よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

東海道道草ウォーク№46「品川宿~日本橋」ついにゴールへ!(東京都港区~中央区)

2018-12-26 21:29:00 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

東海道(京都~日本橋)ついにゴールへ!!

12/19(水)2016年3月から歩き始めた「東海道道草の旅」も今日が最終回です。

今日は、15時に日本橋ゴールを予定しています。日本橋まであと7km。ちょっと時間がありますので昨日行けなかった「川崎大師」に行ってきます。

品川より京急で川崎へ。川崎から大師線に乗り川崎大師へ。昨日六郷橋から富士山が見えませんでしたが、今日はビルとビルの間から富士山が見えました。

 

川崎大師は、真言宗智山派の大本山。詳しくは金剛山金乗院平間寺と称するが、厄除弘法大師、川崎大師で親しまれている。成田山新勝寺、高尾山薬王院とともに智山派の関東三大本山の一つ。

大治年間(1126~1131)、平間兼豊(ひらまかねとよ)・兼乗(かねのり)父子の武士が、諸国流浪のすえ川崎の地に住み着き漁業をなりわいとしていたが、あるとき海中より1体の木像(弘法大師像)を

引き揚げた。兼乗は当年42歳の厄年であったので、その像を日夜懇ろに供養し、厄除けを祈願した。そのころ高野山の尊賢上人が諸国遊化の途上たまたま兼乗のもとに立ち寄り、

尊像の霊験奇瑞に感動し、兼乗と力をあわせて1128年(大治3)一寺を建立したのが当寺の開創で、兼乗の姓平間をもって平間寺(へいけんじ)と号し、本尊を厄除弘法大師と称するようになった。

中世には兵火にかかり衰えたが、江戸初期には六郷宝幢院末寺となり、1648年(慶安1)幕府より朱印6石を寄せられた。明和・安永年間(1764~1781)隆範、隆盛らが相次いで諸堂を修造して興隆

このころ将軍徳川家斉(いえなり)の参詣を得て寺運栄え、広く庶民に信仰されるに至った。1805年(文化2)宝幢院を離れ、醍醐三宝院直末(じきまつ)となる。

1879年(明治12)三宝院を離れ京都智積院(ちしゃくいん)直末、1898年に別格本山となり、1958年(昭和33)大本山に昇格した。1945年戦災で諸堂宇を焼失したが、戦後復興に努め、

1964年に不動堂および本堂を落慶。さらに、中書院、交通安全祈祷殿、信徒会館、大山門、八角五重塔を建立し、伽藍の偉容を一新した。

年中行事は、元朝大護摩供、節分会、本尊弘法大師降誕奉祝会など数多い。縁日の21日はことに参詣者が多い。寺宝に、川崎市重要歴史記念物に指定される絹本着色の毘沙門天像、

文殊菩薩像、不動明王像、愛染明王像、弘法大師像などがある。(コトバンクより)

 

初詣にはたくさんの参拝者が来るので有名です。もうお正月のしめ縄などの飾り付けが準備されていました。川崎大師の名物は「久寿餅」です。早速参道でいただきました。@400

  

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川崎大師から昨日のゴール、品川駅に向かいます。10:30品川駅スタート日本橋まであと7km。

  

品川駅から港区になります。高輪海岸の石垣石があります。江戸時代高輪海岸に沿って造られた石垣に用いられたものです。という案内板が。

高輪という地名は、海より眺めて高台の縄手道から「高縄手」と称されていましたが、転じて高縄から高輪となりました。古くから海沿いに人家が点在していましたが、江戸時代幕府が参勤交代の為に

東海道を整備しこれにより街道沿いに町が広がりました。東都名所図会でも海沿いの町として描かれています。

   

山手線では新駅の建設が行われています。先ほど新駅の名称が発表されました。「高輪ゲートウェイ駅」です。

 

泉岳寺に着きました。先週の14日には赤穂浪士の「義士祭」が行われました。泉岳寺は、曹洞宗の寺。万松山と号する。本尊は釈迦如来。1612年(慶長17)下野(しもつけ)国(栃木県)

大中寺の門庵宗関が徳川家康の帰依を受けて外桜田の地に創建したが、火災にあい、1641年(寛永18)現在の地に移った。1677年(延宝5)橋場(台東区)の総泉寺、愛宕(港区)の青松寺とともに

曹洞宗江戸三か寺触頭となった。播州(兵庫県)赤穂浅野家の菩提所で、1701年(元禄14)浅野長矩(ながのり)が切腹すると、この寺に葬られ、03年大石良雄ら赤穂浪士が切腹して同じくこの寺に

埋葬された。寺内の玉垣の中に浅野長矩、同夫人瑤泉院の墓があり、南の丘に四十七士の墓がある。(コトバンクより)

   

義士の墓に行ってみると、14日の義士祭からまだあまり日にちが経ってないせいか、墓所には線香の香りと花が活けられていました。

   

高輪大木戸です。山手線の新駅の名前もこの大木戸から採用したのでしょうか?

昔は、この一帯「牛町」(現在の高輪2丁目)は、牛車を利用した輸送業者の町でした。江戸幕府の御用を勤め、諸問屋の荷物輸送を行うなど、最盛期には600頭を超える牛が飼われていました。

 

御田八幡神社、札の辻を通ります。時間は12時ですので歩道には、昼食をとる人で多くなりました。

  

三菱自動車の前に、「西郷隆盛・勝海舟会見の碑」があります。この辺りにあった薩摩藩邸で会見し、江戸城無血開城の交渉を行いました。今年の大河ドラマでもこのシーンがありましたね。

 

古川に架かる金杉橋を過ぎます。川には、屋台船が停泊しています。

  

大門の信号から左折します。増上寺です。増上寺は、浄土宗の大本山。関東十八檀林の筆頭。山号は、三縁山。もと光明寺と称する真言宗寺院で、今の千代田区紀尾井町にありましたが、

1393年(明徳4)聖聡が浄土宗に改め、増上寺と称し、1598年(慶長3)家康が徳川家菩提所と定めて現在地に移しました。以後寛永寺と並ぶ江戸の大寺となり、全浄土宗の諸寺を管しました。

  

芝大明神:平安時代寛弘二年に創建、古くは芝神明と称したが明治五年正式に官許され芝大神宮に改称す。祭礼は期間の長さから(11日〜21日)「芝神明だらだら祭り」として知られ、

生姜市、甘酒茶屋で有名、授与品には「千木筥(ばこ)」がある。これは東京の郷土玩具としても知られている。江戸時代境内でおきた、め組鳶と角力とのいさかいは「め組の喧嘩」として

再三歌舞伎で上演せられ、その半鐘は今でも宝物として当宮に保存されている。

   

歩いていると歩友の「あすかさん」から新橋駅SL広場で待っているとの連絡があり、新橋駅に向かいます。

あすかさんとは、2年ぶりの再会でしょうか、以前は赤羽駅でお会いしました。ここからは、あすかさんの案内で歩きます。

  

新橋駅から汐留跡(新橋停車場)に向かいます。明治5年(1872)、日本初の鉄道は新橋駅を起点に横浜駅までの区間が開業しました。その後、東京駅の開業に伴い烏森駅が新橋駅と改称し、

元の新橋駅は貨物専用の汐留駅となりましたが、昭和61年、貨物駅の廃止に伴い歴史に幕を閉じました。平成3年度から12年度に実施された汐留地区の再開発に伴う発掘調査により、

日本最初の鉄道駅としての全貌が明らかになりました。ホームや駅舎の基礎のほか、お雇い外国人の宿舎の跡なども発掘され、西洋皿や洋酒ビン、切符や汽車土瓶など鉄道に関連した様々なものが

出土しました。現在は、ホームや駅舎の基礎などを保存して、一部が観察できるようにしてあります。また上屋として開業当時の建物を復元しています。建物内には「鉄道歴史展示室」が併設され、

発掘調査による出土資料や絵図面などにより、当時の様子を知ることができます。

館内は撮影禁止でした。屋外に行くと、当時のプラットホームやレール、0哩の標示が残っていました。

  

再び街道に合流します。旧新橋の親柱の所には、「銀座の柳の碑」があります。 昔恋しい銀座の柳~~

銀座は、1612年(慶長17年)、幕府が駿府(すんぷ)(静岡県)の銀貨鋳造所(銀座)を、当時は「新両替町」であったこの地に移転したことで「銀座町」と呼ばれるようになった。

1800年(寛政12年)、座人による不祥事で銀座は日本橋の「蛎殻町(かきがらちょう)」に移転されたが、「銀座」の名前は地名として定着し、現在に至る。

銀座は1丁目から8丁目までですが、私が子供の頃、神戸一郎さんが歌った「銀座9丁目は水の上」という歌がありました。この歌が流行った昭和30年代には、銀座と新橋の間が川になっていて

屋形船がありました。その屋形船から見る銀座の風景が綺麗でしたのでこのような歌ができたのではないでしょうか?

然し、東京に関する歌はたくさんありますね。「東京の灯よいつまでも」、「東京の人」、「東京ララバイ」、「東京だよおっかさん」、マイペースの「東京」・・・・・・・

      

   

日本橋から京に向かって最初の橋が「京橋」。現在は、埋め立てられています。「江戸歌舞伎発祥の地」は、寛永元年(1624)に初代中村勘三郎が興行した場所です。

京橋大根河岸跡は、寛文4年(1664年)に水運のよい京橋川に野菜の売り場が設けられ、昭和10年(1935年)に築地に市場が移されるまで、庶民の台所を支える青物市場として栄えました。

冬になると10本まとめにしたたくさんの大根が舟から下ろされ、まるで大根の花が咲いたようだったため、大根河岸といわれたといいます。

 

   

14:50 日本橋にゴールしました。

  

日本橋では、旧SNSの仲間、歩友、ブログ友など多くの方のお出迎えを受けました。

  

   

17:00からは、半蔵門ふくおか会館の「福扇華」で打ち上げ会。開店から閉店時間まで4時間以上大いに盛り上がりました。

  

この東海道は、2016年3月にスタートし2018年12月に32日間でゴールしました。

これで2010年6月に長崎・出島を出発して約8年半かけて日本橋に着きました。道中、たくさんの方にお世話になりました。厚くお礼申し上げます。

次回もまだ決めていませんが、どこかの街道に挑戦したいです。

 


東海道道草ウオーク №45「川崎宿~品川宿」(神奈川県川崎市~東京都品川区)

2018-12-25 17:08:38 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

12/18(火)福岡空港を7:00の飛行機で東京へ出発します。飛行機の中では、富士山が綺麗に見えました。

  

羽田から京急で川崎へ。京急の電車の発着メロディは、川崎市出身の坂本九さんの「上を向いて歩こう」です。今回の街道は、この川崎からです。「かわさき宿交流館」に立ち寄りました。

かわさき宿交流館は、2013年(平成25年)に開館。1階は街道歩きや街歩きの人達が休む所、2、3階は川崎宿の歴史が展示されています。

  

 街道歩きをスタートします。川崎宿は、久根崎、新宿、砂子、小土呂の4町で構成されていてその中心がここ「新宿」だったそうです。

川崎稲荷社」は、1716年(享保元年)紀州藩主徳川吉宗が8代将軍になる為江戸に向かう途中この境内で休息したという言い伝えがあります。

  

六郷の渡しの手前には、万年屋、会津屋、新田屋などの旅籠や茶店がありました。特に「万年屋」は、奈良茶飯が有名でした。アメリカ領事館ハリスが宿泊し、更に皇女和宮も訪れたそうです。

万年屋から医王寺までを万年横町と呼んでいました。

 

奈良茶飯」は、米に、勝栗、小豆、大豆、粟などを混ぜて、お茶の煎じ汁で炊いたご飯だったそうです。奈良の興福寺や東大寺で食べられていたといい、これに目を付けたのが、

多摩川を渡って、すぐの場所にあった茶屋の「万年屋」でした。米や豆類の旨みがじっくり味わえることや、腹持ちがいいことから、人気になったそうです。

今では、お菓子処「東照」が現代風にアレンジした奈良茶飯を再現しています。

   

六郷川にやってきました。六郷川は、今では、箱根駅伝で有名です。橋の中央部が神奈川県と東京都の境界となっています。

   

1600年(慶長5年)、多摩川に六郷大橋が掛けられましたが、1688年(貞享5年)の大洪水で流されて以来1874年(明治7年)迄、渡しが続けられました。

1868年(明治元年)明治天皇行幸の際には、船橋をかけて渡りました。明治天皇六郷渡御碑には、その行幸の模様がレプリカになっています。

安藤広重の浮世絵はこの六郷の渡しが描かれています。

余談ですが、享保年間将軍吉宗の献上品として象が長崎から江戸まで旅しましたが、六郷川では、三十艘の船を河中に並べ、3トン以上ある象が渡れるように要所要所に杭を打ち固定し、

その上から大きな板を敷いて船橋を作って象を通行させたそうです。(石坂昌三氏著書 「象の旅長崎から江戸へ」より)

因みに、門司から下関の関門海峡では、石船に象を乗せて渡ったそうです。

   

東京都に入りました。長崎から数えると、15都府県目です。六郷橋の所から富士山が見えるのですが、今日は快晴なのに丁度富士山の所だけ雲があり、富士山が見えませんでした。

  

六郷橋を渡り、橋の下の土手を歩きます。宮本台緑地には、大正14年(1925)から昭和59年(1984)まで使われた親柱が立っています。

 

近くには、「北野天神社」があります。別名「落馬止め天神」又は「止め天神」。八代将軍吉宗が乗る馬が暴走し、あわや落馬という時に将軍の落馬を止めたのがこの天神の御加護だそうです。

  

第一京浜(国道15号)に沿って歩きます。

右側に「六郷神社」が見えてきました。御祭神は、誉陀和気命(ほんだわけのみこと)「応神天皇」。

天喜5年源頼義、義家の父子が、白旗を立てて軍勢をつのり、石清水八幡に武運長久を祈ったところ、前九年の役に勝利をおさめたので、凱旋後、その分霊を勧請したのが、創建と伝えられています。

   

京急蒲田駅を過ぎ梅屋敷駅の近くに「梅屋敷公園」があります。

文政(ぶんせい)年間(1818年から1830年)の初めに、和中散(わちゅうさん)という道中常備薬を商う山本久三郎が、梅の名木を集め、東海道を往来する旅人を相手に茶店を開きました。

かつては蒲田梅屋敷として、亀戸の梅林とともに江戸近郊の梅の名所の一つとして有名になり、広重の浮世絵にも描かれました。現在公園になっているところは、その屋敷跡の一部です。

 

広重の江戸名所図会にも載っています。

    

第一京浜の大森警察署交差点から旧道に入ります。江戸時代旧東海道であったこの付近は、品川宿と川崎宿の中間に位置し、旅人の休憩の為設けられた「間の宿」として賑わっていました。

中でも江戸時代から大森名産として海苔、麦わら細工とともに大森和中散(旅人の常備薬)が有名でした。美原(三原)通りは、旧大森村の小字である北原・中原・南原を通ることから

三原と呼ばれ、現在は美原と記されています。また、大森は、海苔養殖発祥の地とも言われ、現在でも海苔屋さんが何軒か残っています。

 

羽田道の出発地である内川橋は、昔、「するがや橋」といわれ、「駿河屋」という旅宿があったので、現在のするがや通りという名が残されています。

歩道には、昔の海苔作業のタイルが支柱に立っています。

  

  

大森スポーツセンターの所から第一京浜に合流します。道路の左側には「磐井神社」があります。境内の案内板には、「式内社と呼ばれる古い格式をもつ神社である。『三代実録』によれば

貞観元年(859)「武蔵国従五位磐井神社官社に列す」とあり、この神社を武蔵国の八幡社の総社に定めたといわれ、また平安時代(十世紀)に編纂された『延喜式』の神名帳に記載されている。

別名、鈴森八幡宮とも呼ばれ、当社の由緒書によれば、江戸時代には、徳川家の将軍も参詣したことが記されている。

万葉集の「草陰の荒蘭の崎の笠島を見つつか君が山路越ゆらむ」の歌にある笠島とは、ここの笠島弁天を指したものという説もある。」

この神社は、月替わりの朱印をもらえるということで有名です。もらったのは、イチョウの入った朱印でした。

   

神社の歩道側には、「磐井の井戸」があります。もう蓋で閉められていますが、案内板によると、「社名の由来となった、この井戸「磐井」と呼ばれる古井で、東海道往来の人に利用され、

霊水又は薬水と称されて古来有名である。・・・中略・・・土地の人々は、この井戸水を飲むと「心正しければ清水、心邪(よこしま)ならば塩水」という伝説を昔から伝えている。

  

大森海岸駅、しながわ水族館を過ぎると、「鈴ヶ森刑場跡」があります。江戸時代の処刑場。丸橋忠弥、平井権八、八百屋お七など歌舞伎にも登場する人物がここで処刑されました。

   

先へ進むと、浜川橋があります。工事中で片側通行ですのでちょっと通りにくいです。浜川橋は、別名涙橋と呼ばれ、鈴ヶ森処刑場近くにあり、罪人とその家族が涙ながらに別れた場所です。

このあたりに坂本竜馬の銅像があるとガイドブックに記載されていますが、探してもわからず通行の人に聞いてやっとたどり着けました。

嘉永6年(1853)黒船4隻によるペリー艦隊来航の折、龍馬は土佐藩品川下屋敷の近くにあった浜川砲台の警備にあたりました。

浜川砲台・・・旧街道浜川橋より海沿いの地域は、土佐藩の鮫洲抱屋敷がありました。1854年黒船来航の際し、防衛の為土佐藩もこの屋敷内に砲台を築きました。実際は、八門の砲台を

備えていましたが、中でも一番大きかった六貫目ホイッスル砲を再現しました。

    

蕎麦の吉田屋は、安政3年(1856)創業。龍馬や山岡鉄舟も舌鼓を打ったそうです。

鮫洲駅の裏側に「鮫洲八幡神社」があります。建長3年(1251)品川の海上に大鮫が死んでいるのを漁師が腹を裂いた所、腹中から木造の観音像が出現しました。

この観音像を本尊にしたのが、海妟寺(かいあんじ)で頭は八幡神社に祀られました。そこから地名が鮫頭→鮫洲となったそうです。

  

品川寺(ほんせんじ)・・・品川区最古の寺。江戸六地蔵が道往く人の交通安全を見守っています。樹齢600年の大銀杏があります。

品川区の品川は、この品川寺からつけられたのかな?と思っていましたが、品川の中心部を流れる目黒川の河口付近は、湊として栄え、多くの品物が飛び交ったということで品川になったそうです。

  

品川にあった釜屋は立場茶屋(宿場間で旅人がお茶や食事をして休息する場所)でしたが、本来の休息所から旅籠に発達し、幕末には本陣のような構えに改造し幕府御用宿となりました。
慶応3年10月21日(1867年)に新撰組副長の土方歳三等が訪れた記録が残っており、翌4年1月15日(1868年)には鳥羽伏見戦から江戸に戻った新選組隊士たちがしばらく滞在しました。

街道松の広場・・・浜松宿から送られた松。品川には、保土ヶ谷宿、関宿、三島宿などから送られた松がありました。

  

目黒川にかかる品川橋を渡ります。左手には、源氏、徳川氏、上杉氏にゆかりのある「荏原神社」です。

 

橋を渡った右側には、「品川宿交流館」があります。ここで少し休憩します。

品川宿本陣は、聖蹟公園内にありました。明治天皇が京都から東京に移る際、宿泊したため、聖蹟公園と名付けられました。

品川宿: 本陣1、脇本陣2、旅籠93、家数1561軒。

 

東京の12月は、日が暮れるのが早いです。まだ4時ぐらいですが、陽が西の方に沈みかけています。先を急ぎます。

品川神社:源頼朝が安房国の洲崎明神を勧請して創建したという歴史を持ち、徳川家とゆかりの深い神社。裏手には、土佐藩主板垣退助の墓がありました。

刺客に襲われたとき、「板垣死すとも自由は死せず」と叫びました。

  

品川神社の先には「東海禅寺」があります。三代将軍家光が禅僧・沢庵を迎えて開いた寺です。たくわえ漬けが考案された地です。

家光は、「海近くして東(遠)海寺とはこれ如何に」。これに対し、沢庵和尚は「大軍を率いて将(小軍)というがごとし」と言ったという伝えがあります。

沢庵和尚の墓は、少し離れた大山墓地の中にあります。暗くなりかけていますが、行ってみることにしました。

この大山墓地には、2013年に亡くなられた歌手「島倉千代子」さんの御墓もあるそうですが、暗くなったため見つけることができませんでした。何でもピアノの形をした墓碑だそうです。

   

再び街道に戻ります。八ッ山橋は東海道とJR東海道線を立体交差させるために、明治5年(1872)に架けられた橋。大正2年(1913)、昭和5年(1930)、昭和60年(1985)に架け替えられ、

現在の萌黄色の橋は4代目となります。日本の映画史に残る名作『ゴジラ』で、ゴジラが上陸の第一歩を印したのは、この八ッ山陸橋でした。

八ッ山は武蔵台地の突端の丘陵で、地名は海岸に突き出た岬が八つあったことに由来します。

17:10今日のゴールJR品川駅到着。川崎から約12kmですが、結構時間がかかってしまいました。

  

東海道も日本橋まであと7kmです。


速報!「東海道日本橋へゴールしました」

2018-12-21 10:30:04 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

2018年12月19日午後2時50分「東海道(京都~日本橋)道草ウォーク」無事日本橋にゴールしました。

  

ゴールの日本橋には、歩友、ブログ友、飛び入りの方などたくさんの方がお迎えしてくれました。

  

これで長崎・出島から東京・日本橋まで約1500km(公称は約1300km)歩きました。途中、寄り道が多く約1500kmになりました。

夕方、5時から11/21にオープンした半蔵門・ふくおか会館「福扇華」で皆さんと一緒に打ち上げ会を行いました。

   

長崎街道は、2010年6月に長崎出島をスタートし2012年1月門司港駅へゴール。宿場数25宿。約240km。

     

山陽道(西国街道含)は、2012年12月下関・永昌寺をスタートし2014年11月京都・東寺へゴール。宿場数52宿。距離約541km。

  

東海道(佐屋街道含)は、2016年3月京都三条大橋スタート。2018年12月東京日本橋にゴール。宿場数53宿。距離約536km。

 

  

実に8年半かけての「長崎~日本橋」ウォーキングでした。

この間、応援していただいた皆様に厚くお礼申し上げます。お陰様でゴールすることができました。本当に有難うございました。

東海道「川崎宿~日本橋」のブログは、写真整理してからアップしたいと思っております。

   

 

 


東海道道草ウォーク№44「保土ヶ谷宿~川崎宿」(横浜市保土ヶ谷区~川崎市)

2018-10-13 12:36:44 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

先週の山形・鶴岡から今回の東海道歩きのウォーキングですが、さすがに5日間連続というと、疲れもピークに達してきます。天気予報では、明日(20日)は、雨ですので、できれば無理してでも

今回のゴール地川崎宿まで歩きたいです。

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№43からの続きです。

保土ヶ谷の追分を過ぎると、芝生村の入り口に「浅間(せんけん)神社」があります。神社には、「富士の人穴」と呼ばれる名所があります。

祭神木花咲耶姫命。承暦四年(一〇八〇)富士浅間神社の分霊を奉祀したものと伝える。旧芝生村鎮守。江戸時代別当香象院。相殿合祀、神明社(祭神天照皇大神。旧位置字神明)、

鹿島社(祭神武賓槌命。旧位置字鹿島)。境内社は小嶽社、稲荷社、招魂社。例祭日六月一日。本殿二階建浅間造。境内千四百坪。神殿の在る丘は袖すり山と呼ばれ、

昔時は山下がすぐ波打ち際であったという。この丘の斜面には十基の横穴墓があり、そのうち開口したものが「富士の人穴」と称され、このなかに安置されていた大日如来石像が現在社殿横に

置かれている。当社は近隣の富士講の中心地であり、また六十年に一度庚申祭りが盛大に挙行される。(「横浜西区史」より)

  

神奈川宿に入りました。

  

神奈川宿は、東海道有数の景勝地として知られる「袖ヶ浦」がありました。また、湊と東海道を持つ交通の要塞として栄え、船人や旅人はもちろん、観光で訪れる客も多く滞在。

最盛期には、近隣の宿の二倍の人口を抱えたといわれています。(国土交通省関東地方整備局・てくてく東海道より)

神奈川宿は、本陣2軒(石井本陣、鈴木本陣)、旅籠58軒。家数1300軒、人口6000人の規模でした。

安政5年(1858年)、神奈川湊沖・小柴(横浜八景島周辺)に碇泊していたポーハタン号上で日米修好通商条約が締結された。同条約では「神奈川」を開港すると定められていた。

しかし、街道を通行する日本人と、入港する外国人との間の紛争を避けるために、神奈川湊の対岸にある横浜村に港湾施設や居留地をつくり、開港した。これが現在の横浜港となった。

そのため、外国人に対しては横浜は神奈川の一部と称した。(Wikipediaより)

   

神奈川台の関門跡・・・・開港後外国人が相次いで殺傷されましたが、その犯人はなかなか捕らえられませんでした。そのため、各国領事の強い要望で横浜周辺に設けられたのが、

関所である「関門」です。神奈川宿でも東西の2か所につくられ、厳しい警護体制が敷かれました。碑が残されているのは、西側・神奈川台の関門です。

    

台町の茶屋・・・・・現在の台町あたり、ここはかつて、神奈川湊を見下ろす景勝地でした。弥次・喜多の「東海道中膝栗毛」にも「ここは、片側に茶店軒を並べ、いずれも座敷二階造り、

欄干つきの廊下桟などわたして、波打ちぎはの景色いたってよし」とあります。「おやすみなさいや~せ」・・・茶店女の声に引かれ、二人はぶらりと立ち寄っています。

鯵の塩焼きを肴に一杯ひっかけた後、気ままな旅を続けたのでした。(神奈川宿歴史の道より)

下の図の中に見える「さくらや」が現在の料亭「田中屋」あたりだと言われています。また、広重の東海道神奈川宿でもこの「さくらや」が描かれています。(右奥から3番目)

 

江戸時代は、台町の茶屋は、海に面していたのですね。(現在のJR横浜駅は、海の中だったそうです)

幕末の偉人、坂本龍馬の妻おりょうは、龍馬亡きあと、ここで住み込みの仲居として勤めてくれていました。月琴を奏で、外国語も堪能で、物怖じしないまっすぐな性格が、ことに外国のお客様に

評判だったといいます。横須賀に嫁いでいき、田中家をやめたあとも、ひいき客からいつまでも話題に上ったということです。(田中屋HPより) 

  

葛飾北斎の名作「神奈川沖浪裏」も神奈川沖を題材に描かれているのでしょうね。実際こんなに浪が高かったのでしょうか?

大綱金刀比羅神社・・・この神社は、社伝によると、平安末期の創立で、もと「飯綱社」といわれ、今の境内後方の山上にありました。その後、現在の地に移り、更に琴平社を合祀して

大綱金刀比羅神社となりました。かつて眼下に広がっていた神奈川湊に出入りする船乗り達から深く崇められ、大天狗の伝説でも知られています。

又、神社前の街道両脇に一里塚が置かれていました。

 

青木橋です。この橋から東神奈川方面を見て右側の幸ヶ谷公園のある丘と左側の本覚寺のある丘とは地続きでした。この丘を切り開き、明治5(1872)年に新橋~横浜間(現桜木町)に鉄道が開通し、

鉄道をまたいで旧東海道を結んで架けられたのがこの青木橋です。横浜駅が現在地に移設されるまで、青木橋周辺は鉄道(JR)・横浜電気鉄道(市電)・京浜電気鉄道(京急)・東京横浜電気鉄道(東急)

各線の神奈川停車場が集中し、交通の要所として賑わいました。(神奈川区いまむかしガイドの会より)

  

国道1号線に架かる幸ヶ谷歩道橋を渡ります。この1号線道路幅も広く、また交通量もすごく多いです。

 

開港当時、神奈川宿の多くの寺院が諸外国の領事館に充てられました。地図を見てみるとその寺院は道路の向かい側に多く集中しており、横断歩道は遠くにあるのでここは、パスしました。

鶴見区に入りました。子安通りを過ぎると、キリン横浜ビアビレッジがあります。

 

このビアビレッジの一角に「生麦事件碑」が建っています。

  

学校の歴史でも習った「生麦事件」は、文久2年(1862)、江戸から京都へ向かう途中だった薩摩藩の島津久光の行列が武蔵国橘樹郡生麦村(現横浜市鶴見区生麦)に差し掛かった際、

横浜在住のイギリス人4人が行列の前方を乗馬したまま横切りました。これに怒った一部藩士がイギリス人に斬りかかったという事件です。

この事件は、イギリスと日本の国際問題に発展し、翌年の薩英戦争勃発の原因となりました。明治16年(1883)、鶴見の黒川荘三がリチャードソンの死を悼み、事件の風化を防ぐために、

私費を投じて生麦事件碑を建立しました。

  

生麦1丁目信号より、旧道に入ります。旧道の生麦保育園近くには、生麦事件発生現場があります。当時この家は、豆腐屋さんだったそうです。

 

京急鶴見駅近くには、「覇王樹(さぼてん)茶屋跡」があります。さぼてんは仙人掌と書いていますが当時は覇王樹と書いていたのですね。また、江戸時代にサボテンがあったのも知りませんでした。

旧東海道鶴見 覇王樹茶屋跡    「みぎひだり   つのを出して世の中を   見たるもおかし   さぼてんの茶屋」  現在は、パン屋さんを営まれています。

  

鶴見の街中を歩いていると、私のリュックの後ろに付けている「東海道を歩いています・・・・」を見て、ある女性の方が声をかけて色々な所を案内してくれました。

聞くと、中国から来られたそうです。中国の方から日本の史跡を案内してもらうのは、少し違和感がありましたが、探し回ることがなく、スムーズに見ることができました。有難うございました。

    

鶴見橋関門旧跡・・・・安政6年(1859)の横浜開港後、外国人に危害を加えることを防ぐため横浜への主要道路筋に架けられた関門の一つで、万延元年(1860)に設けられました。

    

鶴見川橋を渡ります。渡ると川崎かな?と思いましたが、まだ鶴見区でした。

 

市場上町の信号から「川崎市」です。

   

京急八丁畷駅です。ここには、無縁塚があります。

江戸時代の記録によると、川崎宿は、震災や大火・洪水・飢饉・疫病などの災害にたびたび襲われ、多くの人々が命を落としています。おそらく災害で亡くなった身元不明の人々を川崎宿はずれの

松や欅の並木の下に埋葬したのではないでしょうか。不幸にして亡くなった人々の霊を供養するため、地元の方と川崎市は、昭和9年慰霊塔を建てました。この場所は、「無縁塚」と呼ばれ、

地元の方々により供養が続けられています。(説明文より)

 

八丁畷駅のガードを潜ると、「芭蕉の句碑」があります。麦の穂を たよりにつかむ 別れかな

松尾芭蕉は、元禄7年(1694)五月、江戸深川の庵を発ち、郷里の伊賀(三重県)へ帰る途中、川崎宿に立ち寄り、同道してきた門弟たちと別れる際に詠んだ句です。

同じ年の十月、旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる という辞世の句を残し51歳の生涯を閉じました。

  

川崎市中心部に入ってきました。時間も5時を過ぎ、帰宅を急ぐ人々で混雑しています。

小土呂橋の親柱・・・・・かつて、東海道と新川堀の交差地点にあった石橋が「小土呂橋」。現在は、暗渠となっており、地名とこの親柱が残っています。

   

川崎宿は元和9(1623)年、品川・神奈川両宿の伝馬負担を軽減するために開設されました。新宿(しんしゅく)・砂子(いさご)の2町から始まり、その後、久根崎(くねざき)・小土呂(ことろ)町を

加えた4つの村で構成されていました。町立てにあたっては、久根崎から小土呂に至る自然堤防(海がつくった砂州)を利用して盛土がなされていますが、これは六郷・鶴見両河川の出水被害を

抑えることが重視されたためです。 本陣3軒(兵庫(田中)本陣、惣左衛門(佐藤)本陣、惣兵衛本陣)、旅籠72軒、家数541軒、人口2433人の規模でした。

旧橘樹郡役所跡・・・・・明治十一年(1878)の郡区町村編制法により、神奈川町成仏寺に橘樹郡役所が設置され、橘樹郡内十町百十一村の行政を司った。明治二十一年(1888)同町内に

郡役所が新設されその後郡制が施行されると、郡長のもと各地代表の郡会議員により、道路・治水・教育。産業などが議せられた。

明治三十四年(1901)神奈川町の横浜市編入により、橘樹郡の中心は、産業開発著しい川崎町に移り、大正二年(1913)現在地の川崎町砂子に威風堂々とした郡役所が建てられ

川崎・保土ヶ谷二町と十七村の行政に当った。郡南部の臨海埋立地には京浜工業地帯が形成され、人口増加による都市化が進む一方、北部農村地帯も私鉄の沿線開発や近郊農業の発達などにより

大きく変貌した。大正十三年(1924)七月川崎に市制が施行され、大正十五年(1926)郡役所は廃止された。その後川崎・横浜の市域拡張により、昭和十三年(1938)には半世紀にわたり

親しまれた「橘樹郡」の名も消えることに成った。郡役所の川崎移転から九十年。ここに有志相集い、川崎市制八十周年を記念して、往年の地に「旧橘樹郡役所跡記念碑」を建立し、

万葉集にも歌われた橘樹の名を永久に留めることにした。(説明文より)

川崎信用金庫本店の所が「佐藤本陣跡」です。信用金庫の前には、詩人「佐藤惣之助」の碑が建っています。佐藤惣之助の生家がここです。

佐藤惣之助は、歌謡曲「赤城の子守唄」「緑の地平線」「大阪音頭」「青い背広で」などの作詞で知られています。また、プロ野球阪神タイガースの応援歌「六甲おろし」の作詞も手掛けていました。

 

中の本陣跡・・・・田中本陣と佐藤本陣の間に挟まれ「中の本陣」と呼ばれていました。江戸後期廃業しました。

   

兵庫(田中)本陣跡・・・・当主の休愚(兵庫)は、六郷川の渡し舟の権利を譲り受け、その渡し賃を得て、傾いていた宿場財政を再建しました。享保6年(1721)著した「民間省要」は、享保7年(1722)

八代将軍吉宗へ献上され、主張の一部は、享保の改革でも取り上げられました。

    

時刻は18時を過ぎました。今日は、朝9時から精力的に歩き、少々疲れました。JR川崎駅から今夜の桜木町のホテルへ戻りました。

  

東海道もあと19kmになりました。六郷橋を越えると江戸です。12月中旬に日本橋にゴールする予定です。

 


東海道道草ウォーク№43「戸塚宿~保土ヶ谷宿」(横浜市戸塚区~横浜市保土ヶ谷区)

2018-10-08 20:34:46 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

9/19(水)東海道歩き3日目。藤沢のホテルから横浜桜木町のホテルに移動するため、7:30にホテルをチェックアウトします。

横浜桜木町のホテルに荷物を置き、家内の友人夫婦に会うため、根岸線で港南台駅に移動。約10分ぐらいの対面で再び昨日ゴール地の戸塚駅に移動します。

9:15 今日のウォーキング開始です。

旧街道は、戸塚駅西口から東口の方に入るようになっていますが、西口付近は道路改良などで大幅に変化しています。どうにか、東口の方にやってきました。

 

吉田大橋にやってきました。ここが広重が浮世絵で戸塚宿を描いた所です。当時は長さ10間(18,2m)、幅2間半(4,6m)の板橋でした。

 

現在の橋は、昭和61年(1986)に架け替えられ、両側に大名行列が持つ毛槍を模した外套や橋の真ん中には浮世絵のモニュメントがありました。

  

吉田橋を渡ると、「吉田の一里塚跡」があります。吉田の一里塚は、明治に入りずいぶん早い時期に取り壊されたそうです。

宝蔵院の所に江戸見附がありました。参勤交代の大名らを宿役人がここで出迎えました。

  

五大夫橋・・・小田原北条氏の家臣であった石巻五大夫が小田原北条氏滅亡後に江戸へ移る徳川家康をこのあたりで出迎えたことから名付けられたと伝えられています。

鎌倉ハム発祥の地・・・・明治初期、日本で初めてハムの製造販売がこの地で始められました。当時、戸塚は鎌倉群に属していたので「鎌倉ハム」として全国的に知られました。

斉藤満平は、イギリス人ウィリアムカーチスの妻、加藤かねの協力で製造を学び明治10年代日本人として初めてハムの製造を始めました。

  

護良(もりよし)親王首洗い井戸・・・・この地に伝わる言い伝えでは、鎌倉で弑された親王の御首を側女が夜中に盗み取ってこれを奉じ、当地の豪族斉藤氏に救いを求めて難を逃れ、

この井戸で御首を洗い清めたといわれています。

益田家のモチノキ・・・益田家の敷地には、県の天然記念物に指定された樹齢300年、樹高19mの株と2本のモチノキがあります。敷地は整地されていました。

   

歩いていると何かいい匂いがしてきました。先の方を見ると山崎パンの工場がありました。

  

品濃口の信号から東戸塚駅の方に歩きます。このあたりの道は大きく変わっており、道に迷いました。途中のお店で現在地を聞き、やっと旧街道に戻れました。

下関の歩友M・Mさんは、ご結婚当初この東戸塚駅付近に住んでいたそうです。そのころと比べ、街も変わっているでしょうね。

  

品濃一里塚の近くの栗の木に「リス」がいました。やはり栗を食べているのでしょうか?写真を撮ろうとしたのですが、動きが早くいい写真が撮れませんでした。

  

品濃の一里塚です。江戸から数えて9番目の一里塚。神奈川県内では、ほぼ完全な形で残っています。

品濃一里塚の先には、「焼餅坂」があります。焼餅坂は、当時の品濃村と平戸村の境にあり、一町半(約160m)の坂でした。坂の傍の茶店で焼餅を売っていたので焼餅坂と名付けられたそうです。

  

武相国境モニュメント・・・・この地が武蔵国と相模国の境です。昔は、木の杭が建てられていたので境木と呼ばれたそうです。また、ここからは、武蔵国保土ヶ谷になります。

 

境木地蔵尊・・・江戸時代初めに鎌倉の浜に打ち上げられたお地蔵様を漁師が江戸に運んでいる途中、このあたりで牛車が動かなくなり、置いていかれました。夢枕に立ったお地蔵様の

託宣を聞いた村人がお堂を建てお祀りしたのでこのあたりの村は、栄えたそうです。万治2年(1659)建立。

 

箱根駅伝で有名な「権太坂」にやってきました。権太坂の説明の前にこのあたりに「投げ込み塚」があるということで探しましたが、わからず近所の人に聞いて探し出しました。

投げ込み塚は、昔、街道の近くに旅の途中で行き倒れた人や牛馬を葬った場所がありました。その後、平戸の東福寺に手厚く改装され、供養の為この碑が建てられました。

  

権太坂・・・・かつては、今より勾配のきつい相当な坂で、江戸から上方へ上る旅人が初めて出会う難所として知られています。松並木の続く景色も良かったため、浮世絵にも描かれています。

然し、明治17年(1884)の新道開通や明治20年(1887)鉄道開通により、旧道は、通行量も減って狭くなった。権太坂はもともと人家もほとんどなかったため、昭和30年代本格的に

道が改修されて宅地開発が進むまで往時の面影を残していました。

箱根駅伝の「権太坂」は、国道1号線の方を走ります。

権太坂の名前の由来・・・・・①ある時、旅人がこの坂で近くにいたお年寄りに坂の名を聞くと、自分の名前を聞かれたと思い、「ごんたでございます」と答え、その名が坂の名になった。

②昔、権左衛門という人が代官の指図により、開いてできた坂道をその名をとって「権左坂」と名付けたものが、いつのことか、「権太坂」と呼ばれるようになった。

   

 権太坂を下ると元町ガードです。ここには、旧元町橋跡と帝釈天があります。昔、今井川は、帝釈天の祠にある山裾に沿って流れ、祠の下あたりには、旧元町橋がありました。

今の元町橋は川筋を変えたあとのものです。

     

保土ヶ谷2丁目の信号から国道1号線と合流します。交通量が多くなります。

茶屋本陣は、保土ヶ谷本陣軽部氏の分家です。

   

保土ヶ谷宿は、本陣1、脇本陣3(藤屋、水屋、大金子屋)、旅籠67、家数558軒、人口2982人。慶長6年(1601年)正月、東海道の伝馬制度を定めた徳川家康より「伝馬朱印状」が

「ほとかや」(保土ヶ谷町)あてに出されたことにより、保土ヶ谷宿が成立しました。東海道を往来する幕府の役人や参勤交代の大名は、宿場に設置された本陣に宿泊しました。 保土ヶ谷宿の本陣は、

小田原北条氏の家臣苅部豊前守康則(かるべぶぜんのかみやすのり)の 子孫といわれる苅部家が代々つとめています。同家は、問屋・名主を兼ねるなど、保土ヶ谷宿 における最も有力な家で

、安政6年(1859年)に横浜が開港する際、当時の当主清兵衛悦甫(せいべええっぽ) が総年寄に任ぜられ、初期の横浜町政に尽くしました。明治3年(1870年)に軽部姓に改称し、

現在に至っています。本陣が混雑した際、幕府の役人や参勤交代の大名は脇本陣に宿泊しました。保土ヶ谷には藤屋・水屋・大金子屋の3軒の 脇本陣がありました。 (説明文より)

  

保土ヶ谷1丁目信号を左折、東海道本線の踏切を渡ります。このあたりが宿場の中心地になります。

保土ヶ谷宿お休み処に「金沢横町石碑」が4基建っています。東海道と金沢道の分岐点で「程ヶ谷の枝道曲がれ梅の花」と詠われたようにここから人々は杉田梅林や金沢へと向かいました。

   

お昼時になってきましたので保土ヶ谷駅付近の「宿場そば桑名屋」に入ります。この桑名屋さんは、初代店主が三重県桑名市出身で、現店主は、保土ヶ谷宿保存に務められている方です。

下足箱には、東海道53次の宿場名がつけられています。また、2階は、まちかど博物館になっており、食事の後案内していただきました。

  

  

再び街道に戻ります。

問屋場跡・・・・・公用旅行者の荷物の運搬(馬継立)や飛脚の業務を行う所。

助郷会所・・・・・宿場で賄いきれない人馬を周囲の村から動員する詰所。

高札場跡・・・・・幕府の掟やお触れを張り出す所で宿泊代や人馬代も示されていました。

   

中橋跡・・・・・・今井川の改修。かつて今井川はここで宿場を横切っており、「中橋」が架けられていました。 

 その川筋は慶安元年(1648年)に新しい保土ヶ谷宿が建設された際に人工的に造られたものでした。しかし、その流路の構造から大雨のたびにここで水が滞り、しばしば下流域を浸水することに

なりましたが、なかなか改善されませんでした。しかしながら幕末にいたって人馬の往来が急増してきたため、嘉永5年(1852年)宿場では改修費用100両を準備するとともに、町役人が200両の

借用を代官へ陳情し、認められるとただちに現在の川筋に改修されました。

保土ヶ谷宿と品川台場建設。今井川改修で発生した多量の残土の処理に困った名主苅部清兵衛は、当時建設中だった品川台場(外国の侵入に備えた砲台)の埋め立て用の土として幕府へ献上 

することを申し出、3000立坪(約18,000立方m)あまりの土を船で品川に運び、この問題を解決したと伝えられています。(説明文より)

香象院は、江戸時代、保土ヶ谷宿で最も大きい寺子屋があり、明治6年(1873)に保土ヶ谷小学校の分校になりました。

   

相鉄天王町駅の所には、旧帷子橋のモニュメントがあります。広重の浮世絵「保土ヶ谷宿」には、この帷子橋が描かれています。

 

 

  

更に先へ進むと、松原商店街です。昔は東海道松林があった所で、松原商店街も松林から命名されたのではないでしょうか?

橘樹(たちばな)神社 ・・・・・創建は、鎌倉時代初期(1186)。江戸時代は、牛頭(ごず)天王社といい、天王町の由来になっています。大正時代に現在の橘樹神社になりました。祭神は、素戔嗚尊。

昔は、この一帯は、橘樹郡に所属していました。

    

追分・・・・芝生(しぼう)村(現浅間町)にある追分は、旧東海道と旧八王子道との分岐点であると同時に、旧東海道の新町通りと古町通りの分岐点でもありました。

また、横浜開港以後、移住が自由とされ、芝生村には、まれな就業の機会に恵まれた稼ぎ場として地方からの移住者が多くありました。食麩、升酒小売、小茶屋、船乗り、大工、紺屋、提灯張り、

木具、髪結い、湯屋、看板書きなどの職人が多かったそうです。

                                            (つづく)

 

 


東海道道草ウォーク№42「藤沢宿~戸塚宿」(神奈川県藤沢市~横浜市戸塚区)

2018-09-30 17:30:25 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

№41からの続きです

遊行寺境内から県道30号線「遊行寺」交差点に出ます。遊行寺坂は、箱根駅伝では、往路3区の下り、復路8区の登りと勝敗を分ける難コースです。

途中に江戸見附がありました。遊行寺の坂は、長く続く坂道、駅伝のランナーもかなり、しんどい坂でしょう。

   

一里塚跡・・・・・江戸時代は、もっと崖上にあったそうです。

   

横浜市戸塚区に入りました。国道1号線と藤沢バイパスが合流する所では、かなりの交通量でした。

  

   

お軽・勘平戸塚山中道行の場」の碑があります。歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」のお軽・勘平の戸塚道行に因んで作られました。当時、戸塚は山の中だったようです。

歌舞伎では、七代目市川団十郎、三代目尾上菊五郎などの名優の演技と清元の名調子から当時江戸では、大変な評判でした。

  

大坂上の信号から街道は、横浜新道と旧1号線と分かれます。

大坂 ・・・・・かつては、二つの坂から成り立っていたようで「新編相模国風土記稿」によれば、一番坂登り1町(110m)、二番坂登り三十間(54m)と書かれています。

大坂では、嘉永6年(1853)に仇討があったという記録があります。(説明文より)

大坂の碑の向かい側には、「石仏群」があります。多分庚申塔ではないでしょうか?

    

第六天神社・・・・・初めて聞く神社です。西日本には、なかったような気がします。

戸塚町の信号の所が「上方見附」です。ここから戸塚宿です。

  

冨塚八幡宮 ・・・・源頼義、義家父子が社殿を創建したと伝えられ、戸塚の総鎮守となっています。山頂の古墳は、冨属彦命の墳墓とされており、「冨塚」と呼ばれ、これが戸塚の地名の

起こりとも言われています。境内には、芭蕉の句碑「生きて出でけむ 鎌倉を 初松魚(はつがつお)」 ※初鰹は、当時鎌倉で水揚げされ戸塚を通って江戸に運ばれた。

  

 

戸塚宿は、本陣2、脇本陣3、旅籠75、家数613軒、人口2903人の規模でした。江戸から十里(40km)、小田原から十里(40km)の位置にあり、江戸から出発した旅人は、ここが最初の宿泊地でした。

    

戸塚駅前に着きました。西口の方に「清願院」があります。徳川家康の死後、側室だった「お万の方」が尼となり、当寺に入りました。

屋根には、徳川の家紋「三つ葉葵」がありました。

 

境内には、芭蕉の句碑など貴重な句碑が残っています。

心中句碑・・・・・・「井にうかぶ 番(つがい)の果てや 秋の蝶

           戸塚の遊女おやまと旅籠屋の息子清三郎が恋仲となりますが、この世では結ばれぬ間柄を悲観して天神塚の井戸に身投げした。

芭蕉句碑 ・・・・栗という文字は、にしの木と書て 西方にたよりありと 行基菩薩は 一生杖にも柱にも此の木を用給うふとかや 世の人の見つけぬ花や軒のくり・・・・・

          ※栗という文字は西の木と書くので西方浄土につながる木として敬われた。高僧・行基は杖や柱にも栗を用いたといわれる。

         奥の細道の文章つきの句碑になっています。

  

時間も16時を廻りました。今日の歩きは、ここまでとします。明日は、戸塚~川崎まで歩く予定です。

  

江戸日本橋まであと5宿、約40kmになりました。

  


東海道道草ウォーク№41「平塚宿~藤沢宿」(神奈川県平塚市~藤沢市)

2018-09-29 18:07:57 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

9/18(火) 朝8時宿泊地の藤沢市から前回ゴール地平塚駅へ移動。今日は、平塚から戸塚までの予定。

8:24 今日の東海道歩きスタート。馬入交差点の所に馬入(ばにゅう)一里塚があります。

 

その先が相模川にかかる「馬入橋」です。橋の手前には、「馬入の渡し跡」があります。

  

江戸時代、幕府は大きな河川に橋をかけることを禁止しました。そのため、相模川(馬入川)や多摩川(六郷川)は「渡し舟」、酒匂川は「徒歩渡し」などで渡っていました。

当時、船は須賀村だけで用意していたようですが、元禄五年(1692年)に対岸の柳島村が加わりました。また、渡船額などの情報を掲示する「川高札」は馬入村にありました。

渡し舟には「小舟」と「馬船」がありました。小舟は人を乗せる船で定員二十人ほど、馬船は大型で馬が荷物を積んだまま横向きに乗ることができる船です。

このほかに、将軍や大名用の「御召船(おめしぶね)」などが常時用意されていました。また、将軍の上洛などの大通行があった場合、幕府は「船橋」を架けさせました。(説明文より)

 

茅ヶ崎市に入りました。信隆寺(しんりゅうじ)は、寛永元年(1624)甲斐武田氏の流れを汲む武田信就が先祖の菩提を弔うため創建しました。

 

小出川の所に「旧相模川橋脚」があります。旧相模川橋脚は、大正12(1923)年9月1日の関東大震災と翌年1月の余震によって、水田に橋杭が出現した全国的にもまれな遺跡です。

当時の歴史学者沼田頼輔によって、鎌倉時代の建久9(1198)年に源頼朝の重臣稲毛重成が亡き妻の供養のために架けた橋の橋脚と考証され、大正15(1926)年に国の史跡に指定されました。

平成13年から実施された保存整備に伴う調査では、橋脚についての詳細が確認された他、新たに橋脚の北側から関連する大きな土留め遺構も発見され、19年2月6日に追加指定を受けています。

また、地震によって生じた液状化現象の痕跡も確認された他、橋脚の出現状況は関東大震災の地震状況を残す遺産としても評価され、24年度、史跡指定に加え国の天然記念物としての

指定を受けることになりました。液状化現象としては全国初の国指定になります。(茅ヶ崎市HPより)この橋には、源頼朝が渡り初めをしたあと、落馬したという話もあります。

街道は国道1号線を歩きます。鳥井戸橋の所には、鶴嶺八幡宮の大きな鳥居が建っています。鶴嶺八幡宮は、平安時代後期に、矢畑に源頼朝が創建、その後現在地に遷座したと言われ、

市内最古の神社です。

 

南湖の左富士です。歌川広重で「南湖の松原左不二」として描かれているように、京へ向かう場合の東海道で概ね右側に見える筈の富士山が、鳥井戸橋辺りでは、道の左側に見えるそうです。

私達も振り返って見ますが、この日は、富士山の姿が見えませんでした。

   

茅ヶ崎駅前から少し歩いた所の東海道松林の手前には、「茅ヶ崎の一里塚」があります。信号にも一里塚の標示がありました。

  

藤沢、平塚宿の間で賑わった茅ヶ崎は、四谷、菱沼、南湖の3か所の立場がありました。松林中学校の先には、牡丹餅茶屋跡の碑がありました。

  

街道は藤沢市に入りました。羽鳥交番前の信号の所には、一里塚があります。

  

四ツ谷信号には、不動明と大山道標があります。

  

街道は県道43号線を歩きます。引地川沿いには、水と緑と人との調和を図った「川べりの散歩道」があります。桜並木があり、春には川沿いにきれいな桜の花が咲くでしょうね。

藤沢宿に入りました。藤沢は、江戸時代から遊行寺の参拝や江の島詣、大山詣の足場として大いに栄えた宿場です。本陣1、脇本陣1、旅籠45軒、家数919軒、人口4089人の規模でした。

  

本町公園の所に「義経首洗い井戸」があります。文治5年(1189)奥州平泉で自害した源義経の首は、腰越の浜で首実検されたといわれています。首は、境川を遡り、この井戸で里人により、

洗い清められたと伝えられています。

 

今日は、これから昔のSNSの仲間でした「藤沢のセロリ」さんに逢うことになっています。待ち合わせ場所の「白旗神社」へ向かいます。

白旗神社は、もともとは寒川比古命を祀っていましたが、源義経の霊を弔い、祭神としました。境内には、義経公鎮霊碑がありました。

セロリさんとは、平成25年(2013)4月、下関のはなまりんさん達と会津旅行に行った以来、5年ぶりの再会です。手首を複雑骨折されて手術をされたそうです。

セロリさんと昼食を食べ、藤沢市内を案内していただきました。

 

  

  

貞永元(1232)年創建の永勝寺には、飯盛旅籠屋を営んでいた小松屋源蔵の墓を囲むように、39基の飯盛女の墓が並んでいます。

飯盛女とは、宿場の旅籠屋で給仕をする女性のことで、1軒の旅籠屋につき2人置くことが認められていましたが、遊女としての側面も持ち合わせており、全盛期の藤沢宿には100人近い飯盛女がいた

ではないかといわれています。宿内や他国の貧しい農村出身で、借金の返済などのために働いていた飯盛女は、粗末に扱われており、墓を建てて供養されたというのはとても珍しいそうです。

  

藤沢市市街地には、「昔の藤沢」の写真が飾っています。

  

藤沢橋に来ました。ここでセロリさんとお別れします。12月の東海道ゴールには、お出迎えに来ていただけるそうです。有難うございます。

 

 

これから遊行寺(ゆぎょうじ)に向かいます。遊行寺は、お正月の箱根駅伝でも馴染みの所です。

遊行寺は、正式の名を「清浄光寺」。正中二年(1325)遊行四代呑海上人が、実兄である地頭俣野五郎景平の援助によって、極楽寺という廃寺を再興して、遊行引退後の住まいとしました。

これが藤沢山清浄光院(のちに清浄光寺)となった時宗の総本山です。宗祖一遍上人は念仏を勧める賦算(「南無阿弥陀仏、決定往生六十万人」と記したお礼を配ること)と

信仰の喜びを踊りであらわす踊り念仏で、みなことごとく往生安楽の境地へ至ることができると説いて諸国を遍歴しました。それにならって歴代の上人も遊行を続けたので遊行上人と呼ばれ、

当寺も遊行寺の名で通るようになりました。

  

 

遊行寺の大イチョウは、樹高21m、幹回り710cm樹齢650~700年と言われています。

 

広重の浮世絵東海道53次「藤沢宿」には、遊行寺が描かれています。

                                 (つづく)

            

 


東海道道草ウォーク№40「小田原宿~平塚宿」(神奈川県小田原市~平塚市)

2018-09-27 18:41:57 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

9/17(月)昨日、山形県鶴岡から羽越本線~上越新幹線~東海道線を経由して神奈川県藤沢市で宿泊しました。

今年4月以来の東海道歩きです。藤沢駅を8時前の電車で前回ゴール地小田原へ。小田原駅前のパン屋さんで昼食用のアンパンを購入します。

   

小田原駅よりバスで前回ゴールした「唐人町」まで行きます。このあたりは、蒲鉾屋さんが多く、「かまぼこ通り」と呼ばれています。

蒲鉾の歴史は古く、その昔神功皇后が三韓征伐の際(3世紀頃)、すりつぶした魚の身を鉾の先につけ、焼いて食したのがはじまりだと伝えられています。

「蒲鉾」の名は形状が蒲という植物の穂に似ていたことから生まれたといわれ、平安時代の故実書『類聚雑要抄』にも、貴族の祝賀料理の献立図に「蒲鉾」の文字が登場します。

これが蒲鉾に関する最も古い文献です。また、足利時代には儀式用として使われていたという記録が残っています。

小田原のかまぼこの歴史は正確なことは明らかになっていませんが、小田原で蒲鉾づくりが盛んになったのは、今から220年くらい前(天明年間)、

小田原城主“大久保忠信”の時代≪北条早雲時代(1432〜1519年)という説もあります。≫だといわれています。

このころの小田原は沿岸漁業が盛んでたくさんの魚が獲れていました。この魚の保存利用として誕生したのが小田原蒲鉾です。漁獲される魚の評判を聞き、

日本橋の蒲鉾職人などが小田原に移り住んだともいわれています。(籠清HPより)

 

江戸見附と一里塚

 

上杉龍若丸の墓  天文20(1551)年、龍若丸は平井城落城前に、降伏の使者として北條氏康のいる小田原に従者6人を引き連れて参ります。12歳又は13歳の幼少の身ですが大敵の嫡男故に、

氏康は家臣の神尾治郎右衛門に首を刎ねさせます。神尾治郎右衛門はまもなく疫病を患い亡くなりました。(説明文より)

新田義貞の首塚  建武の中興の柱石であった新田義貞は、北陸を転戦中、延元3年(1338)、越前国(福井県)藤島で討死し、足利尊氏によってその首級を晒されていた。

義貞の家臣宇都宮泰藤(小田原城主、大久保氏の先祖)は、主君義貞の晒首を奪い返して領国三河に往き、妻子に暇を告げ、主君義貞の本国、上野国(群馬県)に首級を葬るため東海道を下った。

しかし、酒匂川のほとり、ここ網一色村に達したとき、病にかかり再起できなくなってしまったという。そこでやむなく義貞の首をこの地に埋葬して、自身もこの地で歿したと伝えられている。

その後、新田義貞の首塚として地元の人々に尊信されていたが、戦後一時荒廃してしまった。しかし、近年地元有志によって復興整備され、新田義貞の首塚の碑も建立された。

なお北方八幡神社境内に、新田神社の祠がある。(説明文より)

 

酒匂(さこう)橋を渡ります。広重の浮世絵には、酒匂川の渡しが描かれています。

酒匂川東側をいくと、酒匂川の渡し跡があるとガイド本に載っていましたが、付近を捜しましたが、見つけられませんでした。

 

  

小八幡一里塚  江戸から19番目の一里塚

国府津(こうづ)駅を過ぎてしばらく行くと「大山道道標」があります。大山とは、伊勢原市にある大山阿夫利神社です。

大山は古くから霊山として篤く信仰をされていました。隆盛を極めた江戸期には年間二十万の人々が来山したと記録されています。当時、民衆の間では伊勢詣りを始め、寺社に参拝することが大流行

していました。その中で、江戸の町から二、三日の距離にある大山は気軽に参拝できることから、絶好の行楽地としても愛されたのです。大山に参拝した後には江の島などへ行楽する事が

人気の行程とされていました。この様子は古典落語「大山詣り」の中にも表されています。平成二十八年四月には「大山詣り」が日本遺産に認定をされました。(大山阿夫利神社HPより)

  

しばらく歩くと「車坂の碑」があります。このあたりは、車坂と呼ばれていたのでしょうか?太田道灌は、ここで夕立にあったこと、源実朝は、正月に洪水で川を渡れなかったことを詠んでいます。

 

二宮町に入りました。二宮町と隣の大磯町は、神奈川県中郡に所属しています。二宮町のマンホールは、町の木、椿です。

  

押切橋を渡り、押切坂を上っていきます。坂を登りきった所に「松屋本陣跡」があります。大磯宿と小田原宿との間(あい)の宿にあった「松屋本陣」は、将軍や大名、旗本、門跡などの休憩所として

利用されました。押切坂から1号線に合流します。ここには、一里塚跡があります。江戸から18番目です。

  

お昼近くになってきました。JR二宮駅前のコンビニで休憩します。コンビニは、現代のお茶屋ですね。

JR二宮駅前には「ガラスのうさぎ像」があります。この像は、第二次世界大戦中、二宮の空襲で父を失った体験を綴った高木敏子さんの小説「ガラスのうさぎ」に因んで建てられました。

町民の平和への願いも込められています。

  

大磯町に入ってきました。

 

六所神社  もとは、石神台の地に置かれていましたが、大化の改新後現在地に移りました。その後相模国府がこの地に移り、相模の六社の分霊が六所神社に祀られ、相模の総社になりました。

  

大磯城山公園  もとは、三井家総領事三井高棟の別荘地でした。高棟は、昭和9年「城山荘本館」を山頂に築き、大雄殿を始めとして国宝茶室「如庵」などがありました。

 

城山公園の1号線側には、旧吉田茂元総理邸があります。旧吉田茂邸は戦後の内閣総理大臣を務めた吉田茂(1878-1967) が暮らしていた邸宅です。もとは明治17年(1884) に

吉田茂の養父・吉田健三が土地を購入し、別荘を建てたのがはじまりです。養父亡きあと吉田茂が邸宅を引き継ぎました。昭和20 年(1945) より大磯の邸宅を本邸とし、晩年を過ごしました。

 本施設は吉田茂が暮らした当時の邸宅を復原したものです。昭和22 年頃建てられた応接間棟、および昭和30 年代に近代数寄屋建築で有名な吉田五十八が設計した新館をメインに再建しています。

  

大磯町には、明治中期から昭和初期にかけて要人の避暑、避寒地として邸宅や別荘が多く建てられました。

 

旧街道に戻ります。大磯中学校の前に「上方見附」。その先にあるのが「鴫立庵(しぎたつあん)」。

鴫立庵は、西行法師が詠んだ「心なき身にもあわれは知られけり、鴫立つ沢の秋の夕暮れ」という名歌はここからの風景を詠んだものと言われています。後に崇雪が西行を慕い訪れ、

「湘南清絶の地」と絶賛し、草庵を結びました。

湘南発祥の地」 江戸時代初期の 1664 年。小田原の祟雪が、西行法師の詠んだ歌《心なき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮≫ に因み、昔の沢らしい面影を残す現在の鴫立庵の地を 

選んでこの地を「鴫立沢」と名づけ、標石を建てました。では、標石の裏に祟雪はなぜ「著盡湘南清絶地」と刻んだのでしょう。祟雪にとって、大磯の「鴫立沢」付近のこの景色は、

中国 湘江の南方 一帯の ” 湘南 ” の美しい景色に似てなんとも美しい場所であったことから、「著盡湘南清絶地」と刻んだといわれています。

 著盡湘南清絶地とは、おおらかで、すがすがしく、この上もない所、湘南とは、何と素晴らしい所という意味です。(大磯町HPより)

  

新島襄終焉の地」京都・同志社の創設者「新島襄」は、大磯の旅館百足屋で47歳の生涯を閉じました。徳富蘇峰の筆による碑がかつて百足屋の玄関だった所に建てられました。

  

大磯海岸照ヶ崎海岸は、明治18年(1885)に陸軍軍医総監を歴任した松本順の尽力により、東日本最初の海水浴場として開設されました。

江戸時代の大磯宿は、本陣三軒、旅籠66軒、宿内総戸数676軒。本陣は、尾上、小島、石井の三つで小島本陣跡は探し出しましたが、他の2軒は見つけられませんでした。

   

国道1号線、三沢橋東側の信号より斜め左に入ります。しばらく歩くと、両側に東海道松並木が見えてきます。

  

JRの地下道路を通ると「化粧坂(けわいざか)の一里塚」です。このあたりが広重の描いた東海道大磯宿「虎ヶ雨」の舞台です。

  

曽我兄弟の曽我十郎の妻「虎御前」は、化粧坂付近に住んでいて、朝夕この井戸の水を汲んで化粧していたことからこの井戸を「化粧井戸」の名がついたそうです。

 

高麗(こま)という地名があります。近くには、広重の浮世絵虎ヶ雨に出てくる高麗山(こまやま)、高来(たかく)神社・・・・・何か高麗の地名が出てきます。

ウィキペディアで調べてみると、高句麗が新羅・唐連合軍に滅ばされた時に、その王族・若光を中心に高麗人が相模国大磯に渡来し、その後若光一族を含めた各地の高麗人は

武蔵国高麗郡(こまぐん)に集められ、高麗神社も設立したという。高来神社の例大祭「御船祭」の木遣歌「権現丸」に、「高麗国守護」が渡来して、「大磯浦の守護」となったとある。と書かれています。

そういえば、何年か前、埼玉県飯能のウォーキング大会に参加した時、高麗(こま)神社がありました。大磯から埼玉の方に移住していたのですね。

  

花水橋を渡ります。渡り終えた花水橋東の所に「平成の一里塚」があります。化粧坂の所にも一里塚がありましたが、それから1里は歩いてはいません。

説明文を読むと、休憩場所として作ったとのこと。何か紛らわしいですね。

   

平塚市に入りました。平塚の地名は、桓武天皇の三代孫、高見王の娘政子が、東国へ向かう旅をした折にこの地で逝去。墓として塚が作られたが、その塚の上が平らになったので、

里人は「ひらつか」と呼んだそうです。

広重の浮世絵「平塚」は、高麗山をバックに描かれています。

  

平塚宿は、本陣1、脇本陣1、旅籠54、家数443、人口2114人の規模でした。

 

本陣跡は、神奈川銀行前にありました。

 

 

 

平塚駅近くに「番町皿屋敷」に出てくる「お菊塚」があるということで行ってきました。番町皿屋敷は、私が子供の頃、で映画で見たことがあります。お菊の霊が1枚、2枚・・・・と皿を数えるシーンなんか

怖くて怖くてその夜は眠れなかった思い出があります。

  

時間は16時を過ぎました。今日はここまでとします。尚、今日のGPSですが、機械がおかしくなり、ちゃんと軌跡を記録していませんでした。

 


東海道道草ウォーク№39「箱根湯本~小田原宿」(神奈川県箱根町~小田原市)

2018-04-23 16:52:53 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

4/11(水) 昨日とは打って変わって雨の朝です。特に風が強い為、ポンチョと傘をさしてのウォーキングです。また、風車は強風の為お休みします。

9:30ウォーキング開始。入生田駅の手前の山崎には、「山崎ノ古戦場跡」があります。

戊辰戦争の時、新政府軍が伊庭八郎らの率いる遊撃隊と戦い、これを破った場所です。この戦いで伊庭は、左腕を失いました。

入生田駅の所から街道は、小田原市に入ります。

 

  

歩いていると、「紹太寺」の看板が見えてきました。

江戸時代初期の小田原藩主だった稲葉氏一族の菩提寺です。当初は、小田原城下山角町にありましたが、第二代稲葉美濃守正則が寛文九年(1669)、幽邃境として知られた現在地に移建し、

山寺号も「長興山紹太寺」と称し、父母と祖母春日の局(三代将軍徳川家光の乳母)の霊をとむらいました。

 開山は、京都宇治の黄檗山万福寺で隠元禅師のもと修行に励んでいた名僧鉄牛和尚で、当時は、東西十四町七十間、南北十町十六間という広大な寺域に、七堂伽藍が配置され、

黄檗宗では関東一の寺院でした。元禄四年(1691)、江戸への旅の途中、ここを通過したドイツの医師ケンペルは、旧東海道に面した長興山の総門の壮麗な姿を、

『江戸参府旅行日記』に書きとめています。しかし、これらの堂塔が幕末安政年間の火災で焼失してしまったのは、まことに惜しまれます。(紹太寺HPより)

 

  

このあたりに一里塚があるのですが、見つけられません。近くの人に聞いてやっとわかりました。「風祭の一里塚」は、道祖神の碑の所にありました。江戸から21番目の一里塚です。

風祭の踏切の所には、「日蓮聖人霊跡象ヶ鼻」があります。かつてここには、象の鼻に似た巨石があったそうです。

  

風祭踏切を渡ります。しばらく歩くと右側に「小田原用水(早川上水)取入口」があります。小田原用水は、箱根芦ノ湖を源とする早川の水をこの地で取入れ、旧東海道に沿って城下内へ

流した上水道です。後北条時代に造られたもので、徳川家康が江戸城築城の際に手本としました、形態は変わりましたが、現在でも用水の取入口が残っています。

   

上板橋の信号から旧道に入ります。雨は、まだ降り続いています。時々突風が吹き、さしていた傘が飛ばされそうになります。大事なマップも濡れて見にくくなりました。

宗福院に「板橋の地蔵尊」があります。永禄12年(1569)香林寺九世の文察和尚が、湯本宿の古堂に祀られていたものを現在地に移転しました。新仏の供養に3年間続けて参拝するという

風習があり、毎年1月と8月の23・24日の縁日には大勢の参拝客で賑わいます。

歩いていると、左側に旧家があります。「内野邸」があります。明治36年(1903)に建てられ、3代に渡って醤油醸造業を営んでいました。当時流行していた土蔵造り風の町屋で、

「なまこ壁」や「石造アーチ」など、和洋折衷の特徴ある意匠が取り入れられた貴重な歴史的建造物です。

  

板橋には、古い建物が現存しています。豆腐屋さんの所に「街かど博物館」という幟が立っています。小田原には古くから栄えた産業文化を今に伝える地域資産がたくさんあります。

かまぼこ、漬け物、菓子、ひもの、塩辛、そして木工などの地場産業がその代表的なものです。工夫を凝らした展示、店主との会話、さらには体験を通して、

小田原の産業にかかわるひと・製品・ものづくりの結びつきを知ってもらうことにより、小田原の魅力を高めようとするのが「街かど博物館」です。

ここの豆腐屋さんは、関東大震災のあと建てられ、出桁造りの建物です。

祇園精舎の守護神として知られる牛頭(こず)天王は、疫病除けの神として京都東山の八坂神社(もと祇園社)をはじめ全国で信仰されています。この信仰は、もと中国にある牛頭の形をした山が、

熱病に効果のある薬草を産出したところから、この山を疫病にご利益のある山として崇められたことに始まり、その後インドの密教などと結合してわが国に伝えられました。わが国での牛頭天王は、

疫病、農作物の害虫や、その他邪気を払い流して去ってしまう疫神の信仰と調和して、薬師如来や素盞鳴命と同体と信じられるようになりました。

居神(いがみ)神社は、板橋と山角町の氏神。戦国時代初期の名族三浦荒次郎義意と木花咲耶姫命を祭神としています。境内には鎌倉時代末期の念仏供養碑の古墳群があります。

  

雨は容赦なく降りつづけ、マップ、ガイドブックなどがボロボロになりました。今日はもうここまでとし、最後に小田原城を見ておこうと小田原城に向かいました。

小田原城の前身は、室町時代に西相模一帯を支配していた大森氏が、現在の県立小田原高等学校付近の高台(八幡山)に築いた山城でした。城の規模や築城年は明らかになっていませんが、

15世紀の中頃に造られたのではないかと考えられています。15世紀末、伊勢宗瑞(後の北条早雲)が小田原に進出し、以後、北条氏が5代約100年にわたって関東での勢力を拡大していきました。

小田原城は、関東支配の中心拠点として整備拡張され、豊臣秀吉の来攻に備え城下を囲む総延長9kmに及ぶ総構の出現に至ってその規模は最大に達しました。

しかし、天正18年(1590)、石垣山一夜城の築城をはじめとする秀吉の小田原攻めにより北条氏は滅亡し、戦国時代が終焉を迎えました。

北条氏滅亡後、徳川家康に従って小田原攻めに参戦した大久保氏が城主となり、城は近世城郭の姿に改修されました。その後、大久保氏の改易にあたり、城は破却されましたが、

稲葉氏の入城の際に再整備され、城の姿は一新されました。貞享3年(1686)に再び大久保氏が城主となり、小田原城は東海道で箱根の関所を控えた関東地方の防御の要として幕末に至りました。

小田原城は、明治3年(1870)に廃城となり、明治5年までに城内の多くの建物は解体されました。(小田原城HPより)

小田原市のマンホールは、箱根越しの富士山,小田原城,酒匂川の渡し,が描かれています。11月に行われる「小田原ツーデーマーチ」は、ここが会場になっています。

 

    

丁度お昼の時間になり、食事をしようと小田原駅に行きました。今日の飛行機の時間は、19:30.まだまだ時間があります。このあとの予定は食事を終えてから考えようと思います。

小田原駅構内のレストランには、湯本の富士屋ホテルが入居しています。今日は平日ですのでそんなに混んでなくすぐ入れました。ランチ@1300円ぐらいだったかな?

   

さて、食事も終わり、これから帰りの飛行機の時間までどうしようか?と考えていた時、外を見ると、雨が上がり少し碑も射してきました。

今日は、大磯ぐらいまでを予定していましたが、とにかく行けるところまで行ってみようと思い、早川口に戻りました。

人車鉄道、軽便鉄道 小田原駅跡」は、かつて、人間が客車を押すという世界的にも珍しい鉄道が、小田原~熱海間を走っていました。

明治28年7月に熱海~吉浜間で営業を開始し、翌29年3月に熱海~小田原間が開通しました。

当時、熱海は温泉宿約30軒ほどの保養地で、政財界の大物や文人が盛んに訪れていました。しかし、東京・横浜方面から熱海に至るには海沿いの険しい道(熱海街道)を歩くか、

駕籠か人力車を利用していました。そこで、熱海の旅館業主を中心に地元有志や京浜の実業家等が小田原熱海間に鉄道計画を興し、経費も安価であったことから人車鉄道を建設しました。

豆相人車鉄道と呼ばれ、小田原熱海間25.6km。駕籠で約6時間かかっていたところを約4時間で走りました。 

豆相人車鉄道は、1車両に客は平均6人、それを2~3人の車夫が押していました。6両編成で、小田原熱海間を日に約6往復し、急な上り坂になると、客も降りて一緒に押したという

のどかな風景も見られました。雨宮敬次郎を社長とする豆相人車鉄道株式会社として事業に当たっていましたが、明治41年8月に軽便鉄道に転身し、約3時間の所要時間になりました。

しかし、大正12年に起きた関東大震災によって軌道は寸断され、復旧を断念。翌13年に鉄道事業の幕を閉じました。(小田原市HPより)

柳屋ベーカリーは、薄皮アンパンが名物です。然し僕らが行ったときには売り切れでした。このあと同じように薄皮アンパンを作っている駅前の守谷パンに行って薄皮アンパンを購入しました。

小田原市には、各町名や、その町の歴史を書いた石碑が建てられています。ここは、山角町です。

 

   

お城のような建物が見えてきました。「外郎(ういろう)博物館」です。中に入ろうかと思いましたが、今日水曜日は定休日でした。

「ういろう」というと、名古屋のお菓子「ういろう」を思い浮かべますが、もともと「ういろう」は、ここ小田原で造られた「お薬」だったそうです。

中国の元朝に仕えていた陣延祐という人が日本に帰化して中国での官職名「礼部員外郎(れいぶいんがいろう)」の外郎をとって官職名とまちがえないように読み方を変えて「ういろう」と名乗りました。

京都で朝廷に仕えた2代目が、家伝薬の処方を持ち帰って丸薬「透頂香(とうちんこう)」を作り、さらに外国使節団を接待するための菓子も考案した。これが現在の和菓子「ういろう」です。

つまり、お薬と和菓子の両方の「ういろう」を作っていました。外郎家は今日まで650年25代に渡り歴史をかさねています。

外郎博物館の向かえにも古い薬局(済西堂薬局小西本店)があります。寛永10年(1633年)創業、400年近い歴史を誇る老舗の薬局が所蔵品を公開するミニ博物館。年期の入った百味たんす、

薬剤をすりつぶす乳鉢や秤など、薬関係の貴重な骨董品が展示されています。木造・平屋建、瓦葺きの建物は、国の登録有形文化財に指定されています。

関東大震災で倒壊した明治時代の旧店舗の材料を一部用いて1925年(大正14年)頃に完成したと伝えられ、軒出しも大きく、柱など主要部材に欅材を用いており、小田原の歴史を物語ります

 

   

東海道小田原宿は、品川から数えて9番目の宿場町。本陣は4軒、脇本陣4軒、旅籠90軒。東は徒歩渡りの酒匂川、西は、箱根越えが控えていましたので、小田原で宿泊する人が多く、

土産物、や旅の必需品を売る店も多く、蒲鉾、梅干し、ういろう、提灯などが小田原名物として広く知れ渡りました。

  

  

脇本陣古清水屋には、昭和20年(1945)8月15日の空襲の説明看板が建てられています。8月15日というと、終戦記念日。その日の12時に玉音放送で日本の敗戦が決まりました。

その日の深夜1時、2時ごろの空襲だったそうです。焼失した家屋は400軒、死者12名。あと半日で終戦だったのに何とも痛ましいです。

  

 時間は3時を過ぎました今回は、このあたり迄とします。今回は、難所の箱根越えも無事終了したしました。江戸まであと、85kmになりました。ゴールが見えてきそうです。

駅に戻る途中、「だるま料理店」という古い貫録のあるお店がありました。お昼のランチもあるらしく、次回は行ってみたいですね。

駅前の守谷パン屋さんで薄皮アンパンをゲットしました。

    

 

 

 

 

 

 

 


東海道道草ウォーク№38「箱根関所~箱根湯本」(神奈川県箱根町)

2018-04-20 07:05:35 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

4/10(火) 箱根関所資料館を出ると恩賜箱根公園の所に「箱根八里」の歌碑があります。この歌1番が昔の箱根、2番が今の箱根をうたっています。尤も明治34年(1901)の作品です。

そもそも「箱根」の地名の由来というのが気になって調べてみると、箱根の由来には、いろいろな説があります。例えば。。。

・ハコは「神仙」、ネは「山」という意味で、ハコネとは神の住む山である

・火山により、カルデラと外輪山ができ、地形が凹んだ箱のようなことから  など。由来として正しい解釈は、未だ判明していません。

 

  

箱根~三島間が西坂に対し、箱根~湯本間を東坂とよんでいます箱根~権現坂ー天ヶ石坂ー白水坂ー於玉坂(甘酒茶屋)-追込坂ー猿滑坂(見晴茶屋)-橿木坂ー西海子坂ー(畑宿)-

大澤坂ー割石坂ー女転し坂ー葛原坂ー観音坂になります。

恩賜箱根公園から旧街道に入ります。このあたりは、「箱根八里」の歌詞「昼猶闇き杉の並木」に出てくる箱根杉並木。恩賜箱根公園から元箱根まで約500m続きます。1618年(元和4)、

幕命によって川越城主・松平正綱が植林したと伝えられています。400本を越える樹齢400年近くの杉が連なり、夏の強い日差しや冬の寒風から旅人を守っていました。

なかには幹回り4mの大木もあります。

    

 箱根神社は箱根大神(瓊瓊杵尊、木花咲耶姫命、彦火火出日尊)をお祀りしています。

身替わり地蔵は、宇治川の先陣争いで名高い梶原景季は、ある時、箱根を通りがかった時、何者かに襲われました。当時弁舌巧みで度々人を陥れた平景時と間違えられたそうです。

幸いにも傍らにあった地蔵が身替わりになって、命が助かりました。それ以来この地蔵を身替わり地蔵と呼ぶようになったそうです。

   

賽の河原は、芦ノ湖畔や元箱根にあった石仏、石塔をここに集めたものです。

ケンペルとバーニーの碑は、およそ300年前、ドイツ人医師であり博物学者のケンペルが来日。箱根の山を越えて、江戸に参府した。その時の印象を記したのが『日本誌』。箱根の美しさを称え

世界に初めて箱根の植物(ハコネグサ)を紹介したことでも知られます。イギリス人貿易商バーニーはケンペルの書いた『日本誌』に感激し、箱根の自然保護を訴えました。

この2人の功績を称える石碑です。ここから権現坂に入ります。

   

 お玉観音堂」は元禄15年(1702)、お玉という10代の少女が江戸の奉公先の家から伊豆の実家に逃げ帰ろうとしたが、関所手形を持っていなかったため箱根関を通ることができませんでした。

そこで、関を通らずに周囲の山にあった柵を通って関所破りをしましたが、関所の番人に捕まり2か月後に処刑されました。その後、「那津奈可池」(なずながいけ、お玉ヶ池の旧名)で

お玉の首を洗ったという伝説ができたことから「お玉ヶ池」と呼ばれるようになりました。お玉の霊を供養するための観音堂です。

 箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川 という箱根馬子唄の碑がここに建っていました。

   

ゆっくり坂を下っていると、後ろから大きな足音が聞こえます。僕らはゆっくり下っていますので道を譲りました。外人のカップルでした。外人にもこの石畳は人気なんでしょうか?

この外人のカップルは、この先の甘酒茶屋まで歩かれていました。

    

恩賜箱根公園から約1時間10分で「甘酒茶屋」に到着。説明文によると、湯本~箱根関所間は、道が大変険しく、当時の旅人が普通1日10里(約40km)を費やすところ、箱根地区では、

8里(約32km)しか歩けなかったそうです。 ※僕らは、写真を撮ったり、寄り道をしたりで1日20kmぐらいしか歩けません。

江戸時代この地には4軒の茶屋がありましたが、明治13年(1880)国道1号線も開通などから街道を歩く人が減少し、現在ではこの地に1軒のみとなっています。

因みに、この店の店主は13代目だそうです。店内は、観光客それも半数は外国の方が多かったです。

中に入ってみると、ちょっと薄暗い感じですが、甘酒ではなく、力餅を注文しました。餅は暖かくそんなに甘くもなく大変おいしかったです。

また、この店には、赤穂浪士の一人神崎与五郎の詫状伝説が残っています。赤穂浪士神崎与五郎が、同志と江戸へ下る途中、箱根の山中で馬子の丑五郎から馬をすすめられたが断った。

そこで丑五郎は悪態の限りをついたので、与五郎は思わず刀に手をかけ切り捨てようとした。しかし大事の前の小事と涙を飲んで我慢をし、甘酒茶屋にて詫証文を書き土下座して謝った。

月日が経ち、丑五郎の耳にも仇討ちの話が入り、あの時の浪人がかの神崎与五郎と知り悔い改めたという

  

笈ノ平は、坂道が一旦途切れて道が平坦になっています。そのため茶屋などが設けられていたそうです。

ここには、親鸞上人が、関東での布教を終えて西国に帰る時、関東に残る弟子たちと別れる時、笈を渡したことから親鸞上人御舊蹟の碑があります。

この時、「病む子をば預けて帰る旅の空 心はここに残りこそすれ」と詠んでいます。

   

猿滑坂、橿木坂を通ります。猿滑坂は、新相模国風土記には、殊に危険、猿猴といえどもたやすく登り得ずよって名とす。と書かれています。

旧街道は一旦広い道に出ます。ここが、箱根駅伝コースかな?と思いましたが違うようです。ここからヘアピンカーブが連続します。ここが箱根七曲がりです。

  

再び旧道へ。

  

畑宿一里塚です。一里塚の横には、芹沢光治良の箱根八里歌碑「箱根路や往時をもとめ登りしに未来の展けてたのしかりけり」が建っています。

  

間宿畑宿の本陣は屋号を茗荷屋と呼ばれた名主の本屋敷跡です。家屋は大正元年(1912)全村火災の折に消失しましたが、庭園は昔を偲ぶそのままの姿で残されました。

小規模ながら旧街道に日本庭園として他に無かったようです。畑宿は、今から百二、三十年前の江戸時代の中期には本街道の宿場として今より多く栄えた集落で、

郷土の伝統工芸「箱根細工(箱根寄木細工)」が生まれ育ったところです。畑宿で木地細工が作られた記録はかなり古く、小田原北条氏時代までさかのぼります。

江戸時代畑宿は箱根旧街道の間(あい)ノ村として栄え、たくさんの茶屋が並び、名物の蕎麦、鮎の塩焼き、箱根細工が旅人の足を止めました。

安政4年(1857)11月26日、米国初代領事で伊豆下田に於けるお吉物語で有名なハリス・タウゼントが江戸入りの途中、ここに休憩鑑賞しました。

ハリスの箱根越えはエピソードが多く大変だったようです。下田から籠で上京したハリスが箱根関所で検査を受ける際、ハリスは「私はアメリカ合衆国の外交官である」と

検査を強く拒否すすて関所側とトラブルを起こしてしまいます。下田の副奉行が中に入って、ハリスを馬に乗せて籠だけ検査をすることを提案し、関所側は妥協しました。

ハリスは怒ったり笑ったりで関所を通り、そして畑宿本陣に着いてから彼がはじめて見る見本式庭園の良さに心なごみ機嫌はすごぶる良好になったといいます。

明治元年十月八日明治天皇が東京遷都の御途次や翌年皇后の京都還幸の御途次等で小休ならせらした聖跡の碑も建てられています。(説明文より)

  

大澤坂を通り、須雲川自然探勝歩道に入ります。ここは、一部が旧東海道です。途中に東坂の接待茶屋跡がありました。

  

割石坂は、曽我五郎(曽我兄弟の弟)が富士の裾野に仇討に向かう途中、腰の刀の切れ味を試そうと路傍の石を真っ二つに切割った所と伝えられています。

江戸時代の石畳は、石全体が丸くなっており、雨が降った時など、滑りやすくなっています。

   

歩いていると「丸太橋」を渡ると書いてます。そろりそろりと下りていくと、丸太橋でなく木橋が2つ架かっています。何となく江戸時代に返ったようで渡りました。

  

女転し坂は、寛永年間(1624~1644)に女の人が馬に乗って坂を越えようとしましたが、傾斜のあまりにも厳しさに落馬して亡くなったことから坂の名前がついたそうです。

鎖雲寺には、初花・勝五郎の墓があります。浄瑠璃(じょうるり)歌舞伎の登場人物。「箱根霊験躄仇討(はこねれいげんいざりのあだうち)」の主人公夫婦。飯沼勝五郎は妻の初花とともに 

父の敵(かたき)をもとめて旅をするが,病から両足が不自由となる。箱根で初花は返り討ちにあうが,亡霊となって滝にうたれて祈願すると,勝五郎の足がなおり敵討ちをはたす。

享和元年(1801)司馬芝叟(しそう)が実録を浄瑠璃に脚色。

    

ホテルの名前にも「初花」が使われています。

葛原坂、昔、観音堂があったとされる観音坂・・・・・これで箱根東坂を越えてきました。

  

旧湯本茶屋村の村境には、「男女双体道祖神」があります。男女が手をつなぎ、寄り添う姿から仲睦ましい道祖神と呼ばれています。

   

正眼寺は鎌倉時代に地蔵信仰から生まれたお寺。仇討で有名な曽我兄弟に関係するお寺です。

裏山にある曽我堂には県、および町の重要文化財指定の曽我兄弟木造地蔵菩薩立像が祀られており、境内には供養塔、槍突石など、曽我兄弟ゆかりのものが多く残っています。

  

三枚橋を渡り、今日のゴール「箱根湯本駅」に向かいます。

17:25 小田急箱根湯本駅に到着しました。今日は、8:45にスタートし、約9時間歩きました。石畳が多く疲れました。