よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

志摩の朝市が終了しました。(福岡県糸島市)

2013-06-30 09:41:36 | その他
27年間も続いた糸島市の「志摩の朝市」が6/30をもって終了ということで朝早く起きて朝市に行ってきました。

この朝市は昭和61年、当時志摩町役場前で開催されたのが始まりでした。
開催されたときは第二、第四日曜日だけでしたが、新鮮な野菜や魚介類が生産者直売で安く販売され福岡市内や近郊の方から
お客さんが買いに来られていました。
それから毎週日曜日になり、会場も志摩公園内のプロムナードに移りました。
最盛期は、出品者が114名、お客さんも年間55000人も来るようになり、地域活性のモデルとして
全国各地からの視察も相次ぎました。
特に20年ぐらい前でしたか、国産の米が不足状態の時でもここでは国産のお米を販売していました。
生産者との対面販売ですのでおなじみさんになると時々「おまけ」をしていただくこともありました。
また、お盆や年末になると開始時間前からお客さんが殺到し近くの道路では「朝市渋滞」もできていました。

その朝市ですが、平成になり「伊都采彩」や「志摩の四季」「福の里」などの大型産直店ができると
お客さんがそちらの方に流れていき、生産者もそちらの方に出荷するようになりましたので
だんだん縮小していき、今回閉鎖となりました。

今日が最後ということでお客さんもいつもの倍。
放送局のクルーも入っていました。
  
最後なので野菜、お魚もいつもよりは安く売られています。
  
  
 
27年間の感謝をこめて記念品も配られました。
  
  

私は、この朝市とは開店当初から来ています。
早起きが苦手でしたが朝市があるようになるとどういうわけか早起きします。
初めのころはお饅頭屋さん、お弁当屋さん、干物屋さん、お漬物屋さんなどがあり、レシピも教えていただきました。
その方たちも高齢なり朝がきつくなったと言ってやめられだんだん出品者の数が減ってきました。(この朝市に出店するのに朝3時ぐらいから用意されているそうです。)
それも今日で終わりですね。

27年間おいしいものを安くしていただき有難うございました。
家内はなじみの生産者の方を見ると少し涙ぐんでいました。

来週から日曜日の朝の楽しみが一つ減りました。

下記は2010年年末の志摩の朝市の一コマです。
  
  






公園散歩

2013-06-22 09:59:58 | ウォーキング
私の家の近くには広い公園があります。1周歩くと約1,5km 
1年前ぐらいは、早朝ここを3周~4周するのが日課でした。
6月は街道歩きやウオーキングの遠征などで行ってませんでしたが今日久しぶりに歩いてきました。

この時期、公園にはクチナシ、ねむの木、などが咲いています。

山梔子
 
近くを通るといい香りがしてきます。

けむりの木
  
初めて見ましたがこのもうもうとしたところがけむりの木と言われるのですね。

山桃

子供のころ、山に行くとこれを採って食べていました。
もう少し赤くなったらこれを採ってヤマモモ酒にしたらとてもおいしいですね。大人の味です。

合歓の木
  
  
夜になったら眠るという合歓の木  朝が早かったですがもう起きていました。





H25,見返りの滝のアジサイ(佐賀県唐津市)

2013-06-20 19:18:55 | お花
先日、ブログ友達の方のブログを覗いていたら「アジサイで勝負」という記事がありました。
2年ぐらい前、あるSNSに所属していてこの時期関東の人と「アジサイで勝負」というアジサイ、菖蒲で東西対決していました。
この企画はもう一つ意味があり、ちょうどプロ野球の交流戦が行われており関東の方のGというチームと我が西のSの対決でもありました。
この対決がSNSの名物になり皆様で盛り上がりました。

その対決に私はこの「見返りの滝のアジサイ」を投稿していました。
落差のある滝とアジサイのコラボでいい点数を稼げたと自負しています。

今年もその「見返りの滝」に行ってきました。見返りの滝は今、アジサイ祭りが行われています。
JR相知(おうち)駅から歩いて40分。滝の入り口のからアジサイの花が迎えてくれます。
   
   
  
途中のアジサイを見ながら見返りの滝に行きます。
 

アジサイ橋を渡ると見返りの滝が見えてきます。
今日は未明に雨が降ったので滝も勢いよく落ちてくるみたいです。
  
    
  

見返りの滝のアジサイ祭りは今月の30日まで行われるそうです。

  

帰りには、佐賀で有名な「井手のちゃんぽん」をいただきました。
野菜たっぷりのチャンポンです。

山陽道(西国街道)を歩く(玖波~宮内串戸)

2013-06-13 20:23:54 | 山陽道(西国街道)を歩く
山陽道(西国街道)歩き15日目
朝、徳山のホテルを出発し昨日ゴール地JR玖波駅へ。9:30ウオーキング開始。
天気予報は北部九州は雨とのことですが、ここ大竹では午後3時ぐらいから雨との予報。
今日は3時ぐらいまで歩こうと思っています。

玖波駅を出て海岸側に出ると玖波宿に入ります。
玖波宿本陣跡は、JAの向かい側にありました。
玖波宿は、町内を23丁30間(約2,6km)に渡っていました。
寛永12年(1635)に参勤交代制度が確立されると本陣は幕史や大名の宿泊にあてられました。
慶応2年(1866)征長の役では、激戦地となり民家423軒焼失、1688人罹災しました。
そのため防火袖壁(うだつ)を備えた家が多くなりました。
現在の街並みは明治になってからです。
    

この本陣跡の並びには「起こり(むくり)屋根」と呼ばれる屋根の中ほどが盛り上がる形式の旧家があります。
  
玖波宿の街並みです。「うだつ」のある家が見られます。
   

町並みを抜けるとトンネルがあります。ここから海岸線に出てきます。さて、街道は???

近くで草刈り作業されている方に聞くと途中まで案内してくれるということです。
民家と民家の間を抜け(これも街道です)、土手を上ります。
見ると草茫々です。ひょっとして「マムシ?」が出るのでは・・・・一瞬私の脳裏にそれがかすみました。
私がそう思ったのを察知されたのか、野菜支柱用の「イボ竹」をくださいました。
そのイボ竹をたたきながら山道を歩きます。
  
5分ぐらい歩くと山陽本線トンネルの上を歩くようになっています。道幅50cmぐらいでしょうか?
このフェンスからはみ出たら・・・などと余計なことを考えたりします。
  
それから約5分ぐらいで「鳴川の石畳」に出てきました。なんとかこの峠越せたようです。
地元の方には大変お世話になりました。

一旦平地に出て次は「残念社」を目指します。
残念社と何か珍しい社ですが、これは
「慶応2年(1866)7月9日四十八坂を単騎で西に向かって馳せやる幕府軍の武士がいた。
これを見た長州軍は戦闘員だと勘違いをして狙撃してしまった。その武士は「残念」といって倒れた。
この武士は丹後宮津藩士の依田伴蔵で軍使として長州軍営に赴く途中であったことがわかり長州軍は
遺憾の意を表した。残念社は村人が伴蔵の戦死を悼んで祭った。」
    命を奉じて単騎敵営に向かう哀心願う所は只和平
    惜しいかな涙を呑んで中道に斃る幕畔長に留る残念の声

   
地元の方は「残念さん」と呼んでいるそうです。

その残念社の横に「吉田松陰腰掛の石」があります。
   
ここは、三県一望の地と詠んでいますが、現在は木が茂り見えません。

雨がポツリポツリと降ってきましたがまだ傘をさすぐらいではありません。街道は「宮浜温泉」を過ぎました。

この西国街道には、応安4年九州探題に任ぜられた今川貞世(了俊)が下るときに歌を残しています。
「古代山陽道の道」という案内板の所を行ってみると昔の石畳が残されています。
その先には今川貞世の歌碑があります。近くの民家の庭先には珍しいお花がさいていました。「フェイジョア」というそうです。

  浪の上に 藻塩焼くかと 見えつるは あまの小舟に たき火なりけり
  

12:14JR大野浦駅に着きました。
駅の横には一里塚と今川貞世の歌碑があります。
   
   おおのうらを これかととえば やまなしの かたえのもみじ 色に出でつつ

「大野浦」の地名はこの歌からとったそうです。

雨は小雨ですが身体に感じるぐらいになりました。このまま駅から電車に乗って帰ろうか、いや折角来たのだから傘をさしても今日の目的地まで
行こうかと家内と相談しましたが、折角来たのだから行こうという結論に達しました。これからは傘をさしてのウオーキングです。

大野浦駅から1kmぐらい歩いたところに「道標」が建っています。
見てみると「右 宮島・広島  左 宮内 妹背滝道?」

JR山陽本線もここからは海沿いに宮島方向へ、西国街道は山陽自動車道沿いの山側になります。

滝の下の信号を左に入ると前面に大きな鳥居があります。
新幹線、高速のガードを潜ると「大頭(おおがしら)神社」があります。
大頭神社は、厳島神社の攝社として推古天皇の11年(603)に創建されたものです。
平清盛が安芸の守であった当時から毛利・福島・浅野の三家を経て廃藩にいたるまで社領米を付せられていた。
 
ここには「妹背(いもせ)の滝」があります。
雄滝と雌滝の夫婦滝で雄滝は、高さ30m、雌滝は、高さ50mです。
このところ雨が少なく滝量も減っているように見られます。
  
再び滝の下の信号に戻り西教寺の所から新幹線沿いに歩きます。しばらく行くと山手の方に行きます。
  
征長の役の「陣馬跡」、大野で一番古い「高畑溜池」を通ります。

この高畑には貝塚など史跡が多く昔はこの辺りまで海だったのでしょうか?
   

孝子久蔵の碑があります。
久蔵は江戸末期の人で高畑に住み孝子の誉が四隣に高かった。特に父の死後盲の母に仕えては自らの食を減じてその好物を求め常に母を背負うて
寺院に参詣する等 母の喜びを以って己が喜びとした。
寛政5年七月藩主が米三俵を贈り孝子の鑑みとして之を賞した。

この地区には大頭神社縁起書に「大野次郎伝説」があります。
それによると
 推古天皇(593~628)の時代 勅命で太郎、次郎、三郎、四郎、十郎という五人の兄弟が大野町に降り、
 田畑を開いて農業を始めました。
 総領の次郎は土井、兄の太郎は鳴川、弟三郎は原、四郎は中山、十郎は鯛の原を夫々開墾したと伝えられています。
 太郎峠、十郎峠という地名が現存しています。

次郎を祀ったお宮が「新宮神社」です。地元では「新宮さん」と呼ばれているそうです。
  

更に先に進むと街道は山手の方に向かいます。
すぐ横を高速道路が通っています。
今までこの街道を歩いて感じたのですが、どうもこの山陽自動車道は旧街道を走っているように思えます。
ここには「三槍社(みやりしゃ)」がありました。
三槍社は、大頭神社の攝社の一つで祭神は葉山祇尊。西北の山麓に三つの谷があり、槍状の谷間から命名されたそうです。
  

一里塚を過ぎ高速の方を見ると大きな建物があります。
何だろうと思うと看板に「海の見える杜美術館」と書いてあります。
  

中山という地区にも今川貞世の歌碑がありました。
  

雨は小雨ですが本降りになってきました。地図を見ると宮内駅まではあと少しです。
廿日市JCTのガードを越え畑口の信号の所に「道標」があります。
この道標は古くて読めませんが、津和野街道分岐点だろうと思います。
 

宮内交番の交差点に「専念寺」があります。昔はここにお茶屋さんがあったそうです。その向かい側には一里塚です。
この一里塚昭和57年に建てられました。
  

15:12JR宮内串戸駅にゴール。


今日のGPSです。次回は広島市内に入ります。




 




























山陽道(西国街道)を歩く(関戸から玖波)

2013-06-12 06:50:51 | 山陽道(西国街道)を歩く
6月8、9日と2日間 山陽道を歩きました。
福岡の自宅を車で5時に出て岩国駅には9時半に着きました。岩国駅に車を置き前回ゴール地の「関戸」までは
バスでいきます。関戸に着いたのは10:15。まず客神社(くろうど)で旅の安全を祈願します。
   
今回より私のDバックには、新しい風車がついています。これから暑くなる時期、扇風機代わりになるのではないでしょうか?

客神社をあとに小瀬峠に向かいます。途中「山陽道」の碑があります。近くの方に尋ねますと途中で行き止まりになっているそうです。
したがってまっすぐ歩きます。この峠長い上り坂で汗だくだくです。
    
頂上付近にも「山陽道」の碑がありました。

下りてくると右側にも「山陽道」の碑があります。本当はこの道でしょうが、そのまま真っ直ぐ行きました。
  
関戸を出発してから約40分、小瀬の町に着きました。小瀬は昭和30年に岩国市と合併し、街道沿いに合併記念碑が建っています。
この記念碑の先が小瀬川です。ここに「吉田松陰の歌碑」が建っています。

      夢路にもかへらぬ関を  打ち越えて今をかぎりと 渡る小瀬川
安政の大獄で幕府の召喚をうけ籠で護送されながら小瀬川に差し掛かり防長二州と最後の別れをされるときに詠まれたものです。
安政6年5月28日です。それから1か月後江戸に着き幕府の調べを受けられましたが国を思う姿勢が幕府には通ぜず同年10月27日
江戸伝馬町の獄舎で処刑されました。30歳の若さでした。
この書を書いたのが安部首相の祖父の「岸 信介」元総理です。

両国橋に差し掛かりました。この橋の真ん中が県境です。
  
広島県に入ってきました。昨年12月8日下関を出発し、14日目で達成しました。
然し、兵庫西宮まではまだ400km余り・・・・・・・先は長いです。

街道は広島県大竹市木野(この)に入ります。
小瀬川は木野側では木野川と呼ばれています。地図表記は「小瀬川」。また山陽道も広島側では西国街道になります。
両国橋を渡り右の方に行くと「木野の渡し」があります。
    
渡し賃は、武士が無料、一般の人は米1合でした。
小瀬川では洪水が起こるたびに川の流れを変えていました。このため安芸では洪水から村を守るため「福島堤防」と呼ばれる「まき石護岸」や
その上流に「小林三角和久(こばやしさんかくわく)」と呼ばれる三角形の石組みの堤防を築きました。
これらの堤防は何百年もの間洪水に耐えながら今もその役割を果たしています。
  

木野の町は宿場町ではありませんが、小瀬川が雨などで渡れなく足止めされされたようです。
そのために仮の宿場になっていました。
  

更に小瀬川沿いの西国道を歩きます。


途中「長州戦跡 苦の坂」入り口の案内板があります。
  
案内板によると

ここは、西国街道苦の坂です。木野側に4町9間(453m)の急坂を持つこの天剣は古くから大河原山・立戸山とともに、防長に対する戦陣の敵地として注目されました。
芸防の国境がにわかに戦雲につつまれ、二分された国論を背景に、幕府軍と長州軍が、小瀬川を挟んで合戦の布陣を終わったのは、慶応2年(1866年)の6月13日でした。

幕府方は、正面軍として、彦根藩と高田藩の一手を大竹口へ、側面軍として、高田藩の主力を立戸山から苦の坂に進めました。
これに対して、長州軍は、本藩(萩)の一手と岩国藩の主力を幕府正面軍に配置し、本藩の有力な遊撃軍を要所に配備して機会を待ちました。
翌14日の明け方、幕府軍正面軍の先攻により合戦のひぶたが切られました。長州軍は直ちに烈しい砲火と銃撃をもってこれに応じました。

遊撃軍も未明に行動を起こし、まず住民の立ち退いた中津原に進入し、ここで部隊を二手に分けて、一手は、幕府軍正面軍の側面に向かい、
もう一手は、小瀬村小原道を進んだ他の一体と共同して、幕府軍側面軍の主力に攻撃をかけました。

この苦の坂をめぐる両軍の攻防は、烈しい白兵戦でした。ついに勝敗は決し、勝を制した長州遊撃軍は更に立戸山に進出して、幕府正面軍の背後を抑えました。
この為、このときすでに敗退しつつあった幕府正面軍も退路をたたれて総崩れとなり、逃げ送れた多くの兵士を残して船で逃走しました。

この旧街道を歩いて行こうと思いましたが、何年か前まで頂上付近で通行止めになっているそうで(現在は知りません)もし通行できなかったら、ということと
現在、入り口には1mぐらいの草が茂っており危険看板には「マムシ、ハチ注意」となっており安全面を考えトンネルの方を行くことにしました。

長州戦跡の碑の先には「滕池(ちきりいけ)神社」があります。
  
言い伝えによると推古天皇(600年ごろ)厳島神社の祭神である市杵嶋姫命が筑紫から安芸に移るとき2歳の嬰児を連れてこの坂に差し掛かった。
あまりにも急坂で「えらや苦しやこの坂は金の滕も要らぬものを」と呟かれ持っていた滕を投げられたら麓の池に飛んで行った。
その場所に今の神社を建てた。そうして坂の名前も苦の坂といわれるようになった。
※滕とは何か辞書で調べると  織機の部分品。経糸を巻く中央がくびれた棒状のもの。となっています。

滕池神社を過ぎると国道186号線の油見トンネルになります。隣は高速道御園トンネルです。西国道はこのトンネルの上を通るようになっていますが
途中通れるかどうかわかりませんので油見トンネルを通ることにします。
  
総延長1120mのトンネルを渡り大竹駅を経由して高速道路付近にある西国道に向かいます。

山陽自動車道の横に「橋姫神社」があります。よく気をつけてみないとわかりませんがこの神社は
旧西国街道一の坪馬ころ橋の下に鎮座の姫神様は昔からセキ、ゼンソクまた交通の守護神として広く尊崇されていた。
山陽自動車道建設にあたりこの地に遷座されたそうです。
  

旧小方町に入ってきました。
町の入り口に芭蕉の「けごろもの歌碑」が建っています。※「けごろも」と変換しようとしましたがこの字がありませんでした。
         けごろもに 包みてぬくし 鴨の足
  
「けごろも」とは毛皮でつくった防寒着だそうです。

小方町を歩いていると旧家が残されています。
ウダツのある家、白壁の蔵・・・・・・こんな風景を見るとうれしくなってきます。
    
玄関先にはきれいなお花が咲いています。
もう時の記念日ですね。トケイソウも咲いています。この花は面白い形をしていますね。なんという名前だろう?
    
山陽本線の歩道橋を渡りそこから急な坂道を上ると「亀居城址」があります。

 慶長5年(1600年)、関が原の合戦に敗れた西軍の盟主毛利輝元は領国八カ国のうち防長二カ国を与えられ、その本城広島を去り、
東軍に味方した豊臣恩顧の武将福島正則が芸備二カ国を与えられて、そのあとに入りました。広島に入った正則は直ちに領国の経営に乗り出す一方、
小方・三次・東城・三原・神辺・鞆に支城を置いて守りを固めました。このとき小方の城将には甥の福島伯耆(一万石)を配備して、
慶長8年(1603年)から築城をはじめました。築城に際しては、水野次郎右衛門が総奉行、片尻飛騨が大工棟梁として指揮にあたりました。
五年の歳月を経た慶長13年(1608年)にこの城は完成しましたが、不幸にして城将福島伯耆は完成の前年他界したので、
これに代わって守将山田小右衛門、森佐助の両名が兵を率いて入城しました
なお、この城が亀居城と称されたのは城地が亀の伏した形に似ていたことに由来します。
かくして亀居城は広島本城の支城として、毛利氏に対する軍事的見地から脚光を浴びましたが、この頃、正則に対する幕府の圧力は非常にきびしく、
完成間もない慶長十六年(1611年)、この城は取り壊される運命となりました。(案内板より)
    
ここは大竹市の桜の名所になっており桜の季節には約700本の桜が咲くそうです。

今日のゴール地「JR玖波駅」には15:04に到着しました。駅に着くとすぐ岩国行の電車がありそれに乗って岩国へ。
それから約1時間かけ宿泊地徳山に戻りました。明日は宮内ぐらいまで歩こうと思います。



本日のGPSです。

































第62回加賀百万石まつり

2013-06-10 21:34:07 | お祭り
加賀ツーデーマーチゴール後、百万石まつりが行われている金沢駅前に行きました。
スタートは14:00ですが、すでに駅前道路は人でいっぱいです。
テレビ局は13:30より中継が入りゲストの山下真司さん、熊谷真美さんがスタンバイされています。
 
 
金沢百万石まつりは加賀藩祖前田利家公が天正11年(1583)に金沢城へ入城し金沢の礎を築いた偉業を偲んで開催しいています。
豪華絢爛な百万石行列をはじめ400年あまりにわたりこの地に受け継がれてきた伝統行事が賑やかに繰り広げられます。

今年の利家役は「松村雄基」さん、おまつ役は大河内奈々子さんです。

14:00ほら貝の音で行列が開始されます。
 




いよいよ大名行列です。
 
  
  

第二部は香林坊で行われました。
18:00開始ですが開始前にはもう各団体がスタンバイOKです。。
  

この香林坊の近くには前田利家、おまつご夫妻をお祀りした「尾山神社」があります。
この神社は明治6年(1873)に歴代藩主であった金谷御殿あとに建立されました。
ギャマンがはめこまれたり和、漢、洋の折衷様式を見せます。
 
  

お腹もへってきましたので昨日行った近江町で食事をしたいと思っています。
ここは時々カウンターの寿司が回ります。
 
 
北陸の高級魚「のど黒」の握りも堪能しました。




第10回加賀百万石ツーデーウオーク2日目16km(その2)

2013-06-10 18:57:30 | ウォーキング
(その1)からの続きです。
ひがし茶屋街を出ると卯辰山の方へ歩きます。

最初は観音坂。坂を上ると7体の観音様がお祀りされています。

それから三の坂、二の坂、一の坂と続きます。

さすがにこの坂きつくて疲れます。
さかを上ると「業平の井筒」があります。
謡曲「井筒」による業平の井筒はこの井戸です。大和の在原寺にあるべき井筒であるが故あって慶応3年卯辰山開拓の折この地に
移されました。

卯辰山三神は越後の上杉謙信が七尾城を攻めたときここに陣をしいて臥龍山と名付けました。
この峰を切り開いて神社を建てました。
卯辰神社は慶応3年の創建ですが兼六園にあった竹沢御殿の天満宮を現在地に移しました。
あと「豊国神社」「愛宕神社」があります。
尚、卯辰というのは金沢城から見て卯辰(東)の方向にあることから名づけられました。
  
卯辰山健民公園がチェックポイントです。
  
ここからの眺めが素晴らしいそうですが今日は全般的に曇っていて「白山」も見えません。矢印の方向が白山です。

健民公園は、緑が多く芝生ではグラウンドゴルフの大会も行われていました。
ヤマボウシもきれいな花をつけています。
  
卯辰山を下りてくると浅野川に合流します。兼六あゆみ橋を渡ると中学校の校舎に垂れ幕がさがっています。
 
柔道金メダルの松本馨さんの母校でした。

しばらく歩くと町の家並みが昔のたたずまいを残している所があります。
ウダツのある家がたくさん立ち並んでいます。
  
このあたりは、「こまちなみ住居区域」(旧天神町)に指定され、城下から若松、二股などを経て福光町などの南砺地方を結ぶ旧街道(通称オコ谷往来)へと
至る道筋沿いに形成されました。町名は寛永8年(1635)当地に遷座した田井天満宮(現在椿原天満宮)に因んでいます。
かつては桶屋、鍛冶屋、髪結い、塩屋などのお店が多くあったそうです。
ここの天神山緑地でお弁当をいただきました。

お寺の坂を上ると「兼六園」に着きました。
兼六園は江戸時代の代表的な回遊林泉式庭園で水戸の偕楽園、岡山の後楽園とともに「日本の三名園」と称されています。
延宝4年(1676)5代藩主前田綱紀が蓮池亭をつくり、その庭を蓮池庭と呼んだのが始まりで文永年間から嘉永年間(1818~1853)に
かけてほぼ完成しました。
宏大、幽すい、人力、蒼古、水泉、眺望の六勝を兼ねるという意味から松平定信によって名づけられたといわれています。(ウオーキングパンフより)
今日はお祭りの為でしょうか、入場料は無料です。
  
  
パノラマでも撮ってみました。



私、初めての兼六園ですが実にすばらしいですね。
ツーデーウオークはここからゴールまで自由散策コースになります。
兼六園を一通り回りお城の方へ行きます。石川門の所がチェックポイント。
    


今日(6/02)は、百万石まつりの一環としてディズニーのパレードがあるそうです。
芝生広場にはシートを敷き場所取りをされています。


金沢城をあとに帰途に就く途中、こんな建物を見つけました。
屋根の上は、見晴台になるのでしょうか?何か意味があるのでしょうか?
  
13:06ゴ~ル。お楽しみの抽選会はまたしてもハズレ。期待した「天狗舞」はまたしても夢の物語になってしまいました。

帰りの電車までまだ時間が7ありましたので駅の食堂でビールとおでん定食を。おでんも金沢の名物です。
生き返りました。
   

14:57のサンダーバードで新大阪へ。新大阪より九州新幹線「みずほ」にて博多へ。
楽しい3日間の金沢の旅でした。
今日2日目のGPSです。途中地下道を通りましたのでそこは記録に載ってません。









第10回加賀百万石ツーデーウオーク2日目(浅野川コース)16km(その1)

2013-06-07 08:40:40 | ウォーキング
加賀百万石ツーデーウオーク2日目は、女川の浅野川コースです。
最初は24kmにエントリーしていましたが、帰りの電車のことを考え16kmコースに変更しました。
16kmコースは金沢駅を出て主計町茶屋街〜卯辰山麓寺院群〜ひがし茶屋街〜奥卯辰山健民公園〜兼六園〜金沢城公園とまわり
金沢駅に戻るコースです。
今日の帰りの電車は、14:57のサンダーバードを予約していますので13:30までの5時間でゆっくり見て回ろうと思っています。

昨日は柔道の松本馨さん、元ミス日本さがゆりこさんなどそうそうたるメンバーの中での出発式でしたが
今日は関係者だけの出発式です。

8:40もてなしドームをスタート。
地上に上がるとホテルに異様なオブジェが・・・・・
何をイメージしているのかな?そういえば金沢駅前のオブジェは、倒れたやかんでした。
    
やかんは、金沢を訪れた人に「暖かさ」をイメージしたそうです。

1.6kmで主計(かずえ)町茶屋街に到着。ここは31日に燈籠流しで来ていますが、あの時は夜で人が多くて
あまりわからなかったのですが、すごく情緒があります。河畔には桜が植えられていますので桜の季節は
この景観と桜のコラボが素晴らしいでしょうね。
     
主計町とは加賀藩士富田主計の屋敷があったことからその名がついたそうです。
旧北陸街道が浅野川を渡る浅野川大橋のたもとに位置し、人や物資が行き交う大変繁華な場所でした。
明治半ほどになると「ひがし」「にし」と並ぶ茶屋街として大いに賑わったそうです。
明治の戯曲家「泉鏡花」はこの隣町の下新町に生まれこの界隈のことを作品に描かれています。
「瀧の白糸」の碑はここをまっすぐに行った所にあります。
  
浅野川大橋を渡るとここは旧北陸街道 古い建物が残っています。木造の3階建てもあります。
   

「卯辰山麓寺院群」に入ってきました。
これは金沢城下に作られた3つの寺町の一つで金沢城の北東に位置し起状ある山麓の地形により独特の景観を造っています。
保存地区内には37寺と2つの神社があります。

更に先へ進むと古い商店が立ち並んでいます。酒屋さん、麹屋さん・・・・・・このような建物を見ると懐かしくなります。
私が子供のころもこのような建物があったような気がします。(歳がバレそうですが・・・)

路地の突き当りが「ひがし茶屋街」です。
文政3年(1820)加賀藩の許可を得て浅野川の東に創設されました。保存地区内の建物140棟のうち約2/3が伝統的建造物でその9割が茶屋様式の
町屋です。一階正面に華やかな弁柄塗の出格子を付け江戸後期の茶屋街の雰囲気をよく残しています。(ツーデーウオークパンフより)
朝早かったのですが外国の観光客の方も訪れていました。
  
  

※写真がたくさんありましたので「フォトチャンネル」にしました。

金沢「ひがし茶屋街」



※まだまだ写真がたくさんありますので(その2)に続きます。








第10回加賀百万石ツーデーウオーク1日目(犀川コース)20km

2013-06-05 20:44:02 | ウォーキング
6/01加賀百万石ツーデーウオーク20kmに参加しました。
会場は、金沢駅もてなしドームの地下 多目的広場。とにかく広いスペースでここだったら雨が降っても心配なさそうです。


私の住んでいる福岡は今、梅雨に入っていますが、北陸はまだのようで今日の天気も晴れから曇りという予報です。
今年は10回の記念大会ということで抽選で石川県の物産が当たるそうです。
あの「天狗舞」もあります。(密かに狙っています)


出発式では金沢市長など来賓の中に見たことのある「お顔」がありました。
昨年のロンドンオリンピック柔道金メダル「松本馨さん」です。
松本馨さんは、金沢の出身です。
(余談ですが、女子柔道といえば、実業団では「コマツ」が強いですが、この「コマツ」創設地は石川県小松市だそうです。)


AM8:40 松本馨さん、2004ミス日本グランプリ「さがゆりこさん」のお二人の「エイエイオー」の掛け声で会場を出発。


金沢の川は、犀川(男川)と浅野川(女川)がありその真ん中に金沢があります。
犀川は、昔から大雨が降ると堤防が決壊したり橋が流されたりしたから「男川」、一方の浅野川は、流れがゆるやかで「女川」にふさわしいですね。
尤も現代では女性の方が強くなり、男性が弱くなりましたね。
第一日目はこの犀川を歩くコースです。
今日の私の格好は「くまモン」のTシャツとタオル、もちろんDバックの後ろには鯉のぼりが・・・・・受けが狙いです(笑)。

コースは市街地を抜け「長町武家屋敷」へ。
長町武家屋敷は大野庄用水と鞍月用水が流れる一角に藩の中級武士たちの屋敷が建ち並んでいます。





この長町は藩政時代はすべて藩士の邸宅で香林坊下がる図書橋(ずしょばし)あたりまでの長い町筋だったところからこの名がついたそうです。
また藩の老臣長氏や山崎長門の氏名にも由来するということです。

地下道を横断すると「にし茶屋街」に入ってきました。
にし茶屋街は、ひがし、主計町と金沢に残る三大茶屋街の一つです。文政3年に加賀藩の公認でひがし茶屋街といっしょに開設されました。
現在でも料亭や芸妓置場などが立ち並んでいます。格子と赤い行籠が特徴です。
 
   
  
また、金沢は日本三大菓子処、町には昔からのお菓子屋さんがあります。

長町武家屋敷の所でも感じましたが、金沢にはたくさんの寺院があります。
このあたりは「寺町寺院群」といって藩政期に一向一揆に対する防衛策として約70もの寺院が集められました。
この寺町のお寺の鐘の音は「残したい日本の音風景100選」にも選ばれています。
私たちが歩いたのは10時ごろでしたが朝5時ぐらいと夕方にはお寺から鐘の音が聞こえてくるそうです。
金沢にはあと「卯辰山麓寺院群」「小立野寺院群」があるそうです。





寺町寺院群を出ると犀川の河畔に出てきます。
遠くの山を見ると富山との県境でしょうか、山の上にはまだ雪が残っています。
森の中では「キジ」がいます。
  

コースは「辰巳用水」に入りました。
用水を挟んで遊歩道が整備されています。
辰巳用水は、江戸時代初めの寛永年間(1630ごろ)加賀藩が金沢城の水利を改善するために造営しました。
犀川上流から取水し金沢城に至る約11kmに及ぶ用水です。小松の町人板屋兵四郎が設計したといわれ、
隧道やサイフォンの原理を応用するなど優れた土木技術の跡を残しています。
平成22年には国指定史跡に指定されています。(加賀百万石ツーデーウオークパンフより)
   
 
遊歩道には桐の花も咲いていました。歩いていてとても気持ちがいいです。

11時15分チェックポイントの小立野文化会館に到着。ここまで12,5kmの地点です。
お腹も減ってきましたのでここで出発前にもらった「笹寿司」をいただきます。
箱寿司ですが、これって結構いけます。
    

お腹も落ち着きましたので再び出発します。
しばらく歩くと「天徳院」が見えてきます。
天徳院は、加賀藩主前田利常が前年24歳で亡くなった正室「珠姫」の菩提を弔うため創建しました。
珠姫は、徳川秀忠と継室「江」の次女として生まれ3歳の時に金沢に嫁入りしています。
徳川家康の内孫になります。


コースは下菊橋の手前からまた犀川の河畔に出てきます。
   

芸術村入口の方から市街地に入ります。
今日は(6/01)14時から駅前で加賀百万石まつりがありますのでゴールの場所が金沢駅西口にある「勤労者プラザ」になっています。
12:42無事ゴール。(くまモンのTシャツわかりますか?)
  
ゴールのあとの楽しみはやはりこれですね。
一気に飲んでしまいました。


さて、ゴール後の抽選会では「天狗舞」を狙っていたのですが何番かの違いで惜しくも逃しました。(参加賞だけでした)

初めて金沢の街を歩きましたが、時間があればもっとゆっくり歩いてみたかったです。
素晴らしいコースでした。明日は浅野川(女川)コースです。

今日のGPSですがスイッチを押すのが遅れてしまい途中からになりました。








金沢へ「滝の白糸の碑」を訪ねて

2013-06-03 21:00:15 | 旅行

6月1日〜2日に行われる『加賀百万石ツーデーウオーク』に参加するため金沢に行ってきました。
私の何十年の歴史の中で初めての金沢です。
5/3113時の新幹線で新大阪へ。
新大阪から特急「サンダーバード」に乗って金沢へ。東海道線、湖西線、北陸線を通り
金沢には18:20ごろ到着しました。


  

  ※前のSNSでは鯖江に海の子さんがおられました。お元気でしょうか?

金沢は2年後新幹線が金沢〜長野間が開通するためか駅前には「もてなしドーム」という
大屋根が作られています。これは金沢を訪れた人が雨や雪に濡れないようそっと傘を差しだす
金沢人の「もてなしの心」「思いやりの心」を表しており、大屋根の入り口の「鼓門」は
能や素囃子に用いられる「鼓」をイメージしています
 

金沢では5/31〜6/02まで「加賀百万石まつり」が開催されており、今日31日は浅野川で
加賀友禅灯篭流しが行われていますのでホテルチェックインのあと会場の天神橋まで移動しました。

灯籠流しは19時から約1200個の燈籠が流されその中には「がんばろう東北」「加賀友禅」などが
書かれていました。




 




  


この浅野川河畔には、主計(かずえ)町茶屋街があり昔ながらの茶屋が現存しており幽玄の世界に引き込まれそうです。



この河畔には「滝の白糸の碑」があります。
滝の白糸は石川さゆりさんの歌にもありますが、金沢生まれの泉鏡花の戯曲「義血侠血」です。
あらすじは
女水芸人「瀧の白糸(本名:水島友)」は、乗合馬車の御者を働く村越欣弥と知り合う。欣弥が金のために学問を断念したことを知った白糸は、
自分が仕送りをすることを約束し欣弥を支援する。欣弥への仕送りはしばらくつづくが、やがてそれもままならなくなり、
また芸人仲間の若い連れを駆け落ちさせるなどして旅座仲間の南京出刃打の恨みを買う。白糸は一座のために高利貸しの岩淵から
金を借りたが南京にそれを強奪され、岩淵と南京がグルであることを責めようと白糸が岩淵を訪れた折、誤って岩淵を刺し殺してしまう。
白糸は勉学に励む欣弥の元を訪れるがあえなく逮捕、取調べに立った検事は欣弥であった。拘置所を訪れる欣弥に白糸は正直に裁いて欲しいと懇願し、
法廷で欣弥は白糸に包み隠さず正直に証言するよう諭す。白糸は言われるままに正直に殺人の経緯を告白。そのまま法廷内で自殺を遂げるのであった。


 
 


燈籠流しを見学するとお腹がすいてきました。
この旅行の前にガイドブックで探していた「近江町」に行ってみます。
時間も9時近くになりましたので開いているお店は少なかったのですが、北陸と言えばやはり「カニ」ですね。
安く食べさせてくれるお店がありましたのでそこに入りました。
焼ガニ、カニ刺し、・・・・・・
焼カニなどこの香ばしい匂いはたまりませんね。金沢の地酒もおいしいですね。



 


ただカニはシーズンオフなんでしょうか身があまり入っていませんでした。

こうして金沢の一日が過ぎていきました。