東海道(京都~日本橋)ついにゴールへ!!
12/19(水)2016年3月から歩き始めた「東海道道草の旅」も今日が最終回です。
今日は、15時に日本橋ゴールを予定しています。日本橋まであと7km。ちょっと時間がありますので昨日行けなかった「川崎大師」に行ってきます。
品川より京急で川崎へ。川崎から大師線に乗り川崎大師へ。昨日六郷橋から富士山が見えませんでしたが、今日はビルとビルの間から富士山が見えました。
川崎大師は、真言宗智山派の大本山。詳しくは金剛山金乗院平間寺と称するが、厄除弘法大師、川崎大師で親しまれている。成田山新勝寺、高尾山薬王院とともに智山派の関東三大本山の一つ。
大治年間(1126~1131)、平間兼豊(ひらまかねとよ)・兼乗(かねのり)父子の武士が、諸国流浪のすえ川崎の地に住み着き漁業をなりわいとしていたが、あるとき海中より1体の木像(弘法大師像)を
引き揚げた。兼乗は当年42歳の厄年であったので、その像を日夜懇ろに供養し、厄除けを祈願した。そのころ高野山の尊賢上人が諸国遊化の途上たまたま兼乗のもとに立ち寄り、
尊像の霊験奇瑞に感動し、兼乗と力をあわせて1128年(大治3)一寺を建立したのが当寺の開創で、兼乗の姓平間をもって平間寺(へいけんじ)と号し、本尊を厄除弘法大師と称するようになった。
中世には兵火にかかり衰えたが、江戸初期には六郷宝幢院末寺となり、1648年(慶安1)幕府より朱印6石を寄せられた。明和・安永年間(1764~1781)隆範、隆盛らが相次いで諸堂を修造して興隆
このころ将軍徳川家斉(いえなり)の参詣を得て寺運栄え、広く庶民に信仰されるに至った。1805年(文化2)宝幢院を離れ、醍醐三宝院直末(じきまつ)となる。
1879年(明治12)三宝院を離れ京都智積院(ちしゃくいん)直末、1898年に別格本山となり、1958年(昭和33)大本山に昇格した。1945年戦災で諸堂宇を焼失したが、戦後復興に努め、
1964年に不動堂および本堂を落慶。さらに、中書院、交通安全祈祷殿、信徒会館、大山門、八角五重塔を建立し、伽藍の偉容を一新した。
年中行事は、元朝大護摩供、節分会、本尊弘法大師降誕奉祝会など数多い。縁日の21日はことに参詣者が多い。寺宝に、川崎市重要歴史記念物に指定される絹本着色の毘沙門天像、
文殊菩薩像、不動明王像、愛染明王像、弘法大師像などがある。(コトバンクより)
初詣にはたくさんの参拝者が来るので有名です。もうお正月のしめ縄などの飾り付けが準備されていました。川崎大師の名物は「久寿餅」です。早速参道でいただきました。@400
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川崎大師から昨日のゴール、品川駅に向かいます。10:30品川駅スタート。日本橋まであと7km。
品川駅から港区になります。高輪海岸の石垣石があります。江戸時代高輪海岸に沿って造られた石垣に用いられたものです。という案内板が。
高輪という地名は、海より眺めて高台の縄手道から「高縄手」と称されていましたが、転じて高縄から高輪となりました。古くから海沿いに人家が点在していましたが、江戸時代幕府が参勤交代の為に
東海道を整備しこれにより街道沿いに町が広がりました。東都名所図会でも海沿いの町として描かれています。
山手線では新駅の建設が行われています。先ほど新駅の名称が発表されました。「高輪ゲートウェイ駅」です。
泉岳寺に着きました。先週の14日には赤穂浪士の「義士祭」が行われました。泉岳寺は、曹洞宗の寺。万松山と号する。本尊は釈迦如来。1612年(慶長17)下野(しもつけ)国(栃木県)
大中寺の門庵宗関が徳川家康の帰依を受けて外桜田の地に創建したが、火災にあい、1641年(寛永18)現在の地に移った。1677年(延宝5)橋場(台東区)の総泉寺、愛宕(港区)の青松寺とともに
曹洞宗江戸三か寺触頭となった。播州(兵庫県)赤穂浅野家の菩提所で、1701年(元禄14)浅野長矩(ながのり)が切腹すると、この寺に葬られ、03年大石良雄ら赤穂浪士が切腹して同じくこの寺に
埋葬された。寺内の玉垣の中に浅野長矩、同夫人瑤泉院の墓があり、南の丘に四十七士の墓がある。(コトバンクより)
義士の墓に行ってみると、14日の義士祭からまだあまり日にちが経ってないせいか、墓所には線香の香りと花が活けられていました。
高輪大木戸です。山手線の新駅の名前もこの大木戸から採用したのでしょうか?
昔は、この一帯「牛町」(現在の高輪2丁目)は、牛車を利用した輸送業者の町でした。江戸幕府の御用を勤め、諸問屋の荷物輸送を行うなど、最盛期には600頭を超える牛が飼われていました。
御田八幡神社、札の辻を通ります。時間は12時ですので歩道には、昼食をとる人で多くなりました。
三菱自動車の前に、「西郷隆盛・勝海舟会見の碑」があります。この辺りにあった薩摩藩邸で会見し、江戸城無血開城の交渉を行いました。今年の大河ドラマでもこのシーンがありましたね。
古川に架かる金杉橋を過ぎます。川には、屋台船が停泊しています。
大門の信号から左折します。増上寺です。増上寺は、浄土宗の大本山。関東十八檀林の筆頭。山号は、三縁山。もと光明寺と称する真言宗寺院で、今の千代田区紀尾井町にありましたが、
1393年(明徳4)聖聡が浄土宗に改め、増上寺と称し、1598年(慶長3)家康が徳川家菩提所と定めて現在地に移しました。以後寛永寺と並ぶ江戸の大寺となり、全浄土宗の諸寺を管しました。
芝大明神:平安時代寛弘二年に創建、古くは芝神明と称したが明治五年正式に官許され芝大神宮に改称す。祭礼は期間の長さから(11日〜21日)「芝神明だらだら祭り」として知られ、
生姜市、甘酒茶屋で有名、授与品には「千木筥(ばこ)」がある。これは東京の郷土玩具としても知られている。江戸時代境内でおきた、め組鳶と角力とのいさかいは「め組の喧嘩」として
再三歌舞伎で上演せられ、その半鐘は今でも宝物として当宮に保存されている。
歩いていると歩友の「あすかさん」から新橋駅SL広場で待っているとの連絡があり、新橋駅に向かいます。
あすかさんとは、2年ぶりの再会でしょうか、以前は赤羽駅でお会いしました。ここからは、あすかさんの案内で歩きます。
新橋駅から汐留跡(新橋停車場)に向かいます。明治5年(1872)、日本初の鉄道は新橋駅を起点に横浜駅までの区間が開業しました。その後、東京駅の開業に伴い烏森駅が新橋駅と改称し、
元の新橋駅は貨物専用の汐留駅となりましたが、昭和61年、貨物駅の廃止に伴い歴史に幕を閉じました。平成3年度から12年度に実施された汐留地区の再開発に伴う発掘調査により、
日本最初の鉄道駅としての全貌が明らかになりました。ホームや駅舎の基礎のほか、お雇い外国人の宿舎の跡なども発掘され、西洋皿や洋酒ビン、切符や汽車土瓶など鉄道に関連した様々なものが
出土しました。現在は、ホームや駅舎の基礎などを保存して、一部が観察できるようにしてあります。また上屋として開業当時の建物を復元しています。建物内には「鉄道歴史展示室」が併設され、
発掘調査による出土資料や絵図面などにより、当時の様子を知ることができます。
館内は撮影禁止でした。屋外に行くと、当時のプラットホームやレール、0哩の標示が残っていました。
再び街道に合流します。旧新橋の親柱の所には、「銀座の柳の碑」があります。 昔恋しい銀座の柳~~
銀座は、1612年(慶長17年)、幕府が駿府(すんぷ)(静岡県)の銀貨鋳造所(銀座)を、当時は「新両替町」であったこの地に移転したことで「銀座町」と呼ばれるようになった。
1800年(寛政12年)、座人による不祥事で銀座は日本橋の「蛎殻町(かきがらちょう)」に移転されたが、「銀座」の名前は地名として定着し、現在に至る。
銀座は1丁目から8丁目までですが、私が子供の頃、神戸一郎さんが歌った「銀座9丁目は水の上」という歌がありました。この歌が流行った昭和30年代には、銀座と新橋の間が川になっていて
屋形船がありました。その屋形船から見る銀座の風景が綺麗でしたのでこのような歌ができたのではないでしょうか?
然し、東京に関する歌はたくさんありますね。「東京の灯よいつまでも」、「東京の人」、「東京ララバイ」、「東京だよおっかさん」、マイペースの「東京」・・・・・・・
日本橋から京に向かって最初の橋が「京橋」。現在は、埋め立てられています。「江戸歌舞伎発祥の地」は、寛永元年(1624)に初代中村勘三郎が興行した場所です。
京橋大根河岸跡は、寛文4年(1664年)に水運のよい京橋川に野菜の売り場が設けられ、昭和10年(1935年)に築地に市場が移されるまで、庶民の台所を支える青物市場として栄えました。
冬になると10本まとめにしたたくさんの大根が舟から下ろされ、まるで大根の花が咲いたようだったため、大根河岸といわれたといいます。
14:50 日本橋にゴールしました。
日本橋では、旧SNSの仲間、歩友、ブログ友など多くの方のお出迎えを受けました。
17:00からは、半蔵門ふくおか会館の「福扇華」で打ち上げ会。開店から閉店時間まで4時間以上大いに盛り上がりました。
この東海道は、2016年3月にスタートし2018年12月に32日間でゴールしました。
これで2010年6月に長崎・出島を出発して約8年半かけて日本橋に着きました。道中、たくさんの方にお世話になりました。厚くお礼申し上げます。
次回もまだ決めていませんが、どこかの街道に挑戦したいです。