よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

東海道道草ウォーク№42「藤沢宿~戸塚宿」(神奈川県藤沢市~横浜市戸塚区)

2018-09-30 17:30:25 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

№41からの続きです

遊行寺境内から県道30号線「遊行寺」交差点に出ます。遊行寺坂は、箱根駅伝では、往路3区の下り、復路8区の登りと勝敗を分ける難コースです。

途中に江戸見附がありました。遊行寺の坂は、長く続く坂道、駅伝のランナーもかなり、しんどい坂でしょう。

   

一里塚跡・・・・・江戸時代は、もっと崖上にあったそうです。

   

横浜市戸塚区に入りました。国道1号線と藤沢バイパスが合流する所では、かなりの交通量でした。

  

   

お軽・勘平戸塚山中道行の場」の碑があります。歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」のお軽・勘平の戸塚道行に因んで作られました。当時、戸塚は山の中だったようです。

歌舞伎では、七代目市川団十郎、三代目尾上菊五郎などの名優の演技と清元の名調子から当時江戸では、大変な評判でした。

  

大坂上の信号から街道は、横浜新道と旧1号線と分かれます。

大坂 ・・・・・かつては、二つの坂から成り立っていたようで「新編相模国風土記稿」によれば、一番坂登り1町(110m)、二番坂登り三十間(54m)と書かれています。

大坂では、嘉永6年(1853)に仇討があったという記録があります。(説明文より)

大坂の碑の向かい側には、「石仏群」があります。多分庚申塔ではないでしょうか?

    

第六天神社・・・・・初めて聞く神社です。西日本には、なかったような気がします。

戸塚町の信号の所が「上方見附」です。ここから戸塚宿です。

  

冨塚八幡宮 ・・・・源頼義、義家父子が社殿を創建したと伝えられ、戸塚の総鎮守となっています。山頂の古墳は、冨属彦命の墳墓とされており、「冨塚」と呼ばれ、これが戸塚の地名の

起こりとも言われています。境内には、芭蕉の句碑「生きて出でけむ 鎌倉を 初松魚(はつがつお)」 ※初鰹は、当時鎌倉で水揚げされ戸塚を通って江戸に運ばれた。

  

 

戸塚宿は、本陣2、脇本陣3、旅籠75、家数613軒、人口2903人の規模でした。江戸から十里(40km)、小田原から十里(40km)の位置にあり、江戸から出発した旅人は、ここが最初の宿泊地でした。

    

戸塚駅前に着きました。西口の方に「清願院」があります。徳川家康の死後、側室だった「お万の方」が尼となり、当寺に入りました。

屋根には、徳川の家紋「三つ葉葵」がありました。

 

境内には、芭蕉の句碑など貴重な句碑が残っています。

心中句碑・・・・・・「井にうかぶ 番(つがい)の果てや 秋の蝶

           戸塚の遊女おやまと旅籠屋の息子清三郎が恋仲となりますが、この世では結ばれぬ間柄を悲観して天神塚の井戸に身投げした。

芭蕉句碑 ・・・・栗という文字は、にしの木と書て 西方にたよりありと 行基菩薩は 一生杖にも柱にも此の木を用給うふとかや 世の人の見つけぬ花や軒のくり・・・・・

          ※栗という文字は西の木と書くので西方浄土につながる木として敬われた。高僧・行基は杖や柱にも栗を用いたといわれる。

         奥の細道の文章つきの句碑になっています。

  

時間も16時を廻りました。今日の歩きは、ここまでとします。明日は、戸塚~川崎まで歩く予定です。

  

江戸日本橋まであと5宿、約40kmになりました。

  


東海道道草ウォーク№41「平塚宿~藤沢宿」(神奈川県平塚市~藤沢市)

2018-09-29 18:07:57 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

9/18(火) 朝8時宿泊地の藤沢市から前回ゴール地平塚駅へ移動。今日は、平塚から戸塚までの予定。

8:24 今日の東海道歩きスタート。馬入交差点の所に馬入(ばにゅう)一里塚があります。

 

その先が相模川にかかる「馬入橋」です。橋の手前には、「馬入の渡し跡」があります。

  

江戸時代、幕府は大きな河川に橋をかけることを禁止しました。そのため、相模川(馬入川)や多摩川(六郷川)は「渡し舟」、酒匂川は「徒歩渡し」などで渡っていました。

当時、船は須賀村だけで用意していたようですが、元禄五年(1692年)に対岸の柳島村が加わりました。また、渡船額などの情報を掲示する「川高札」は馬入村にありました。

渡し舟には「小舟」と「馬船」がありました。小舟は人を乗せる船で定員二十人ほど、馬船は大型で馬が荷物を積んだまま横向きに乗ることができる船です。

このほかに、将軍や大名用の「御召船(おめしぶね)」などが常時用意されていました。また、将軍の上洛などの大通行があった場合、幕府は「船橋」を架けさせました。(説明文より)

 

茅ヶ崎市に入りました。信隆寺(しんりゅうじ)は、寛永元年(1624)甲斐武田氏の流れを汲む武田信就が先祖の菩提を弔うため創建しました。

 

小出川の所に「旧相模川橋脚」があります。旧相模川橋脚は、大正12(1923)年9月1日の関東大震災と翌年1月の余震によって、水田に橋杭が出現した全国的にもまれな遺跡です。

当時の歴史学者沼田頼輔によって、鎌倉時代の建久9(1198)年に源頼朝の重臣稲毛重成が亡き妻の供養のために架けた橋の橋脚と考証され、大正15(1926)年に国の史跡に指定されました。

平成13年から実施された保存整備に伴う調査では、橋脚についての詳細が確認された他、新たに橋脚の北側から関連する大きな土留め遺構も発見され、19年2月6日に追加指定を受けています。

また、地震によって生じた液状化現象の痕跡も確認された他、橋脚の出現状況は関東大震災の地震状況を残す遺産としても評価され、24年度、史跡指定に加え国の天然記念物としての

指定を受けることになりました。液状化現象としては全国初の国指定になります。(茅ヶ崎市HPより)この橋には、源頼朝が渡り初めをしたあと、落馬したという話もあります。

街道は国道1号線を歩きます。鳥井戸橋の所には、鶴嶺八幡宮の大きな鳥居が建っています。鶴嶺八幡宮は、平安時代後期に、矢畑に源頼朝が創建、その後現在地に遷座したと言われ、

市内最古の神社です。

 

南湖の左富士です。歌川広重で「南湖の松原左不二」として描かれているように、京へ向かう場合の東海道で概ね右側に見える筈の富士山が、鳥井戸橋辺りでは、道の左側に見えるそうです。

私達も振り返って見ますが、この日は、富士山の姿が見えませんでした。

   

茅ヶ崎駅前から少し歩いた所の東海道松林の手前には、「茅ヶ崎の一里塚」があります。信号にも一里塚の標示がありました。

  

藤沢、平塚宿の間で賑わった茅ヶ崎は、四谷、菱沼、南湖の3か所の立場がありました。松林中学校の先には、牡丹餅茶屋跡の碑がありました。

  

街道は藤沢市に入りました。羽鳥交番前の信号の所には、一里塚があります。

  

四ツ谷信号には、不動明と大山道標があります。

  

街道は県道43号線を歩きます。引地川沿いには、水と緑と人との調和を図った「川べりの散歩道」があります。桜並木があり、春には川沿いにきれいな桜の花が咲くでしょうね。

藤沢宿に入りました。藤沢は、江戸時代から遊行寺の参拝や江の島詣、大山詣の足場として大いに栄えた宿場です。本陣1、脇本陣1、旅籠45軒、家数919軒、人口4089人の規模でした。

  

本町公園の所に「義経首洗い井戸」があります。文治5年(1189)奥州平泉で自害した源義経の首は、腰越の浜で首実検されたといわれています。首は、境川を遡り、この井戸で里人により、

洗い清められたと伝えられています。

 

今日は、これから昔のSNSの仲間でした「藤沢のセロリ」さんに逢うことになっています。待ち合わせ場所の「白旗神社」へ向かいます。

白旗神社は、もともとは寒川比古命を祀っていましたが、源義経の霊を弔い、祭神としました。境内には、義経公鎮霊碑がありました。

セロリさんとは、平成25年(2013)4月、下関のはなまりんさん達と会津旅行に行った以来、5年ぶりの再会です。手首を複雑骨折されて手術をされたそうです。

セロリさんと昼食を食べ、藤沢市内を案内していただきました。

 

  

  

貞永元(1232)年創建の永勝寺には、飯盛旅籠屋を営んでいた小松屋源蔵の墓を囲むように、39基の飯盛女の墓が並んでいます。

飯盛女とは、宿場の旅籠屋で給仕をする女性のことで、1軒の旅籠屋につき2人置くことが認められていましたが、遊女としての側面も持ち合わせており、全盛期の藤沢宿には100人近い飯盛女がいた

ではないかといわれています。宿内や他国の貧しい農村出身で、借金の返済などのために働いていた飯盛女は、粗末に扱われており、墓を建てて供養されたというのはとても珍しいそうです。

  

藤沢市市街地には、「昔の藤沢」の写真が飾っています。

  

藤沢橋に来ました。ここでセロリさんとお別れします。12月の東海道ゴールには、お出迎えに来ていただけるそうです。有難うございます。

 

 

これから遊行寺(ゆぎょうじ)に向かいます。遊行寺は、お正月の箱根駅伝でも馴染みの所です。

遊行寺は、正式の名を「清浄光寺」。正中二年(1325)遊行四代呑海上人が、実兄である地頭俣野五郎景平の援助によって、極楽寺という廃寺を再興して、遊行引退後の住まいとしました。

これが藤沢山清浄光院(のちに清浄光寺)となった時宗の総本山です。宗祖一遍上人は念仏を勧める賦算(「南無阿弥陀仏、決定往生六十万人」と記したお礼を配ること)と

信仰の喜びを踊りであらわす踊り念仏で、みなことごとく往生安楽の境地へ至ることができると説いて諸国を遍歴しました。それにならって歴代の上人も遊行を続けたので遊行上人と呼ばれ、

当寺も遊行寺の名で通るようになりました。

  

 

遊行寺の大イチョウは、樹高21m、幹回り710cm樹齢650~700年と言われています。

 

広重の浮世絵東海道53次「藤沢宿」には、遊行寺が描かれています。

                                 (つづく)

            

 


東海道道草ウォーク№40「小田原宿~平塚宿」(神奈川県小田原市~平塚市)

2018-09-27 18:41:57 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

9/17(月)昨日、山形県鶴岡から羽越本線~上越新幹線~東海道線を経由して神奈川県藤沢市で宿泊しました。

今年4月以来の東海道歩きです。藤沢駅を8時前の電車で前回ゴール地小田原へ。小田原駅前のパン屋さんで昼食用のアンパンを購入します。

   

小田原駅よりバスで前回ゴールした「唐人町」まで行きます。このあたりは、蒲鉾屋さんが多く、「かまぼこ通り」と呼ばれています。

蒲鉾の歴史は古く、その昔神功皇后が三韓征伐の際(3世紀頃)、すりつぶした魚の身を鉾の先につけ、焼いて食したのがはじまりだと伝えられています。

「蒲鉾」の名は形状が蒲という植物の穂に似ていたことから生まれたといわれ、平安時代の故実書『類聚雑要抄』にも、貴族の祝賀料理の献立図に「蒲鉾」の文字が登場します。

これが蒲鉾に関する最も古い文献です。また、足利時代には儀式用として使われていたという記録が残っています。

小田原のかまぼこの歴史は正確なことは明らかになっていませんが、小田原で蒲鉾づくりが盛んになったのは、今から220年くらい前(天明年間)、

小田原城主“大久保忠信”の時代≪北条早雲時代(1432〜1519年)という説もあります。≫だといわれています。

このころの小田原は沿岸漁業が盛んでたくさんの魚が獲れていました。この魚の保存利用として誕生したのが小田原蒲鉾です。漁獲される魚の評判を聞き、

日本橋の蒲鉾職人などが小田原に移り住んだともいわれています。(籠清HPより)

 

江戸見附と一里塚

 

上杉龍若丸の墓  天文20(1551)年、龍若丸は平井城落城前に、降伏の使者として北條氏康のいる小田原に従者6人を引き連れて参ります。12歳又は13歳の幼少の身ですが大敵の嫡男故に、

氏康は家臣の神尾治郎右衛門に首を刎ねさせます。神尾治郎右衛門はまもなく疫病を患い亡くなりました。(説明文より)

新田義貞の首塚  建武の中興の柱石であった新田義貞は、北陸を転戦中、延元3年(1338)、越前国(福井県)藤島で討死し、足利尊氏によってその首級を晒されていた。

義貞の家臣宇都宮泰藤(小田原城主、大久保氏の先祖)は、主君義貞の晒首を奪い返して領国三河に往き、妻子に暇を告げ、主君義貞の本国、上野国(群馬県)に首級を葬るため東海道を下った。

しかし、酒匂川のほとり、ここ網一色村に達したとき、病にかかり再起できなくなってしまったという。そこでやむなく義貞の首をこの地に埋葬して、自身もこの地で歿したと伝えられている。

その後、新田義貞の首塚として地元の人々に尊信されていたが、戦後一時荒廃してしまった。しかし、近年地元有志によって復興整備され、新田義貞の首塚の碑も建立された。

なお北方八幡神社境内に、新田神社の祠がある。(説明文より)

 

酒匂(さこう)橋を渡ります。広重の浮世絵には、酒匂川の渡しが描かれています。

酒匂川東側をいくと、酒匂川の渡し跡があるとガイド本に載っていましたが、付近を捜しましたが、見つけられませんでした。

 

  

小八幡一里塚  江戸から19番目の一里塚

国府津(こうづ)駅を過ぎてしばらく行くと「大山道道標」があります。大山とは、伊勢原市にある大山阿夫利神社です。

大山は古くから霊山として篤く信仰をされていました。隆盛を極めた江戸期には年間二十万の人々が来山したと記録されています。当時、民衆の間では伊勢詣りを始め、寺社に参拝することが大流行

していました。その中で、江戸の町から二、三日の距離にある大山は気軽に参拝できることから、絶好の行楽地としても愛されたのです。大山に参拝した後には江の島などへ行楽する事が

人気の行程とされていました。この様子は古典落語「大山詣り」の中にも表されています。平成二十八年四月には「大山詣り」が日本遺産に認定をされました。(大山阿夫利神社HPより)

  

しばらく歩くと「車坂の碑」があります。このあたりは、車坂と呼ばれていたのでしょうか?太田道灌は、ここで夕立にあったこと、源実朝は、正月に洪水で川を渡れなかったことを詠んでいます。

 

二宮町に入りました。二宮町と隣の大磯町は、神奈川県中郡に所属しています。二宮町のマンホールは、町の木、椿です。

  

押切橋を渡り、押切坂を上っていきます。坂を登りきった所に「松屋本陣跡」があります。大磯宿と小田原宿との間(あい)の宿にあった「松屋本陣」は、将軍や大名、旗本、門跡などの休憩所として

利用されました。押切坂から1号線に合流します。ここには、一里塚跡があります。江戸から18番目です。

  

お昼近くになってきました。JR二宮駅前のコンビニで休憩します。コンビニは、現代のお茶屋ですね。

JR二宮駅前には「ガラスのうさぎ像」があります。この像は、第二次世界大戦中、二宮の空襲で父を失った体験を綴った高木敏子さんの小説「ガラスのうさぎ」に因んで建てられました。

町民の平和への願いも込められています。

  

大磯町に入ってきました。

 

六所神社  もとは、石神台の地に置かれていましたが、大化の改新後現在地に移りました。その後相模国府がこの地に移り、相模の六社の分霊が六所神社に祀られ、相模の総社になりました。

  

大磯城山公園  もとは、三井家総領事三井高棟の別荘地でした。高棟は、昭和9年「城山荘本館」を山頂に築き、大雄殿を始めとして国宝茶室「如庵」などがありました。

 

城山公園の1号線側には、旧吉田茂元総理邸があります。旧吉田茂邸は戦後の内閣総理大臣を務めた吉田茂(1878-1967) が暮らしていた邸宅です。もとは明治17年(1884) に

吉田茂の養父・吉田健三が土地を購入し、別荘を建てたのがはじまりです。養父亡きあと吉田茂が邸宅を引き継ぎました。昭和20 年(1945) より大磯の邸宅を本邸とし、晩年を過ごしました。

 本施設は吉田茂が暮らした当時の邸宅を復原したものです。昭和22 年頃建てられた応接間棟、および昭和30 年代に近代数寄屋建築で有名な吉田五十八が設計した新館をメインに再建しています。

  

大磯町には、明治中期から昭和初期にかけて要人の避暑、避寒地として邸宅や別荘が多く建てられました。

 

旧街道に戻ります。大磯中学校の前に「上方見附」。その先にあるのが「鴫立庵(しぎたつあん)」。

鴫立庵は、西行法師が詠んだ「心なき身にもあわれは知られけり、鴫立つ沢の秋の夕暮れ」という名歌はここからの風景を詠んだものと言われています。後に崇雪が西行を慕い訪れ、

「湘南清絶の地」と絶賛し、草庵を結びました。

湘南発祥の地」 江戸時代初期の 1664 年。小田原の祟雪が、西行法師の詠んだ歌《心なき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮≫ に因み、昔の沢らしい面影を残す現在の鴫立庵の地を 

選んでこの地を「鴫立沢」と名づけ、標石を建てました。では、標石の裏に祟雪はなぜ「著盡湘南清絶地」と刻んだのでしょう。祟雪にとって、大磯の「鴫立沢」付近のこの景色は、

中国 湘江の南方 一帯の ” 湘南 ” の美しい景色に似てなんとも美しい場所であったことから、「著盡湘南清絶地」と刻んだといわれています。

 著盡湘南清絶地とは、おおらかで、すがすがしく、この上もない所、湘南とは、何と素晴らしい所という意味です。(大磯町HPより)

  

新島襄終焉の地」京都・同志社の創設者「新島襄」は、大磯の旅館百足屋で47歳の生涯を閉じました。徳富蘇峰の筆による碑がかつて百足屋の玄関だった所に建てられました。

  

大磯海岸照ヶ崎海岸は、明治18年(1885)に陸軍軍医総監を歴任した松本順の尽力により、東日本最初の海水浴場として開設されました。

江戸時代の大磯宿は、本陣三軒、旅籠66軒、宿内総戸数676軒。本陣は、尾上、小島、石井の三つで小島本陣跡は探し出しましたが、他の2軒は見つけられませんでした。

   

国道1号線、三沢橋東側の信号より斜め左に入ります。しばらく歩くと、両側に東海道松並木が見えてきます。

  

JRの地下道路を通ると「化粧坂(けわいざか)の一里塚」です。このあたりが広重の描いた東海道大磯宿「虎ヶ雨」の舞台です。

  

曽我兄弟の曽我十郎の妻「虎御前」は、化粧坂付近に住んでいて、朝夕この井戸の水を汲んで化粧していたことからこの井戸を「化粧井戸」の名がついたそうです。

 

高麗(こま)という地名があります。近くには、広重の浮世絵虎ヶ雨に出てくる高麗山(こまやま)、高来(たかく)神社・・・・・何か高麗の地名が出てきます。

ウィキペディアで調べてみると、高句麗が新羅・唐連合軍に滅ばされた時に、その王族・若光を中心に高麗人が相模国大磯に渡来し、その後若光一族を含めた各地の高麗人は

武蔵国高麗郡(こまぐん)に集められ、高麗神社も設立したという。高来神社の例大祭「御船祭」の木遣歌「権現丸」に、「高麗国守護」が渡来して、「大磯浦の守護」となったとある。と書かれています。

そういえば、何年か前、埼玉県飯能のウォーキング大会に参加した時、高麗(こま)神社がありました。大磯から埼玉の方に移住していたのですね。

  

花水橋を渡ります。渡り終えた花水橋東の所に「平成の一里塚」があります。化粧坂の所にも一里塚がありましたが、それから1里は歩いてはいません。

説明文を読むと、休憩場所として作ったとのこと。何か紛らわしいですね。

   

平塚市に入りました。平塚の地名は、桓武天皇の三代孫、高見王の娘政子が、東国へ向かう旅をした折にこの地で逝去。墓として塚が作られたが、その塚の上が平らになったので、

里人は「ひらつか」と呼んだそうです。

広重の浮世絵「平塚」は、高麗山をバックに描かれています。

  

平塚宿は、本陣1、脇本陣1、旅籠54、家数443、人口2114人の規模でした。

 

本陣跡は、神奈川銀行前にありました。

 

 

 

平塚駅近くに「番町皿屋敷」に出てくる「お菊塚」があるということで行ってきました。番町皿屋敷は、私が子供の頃、で映画で見たことがあります。お菊の霊が1枚、2枚・・・・と皿を数えるシーンなんか

怖くて怖くてその夜は眠れなかった思い出があります。

  

時間は16時を過ぎました。今日はここまでとします。尚、今日のGPSですが、機械がおかしくなり、ちゃんと軌跡を記録していませんでした。

 


「みんなで歩こう里山あるき2018」2日目羽黒山修験のみちコース20km(山形県鶴岡市)

2018-09-25 17:29:44 | ウォーキング

9/16(日)朝いつものように4時半に目覚め、休暇村周辺を散歩しました。木々は、少し色づき始めていました。

昨晩休暇村でいただいた「芋煮」。山形県では、庄内地方と内陸地方では味付けや入れるお肉に違いがあるそうです。

庄内地方は、豚肉にみそ味・・・いわば、「豚汁」ですね。一方の内陸地方では、牛肉にしょうゆ味。同じ県でも味付けが違うのですね。

   

里山歩き2日目。会場は、休暇村から車で約5分の手向(とうげ)地区地域活動センターです。車を羽黒小学校に置き、会場へ向かいます。

宿坊街を通ると、宿坊や民家の所に「綱」がつけられています。これは「魔よけの引綱」と言って松例祭(冬の峰)につつが虫(悪魔)を引っ張って焼き捨てる神事に使った綱で

綱をかけると悪魔が近寄らないと伝えられています。

 

会場では、既に出発式が行われていました。羽黒こども太鼓のあと、山伏による「ホラ貝」の音でスタートします。

  

宿坊街を通ります。途中、芭蕉の出羽三山を詠んだ句碑が建っていました。

  

随神門に着きました。ここから羽黒山1,7km、2446段の階段が始まります。今回の鶴岡遠征は、里山ということで「ポール」を持参しました。昨日もこのポールで助けられました。

 

羽黒山の階段は、随神門から継子坂、祓川神橋、須賀の滝、翁杉、五重塔、二の坂、三の坂と続きます。

   

五重塔では、現在五重塔の内部を公開する特別参拝が行われていました。

これから階段が急になります。途中から山形のSさんが一緒に歩いてくれました。

  

二の坂茶屋に着きました。

  

これから三の坂に入ります。Sさんから石段の石に30数箇所、杯や瓢箪の彫り物があると教えていただき登りながら探していきます。2か所だけ見つけました。

  

この階段、昨年登ったことがあるのですが、今日は、日頃の運動不足がたたっているのか、もう心臓がパクパク状態です。

また、汗が、帽子のひさしを伝わり雨粒みたいに落ちてきています。随神門から約1時間かかって出羽三山神社に着きました。

 

 

三山神社前の鏡池からは、平安・鎌倉・江戸時代中期までの鏡が数百面発見され、そのうち百九十面が重要文化財に指定されております。

   

霊祭殿では、東日本大震災犠牲者慰霊塔がありました。

  

このあと、コースは旧参道に入ります。ほとんど下りだろう?と思っていましたが、これが大間違い!

アップダウンがあり、所々泥濘があり滑りやすくなっています。また、看板には「熊出没注意」があります。そういえば、出発式の時に「熊に遭遇したら、走り出さず、ゆっくりゆっくり後ずさりし、

熊の視界から消えたら逃げてください」と注意があったことを思い出しました。出来るだけ一人で歩かないよう4~5人の団体に入って歩くようにしていますが、膝を痛めて特に下り坂が苦手になりました。

徐々に団体から離れていきます。

     

 

  

 

出発地点の手向地域センターに戻りました。ここでは、庄内風の「芋煮」が振る舞われました。

ここまで8km。この後、12kmは、平坦な道になるそうですが、家内がもうダウン状態です。仕方なく、ここでリタイアすることにしました。

ゴール後の抽選会では、地酒、Tシャツが当たりました。

  

このあと、お風呂の割引券をいただいていましたので、休暇村に行き、汗を流し、今晩の宿泊地神奈川県小田原に向かいました。

明日から、旧東海道を歩きます。

  


「みんなで歩こう里山あるき2018」1日目大山上池・下池コース20km(山形県鶴岡市)

2018-09-24 05:12:10 | ウォーキング

9/15~16 山形県鶴岡市で行われる「みんなで歩こう里山あるき2018」に参加しました。1日目は、大山上池・下池コース20km。

この大会の目玉は、「歩かなければ 歩けなくなる」のオリジナルTシャツが格安で販売されています。私も事前に10着注文しましたが、あとMサイズを追加しようとしましたが、もう売り切れ状態でした。

会場は、泊まった休暇村から約30kほど離れた「大山イベント広場」。

     

9:45大山保育園児の太鼓でスタート!

  

1日目20kmコースは、イベント広場をスタートし、下池→高館山→加茂トンネル→上池→イベント広場→ほとりあ→椙尾神社→善寶寺→第五中学前→大山コミュニティセンター(ゴール)です。

  

  

高館山(たかだてやま)は標高273.2mの低山だが植生が多く、麓の上池・下池とともに庄内海浜県立自然公園の一部に指定されています。同時に、林野庁の「自然休養林」、

「森林浴の森100選」にも指定されています。山頂には展望台があり、加茂港、湯野浜温泉、庄内平野の田園風景、鳥海山、月山を望むことができます

    

頂上近くには、19代首相「原 敬(はらたかし)」の碑があります。ここが給水スポット。原敬は、東北岩手の出身なのにどうしてこの場所に「碑」があるのでしょう?

青年時の原敬は、新潟の天主教教会にいたフランス人宣教師エブラルの学僕でした。新潟と盛岡の往復の際、日本海の交通ルートでもあった加茂港に船待ちの為、3日ほど滞在するのを

常としていました。(当時19歳) その後、総裁になった原敬が「政友会東北大会」の開催の為、来鶴した際43年ぶりに印象深い加茂港に赴き、そこで句を読んだのです。(当時62歳)

 「吹く風にとまりて兼てや秋の蝶  一山」
「一山」
とは原敬の晩年の雅号であり、明治維新当時、
東北諸藩の出身者を「白河以北一山百文」(白河より北は一山100文の価値しかない)と薩長出身者から嘲笑、侮蔑された反骨精神から、

付けられたと言われています。(ウィキペディアより)

 

  

7月、8月と暑さの為にウォーキングをさぼっていましたので、息切れがしてしまいます。どうにか山頂まで登れました。

山頂には展望台があり、登ってみると、遠くは、鳥海山、月山(この日は見えなかった)、加茂港などが一望できます。

   

今日の20kmの参加者は、約100名。展望台などにのぼったりしていると、いつの間にか、ラストになってしまいました。

高館山を下りてしばらく歩くと加茂トンネルがあります。加茂のクラゲ水族館に向かう車が行き交います。

大山上池(かみいけ)に着きました。大山には、この上池と下池があります。江戸時代治山治水の水害対策と農業用貯水池として築造されました。

大山上池は(面積14.9ha)、大山公園の南に位置し、白鳥や鴨類など渡り鳥の楽園です。特に、7月下旬~8月下旬に見頃を迎える姫ハスの花が湖面一面に咲き競います。

大山下池(面積は24.8ha)は、大山公園の北に位置し、白鳥や鴨類など渡り鳥の楽園として、一年を通じて200種近い野鳥が確認されています。

平成20年10月には、水鳥などの生息地として国際的に重要な湿地に関する「ラムサール条約」に登録されました。

 

  

鶴岡大山のマンホールは、椙尾神社の「大山犬まつり」をデザインしています。犬まつりって面白い祭りだなと思って調べてみると。

昔むかし、椙尾神社の裏山に化け物がおりました。毎年お祭りの日には、美しい娘を人身御供として差し上げなければ田畑を荒らすので、不作に苦しまなければなりませんでした。

ある年、大山を通りかかった1人の六部(修験者)が話を聞き、祭りの夜1人椙尾神社の天井に隠れていると、2人の大入道が現れ「丹波の国のメッケ犬にこのことを聞かせるな」と繰り返しながら娘を

二つにしました。これを見ていた六部は、丹波の国へ行き「メッケ犬」を探し出し、祭りの日に娘の代わりにメッケ犬をカゴにのせ供えました。夜中になって現れた大入道がカゴを開けたところ、

メッケ犬が一声高く吠え大入道を退治しましたが、自分も血に染まって倒れてしまいました。以来、メッケ犬は椙尾神社のお前立となり、毎年メッケ犬を祀る「犬まつり」となりました。

メッケ犬ってどんな犬なんでしょうね?

大山公園に戻ってきました。

  

ここで豚汁のサービスがあるのですが、僕らが最後尾です。もう豚汁はありませんでした。あと10分ぐらい待ったら追加の豚汁が来るといわれましたが、パスして先を急ぎます。

  

大山下池  コハクチョウの飛来地としても知られていますが、まだ飛来していませんでした。池では、ボートを浮かべて「菱」を採っている人がいました。染料にするそうです。

 

椙尾神社 先ほど紹介した「犬まつり」の椙尾神社。今日のコースここでタイムリミット14時が設けられていますが、現在13:20.かろうじてパスしました

  

善寶寺の所にかき氷のサービスがありました。冷たいものが欲しかったので大満足です。

 

善寶寺は、我が国唯一の魚鱗一切供養塔で知られる五重塔があり、漁業関係に信仰厚い。姿を顕した二龍神(竜宮竜道大竜王、戒道大竜女)が寺号を授け、寺内の貝喰池に身を隠したという

伝承が残り、龍神信仰の寺として航海安全や大漁を祈願する漁業関係者などから信仰を集めました。

天保4年(1833年)に再建された龍王殿や安政2年(1855年)に寄進された五百羅漢堂、文久2年(1862年)に再建された山門、1883年(明治16年)に建立された五重塔などの諸堂のほか、

菱田春草「王昭君の図」(国の重要文化財)などを保有しています。(庄内観光ガイドより)

折角ですので境内に行ってみました。西の金毘羅、東の善寶寺とも言われているそうです。

    

  

もうゴールまであと少し。14:25やっとゴールしました。一番最後尾でなく後ろから10番目ぐらいでゴールです。

 

このあと、庄内産業物産館に立ち寄ります。ここは、観光バスがたくさん停まっており、庄内土産を買う人でいっぱいでした。

  


月山八合目弥陀ヶ原(山形県鶴岡市)

2018-09-23 14:24:48 | ウォーキング

9/14(木)  9/15~16に山形県鶴岡市で開催される「みんなで歩こう里山あるき2018」に参加するため、福岡より山形鶴岡へ向かいました。

福岡空港から8時の飛行機で新潟、新潟から羽越本線で鶴岡へ。鶴岡に着いたのが13時少し前でした。

鶴岡駅でレンタカーを借り、月山(がっさん)へ。

月山(がっさん)は、山形県の中央部にあり、出羽丘陵の南部に位置する標高1,984mの火山。山域は磐梯朝日国立公園の特別区域に指定され、日本百名山、新日本百名山、 花の百名山

及び新・花の百名山に選定されている。羽黒山、湯殿山と共に羽黒三山と称されています。

昨年、羽黒山、湯殿山と行きましたので今回は何としても月山に行って羽黒三山に行ってみたかった・・・・

とりあえず八合目「弥陀ヶ原(みだがはら)」に行ってみました。

  

 

弥陀ヶ原から山頂まで2時間半、現在15時少し前ですので、これでは、登って下りるまで5時間以上かかります。諦めて弥陀ヶ原を散策しました。

弥陀ヶ原湿原には、この世と思えないほど清々しい景色が広がっています。夏には百数十種の高山植物で埋め尽くされ、毎年多くの観光客が訪れています。

 弥陀ヶ原は、阿弥陀如来が祀られていたので「弥陀ヶ原」とも、神様が御田植えをされたことから「御田ヶ原」ともいわれます。御田原参籠所のとなりにあるお社・御田原神社には、

稲田の守護神である奇稲田姫神(くしなだひめのかみ)が祀られています。

お花は、8月末までがピークだったのでしょうか、9月も中旬になると咲いている花も少なかったです。

   

  

ガスが出てきました。

  

月山中之宮

 

 

月山の神様の使いは、兎です。お月様で兎が餅をついている姿は、ここからの話でしょうか?境内には、兎の狛犬ならぬ狛兎がありました。

  

  

  

月山には、登れなかったけど、弥陀ヶ原湿原を散策しました。次回月山に行く機会があれば、月山山頂を目指してみたいです。


第8回大阿蘇元気ウォーク(熊本県阿蘇市)

2018-09-04 18:05:38 | ウォーキング

9/1~2日迄阿蘇市で行われる「第8回大阿蘇元気ウォーク」に参加するため、9/1(土)午前4時ごろ福岡の自宅を出発しました。

        

阿蘇まで160kmぐらいですので遅くとも午前7時には到着する予定でしたが、自宅を出て、1kmぐらい走った所で思わぬハプニング!

民家の横から黒い物体が私の車目がけて突進。ビックリして止まり、見てみると80kgは、ありそうな猪でした。

その猪、倒れていましたので、てっきり死んでいるのかと思い、近づくと起き上がりフラフラしながら、山の方へ帰って行きました。

私の車は、フロントバンパー左側が大破し、これでは、走れません。すぐ修理工場へ持っていきました。

   

急だったもので修理工場に代車がなく、私の甥っ子が私と同じ車に乗っていますので、事情を話し、車を借りることにしました。

午前11時、甥っ子の車で阿蘇に向かって出発しました。阿蘇市役所に着いたのが13時30分。皆さんゴールされています。

駐車場を見ると、北九州のNさん、長崎のSさん、敦賀のFさんの車があります。ここで待つことにします。

しばらく、雑談し、今日の宿「かんぽの宿阿蘇」に向かいました。かんぽの宿では、和歌山のDさん、浜松のHさんと同宿です。

  

宿からは、根子岳、高岳が見えます。この姿は、涅槃像に似ています。 注)阿蘇山は、阿蘇五岳といって(根子岳、高岳、中岳、杵島岳、鳥帽子岳)の総称です。

楽しみは、宿の食事です。今日は歩いていないのであまり食欲もありませんでしたが、どうしてどうして全部食べてしまいました。

 

…………………………………………………………………………・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

2日目は、阿蘇山山麓横断20kmコースに参加しました。出発式では、佐藤阿蘇市長が挨拶されました。この市長、成人式で新成人を前に歌を披露されたりする名物市長です。

出発式でも歌を披露されました。8:30 20kmスタートです。

  

今日は、昨日と打って変って天気も良く絶好のウォーキング日和です。

  

1時間ほど歩くと、豊後街道「坂梨宿」に入ります。

豊後街道は、熊本城下から出発し、大津や阿蘇市内牧、そして阿蘇郡産山村を経て豊後鶴崎(大分市)へと至る近世肥後の主要な街道で、阿蘇谷のほぼ中央部を横断しています。

瀬戸内海を経由して上方(関西)方面へ抜ける主要ルートとして、加藤清正や歴代の細川藩主も参勤交代の際に利用していました。

もう10年ぐらい前になりますが、私も豊後街道の大津~宮地まで歩いたことがあります。雨上がりでしたので途中の二重峠では石畳が滑りそうでゆっくりゆっくりと歩いたことが思い出されます。

写真の「十三里木」というのは、熊本城下から13里(約52km)という意味です。

 

  

坂梨公民館が最初のチェックポイント。ここまで5,2km。氷で冷やしたトマトが振る舞われました。トマトを1個丸ごとかじるのなんか、久しぶりです。(小学生以来かな?)

   

  

天神橋(眼鏡橋)・・・・・平保木川(へぼのきがわ)にかかる単一アーチ形の石橋。弘化2年(1845年)着工、弘化4(1847年)完成。
石工棟梁・卯助(うすけ)ら総勢72名があしかけ3年を経て完成。

昭和58年町の文化財指定のとき、隣の天神社にちなんで天神橋と名付けられました。

橋の下底の長さ 6.4m、幅 4.3m、アーチの中央部の高さ 2.1m、約100個の石が見事な弧を描く。 石の材質は滝室坂産の阿蘇溶岩。 

橋の欄干には、「弘化四(1847)年丁未寿吉辰 八代郡種山手永 棟梁石工 卯助」と刻まれている。棟梁・卯助(うすけ)は、通潤橋や霊台橋などを架けた石工。
天神橋の最後の一石を積む際に、アーチの下に座したそうです。平成2(1990)年の大水害にも耐えた天神橋。石工たちの施工技術の高さがうかがえます。

坂梨手永会所跡・・・・・熊本藩主細川氏がその領地に導入した行政制度。領内を「手永」と呼ばれる行政区画に分けて村を束ね、責任者として惣庄屋を置く。

江戸時代初期に細川家が小倉藩領に創設し、寛永9年(1632年)に熊本に移封されると熊本藩領にも導入された。小倉藩の手永制度は細川家に代わった小笠原家によって引き継がれ、

以後両藩で廃藩置県まで行われた。

  

  

  

11,2km地点の「踊山神社」が2回目のチェックポイント。

踊山神社は、その昔、水不足の年は笹を持って神社の前で踊ると水が湧いたため、「踊山神社」と称したと伝えられています。また、子供の驚風(痙攣などの病気)の神様としても知られています。

 

  

今日は、暑く、水分を補給してもすぐ飲みたくなります。ここで我が家から持ってきた自家製の「梅干し」をいただきます。塩分補給です。

  

チェックポイントを過ぎ、しばらく歩いていると、地元の子供さんたちがウォーカーに何か話しかけています。何だろう?と思うと、ウォーカー一人一人にアイスキャンディを配っています。

冷たくておいしかったです。有難う!

コースは、寺院のある所に来ました。このあたりは、「田園ゆたっと散歩道」とネーミングされています。

   

  

長善坊の公孫樹(いちょう)・・・・・樹齢約400年、幹回り7m、根回り13m、主幹は、地上12mから二手に分かれています。この公孫樹は、加藤清正公が朝鮮出兵の時、長善坊契雅僧正の

功をたたえ、坊中に西厳殿寺を復興した時に植えたといわれています。一説には、後年母親の病気回復祈願の為、阿蘇を訪れた時、清正公が乗っていた馬を繋いだのがこの公孫樹であると

いわれていて、別名「駒つなぎの公孫樹」ともいわれています。

コースはJR阿蘇駅に来ました。

   

阿蘇駅の隣が、道の駅阿蘇です。ここまで14,4km。ここでは、阿蘇の高菜、阿蘇の牛乳、冷やしトマトが振る舞われました。

 

  

ゴールまであと5kmです。現在11時45分。となるとゴールは、12時45分ぐらいかな?

  

  

一の宮町門前町商店街にやってきました。

  

あちらこちらに「湧水」があります。勿論水質証明書もつけてあります。

 

  

阿蘇神社・・・・孝霊天皇9年の創建、肥後国一の宮、旧官幣大社。阿蘇の開拓祖、健磐龍命(たけいわたつのみこと)をはじめ十二神をまつる由緒ある神社で、末社は全国500社を超える。

 

全国的にも珍しい横参道で、境内には願いごとを叶えてくれる「願かけの石」や縁結びにご利益がある「高砂の松」、西本清樹の歌碑がある。

 

今に伝わる神事は稲作と深く結びつき、「阿蘇の農耕祭事」として国の重要無形民俗文化財に指定。一の神殿・二の神殿・三の神殿・楼門・神幸門・還御門の6棟は国の重要文化財に指定されている。

また、楼門は日本三大楼門の一つに数えられる。「新熊本百景」「熊本緑の百景」に選出。

平成28年(2016年)4月の熊本地震で楼門と拝殿が全壊し、2022年めどに再建が完了する予定です。

 

 

12時45分ゴールしました。

  

今日のGPSです。

今日は、夕方までに甥っ子に車を返さなければいけませんので、ゴールしてすぐ、帰途につきました。福岡の自宅に戻ったのは、16時ごろでした。

最初は、車が大破したため、参加するのをためらいましたが、久しぶりに阿蘇の雄大な景色を見ることができました。無理して来てよかったです。また来年も参加し、リベンジをしたいです。