よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

ビワイチ徒歩の旅6日目「今津~マキノ」“マキノのメタセコイヤ並木”(高島市マキノ町)

2023-11-29 08:28:39 | 琵琶湖一周徒歩の旅

地元W協会の行事が一段落したので、11/23~11/27まで琵琶湖一周徒歩の旅をしました。

今回も「JR西日本グリーンパス5日間」を使います。この切符はJR西日本の区間だったら5日間乗り放題で重宝しています。

11/23 博多発6:00始発の新幹線で新大阪へ、新大阪から湖西線に乗り換え前回ゴール地「近江今津」に着いたのが10:00。

近江今津駅からスタートします。今回の日程は、今津~彦根までで、途中、マキノのメタセコイヤ並木、湖東三山の紅葉見学をコースに入れています。

23日は、今津~マキノのメタセコイヤ並木まで。

 

 

旧今津村は、往古は都と北国を結ぶ北国街道「西近江路」、若狭と繋がる九里半街道の分岐点にあたり、湖上交通の要衝として栄え、大正時代には「琵琶湖周航の歌」が生まれました。

 

浜通りは、旧今津村の中心地で代官屋敷、御蔵所、問屋、旅籠が建ち並んでいました。全盛期には、問屋10数軒、旅籠8軒ありました。

 

 

九里半街道は、琵琶湖北岸西側の今津港と福井県(若狭国)小浜港を結ぶ中世の商業交通路。若狭街道ともいう。今津から石田川沿いに保坂へ,そこから水坂峠を越え杉山から北川上流に出て

県境を越え熊川に,さらに北川沿いに下って日笠から小浜市に入る。中世には,小浜に集まる若狭の塩や北国の海産物が,この街道を経て湖北の今津や高島に運ばれ,さらに湖上舟運に

よって,湖東の各舟着場および大津港に運ばれ,大津を経て京都へももたらされた。湖北と若狭湾岸を結ぶ道として海津・塩津~敦賀間の七里半越も重要であるが,大永年間(1521‐28)以降,

戦国大名浅井氏がしだいに興起して塩津・海津地方を押さえるに至ったので,その後九里半街道の商況は,より活発になった。

  

先を進みます。

 

 

旧マキノ町との境の湖面には、コハクチョウが6羽いました。これが本当の白鳥の湖ですね。(笑)

 

湖西の松林・・・北はマキノ町西浜のマキノサニービーチ高木浜、南は今津町浜分の今津浜に至る延長5kmの琵琶湖岸には、2000本を超える黒松が並木となり林立、緩やかな曲線を描きながら延々と続く砂浜と相まって、白砂青松の美しい湖岸景観を形成しています。この松林は、人家や田畑の防風林として、あるいは魚類の浜辺への寄り付きが強い風波により防止するための

魚付き林として、明治の末期より地元の人々の手によって植林、保護されてきたもので、人々の生活と密着しながら、厳しい環境の中で育み慈しまれてきたものです。
今では、琵琶湖の景観になくてはならないものとなっている緑濃き秀麗なこの湖岸風景は、1987年(社)日本の松の緑を守る会によって「21世紀に引き継ぎたい日本の白砂青松百選」に

選定されました。(高島市観光ガイドより)

 

 

 

マキノサニービーチには高木浜(北)と知内浜(南)があります。高木浜から知内浜間の約1kmにわたり、なだらかな汀線が松林に青く縁どられて美しい景観を作り出し、昭和62年には

「21世紀に引き継ぎたい日本の白砂青松百選」に選ばれています。また、水の綺麗な水泳キャンプ場としても人気があります。施設も整い環境も良いので、ゆったりと休暇を過ごすのに

最適のリゾート地です。高木浜にはシンボルである「湖のテラス」があり、地上13mの展望台から望む四季折々、自然に彩られた奥琵琶湖の眺望は圧巻です。

 

 

旧マキノ町の町名は、マキノ高原スキー場(旧西庄村牧野)から付けられたものです。当時、カタカナの町名は珍しかったそうです。

マキノ駅前の食堂で軽く腹ごしらえをしていよいよ、「マキノのメタセコイヤ並木」に向かいます。

マキノ駅からメタセコイヤ並木まで約4km。駅前には、バスに乗る人の行列ができていますが、私も一応ウォーカーの一人です。歩いて向かいます。

 

 

 

マキノのメタセコイヤ並木・・・・農業公園マキノピックランドを縦貫する県道小荒路牧野沢線には、延長約2.4kmにわたりメタセコイアが約500本植えられ、遠景となる野坂山地の山々とも

調和し、マキノ高原へのアプローチ道として高原らしい景観を形成しています。
この並木は、昭和56年に学童農園「マキノ土に学ぶ里」整備事業の一環としてマキノ町果樹生産組合が植えたのが始まりですが、組合関係者をはじめとする地域の人々の手により慈しまれ、

育まれて、その後さらに県道も協調して植栽され、延長が伸ばされたことから、現在のこの雄大な姿となったものです。メタセコイアは、中国原産、スギ科メタセコイア属の落葉高木で、

和名はアケボノスギ。最大樹高が115mにも及ぶといわれるセコイアにその姿が似ていることから、メタ(変形した)セコイアと名づけられています。春の芽吹き・新緑、夏の深緑、

秋の紅葉、冬の裸樹・雪花と四季折々に訪れる人々を魅了します。平成6年、読売新聞社の「新・日本街路樹百景」に選定され、注目を集めるに至っています。(高島観光ガイドより)

 

  

今日は祭日だからでしょうか、並木には人・車でいっぱいです。

     

帰りも歩いていきます。

 

マキノ駅に到着。ここから湖西線で今日の宿泊地今津に戻ります。

本日のGPS

 

 

 

 

 

 

 

 


楽しいウォーク「唐津市郊外を歩く」(佐賀県唐津市)

2023-11-18 08:01:43 | ふくおかウォーキング協会

11/15(水)ふくおかウォーキング協会の楽しいウォークは、「唐津市郊外を歩く」でした。

集合場所は、JR東唐津駅。唐津駅に車を止め電車で2つ目の東唐津駅に向かいます。

今週末は、「唐津ツーデーマーチ」ですが、駅の構内や観光案内所にそのポスター類が見当たりません。少し盛り上がりが欠けるのかな???

 

9:30スタート。参加者は22名です。(ちょっと遠いから参加者が少ないのかな?)

 

コースは松浦川沿いに歩きます。

 

約30分で「からつボート」に到着。ここで休憩します。

私、唐津ボートなど公営ギャンブルの施設に入るのは初めてです。何か暗いイメージがありましたが、よく掃除も行き届いており、また、キッズルームなどもあります。

  

 

  

  

からつボートで休憩後、再スタート。松浦河畔公園に向かいます。

ここには、桜並木があります。桜の季節の時の散歩もいいでしょうね。

 

 

 

久里橋を渡り春日神社へ

 

春日神社で休憩。

春日神社は、昭和10年代、高尾山の麓養母田の地にて初代宮司・中島ムメノが神祭りを始め、病気平癒などの祈祷を行い崇敬者を集めた。初代宮司は昭和20年代を通して伊勢参りを重ね、

昭和30年3月29日に天照坐皇大御神荒御魂(あまてらしますすめおおみかみのあらみたま)の御分霊をいただき、合祀祭(祭神を合わせ祀る神事)が斎行された。以後多くの参詣人が訪れ、

昭和59年9月29日には現在の御本殿に祭神をお移しする遷座祭が斎行された。 平成27年3月29日には、荒御魂大神合祀六十年祭が斎行され60年前と同様に大々的な神輿渡御の神事が行われた。

 

春日神社から唐津市街地に向かいます。

 

町田(ちょうだ)郵便局の所から右折。ここが御茶盌窯通です。

お茶盌窯通りは唐津焼の中里太郎右衛門陶房や旧唐津藩の御用窯跡などがあります。道路は13代中里太郎右衛門が描いた絵唐津が随所に敷きつめられています。

 

 

「肥前陶器窯跡」御茶盌窯史跡に行きます。ここで焼かれたものを「献上唐津」と呼ばれています。

  

御茶盌窯跡から中里太郎右衛門窯に向かいます。

 

残念ながら水曜日は定休日になっており、下見の時に写真を撮っておりましたのでそれを紹介します。

 

  

どれも素晴らしい作品です。

 

 

御茶盌窯からゴールの唐津駅に向かいます。

12:23 唐津駅にゴール!

 

 

 

 

 


11月例会「裂田(さくた)の溝(うなで)を散策」(福岡県那珂川市)

2023-11-13 17:37:32 | ふくおかウォーキング協会

11/4(土)ふくおかウォーキング協会11月例会は、「裂田(さくた)の溝(うなで)」を散策」でした。

裂田の溝という名前は、読みにくいですね。少し説明します。

裂田の溝」とは、養老4年(720年)に成立した『日本書紀』の神功皇后紀に記された人工用水路で、那珂川から取水して山裾を流れる溝の総延長は約5.5kmに及びます。

大きく張り出す台地を貫いて溝を掘り抜くなど一大土木事業といえます。開削時期は明確ではないのですが、奈良時代以前に開削されたのは確かで、国際交流の地であった筑紫の発展を

支え続けました。中世以降も溝の改修が続けられ、水田地帯の脇を流れる水辺の風景は今なお当時の名残をとどめています。

裂田の溝の名前の由来については、『日本書紀』の記述によるとこの溝を掘っている時迩驚岡(とどろきのおか。現在の那珂川市安徳台)の辺りで大きな岩に突き当たり工事が一時中断した。

そこで神功皇后が武内宿禰に命じて天神地祇を祀り祈りを捧げたところ雷が落ちて岩が裂けたため再び工事を行うことができた、との事から「裂田の溝」と呼ばれるようになったという。現在その場所には裂田神社という神社が祀られており、落雷によって裂けたという岩も現存する。

 

集合場所は、JR博多南駅。(新幹線博多南線)9:30スタート

 

コースは、博多南駅スタート~かわせみ公園~遊歩道~那珂川~一の井出~裂田溝公園~新幹線車両基地~博多南駅ゴールの約10km。

 

カワセミ公園に着きました。

 

ここに裂田溝の説明文があります。

  

裂田溝は、遊歩道になっていて誰でも気軽に行けます。カワセミも時々来るそうでこの日も待っていましたが、残念ながら来ませんでした。(写真は他の場所で撮ったものです)

 

 

裂田神社の所に来ました。伝説では、このあたりの大岩が雷によって裂けたそうです。その地に「裂田神社」が祀られています。

 

 

 

裂田溝は、結構長い水路です。また、地元の人の手入れがいいのか、水も綺麗です。

神功皇后御立石は、工事が進んできたときこの石の上に立たれ「無事に水を通させ給え」と神に祈りました。

ここでも「神功皇后」の名が出てきます。北部九州と神功皇后は繋がりが深いと思います。

 

  

裂田溝は、この那珂川から取水しています。これを「一の井堰」と呼ぶそうです。

 

 

裂田溝公園で休憩。

 

 

那珂川市内を歩いていると「安徳台」という地名が気になります。この一帯は、魏志倭人伝に出てくる「奴国」の中心部だったという説もあります。

安徳天皇は、壇ノ浦合戦の前に2か月間こちらに滞在していました。安徳台は、壇ノ浦で亡くなられたあと、土地の人が偲んで作られました。

 

 

12:27 博多南駅にゴールしました。

 

 

 

 


やさしいウォーク「香椎・報恩寺の菩提樹と名水(不老水)を訪ねて(福岡市東区)

2023-11-12 13:02:42 | ふくおかウォーキング協会

11/2(木) ふくおかウォーキング協会優しいウォークは、「香椎・報恩寺の菩提樹と名水(不老水)を訪ねて」でした。

集合場所は、千早駅。参加者24人。

 

コースは、千早駅→松崎中央公園→香椎宮→報恩寺→芹田公園→JR香椎駅ゴールの約7km。

松崎中央公園がトイレ休憩。ここでは同世代の方がグランドゴルフを楽しまれています。

 

松崎中央公園から香椎宮へ。ちょうど保育園児の七五三詣りと遭遇。

 

 

香椎宮は仲哀天皇九年(200)、神功皇后躬ら祠を建て、仲哀天皇の神霊を祀給うたのが起源であります。
神功皇后の宮は元正天皇の養老七年(723)に皇后御自身の御神託により、朝廷が九州に詔して社殿の造営を創め聖武天皇の神亀元年(724)に竣工したもので、此の両宮を併せて香椎廟と

称しました。明治以来には官幣大社香椎宮、戦後は香椎宮と称しております。(香椎宮HPより)

 

 

 

香椎宮から報恩寺へ向かいます。

 

報恩寺は、1192年、栄西禅師が創建したお寺です。1190年、栄西禅師が宋・天台山にあった菩提樹を香椎宮に送ったといいます。これが日本に初めて伝来した菩提樹といわれています。

1586年、島津軍 vs 大友軍の戦いにより、伽藍と菩提樹を焼失。その後400年間、観音堂と薬師堂の2堂を残すのみの伽藍でしたが、1930年に聖福寺の塔頭・円覚寺の猷山和尚が伽藍復興を発願して再建したそうです。

 

 

報恩寺から「不老水」に向かいます。

 

不老水」は、

香椎宮境内の裏手にある。上古大和時代の大臣武内宿弥が、第14代仲哀天皇・神功皇后に随ってこの地に滞在の時に掘った井戸。朝夕汲み取り天皇皇后に献上する御飯を調え、

また自らもこれを用いて300歳の長寿を保たれたという由緒ある不老長寿の霊泉である。環境庁「名水百選」認定。

参加したメンバーは、ほとんど70歳以上、皆さん不老水を飲んでおられました。

 

 

このあと、ゴールの香椎駅を目指します。

香椎川では、鴨がまた、亀が甲羅干しをしていました。

  

 

香椎線の鉄橋の下を通り、ゴールのJR香椎駅へ

 

今日のGPS

 

 

 

 


楽しいウォーク「上野(あがの)焼の福智町を散策」(福岡県田川郡福智町)

2023-11-06 06:16:39 | ふくおかウォーキング協会

11/1~11/4までウォーキング三昧です。

11/1(水)  ふくおかウォーキング協会楽しいウォークは、「上野(あがの)焼の福智町を散策」でした。

福智町」は、2006年(平成18)金田町(かなだまち)・方城町・赤池町の3町が合併してできた町です。

福岡市東部から45km、北九州市南部から35kmに位置しています。昔は、三菱方城炭鉱がありました。

町名は、町の北端にある「福智山」から名付けたそうです。

集合は、JR直方駅、ここから平成筑豊鉄道に乗って「赤池駅」に移動します。平成筑豊鉄道は、旧国鉄の伊田線・糸田線・田川線を引き継いで営業しています。

 

赤池駅で2人が合流し合計21人でスタート。

赤池は、童謡と(後で説明)上野(あがの)焼の町です。福智山も近くに見えています。

  

 

 

福智下宮神社に着きました。福智神社は、福智修験の発祥地で白鳳元年(650)に開山。福智山山頂に上宮、中腹に中宮があります。

下宮神社の隣には、童謡作曲家「河村光陽(こうよう)」のことが書かれています。

河村光陽(本名・直則)は、明治30 年8 月23日、福智下宮神社に隣接する生家で産声を上げました。神社に奉納される神楽の音色が、彼のメロディーやリズム感、音楽家としての

原点になっています。光陽は、小倉師範学校を卒業後、音楽教師として金田小学校(福智町)に赴任。やがて音楽家としての夢をあきらめず、パリやモスクワでの音楽研究を視野に

朝鮮へ渡りましたが、社会情勢の悪化で帰国後、上京し、東京音楽学校選科(現東京芸大)で、日本を代表する音楽家から音楽理論等を学びました。
のちに「かもめの水兵さん」「うれしいひなまつり」「グッドバイ」「赤い帽子白い帽子」「仲よし小道」「船頭さん」「りんごのひとりごと」など千余曲を作曲。

故郷の情景を思い浮かべた作曲も多く残されています。主な楽曲は長女・順子の歌唱でレコード発表され、数々のヒットを記録。日本童謡史に一時代を築きました。
昭和21年12月24日、49 歳でこの世を去った河村光陽。子どもたちの息づかいや遊びのリズムを大切にしたその旋律は、いつまでも色あせることなく、今もなお歌い継がれています。

上野焼陶芸館には、河村光陽「カモメの水兵さん」の歌碑があります。

※河村光陽「~うれしい ひなまつり~ 山野さと子・森の木児童合唱団 - YouTube

  

上野焼の窯元が見えてきました。

 

福智町の上野焼陶芸館で休憩。

 

上野焼(あがのやき)は、福岡県田川郡福智町周辺で作られている陶器です。
上野焼の特徴は、茶の道具である「茶陶」として発展したため、軽量で薄作りの格調高い風合いを持つ点です。底にある高台(こうだい)が高く、裾広がりになった撥高台(ばちこうだい)の形をしています。また、緑青釉(ろくしょうゆう)、鉄釉、藁白釉、透明釉など使用する釉薬の種類が多く、一つ一つの器が色彩や肌合い、光沢、模様など多種多様である点も上野焼の特徴の一つと言えます。
上野焼の代表的な釉薬は、酸化銅を使った緑青釉で鮮やかな青色が魅力です。鉄釉を使った陶磁器は赤茶色の光沢のない仕上がりになり、虫喰釉では素地に虫喰のような粒が一様に並んだ個性的な風合いに仕上がります。
それぞれの器が千差万別ながら、入れるものの素晴らしさを引き立てる共通の趣と気高さを誇っています。

1602年(慶長7年)、千利休に茶道を学び茶人として名高い小倉藩主・細川忠興が、李朝から陶工の尊楷(そんかい、のちに上野喜蔵高国と改名)を招いて、豊前国上野に登り窯を築かせたのが始まりと言われています。
細川家の30年という短い統治の間に、上野焼の基礎は確立されました。1632年(寛永9年)、尊楷は細川家の国替えに従い肥後熊本へ移るものの、子の十時孫左衛門らが上野に留まり次の藩主・小笠原家のもと上野焼を継承しています。
江戸時代中期には尊楷が築いた登り窯は、徳川家茶道指南役である小堀遠州(こぼりえんしゅう)に「遠州七窯」のと一つとして称賛されるほどとなり、世に広く知られるようになりました。その後も、尊楷の登り窯は小笠原家が統治する幕末まで歴代藩主の御用窯として重用され続けました明治時代に入ると、廃藩置県により藩が消滅し一時、上野焼は衰退したかと思われましたが、1902年(明治35年)、熊谷九八郎らにより田川郡の補助を受け復興されています。(KOGEI  JAPANより引用)

 

 

 

休憩後再スタート

 

方城物産館「ふくちの郷」でトイレ休憩

 

休憩後再スタート。

「定禅寺」は、通称「藤寺」と呼ばれていて藤の花の名所です。

 

この後、城山横穴群に行く予定でしたが、平筑鉄道の時間が迫っており、寄らずに金田(かなだ)駅にゴールしました。

 

金田は、森鴎外が明治時代宿泊したそうです。

12:00 発の平筑鉄道で直方に戻りました。

  

この日のGPSです。