よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

山陽道(西国街道)を歩く(瀬野~西条)

2013-07-23 22:15:04 | 山陽道(西国街道)を歩く
三連休の3日目(7/15)、前日ゴール地 瀬野駅に8時15分到着。


瀬野駅には、みどり口側にスカイレールがあります。
これは住宅団地「スカイレールみどり坂」の住民のために開発された新交通システムです。
総人口1万人を見込んで1998年8月に開業しました。
  
また瀬野駅には「瀬野機関区跡」も設置されています。
瀬野駅と次の八本松駅間10.6kmは勾配が22.6パーテル(1000m進む間に22.6m上がる)という難所。
従って貨物列車は重くてこの峠を登れないので後ろから別の機関車が押して登っていきます。
鉄道ファンでは「セノハチ」という名称で有名です。今日も私たちの目の前を機関車に後押しされた貨物列車がと通り過ぎていきました。
この峠が「大山峠」今日歩いて登る予定です。
  
駅前の2号線を渡ると旧山陽道があります。
先ずは榎山川に立つ『落合の一里塚』それと「道標」道標には、右 四日市(西条)、左 志和と書いてあります。
  
また、瀬野の町には、鏝絵の家やなめこ壁の旧家が残っています。
 
 
街道は山陽本線と並行しています。途中で踏切を渡り「一貫田宿」に着きます。
一貫田宿は、海田と西条四日市の間の宿として栄えました。
町を通っていると民家の前に「山頭火」の句があります。調べてみますと種田山頭火は昭和8年(1933)9/19~20まで一貫田に滞在し、俳句16句と日記を書いているそうです。
 

一貫田のバス停の近くに交差点があります。ここに道標が建っています。右:熊野跡、呉 左:八本松・西條。
熊野というとナデシコジャパンが国民栄誉賞をもらった時に副賞で贈られた「熊野筆」の産地です。
JR「とくとく広島きっぷ」を買うと熊野のリップ筆がいただけます。帰りにでも広島駅でもらってみよう。
  
町並みを抜けると街道沿いに松が植えられています。標識を見ると山陽道三本松になっています。下には二代目となっていますので植え替えられたのでしょう。


古い橋を超え、鉄橋を近くで見ながら段々峠に近づいてきます。ここでちょっと休憩し藪蚊、ハチ対策に蚊取り線香、マムシ対策にポールを準備します。


※前方の高架橋は、海田からのバイパス工事を行っています。

さて、山陽道(西国街道)の中でも難所の『大山峠』に入ってきます。
この街道を歩かれた先輩たちのブログなどを見ているとこの峠は八本松からの方が登りやすいと書かれていますが、私たちはあえて瀬野の方から
登ることにしました。
 大山峠は、日本書紀崇神天皇(3世紀前半)の条に、西道(にしのみち)のことがあり、これは後の山陽道のことだと云われ、
 若しそうであればこの峠も弥生時代すでにあったことになります。その後、山陽道は京と筑紫大宰府を結ぶ官道となり
 当時の道路区分では大道でこの付近は延喜式にいう大山駅が置かれていました。
 この道は、明治17年(1884)2号国道が新設されるまで国の幹線道路としての役目を果たしました。その間九州へ派遣される防人もこの峠に
 立ってでしょうし元寇の急変を知らせる早馬も駆けすぎて行ったでしょう。また明治維新の志士吉田松陰や高杉晋作らもここを通っていることを
 考えるときその時代時代の見てきた峠です。
 それに多くの人々が詩歌や紀行文を残している峠でもあります。万葉の詠み人知らずの歌もあれば、応安4年(1371)4月九州へ下向の
 今川了俊も軍の先頭に立ちながらものにしを「道ゆきふり」の中の大山峠を越える一文のようなものもある。
 西から上がってくる坂を「代官おろし」と呼ぶが、これは如何なる格式のある人でも駕籠から降りたという難所であったことを意味し
 峠より西10mの大山清水は旅人の喉を潤した名高い清水であった。
 この位置は江戸時代憩亭のあった所であるが平素は村人が旅人に草鞋やいり豆を売っていたという。
                             昭和58年東広島郷土史研究会案内板より
 
※米なら1石、1石五斗 馬に背負わせて運んだという。この馬は「きんつき」(去勢していない)でよく跳ね扱いが難しかったそうです。

  
頂上まで1.1km。約15分かな?お代官さんもここで籠から下りたそうです。

  
博多刀工の流れを汲む大山刀鍛冶初代守安の屋敷とお墓があったそうです。

  
標高340mの大山峠に到着。大山清水では、水が飲めるよう柄杓が用意されています。

  
下りは道幅も広く、下りやすかった。

八本松側の大山峠案内板。

大山峠を下りてくると急ににわか雨が降ってきました。
あわてて民家のガレージの軒先をお借りして雨宿りします。これが峠の途中でなくよかったです。
  
時刻も12時近くなり、雨も小降りになりましたので近くに食堂を探しました。ここでお昼にします。


雨も上がりお腹もいっぱいになりましたので再びスタート。


八本松八十八石仏
明治末期北海道開拓で富を得、八本松駅近くに帰ってきた堀岡熊次郎が中心となって一連の石仏群を建立した。
かつては参勤交代の西国大名も通った旧山陽道も通じていた八本松だが大正末期には人家もまばらな田舎であった。
人の集まるものを作りたいと四国八十八霊所になぞられて四国の各霊場の本尊と同じ如来、菩薩などの石仏を刻み
1番~88番までその順に設置したものである。大正15年に完成した。(八本松八十八石仏の会HPより抜粋)

『妙福寺』
 

『清水川神社』 『須久茂池跡』
  

街道を進みます。
前方にシャープの工場が見えてきました。シャープの運動場の先には大きな池があります。
地図には「池」という目印をしていました。ところがいくら進んでも次の溜池が出てこない。
携帯のナビを使って現在地を調べてみますと、本来左折すべき所を左折せずまっすぐ来ていた。戻ってみようか?と考えますが、もう5kmぐらい進んでいます。
ここには飢坂峠、一里塚などがあったのですが、戻ると帰りの新幹線の時間にも影響しますので、これから西条駅を目指して進んでいきます。
然し通行の方、あるいはご近所の方に聞こうと思っても誰とも会いません。確か西条駅は市街地の中だから大型の小売店があるはずだと思い
大型の小売店の看板の方に向かって歩き出しました。しばらく歩いていると寺家の交差点に出てきました。この奥が山陽道です。
 
 

西条といえば酒処ですね。
駅前の通りには「酒蔵通り」といって8軒の酒蔵があります。今や伏見、灘と並び日本三大銘醸酒に数えられます。(福岡の酒は4番目かな?)
その歴史は1650年ごろと言われています。西条は250m~300mの盆地にあり、仕込みの時の気温が4~5度、また龍王山からの伏流水が美酒の要因になっています。
また、各酒蔵には仕込み水の試飲もできます。

 
 


もう少し酒蔵を廻ってみたかったのですが、帰りの新幹線の時間もあり今回はここでゴールとします。
15時15分JR西条駅ゴール。

※西条駅は工事中でした。
次回は9月の連休を予定しています。今度は頑張って尾道まで行きたいですね。

7/15のGPSです。



7/13~7/153日間の歩いたコース
















 

山陽道(西国街道)を歩く(西広島~瀬野)

2013-07-21 22:39:50 | 山陽道(西国街道)を歩く
7/14 広島駅からJRで昨日のゴール地西広島駅へ。西広島駅8時10分着。
天気は曇りで昨日よりは歩きやすい感じです。
西広島は、広島市西区の中心で昔は「己斐(こい)」と呼ばれていました。
   
太田川の橋の手前に「瀧の観音への道標」があります。ちょっとわかりにくいですが、近所の方に聞いて探し出しました。
安芸高田の方の茶臼山山麓に渓流がありそこに観音様が祀られています。

太田川を渡りしばらく歩くと『天満宮』があります。
   
 
天満宮は、昭和20年8月6日、原子爆弾によって社殿が灰になりましたが宮司・御神霊を天満小学校の防空壕に移し同年9月仮殿を設けて御神霊を奉斎祭祀を続けました。
天満宮の入り口には山陽道の道標。西、己斐、宮島口  東、土橋、平和公園と書かれています。

更に先を歩いていますと右側に『頼山陽煎餅』という看板がありました。
頼山陽は、大阪で生まれ父と共に広島に移りました。頼山陽が広島には煎餅屋さんがないから作ったらどうかということで造られたそうです。
明治44年創業ですので100年以上の歴史を持っています。残念なことに日曜日でしょうかお店は閉まっていました。

本川橋を渡ると平和公園に入っていきます。
平和公園付近は昔中島地区と言って江戸時代から陸海の交通の要衡として栄えていました。明治になると市庁舎、県庁車などが建ち
広島の政治経済の中心でした。
それが68年前の昭和20年8月6日午前8時15分 人類史上初めて投下された原子爆弾がこの地を襲いました。
   
 
     
今度の参議院選挙では憲法改正も争点になっています。戦後68年も経っていますので現状にはそぐわないという感もしますが、やはりこういった悲惨な戦争はもうこりごりです。
改めて「ノー モア ヒロシマ、ナガサキ」と叫びたいです。

元安橋を渡ると『広島市道路元標』が建っています。この辺りに高札所がありました。
  

街道は「本通り」に入ってきました。
この辺りが広島一の繁華街です。 
  

京橋、猿猴橋(えんこうばし)を通ります。
京橋とは京都へ向かう橋ということでその名がつきました。
猿猴橋は昔猿に似たkk河童のような怪物が洪水のたびに人々を川に引きずりこむ猿猴が住んでいる川として名づけられました。
大正15年(1926)完成しました。

 

JRの踏切を渡ると東区に入ってきます。

地名に愛宕がついている『愛宕神社
延宝年間(1673~1681)この一帯にたびたび起こった大火の厄災この災禍を除くため京都愛宕神の分霊をお祀りして
愛宕堂を建設しました。神霊は火産霊神(一名迦具土命)で火の神、火伏の神です。
 

二葉の里に入ってきました。
ここにも街道松がありました。
文禄2年(1593)秀吉が九州名護屋から大阪に帰る途中、広島に立ち寄った際、この道端の左右に並木松を植えさせたという伝説があり
古株3本残っていたのでいつのころともなくこの地を「三本松」と呼ばれるようになったそうです。
 

街道は安芸郡府中を過ぎまた広島市安芸区に入ってきました。
船越では、旧街道ですが道幅が狭い上に車の通行が多く、車の離合もままならない状態です。したがって車が来ると民家に庭先を借り
避難しています。
  

『海田市宿』に入ってきました。


 海田は古来交通の要衝であった.。大化の改新ごろ「乞浦」と称し後に「開田」と呼ばれるようになる。
安元二年(1176)開田荘として文献に登場する。瀬野川の渓口集落であった開田は東に海に面して土地が開かれ
「海田」と呼ばれるようになった。
海田は古くから交通の要所であり西条四日市、廿日市と並んで「市」が開かれ海田市と呼ばれ今日の安芸郡の
政治経済の中心として発展した。
江戸幕府三代将軍家光は五街道と脇街道を設置した。五街道は江戸を起点とした重要街道で山陽道は脇街道に。
その時海田市は西条四日市と広島城下を結ぶ宿駅人馬継立所となり参勤交代、長崎奉行所代官の往来の拠点となった。
元禄12年(1699)熊野神社両側に本陣、高札場、食事処、旅籠、小売商など宿場町としての体裁が整った。
   
  
 
  
 

 

時間も12時を過ぎお腹も減ってきたので役場近くの食堂で食事タイム。
暑いので冷やし中華と餃子を注文。これが結構おいしい。

しばらく休養の後再び出発。
海田にも街道松がありましたが今はもう枯れてありませんでした。
 
海田市の町はずれに「海田ふるさと館」がありました。
このふるさと館の後ろには竪穴住居があります。
海田には竪穴住居ではなく横穴住居が主だったそうです。町には畝観音免古墳、西谷古墳が発掘されているそうです。
 

ちょっと空模様が怪しくなってきました。
雨がポツリポツリと降ってきました。
『出迎えの松』というのがあります。NHK街道てくてく旅で原田早穂さんが歓迎をうけた所です。
 

JR安芸中野駅に着きました。瀬野駅まであと2駅。

ここには蓮華寺登山口の看板が建っています。
 
中野駅界隈は、鏝絵などの旧家が現存しています。
 

 
15時55分瀬野駅ゴール



今日のGPSです。








山陽道(西国街道)を歩く「宮内串戸〜西広島」

2013-07-20 07:02:05 | 山陽道(西国街道)を歩く
7/13から3日間、JR「とくとく広島きっぷ」を使って山陽道(西国街道)を歩きました。

7/13 6:29博多駅発新幹線で一路広島へ。広島7:36着
それから前回ゴール地山陽本線「宮内串戸駅」へ。宮内串戸駅には8:30到着。
今日は、広島市内は非常に暑く、今日の出立は、麦藁帽、サングラス、首にはクールタイをつけています。

宮内串戸駅から30分ぐらい歩くと廿日市市街に入ってきます。
中世以来厳島神社の造営、修理と西中国山地産の木材の集積を基盤とした木材産業の町で廿日市本陣を中心に発展しました。

廿日市宿は、下関から20番目の宿場町です。本陣は寛文期に設けられ中世より鋳物師として活躍した山田家によって代々経営されていましたが、
慶応2年(1866)長州の役で焼失しました。町は最近住宅地として急速に発展しましたがその中でもまだ昔ながらの旧家が残っています。

  
町の商店街を覗くと面白いものがありました。
お盆の飾りでしょうか、私の住んでいる所にはない飾りです。

町の中央には「廿日市天満宮」があります。境内は山の上の方です。まだ歩き出したばかりなので117段の階段を昇っていきます。
廿日市天満宮は、1220年厳島神社の神主として鎌倉幕府に任命され桜尾城に入った藤原親実が1233年に守護神として
鎌倉の天神様を勧請したのが始まりです。頂上には篠尾城跡、淡島神社などがあります。
また、この境内からの眺めは素晴らしくパノラマで撮ってみました。
    


『廿日市の街道松』
西国街道には1里ごとに一里塚松があり道の両側に3間(6m)ごとに街道松が植えられていました。
佐方中橋から桂公園まで文化2年(1819)には68本の松並木があったと記録されていますが、現在廿日市市内ではわずかにこの1本だけとなりました。
  
海老(かいろう)大橋を渡ると広島市佐伯区五日市町に入ります。
先ほどの町が廿日市で今度は五日市、またこの先西条は昔四日市と呼ばれていました。二日市というのもあったような気がします。
広島は「市」がつく町が多いですね。
  
『五日市の街道松』
五日市でも街道松がありました。
  

『五つ神社』
祭神は言代主神、墨江三前大神、宇迦御魂神、火之迦具土神、菅原大神の五柱で「えびすさん」として親しまれています。
伝説では菅原道真が大宰府に流される途中現在の殿山に船を寄せてしばらく休息し、その時持っていた梅の実を自分で植え
その後成長して多くの実を結んだといわれています。
祭神が五つあることから社名となり五日市の出自となったといわれています。
  
『光禅寺誓いの松』
延宝年間(1673~1681)当寺を訪れた備後国殿河内村の住人の石井兄弟は厳島仁王門での仇討ちを光禅寺寺僧の大忍に伝えました。
大忍はそれを意気に感じ自ら手助けして見事に成功させました。当寺の出立の時兄弟は戦勝の誓いを込めて山門前に黒松を植えました。
それが樹齢350年のこの松で後に人たちは功績をたたえて石井兄弟誓いの松と呼びました。

また、この光禅寺の傍らには、原爆慰霊碑があります。
七尾中学校吉野教諭によるデザインは人間が合掌した手を表しています。
  
街道は五日市の町を抜け「井口」に入ってきました。
時間は10時過ぎ今日は太陽の照り返しで非常に暑いです。お茶やポカリスエット、それに冷凍のペットボトルを飲み干しコンビニを見つけると
飲料水を調達します。時にはこんなものも。
 

『餓鬼の首地蔵』
昔、このあたりは一面海だった。ある時船が暴風雨に遭い船頭が亡くなった。その家族が供養のために洞穴を掘りお地蔵さんを祀った。
その場所が餓鬼の首と言われていたので餓鬼の首地蔵と呼ばれ海の安全を願うお地蔵さんだった。
 

『塩釜神社』
塩釜神社は、塩椎神(しおのつちがみ)が祀られている。塩椎神について「古事記」では塩椎神、「日本書紀」では塩土老翁、塩筒老翁と記されている。
「塩」は「潮」のことで潮流を司る神、海路の神、航海の神といわれ海に関した神で海幸彦、山幸彦という兄弟の神の物語にも登場する神である。
瀬戸内海では主として製塩の神として信仰されていた。当神社での創建の時期は定かではないが寛文4年(1664)作成とみられる井口之図には塩釜明神として記載されている。
西国街道の時代、浜で製塩や漁業に従事する人たちが良い塩の出来上がり、航海の安全を、旅人も旅路の安全を祈願崇拝していた。
                                           (ふるさと井口の歴史より)
 

『首なし地蔵』
現在の井口小学校正門近くにあります。案内板によると
その昔、正順寺の裏側を通っていた西国街道の峠からは真下に小己斐明神が見え安芸の小富士(似島)、宮の島(宮島)がくっきりと海に浮かぶ
素晴らしい風景が展望できた。
一里塚傍らの道端に小さな地蔵が安置されていた。伝承によると、ある時そこを通りかかった3人の武士の一人がその地蔵を見て「この地蔵の首を
斬ってみようか」と言ったところ連れの二人が「硬い首が斬れるわけない。地蔵を傷つけたら罰が当たるぞ」と押し止めたが聞こうともせず
首を切り落とした。と同時に斬った武士もバッタリ倒れた。よく見ると折れた刀の先が首先に突き刺さっていた。
それからは誰ともなく首なし地蔵といわれるようになった。
 
このあたりは海岸の埋め立てが進み昔の面影が残っていません。


『井口港跡』
 

旧街道は、JAの横から入っていきます。
  
  
JR新井口駅、広電商工センター前に出てきました。
街道は新井口駅からJRに沿って行くのですが、新井口駅前には大きなショッピングセンターができています。
ちょっと涼を求めて探索することにします。

アイスコーヒーなどで涼をとったあと新井口駅に戻り街道歩きのスタートです。
JR草津の踏切を渡ると「草津」に入ってきます。

   

『西氏公徳碑』
西氏は代々医者で三次藩の侍医でもあった。漢方医、蘭医としての名医であったばかりでなく慈善家でもあり、草津の牡蠣養殖や
牡蠣舟の育ての親とも言われている。また代々書き残された医学書や薬学書は二百余編、七百冊ともいわれ、これら西医学書を
永久に保存しその散逸を防ぎ広く後世医学研究者の資料に供する目的で昭和八年財団法人西医学研究所が設立され保管されている。
 

広電の踏切を渡ると左側に大きな旧家が見えてきます。
これが『小泉酒造』。あまり大きいのでパノラマで撮りました。

  
小泉酒造は天保年間から酒造を始めて、ここで造られた神酒は厳島神社に献上されています。
屋根の上には「煙り出し」があります。大屋根に軒が引っ付いており、また軒が長く低い造りになっています。
正面が入り口になっており正面の左右は格子の大きさが違う格子戸で造られています。
明治18年には明治天皇行幸の時の休憩所に利用されました。
何か記念にと「宮島街道」を買いました。

時間はもうすぐ2時。今日の予定は広島駅までですが、こう暑いと歩く速度が遅くなってしまいます。
熱中症予防のためにこまめに給水をとっていますが、飲むとすぐ汗になってしまいます。

街道を歩いていると「被爆建物」という看板を目にしました。ここは『鷺森神社』。被爆地から4.93kmの地点だそうです。
神社の由緒を見てみると
當社は天徳年間(957-960)に勧請されたと伝えられており、爾来一千年余の歴史を有する御社である。
往古、この一帯は海辺であり、西方から延びる半島(城山)と背面の力箭山(通称行者山)に抱かれた湾内の東端に在り、漁船の船着場として栄え、
海人(うみんど)達は日頃尊敬する市杵島姫命をお祀りする、鷺森神社を建て御祭神が女神なるがゆえに、弁天社と呼称し豊漁と海上の守護を祈願した。
近世、干拓が進むに伴ない内陸の神社となり漁業との関わりはなくなったが、現在は町内鎮守社の一つとして、草津東町を中心に広く篤く崇敬が寄せられている。
                                                         (境内由緒書き)
 

『海蔵寺』
  

『草津八幡宮』
古来、この草津、古江の地は深い入江であって天然の良港をなし、神武天皇、神功皇后の伝説を多く残している。社伝によれば、
推古天皇御宇(五九三-六二八)宮島の厳島神社とほぼ同じくして、この入江の奥に多紀理姫命を海路の守護神として祭ったのが当神社の創祀という。
八幡神の奉斎の時期については、諸説が社伝として残り定かではないが、鎌倉時代に武蔵国渋谷郷(現、東京都渋谷区)から当地に所領を得て来住した
社家始祖(右衛門大夫または右京大夫と伝える)が宇佐八幡宮より勧請し、古くより当地に祀られていた「多紀理の宮」と合祀して八幡宮を創建し、
後に力箭八幡宮と称したと言われる。また一説によると、宇佐八幡宮の社人、宇佐彦が土佐に赴き、七代目の渋谷右衛門大夫という者が当地に来り、
宇佐八幡宮より金交石の御分霊を戴き、これを宇佐来山麓に勧請したとも伝えられる。その後、大永四年(一五二四)するに修造。
なお、往古は当社の崇敬範囲は己斐より廿日市に至る沿岸部一帯に及んでいたという。昭和六年、近郷六箇村の氏子により境内地の造成と共に総ての社殿が再建造営された。
相殿神の宗像三女神の内、市寸島姫命と湍津姫命は明治二十五年厳島神社より御分霊を神馬にお乗せして正式に勧請され、
素盞嗚神、倉稲魂神、金刀比羅神は明治末期神社統廃合の折、合祀されたものである。あお、古くは社殿は海浜の近くにあったと伝えられるが、
再建の度に高所へ遷され、現在では力箭山の中腹に鎮座している(神社HPより)


『幸神社と大銀杏』
  

『慈光寺』
  

街道は「古江」に入ってきました。
ここでも旧家が残っています。
また左側には大きな建物が・・・・・・ここは「上田宗箇流」といって茶道の家元です。芸州浅野家の家老であった上田家に伝わる武家茶道の流派です。
  

時刻は3時を過ぎました。今日は広島駅まで歩く予定でしたが、この暑さのため少々ばて気味です。
地図を見ると1km先に「西広島駅」があります。
今日はそこまでにします。

『別れの茶屋』
広島城下から約1里。見送りの人もここまで送ってきて別れを惜しんだという。


15時20分西広島駅到着。

今日のGPS















2013 博多山笠が始まりました

2013-07-01 19:48:02 | お祭り
今日から7月。
7月というと当地博多では「博多祇園山笠」が始まりました。
街には、水法被を着た人が目につきます。
  
今日からは市内各地で「飾り山笠」が飾られました。
今年の題目は、来年のNHK大河ドラマが「官兵衛」ですので官兵衛ゆかりの人形が多いです。
市内には14箇所の飾り山笠がありますが、今日は5箇所を廻りました。

中州流れ
  


博多リバレン
  

上川端通り
  
※15日の追い山にはこの飾り山笠が市内を走ります。

天神一丁目
  

渡辺通り
  

飾り山笠は、博多の総鎮守「櫛田神社」を向いている方が「表」、裏側が「見送り」と呼んでいます。
10日からは、舁き山が市内を走りだします。