よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

国営海の中道海浜公園のコスモス(福岡市東区)

2018-10-24 19:53:00 | ウォーキング

10/20(土)は、YUYU健康ウォークで福岡市東区にある国営海ノ中道海浜公園を歩きました。

 

コースは、5km、と10kmに分かれていて勿論、私たちは、10kmコースです。

10:20 10kmコースのスタートです。

  

只今、海の中道海浜公園では、150万本のコスモスの花が満開です。

  

コキア(ほうき草)も赤くなり始めました。

  

木々も色付き始めました。

  

 40分ぐらい歩くと海に出てきます。ここは、荒海で名高い玄界灘です。(中央の島は、相島かな?)

  

うみなか橋からカモ池に向かいます。

ここからは、博多湾です。玄界灘に比べると穏やかです。

 

左側には、ソフトバンクホークスの本拠地、福岡ヤフオクドームが見えます。

 

カモ池を一周します。桜の季節にはこの桜並木が綺麗でしょうね。

 

再び玄界灘に戻ってきました。

 

動物の森を通り、花の丘へ。ここには、たくさんのコスモスが咲いていました。

   

 

12:10 10kmコースゴールしました。

 

   


第12回 ひらどツーデーウォーク2018 2日目17km(長崎県平戸市)

2018-10-17 19:18:23 | ウォーキング

10/14(日)は、長崎県平戸市で開催された「第12回ひらどツーデーウォーク」に参加しました。

家内は、昔の職場の人と旅行で久しぶりにおひとり様での参加です。1日目から参加したかったのですが、前日は私用があり2日目だけの参加でした。

福岡の自宅を朝4時に出発。到着まで約3時間を見込んでいたのですが、途中、無料区間の高速道を利用すると、2時間弱で平戸に着きました。

20代の頃、会社の出張でよく平戸に来ていましたが、まだ平戸大橋もできてなく、5~6時間ぐらいかかったと記憶しています。

平戸の朝の光景です。

  

  

 8:30 猶興館高校ブラスバンドの演奏で30kコース、17kコース同時スタート。

  

約30分で平戸大橋到着。

今日は天気も良く、橋からの海がきれいに見えます。先週は、しまなみ海道を歩きましたが、台風の影響で時々強い風が吹いていましたが、今日はそういうことは、ないみたいです。

 

平戸大橋は、昭和52年(1977)開通。全長665m。

洞戸大橋開通前は、田平港~平戸港まで1日30往復のフェリーがありました。平戸大橋開通後この路線も廃止されました。

  

橋を渡り平戸瀬戸市場が最初の給水ポイント。

 

平戸瀬戸市場を過ぎると、30kと17kコースの分岐点。

 

たびら昆虫館を過ぎます。

  

約10km地点の「田平天主堂」がチェックポイント。

 

田平天主堂は、1886年以降、ラゲ神父やド・ロ神父が買い取った土地に黒島、外海から移住した信徒によってはじまる。1918年、信徒たちは、中田藤吉神父の奔走による寄付に助けられ、

鉄川与助が設計・施工した最後のレンガ造教会を建てました。

天主堂を過ぎると、田平公園です。ここからの眺めは最高です。

  

  

田平公園を下り、再び平戸大橋を渡ります。

   

平戸大橋を渡った平戸大橋公園が2回目のチェックポイント。ここで約14km。ゴールまであと3km弱です。

11:20 17kmコースゴール!

ゴール後、ぜんざいの接待がありました。ゴール後の抽選では、地元平戸のさしみ醤油が当たりました。

  

 

 


東海道道草ウォーク№44「保土ヶ谷宿~川崎宿」(横浜市保土ヶ谷区~川崎市)

2018-10-13 12:36:44 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

先週の山形・鶴岡から今回の東海道歩きのウォーキングですが、さすがに5日間連続というと、疲れもピークに達してきます。天気予報では、明日(20日)は、雨ですので、できれば無理してでも

今回のゴール地川崎宿まで歩きたいです。

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№43からの続きです。

保土ヶ谷の追分を過ぎると、芝生村の入り口に「浅間(せんけん)神社」があります。神社には、「富士の人穴」と呼ばれる名所があります。

祭神木花咲耶姫命。承暦四年(一〇八〇)富士浅間神社の分霊を奉祀したものと伝える。旧芝生村鎮守。江戸時代別当香象院。相殿合祀、神明社(祭神天照皇大神。旧位置字神明)、

鹿島社(祭神武賓槌命。旧位置字鹿島)。境内社は小嶽社、稲荷社、招魂社。例祭日六月一日。本殿二階建浅間造。境内千四百坪。神殿の在る丘は袖すり山と呼ばれ、

昔時は山下がすぐ波打ち際であったという。この丘の斜面には十基の横穴墓があり、そのうち開口したものが「富士の人穴」と称され、このなかに安置されていた大日如来石像が現在社殿横に

置かれている。当社は近隣の富士講の中心地であり、また六十年に一度庚申祭りが盛大に挙行される。(「横浜西区史」より)

  

神奈川宿に入りました。

  

神奈川宿は、東海道有数の景勝地として知られる「袖ヶ浦」がありました。また、湊と東海道を持つ交通の要塞として栄え、船人や旅人はもちろん、観光で訪れる客も多く滞在。

最盛期には、近隣の宿の二倍の人口を抱えたといわれています。(国土交通省関東地方整備局・てくてく東海道より)

神奈川宿は、本陣2軒(石井本陣、鈴木本陣)、旅籠58軒。家数1300軒、人口6000人の規模でした。

安政5年(1858年)、神奈川湊沖・小柴(横浜八景島周辺)に碇泊していたポーハタン号上で日米修好通商条約が締結された。同条約では「神奈川」を開港すると定められていた。

しかし、街道を通行する日本人と、入港する外国人との間の紛争を避けるために、神奈川湊の対岸にある横浜村に港湾施設や居留地をつくり、開港した。これが現在の横浜港となった。

そのため、外国人に対しては横浜は神奈川の一部と称した。(Wikipediaより)

   

神奈川台の関門跡・・・・開港後外国人が相次いで殺傷されましたが、その犯人はなかなか捕らえられませんでした。そのため、各国領事の強い要望で横浜周辺に設けられたのが、

関所である「関門」です。神奈川宿でも東西の2か所につくられ、厳しい警護体制が敷かれました。碑が残されているのは、西側・神奈川台の関門です。

    

台町の茶屋・・・・・現在の台町あたり、ここはかつて、神奈川湊を見下ろす景勝地でした。弥次・喜多の「東海道中膝栗毛」にも「ここは、片側に茶店軒を並べ、いずれも座敷二階造り、

欄干つきの廊下桟などわたして、波打ちぎはの景色いたってよし」とあります。「おやすみなさいや~せ」・・・茶店女の声に引かれ、二人はぶらりと立ち寄っています。

鯵の塩焼きを肴に一杯ひっかけた後、気ままな旅を続けたのでした。(神奈川宿歴史の道より)

下の図の中に見える「さくらや」が現在の料亭「田中屋」あたりだと言われています。また、広重の東海道神奈川宿でもこの「さくらや」が描かれています。(右奥から3番目)

 

江戸時代は、台町の茶屋は、海に面していたのですね。(現在のJR横浜駅は、海の中だったそうです)

幕末の偉人、坂本龍馬の妻おりょうは、龍馬亡きあと、ここで住み込みの仲居として勤めてくれていました。月琴を奏で、外国語も堪能で、物怖じしないまっすぐな性格が、ことに外国のお客様に

評判だったといいます。横須賀に嫁いでいき、田中家をやめたあとも、ひいき客からいつまでも話題に上ったということです。(田中屋HPより) 

  

葛飾北斎の名作「神奈川沖浪裏」も神奈川沖を題材に描かれているのでしょうね。実際こんなに浪が高かったのでしょうか?

大綱金刀比羅神社・・・この神社は、社伝によると、平安末期の創立で、もと「飯綱社」といわれ、今の境内後方の山上にありました。その後、現在の地に移り、更に琴平社を合祀して

大綱金刀比羅神社となりました。かつて眼下に広がっていた神奈川湊に出入りする船乗り達から深く崇められ、大天狗の伝説でも知られています。

又、神社前の街道両脇に一里塚が置かれていました。

 

青木橋です。この橋から東神奈川方面を見て右側の幸ヶ谷公園のある丘と左側の本覚寺のある丘とは地続きでした。この丘を切り開き、明治5(1872)年に新橋~横浜間(現桜木町)に鉄道が開通し、

鉄道をまたいで旧東海道を結んで架けられたのがこの青木橋です。横浜駅が現在地に移設されるまで、青木橋周辺は鉄道(JR)・横浜電気鉄道(市電)・京浜電気鉄道(京急)・東京横浜電気鉄道(東急)

各線の神奈川停車場が集中し、交通の要所として賑わいました。(神奈川区いまむかしガイドの会より)

  

国道1号線に架かる幸ヶ谷歩道橋を渡ります。この1号線道路幅も広く、また交通量もすごく多いです。

 

開港当時、神奈川宿の多くの寺院が諸外国の領事館に充てられました。地図を見てみるとその寺院は道路の向かい側に多く集中しており、横断歩道は遠くにあるのでここは、パスしました。

鶴見区に入りました。子安通りを過ぎると、キリン横浜ビアビレッジがあります。

 

このビアビレッジの一角に「生麦事件碑」が建っています。

  

学校の歴史でも習った「生麦事件」は、文久2年(1862)、江戸から京都へ向かう途中だった薩摩藩の島津久光の行列が武蔵国橘樹郡生麦村(現横浜市鶴見区生麦)に差し掛かった際、

横浜在住のイギリス人4人が行列の前方を乗馬したまま横切りました。これに怒った一部藩士がイギリス人に斬りかかったという事件です。

この事件は、イギリスと日本の国際問題に発展し、翌年の薩英戦争勃発の原因となりました。明治16年(1883)、鶴見の黒川荘三がリチャードソンの死を悼み、事件の風化を防ぐために、

私費を投じて生麦事件碑を建立しました。

  

生麦1丁目信号より、旧道に入ります。旧道の生麦保育園近くには、生麦事件発生現場があります。当時この家は、豆腐屋さんだったそうです。

 

京急鶴見駅近くには、「覇王樹(さぼてん)茶屋跡」があります。さぼてんは仙人掌と書いていますが当時は覇王樹と書いていたのですね。また、江戸時代にサボテンがあったのも知りませんでした。

旧東海道鶴見 覇王樹茶屋跡    「みぎひだり   つのを出して世の中を   見たるもおかし   さぼてんの茶屋」  現在は、パン屋さんを営まれています。

  

鶴見の街中を歩いていると、私のリュックの後ろに付けている「東海道を歩いています・・・・」を見て、ある女性の方が声をかけて色々な所を案内してくれました。

聞くと、中国から来られたそうです。中国の方から日本の史跡を案内してもらうのは、少し違和感がありましたが、探し回ることがなく、スムーズに見ることができました。有難うございました。

    

鶴見橋関門旧跡・・・・安政6年(1859)の横浜開港後、外国人に危害を加えることを防ぐため横浜への主要道路筋に架けられた関門の一つで、万延元年(1860)に設けられました。

    

鶴見川橋を渡ります。渡ると川崎かな?と思いましたが、まだ鶴見区でした。

 

市場上町の信号から「川崎市」です。

   

京急八丁畷駅です。ここには、無縁塚があります。

江戸時代の記録によると、川崎宿は、震災や大火・洪水・飢饉・疫病などの災害にたびたび襲われ、多くの人々が命を落としています。おそらく災害で亡くなった身元不明の人々を川崎宿はずれの

松や欅の並木の下に埋葬したのではないでしょうか。不幸にして亡くなった人々の霊を供養するため、地元の方と川崎市は、昭和9年慰霊塔を建てました。この場所は、「無縁塚」と呼ばれ、

地元の方々により供養が続けられています。(説明文より)

 

八丁畷駅のガードを潜ると、「芭蕉の句碑」があります。麦の穂を たよりにつかむ 別れかな

松尾芭蕉は、元禄7年(1694)五月、江戸深川の庵を発ち、郷里の伊賀(三重県)へ帰る途中、川崎宿に立ち寄り、同道してきた門弟たちと別れる際に詠んだ句です。

同じ年の十月、旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる という辞世の句を残し51歳の生涯を閉じました。

  

川崎市中心部に入ってきました。時間も5時を過ぎ、帰宅を急ぐ人々で混雑しています。

小土呂橋の親柱・・・・・かつて、東海道と新川堀の交差地点にあった石橋が「小土呂橋」。現在は、暗渠となっており、地名とこの親柱が残っています。

   

川崎宿は元和9(1623)年、品川・神奈川両宿の伝馬負担を軽減するために開設されました。新宿(しんしゅく)・砂子(いさご)の2町から始まり、その後、久根崎(くねざき)・小土呂(ことろ)町を

加えた4つの村で構成されていました。町立てにあたっては、久根崎から小土呂に至る自然堤防(海がつくった砂州)を利用して盛土がなされていますが、これは六郷・鶴見両河川の出水被害を

抑えることが重視されたためです。 本陣3軒(兵庫(田中)本陣、惣左衛門(佐藤)本陣、惣兵衛本陣)、旅籠72軒、家数541軒、人口2433人の規模でした。

旧橘樹郡役所跡・・・・・明治十一年(1878)の郡区町村編制法により、神奈川町成仏寺に橘樹郡役所が設置され、橘樹郡内十町百十一村の行政を司った。明治二十一年(1888)同町内に

郡役所が新設されその後郡制が施行されると、郡長のもと各地代表の郡会議員により、道路・治水・教育。産業などが議せられた。

明治三十四年(1901)神奈川町の横浜市編入により、橘樹郡の中心は、産業開発著しい川崎町に移り、大正二年(1913)現在地の川崎町砂子に威風堂々とした郡役所が建てられ

川崎・保土ヶ谷二町と十七村の行政に当った。郡南部の臨海埋立地には京浜工業地帯が形成され、人口増加による都市化が進む一方、北部農村地帯も私鉄の沿線開発や近郊農業の発達などにより

大きく変貌した。大正十三年(1924)七月川崎に市制が施行され、大正十五年(1926)郡役所は廃止された。その後川崎・横浜の市域拡張により、昭和十三年(1938)には半世紀にわたり

親しまれた「橘樹郡」の名も消えることに成った。郡役所の川崎移転から九十年。ここに有志相集い、川崎市制八十周年を記念して、往年の地に「旧橘樹郡役所跡記念碑」を建立し、

万葉集にも歌われた橘樹の名を永久に留めることにした。(説明文より)

川崎信用金庫本店の所が「佐藤本陣跡」です。信用金庫の前には、詩人「佐藤惣之助」の碑が建っています。佐藤惣之助の生家がここです。

佐藤惣之助は、歌謡曲「赤城の子守唄」「緑の地平線」「大阪音頭」「青い背広で」などの作詞で知られています。また、プロ野球阪神タイガースの応援歌「六甲おろし」の作詞も手掛けていました。

 

中の本陣跡・・・・田中本陣と佐藤本陣の間に挟まれ「中の本陣」と呼ばれていました。江戸後期廃業しました。

   

兵庫(田中)本陣跡・・・・当主の休愚(兵庫)は、六郷川の渡し舟の権利を譲り受け、その渡し賃を得て、傾いていた宿場財政を再建しました。享保6年(1721)著した「民間省要」は、享保7年(1722)

八代将軍吉宗へ献上され、主張の一部は、享保の改革でも取り上げられました。

    

時刻は18時を過ぎました。今日は、朝9時から精力的に歩き、少々疲れました。JR川崎駅から今夜の桜木町のホテルへ戻りました。

  

東海道もあと19kmになりました。六郷橋を越えると江戸です。12月中旬に日本橋にゴールする予定です。

 


東海道道草ウォーク№43「戸塚宿~保土ヶ谷宿」(横浜市戸塚区~横浜市保土ヶ谷区)

2018-10-08 20:34:46 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

9/19(水)東海道歩き3日目。藤沢のホテルから横浜桜木町のホテルに移動するため、7:30にホテルをチェックアウトします。

横浜桜木町のホテルに荷物を置き、家内の友人夫婦に会うため、根岸線で港南台駅に移動。約10分ぐらいの対面で再び昨日ゴール地の戸塚駅に移動します。

9:15 今日のウォーキング開始です。

旧街道は、戸塚駅西口から東口の方に入るようになっていますが、西口付近は道路改良などで大幅に変化しています。どうにか、東口の方にやってきました。

 

吉田大橋にやってきました。ここが広重が浮世絵で戸塚宿を描いた所です。当時は長さ10間(18,2m)、幅2間半(4,6m)の板橋でした。

 

現在の橋は、昭和61年(1986)に架け替えられ、両側に大名行列が持つ毛槍を模した外套や橋の真ん中には浮世絵のモニュメントがありました。

  

吉田橋を渡ると、「吉田の一里塚跡」があります。吉田の一里塚は、明治に入りずいぶん早い時期に取り壊されたそうです。

宝蔵院の所に江戸見附がありました。参勤交代の大名らを宿役人がここで出迎えました。

  

五大夫橋・・・小田原北条氏の家臣であった石巻五大夫が小田原北条氏滅亡後に江戸へ移る徳川家康をこのあたりで出迎えたことから名付けられたと伝えられています。

鎌倉ハム発祥の地・・・・明治初期、日本で初めてハムの製造販売がこの地で始められました。当時、戸塚は鎌倉群に属していたので「鎌倉ハム」として全国的に知られました。

斉藤満平は、イギリス人ウィリアムカーチスの妻、加藤かねの協力で製造を学び明治10年代日本人として初めてハムの製造を始めました。

  

護良(もりよし)親王首洗い井戸・・・・この地に伝わる言い伝えでは、鎌倉で弑された親王の御首を側女が夜中に盗み取ってこれを奉じ、当地の豪族斉藤氏に救いを求めて難を逃れ、

この井戸で御首を洗い清めたといわれています。

益田家のモチノキ・・・益田家の敷地には、県の天然記念物に指定された樹齢300年、樹高19mの株と2本のモチノキがあります。敷地は整地されていました。

   

歩いていると何かいい匂いがしてきました。先の方を見ると山崎パンの工場がありました。

  

品濃口の信号から東戸塚駅の方に歩きます。このあたりの道は大きく変わっており、道に迷いました。途中のお店で現在地を聞き、やっと旧街道に戻れました。

下関の歩友M・Mさんは、ご結婚当初この東戸塚駅付近に住んでいたそうです。そのころと比べ、街も変わっているでしょうね。

  

品濃一里塚の近くの栗の木に「リス」がいました。やはり栗を食べているのでしょうか?写真を撮ろうとしたのですが、動きが早くいい写真が撮れませんでした。

  

品濃の一里塚です。江戸から数えて9番目の一里塚。神奈川県内では、ほぼ完全な形で残っています。

品濃一里塚の先には、「焼餅坂」があります。焼餅坂は、当時の品濃村と平戸村の境にあり、一町半(約160m)の坂でした。坂の傍の茶店で焼餅を売っていたので焼餅坂と名付けられたそうです。

  

武相国境モニュメント・・・・この地が武蔵国と相模国の境です。昔は、木の杭が建てられていたので境木と呼ばれたそうです。また、ここからは、武蔵国保土ヶ谷になります。

 

境木地蔵尊・・・江戸時代初めに鎌倉の浜に打ち上げられたお地蔵様を漁師が江戸に運んでいる途中、このあたりで牛車が動かなくなり、置いていかれました。夢枕に立ったお地蔵様の

託宣を聞いた村人がお堂を建てお祀りしたのでこのあたりの村は、栄えたそうです。万治2年(1659)建立。

 

箱根駅伝で有名な「権太坂」にやってきました。権太坂の説明の前にこのあたりに「投げ込み塚」があるということで探しましたが、わからず近所の人に聞いて探し出しました。

投げ込み塚は、昔、街道の近くに旅の途中で行き倒れた人や牛馬を葬った場所がありました。その後、平戸の東福寺に手厚く改装され、供養の為この碑が建てられました。

  

権太坂・・・・かつては、今より勾配のきつい相当な坂で、江戸から上方へ上る旅人が初めて出会う難所として知られています。松並木の続く景色も良かったため、浮世絵にも描かれています。

然し、明治17年(1884)の新道開通や明治20年(1887)鉄道開通により、旧道は、通行量も減って狭くなった。権太坂はもともと人家もほとんどなかったため、昭和30年代本格的に

道が改修されて宅地開発が進むまで往時の面影を残していました。

箱根駅伝の「権太坂」は、国道1号線の方を走ります。

権太坂の名前の由来・・・・・①ある時、旅人がこの坂で近くにいたお年寄りに坂の名を聞くと、自分の名前を聞かれたと思い、「ごんたでございます」と答え、その名が坂の名になった。

②昔、権左衛門という人が代官の指図により、開いてできた坂道をその名をとって「権左坂」と名付けたものが、いつのことか、「権太坂」と呼ばれるようになった。

   

 権太坂を下ると元町ガードです。ここには、旧元町橋跡と帝釈天があります。昔、今井川は、帝釈天の祠にある山裾に沿って流れ、祠の下あたりには、旧元町橋がありました。

今の元町橋は川筋を変えたあとのものです。

     

保土ヶ谷2丁目の信号から国道1号線と合流します。交通量が多くなります。

茶屋本陣は、保土ヶ谷本陣軽部氏の分家です。

   

保土ヶ谷宿は、本陣1、脇本陣3(藤屋、水屋、大金子屋)、旅籠67、家数558軒、人口2982人。慶長6年(1601年)正月、東海道の伝馬制度を定めた徳川家康より「伝馬朱印状」が

「ほとかや」(保土ヶ谷町)あてに出されたことにより、保土ヶ谷宿が成立しました。東海道を往来する幕府の役人や参勤交代の大名は、宿場に設置された本陣に宿泊しました。 保土ヶ谷宿の本陣は、

小田原北条氏の家臣苅部豊前守康則(かるべぶぜんのかみやすのり)の 子孫といわれる苅部家が代々つとめています。同家は、問屋・名主を兼ねるなど、保土ヶ谷宿 における最も有力な家で

、安政6年(1859年)に横浜が開港する際、当時の当主清兵衛悦甫(せいべええっぽ) が総年寄に任ぜられ、初期の横浜町政に尽くしました。明治3年(1870年)に軽部姓に改称し、

現在に至っています。本陣が混雑した際、幕府の役人や参勤交代の大名は脇本陣に宿泊しました。保土ヶ谷には藤屋・水屋・大金子屋の3軒の 脇本陣がありました。 (説明文より)

  

保土ヶ谷1丁目信号を左折、東海道本線の踏切を渡ります。このあたりが宿場の中心地になります。

保土ヶ谷宿お休み処に「金沢横町石碑」が4基建っています。東海道と金沢道の分岐点で「程ヶ谷の枝道曲がれ梅の花」と詠われたようにここから人々は杉田梅林や金沢へと向かいました。

   

お昼時になってきましたので保土ヶ谷駅付近の「宿場そば桑名屋」に入ります。この桑名屋さんは、初代店主が三重県桑名市出身で、現店主は、保土ヶ谷宿保存に務められている方です。

下足箱には、東海道53次の宿場名がつけられています。また、2階は、まちかど博物館になっており、食事の後案内していただきました。

  

  

再び街道に戻ります。

問屋場跡・・・・・公用旅行者の荷物の運搬(馬継立)や飛脚の業務を行う所。

助郷会所・・・・・宿場で賄いきれない人馬を周囲の村から動員する詰所。

高札場跡・・・・・幕府の掟やお触れを張り出す所で宿泊代や人馬代も示されていました。

   

中橋跡・・・・・・今井川の改修。かつて今井川はここで宿場を横切っており、「中橋」が架けられていました。 

 その川筋は慶安元年(1648年)に新しい保土ヶ谷宿が建設された際に人工的に造られたものでした。しかし、その流路の構造から大雨のたびにここで水が滞り、しばしば下流域を浸水することに

なりましたが、なかなか改善されませんでした。しかしながら幕末にいたって人馬の往来が急増してきたため、嘉永5年(1852年)宿場では改修費用100両を準備するとともに、町役人が200両の

借用を代官へ陳情し、認められるとただちに現在の川筋に改修されました。

保土ヶ谷宿と品川台場建設。今井川改修で発生した多量の残土の処理に困った名主苅部清兵衛は、当時建設中だった品川台場(外国の侵入に備えた砲台)の埋め立て用の土として幕府へ献上 

することを申し出、3000立坪(約18,000立方m)あまりの土を船で品川に運び、この問題を解決したと伝えられています。(説明文より)

香象院は、江戸時代、保土ヶ谷宿で最も大きい寺子屋があり、明治6年(1873)に保土ヶ谷小学校の分校になりました。

   

相鉄天王町駅の所には、旧帷子橋のモニュメントがあります。広重の浮世絵「保土ヶ谷宿」には、この帷子橋が描かれています。

 

 

  

更に先へ進むと、松原商店街です。昔は東海道松林があった所で、松原商店街も松林から命名されたのではないでしょうか?

橘樹(たちばな)神社 ・・・・・創建は、鎌倉時代初期(1186)。江戸時代は、牛頭(ごず)天王社といい、天王町の由来になっています。大正時代に現在の橘樹神社になりました。祭神は、素戔嗚尊。

昔は、この一帯は、橘樹郡に所属していました。

    

追分・・・・芝生(しぼう)村(現浅間町)にある追分は、旧東海道と旧八王子道との分岐点であると同時に、旧東海道の新町通りと古町通りの分岐点でもありました。

また、横浜開港以後、移住が自由とされ、芝生村には、まれな就業の機会に恵まれた稼ぎ場として地方からの移住者が多くありました。食麩、升酒小売、小茶屋、船乗り、大工、紺屋、提灯張り、

木具、髪結い、湯屋、看板書きなどの職人が多かったそうです。

                                            (つづく)