋生家)に生まれ、中学伝習館(現伝習館高校)を経て、1904年(明治37年)に早稲田大学に入学。

学業の傍ら詩作に励み、1909年(明治42年)処女詩集「邪宗門」を発表。2年後、詩集「思ひ出」を発表。名実ともに詩壇の第一人者となります。

その後も、「東京景物詩」「桐の花」などに代表される詩歌集、「とんぼの眼玉」、「赤い鳥」などの童謡集などさまざまな分野で次々と作品を発表。

「雨ふり」、「待ちぼうけ」、「からたちの花」・・・。

聴いたら誰もが知っている、今なお、語り継がれる作品を数多く残しています。
白秋の故郷柳川への思いは強く、20年ぶりに訪問した際には感激の涙を流し、
また晩年に発表した、故郷柳川を舞台にした写真集「水の構図」では「水郷柳河こそは我詩歌の母体である」と述べています。1942年(昭和17年)11月2日死去。享年57歳でした。

  

片原白秋記念館近くにある「柳川市観光案内所」のさげもんです。

 

沖端には、沖端水天宮があります。沖端水天宮(おきのはたすいてんぐう)は、明治2年(1869)に「久留米水天宮」から勧進され、同地区内にあった稲荷神社、

弥剣(やつるぎ)神社(祇園社)の三社を合わせて祀った神社です。

3月20日のおひな様水上パレードでは、この水天宮がスタート地点です。

 

沖端さげもんパークでは、公園内に設けられたひな壇に数多くのさげもんが飾られていました。

 

 

今日のGPSです。

せっかく柳川に来たのですから「うなぎ」が食べたくなりました。柳川市内のお店は定休日でしたので久留米市大善寺のうなぎ屋さんに向かいました。

うなぎは、最高ですね。  

 

 

 

 


福岡城址の梅園(福岡市中央区)

2022-02-09 16:17:50 | ウォーキング

2/8(火)まん延防止重点措置の為、ウォーキング協会が活動を休止していますので自主トレを兼ね、福岡城址の梅園を見に行こうと自分でコースを作り歩きました。

博多駅~渡辺通~薬院~福岡城址梅園~天神~櫛田神社~博多駅 ・・・約10kmのコースです。

10:00博多駅スタート。西に向かって歩きます。

 

 

渡辺通の九州電力ビルで休憩。5分後再スタート。

博多というと「ラーメン」が有名ですが、「うどん」も福岡が発祥ということで(諸説あります)市内にはうどん店も多数あります。

写真のうどん屋さんは、福岡でも老舗の店舗です。

 

薬院から国体道路に向かいます。

 

護国神社の向かい側が、「福岡城址」です。

 

福岡城は、関ケ原の功績によって徳川家康から筑前52万石を与えられた黒田長政によって慶長6年(1601)から7年の歳月をかけて築城されました。

3月下旬から4月初旬にかけて城内では、桜が一斉に咲きだし、「福岡城さくらまつり」が開催されています。

 

 

 

 

福岡城址梅園にやってきました。本来なら来週のウォーキングコースに入っていたのですが、コロナで中止になりました。

 

  

まだ6分咲きぐらいです。来週だったら満開になっていたかもしれません。

 

 

福岡城址から大名~天神に向かいます。

 

西中州の「めんたい重」屋さんは、今日も行列ができていました。ボストンバックを手にした旅行者の方を多く見かけました。

私、地元に住んでいながらまだ一度も行ってません。

 

那珂川にかかる橋が、福岡部と博多部の境界です。城下町の福岡部と商人の町博多部がここで分れていました。

 

博多の総鎮守「櫛田神社」に来ました。この神社には、節分のおたふく面が3か所あります。それぞれ顔が違っています。

  

櫛田神社からキャナルシティを通りゴールの博多駅に向かいます。

 

今日のGPSです。

 

 

 

 


宗像・大島のオルレと鎮国寺の熱海桜(福岡県宗像市大島~宗像市吉田)

2022-02-04 10:26:28 | 九州オルレ

ふくおかウォーキング協会がコロナのまん延防止重点措置で休止していますので自主トレを兼ねて、九州オルレ宗像・大島コースを歩いてきました。

このコース2年前の3月に歩きましたので今回で2回目です。

大島は、神湊(こうのみなと)港からフェリーで約25分。周囲約15km、人口約700人の島で小高い山林や原野が島の大半をしめており、宅地は海辺の南側に集まっています。

四方を海に囲まれているため、無霜地帯という特殊な地勢です。近海は、豊富な魚介類を育む筑前海域有数の漁場となっており、漁業が島の基幹産業です。近年では、恵まれた自然環境を活かした

観光・レジャースポットとしても注目を集めています。(宗像観光ガイドより)

9:25のフェリーに乗り大島へ。大島港渡船ターミナルよりスタートします。

  

渡船場から宗像大社中津宮に向かいます。

中津宮は、宗像三女神(辺津宮:市杵島姫神いちきしまひめのかみ、中津宮:湍津姫神たぎつひめのかみ、沖津宮:田心姫神たごりひめのかみ)のうち、湍津姫神を祀っています。

 

  

中津宮から御嶽山登山道に向かいます。

  

御嶽山登山口から急坂を登っていきます。この大島コースで一番の難所です。一気に224mの御嶽山頂上まで登ります。

  

休み休み登って約40分で御嶽山展望台に着きました。

 

2年前歩いたときはここから「沖ノ島」が見えたのですが、PM2.5の影響で霞んでいます。

 

 

御嶽宮は、中津宮の奥宮で沖ノ島と同様、8~9世紀にかけてここでも露店祭祀が行われたそうです。

 

御嶽山を下りていきます。

  

案内看板には「イノシシ注意」の文字が・・・・イノシシ除けに持ってきたラジオのボリュームを上げて歩きます。

  

 

風車展望台が見えてきました。

 

視界は、相変わらずPM2.5で霞んでいます。天気が良ければここで休憩する予定でしたが、今日は風も強く少し休むと寒くなってきます。先へ進みます。

 

 

砲台跡は、昭和11年(1936年)北部九州の沿岸防衛強化のため造られました。

日本海海戦戦死者慰霊碑は、日露戦争の時、玄界灘で戦死したロシア側4830人、日本側117人の犠牲者の慰霊碑です。

 

ここから下っていきます。2年前に歩いたときは、「馬」はいなかったのですが、今日は10頭ぐらいでしょうか、お馬さんがいます。

 

オルレのコースは、ここから沖津宮遥拝所に行くのですが、視界が悪いのでショートカットします。

 

 

宗像市立大島学園は、小中一貫教育で1年生から9年生まで通っています。

 

海岸に出てきました。

  

夢の小夜島は、室町時代に連歌師・飯尾宗祇の「筑紫道中記」で「浜千鳥 声うちそへて おほしまの 波の間もなく 誰を恋らん」と歌われています。

小夜島までは約20m。潮が引くと渡ることができます。

  

海の道は(写真左)、潮が引いたときにだけ現れる道です。カップルで歩くと二人の仲をさらに深めるという恋愛スポットです。

 

 

大島港に戻ってきました。14:40のフェリーにまだ時間がありましたので港近くの産直店に立ち寄り「魚ロッケ」をいただきました。

大島港渡船ターミナルでは、オルレのバッチをいただきました。

  

 

神湊港到着後、次の目的地宗像大社近くの「鎮国寺」に向かいます。

先月、ウォーキング協会で訪れましたが、熱海桜などはまだ蕾でしたが、もう7分咲きになっていました。