よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

第27回若狭・三方五湖ツーデーマーチ2日目(三方五湖コース)23km(福井県若狭町)

2018-05-25 14:04:19 | オールジャパンウオーキングカップ

5/20(日) 昨日とは打って変り、天気は晴れ。少し肌寒いですが、今日は、雨の心配はないと思います

今日は、帰りの電車の時間がありますので35kmコースの方と一緒にフライングスタートします。

今日のコースは、三方五湖を廻るコース。 7:30 一番最後尾からスタート。

 

歩き始めてすぐ35kとの分岐点があります。35kは、三方石観世音を廻って再び23kと合流します。

  

  

三方五湖は、若狭湾国定公園を代表する景勝地の一つ。万葉集にも歌われ古より四季折々の美しさを広く知られる湖です。国際的に重要な湿地として2005年にラムサール条約に登録されました。

三方湖・水月湖・菅湖・日向湖・久々子湖からなり、五つの湖は淡水・海水・汽水とそれぞれに違った性質を持っています。湖によって水質が異なるため、淡水魚から海水魚まで

様々な魚が生息しています。また、水鳥の重要な生息地であり、冬には1万羽以上のの水鳥が越冬し、オオワシやオジロワシが飛来します。

湖の周辺では鳥浜貝塚をはじめとする縄文時代の遺跡が所在し、当時の人々にとっては周辺に湖・森・海があり、生活の適地でもありました。

2012年には、三方五湖の一つ水月湖の「年稿」が、世界の年代測定の「標準時」に決まりました。(若狭町HPより)

35kmコースは、この5つの湖を廻りますが、23kmコースは、三方湖、菅湖、水月湖の3つの湖だけです。

  

三方五湖は、若狭湾一帯が沈降した際に、山間の凹地が沈んで湖となったものです。五つの湖は、水路等によって直接、間接に日本海とつながっており、水質や水深が異なるなどの原因により、

それぞれの湖の色が違って見えるので別名「五色の湖」とも呼ばれています。

歩いていると、給水所があります。コースマップには、載っていませんので多分民間の方がボランティアで出されているのでしょうか?

  

約6km地点が1回目のチェックポイントです。

  

 

12km地点「海山屋内ゲートボール場」が2回目のチェックポイント。ここが昼食場所になっていますが、時間は9時半を少し回ったぐらいです。先へ行きます。

  

水月湖」の底には、何層にも重なったシマ(縞)模様の堆積物が厚さ73m以上もたまっています。そのシマ模様は白い層と黒い層が交互に重なってできており、一対で1年分を示しています。

この様子を「年縞(ねんこう)」(木にたとえると年輪)といい、水月湖の年縞は、実に7万年もの長い期間にわたり、大きくかき乱されることもなく、安定して積み重なり、今日まで保存されてきたのです。

水月湖年縞により、化石や考古資料などとても古いものの年代を測る方法として用いられている放射性炭素年代測定の精度が飛躍的に向上しました。また花粉や黄砂、火山灰が含まれていたり、

大きな洪水や地震の痕跡もとどめることから、過去の気候変動の研究にも利用されています。(若狭・三方縄文博物館HPより)

 

  

歩いていると道両側にたくさんの梅の木があります。三方地区は福井梅の産地です。天保年間に三方町伊良積に発祥したと伝えられており、三方郡西田村誌によれば「その昔、

伊良積の豪農、助太夫家と平太夫家の庭に埴栽されており、当時これを"助太夫梅""平太夫梅"と称していた。そして現在の"紅サシ"はこの助太夫梅と平太夫梅の混合種であり

"剣先"は助太夫梅である」とされています。また「梅栽培が本格的に定着したのは明治15年前後からとされており、当時伊良積の田辺市太夫氏、今井安左ェ門氏が積極的な普及推進にあたり

村内一円にひろげた」としるされています。(JA美方より)

  

梅の里会館にやってきました。梅の里では、福井梅の梅干しと梅昆布茶が振る舞われました。梅干しは何個でもいいそうですが、そう食べられませんよね。(笑)

  

梅の里会館では、「梅ソフト」をいただきました。ちょっと酸っぱい感じが何とも言えません。1つ@300です。

  

只今の時刻は、11時丁度。梅の里からゴールまでは、あと5,4km。うまくいけば12時前にはゴールできるかな

ちょっとスピードを上げていきます。

 

 

ゴール近くになると5km、10kmコースの集団と一緒になりました。この中の小学生2人が私のDバックの風車を見つけ追いかけてきましたので彼等とゴールまで一緒に歩きました。

  

11:50  ゴールしました。この大会の参加賞は、福井の梅干しとコシヒカリ300gです。

参加人数は、2日間で3,968人でした。

   

三方駅から敦賀駅の電車は、12:30です。JMLのスタンプをもらい三方駅に直行します。

お昼がまだでしたので敦賀駅で「焼き鯖寿司」を買いました。焼きサバの身が厚く、また、鯖の上には、トロロ昆布がのっていておいしいです。敦賀はトロロ昆布の産地だそうです。

若狭は「御食国」です。おいしいものが一杯ですね。

    

次の遠征は、6月初旬の北海道網走、北見です。また、おいしいものが食べたいですね。


敦賀の町を歩いてみました。(福井県敦賀市)

2018-05-24 15:28:21 | ウォーキング

5/19 若狭・三方五湖を歩いた後、敦賀に戻り町を散策しました。

現在福井県では、南条郡から北を「嶺北地方」敦賀市から西を「嶺南地方」と呼んでいます。

この境界は、ほぼ山中峠~木の芽峠~栃ノ木峠を結ぶ稜線になり、北国街道の要衝だった木の芽峠(木嶺)を境に北部を木嶺北部、南部を木嶺南部と呼んでいたことに由来し、

いつしか省略され、嶺北、嶺南と呼ぶようになりました。文化圏は、北陸地方、中部地方になりますが、一部近畿地方に含まれる所もあります。

この「嶺南地方」の敦賀ですが、崇神天皇の時代に朝鮮半島から「都怒我阿羅斬等」(つぬがあらしと)がこの地に渡来したことで「角鹿」と呼ばれるようになり、和銅6年(713)

「敦賀」という字に改められました。(角川日本地名大辞典より)

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敦賀駅から歩いていると「松本零士」の宇宙戦艦ヤマト、銀河鉄道999のモニュメントが建っています。あれっ、松本零士さんは、福岡・北九州の出身だったのですが・・・・・

敦賀は全国有数の鉄道と港のまち。明治時代に日本海側初の蒸気機関車が敦賀を走り始め、また、東京の新橋駅と敦賀の金ケ崎(かねがさき)駅を結ぶ欧亜国際連絡列車が運行。

ロシアのウラジオストクまでの直通定期船により、大陸に最も近い場所として栄えてきました。

そして平成11年(1999)に、敦賀港は開港100周年を迎え、開港を記念し、当時の敦賀市のイメージであった「科学都市」と歴史を引き継いだ「港」と「鉄道」に将来ビジョンを重ね合わせ、

『銀河鉄道999』と『宇宙戦艦ヤマト』の像を設置することになったそうです。

 

 

    

  

松本零士のモニュメントを見ながら、「気比(けひ)神宮」に着きました。

気比神宮の大鳥居は、高さ36尺(10,9m)、柱間24尺(7,2m)で広島の厳島神社、奈良の春日大社と並び、日本三大鳥居の一つです。

 

  

気比神社の御祭神は、

伊奢沙別命(いざさわけのみこと)    ※衣食住・海上安全・農漁業・交通安全
仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)     ※無病息災・延命長寿・武運長久
神功皇后(じんぐうこうごう)      ※安産・農漁業・海上安全・無病息災・延命長寿・武運長久・音楽舞踊
応神天皇(おうじんてんのう)      ※海上安全・農漁業・無病息災・延命長寿・武運長久
日本武尊(やまとたけるのみこと)    ※武運長久・無病息災・延命長寿
玉姫命(たまひめのみこと)       ※音楽舞踊
武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)※延命長寿・無病息災・武運長久

主祭神 伊奢沙別命は御食津大神(みけつおおかみ)とも称し食物を司り、また古くより海上交通、農漁業始め衣食住の生活全般を護り給う神として崇められている。

神功皇后、応神天皇はまた漁業に対する御神徳著しく、古来五穀豊穣、海上安全、大漁祈願が行われ、現に農漁海運業者の崇信が極めて篤い。神功皇后は安産の神として霊験あらたかである。

仲哀天皇・神功皇后・日本武尊・応神天皇・武内宿禰命は無病息災延命長寿、また神功皇后・玉妃命は音楽舞踊の神である。(気比神宮HPより)

境内を歩きましたが、広い敷地です。この日は平日でしかも夕方でしたので参拝客が少なかったけど、お正月なんかすごい人出でしょうね。

   

気比神宮から博物館の方に行くと「大和田荘七」の銅像があります。

北前船の船主大和田荘七は、敦賀旭町(現相生町)の薬種商「山本九郎左衛門」の二男として、安政4年(1857)2月11日に生まれ、幼名を亀次郎といい9人兄弟の末っ子であった。

幼少のころは勉強には背を向けていたが、あるとき学問の大切なことを諭され心機一転学に志し、17歳のとき開校したばかりの就将校に入学、8年の課程を1年半で修了した。

特に数学は指導にあたった教師の影響によって、特別に興味を持ち秀でた才能を発揮し、上京して数学の奥義を極め学者になりたいと希望を抱くようになった。

かねて彼の才能を見込んでいた初代大和田荘七が、どうしても養子に欲しいと日参して口説き落とし、明治11年(1878)に大和田家の養子に入った。...

彼の活躍についてはいまさら取り立てて述べる必要はないが、敦賀港の基盤確立とこれに関連する事業を私財を投入してまでも推進したことは余りにも有名で、知らない人はいないだろう。

彼は貿易・金融ばかりではなく町づくり・社会奉仕・災害救恤・荒廃防止植林事業等はもとより、教育の推進にも大きな貢献をしていることを忘れてはならない。

最初の教育との関わりは、明治24年(1891)1月に喜多村作平・打它弁次郎の二氏とともに小学校委員に就任したのが最初である。

以後永年にわたって敦賀の教育振興ばかりに留まらず、県内外の教育振興に再三にわたって私財を寄贈している。

敦賀においては校舎の建設に多額の寄付を惜しまず、またピアノがない小学校には購入寄贈し、市立敦賀文庫の開設にあたっては多数の図書の購入に協力している。

町立敦賀商業学校の商議員としては「ロシア語」教育の導入を提唱し、さらに文部省に敦賀商業学校の高等商業学校への昇格を働きかける一方、ロシア語を中心とする「外語学校」の新設を

要請するなど、敦賀の将来展望にたった教育の推進に努めた。

敦商の高商昇格や外語学校の新設は実らなかったが、大正7年(1918)4月には県立移管を実現し、同時に中等学校卒業程度の学力を有する者を対象とする「日露貿易専修科」の加設と、

校舎内に「対露貿易商品館」の開設実現に活躍した。さらには幼児教育の重要性にも着目し、大正5年(1916)2月早翠幼稚園の設立に必要な敷地と建設資金を提供した。

また、大正15年(1926)8月には敦賀託児所にも敷地の永久無償貸与を行い、開所資金も提供している。

こうして敦賀の発展のため活躍してきた彼も、晩年は別府に住居を移し、昭和22年(1947)1月30日90歳で永眠した。

彼の敦賀市民に残してくれた偉業と功績を讃え、市立博物館に石像が建てられている。(敦賀市教育史より)

彼が設立した「大和田銀行」は、1945年(昭和20年)三和銀行(現三菱UFJ銀行)に吸収合併された。

尚、子孫には、俳優の大和田伸也、大和田獏さんがいます。

 

大和田荘七の銅像の横には、松尾芭蕉の句碑が建てられています。芭蕉は、元禄2年(1659)8月に敦賀を訪れ、数々の句を残しています。

  “国々の 八景更に 気比の月”

意味は、近江八景などというように美しい景色を愛でる名所は山ほどあるが、ここ気比の月も加えなければいけない。

  

敦賀赤レンガ倉庫

福井県敦賀市は明治から昭和初期にかけてロシアを経由して大陸ヨーロッパへと繋がる国際都市として繁栄しました。その象徴である『敦賀赤レンガ倉庫』は、外国人技師の設計によって

1905年に石油貯蔵用の倉庫として建設され、途中、軍の備品倉庫や昆布貯蔵庫としても使用された福井県内でも有数のレンガ建築物です。2009年1月には、

北棟・南棟・煉瓦塀が国の登録有形文化財に登録されました。現在では、オープンガーデン、レストラン街、ジオラマ館に分かれています。

ジオラマ館では、明治後期~昭和初期の敦賀の街並みを鉄道と港のジオラマで再現しています。ただ、閉館時間が近づいており、パスしました。

  

 敦賀鉄道資料館

敦賀港は古代より大陸に開かれた玄関口として重要な役割を果たしてきました。

 このことから、明治2(1869)年、日本初の鉄道となる4路線の一つとして、京都-敦賀間の鉄道建設が決定され、明治15(1882)年に日本海側初の線路が敦賀に敷かれました。

その後、明治45(1912)年に欧亜国際連絡列車の運行が始まり、新橋(東京)-金ケ崎(敦賀)間を直通列車が走り、敦賀港から連絡船でウラジオストク(ロシア)へ、

そこからシベリア鉄道でパリ(フランス)まで行くという路線が確立されました。

欧亜国際連絡列車なんてロマンがありますね。東京から、パリまでどのくらいに日数がかかったのでしょうか?

  

杉原千畝と命のビザ

第二次大戦中、ナチスの迫害から逃げようとしたポーランド系ユダヤ人に当時リトアニア領事代理の杉原千畝氏(1900~1986)は人道的立場から日本通過ビザを発給しました。

彼の行為により、約600人ものユダヤ人が救われたといわれています。難民の多くは、杉原氏の発給した「命のビザ」を使い、シベリア鉄道経由でウラジオストックに向かい、「ハルピン丸」や

「天草丸」などの客貨船で1940年8月から翌年6月までの間、数多くのユダヤ人難民が敦賀に降りたちました。彼等にとって敦賀は、初めて踏みしめた日本の地であり、自由と平和を

実感した所です。2001年千畝氏の奥様幸子さんを招き、リトアニアとの友好と交流を希望し、両国の桜と樫の木を植樹されたそうです。

この欧亜国際連絡列車を使ったのでしょうね。

   

萬象閣跡

ここは萬象閣の建っていた跡地です。萬象閣とは、明治19年(1886)6月から昭和20年(1945)5月まで、迎賓館兼会議場として使われた木造瓦葺2階建(72坪5合)の建物です。
当初有力商人32名が出資し、建設費1,100円で建てられ、明治20年から公営(連合町村役場が管理)となり、連合町村会、各種選挙、徴兵検査、町の行事やその他一般町民の会合などに盛んに
利用されました。明治41年(1908)には、隣に貴賓館が新築され、翌42年の大正天皇(当時皇太子)の行啓以後、皇族の御来敦の際の御休憩または御宿泊に充てられました。
昭和20年(1945)、本土空襲が激化し始めると、建物疎開政策が断行され、隣にあった市庁舎(昭和8年、当時敦賀町役場として竣工)を守るため、同年5月、遂に取り壊され60年に亘る幕を閉じました。(説明文より)

  

新内節の祖「鶴賀若狭掾」顕彰碑

新内節初代の鶴賀若狭掾(本名 高井庄兵衛)が、敦賀出身で、そこから江戸に出たそうです。

江戸時代に、官能的で退廃的な豊後系浄瑠璃が流行ったものの、心中が相次いだことが豊後系浄瑠璃と関係しているとされ、演奏も稽古も禁止されたことで、

そこから江戸浄瑠璃4派と呼ばれるものが派生しました。その中の1つが「新内節」です。

 

  

お砂持ち神事

正安3年(1301年)に、時宗2代目遊行上人他阿真教が諸国巡錫の砌、敦賀に滞在中、気比社の西門前の参道、その周辺が沼地(この時代には気比神宮のあたりまで入江であった)となって参拝者が難儀しているのを知り、浜から砂を運んで道を造ろうと上人自らが先頭に立ち、神官、僧侶、多くの信者等とともに改修にあたられたという故事に因み、「遊行上人のお砂持ち神事」として今日まで時宗の大本山遊行寺(藤沢市の清浄光寺)管長が交代した時にこの行事が行われている。
元禄2年、奥の細道紀行で敦賀を訪れた松尾芭蕉は「月清し遊行のもてる砂の上」と詠んでいる。(説明文より)

  

福井の名物というと、おろし蕎麦、焼きサバ寿司とソースかつ丼ですね。

敦賀にもソースかつ丼の「ヨーロッパ軒」があるということを聞きましたので、早速行ってきました。

かつ丼の並を注文しましたが、結構ボリュームがあります。久しぶりにいただきました。

この2012年の「秘密のけんみんショー」が福井でロケ中、私達は、福井のヨーロッパ軒にいました。映っているかな?と思い、後日テレビを見ましたが映ってなかったです。(笑)

  

 駆け足で敦賀の町を歩きましたが、まだまだ見る所がたくさん残っています。またいつの日か訪ねてみたいと思っています。


第27回若狭・三方五湖ツーデーマーチ1日目「鯖街道熊川宿コース」23km(福井県若狭町)

2018-05-22 18:30:01 | オールジャパンウオーキングカップ

5/19~20に福井県若狭町で行われる「第27回若狭・三方五湖2DM」に参加しました。

3年前に初参加して今回2度目の参加です。この大会、必ず1日は雨が降るというジンクスがあります。そういえば3年前も初日は雨でした。今年はどうかな

JR西日本の「おとなびパス」を購入し、前日の金曜日から福井・敦賀に入りました。このおとなびパスは、3日間JR西日本管内の新幹線を含む全電車が乗り放題です。(新幹線、特急は6回まで)

    

5/19(土)朝から雨が降っています。天気予報では、9時ぐらいには止んでそのあとは、曇りという予想。一応ポンチョと傘を用意。

敦賀発7:09の臨時電車で三方駅へ。会場へは、駅から歩いて約10分です。

8:45より出発式。芝生広場は、雨の為、水が溜まっていて半ば田圃状態です。三方中学吹奏楽部の演奏と「激」でスタート。

   

     

まだ雨は降り続いています。時折突風が吹き差していた傘が煽られます。

5km地点が三十三(みそみ)公民館。ここは、10kmのチェックポイントです。三十三(みそみ)という地名が珍しいのでちょっと調べてみると、近くに三十三間山というのがあり、

京都の三十三間堂が創建された際、その棟木をここの山中から切り出したという伝説があるそうです。そこから付いた地名かな?

  

 

  

3年前は、「かみなか農楽舎」がチェックポイントでしたが、今回は給水所になっています。

 

 

上中農楽舎から農道を通り、わかさカントリークラブの方へ向かいます。このあたりは、長い上り坂があり、しかも雨で視界が遮られています。

途中で40kmの人とすれ違いました。高砂のIさん、福岡のYさん・・・・・

  

  

鯖街道「熊川宿」にやってきました。

古代、若狭は朝廷に食料を献上する御食国(みけつくに)の一つでした。日本海で獲れた魚や貝が遠路はるばる京都へ運ばれ、いつの頃からか「京は遠ても18里」と言われるようになり、

特に18世紀後半からたくさんの鯖が若狭の海で陸揚げされ、「鯖街道」と称されるようになりました。与謝蕪村も鯖を背負い都に入る若狭の人々が目に止まったのか、「夏山や通ひなれたる若狭人」と

詠んでいます。秀吉に重用され若狭の領主となった浅野長政は、天正17年(1589)に熊川が交通と軍事において重要な場所であることから、諸役免除して宿場町としました。

以来、40戸ほどの寒村が200戸を超す町になりました。

倉見屋荻野家住宅は、熊川宿で最も古い町屋で問屋の形式を残しています。隣接する土蔵には、街道を行く荷物が納められました。

 

松木神社は、義民松木庄左衛門が祀られている神社です。 

寛永17年(1640年)、16歳で庄屋の地位を継ぐ。

小浜藩では関ヶ原の戦いで木下勝俊が改易されて京極高次が新藩主となったが、これまでの後瀬山城に替わって新たに小浜城を築城したために財政が苦しかった。

このため、大豆納の年貢1俵の基準を1俵あたり4斗から4斗5升に改めて増徴を図った。築城で多くの農民が駆り出されたこともあって領民の生活は苦しくなり、

藩側に大豆納を元に戻すように要求したが受け入れられなかった。寛永11年(1634年)に京極忠高(高次の子)に替わって小浜藩主となった酒井忠勝も引き続き税制を維持したために

人々の不満は高まった。そこで寛永17年(1640年)に入って、若狭国内252ヶ村の名主が集まって郡代官所に陳情を行うことになり、この年に名主となったばかりの庄左衛門他20名を総代として

陳情を行った。以後、数十回にもわたって直訴を繰り返したために、承応元年(1652年)に総代全員が捕らえられ、獄中で厳しい拷問を受けた。だが、1人庄左衛門のみはこれを耐えて、

獄中でもなお大豆納の引き下げを求めた。これに驚いた藩はやむなく大豆納を元の4斗に戻すことに応じたが、代わりに庄左衛門は同国日笠河原で磔に処せられ、

28歳の命を終えた(小浜藩領承応元年一揆)。以後、領民は大豆の初穂を神前に供えて彼の威徳を謝した。

墓所は日笠河原に近い正明寺にある。昭和になってから、彼を祀った松木神社が建立された。

白石神社は、熊川地区の氏神であり、旧指定村社で祭神は、彦火々出見尊、白髭明神、小浜藩主酒井忠勝公、山の神が合祀されています。毎年5月3日祭礼が行われ、山車が巡行します。 

  

接待所では、今も生誕の地若狭町では、その遺徳を伝えようと、豚汁に大豆を加えたものを「長操鍋」と名付けて、イベントなどで振る舞っています。

その長操鍋が振る舞われました。今日は、雨で寒かったので温まりました。 ※長操・・・松木庄左衛門の法名です。

  

長操鍋を食べ終わって接待所を出ると、曾我廼家福輔さんと出会いました。確か3年前もそうでしたが、今回もインタビューを受けました。

  

 

熊川宿の中を歩きます。番所の近くに「旧逸見勘兵衛住宅」があります。ここは、伊藤忠商事二代目社長「伊藤竹之助」の生家です。

熊川の逸見勘兵衛家(地図の河内川にかかっている中条橋のたもと)に生まれた竹之助は、明治33年滋賀県立商業学校に進み、卒業と同時に、

大阪市伊藤本店(現在の伊藤忠商事の前身)に就職し、やがて初代社長伊藤忠兵衛にその人格才量を認められ、娘と結婚し伊藤忠商事二代目社長となりました。

 

熊川番所は、若狭と近江の国境に位置し、かつて「入り鉄砲に出女」の統制と物資への課税が行われていました。全国でも宿場内に残る復元された番所として歴史的構造物です。

    

道の駅「若狭熊川宿」が1回目のチェックポイント。3年前は、ここまで来なかったと記憶しています。

  

ここからJR上中駅まで歩きます。この23kmコースは、上中駅から電車で三方駅に移動することになっています。(電車代は大会本部が持ちます)

現在12時30分。上中駅発の電車が13:36です。ここから上中駅までが約6km。少しスピードアップします。

 

13:24 上中駅に到着。13:36の電車に間に合いました。上中駅が2回目のチェックポイントです。

  

13:36の電車に乗って三方駅へ。三方駅から歩いて会場に戻ります。14:10ゴールしました。

今日は、一日中雨の中のウォーキングでした。明日は晴れるでしょう

  

 


第24回九州国際スリーデーマーチ3日目10km(熊本県八代市)

2018-05-17 14:20:20 | オールジャパンウオーキングカップ

5/13(日)九州国際3DM3日目。昨日までの2日間はいい天気でのウォーキングでしたが、今日は朝から曇り空。いつ雨が降ってもおかしくないくらいです。

一応、ポンチョを着て傘をさしてのウォーキングです。今日は、本当は、20kmを歩く予定でしたが、家内が昼から松橋(まつばせ)の友達に会う約束をしていますので

10kmコースに変更。7:30 30kmコースと一緒にスタート。出発の「激」は、ロシア女性の方。

   

  

  

3,7km地点が30k、20k、10kの分岐点。

  

これから本町アーケード街を歩きます。朝が早いためか、まだ商店は開いていません。

八代亜紀さんは、1日目14時から会場でミニコンサートを行われましたが、昨日は、八代でコンサートをされました。

   

塩屋八幡宮は、八代妙見祭の原型をつくり上げたといわれる八代城主細川三斎公が、大分の宇佐八幡宮の御分霊を迎え祀られたお宮です。

明暦元年(1655年)旧暦10月25日に、時の八代城主松井興長(まついおきなが)公時代に現在地に社殿が築かれて以来、親しみ祀られてきた社です。

その御鎮座の記念日である11月25日の例祭は、今も「しおやのまつり」の愛称で、市民に愛され受け継がれています。

妙見祭では神幸行列の御旅所(おたびしょ)となっており、11月22日に神様が「お下り(おくだり)」され、翌23日の早朝に塩屋八幡宮から「お上り(おのぼり)」行列が妙見宮に向け出発します。

  

歩いていると右側にモダンな建物が見えてきます。これは、八代市立博物館です。周りには、皐月が咲き出していました。

 

松浜軒は、元禄元年(1688)、八代城主松井直之公が母崇芳院尼のために建てたお茶屋です。当時この辺りには松が茂り、八代海を見渡せる浜辺であったことから松浜軒と名づけられました。

別名「浜の茶屋」とも呼ばれていました。(国指定名勝) 四季折々の花々が咲き、特に6月上旬には約5,000本の肥後花ショウブが大輪の花を咲かせ、多くの人々の目を楽しませます。

また松井家に伝わる家宝を展示する松井文庫の資料館があり、宮本武蔵ゆかりの「戦気」の軸や手彫りの木刀も展示されています。(八代観光HPより)

  

コースは、八代城址に入ります。

元和5年(1619)の大地震でそれまでの麦島城が崩壊したため、加藤正方が麦島城北方に新たに築いたのが八代城で、同8年(1622)に竣工しました。

石垣に石灰岩を使用し別名白鷺城ともよばれます。加藤家改易の後、寛永9年(1632)細川三斎(忠興)が入城、正保3年(1646)には松井興長が入城し以後松井氏九代の居城となりました。

一国一城令の例外として熊本城以外に認められた城で、八代の地が幕府から重要視されていたことがわかります。(八代観光HPより)

   

八代城址には、「八代宮」があります。明治維新以降、南朝の功労者を祀る神社の創建運動が各地で起こり、懐良親王の墓所のある八代の住民からも、懐良親王と良成親王を祀る神社を創建し、

鎌倉宮・井伊谷宮と並ぶ官幣中社にしてほしいという請願が何度かなされました。住民である徳富忠七や八代宮創立発起担当人の村上忠三らは、墓所から遠くない松江城(八代城)の址に神社を建て

ことを求めました。これを請けて1880年(明治13年)に太政官が熊本県に創立を命じ、懐良親王を祭神とし、良成親王を配祀する神社が八代宮の名で願い通りに造られることとなりました。

  

  

八代宮の参道から本町アーケード街に入ります。このあたりは、八代の歓楽街でしょうか、クラブやキャバレー、スナックなどが建ち並んでいます。

キャバレー「白馬」は、歌手八代亜紀さんがアマ時代、ここで歌っていました。

  

8,3km地点の八代ハーモニーホールがチェックポイントですが、私たちが来るのが早かったせいか、まだ準備がされていませんでした。

  

約30分ぐらい待ち、チェック印をもらい再びウォーキング開始します。

萩原橋では、正規の時間にスタートした10kmコースの人とすれ違いました。

10:10  ゴールしました。

  

3日間の参加者は下記です。いっそでウォークは、八代の幼稚園、保育園、小中学校、高校の生徒さんが参加されました。

余談になりますが、「八代」という地名の由来が気になりましたので調べました。肥後国誌には、八代の地名の由来は、社(やしろ)で天照皇大神の山陵が、上古にこの地にあったので

「やしろ」と言われるようになったと記されています。

  

今日は、そんなにひどい雨には、遭いませんでしたが、ポンチョを着ていたため蒸し暑く、汗を流すため、八代市東陽町の温泉施設に行ってきました。

東陽町は、石工の町として知られています。

 

 

来週は、福井県若狭町の「三方五湖ツーデーマーチ」に参加します。

 


第24回九州国際スリーデーマーチ2日目20km(熊本県八代市)

2018-05-16 17:06:30 | オールジャパンウオーキングカップ

4/12(土)昨日と同じ5時過ぎに福岡の自宅を出発し八代には7時15分に到着。

今日は、歩友北九州のNさんご夫妻も参加されます。20kmの出発は8:30」からですのでゆっくりしていましたら、Nさんが40kmと一緒にフライングスタートされていましたので

あわてて私たちもアンカーさんと一緒にスタートします。

  

  

約4kmで「新八代駅」。新八代駅の横には、元プロ野球ソフトバンクホークス松中信彦スポーツミュージアムです。松中選手は、平成の三冠王です。

  

ここでは、トマトの接待がありました。ロシアの方からフラッグをいただきましたので、私の「鯉のぼり」をプレゼントしました。

  

  

島田踏切です。鹿児島本線の鳥栖行が過ぎてからしばらくしても踏切のバーが開きません。5分ぐらいたって下りが来ました。

八代にしては長い踏切です。

千丁イ草の里公園が1回目のチェックポイントです。やっと北九州のNさん、長崎のSさんに追いつきました。

ここでは、白玉ぜんざい、おにぎりなどが振る舞われました。また、おにぎりは、お昼にとパックに入れていただきました。

  

  

Nさん、Sさんとこれから一緒に歩きます。

  

イ草の神様を祀った「岩崎神社」です。

今から500年前(1505年)、八代市千丁町太牟田の上土(あげつち)城主 岩崎主馬(しゅめ)忠久公は、村の人々の生活が豊かに栄えるようにと初めてい草を植え、育てることを教えました。

その後、全国で天候が悪く人々が苦しむ中、太牟田の村人はい草からむしろを作り、この窮地を乗り越えました。このご恩に感謝して、岩崎公はい草の神様としてお奉りしてあります。

い草の里 千丁町では、い草の神様岩崎公を岩崎神社に祀り、毎年い草の豊年を願って、年2回春と秋に祭りが開催されます。(八代観光より)

昨年は、ここがチェックポイントでしたが、今年は、イ草公園に変わりました。

  

薩摩街道「九里木」というのは、熊本城下から薩摩に向かって一里木、二里木と進んでここが九番目の木(九里木)があった所です。

   

歩いていると民家で「オープンガーデン」の看板がありましたので、ちょっと寄ってみました。よく手入れされたお庭には、バラの花が咲いていました。

  

13、4km地点の「龍峯コミュニティセンター」が給水所。熊本特産の「デコポン」がサービスです。

  

  

2回目のチェックポイントが「八代神社(妙見宮)」です。ここでは、5k、10kコースの合流点で今日は、天気がいいからか、親子連れで参加の方がいらっしゃいました。

  

  

12:10 20kmコースゴールしました。

  

 

 

 


第24回九州国際スリーデーマーチ1日目20km(熊本県八代市)

2018-05-15 17:59:36 | オールジャパンウオーキングカップ

4/11~13日まで熊本県八代市で行われた「第24回九州国際スリーデーマーチ」に参加しました。

本来ならば、八代か熊本で宿泊する予定でしたが、ホテルの手配が遅れ、主だったホテルは、空いてなく、仕方ないので3日間福岡から通勤?することにしました。

  

この大会、国際マーチングリーグ公式大会ですので海外の方も参加されています。オーストラリア、オランダ、シンガポール、デンマーク、ドイツ、ノルウェイ、ロシア、ベルギー・・・・・・・

出発の「激」は、パンフに載っている岡山のMさん、横浜のTさんご夫婦です。

  

8:30  20km水島・万葉の里コーススタート。

 

 

 約6km地点が「水島」。

水島は、球磨川河口の堤防から50mほど離れた所にある小さな島です。日本書紀の景行天皇18年4月の条に、「天皇がこの島で食事をなさろうとした際、水が無かったので、小左(おひだり)という人が、

天地の神々に祈ったところ冷水が湧き出したので、それを天皇に差し上げることができた。そのためこの島を水島と呼ぶ」という記述があります。

万葉集では長田王により「聞きし如まこと貴く奇しくも神さび居るかこれの水島(人の言うように、貴く不思議にも神々しく見えることよこの島は)」と歌われています。(八代観光HPより)

  

水島の少し先が1回目のチェックポイント。ここでは、八代特産の「トマト」などが振る舞われました。

代地域は冬春トマトの生産では日本一の産地。害虫が嫌う黄色灯を利用することで、減農薬栽培されたトマトのはちべえ(八代平野の略)や、塩トマトと呼ばれる品種のトマトがつくられています。

塩トマトは、小玉で皮は硬いが肉厚。糖度も高い。八代の干拓地特有の塩分やミネラルを多く含んだ土壌で栽培される。塩トマトの旬は2月から3月です。

  

 

  

球磨川河口の干潟では、「蝦蛄(シャコ)」を獲られている方がいました。この時期のシャコは、産卵期を迎え美味しいです。酒のおつまみには、最高ですね。

  

コースは、田園地帯を歩き、千鳥橋を渡ります。

13,8km地点の八代ふる里物産村が2回目のチェックポイント。ここでは、給水所も兼ねていました。今日は、天気も良く、空気が乾いているのでしょうか、喉が渇きます。

 

八代ドライブスクールから高速のガードを潜り高速に隣接する道路を歩きます。今日は、アップダウンが少なく歩きやすいと思いましたが、ここでそのアップダウンが待っていました。

  

12:10 20kmコースゴールしました。予定していた時間より20分も早くゴールです。

 


第32回飯田やまびこマーチ2日目風越山コース20km(長野県飯田市)

2018-05-07 17:58:00 | オールジャパンウオーキングカップ

4/29(日)第32回飯田やまびこマーチ風越山コース2日目20km

今日は、6:30からJML、KKMLの表彰がありますのでホテルの朝食は、パスして6:00にチェックアウトしました。(ここのホテルの朝食はボリューム満点なんですが・・・・)

先週は、私がオールジャパンの表彰、今回は家内がオールジャパンの表彰を受けました。副賞は、飯田東中学校の生徒さんがリンゴ並木のリンゴから作られたリンゴジャムです。

市販されておらず、かなり高級なジャムです。

   

7:00 昨日と同様に「信濃の国」の音楽と共に、30k、20k同時スタートです。

 

中央道の所から坂道になります。リンゴや梨の間の道を登って行きます。

 

昨年と同じコースですので、大体のコース図は、把握しているのですが、それでもきつい坂です。

柏原のトイレ休憩で暑いのでウィンドブレーカー1枚脱ぎます。

  

約5km地点の山田体育館が1回目のチェックポイント。

  

水分を補給し、再び歩き出します。見晴らしのいいところに「嫁ぎたる・・・・・」の歌碑が建っています。嫁いだ娘のことを思う母の心境がよく出ていますね。

  

  

コースは山の中に入ります。

  

途中こんな看板も立っていました。

  

  

コースは、高森町に入ります。昨年は、牛牧神社の桜が綺麗でしたので入って見学しましたが、今年の桜はもう葉桜です。パスしました。

    

20k、30kの分岐点を過ぎると南アルプスが見える場所があります。今日は、天気はいいのですが、山の方には、霞みがかかっています。

  

歩いていると、子供さんの声で「頑張って下さい」という声がします。この子たちが私達ウォーカーを応援していました。

「松源寺」は、昨年の大河ドラマ「直虎」で直虎のお父さんが井伊谷城から逃げ、匿われた所です。

  

  

松岡城址からは、急な下りになります。松岡城址を下りてくると、30kの先頭の方から追い越されました。

   

「元善光寺」です。長野市の善光寺が創建される前に御本尊があったことから「元善光寺」と呼ばれました。長野の善光寺とこの元善光寺の両方にお詣りしないと片詣りと言い伝えられています。

  

麻績(おみ)の里が、2回目のチェックポイント。麻績の里の桜の名所の舞台桜も葉桜でした。

  

コースは広い道に出ました。ここは、昨日歩いた所です。三宣亭の坂道も休まず登っていけました。

  

「上海楼」は、中華そばで有名ですが、まだ11時前ですけど行列ができています。

歩いていて気付いたのですが、飯田は、老舗の和菓子屋さんが多く見かけます。飯田の和菓子の文かは、「茶の湯」の文化と深い関係があります。

飯田の「茶の湯」の文化を語る時に忘れてはならないのが、名水「猿庫(さるくら)の泉」。江戸時代、茶の湯に適した水を求めて諸国を歩いていた僧侶で茶道家の不蔵庵龍渓宗匠

(ふぞうあんりゅうけいそうしょう)が、飯田市の北西にある風越山(かざこしやま)の山麓に探し当てたといわれています。「猿庫の泉」に代表されるような清らかな水が豊富だったことが、

飯田での茶の湯文化の発展を後押ししたといえるでしょう。また、飯田藩主が「茶の湯」に熱心だったこともその発展の一因。藩主堀公は、「茶の湯」を愛し、「猿庫の泉」へ毎朝早馬を駆けさせ、

水を汲ませて茶を点てていた、なんていう話も伝えられているそうです。「茶の湯」が盛んになった飯田では、武家だけでなく大地主や豪商の屋敷にも次々に茶室が建てられたんだそうです。

茶の湯文化の発展とともに、京菓子のようなお菓子を製造するお店が出てきました。これが、“和菓子のまち・飯田”の原点です。(楽園信州より)

 

  

11:05 ゴールしました。

 

飯田からの帰りのバスは、ネットで14:30発を予約していたのですが、あまりにも早くゴールしたのでバスの事務所に時間の変更を申し出ましたが、ネットで予約しているため一旦キャンセルして

もう一度申し込みをしないといけない、その節は、キャンセル料も発生すると言われ、バス出発まで飯田市内を歩いて散策しました。

お昼は、上海楼でなく、駅前の「新京亭」という中華そば屋さんに入りました。ここでも行列ができていました。

先ず、ビールです。歩いて汗をかいたあとのビールは格別です。

  

メインの「中華そば」。魚介類からの出汁でしょうか、いつも博多の豚骨ラーメンを食べている私には、新鮮な感覚です。すっきりとした食感です。おいしかった。

  

飯田市には、焼肉屋さんが約70軒あり、人口1万人当たりの焼肉屋さんが5,32軒と全国平均1,7軒を大きく上回っています。

今回のウォーキングコースにも「焼肉コース」がありました。

「三連蔵」なまこ壁に囲まれた江戸時代の土蔵。内部は改良されギャラリーやバー、店舗などに活用されています。

 

今日飯田市では、リンゴ並木の所で「ゆるキャラinリンゴ並木」というイベントが行われています。

長野県からのゆるキャラが集まっていました。

  

最後は、おいしいコーヒーです。

  

14:30 高速バスで名古屋へ、名古屋から新幹線で博多に帰りました。

また来年も参加してみたいなぁ~。今年は見れなかったけど天竜川沿いのきれいな桜も見てみたいです。

 


第32回飯田やまびこマーチ1日目「舟下りコース21km」(長野県飯田市)

2018-05-06 12:15:47 | オールジャパンウオーキングカップ

4/28~29日長野県飯田市で行われる「第32回飯田やまびこマーチ」に参加しました。今年も「舟下り21kmコース」です。

6:50から、40k、舟下りコース、太平コースの出発式。スタートの「激」は、飯田市出身の歌手「小沢あきこさん」です。

7:00 長野県の歌「信濃の国」の歌でスタート。   信濃の国は、十州に 境連ぬる国にして・・・・・

  

約1時間で舟下りの弁天港到着。ここまで4,6km。ここが第1回目のチェックポイント。

  

この舟下り、定員は26名。私たちは3番舟に乗船します。

   

   ハア 天竜 下ればヨ   ホホイノサッサ しぶきに濡れてヨ   咲いた皐に エー   咲いた皐に 虹の橋   ホンニ アレワサノ 虹の橋  

乗船すると、舟から、民謡「天竜くだれば」が流れてきます。これは、昭和8年(1933)の楽曲で市丸さんが歌っています。

私達の舟には、昨年も一緒だった岐阜の若夫婦と同舟になりました。波が来るとビニールを広げてそれを防ぎます。

  

 

8:45  時又港に到着。今日は、2~3日前の雨で川の水が多かったせいか、いつもより、早く着きました。乗ってきた舟は、トラックでスタート地点の弁天港まで搬送されます。

 

時又港下船後再びウォーキング開始。ゴールまであと16km強。

  

  

 天竜峡駅で地元の「昭和乙女の会」の方から接待を受けます。リンゴ、甘酒、お漬物・・・・・・

  

天竜峡橋から折り返し、今度は、天竜川の対岸を歩きます。昨年の大会では(4/22,23開催)では、この一帯桜が満開でしたが、今年は全国的に桜の開花が早く、また大会の日程が1週間ほど

遅かったせいか、もう桜は葉桜になっていました。(右の写真が昨年の桜です)

  

中には、まだ残っている八重桜もありました。

  

このコース楽しみの一つがこれです。  今年も用意していただきました。リンゴ入りトン汁・・・・・・・・おいしかった。

  

舟下りの時、通った「天竜橋」を渡ります。

  

今日は、天気も良くとても暑いです。チェックポイントまでは、まだ遠いし、どこか、コンビニでもあれば、水分補給するのですが・・・・・・

歩いていてもコンビニを見つけることができません。 (せめて旭松あたりに給水所を設けてもらえればと思います。)

水神橋で40k、16k、と合流。チェックポイントの松尾公民館までもう少し。

松尾公民館に到着。やっと水分にありつきました。ここで「愛知のTさんご夫婦」と遭遇。Tさんご夫婦は、スタート時、「福岡の〇〇さん」というプラカードを掲げられていましたので

ハイタッチしてスタートしたのですが、どうして私の名前を御存じなのかな?(Tさんご夫妻は、色々な大会で会ってお顔は存じていました)

聞いてみると、諏訪のアリババさんの御友達だそうです。昨晩、アリババさんからTさんの方に連絡があったそうです。友達の輪がつながっていきますね。(笑)

  

伊那八幡駅を過ぎ、最後の難所三宣亭の坂を登ります。昨年は、ここで2回休憩して登ったななどと思いながら息を整え登りきりました。

  

12:20 ゴールしました。

  

今日は16:00からウォーカーの集いがあります。16時まではまだ時間がありますので、ホテルに帰って着替えようと思います。

ホテルでは、冷たいお茶と一二三饅頭が用意されていました。(とても感激です!)

 

  

ウォーカーの集いは、 飯田市公民館で16時から行われました。牧野市長のあいさつの後、婦人会の皆さんの心のこもった手作りの料理で皆さんと懇談しました。

   

 


長野旅行記その3『長野善光寺~川中島古戦場跡~諏訪湖~飯田』

2018-05-04 16:57:37 | ウォーキング

4/27(金)前日とは異なり、曇り空。雨は降らないと思います。

8時前ホテルをチェックアウトし、予約していたレンタカー屋さんに向かいます。向かう途中、画家の草間弥生さんの水玉の幟が立っていました。

何と、草間さんは、松本市の御出身です。現在松本市美術館で「草間弥生展」が開かれています。

また、昨日立ち寄ったお菓子屋さんでは、「いわさきちひろ」さんの絵がパッケージになっていました。いわさきちひろさんのお母さんが松本市の御出身だそうです。

レンタカーで松本ICから長野ICを目指します。高速に入ると左側に北アルプスの姿が見えてきました。すぐ先の梓川PAで車を止め、しばし北アルプスを眺めてみます。

常念岳、燕岳、槍ヶ岳・・・・・・・聞いたことのある山々が並んでいます。山登りは、低山部しかしませんが、いやぁ、素晴らしい光景ですね。

   

  

約1時間で「善光寺」に到着。

    

善光寺は、長野市元善町にある単立の寺。近世以来天台宗の大勧進(だいかんじん)と浄土宗の大本願(だいほんがん)が寺務を執行。創建については諸説あるが,

欽明天皇の時に百済の聖明王が献じた阿弥陀三尊仏(本尊,重要文化財)を,602年難波(なにわ)から信濃に移して開創,641年堂宇を建立したと伝える。古くから宗派を越えて信仰を集め,

浄土教の庶民化に伴い急速に発展した。現存の国宝の本堂は元禄年間(1688年―1704年)の建立で,礼堂,外陣,内陣,内々陣をもつ奥行の深い重層の大建築。

平面がT字形なので撞木(しゅもく)造と呼ばれる。ほか山門・経蔵・釈迦堂などの重要文化財がある。寺内には塔頭(たっちゅう)が多く,衆徒・中衆・妻戸の3種に分かれる。

  

 

どっしりと優美な構えを見せる二層入母屋造りの山門(三門)は、江戸時代中期の建築。鳩が5羽描かれている「善光寺」の鳩字の額が掲げられ、「善」の字が牛の顔に見えるともいわれます。

よく見てみると、善光寺の「善」に2羽、「光」に2羽、「寺」に1羽が見えます。更に、「善」の一字が牛の顔に見えると言われ、「牛に引かれて善光寺参り」を表しているとされます。

牛に引かれて善光寺参り」というのは、善光寺に伝わる昔話で、昔、信濃国小諸にケチで性根の悪いおばあさんが住んでいた。 ある日、川で布を洗濯して軒先で乾かしていたところ、

一頭の牛が現れて角で布を引っかけ走り出した。おばあさんはその牛を追いかけ、なんと善光寺まで来てしまったという。

日が暮れて牛が入っていったお堂におばあさんも入ってみると、光明に照らされて、牛のよだれが「牛とのみ思いすごすな仏の道に 汝を導く己の心を」と読めた。するとおばあさんの心に

仏の心が芽生え、すっかり信心深い人間に生まれ変わってしまった。 後日、近くの観音堂を詣でると、堂内の観音様に牛にさらわれた布がかけてあった。それを見たおばあさんは、

牛と思ったのはじつは仏様の化身と知り、ますます善光寺への信仰を深めて往生を遂げた。 この仏様こそが実は小諸の布引観音だったという。

意味は、思いがけず、他人に連れられて想像していない場所に着くこと。他人の誘いなどで良い方向に導かれるというたとえです。

善光寺の御朱印は、左が本堂、右が御詠歌です。

    

  

善光寺を出て、一般道を走っていると、左側に「川中島古戦場跡」があります。

「川中島の戦い」とは、信濃北部で繰り広げられた越後・上杉謙信、甲斐・武田信玄、そして北信濃の人々を軸とした戦いの総称。通説では、天文22年(1553)から永禄7年(1564)までの

12年間に5度の戦いが行われたといわれている。5度の戦いの中で、第4次とされる永禄4年9月10日の戦いは、千曲川と犀川に挟まれた川中島一帯で行われ、信玄・謙信の一騎打ちなど、

多くの伝説を残した激戦であった。(長野市観光振興課パンフより)

  

  

「川中島」というと、私が小学生時代、運動会のメインイベントで「川中島」という騎馬戦がありました。調べてみると運動会の騎馬戦を「川中島」というのは、福岡県内だそうです。

男子だけの競技でしたが、信玄側、謙信側の二手に分かれ、それぞれ歌を歌って入場します。競技は今の帽子をとるというやり方でなく、倒して勝負を決めるというやり方でした。

この川中島の歌は、もう忘れましたが、信玄側、謙信側それぞれ交互にうたっていたと記憶しています。

余談ですが、福岡県内の小学校の運動会では、「全体とまれ」→ →「1,2,3,4,5」と言って止まります。また、「休め」→ →「ヤアー」と言って座ります。これは、今も変わっていないと思います。

  

首塚】 永禄4年の合戦の後、武田方の海津城代高坂弾正が一帯に散乱する戦死者の遺体を敵味方の区別なく手厚く葬った塚とされる。これを知った謙信は大変感激し、後に塩不足に悩む

武田氏に対し、「われ信玄と戦うもそれは弓矢であり、魚塩にあらず」と直ちに塩を送り、この恩に報いたといわれている。このことが、乱世に咲いた美学と褒めたたえられ、

敵に塩を送る」という言葉が生まれたといわれている。

田中月亀翁父子歌碑】田中月亀翁は、本名亀太郎。松代藩主真田幸教に仕え、学問に熱心で歌道に長じ、その子亀作も亀守と号し、風雅の道で知られていた。

子の歌碑は、田中父子の和歌をしるしたもので表の和歌は、川中島の大激戦の様子を偲び、裏の和歌は、大合戦の終わった後のこの八幡原一帯をうたったものです。

<表> 「跡しのぶ 川中島の朝あらし いぶきのさ霧 おもかげに見ゆ 」  月廼亀麿

<裏> 「月影の入にし後も ほととぎす ひとこえ残す 小島田の里 」   月廼亀守   

三太刀七太刀之跡の碑】永禄4年の合戦の折、上杉謙信が単騎武田信玄本陣に切り込み、馬上から信玄目がけて三度にわたり斬りつけた。信玄はその太刀を軍配団扇で受け止めた。

軍配には、七箇所の刀傷が残っていたと伝えられる。

  

芭蕉句碑】 “十六夜(いざよい)も また更科の 郡かな”   (句意)十五夜は更科の里で姨捨の名月を見た。十六夜の今日もまだ去りがたく更科の郡のうちに留まっている。

執念の石】 信玄の助けに入った武田軍家臣・原大隅守が謙信を取り逃がした悔しさに、傍らにあったこの石を槍で突き通したといわれる穴がある。

逆槐(さかさえんじゅ)】 伝承では、この八幡宮に信玄が本陣を構えた際、土塁の地固めに逆さに挿した槐がそのまま根付いて成長したものと伝えられる。(以上長野県観光振興課パンフより抜粋)

   

川中島古戦場跡を出ようとすると、FBのお友達「諏訪のアリババ」さんから「諏訪大社下宮秋宮で待っている」という連絡が入り、電話で時間を打ち合わせして諏訪大社に向かいました。

13時少し前に諏訪大社下社秋宮に到着。駐車場で探していると、「諏訪のアリババさん」とお会いできました。アリババさんの案内で諏訪大社へ。

諏訪大社は信濃国一の宮、分社に摂社、末社を加えると一万社を超えます。お諏訪様、諏訪大明神と親しまれ、諏訪湖を挟んで南に上社、北に下社があります。更に上社は、本宮(諏訪市)、

前宮(茅野市)、下社は、春宮、秋宮(下諏訪町)に分かれて鎮座しています。御祭神は、建御名方神(たけみなかたのかみ)、八坂刀売神(やさかとめのかみ)、八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)

です。その源は、狩猟時代にあるといわれているが、現在地に形作られたのは6世紀頃です。

諏訪大神は、武勇の神、武門武将の守護神として信仰され、古くは、神功皇后の三韓出兵、平安時代には、関東第一大軍神として、鎌倉以降は、源頼朝を始め、北条氏一門、足利尊氏、

武田信玄、徳川家康以下歴代将軍その他諸国の大名たちが武運の長久と国家の安泰を祈願しています。また、広くは雨・風の守り神で五穀の豊穣を祈りました。

  

 神楽殿の狛犬は、高さ1,7mもあるそうです。

  

諏訪大社で有名なお祭りが「御柱祭」。7年に一度、山中から御柱として樅(もみ)の大木を16本(上社本宮・前宮、下社秋宮・春宮各4本)切り出し、長野県諏訪地方の各地区の氏子の分担で

4箇所の各宮まで曳行し社殿の四方に建てて神木とする勇壮な大祭である。この御柱祭りは7年目ごとに行われ、柱を更新する。氏子は、木遣りや喇叭に合わせて曳行する。

近年では、平成28年(2016)に行われました。その時の御柱が下記です。

    

諏訪大社を出ると、そこは、中山道、甲州街道(甲州道中)の分岐点になっています。甲州街道は、五街道の一つで、下諏訪から甲府を経て江戸日本橋までの53里(約210km)の区間です。

 

 

問屋場の隣には、明治6年(1873)創業の塩羊羹の新鶴本店があります。試食でいただくと、後になって甘さが出てくるような大変おいしい羊羹でした。

私達九州人としては、子供の頃、小城羊羹ばかり食べていましたので何だか新鮮な甘さを感じました。

   

このあと、アリババさんの案内で諏訪湖に行ってみました。諏訪盆地の真ん中に位置する諏訪湖は、海抜759m、湖周15,9km、面積13,3k㎥。長野県最大の湖です。

諏訪湖の山と山の間からうっすらとですが、富士山が見えます。カメラで撮ったのですが、映っていません。アップして撮ってみると、富士山らしい姿が見えます。

  

 別の場所のビューポイントからは、こちらもうっすらと見えました。天気が良ければこのような光景が見れたのでしょうね。

  

アリババさんとは、ここでお別れです。私達は、ここから高速道で飯田まで行きますが、伊那北ICまでの道を教えていただきました。岡谷ICに戻るよりは、早く着いたようです。

アリババさん、いろいろお世話になり有難うございました。

  

 飯田市内に入ったのが16:40。レンタカーを返却し、今日の宿に直行しました。今日の走行距離約300kmでした。

明日からは、「飯田やまびこマーチ」です。早めに就寝し明日に備えます。

 


長野旅行記その2「上高地」へ

2018-05-02 15:31:40 | ウォーキング

4/26(木)天気は快晴です。ホテルでの朝食を軽く済ませ、松本駅から松本電鉄8:00発の新島々行に乗車。

新島々からバスで上高地へ。9:38 上高地大正池に到着。ここから明神池まで歩きます。

   

 

大正池は1915(大正4)年6月6日の午前に突然あらわれた池です。焼岳が大噴火をおこし、その際に噴出した多量の泥流により梓川がせき止められてできました。

水没した林は幻想的な立ち枯れとなり、神秘の景観をもたらしています。大正池はできた当時、梓湖と呼ばれたこともありますが、大正年間にできたことから今の名称が定着しました。

  

 

大正池から河童橋まで遊歩道を歩いていきます。今日は、平日ですが、外国の方のツアー客でいっぱいです。

 

 焼岳は、長野県と岐阜県にまたがる活火山で、標高2455m、別名硫黄岳、約2300年前のマグマ噴火により、現在のような山体となりました。最近では、昭和37年(1962)6月に

水蒸気爆発があり、泥流が大正池まで押し寄せました。

 

田代池と湿原・・・原生林のなかに、ぽっかりあいた草原に広がる湿原の浅い池。池のなかには幾つかの島々があり、まるで水田のように明るく穏やかな風景があります。「田代」とは水田のこと、

水田のような湿原という意味でしょうか。田代池の四季は美しく、夏はイチョウバイカモや周辺のニッコウキスゲ、コケモモが箱庭のような美しい景観を見せてくれます。

5月の新緑、10月の黄葉、晩秋の霧氷もおすすめの光景です。 (上高地HPより)

  

  

 

 

   

河童橋に着きました。上高地の中心にあってシンボル的存在ともいえる河童橋は、上高地バスターミナルから徒歩5分の場所にあります。その橋上から望む穂高連峰や焼岳、梓川の水面、

緑に萌えるケショウヤナギの風景は、訪れる人の心をとらえてやみません。5月連休や夏季、紅葉の季節には旅人が多く訪れ、河童橋付近は「上高地銀座」とも呼ばれるほどにぎわいます。

1927(昭和2)年、作家・芥川龍之介もまた小説『河童』に河童橋を登場させています。その数年前に氏は北アルプスを登山し上高地に遊んでいます。時を数年経てなお氏の心に訴えるなにかを、

河童橋は持っていたに違いありません。 (上高地HPより)

  

  

外国のツアー客の方は、この河童橋までです。私たちは、これから明神池を目指して歩きます。明神池まで約3,5km。

途中雪がありましたので、計ってみたら50~60cmぐらいは、あります。

途中帰ってくる方から「猿」が数匹この先の方に居るという情報を得ました。どうしたらいいか聞くと、目を合わさないことだそうです。

  

穂高奥宮の100mぐらい手前に「猿」がいました。私たちが通った時は、1匹でした。猿は、私たちを見ると、林の方に逃げていきました。

  

穂高神社の由緒を見てみると、穂高見命を御祭神に仰ぐ穂高神社は、信州の中心ともいうべき 安曇野市穂高にあります。そしてその奥宮は、北アルプス穂高岳のふもとの上高地に祀られており、

嶺宮は、北アルプスの主峰奥穂高岳の頂上に祀られています。穂高見命は海神族 (かいしんぞく)の祖神(おやがみ)であり、その後裔(こうえい)であります安曇族は、

もと北九州に栄え主として海運を司り、早くから大陸方面とも交渉をもち、文化の高い氏族であったようです。(穂高神社HPより)

安曇一族???  安曇一族というと、私が住んでいる福岡市の東区志賀島志賀島海神社と関係しています。 志賀海神社は、綿津見三神をお祀りしています。

また、邪馬台国に出てくる金印が発見された所でもあります。海の神様が、どうして海のない信州に行かれたのでしょうか?  ミステリーですね。

「安曇族」は、もともとは北九州に栄えた古代王朝の海人族だった。やがて北九州政権が畿内の大和政権と結びついたとき、摂津国西成郡(大阪市)に本拠を移したらしく、

そこはのちに安曇江という地名となった。そして、ここを拠点として、今度は全国の海人達を統括したとみられている。「安曇族」は多くの地名を残した。

長野県の安曇野、滋賀県の安曇川など、各地に「アヅミ」関係の地名が残っている。

 7世紀になると、「安曇族」は外交分野で活躍した。というのも、海産物を朝廷に納めていた安曇族は、有事の際には水軍に徴用されたからだ。やがて、

その航海技術を生かして外交にも乗り出すようになった。中でも百済との交渉にあたった阿曇比羅夫が有名。

 奈良時代になると、今度は天皇家の食事全般を担当する内膳司を高橋氏とともにつとめたが、やがて失脚して歴史の表舞台からは消え去った。

 しかし、「あずみ」や「あつみ」と読む地名が各地にあるほか、「安住」さんや「安積」さんなど、安曇族の末裔と見られる名字も多い。(日本実業出版社から抜粋)

参考:志賀海神社HP http://www.shikaumi-jinja.jp/ 

 

  

 穂高奥院の手前には、「嘉門次小屋」があります。正式な名前は、上條嘉門次。明治大正期の山案内人。日本アルプスの開拓者。信濃国(長野県)安曇村生まれ。安政の大獄(1858)の年,

12歳で父と上高地に入山,明神池の間口4.5m,奥行き3.6mの嘉門次小屋を拠点に猟師,釣り師として過ごす。また内外の登山者や学者を槍・穂高連峰に案内し,

「剛勇,冷静,親切,善良,礼節,一徹」などと評される。日本アルプスの海外への紹介者ウェストンとの前穂高岳登山(1893),鵜殿正雄との穂高・槍初縦走(1909)などが近代登山の幕開けとなった。

大正6(1917)年,71歳で藤山愛一郎(のち外相)らと穂高を縦走したのが最後の登山だった。「山は猫のように歩け。石ひとつ落とすな」が口癖で,生涯無事故登山を貫いた。

昭和34(1959)年,明神池に記念碑が建ち,嘉門次小屋は今も曾孫の輝夫の手で守られている。(朝日日本歴史人物事典より)

  

明神池 散策するには、20分ぐらいかかりますが、、帰りのバスの予約をしていますのでここは、パスします。

  

明神池から河童橋までは、対岸を歩きます。対岸側からは、また違った光景が見えてきます。

  

  

  

黄色のカエルがいました。これは、アズマヒキガエルです。

  

河童橋に戻ってきました。やはりここからの景色が一番のビューポイントですね。

 

上高地バスセンター14:30発で松本に戻りました。