よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

東海道道草ウォーク№40「小田原宿~平塚宿」(神奈川県小田原市~平塚市)

2018-09-27 18:41:57 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

9/17(月)昨日、山形県鶴岡から羽越本線~上越新幹線~東海道線を経由して神奈川県藤沢市で宿泊しました。

今年4月以来の東海道歩きです。藤沢駅を8時前の電車で前回ゴール地小田原へ。小田原駅前のパン屋さんで昼食用のアンパンを購入します。

   

小田原駅よりバスで前回ゴールした「唐人町」まで行きます。このあたりは、蒲鉾屋さんが多く、「かまぼこ通り」と呼ばれています。

蒲鉾の歴史は古く、その昔神功皇后が三韓征伐の際(3世紀頃)、すりつぶした魚の身を鉾の先につけ、焼いて食したのがはじまりだと伝えられています。

「蒲鉾」の名は形状が蒲という植物の穂に似ていたことから生まれたといわれ、平安時代の故実書『類聚雑要抄』にも、貴族の祝賀料理の献立図に「蒲鉾」の文字が登場します。

これが蒲鉾に関する最も古い文献です。また、足利時代には儀式用として使われていたという記録が残っています。

小田原のかまぼこの歴史は正確なことは明らかになっていませんが、小田原で蒲鉾づくりが盛んになったのは、今から220年くらい前(天明年間)、

小田原城主“大久保忠信”の時代≪北条早雲時代(1432〜1519年)という説もあります。≫だといわれています。

このころの小田原は沿岸漁業が盛んでたくさんの魚が獲れていました。この魚の保存利用として誕生したのが小田原蒲鉾です。漁獲される魚の評判を聞き、

日本橋の蒲鉾職人などが小田原に移り住んだともいわれています。(籠清HPより)

 

江戸見附と一里塚

 

上杉龍若丸の墓  天文20(1551)年、龍若丸は平井城落城前に、降伏の使者として北條氏康のいる小田原に従者6人を引き連れて参ります。12歳又は13歳の幼少の身ですが大敵の嫡男故に、

氏康は家臣の神尾治郎右衛門に首を刎ねさせます。神尾治郎右衛門はまもなく疫病を患い亡くなりました。(説明文より)

新田義貞の首塚  建武の中興の柱石であった新田義貞は、北陸を転戦中、延元3年(1338)、越前国(福井県)藤島で討死し、足利尊氏によってその首級を晒されていた。

義貞の家臣宇都宮泰藤(小田原城主、大久保氏の先祖)は、主君義貞の晒首を奪い返して領国三河に往き、妻子に暇を告げ、主君義貞の本国、上野国(群馬県)に首級を葬るため東海道を下った。

しかし、酒匂川のほとり、ここ網一色村に達したとき、病にかかり再起できなくなってしまったという。そこでやむなく義貞の首をこの地に埋葬して、自身もこの地で歿したと伝えられている。

その後、新田義貞の首塚として地元の人々に尊信されていたが、戦後一時荒廃してしまった。しかし、近年地元有志によって復興整備され、新田義貞の首塚の碑も建立された。

なお北方八幡神社境内に、新田神社の祠がある。(説明文より)

 

酒匂(さこう)橋を渡ります。広重の浮世絵には、酒匂川の渡しが描かれています。

酒匂川東側をいくと、酒匂川の渡し跡があるとガイド本に載っていましたが、付近を捜しましたが、見つけられませんでした。

 

  

小八幡一里塚  江戸から19番目の一里塚

国府津(こうづ)駅を過ぎてしばらく行くと「大山道道標」があります。大山とは、伊勢原市にある大山阿夫利神社です。

大山は古くから霊山として篤く信仰をされていました。隆盛を極めた江戸期には年間二十万の人々が来山したと記録されています。当時、民衆の間では伊勢詣りを始め、寺社に参拝することが大流行

していました。その中で、江戸の町から二、三日の距離にある大山は気軽に参拝できることから、絶好の行楽地としても愛されたのです。大山に参拝した後には江の島などへ行楽する事が

人気の行程とされていました。この様子は古典落語「大山詣り」の中にも表されています。平成二十八年四月には「大山詣り」が日本遺産に認定をされました。(大山阿夫利神社HPより)

  

しばらく歩くと「車坂の碑」があります。このあたりは、車坂と呼ばれていたのでしょうか?太田道灌は、ここで夕立にあったこと、源実朝は、正月に洪水で川を渡れなかったことを詠んでいます。

 

二宮町に入りました。二宮町と隣の大磯町は、神奈川県中郡に所属しています。二宮町のマンホールは、町の木、椿です。

  

押切橋を渡り、押切坂を上っていきます。坂を登りきった所に「松屋本陣跡」があります。大磯宿と小田原宿との間(あい)の宿にあった「松屋本陣」は、将軍や大名、旗本、門跡などの休憩所として

利用されました。押切坂から1号線に合流します。ここには、一里塚跡があります。江戸から18番目です。

  

お昼近くになってきました。JR二宮駅前のコンビニで休憩します。コンビニは、現代のお茶屋ですね。

JR二宮駅前には「ガラスのうさぎ像」があります。この像は、第二次世界大戦中、二宮の空襲で父を失った体験を綴った高木敏子さんの小説「ガラスのうさぎ」に因んで建てられました。

町民の平和への願いも込められています。

  

大磯町に入ってきました。

 

六所神社  もとは、石神台の地に置かれていましたが、大化の改新後現在地に移りました。その後相模国府がこの地に移り、相模の六社の分霊が六所神社に祀られ、相模の総社になりました。

  

大磯城山公園  もとは、三井家総領事三井高棟の別荘地でした。高棟は、昭和9年「城山荘本館」を山頂に築き、大雄殿を始めとして国宝茶室「如庵」などがありました。

 

城山公園の1号線側には、旧吉田茂元総理邸があります。旧吉田茂邸は戦後の内閣総理大臣を務めた吉田茂(1878-1967) が暮らしていた邸宅です。もとは明治17年(1884) に

吉田茂の養父・吉田健三が土地を購入し、別荘を建てたのがはじまりです。養父亡きあと吉田茂が邸宅を引き継ぎました。昭和20 年(1945) より大磯の邸宅を本邸とし、晩年を過ごしました。

 本施設は吉田茂が暮らした当時の邸宅を復原したものです。昭和22 年頃建てられた応接間棟、および昭和30 年代に近代数寄屋建築で有名な吉田五十八が設計した新館をメインに再建しています。

  

大磯町には、明治中期から昭和初期にかけて要人の避暑、避寒地として邸宅や別荘が多く建てられました。

 

旧街道に戻ります。大磯中学校の前に「上方見附」。その先にあるのが「鴫立庵(しぎたつあん)」。

鴫立庵は、西行法師が詠んだ「心なき身にもあわれは知られけり、鴫立つ沢の秋の夕暮れ」という名歌はここからの風景を詠んだものと言われています。後に崇雪が西行を慕い訪れ、

「湘南清絶の地」と絶賛し、草庵を結びました。

湘南発祥の地」 江戸時代初期の 1664 年。小田原の祟雪が、西行法師の詠んだ歌《心なき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮≫ に因み、昔の沢らしい面影を残す現在の鴫立庵の地を 

選んでこの地を「鴫立沢」と名づけ、標石を建てました。では、標石の裏に祟雪はなぜ「著盡湘南清絶地」と刻んだのでしょう。祟雪にとって、大磯の「鴫立沢」付近のこの景色は、

中国 湘江の南方 一帯の ” 湘南 ” の美しい景色に似てなんとも美しい場所であったことから、「著盡湘南清絶地」と刻んだといわれています。

 著盡湘南清絶地とは、おおらかで、すがすがしく、この上もない所、湘南とは、何と素晴らしい所という意味です。(大磯町HPより)

  

新島襄終焉の地」京都・同志社の創設者「新島襄」は、大磯の旅館百足屋で47歳の生涯を閉じました。徳富蘇峰の筆による碑がかつて百足屋の玄関だった所に建てられました。

  

大磯海岸照ヶ崎海岸は、明治18年(1885)に陸軍軍医総監を歴任した松本順の尽力により、東日本最初の海水浴場として開設されました。

江戸時代の大磯宿は、本陣三軒、旅籠66軒、宿内総戸数676軒。本陣は、尾上、小島、石井の三つで小島本陣跡は探し出しましたが、他の2軒は見つけられませんでした。

   

国道1号線、三沢橋東側の信号より斜め左に入ります。しばらく歩くと、両側に東海道松並木が見えてきます。

  

JRの地下道路を通ると「化粧坂(けわいざか)の一里塚」です。このあたりが広重の描いた東海道大磯宿「虎ヶ雨」の舞台です。

  

曽我兄弟の曽我十郎の妻「虎御前」は、化粧坂付近に住んでいて、朝夕この井戸の水を汲んで化粧していたことからこの井戸を「化粧井戸」の名がついたそうです。

 

高麗(こま)という地名があります。近くには、広重の浮世絵虎ヶ雨に出てくる高麗山(こまやま)、高来(たかく)神社・・・・・何か高麗の地名が出てきます。

ウィキペディアで調べてみると、高句麗が新羅・唐連合軍に滅ばされた時に、その王族・若光を中心に高麗人が相模国大磯に渡来し、その後若光一族を含めた各地の高麗人は

武蔵国高麗郡(こまぐん)に集められ、高麗神社も設立したという。高来神社の例大祭「御船祭」の木遣歌「権現丸」に、「高麗国守護」が渡来して、「大磯浦の守護」となったとある。と書かれています。

そういえば、何年か前、埼玉県飯能のウォーキング大会に参加した時、高麗(こま)神社がありました。大磯から埼玉の方に移住していたのですね。

  

花水橋を渡ります。渡り終えた花水橋東の所に「平成の一里塚」があります。化粧坂の所にも一里塚がありましたが、それから1里は歩いてはいません。

説明文を読むと、休憩場所として作ったとのこと。何か紛らわしいですね。

   

平塚市に入りました。平塚の地名は、桓武天皇の三代孫、高見王の娘政子が、東国へ向かう旅をした折にこの地で逝去。墓として塚が作られたが、その塚の上が平らになったので、

里人は「ひらつか」と呼んだそうです。

広重の浮世絵「平塚」は、高麗山をバックに描かれています。

  

平塚宿は、本陣1、脇本陣1、旅籠54、家数443、人口2114人の規模でした。

 

本陣跡は、神奈川銀行前にありました。

 

 

 

平塚駅近くに「番町皿屋敷」に出てくる「お菊塚」があるということで行ってきました。番町皿屋敷は、私が子供の頃、で映画で見たことがあります。お菊の霊が1枚、2枚・・・・と皿を数えるシーンなんか

怖くて怖くてその夜は眠れなかった思い出があります。

  

時間は16時を過ぎました。今日はここまでとします。尚、今日のGPSですが、機械がおかしくなり、ちゃんと軌跡を記録していませんでした。

 


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2 コメント

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Unknown (セロリさん)
2018-09-29 10:44:42
神奈川県内の宿場町を、何度も歩いている私でもスルーしてしまった場所も丁寧に歩いておられるので、ゆっくり拝見いたしました。天気の良い日に歩くことが出来て本当に良かったですね。こちらに滞在中は夜中に雷雨の時もありましたが、歩き始める朝には晴れているといった気候で本当に良かったです。
お菊塚は、ちょっとわかりにくい場所にありますよね。一度迷った経験があります。
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セロリさん (よっくん)
2018-09-30 21:46:55
コメント有難うございます。
そうですね。天気は夜雨が降り、日中は晴れていましたので雨具も置いて歩きました。
東海道も江戸に近づくと見どころ満載ですね。
お菊塚は、近くの人に聞いていきました。
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