よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

楽しいウォーク「泉川のはまぼう鑑賞」(福岡県糸島市)

2021-07-23 19:09:58 | ウォーキング

7/21(水)ふくおかウォーキング協会楽しいウォークは、「泉川はまぼう鑑賞」ウォークでした。

集合場所は、JR糸島高校前。参加者は32名。

 

9:30 ウォーキング開始。

 

 

 

歩いていると色々な花に出会います。

  

タイタンビカスは、アメリカ芙蓉とモミジ葵の勾配種です。

  

暑いのか、ワンちゃんも日傘をさしていました。

 

 

ハマボウの群落です。今回はJAアグリの裏から入ります。

 

アグリで休憩後再スタート。今日は暑いので給水を頻繁にとっています。

ハマボウはアオイ科フヨウ属の落葉低木です。

7月上旬から7月下旬ごろに直径5センチメートルから8センチメートルの淡い黄色の花を咲かせます。

近年、護岸工事や河川改修等により全国的に減少し、『福岡県レッドデータブック2011』では、はまぼうが絶滅危惧2類、はまぼう群落がカテゴリー3(破壊の危惧)に指定されました。

そのような中、雷山川下流(通称:泉川)一帯は九州有数のはまぼう群落で、加布羅(がぶら)橋から河口に向かい両岸に730本ほどのはまぼうが群生しています。

朝咲いて、夕方には萎んでしまう、可憐な一日花のはまぼうは、太陽の方角を向いて開花します。(糸島市HPより)

このハマボウは、糸島市の花です。管理は、「泉川ハマボウの会」が行っています。

  

今から約25年ぐらい前、私が、我が校区の「町づくりの会」に所属していたころ、泉川のハマボウの会と交流を重ね、講演会も開催しました。(実は、私の町でもハマボウが群落しています)

講師は志摩町役場(現糸島市)に勤務されている「小林 新氏」。泉川のハマボウを増やしていった苦労話など話されました。

当時私は、町づくりの会の広報を担当していましたので、講演内容をビデオにしたり、広報誌の編纂など行っていました。

小林氏とは、歳が一緒だったり、私の学生時代の友人と同じ中学校出身だったりして、何か気が合いました。役場にも何回か行って講演会のビデオや広報誌なども渡しました。

その後年賀状なども交換していましたが、何年か経った年末に小林さんの奥様から喪中はがきが届きました。まだ50代の若さでした。

その後、私たちの町でもハマボウを増やそうと種から育て、地元の小学生と一緒に200本ぐらいのハマボウを植樹しました。

この満開のハマボウを見ると、あの小林さんの顔が思い出されます。(現在、私は、町づくりの会を引退しております)

泉川は、雷山川下流ですが、江戸時代、筑前黒田藩二十一騎の一人「菅正利 - Wikipedia」が怡土郡・志摩郡の代官として赴任し、雷山川川尻の干拓工事を行い、新田や作出などの新しい干拓地が

生まれました。その功績をたたえ、雷山川下流のこの川を「泉川」と呼ぶようになりました。

 

  

 

スーパーで最後の休憩。

 

11:35 糸島市役所にゴール!

福岡県ウォーキング協会7月度のウォーキング教室はこの日で最後です。来月は18日の「唐津街道を歩く、中央区~西区」から始まります。

今日のGPSです。

 

 

 


サタデーウォーク「愛宕神社のほおずき祭りとシーサイドももちを歩く(福岡市西区~早良区~中央区)

2021-07-20 17:56:34 | ウォーキング

7/17(土)は、ふくおかウォーキング協会サタデーウォーク「愛宕神社のほおずき祭りとシーサイドももちを歩く」でした。

愛宕神社のほおずき祭りは、例年海の日を中心に行われますが、今年はオリンピックの為、海の日が7/22に変更になりました。

従って今年は722~23に行われます。集合場所は、JR姪浜駅。今日は朝から細かい雨が降っており、炎天下のウォーキングにはならないみたいです。

出発前のミーティングで会員の下〇さんが亡くなられたとのこと。下〇さんは、仕事の関係で毎回参加はできませんでしたが、ウォーキング指導員の資格も取られていましたが、残念です。

まだまだ若い60歳でした。ご冥福をお祈りします。

 

9:33 ウォーキングスタート

姪浜の地名の由来は、神功皇后が三韓征伐よりの帰途、上陸の際、下着の衵(あこめ)が濡れたので砂浜で乾かし「あこめの浜」と言っていたのが訛って「めいのはま」となりました。

神功皇后、武内宿祢以来大陸との交通、外交の拠点となり、政治的、宗教的、港町として発展の要素を持っていました。

元寇の折には、鎮西探題が浦山館として置かれ、以後渋川尭顕まで250年の永きに亘って外的侵攻を日本の国防として防いできました。

江戸時代には、唐津街道の宿場町として「姪浜千軒」とも言われました。明治22年に自治制となり、早良郡姪浜村としてスタート。役場は、現在の西鉄ストアの所に置かれました。

明治時代に石炭が発見され、大正、昭和と姪浜の発展を築いた早良炭鉱がありました。現在は、第一坑が豊浜団地に、第二坑が水処理センターに変わっています。

また、姪浜にはお寺が多く存在します。福岡藩(黒田藩)の西の防衛としての役割を兼ねていたのでしょうか?

 

ショッピングセンターを通り、住宅展示場の所から右折します。

  

愛宕神社に到着しました。階段を登り境内には、「茅の輪」があります。

昔、素盞鳴尊(すさのおのみこと)が旅の途中で、蘇民将来(そみんしょうらい)巨旦将来(こたんしょうらい)という兄弟のところで宿を求められました。弟の巨旦将来は、豊かな生活を

していたのにそれを断りました。しかし、兄の蘇民将来は貧しい暮らしをしていましたが、素盞鳴尊をお泊めして、厚いもてなしをしました。

その後何年かたって素盞鳴尊は再び蘇民将来の家を訪れて、「もし悪い病気が流行することがあったら、茅で輪を作って、腰につけていれば病気にかからないですむでしょう」 と

お教えになりました。

これから、「蘇民将来」と書いた紙を門にはっておくと災いを免れるという信仰が生まれました。茅の輪も、最初は人々が腰につけるほどの小さなものでしたが、時代がたつにつれて大きくなり、

これをくぐって罪やけがれを取り除くようになりました。

コロナもこれで退散すればいいのですが・・・・・

愛宕神社のほおずき祭りは、例年海の日に行われますが、今年はオリンピックで海の日が22日にずれ、22日~23日に行われます。

ほおずきが置いているかな?と思いましたが、ほおずきのお守りだけでした。

  

  

 

愛宕神社からの眺望です。昔は、神社の下は、海でした。ショッピングセンターから海の方のマンション数棟は、1995年(平成7年)行われたユニバーシアード福岡大会の選手村だった所です。

 

愛宕神社から下りてきます。下りてくると右側に「岩窟弁天社」があります。むかし、姪浜の住民が宗像宮に海上の安穏を祈願したところ、 「これより西南へ向かったところで、八里鷲尾山北麓の

海辺に有縁の地ある」 という神託があり、これによって、宝鏡を拝し、この岩窟に奉祀したという。その後、江戸時代に至り本地仏弁財天として鎮座して以来、霊験があらたかだったとされる

 

愛宕公民館が2回目の休憩地です。休憩後再スタート。室見川を渡ると早良区です。

  

ここからはシーサイドももちです。

  

今日は、雨模様の為、人工海浜では、泳ぐ人がいません。土日になるとたくさんの方が海水浴を楽しみます。

  

  

菰川の橋を渡り、唐人町に入ります。唐人町と付く地名は、九州には佐賀県や長崎県、そして熊本県にもあるのですが、いずれも「唐人」が居住したことからその地名が付いています。

しかしここ福岡市の唐人町は「続風土記」で『其始高麗人住せり』や、「拾遭」で『往古は唐船が泊まりしゆえ、如此名あるよし』など様々な諸説があり、地名の由来を確定するものがないのです。

唐人町という地名が歴史上初めて出てきたのは、1627年(寛永4年)成立の「筑前筑後・肥前肥後探索書」に記載されたもののようです。関が原以降、黒田藩が福岡城を築城した後、唐人町は

下級武士の町として発展。そして旧唐津街道が現在の唐人町商店街アーケードの中を東西に貫き、そこでは街道を行き交う人たちに商売を行う町屋(隣と接した、奥行のある店舗併用の住宅)が

自然発生的に発展していったといわれています。今でも福岡藩が博多湾からの都市防衛に要塞として建立したと見られる八つの寺院が密集しております。(All about 20th 旅行より抜粋)

また、福岡ソフトバンクホークスの本拠地「福岡paypayドーム」に近いことからホークスが勝った時など大いににぎわっています。

個人的には、私が小学生の頃、本格的なパン屋さんがここ唐人町にあり、よく買いに行った思い出があります。

  

唐人町商店街が唐津街道です。

  

11:51 大濠公園能楽堂にゴールしました。雨も本降りにならなくてよかったです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


スマイルウォークin春日の下見

2021-07-16 19:07:19 | ウォーキング

本来6/13に行われる予定の福岡県ウォーキング協会主催「元気!スマイルウォークin春日」がコロナで緊急事態宣言の為、1か月延期となり、7/18(日)の開催となりました。

この大会、今回はふくおかウォーキング協会の当番です。

7/14(水)の楽しいウォークは、スマイルウォークの下見になりました。

実際のコースを歩き、矢印版を置く場所、案内人の配置などを決めていきます。集合場所は、JR春日駅。参加者40名。

   

出発前ミーティング。9:40ウォーキング開始。

 

春日駅から春日公園に向かいます。春日公園では、現在高校野球県南部予選が行われています。

 

春日公園芝生広場がスマイルウォークの集合場所です。日影がなく当日は暑くならないよう祈ります。

 

芙蓉は、福岡市の花です。

  

  

三兼池(みかねいけ)公園に着きました。元々、三兼池は農業用水を確保するために築かれたため池だが、噴水や展望テラス、橋などが整備され、市民の憩いの場として親しまれている。

園内は緑が豊かで、子どもが遊べる遊具コーナーや広いグラウンドを備える。また、国指定史跡「牛頸須恵器窯跡」のひとつ『梅頭窯跡』の見学も可能で、自然と歴史をまとめて感じられる

スポット。さらに、県道31号線を挟んで反対側には『日の浦池公園』があり、ともに大野城市内を巡る散歩道として整備された大野城トレイル「ため池ルート」の一部に選ばれている。

 

 

三兼池の隣には、牛頸(うしくび)須恵器窯跡があります。

 

 

県道福岡筑紫野線の下を通って仙頭ヶ浦池へ。

  

日の浦池より県道を歩きます。春日神社近くの地下道へ進み、春日神社に向かいます。

 

春日神社は、後の天智天皇となる中大兄皇子(626年~672年)が長津の宮(現在の高宮)に居られる時、春日の地に天児屋根命(アメノコヤネノミコト)を祀られたことに由来する。
天児屋根命は、春日権現とも呼ばれ、神仏習合の神といわれている。

時は神護景雲二年(768年)。太宰大弐であった藤原田麿は、春日の地に藤原家の祖神である天児屋根命が祀られていることを知る。
そこで参拝した後、故郷である大和の国(現在の奈良)の春日大社から、雷の神・剣の神といわれる武甕槌命(タケミカヅチノミコト)、その武甕槌命と関係が深いといわれる

経津主命(フツヌシノミコト)、姫大神(ヒメオオカミ)を迎え、神社を創建することとなる。(春日神社HPより)

春日神社では、前年に結婚した方をお祝いする「婿押し」という行事があります。

婿押しは、午後7時15分の左義長(さぎちょう)への点火から始まる。子供たちによる樽せり(樽の奪い合い)が終わると、花婿の挨拶、花婿と花婿抱きの盃などの一連の「宿の行事」が

行われる。その後、花婿を含む氏子たちが裸になり、神宮の前で御祓いを受け、御池での樽せりへと移行。その中でもみ合ううちに割られた樽の一片を手にした人がこれを神棚に供え、

五穀豊穣と開運を祈願する。樽せりが終わると、春日川へお汐井(おしおい)取りに行き、その帰る足で一斉に拝殿に駆け上がって参拝。
花婿を中心に祝唄を唱和しながら、全員でおしくらまんじゅうのように拝殿の中でもみ合う。

最後に左義長周辺に戻り、神前に供えた「若水」を花婿に注ぎ祝福する。婿押しが終わると、左義長の周りで手打ちとして、終了となる。(春日神社HPより)

 

ゴールの春日公園が見えてきました。12:15春日公園芝生広場にゴール。

今日のGPSです。

それにしても今日は、暑かった。ペットボトル2本飲み干しました。

 


7月度例会「博多山笠飾り山ウォーク」(福岡市中央区~博多区)

2021-07-11 10:51:43 | ウォーキング

7/10(土)ふくおかウォーキング協会7月度の例会は、ユネスコ無形文化遺産に登録されている「博多山笠飾り山ウォーク」でした。

昨年は、コロナ禍で飾り山も舁き山も延期となり、今年はどうかな?と思ってましたら、飾り山だけ行い、舁き山は、「密」になるから今年も延期となりました。

ただ、「千代流れ」「中州流れ」は、飾り山も中止ですが、市内には、12本の飾り山が登場しています。

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集合場所は、中央区天神の「警固公園」。今日は、鹿児島県、熊本県に線状降水帯が発生し、福岡地方も朝から雨模様です。

大雨にならないといいのですが・・・・・ポンチョを被りウォーキングスタート。参加者39人。

 

飾り山笠は、博多の総鎮守「櫛田神社」を向いている方が、「表」その裏側を「見送り」といいます。

先ずソラリアの山笠

 

新天町商店街

 

天神一丁目(博多大丸横)

 

ここから雨が強くなったら、渡辺通の方を略してキャナルに行こうと思ってましたが、雨が小降りになりましたので予定通り渡辺通の方に行きます。

渡辺通一丁目

  

キャナルシティ博多

ここの飾り山「表」(源平合戦碇知盛)の作者は、私の同級生の作品です。いつもは、千代流れの人形を作っているのですが、今年は千代流れは中止になってしまいました。

  

博多の総鎮守「櫛田神社

 

7月15日、博多山笠のクライマックス「追い山」では、早朝の4時59分、一番山笠が清道を廻り、そこで一番山笠にだけ許される博多の祝い唄「祝いめでた」を歌って奉納します。

それから7つの山が次々と櫛田入りを行い、早朝の博多の街へ駆け出していきます。この光景は、博多の初夏の風物詩です。山笠が終わると博多の街は、夏本番になってきます。

昨年、今年と追い山が延期になりましたが、来年こそコロナが収束し勇ましい追い山が見たいですね。

「祝いめでた」響く博多祇園山笠 - Bing video

  

上川端通

上川端通商店街には、「川端ぜんざい広場」があります。

かつて博多には「日本一、甘いぜんざい」を食べさせるお店がありました。
大正初期、福岡市博多区上川端で創業した川端ぜんざい。
川原家の四姉弟、長女キク、長男甚五郎、二男平一郎、三男清蔵の丁重な仕事ぶりから生み出される強い甘味が評判となり、博多の庶民に親しまれ博多川端の名物と呼ばれるほどの人気を博していましたが、昭和六十年を最後に看板を下ろす事となります。

その後、川端ぜんざいを懐かしむ声が高まり、地元商店街が主体となってアイデアを出し合い、開店営業することになりました。
博多の三大名物と言えば辛子めんたいこ、水炊き、川端ぜんざい。
あの懐かしい味は、今も尚この川端に生きた博多の歴史として、受け継がれています。(上川端商店街振興組合HPより)

現在、営業日は、金、土、日とイベント開催日です。一杯500円です。

 

  

川端中央街

  

博多リバレイン  

今年は場所が変わり、リバレインとオークラホテルの間に移っていました。

雨も上がり、着ていたポンチョを脱ぎます。

   

東流れ

  

東流れから千代町を経由して博多駅に向かいます。

博多駅商店連合会

  

今年の表題は、コロナ禍でしょうか、アマビエなど疫病退散をテーマにした飾り山が多かったです。

1241年 博多の町は、疫病に襲われ、人々は次々に倒れていきました。博多を救うため聖一国師は、施餓鬼棚に乗って祈禱水を撒いて、疫病を鎮めたと伝わっています。

二本の棒で担がれた施餓鬼棚は、現在の博多山笠の原型ではないかとみられています。

早くコロナが治まり、来年こそ、博多山笠が完全な形で復活するのを待っています。

今日のコースには、ありませんでしたが、福岡ドームの飾り山笠です。この山笠は、表が勿論「福岡ソフトバンクホークス」です。

今年は、けが人が多く、リーグ戦に苦戦していますが、早く快進撃が見られるように頑張ってほしいですね。

  

今日のGPS

 

 

 


楽しいウォーク「カエル寺と“恋人の聖地”小郡を漫歩」(福岡県小郡市)

2021-07-08 17:19:03 | ウォーキング

7/7(水)今日は、七夕。

ふくおかウォーキング楽しいウォークの7月最初の教室は、「カエル寺と“恋人の聖地”小郡を漫歩」です。

集合場所は、西鉄三国が丘駅。今日は蒸し暑くいつ雨が降ってもおかしくないくらいの天気です。一応、ポンチョと傘を用意します。参加者40名。

集合場所の天井には、燕の雛が・・・・・

 

9:38ウォーキング開始です。

 

約20分で「カエル寺(如意輪寺)」に到着。

このカエル寺(如意輪寺)は、創建が奈良時代の天平元年(729)歴史のあるお寺です。ご住職が中国を訪れた際、小さなカエルの置物を買って帰ったのがコレクションの始まり、

そこから増え続け今では、5000点以上のカエルの石像や置物があります。また、6月から9月までは「風鈴祭り」として数千個の風鈴が飾られ美しい音色を奏でています。

 

  

  

  

 

 

 

10:06 再スタート。途中右側には、「竈門神社」があります。アニメ「鬼滅の刃」で有名になった神社です。

遠くに「小郡球場」が見えてきました。高校野球福岡県予選も7/6から始まり、ここ小郡球場でも試合が行われます。

 

御勢大霊石神社(みせたいれいせき)・・・延喜式神名帳えんぎしきじんみょうちょうに記載がある由緒正しい神社(延喜式内社筑後四社の一つ)。主祭神は第14代仲哀天皇。伝承によると仲哀天皇が熊組征伐にあたり

行宮あんぐうをここに設けたという。ところが天皇が戦線を巡視した際、毒矢に当たってこの地で崩御。妻の神功皇后じんぐうこうごうは、兵士の士気の衰えを恐れたため喪を秘し、熊襲征伐の後、香椎の宮で発喪。

その後、朝鮮出兵にあたって御魂代(みたましろ)の石を軍船に乗せ、仲哀天皇の鎧と兜を着せて征途についた。戦勝後に凱旋すると、その石を天皇の御魂代として、また朝鮮半島を守る不動石として祀ったと伝えられています。この石は、御勢大霊石みせたいれいせきとして社前に祀られ、立石の場所が天皇殯葬ひんそうの地と言われています。(小郡市観光協会より)

なるほど、仲哀天皇は、香椎宮(福岡市東区)で崩御されたと思ってましたが、実際は、ここ小郡の地だったのですね。初めて知りました。

 

二回目の休憩は、イオン小郡店です。イオン小郡店は、2018年7月、2019年7月の集中豪雨で2年連続冠水しました。

現在、イオン入口には、止水版が設けられています。

  

雨は、何とか持っています。然し、高速道路ガード下を通行したころからポツリポツリと雨が降ってきました。

今日は、7月7日七夕です。ここ小郡には、七夕神社(媛社神社)があります。

 

七夕神社の正式名は「媛社(ひめこそ)神社」です。地元の人は、親しみを込めて「七夕(たなばた)さん」と呼んでいます。

神社の歴史は古く。和銅6年(713)に各国で作られるように命じられた風土記(肥前国風土記)の中にその由来が出てきます。以来、1300年にわたって地元の氏神として信仰されてきました。

「肥前風土記」より   山道川の西岸に荒ぶる神がおり、道行く人のうち半分を殺していました。そこで荒ぶる神が祟る理由を占うと「我が社を造って筑前国宗像郡の人である珂是古(かぜこ)に

祭祀を行わせよ。そうすれば、荒ぶる心は起こさない」という結果がでました。珂是古は幡を掲げて祈祷し、「神が私の祭祀を望むならば、この幡は風に飛ばされてその神のそばに落ちよ」と

いいました。すると、幡が飛んで筑後国御原郡の姫社(ひめこそ)の杜に落下し、再び飛んで山道川のほとりに戻ってきました。また珂是古は機織りの道具に押さえつけられる夢をみました。

これで神の場所と、神が女神であることを知った珂是古が祭祀を行い、人々が当地を安全に通れるようになりました。ここからこの地を姫社(ひめこそ)と呼んでいます。(パンフより)

また、今から千年以上前の書物には各地から差し出す献上品の一覧表が残っています。それによると、小郡を含む筑後国の献上品は米と織物になっており、この地方は、織物が大変盛んであった

ことが伺えます。また、古来織物に携わってきた人々は織物の神として「棚機津女(たなばたつめ)」という女神を信仰していました。この棚機津女の信仰と中国より伝わった織姫・彦星の

物語が混然同化して、織物の神を祀る棚機(七夕)神社として親しまれるようになったと思われます。

古老の話によれば、この神社は「七夕さん」として親しまれ、八月六日の早朝から翌七日の朝にかけて、筑前、筑後、肥前一帯から技芸上達のお詣りで大崎に通じる道路は、参拝者が列をなした

と語っています。

また、宝満川を挟んでこの織姫を祀る七夕神社と相対して老松(おいまつ)神社があり、ここに大正12年の圃場整備の際に合祀された牽牛社があります。天の川と同じく南北に流れる宝満川と

その両岸にまつられた織姫と牽牛(彦星)は、天上の物語を地上に配したようになっており、そこには、昔の人々の信仰とロマンが感じられます。(境内案内文より)

 

 

七夕伝説は子供の頃覚えましたが、もう一度復習してみます。

七夕伝説】昔々、天帝という神様が星空を支配していたころ、天の川の西の岸に織女という天帝の娘が住んでいました。織女は、機織りが大変上手で、彼女の織った布は雲錦と呼ばれ、色も柄も

美しく、上部で着心地も軽い素晴らしいものでした。一方天の川の東の岸には、牛飼いの青年、牽牛が住んでいました。牽牛は毎日天の川で牛を洗ったり、美味しい草を食べさせたりとよく牛の

面倒を見る働き者でした。天帝は来る日も来る日も働いてばかりいる娘を心配して、娘の結婚相手を探すことにしました。そして天の川の向こう岸に住む牽牛を見つけると、二人を引き合わせて

めでたく夫婦となりました。ところが、一緒に暮らすようになると二人は朝から晩まで天の川のほとりでおしゃべりばかりして、いつになっても仕事を始める様子がありません。

織女が布を織らなくなってしまったため、機織り機には、埃が積り、天界には何時になっても新しい布が届きません。また、牽牛が世話していた牛たちもやせ細って次々に倒れてしまいました。

業を煮やした天帝はとうとう二人を引き離し、1年に1度7月7日の夜にだけ、天の川を渡って会うことを許しました。織女と牽牛は心を入れ替えてまじめに働きました。1年に1度、そう7月7日の

夜に会えることを楽しみにして・・・・・。

そして織女は前にもまして美しい布を織るようになったので皆はとても喜びました。牽牛も一生懸命に牛を世話し畑を耕したので牛はすっかり元気になり、畑も豊かな作物が実りました。

やがて待ちに待った7月7日になると、織女と牽牛は天の川を渡り1年に1度のデートを楽しみます。然し、その日に雨が降ると川の水かさが増して川を渡ることが出来ません。

すると、どこからかカササギという鳥の群れがやってきて天の川の中に翼を連ねて橋となり、2人を会わせてくれるのでした。(パンフより)

今日は、七夕ということで、スイカのお守りが販売されていました。(この地方では、子が7歳になる歳の月遅れの七夕の日に大きなスイカを供える習慣があります)

尚、今年の8月6日~7日の七夕祭りは、コロナの影響で中止となっています。

 

七夕神社に着くころから雨が降ってきました。予定では、次の駅「端間駅」がゴールの予定でしたが、雨の影響で近くの「小郡駅」がゴールに変更されました。

11:59西鉄小郡駅にゴール。

 

今日のGPSです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


薩摩街道(豊前街道)6日目(その2)「山鹿(熊本県山鹿市)~味取(熊本市北区)」

2021-07-02 18:45:26 | 薩摩街道(豊前街道)

(その1)からの続きです。

山鹿市街地をゆっくり歩いていましたら、1時間かかってしまいました。

山鹿大橋を渡り、街道ウォーク再開です。

 

南島の所には、「六里木跡」があります。熊本城迄あと24km。南島菅原神社の所の歩道橋を渡ります。

  

郡境石」です。「是ヨリ北山鹿郡」と書いてます。ここから鹿央町です。鹿央町は現在は山鹿市に合併していますが、合併前は、鹿本郡鹿央町でした。

鹿本郡は、鹿央町の他、菊鹿町、鹿北町、鹿本町、植木町でしたが、平成17年(2002)鹿央町、菊鹿町、鹿本町が山鹿市と合併、平成22年(2007)植木町が熊本市と合併し鹿本郡が

消滅しました。

「城ヶ鼻城址」は、現在祇園神社になっています。立ち寄ろうかと思いましたが、先を急ぎますのでパスします。

  

米野岳中学校の横から「うらやま坂」に入ります。路面は舗装されていますが、落ち葉があり、滑らないよう上ります。

  

うらやま坂を下りた所に「郷原八幡宮」があります。

 

街道の横には、柿や栗の実が大きくなっています。あと2か月ぐらいで収穫でしょうか?

 

鹿央町にも岩原古墳群など古墳の多い町です。「持松塚古墳」は、直径30m、高さ5mの円墳です。圃場整備工事の際、発見されました。

「比丘尼(びくに)坂」を抜けるとビニールハウスが並んでいます。これみんなスイカです。比丘尼というと尼さんの事ですが、このあたりに尼さんがいたのかな?

  

比丘尼坂を越えてしばらく歩くと「鹿央市民センター」です。「浦大間古墳跡」も圃場整備工事の際発見されました。

 

数里木跡(五里木跡)」熊本市新町の元標を基点として五里の里数木のことです。道の両側には、榎の大樹が四方に枝を張っていましたが、昭和20年代に枯れました。

 

鹿央町広町にやってきました。広町には、造り酒屋、紺屋、油屋などのたくさんのお店があり大変賑わっていたそうですが、現在では、酒販売店だけです。

 

善行寺」の看板があります。

善行寺は、参勤交代上の細川藩を始め薩摩の島津藩、人吉(熊本)の相良藩の歴代の殿さまが休息しました。十数年前のNHK大河ドラマ「篤姫」では、薩摩から船で向かったとされていますが、

実はこの善光寺でご休息されているのです。嘉永6年(1853)八月二九日九ッ頃となっていますので、お昼ごろ立ち寄ったそうです。

 

善行寺のオオマキ  山鹿市指定天然記念物となっている善行寺のオオマキですが、案内板の文字が消えそうですが、「善行寺は、細川藩、島津藩、相良藩の参勤交代の際、「御小御所」として

藩士以下の休憩場となっていた。この木は、和田次郎正善が寺を創立(1615年)した際、植えたとして伝えられている」

   

「豊前街道広町」の看板から左折します。

  

このあたりが、旧植木町(現熊本市)との境界。ビニールハウスには、スイカが栽培されていました。(今は、シーズンオフ)

  

マップでは、ここから乙貝橋に行くのですが、どうも道を間違えたみたいです。「水原」という地区に着きました。途中、案内板がないか確かめたのに・・・・(現実、案内板はありませんでした)

帰ってGPSで調べましたら突き当りを左折しなくてはいけないところを右折してしまったみたいです。山鹿市内を通るときは、豊前街道の案内板が多く迷うこともありませんでしたが、

町によってかこの豊前街道を重要視している町としてない町の差が出るのですね。(みやま市でも苦労しました)

民家があれば聞いてみようと思いましたが、その民家も少なく、ちょうど郵便屋さんが来られましたので聞いてみました。ただここは、山鹿市と熊本市(植木町)の分岐点。

熊本市(植木)の方は、わからないとのこと。県道119号線沿いに行くと植木町に行けるそうで119号線を歩きました。

「熊本市」の看板が見えてきました。ここから左折です。(乙貝坂)

  

しばらく坂道を歩くと「豊前街道」の看板がありました。ここからまた森の中を歩きます。

 

ここは、「三十六のお茶屋跡」。

案内文を見ると、「三十六から千田川に下る道は、両側が切り立った深い切通しの坂道になっています。こうした深い切通しの道は、加藤清正が軍事的配慮から作ったといわれ、

「凹道」と呼ばれているものです。江戸時代の記録には、熊本城下から五里程は、坂が多くほとんどが道の両側が高く切り立った凹道であったと記されています。・・・・」

そういえば、10年ほど前に豊後街道を歩いた時、大津から先の所が凹道になっていました。

尚、三十六というのは、三十六のお茶屋さんがあったのではなく、ここの地名が三十六だそうです。地名の由来がわかればいいのですが、案内文には書かれていませんでした。

  

案内板がないので少々不安になってきます。果たしてこの道でいいのだろうか・・・・

もうこうなったら聞くのが間違いないと近くで農作業をされている方に聞いたりしました。コースは、ビニールハウスの間を通ります。高速道の上の橋を越えると「山本小学校」に出てきました。

コースは間違っていませんでした。

 

  

山本小学校から下り3号線に合流し、すぐ旧道に入ります。右側には「内空閑(うちこが)城跡」の看板があります。もう疲れているので行ってみる気力がありません。

案内板によると、内空閑氏は「事跡通考系図」によると初代基貞のとき、明徳元年(1390)に伊賀の国から下向したと伝えられており、菊池氏の有力な家臣だった。

その後菊池氏末期の内紛と共に分立し、その滅亡とともに自立して室町から戦国時代にこの一帯を支配していたといわれている。

 

 

豊田川にかかる「平田橋」を過ぎとJA鹿本があります。スイカの出荷場でしょうか?植木は、日本一のスイカの産地です。

  

やっと瑞泉寺(味取観音)に到着しました。境内には、種田山頭火の像があります。

 

像の横には、山頭火の生涯が書かれています。

「種田山頭火は、本名種田正一。明治15年(1882)山口県防府市に生まれた。早稲田大学文科を中退し、父と共に家業に従事したが失敗しこれから流浪の生活が始まった。

熊本に来たのが大正5年(1916)彼が35歳の時だった。酒にひたって家業を顧みず、上京したり、帰熊したり奔放な生活を続けていた。

大正12年(1923)関東大震災に遭い元妻の熊本に逃げ帰るが、酔って路面電車を止め、知り合いの記者に救われ、熊本市内の報恩寺に出家得家して耕畝と改名。

大正14年(1925)味取観音の堂守として読経と句作の独居を続けた。味取観音境内の句碑に刻まれた「松はみな枝垂れて南観世音」の句は当時の作である。

然し、これも永くは続かず一年二ヶ月にして去り、以来放浪生活を送り、昭和15年(1940)11月11日四国松山市の一草庵で波瀾の生涯を閉じた。59歳であった。」

山口県防府市駅前には、山頭火の碑があります。もう10数年前山陽道を歩いた時見つけました。

  

 

時間は13:18分 今日はここまでとします。3号線の味取バス停に行くと、ちょうど山鹿行のバスが来ました。約40分で山鹿バスターミナル到着。

これから、さくら湯に行って今日の疲れを落とします。