よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

奥州街道➈4日目「白坂宿~白河宿」(その2)(福島県白河市)

2022-04-22 18:24:29 | 奥州街道(奥州道中)

(その1)からの続き

白河宿

天保14年(1843)の奥州道中宿村大概帳によると、白河宿の宿内家数は、1285軒、うち本陣1,脇本陣2,旅籠35軒で宿内人口は、5959人(男3041人、女2918人)でした。

本陣は、現堀川印刷所。芳賀源左衛門が代々勤めました。また、本陣の所には、白河医術講義所(白河県立病院)があり、のちの福島県立医大へと発展していきます。

 

本陣の向かい側には、脇本陣柳屋跡があります。

 

この脇本陣には、慶応4年(1868)戊辰戦争白河口の戦いに参戦した新選組斎藤一隊長率いる隊士が宿泊し、最大の激戦となる5月1日、ここから出陣しました。

 

ここから街道を外れて天恩皇徳寺に向かいます。このお寺の墓地には、福島民謡「会津磐梯山」に登場する「小原庄助のお墓」があります。

小原庄助は、架空の人物と言われていますが、この地には、小原庄助の墓があります。小原庄助は、会津の塗師の久五郎のことで、当時画壇で有名な谷文晁の高弟で羅漢山の麓に住み、

絵を描いていた羅漢山のもとへ絵付けを習いに度々訪れていました。羅漢山人は大酒客として白河で知らぬ者はなく、また久五郎も大の酒好きで二人は、肝胆相照らし、会うたびに連日連夜

酒盛りをしていました。その酒の為か、安政5年(1858)6月、久五郎は、山人のもとで客死してしまい、この皇徳寺に葬られました。

墓石は、杯と徳利を型取り、表面に「会津塗師米汁呑了居士」裏面には、「朝によし、昼はなほよし、晩もよし、飯前飯後其間もよし」と刻んでいます。

久五郎の死から3年後、羅漢山人も亡くなりました。遺言により墓は、酒飲み仲間の久五郎の墓に並んで建てられました。

白河ハリストス正教会聖堂 大正4年(1915)に建てられたピザンチン様式の教会。正八角形のドームと白い壁が印象的です。

  

銘酒「白陽」大谷忠吉商店 詩人「萩原朔太郎の妻・美津子の生家」

大谷忠吉本店は、明治12年(1879)に酒造業の蔵元として初代大谷忠吉氏によって創業され、現当主で5代目を数えます。3代目大谷忠一郎氏は詩人としても活躍した人物で、酒造業の傍ら

詩人萩原朔太郎に師事し、福島県詩人協会長なども務めました。萩原は、当地の大谷忠一郎のもとを度々訪ねており、そのような縁で忠一郎の妹美津子と昭和13年(1938)に結婚しました。

 

菓子舗玉家は、明治45年頃に本町四辻の玉屋菓子舗より分家した初代大槻恒次郎氏によって創業され、現当主で4代目を数えます。菓子舗としては、江戸時代の文久年間(1861~64)に

白河藩主御用達の菓子舗であった由緒を持っています。

建造物は、明治末期頃に建築された伝統的な切妻・平入りの町屋建築で、近年修復がなされています。2階は全面格子を設け、軒はせがい造りとなっています。

  

国道294号線と合流しました。四ツ辻交差点には、「道標」があります。白河城下を東西に走る奥州街道は、ここから北に方向を変え、城下を出た女石の追分で会津街道と分岐し、

桑折宿(福島県桑折町)では、羽州街道と分岐して仙台方面に向かいました。

西側は「左、せんだい(仙台)、あいづ(会津)、でハ(出羽)、ゑちご(越後)」、北側は、「右、日光、江戸左 たなくら(棚倉)、いハき、水戸」と書かれています。

 

国道294号線を進み東北本線のガードを潜ります。この辺り道路工事中で少し歩きづらいです。右側には、白河だるま屋さんがあります。

白河だるまは寛政の改革で有名な松平定信公の「市民の生活をより元気に」という想いから幸運をもたらす縁起物として誕生しました。家族の健康や会社の繁栄、高校や大学の合格や選挙での

当選など古来より人々が何かを願う際は必ず白河だるまがそばにあり、たえず人々の夢や希望を応援し続けてきました。白河だるまは幸運の象徴とされている「鶴亀松竹梅」が顔の中に

描写されているのが最大の特徴であり、そのデザインはかの有名な絵師・谷文晁が行ったとされています。また、願いごとをする際はまず、だるまの左目に目を入れ、成就したら右目を

入れるという風習があります。

  

ガードを潜ると田町大橋です。この付近白河バイパスの工事中です。ガードマンの方の指示でバイパスの方を歩きます。

 

田町大橋からは、那須連山が見えます。阿武隈川は、この那須連山、旭岳(1896m)を源流とする川で白河から須賀川、郡山、福島を経て宮城県岩沼市と亘理町の境で太平洋に至ります。

 

田町大橋を渡り「褜姫神社」を探しますが、わかりません。近くの人に聞くと、旧田町大橋の方にあるそうです。新橋から旧橋の方に歩きなおします。

褜姫(えなひめ)神社

義経は、兵法を学ぶため、平泉から京にいる陰陽師・兵法家・鬼一法眼に身許を偽って会い、 鬼一の娘皆鶴姫に近づき、その手引きによって秘伝の書を手に入れ習読し、奥州へ帰った。
その後、義経は平家軍を滅ぼすが、追われの身となり金売吉次と共に平泉に逃亡した。皆鶴姫も旅装を整え恋する義経を慕って奥州に向かった。しかし、旅慣れぬ身故に、京都からの長旅で

白河北辺の峻険に歩行困難となり、病をえて此処に辿り、宿もなく、雨露を防ぐ術もなく、旅の衣を傍の楓に掛け横臥快復を待ちましたが、この地で病に倒れ命を落としたと伝えられている。
里人たちは、姫の死を悼んで社に祀り、皆鶴の懐にあった梅の実をそばに植えた。梅は成長して「八房の梅」となった。 現在は、その跡に若木が植えられている。
また、社の傍らには姫が着衣を濯いで枝に掛けた「衣掛の楓」がある。皆鶴の泪が注がれるためか春や秋に、 晴天の時でもこの樹の辺りだけは、なぜか時雨が降ることから

「時雨の楓」ともいわれている。現在は、根株を残すのみとなっている。

  

仙臺藩士戊辰戦没之碑 戊辰戦争の時、ここは会津街道(国道294号)と奥州街道(国道4号)の分岐点で、東軍の小峰城奪還戦で激戦が展開された場所。白河口の戦いで戦士した

坂本大炊(さかもとおおい)ら仙台藩士150余名の慰霊碑です。

  

遊女志げ女の碑 戊辰戦争時、悲劇の死を遂げた遊女しげについて記す碑で、昭和二十九年(一九五四)の建立である。
 碑によれば、しげは越後国三条の生れで、白河の旅籠坂田屋に抱えられていた。閏四月上旬に奥羽鎮撫総督参謀の世良修蔵(長州藩出身)が小峰城に入った際に世良と馴染みになったという。
 しかし世良は、白河は危険と察して白河を逃れた。その脱出を助けたと疑われたしげは、世良を敵視していた会津藩士に殺害されたという。享年二十二歳。法名を梅質貞顔信女と伝える。
 しげが殺されたと知った坂田屋の下男は会津藩士を追い、この女石の地でしげの仇を討ったという。

 

女石追分 徳川幕府道中奉行管轄の奥州道中は、ここまでです。

 

奥州街道(道中)完歩しました。

2019年5月ちょうど年号が「令和」になったころ江戸日本橋をスタートし、途中コロナで身動きができませんでしたが、2021年11月に再開し、2022年4月に白河迄完歩しました。

足掛け3年、実数は11日間、距離数約200kmでした。

  

帰りは、女石から白河駅まで歩きました。白河駅は、明治20年(1887)7月東北本線が開通したときにできました。

現在の駅舎は、大正時代に建てられました。待合室にあるステンドグラスが特徴です。現在無人駅です。

白河の地名の由来は、白河の関跡の下を流れる「白川」という小川に由来するという説とアイヌ語で❝自陣❞を指す「シラガー」という言葉が転じたものという二つの説があり、古くは

白川と表記されていました。

白坂宿から白河宿までのGPSです。

次回の街道歩きは、「京街道」を予定しています。

 

 

 

 


奥州街道⑧4日目「白坂宿~白河宿」(その1)(福島県白河市)

2022-04-21 17:51:36 | 奥州街道(奥州道中)

3/31(木)奥州街道4日目

朝、宇都宮のホテルをチェックアウトし、宇都宮から新幹線で本日の宿泊地新白河に向かいます。(新幹線だと約25分、東北本線だと約1時間半かかります)

新白河のホテルに荷物を預け、新白河駅から東北本線で白坂駅へ。

余談ですが、新白河駅は、西白河郡西郷(にしごう)村にあります。全国の新幹線で唯一「村」に止まる新幹線の駅だそうです。(ホームの一部は白河市にかかっています)

 

金売吉次(かねうりきちじ)兄弟の墓があります。

吉次兄弟は、奥州平泉の藤原秀衡に仕え、砂金を交易して、平泉と京を往来していました。承安4年(1174)ここで盗賊に襲われ皆殺しになり、里人がそれを憐みこの地に葬り供養したと

伝えられています。また、後に源義経がここに立ち寄り、吉次兄弟の霊を弔い、近くの八幡宮に合祀したと伝えられています。

  

白河口にやってきました。ここは戊辰戦争白河口の激戦地でした。「戦死墓」は、会津藩士の墓です。

明治を迎える直前の慶応4年閏4月から7月にかけて白河を戦場とする大戦争「戊辰戦争・白河口の戦い」が行われました。

会津藩・仙台藩などを中心とする奥羽越列藩同盟軍(東軍)の諸藩(兵2500)が、藩主不在の小峰城に集結し、奥州街道を北上する新政府軍(西軍)(兵700)と激突したのです。

稲荷山防塁にて迎撃した奥羽越列藩同盟軍は、惨敗し、小峰城は、落城しました。

約100日間にわたる戦いでは千名を超える死傷者があり、戊辰戦争の中でも激戦地の一つとなっています。

  

 

長州・大垣藩戦死六名墓 長州藩士三名、大垣藩士三名計六名の墓です。

 

会津藩士田邊軍次は、「白河口の戦い」で会津軍が敗れたのは白坂町取り締まりの大平八郎が官軍の道案内をしたためであると信じ込み、明治3年(1870)7月、斗南(青森県下北郡)を出発、

8月に白坂に着き、八郎を旅籠鶴屋に呼び出して斬殺し、自らもその場で自害しました。享年21歳でした。

 

権兵衛稲荷神社 稲荷山に鎮座しています。神社の上の公園には、「戊辰之碑」があります。碑の横には、戊辰戦争白河口の戦い戦死者の銘板には、両軍戦死者全員の名が刻まれています。

 

ここには、会津藩家老「西郷頼母」の歌碑「身をかくすことのできる カタツムリがうらやましい」があります。

余談ですが、西郷頼母の甥でのちに養子になる「西郷四郎 - Wikipedia」は、富田常雄の小説で映画やテレビで放映された「姿三四郎」のモデルと言われています。

 

稲荷山から白河市街地に行きます。道標には、「左 江戸街道(奥州街道)、右 那須湯本道」。

  

小峰城(白河城)は、慶長年間(1596~1615)頃に城郭及び城下の骨格が整備され、寛永4年(1627)の白河藩成立後は、初代藩主丹羽長重によって屋敷地の拡張が図られるとともに

石垣を多用した城郭に改修されました。白河藩成立や城郭の改修とあわせて、奥州街道沿いに城下町も発展し、商人や職人が居住して大きな賑わいをみせていました。

城下町は「通り五町」と呼ばれた、天神町、中町、本町、横町、田町を中心とし、その南側、東側にも町屋が広がっていました。

記録によれば、寛文年間(1661~1673)の城下の町人は、7500人余りで武家人口と合わせた城下の総人口は、15,000人ほどと推定されます。

現在の福島圏域では、会津藩に次ぐ規模を誇っていました。

市街地には、多くの歴史遺産とともに当時の奥州街道を中心として町割りが非常によく残されており、今も城下町の姿を残しています。

 

藤屋」(藤田本店)は、味噌・醤油の醸造業店として天保元年(1830)頃に初代藤田彌五兵衛氏によって創業され、現当主で6代目を数えます。

本家である酒造業藤屋は白河藩主松平定信関係の資料にも「白錦」などの銘酒を製造していたと記されています。

 

奈良屋呉服店 明治14年(1881)に阿部家5代金次郎氏によって創業されました。呉服店を営む以前の江戸時代には、油・砂糖を商っていたとされます。

また、明治中期には、自転車を販売する代理店でもありました。店舗は、大正2年(1913)に建築されたもので、店舗兼併用住宅の木造瓦葺です。

 

月夜見の庭 白河石を敷き詰めた庭園。文学の庭。

  

鍍金装笈(ときんそうおい) 龍蔵寺の末寺であった法雲寺に伝来した慶長六年(1601)の名を持つ笈で、寺跡に残った虚空蔵堂に保管されています。

笈は、修験者が布教などで各地を巡る際、仏像や衣服を入れたり、金鋼板などを貼り、仏像を厳かに飾ったりするためのものです。

 

今井醤油店  江戸時代末頃に今井清吉氏によって創業されました。江戸時代には、当地において魚屋、乾物屋を営んでおり、文政6年(1823)「天神町絵図」には「肴商売武兵衛」、

天保年間(1830~44)絵図には「肴屋清吉」と記されています。醤油製造を営むようになったのは、4代目今井清吉代の江戸時代末期と伝えられ、現当主で8代目を数えます。

現在の外観は、昭和30年代の改修によるものです。 

 

松河屋  明治期に安田孝之助氏によって創業された味噌・醤油の醸造店で、昭和40年頃まで営業を行い、その後は酒の小売店となりました。

 建造物群は、醸造業を営んでいた時代の蔵が2棟残されています。通りに面した蔵は、明治25年(1892)に建築されたものです。

 

旧松井呉服店は、明治15年(1882)頃、安田清次郎氏が松井呉服店を開業し、明治35年(1902)に本建造物を建築しました。当時は他に2棟の土蔵があり、それぞれ前蔵、中蔵、奥蔵と

呼んでいました。平成10年(1998)に市が取得し天神町の集会所(天神町会館)として使用しています。平成29年(2017)度には集会所建設工事に併せて改修が行われました。

  

松井薬局は、江戸時代末期の文久年間(1861~64)に、安田信義氏によって松井薬舗として創業され、明治12年(1879)当地に移転しました。2代目安田平助(敬止)氏は、薬種問屋の傍ら

大正7年(1918)から11年までの間、白河町長を務めています。建造物群は、旧奥州街道に面した店舗と並立する蔵を先頭に4棟の蔵、2棟の倉庫の計6棟の蔵・倉庫群が連坦する景観が特徴的です。

 

白河信用金庫本店の建物は、白壁や瓦屋根など城下町の風景に配慮して建てられ」ました。

 

あまり長くなりますのでこの続きは(その2)にて続きます。

 


奥州街道➆3日目「越堀宿~芦野宿~白坂宿」(栃木県那須町~福島県白河市)

2022-04-19 19:57:44 | 奥州街道(奥州道中)

【越堀宿~芦野宿~白坂宿】

夫婦石 説明文によると、 「今から数百年前、戦国の世に1組の男女あり 敵に追われ、この地に逃げ来り あたりは一面の芦の茂みにて身を隠す処無く ふと見ると、其の中に大きな石があり
男は女を抱えて此の巨岩の割れ目に身を隠した。その時、追手は此の石のそばに来た。すると白蛇が2匹現れ巨大な石がゆれ動くのを見て、恐れおののき逃げ帰った」とのこと
二人はこのお石様のおかげで命を救われ、この地に住みつき、二人仲良く田畑を耕して暮らしたと言う。時代の移り変わりとともにこの地に二人が住み誰言うとなく、見落石が、「めおと石」となり、そして何時の頃からか、この石をご神体・夫婦石として祀り縁結びの夫婦石神社となったとか。

 

夫婦石の一里塚 江戸日本橋より43里(約172km)

 

芦野宿に入りました。芦野宿の都市的な発生は天文年間(1532~1555年)又は天正18年(1590)に領主である芦野氏が居城である芦野城を築いた際にその城下町として計画されたのを

起源としています。芦野家は那須地方を領した那須家の一族で那須資忠の4男資方が当地に配され、地名に因み芦野氏を称し芦野氏を祖として長く那須家に仕え那須七騎に数えられていました。

戦国時代末期になると那須宗家が弱体化したを機に独立を図り、天正18年(1590)の小田原の役では当時の当主芦野盛泰は逸早く参陣し豊臣秀吉に謁見した事で領地を安堵されています。

一方、宗家那須家は参陣しなかった事で改易となり、那須地方は領土を安堵された那須一族が分割して統治する事になりました。さらに、芦野家は慶長5年(1600)の関が原の戦いの際には

東軍に与して行動した事により3千石に加増され交代寄合の旗本に格付けされました。交代寄合旗本は参勤交代が義務付けられる一方で、城郭を持つ事が許されなかった事から居城だった

芦野城を廃城とし、二ノ丸があった場所に新しく陣屋を構え明治維新まで当地を支配しました。

陣屋町に奥州街道を引き込む事で宿場町(芦野宿)としても整備し、天保14年の奥州道中大概帳によると、家数168軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠25軒、宿場人口350人

(男160人、女190人)と下野国(栃木県)にある奥州街道の宿場町として大きい方の部類でした。

芦野宿の主要道の中央には用水用の水路が設けられ、宿場の出入口は枡形状に鍵型になっていいました。現在でも、芦野宿には旧武家屋敷だった平久江家住宅(那須町指定文化財)や

陣屋の裏門(那須町指定文化財)、芦野家歴代の菩提寺である建中寺(芦野氏歴代の墓は那須町指定史跡)、日本三所聖天に数えられる三光寺、芦野家の崇敬社である健武山湯泉神社

(御神木である大杉は栃木県指定天然記念物)などの史跡が点在し宿場町らしい町並みも僅かに見られます。又、郊外には歌枕にもなり松尾芭蕉が「奥の細道」でも訪れた「遊行柳」があり

文人墨客も芦野宿を利用しています。

  

民家の玄関先には、昔の屋号が常夜灯のように付けられています。

 

丁子屋は、昔は旅籠でしたが、今は、ウナギ料理で有名なお店で、奥には、安達家蔵座敷が残されています。この蔵座敷は、身分の高い武士や旅人が宿泊する際、火災や外敵から守るという

安全を考えて造られています。

  

  

芦野宿の本陣跡は、「ストーンプラザ」という石の美術館になっていました。設計は、世界的に活躍されている隈研吾氏で那須山が噴火してできた芦野石が使われています。

 

先を進むと国道294号線に合流します。合流したところに産直店があったのでそこでおにぎりを買い昼食にします。

 

この産直店の近くに松尾芭蕉が訪れた「遊行柳」があります。

遊行柳は古くから歌枕の地として知られ、平安時代後期の歌人西行法師は「新古今集、山家集」の中で「道のべに 清水流るるや柳陰 しばしとてこそ立ちどまりつれ」との和歌を詠んでいます。

案内板によると「諸文献によると、朽木の柳、枯木の柳、清水流るる柳ともいう。伝説によると文明の頃(1471)時宗十九代尊話上人が当地方巡行時、柳の精が老翁となって現れ上人から

十念と念仏礼を授けられて成仏したという。いわゆる草木国土等の非情物の成仏談の伝説地である。後、謡曲にに作られ、又種々の紀行文に現れ芭蕉、蕪村等も訪れたことは余りにも有名である。

老樹巨木崇拝仏殿史的発掘、文学や能楽の展開等に関する貴重な伝説地である。那須町教育委員会 」とあります。室町時代後期には観世信光が西行法師の和歌を題材として上記の案内板のような

内容の謡曲「遊行柳」を創作しています。元禄2年(1689)、松尾芭蕉が「奥の細道」行脚の際、那須温泉にある「殺生石」の後に訪れたのが、この「遊行柳」で、

田一枚 植て立去る 柳かな」の句を残しています。松尾芭蕉は西行法師を敬愛しており、「奥の細道」も西行法師の旧跡を訪ねるといった側面もあります。

芦野宿の領主である芦野民部資俊は俳号を桃酔という俳人で、松尾芭蕉の門人、江戸蕉門の1人でもあり、芭蕉には自分の領地である芦野宿にある西行法師の縁の「遊行柳」をぜひ見せたいと

懇願していたとされます。根元に建立されている芭蕉句碑は寛政11年(1799)に江戸の俳人である井上春蟻が建立したもので句碑には芭蕉が詠んだ「田一枚 植て立去る 柳かな」の句と

「江戸 春蟻建立」が刻み込まれています。江戸時代中期には与謝蕪村も訪れており「柳散り 清水涸れ石 ところどころ」の句を残しています。「遊行柳」は謡曲の題材となり西行法師、

松尾芭蕉、与謝蕪村の縁の地として貴重な事から那須町指定史跡に指定されています。

遊行とは、全国を行脚する僧のことで時宗では最高位の僧のことを遊行上人といい、遊行柳は、時宗との関わりからの呼称です。箱根駅伝の難所の藤沢の遊行寺とも関係します。

 

諭農の碑 板屋(いたや)の国道294(旧奥州街道)の坂の途中西側に建っています。嘉永元年(1848)4月建立で、撰文は芦野の戸村忠熙恕(とむらただひろ)によるものです。

碑は芦野石で高さ170㎝・幅は80㎝ほどの板状で、正面に磨いた面に字を彫りこんでいます。

碑に刻まれている文字は、全文約700字からなっています。碑文の主な内容は農民に農耕上の指導を具体的に述べています。病虫害の駆除から予防、米の保存法、饑饉(ききん)に備えての貯米・

貯穀、饑饉の時の食物栽培、食物の製法、ひもじい人への看護と食事の与え方にまで及んでいます。

 

 

 

寄居に来ました。寄居は、芦野宿と白坂宿の間の宿です。

「松本家」は、問屋を勤め、寄居西組の名主を兼ねました。「大島家」は、茶屋本陣を勤め、寄居町組の名主を兼ねました。大島家は今はだれもいないようです。

 

  

福島県との県境に来ました。県境を挟んで栃木側は「境の明神(玉津島神社)」です(女神)。天喜元年(1053)4月紀州和歌浦の玉津島神社の分霊勧請した峠神で寄居の総鎮守でした。

 

  

福島側の境の明神は、「住吉神社」です(男神)。文禄4年(1595)白河を支配していた会津蒲生氏の創建。現存する小祠は、弘化元年(1844)の建立。境内には、芭蕉の句碑

「風流のはじめや奥の田植え唄」があります。

  

 

白河二所之関址 

白河の関は古くから二所ノ関と呼ばれ、八溝準平原の中を横断する奥州路はここで道を幾通りにも選べるのである。白河楽翁公により指定された今の旗宿道は其の一本である。然しこれより西側三キロの所を通っている白坂道は昔からよく利用され、古の関蹟にみられる関の男女の明神址があり、古関の体裁をもっともよく保ちながら、白坂の関址は全く無視されて来た。余、多年関境の研究に没頭し、江戸時代よりの関守の家である石井浩然(南部藩士で、故あって南部藩の参勤交代路にあたる白河の関守となった石井七兵衛の子孫)とその考証に当たり、遂にその関屋跡を確認する事が出来た。茲に白河二所ノ関址立証を機とし、白坂道白河関址に祈念碑を建立し、永く白河二所ノ関の意を伝承せんとするものである。

  昭和五十七年五月建立
  理学博士・東京学芸大学名誉教授・国士舘大学教授 岩田孝三
  白河関守 石井浩然

ここには、「お休所南部屋七兵衛」がありました。八戸藩主南部直房が参勤の度に「境の明神」に詣でた後、この茶屋で名物の「千台餅」を賞味したことから「南部屋」と称しました。

尚、大相撲の二所ノ関部屋は、この白河の二所ノ関に起因します。

 

 

白坂宿は、下野国(栃木県)と陸奥国(福島県他)の国境の陸奥側に設けられた最初の宿場町で、近くには金売吉次の墓(八幡神社境内)があります。金売吉次は金山の開発により莫大な利益を

得た大商人で、源義経を奥州平泉の藤原秀衡の元まで送りと届けたという伝説の人物です。全国には金売吉次の墓が点在しそれに纏わる多くの伝説が残されています。

国境には下野国と陸奥国の両側に「境の明神」が勧請され境界の守護神として旅人の道中安全が祈願され、周囲には「境界石」や番所が設けられていました。さらに下がった所には弘法大師や

松尾芭蕉が喉を潤したと伝わる「衣がえの清水」や「戊辰戦役大垣藩士戦死之所」などの史跡が点在して白坂宿に入ります。松尾芭蕉は奥の細道の際、奥州街道を北上し、ここから分岐して

古代の関所で歌枕の地である白河の関に向っています。白坂宿は天正18年(1590)小田原の役の後に行われた奥州仕置きの際、豊臣秀吉が伊達政宗に命じて開かされたのが集落としての

始まりとされ、奥州街道が正式に開削すると宿場町として整備されました。江戸時代後期に本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠27軒、家屋71軒、人口289人(男139人、女150人)と

白河城下に近かった事から大きくは発展しなかったようです。本陣は代々白坂周右衛門が問屋も兼ねてその役を担い、菩提寺である観音寺も宿場内に境内を構えています。

   

 

 

駆け足だったけど、大田原宿~白坂宿まで約35km車で走りました。歩きだったらこの区間交通の便が悪いので3日はかかっていたと思います。

明日は、白坂宿~白河宿を歩きます。

 

 


奥州街道⑥3日目「大田原宿~鍋掛宿~越堀宿」(栃木県大田原市~那須塩原市)

2022-04-18 18:57:13 | 奥州街道(奥州道中)

3/30(水)奥州街道(道中)3日目。

奥州街道は、「ちゃんと歩ける奥州街道」というガイドブックを参考にして歩いています。このガイドブックの発行が2018年です。

この本には、各宿場への交通手段も書いてあり非常に助かっています。歩く前に一応その交通機関を調べてみると、ある宿場へは、コミュニティバスしかなく、しかも前日午後4時まで

予約しなければいけない、また、ある宿場へには、バスが一応運行していますが、それは朝と夕方の1便だけ。

発行された2018年から4年しか経っていませんが、交通事情が大幅に変わっています。

明治18年に開通した東北本線は、奥州街道の宿場を通っていません。東北本線の駅からタクシーでその宿場に行こうかとも考えましたが、帰りのタクシーが拾えるかどうかわかりません。

考えた末、レンタカーを借りてこの区間「大田原~鍋掛~越堀~芦野~白坂」廻りました。

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【大田原宿~鍋掛宿~越堀宿】

宇都宮駅近くのレンタカーで車を借り、前日のゴール地大田原に向かいます。

大田原城址に車を止め近くを歩いてみます。

大田原城は、大俵資清(すけきよ)によって築城され、姓を大田原と改称しました。天文12年(1543)あるいは天文14年(1545)にそれまで本拠としていた町島(まちじま)の水口居館から移ったと

いわれます。以後、明治4年(1871)の廃藩置県にいたるまでの大田原氏の居城でした。

本丸・二の丸・三の丸に区画され、この外、北と西の曲輪(くるわ)・馬場・作事場等がある複郭式の平山城(ひらやまじろ)でした。

徳川家康は特にこの地を重視し、慶長5年(1600)関ヶ原の戦い前、上杉景勝(かげかつ)の挙兵の際にはその備えとして急ぎ城の修理を命じ、さらに3代将軍家光は、常時玄米千石を城中に

貯蔵させ奥州への備えとしました。文政8年(1825)には火災によって焼失しましたが、同9年新たに修造されました。

戊辰戦争では、大田原藩は新政府軍につき、大田原城は会津攻めの拠点となりました。そのため、慶応4年(1868)会津軍の攻撃をうけましたが、火薬庫の爆発により落城はまぬがれました。

明治5年(1872)、城は兵部省に引き渡され取り壊されました。明治19年(1886)長野県出身の渡辺国武(くにたけ)(大蔵大臣)の所有となりましたが、昭和12年(1937)、子の

渡辺千冬(ちふゆ)(司法大臣)により当時の大田原町に寄贈され、のちに龍城公園として整備されました。(大田原市HPより)

城址には、河津桜でしょうか?きれいです。(ソメイヨシノは、まだでした)

 

大田原城址から歩道橋を通り、大田原神社に向かいます。

大田原神社は、大同2年(807)創建。主祭神は大己貫神と小彦名神。当初は温泉神社と呼ばれ、大田原歴代藩主の保護を受けてきました。龍城公園の北側丘陵にあり、うっそうとした楠の大木や老杉に囲まれた本殿は見事です。(大田原市HPより)

  

  

ホテルみつやが旅籠上州屋跡ですが、みつやが見つからない!ホテルの名前が「ホテル那須大田原ヒルズ」に変わっていました。

  

河原の信号を左折すると中田原工業団地があります。ここには、富士電機、資生堂などの工場があります。

その先に行くと「平家之豪族瀬尾家居館跡碑」があります。碑文には、「古来九世紀前半 當地より西に 二〇〇間の地に 瀬尾家居館跡 瀬尾家宮跡 居館跡の回りに十社の神々の鎮座の跡が見られる  平成二十一年十月吉日  瀬尾家本家 四十一代當主 隆志書」。

天喜5年(1057)源義家は奥州征伐の際、秋葉山瀬尾神社に戦勝祈願し、那須資晴の子藤王丸を引見しました。

その横には、道標「東山道(旧奥州街道)北 陸奥の国・出羽の国 、南 奈良の国へ」

また、曾良が那須野で詠んだ「かさねとは やえなでしこの ななるべし」の句碑が立っています。

意訳:かさねとは、(たとえて言えば)八重撫子の名前だなぁ

 芭蕉が奥の細道の旅で那須野を行くとき、道に迷うと危険だからと馬を借りました。すると馬のあとから女の子がついてきて、名前を聞くと「かさね」と言います。

珍しいけど上品な名前だなと、同行の曾良がこの句を詠みました。

   

中田原一里塚 江戸日本橋よりより38里目。子の一里塚は当初道の両側にありましたが、南側の方は、宅地建設の際、取り壊されました。北側は半分切り取られた形で残っていましたが、

道路拡幅の際、平成12年(2000)に約1,5m後方に移築されました。

 

棚倉追分道標 正面に是より左奥州道、右側面に是より右たなくら道、左側面に南無阿弥陀仏。

寛永6年(1629)8月「紫衣(しえ)事件」によって江戸幕府の怒りを買った僧、沢庵宗彭と玉室宗珀が流罪としてここまで流され、この追分口に至りました。

沢庵は、奥州路、玉室は棚倉路を北に進むに際し、訣別の詩を作り、袂を分かったという歴史的な地点です。

  

那須塩原市に入ります。

樋沢の不動明王 祠の中に明暦2年(1656)造立の寄木作り不動明王像が安置されています。地元では、「お不動様」と呼ばれ親しまれています。

  

道路の擁壁の所に「鍋掛一里塚」があります。階段になっていて登っていきます。一里塚の案内板の横には、「鍋掛(愛宕)神社」があります。

 

 

鍋掛宿は、奥州街道の難所の一つとされた那珂川を控え、対岸の越堀宿と二つで一宿としての務めを果たしていました。
鍋掛の名の起こりは、那珂川が増水して川止めになったとき、旅人たちは川が減水するまで逗留しなければなりませんでした。その時、旅籠のみでは人手が足らないため、

宿場の人々が相助けて鍋・釜を幾個となく掛けて炊き出しをしたのが地名の由来といわれます。那珂川が川留になると大いに賑わいました。

天保14年(1843)奥州道中宿村大概帳によると、鍋掛宿宿内家数は、68軒、うち本陣1,脇本陣1,旅籠23軒で宿内人口は、346人(男160、女186人)でした。

本陣跡を探しますが、ガイドブックにも載っておらずわかりませんでした。

昭明橋の袂の所に鍋掛の渡し跡があるそうですので近くで工事をされている方に聞きますが、わからないとのことで多分、馬頭観音のある所だろうと思い写真に撮りました。

 

昭明橋を渡ると「越堀(こえぼり)宿」です。

越堀宿は江戸時代初期の寛永12年(1635年)、仙台藩の藩主伊達家が参勤交代で仙台の帰国途中に大雨となり那珂川が増水し渡れなかった為に仮の宿所を設営したのが始まりとされ、

正保3年(1646)に正式に奥州街道の宿場町となりました。江戸日本橋からは24番目にあたり、江戸時代後期には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠10~11軒、総戸数113軒、

人口569人(男283人、女186人)が軒を連ねていました。享和2年(1802)旧暦6月19日(西暦7月18日)には第三次伊能測量隊も越堀宿を利用しており本陣河内屋源蔵邸で

宿泊しています。越堀宿は黒羽藩領に属するものの、天領に属した鍋掛宿と距離も近く2つの宿で1つの宿場の役割を担い、藩領が入り組んでいた為、江戸時代後期には数箇所に藩の境界石が

建立され、その内の1つが浄泉寺の境内に移築保存されています。現在は緩やかな曲線道路ですが宿場の出入口は枡形だったようで越堀公民館前には「此の地 奥州街道越堀宿 枡形の地」と

彫り込まれた石碑が建立されています。明治時代の大火により多くの建物が焼失し、道路の拡幅工事などで当時の宿場町の雰囲気は失われています。

  

本陣は、藤田平次が勤め、現在の町田屋商店の所にありました。

 

黒羽藩主大関増業は、自藩と他藩の境界を明らかにするため、文化10~11年(1813~1814)何か所かに境界石を建てました。ちょうど増業が大阪城勤務の時で碑は大阪で造られ船で

運ばれました。ここ浄泉寺にある境界石は、「従此川中東黒羽領」と刻まれています。もともとこの境界石は、那珂川の左岸越堀宿(黒羽領)側に建てられていました。

川を挟んで向こう側は、鍋掛宿(幕府領)で両宿は奥州街道の宿駅でした。大正7~8年(1918~19)頃、保存の為現在地に移されました。

  

街道の上の方に墓標が立っています。これは、江戸時代末期の画家「高久靄厓(たかくあいがい)」の墓です。渡辺崋山と並ぶ南画の巨匠。

靄厓は1796年に、旧黒磯市(現那須塩原市)の画商の長男として生まれました。幼いときから絵を好み、成人してからは各地を遍歴して、その才能を深めました。

28才の時江戸に上って谷文晁の門下に入り、程なく文晁自慢の高弟となり、さらに池大雅の南画に傾倒し、その名声を高めました。

代表作・六曲一双屏風『歳寒三友図』等が栃木県県立美術館に所蔵されています。

 

走っていると、富士見峠があります。ここは、標高295,5m、往時は富士山がはるかに望めたそうです。

ここに馬頭観世音があります。説明文を見ると、「馬頭観世音は、荷役として世話になった馬の供養と旅人の交通の安全を祈り、道標として建てられた石仏である。

安永4年(1775)12月寺子村を施主村とし、寺子村25ヶ村のうち14ヶ村が協力して碑を建立したようである。

地元の古老の話では、かつて奥州街道富士見峠には、2~3軒の茶屋があり行き交う旅人の休息地でもあったという。」

寺子の信号の所に寺子一里塚公園があります 奥州街42番目の一里塚。江戸42里(165km)。最初の一里塚は、現在地から50m白河寄りにありましたが、学校建設や道路の拡張に

よってなくなり、この一里塚公園に復元されました。

 

 

余笹川を渡り那須モータースポーツランド(サーキット場)の手前に、弁慶の足踏み石があります。

馬頭観世音の横に草鞋のような形の大きな窪みがあります。地元の言い伝えでは、源義経が平家との戦いの後、兄の源頼朝と対立し、家来の武蔵坊弁慶らとともに奥州街道を通り、

奥州平家へ落ち延びる道中、石田坂で一休みし、さて、出発しようと、弁慶が道端の石を足台にして馬に乗ろうとしたところ、弁慶の重みで石の表面が履いていた草鞋の形に

窪んでしまったとされています。後にその石を三つに切り分け、その一つに馬頭観世音の文字を刻み、街道を往来する荷駄馬の守り神にするためここ石田坂に設置したそうです。

  

街道は、那須郡那須町に入りました。民家の所に「道標」が立っています。ちょっと文字が消えかけ読みにくいですが、「右新田ヲ経テ黒羽ニ至 左芦野町ヲ経テ白河ニ至」

  

                                                                             <つづく>

 


奥州街道⑤2日目「佐久山宿~大田原宿」約8km(栃木県大田原市)

2022-04-16 07:34:05 | 奥州街道(奥州道中)

【佐久山宿~大田原宿】

佐久山宿からの続きです。

箒川に架かる岩井橋を渡ります。桜観音には、馬頭観音が6基並んで立っています。

 

那須与一の墓は、ここから1kmぐらいの「玄性寺」にあります。

イトヨ」(糸魚)は、トゲウオ科イトヨ属の魚で、背中に3本、腹部に1対のトゲがあります。イトヨには、川で生まれ海に下る降海型と、一生を淡水域で過ごす陸封型とがあります。大田原市では陸封型のみが見られ、湧水を中心に夏でも水温が20度以上にならない所に生息しています。成魚の体長は4から5センチメートル程度で、オスは春の産卵期になると水草などで巣を作り、ジグザグダンスと呼ばれる特異な求愛行動をすることが知られています(オランダ人動物行動学者のティンバーゲンはこの一連の行動を研究し、1973年にノーベル賞を受賞しました)。

 田谷川は湧水から続く小川です。当初は田谷川、加茂内川、念仏川、深川の4河川が生息指定地となっていましたが、昭和60年(1985)に田谷川以外では生息が確認できなくなったとして指定地が解除されました。また田谷川も一時生息数が少なくなりましたが、生活雑排水の流入を防ぐなどして環境が回復し、生息数は回復しています。(大田原市HPより)

この辺りは、裕福な農家が多いのでしょうか、立派な長屋門が立っています。

  

街道は、親園地区に入りました。

蒲蘆碑(ほろのひ)

文化9年(1812)10月、那須野に一隊の兵士が刀をかつぎ槍をうち立て行進する蜃気楼(しんきろう)が現れました。たまたまここを通った甲州の高津義克という行脚(あんぎゃ)僧が目撃し、

その光景を書き残して去りました。それが蒲盧碑原文で、のちに石に刻んで建立したのがこの碑です。

土地の者は蜃気楼のことを「ほろ」と呼んでいました。当時親園(ちかその)地区は天領で八木沢(やぎさわ)村と呼ばれ、代官山口鉄五郎の支配下にあり、代官の出張陣屋が設けられていました。

山口鉄五郎は水路を開削し新田を開発するなど、農村の振興に努め領民から深く親しまれていました。

人見伝蔵(でんぞう)は著書「那須野蜃気楼 蒲盧碑考」の中で、中国の書「中庸」の中に「政治は蒲や盧のようなもの」という一文があり、碑文はこの山口鉄五郎の善政を蜃気楼の蒲盧に

結び付けたものとしています。

      

町初碑 

碑は楕円の長い自然石で、その表面に「此町初 寛永四ひのへ卯年」、裏面には「國井与左衛門」と刻されています。

この碑の立っている場所は、大田原宿まで4キロメートル弱の奥州道中沿いで、当時は八木沢村といいました。奥州道中は慶長年間(1596から1615)から整備が行われ、それに伴い

寛永年間(1624から44)に街道筋に八木沢村も開かれたもの「間の宿」と思われ、それを記念しての建碑と思われます。

 國井与左衛門は、八木沢村の名主役をつとめ、同家当主は代々与左衛門を名乗りました。寛永4年(1627)の干支は正しくは丁卯(ひのとう)ですので、本碑は後年の建立とも考えられますが、

いずれにしても町初の年を石に刻して、起源を明らかにしている点で歴史的価値があります。

八木沢村は那須氏の領地でしたが、那須資弥(すけみつ)が延宝9年(1681)2月に加増されて、福原から烏山に転封(てんぽう)となり、それに伴う烏山の近郷地との替地により

天領となりました。享和3年(1803)から文政5年(1822)まで、付近の天領61ケ村を支配する吹上陣屋の出張陣屋があった所です。

     

百村川(もむらかわ)を渡ります。橋の名前が「筋違い」とは、面白いですね。何でも百村川の流れに対し斜めに架橋されているそうです。

 

大田原市街地に入りました。大田原領は古くから那須氏の家臣大田原氏が支配してきた地域です。大田原氏は那須七党(那須七騎)と呼ばれ那須氏の有力家臣でしたが豊臣秀吉による小田原の陣で

秀吉に謁見することで独立を図り、7千石が安堵されます。関ヶ原の戦いで東軍に与し、対上杉景勝の拠点の1つとなった事で5千石が加増され1万2千石(3代藩主高清の代で弟の為清に

1千石を分知した為、以降は1万1千石となった。)の大名となり大田原藩を立藩します。大田原氏は小大名ながら城持ち大名として格式が高く、中世から明治維新まで同じ領内を支配すると

いう極めて異例な存在でした。戊辰戦争では新政府軍に組した為、奥羽越列藩同盟側から攻められ大田原城の一部や城下町が被害を受けています。明治4年(1871)に廃藩、大田原県となり、

宇都宮県を経て栃木県に編入されています。

 

 

忍精寺」は、文政11年(1828)十一代藩主大田原愛清が開基しました。

薬師堂」 雨薬山薬師堂は、大田原城四方固めの一つ西薬師と呼ばれ、薬師如来像が祀られる小堂宇を、寛永年中(1624から1644)に大田原氏が再建したと伝えます。

宝暦7年(1757)大田原宿の大火により焼失、寛政5年(1793)に大田原庸清(つねきよ)により再建されたものが現在の建物で、修復を重ね現在に至っています。

斗拱(ときょう)は三斗組(みつとぐみ)、三手先(みてさき)の詰組(つめぐみ)となっており、二段の尾垂木(おだるき)を用いた化粧垂木は扇垂木(おうぎだるき)の二重垂木となって、

深い「軒の出」を構成しています。向拝(こうはい)柱は角柱で四面に細かな彫刻があります。外壁は貫(ぬき)を用いず、欅(けやき)幅広板を柱間に落とし込み横張とし、

長押(なげし)付きです。和様、唐様の様式が混然一体に融合した江戸時代の自由な手法が現れており、江戸中期の寺院建築として特筆されます。(太田市HPより)

  

 

大田原の盆踊り唄(大田原市指定無形民俗文化財) - Bing video

 

大田原市は唐辛子の生産が日本一だそうです。(我が福岡県も生産高は多いのですが・・・(福岡県全国第3位))

 

大田原宿は、大田原藩12、000石の城下町として発展し、日光街道、黒羽道、塩原道の要衝を控え賑わいました。

天保14年(1843)の奥州道中宿村大概帳によると、総家数245軒、うち本陣2(上町と中町),脇本陣1,旅籠42軒、宿内人口は1428人(男672人、女756人)でした。

本陣は、印南家が勤め、問屋も兼ねていました。敷地980坪、建坪381坪で奥州街道最大でした。

もう一つの本陣と脇本陣は探したけど見つかりませんでした。(ガイドブックにも記載がなかった)

 

大田原信用金庫の前には、「幸矢の与一像」があります。裏には、この像は郷土が生んだ英雄若き日の弓の名手那須与一公である。「源平屋島の合戦の折、乾坤一擲、一発必中見事扇の的を射抜いたのは時に文治元年(1185)のことであった。若き与一公は那須の山野にあって烈しく厳しい修練の時を過ごされた。その昔弓矢を幸いと称したように、今、手練の弦を離れた与一公の幸矢の

彼方には、人々の幸せと郷土発展の願いがあることに思いをいたし、私たちは千歳に敬仰の念を込めて、この像を建立した。仲町商店会」

  

金燈籠(かなとうろう)にやってきました。ここが大田原市中心部です。

文政2年(1819年)、大田原宿の有志38人により防火や町内安全、旅人の夜道の無事を祈願し上町十字路に建てられたものです。

初代金燈籠は、太平洋戦争末期の「金属回収運動」により応召。二代目は、三斗小屋宿から譲り受けましたが、昭和53年に黒磯市に返却されました。

三代目は、昭和54年、地元商店街有志により初代そっくりに再現。初代の心意気と意志を継ぎ、市街地の中心にあって通行者を見守っています。

余談ですが、大田原市には、昔、東野鉄道という鉄道が通っていました。栃木県那須郡西那須野町(現・那須塩原市)の西那須野駅から同郡黒羽町(現・大田原市)の黒羽駅を経て同郡小川町(現・那珂川町)の那須小川駅までを結んでいた鉄道路線およびその運営会社です。黒羽 - 那須小川間は1939年(昭和14年)に、西那須野 - 黒羽間が1968年(昭和43年)廃止されました。

 

   

時間も16:30になりました。今日はここまでとします。

金燈籠バス停よりJR西那須野駅行きのバスがありましたのでこれに乗って西那須野駅に向かいます。

 

3/29(火)のGPSです。

 

 

 


奥州街道④2日目「喜連川宿~佐久山宿」約12km(栃木県さくら市~大田原市)

2022-04-14 20:00:00 | 奥州街道(奥州道中)

喜連川宿からの続きです。

台町から桝形の道を通り、内川に架かる「金竜橋」を渡ります。

  

この辺りは、何の遺構もなく先を進みます。金鶏神社の祭神は、猿田彦命で現在は、喜連川神社に合祀されています。

男女双体祝言道祖神 長野県で、夫婦双体道祖神をよく見かけましたが、栃木県で見るのは初めてです。やはり子孫繁栄を意味しているのでしょうか?

 

 

もう田んぼには、田植えが終わっていました。

 

曾根田の信号を右折します。

 

明治9年(1876)明治天皇巡幸の際、ここでご休憩されました。横には、男女相体祝言道祖神があります。

 

江川に架かる「宮下橋」を渡ります。

 

大田原市佐久山に入りました。武藤酒店は、江戸時代後期の創業で裏庭には、市境にあった馬頭観音があります。

 

 

琵琶池ゴルフ場の先にコンビニがありましたのでここで休憩します。

 

佐久山の始まりは、文治3年(1187)、下野の戦国大名那須氏の一族で、源平合戦に活躍した那須与一宗隆(資隆)の次子泰隆が、佐久山氏を称して集落の南の丘陵地に館(佐久山城)を築いたのが

始まりとされます。佐久山は、地勢が狭く、細長い傾斜地であるところから「狭山」「作山」と表記されていましたが、のちに「佐久山」に変わりました。
 その後、佐久山城は代々佐久山氏の居城となりましたが、永禄6年(1563)、同族の福原資孝に攻められたとき城を棄てて逃れたため、佐久山城はいったん廃城となりました。

しかし、130年余りのちの元禄15年(1702)、福原資倍が修復を加え、以後福原氏の佐久山陣屋として明治維新まで存続しました。この城跡は、佐久山小学校裏手付近の台地が本丸跡といい、桜の名所「御殿山公園」となっています。元禄年間(1688~1704)には「花の佐久山御殿よ。春日桜で市をなす」と道中唄に歌われるほど遊女で栄えたといいますが、

明治18年東北本線の開通に伴い、宿場としての使命は失われました。今は山間の静かな町で往時の面影は少ないです。
 なお、天保14年(1843)の宿の規模は、人口473人(男230人・女243人)、戸数121軒、うち本陣・脇本陣各1軒、旅籠27軒と、比較的小さな宿場でした。

 

歩いていると「運用膏」と門に書かれた家があります。ここは、八木沢家で傷薬の家伝薬「運用膏」の老舗です。幕末の戊辰戦争の際、評判を一気に高めました。

 

豊道春海翁生誕之地碑 豊道春海(ぶんどうしゅんかい)は、大正、昭和の書家。栃木県那須(なす)郡佐久山町(現大田原市)に川上茂平の三男として生まれる。名は慶中。

幼名は寅吉(とらきち)。6歳で仏門に入り、13歳で出家得度、ついで東京・牛込行元寺(ぎょうがんじ)の妙澄尼に請われて豊道家を継ぐ。14歳で西川春洞(しゅんどう)に師事、書を学ぶ。

1914年(大正3)瑞雲(ずいうん)書道会を創立。47年(昭和22)に日本芸術院会員となり、翌年、書道が日展第5科に新設されるとともに、理事に就任、また第二次世界大戦後の書道教育の

復興にも努めた。書は漢字をよくし、気骨ある雄大な書風を樹立。東京国立博物館ならびに栃木県立博物館に遺墨が収蔵されている。天台宗大僧正(だいそうじょう)。67年文化功労者。

 

弓の達人として有名な「那須与一」は、佐久山の生まれです。佐久山の公衆便所の壁には、那須与一が屋島の戦いで見事に扇の的を射抜いた姿が描かれています。

那須与一は下野の国那須野が原(現在の栃木県北部那須地方一帯)に勢力を持った那須資隆(太郎・須藤宗資の子、後に那須氏を名乗る)の十一男として誕生。10人目以降に生まれた子供は、

十に余るという事から「与一」と名付けられました。本名は、宗高。

幼少の折から弓が達者で修行を積みすぎたため、左右の腕の長さが違ったとも云われています。父を初めとして、9番目までの兄たちは皆「平家」に味方をしていましたが、奥州平泉にいた

源義経が、兄の頼朝に加勢するため、治承4年(1180年)戦勝祈願に「那須温泉神社」を参拝に訪れた際、那須岳で弓の稽古をしていた、兄十郎為隆と与一に源氏方に従軍させる約束を交わしたと

云われています。これが与一と義経の出会いで、その後の那須家一族の運命を左右する事になります。

義経と行動を共にした与一は、屋島の合戦の功労により、源頼朝より11番目の子でありながら、那須家総領の身分と5か所の領地を与えられました。平家に味方していた9人の兄と十朗には

那須の各地を分地して与え、それ以降は、那須十氏として本家に仕え、それぞれの地位を築いていきました。

 余談ですが、宮崎民謡「ひえつき節」で出てくる那須大八郎(宗久)は、源頼朝の命を受け、病身の兄・宗高(与一)の代理として、宗高の次男とされる宗昌ら手勢を率いて、日向国椎葉へ

平家残党の追討に向かい、元久2年(1205)向山の平氏残党を討つ。次いで椎葉に進撃するが、平氏残党が農耕に勤しみ、戦意を喪失している様を目の当たりにし、追討を取り止め、幕府には討伐を果たした旨を報告した。宗久はそのまま椎葉に滞在し、屋敷を構え、農耕技術を伝え、平家の守り神である厳島神社を勧請するなどして落人達を慰めた。また、平清盛の末孫とされる鶴富姫を

寵愛し、鶴富は妊娠したが、その直後の貞応元年(1222)に宗久は鎌倉より帰還命令を受けたという。宗久は「やがて安産なし男子出生に於ては我が本国下野の国へ連れ越すべし、女子なる時は

其身に遣す」と言って太刀と系図を与え帰国したと伝わる。その後、鶴富は女子を生み、長じて婿を取り、婿が那須下野守を名乗って椎葉を支配したといわれる。戦国時代に椎葉を治めた

国人・那須氏は、宗久と鶴富の子孫とされる。

 

和菓子の「小島屋」は、安政2年(1855)創業。「勘兵衛饅頭」が有名。幕末、大雨で箒川が氾濫し、足止めされた京都からの旅の男性を泊めると、お礼として菓子作りを教わりました。

この縁を機に大島勘平(おおしまかんべえ)が1855(安政2)年に創業し、売り出したのが大田原市佐久山名物の「勘兵衛饅頭(かんべえまんじゅう)」です。

書家の豊道春海もこの饅頭のファンだったそうです。

郵便局横の空き地が佐久山宿本陣跡です。井上家と村上家が勤めました。

跡地には、「村上英俊翁生誕之地」の碑があります。

フランス学者。下野国(栃木県)佐久山の本陣、村上松園の長子として生まれる。江戸で医学、蘭学(らんがく)を修め、信州松代(まつしろ)に移り、佐久間象山(しょうざん)の火薬製造が機縁で

フランス語を独修し、仏学事始の偉業を行う。江戸出府後、『三語便覧』三巻(1854)、『洋学捷径仏英訓弁』(1855)、『五方通語』(1857)、『仏語明要』(1864)、『明要附録』(1870)、『仏英独 三国会話』(1872)など辞書の編纂(へんさん)、ジャック・ルイ・ダニエルの『西洋史記』などの翻訳をし、レジオン・ドヌール勲章を授けられ、東京学士会院会員に選ばれた。

青山墓地に葬られる。(コトバンクより)

 

 

桝形の道を進むと「正浄寺」があります。ここの「糸桜」(枝垂れ桜)が綺麗です。

正浄寺は、鎌倉時代、健保2年(1214年)宗祖親鸞聖人が、東北御巡錫の折、佐久山宿箒川の川端の孫八宅に一宿しました。その際に聖人が孫八に阿弥陀如来の尊像を授与されました。

(川越の阿弥陀如来)その尊像を安置するために孫八が御堂を建立したのが正浄寺の起源であります。

 

箒川の岩井橋を渡ります。大田原宿はあと少しです。

  

                                                                                  続く

 

 

 

 


奥州街道➂2日目「氏家宿~喜連川宿」(栃木県さくら市)

2022-04-13 05:07:20 | 奥州街道(奥州道中)

3/29(火)奥州街道(道中)2日目

宇都宮駅8:02の電車で昨日ゴールした氏家駅へ。今日は、「氏家宿~大田原宿」まで約30kmを予定しています。

【氏家宿~喜連川宿】

8:25氏家駅に到着。氏家駅前のポストには、さくら市の桜がデザインされています。

 

西導寺は、建久2年(1191)氏家(宇都宮)公頼の開基。公頼は、氏家氏の始祖。西導寺は氏家氏の菩提寺です。

  

西導寺の横には、「蔦(つた)地蔵

鎌倉期に宇都宮氏を中心に形成された宇都宮歌壇は京都・鎌倉に次ぐ一大地方歌壇で、歌聖藤原定家と親交を結び、宇都宮頼綱の女は定家の長子為家に嫁いでいます。

頼綱は法然上人に帰依し蓮生法師と称しました。宇都宮氏の支族氏家公頼も浄土信仰をもち、定家の七周忌に定家の面影を写した石仏を造立したと伝えられ、以来定家地蔵といわれるように

なったといいます。また、蔦のからまる場所を好んだという伝説と藤原定家と式子内親王の悲恋、定家葛伝説も混ざって蔦地蔵と言われるようにもなったといいます。

高さ1,36m、右手には錫杖、左手は摩尼宝珠を持っています。

  

寛方・タゴール平和公園 荒井寛方(1878~1945)はここに生まれ、日本画家を目指して巣立ちました。仏画を志した寛方は原三渓やアジアで初めてノーベル文学賞を受賞したインドの

詩聖ダゴールの知遇を受け、日本画の教授として渡印しました。その間、アジャンタ壁画模写の難事業を成し遂げ、多くの人々と交わり、日印文化交流の懸け橋となりました。

タゴールとはその後も親交がつづき、現在インドにおいて寛方とダゴールへの畏敬の念はますます深まっています。「仏画の寛方」と称された寛方は、晩年には法隆寺金堂壁画の模写にも

従事しました。無念にも完成直前に急死してしまいましたが、その業績は今なお燦然と輝いています。寛方の遺した膨大な資料、遺品とこの地は、故人となった子息の英朗氏と孫の聖也氏が

引継ぎ、寛方顕彰を果さんとしました。英朗氏夫人なみ子氏と子息の孝志氏はその遺志を守り、これらを氏家町に寄贈されました。氏家町は、このご意向を尊重し、寛方とタゴールの偉業を偲び、

二人の友情を永遠に記念するため、この地を公園としました。(さくら市観光ナビより引用)

 

街道に戻ります。上町の信号を右折。その昔、鬼怒川は氏家の中を流れていたそうです。五行川にかかる五行橋も鬼怒川水系だそうです。

 

桜野中の信号を過ぎると左手に大きな屋敷が立ち並んでいます。

村上家は、桜野村の庄屋を勤めました。門には、五十里(いかり)湖決壊による洪水の水位が残されています。

説明文が書かれていますが、文字がかすれて読むことができません。

ネットで五十里洪水を調べました。

天和3年(西暦1683年)9月1日、マグニチュード6.8の大地震が日光・藤原・南会津地方を襲った。昭和24年の今市大地震がマグニチュード6.4と記録にあるがそれと同規模以上のものと推測できる。

   これにより、日光御神領、西川村(現日光市栗山)の葛老山が崩壊し、流出した土砂が男鹿川をせき止めた。崩壊した土砂の量は、現在の地形から判断して約60万立方メートルと推測される。

さらに折からの降雨により男鹿川の水位はみるみる上昇し、五十里、西川地区に住む31軒の村人たちは、上の大地への避難を余儀なくされた。

  当時、会津西街道(国道121号)の交通も遮断され、通行人は山越えとなったが、駄馬の荷は山越えがかなわず、にわか仕立て筏で運搬した。

  土砂崩落後、90日間で村は湖底に沈み、湖は150日間で満水に湛えた。水深は、一番深いところで47メートルに達したといわれている。

西川、五十里村に住む人々は、天災の影響を受けて窮乏生活を余儀なくされた。また、下流地域に住む人々にとっても、万一崩壊した土砂が決壊した時のことを思うと、なみなみ湛えた湖水を

抜くことが切なる願望であったことは容易に想像できる。

  五十里湖の出現から24年を経て、会津藩が水抜き工事の着手に乗り出した。請負額は4,375両、当時としては破格の金額である。

 地元村人達の協力も得、工事が進められたが巨大な一枚岩盤に突き当たった。当時の工法では、岩盤の上でいもがらを燃やし、その後水をかけ岩盤を脆くして掘り進むような方法だったため、

思うようにはかどらず、ついに工事中止となった。

 この工事中止の責任を負い、会津藩士早川上粂之助と高木六左衛門という武士が割腹自殺を遂げた。葛老山崩落地点近くにある小高い丘、布坂山の頂上にこの藩士の墓と伝えられる小さな

祀られている。この伝説から布坂山は腹切山とも呼ばれている。

享保8年(西暦1723年)8月10日、五十里湖出現からちょうど40年度、その一帯が暴風雨に襲われ、五十里湖の水位が著しく上昇した。そして、ついに上昇する水圧に耐えかね、ダム状に堆積していた土砂が押し流された。世にいう五十里洪水である。洪水は下流地方を席巻し、下野国(栃木県)では未曾有の大災害となった。直下流の川治村、藤原村は全村壊滅的打撃を受け、

下流70ヶ村におよび12,000人(推定)もの人命や牛馬を飲みこんだといわれている。

 

 

村上家の隣には、瀧澤家住宅があります。

瀧澤家住宅は、さくら市の櫻野地区の旧奥州街道沿いにあります。通りに面して伝統的な塀を巡らし、堂々たる長屋門を開くなど、今なお旧家の面影を留め、明治期の重厚な雰囲気を良く

残しています。鐵竹堂は明治33(1900)年に、長屋門も同時期に建築されたとされ、蔵座敷は明治20(1887)年に建築された建物に明治天皇の行幸を機に望楼が増築されたといわれており、平成10年(1998年)に、建築遺産として歴史的な価値が認められ県指定文化財になりました。上質な材料と意匠が目立ち、近代和風建築の水準を知ることができる貴重な遺構です。(さくら市観光ナビより)

 

瀧澤家住宅を建築したのが、明治期の栃木県を代表する実業家であった瀧澤喜平治(弘化3(1846)年~大正5(1916)年)です。喜平治は、明治期の日本主力輸出品であった絹製品に着目し、

養蚕業に着手しました。養蚕業のほか、多くの会社・銀行の設立、経営にたずさわり実業家として大きな業績を残しました。喜平治は実業家として活躍する一方、

氏家地区に大きな貢献をしています。上野原の開墾を行い、養蚕技術を教える養蚕伝習所の開設と雇用を行いました。また、氏家小学校の広大な敷地や改築費の提供や、櫻野地区に医師を招いて

病院を開設しています。(さくら市観光ナビより)

 

 

 

村上家、瀧澤家のほかにもこの一帯には、大きな旧家があります。

 

狭間田一里塚 氏家地内には、堂原一里塚と狭間田一里塚がありましたが、堂原一里塚は明治以降消滅しました。

  

日本三大美肌の湯は、嬉野温泉(佐賀県)、斐乃上温泉(岐阜県)とこの喜連川温泉です。

台町の信号の所に大黒天が祀られていますが、工事中の為立ち入りできませんでした。

 

 

台町の信号から早乙女坂という上り坂になります。坂の途中、「早乙女坂古戦場」跡があります。

天文十八年(1549)、那須氏、喜連川塩谷500余騎と宇都宮尚綱率いる宇都宮軍2000余騎とが戦った古戦場で、激戦の末宇都宮軍は喜連川軍の鮎瀬弥五郎実光に背後から大将の尚綱が射たれ

退散したといわれています。

 早乙女坂は、下野国の北部(塩谷・那須)と中央部の接点にあり、戦国時代に、下野一円の領国経営を望む宇都宮氏にとって、早乙女坂を抜き喜連川を治めることは、北部支配への橋頭ほ(保)を確保する上で

最も重要な課題でした。このため、早乙女坂をめぐる攻防は幾度かくりかえされましたが、その中でも、天文十八年(1549)の戦は、宇都宮軍の大将尚綱が喜連川方の助っ人、鮎ヶ瀬弥五郎(左衛門尉)に

射殺されるという大激戦でした。弥五郎の働きによって、喜連川城下のピンチが救われたため、喜連川領民は万こう(腔)の感謝を込めて早乙女坂を、弥五郎坂と呼ぶようになりました。

 今、この地には、宇都宮尚綱のものと言われる供養塔が建ち、古戦場の跡を示しています。

  

早乙女温泉があります。歩いていると硫黄の匂いがしてきます。残念ながら2月20日から機械の故障で休業中でした。

 

奥州街道古道 急な坂で長らく難所とされていた場所。1880年(明治13年)に迂回路ができ、使われなくなったが、旧道はそのまま残されています。

 

高塩背山の墓入口  代々喜連川神社の神職を務める家に生まれ。歌人を志し若山牧水と親交がありました。

 

 

勝善神の所から右折します。荒川沿いには桜並木があります。開花したらきれいでしょうね。

 

荒川に架かる連城橋を渡ると「喜連川(きつれがわ)宿」です。

喜連川という地名は、源平合戦で武功のあった塩谷氏、その後の足利氏と約800年にわたり中世から江戸時代まで続いた城下町宿場。町には荒川・内川・江川・岩川という四つの河川が南北を

貫流しているが「喜連川」という川はありません。この喜連川の地名の由来には諸説あり、その昔荒川が「狐川」と呼ばれていたのが変化したという説が有力だそうです。

昔 荒川の上流にキツネが住んでいたので荒川はキツネ川と呼ばれていましたが、キツネ川ではあまり格好良くないので、荒川・内川・江川が喜んで連なって流れているということで、

喜連川(キツレガワ)としたのではないかと言われています。

 

 

喜連川藩は、天正18年(1590)足利家の断絶を惜しんだ豊臣秀吉が古河公方(足利尊氏の次男基氏を祖とする鎌倉公方系統)5代足利義氏の娘と足利義明(古河公方4代足利高基の実弟)の

孫国朝を婚姻させる事で足利家を再興、喜連川領3千5百石の領主にしました。国朝はこれを機に喜連川氏を称し周辺を支配、関が原の合戦では東西どちら側にも兵を出さず中立を保ちましたが、

戦後すぐさま徳川家に使者を送り戦勝祝いを行った事で領地が安堵されます。徳川家は江戸幕府を開く際、朝廷から"源氏長者"(幕府を開く為、作為的に家系図や出生地などを改ざん説がある。)を賜った事で源氏の一族である喜連川家は保護対象となり、1千石の加増の上10万石の格式が与えられ、1万石以下にも関わらず例外的に喜連川藩を立藩しました。

慶安元年(1648)派閥争いから藩主喜連川尊信が幽閉される"喜連川騒動"が起こりましたが改易にはならず12代に渡り喜連川氏が藩主を勤め明治維新を迎えています。

又、明治元年(1868)に藩主聡氏は足利姓に復してその後子爵に列せられています。

 

龍光寺は、足利尊氏の開基で喜連川氏の菩提寺。墓所には歴代藩主の墓があります。

  

町の中に入ります。

 

喜連川宿は、喜連川藩の陣屋町として発展しました。藩主の喜連川氏は、足利尊氏の流れを汲む「古河公方」の為、幕府はその格式を認め参勤を免除しました。

天保14年(1843)の奥州道中宿村大概帳によると、喜連川宿の宿内家数は、290軒、うち、本陣1,脇本陣1,旅籠29軒で宿内人口は、1198人(男611人、女587人)でした。

喜連川宿本陣は、上野太郎平が勤め、問屋を兼ねました。現建物は、大正15年(1926)築の旧喜連川警察署です。

脇本陣は、現芳川屋で、永井家が勤めました。

 

 

 

福岡ではそんなになかったのですが、ここにきて私の花粉症が再発しました。ポケットティッシュがすぐなくなります。薬を持っていましたので休憩して飲みました。    (続く)

 


奥州街道➁1日目「白澤宿~氏家宿」約8km(栃木県宇都宮市~さくら市)

2022-04-11 17:07:53 | 奥州街道(奥州道中)

白澤の一里塚を過ぎ、鬼怒川に向かって歩きます。

 

鬼怒川河原には、「鬼怒川の渡し跡」があります。遺跡か何かあるのかな?と思いましたが、この案内板だけでした。あとで調べてみると、

栃木県史の白沢宿鬼怒川については、「鬼怒川は、平常は広い河原で、川幅30間(約54m)であるが、出水時は8町(約872m)にも及ぶ大河で、渡船があった。雪どけの増水期からの

夏期3月から10月まで渡船、11月から2月の冬の渇水期は板橋を架けた」と記されている。

 

鬼怒川というと、温泉のイメージがありますが、鬼怒川温泉は、日光の方です。ここからはちょっと遠いです。

鬼怒川に架かる「阿久津大橋」を渡ります。この橋には、歩道橋もなく橋の隅の方を歩きますが、車が勢いよく飛ばしていきますのでその風圧で飛ばされそうになります。

車のドライバーさんもこの橋を歩いて渡る人なんかいないとおもっているのでしょうか?

 

阿久津大橋の中間点が宇都宮市とさくら市の境界です。さくら市は、平成17年(2005)塩谷郡氏家町と喜連川町が合併して誕生しました。人口約44、000人。

シルビアシジミは、蝶のことです。てっきりシジミ貝かと思ってました。

 

鬼怒川を渡り「與作(よさく)稲荷神社」に向かいます。

三本松(現河内町・白澤)に流れ着いた稲荷社がここに移されました。村人、旅人、鬼怒川の船頭等が詣でると様々な霊験が現れ、奇瑞(きずい)がおこったといわれ、爆発的な稲荷信仰が

起きました。門前には稲荷町が出来て、参拝者の飲食遊興の場となりました。然し、河岸の衰退とともに霊感談も消え、境内も賑わいも遠い昔の物語になってしまいました。

  

船玉(魂)神社 徳川家康が江戸城に入部すると、領地である関八州諸国からの建築用材や食糧の輸送はもっぱら川船によった。幕府が開かれ、やがて参勤の制が布かれると、東奥の糧穀や

物産などは、阿久津まで陸送され、ここから川船で江戸に送られるようになり、さらに商用の荷駄も旅人もこれを利用するようになった。川船の発着所を「河岸」という
阿久津河岸は奥州街道の鬼怒川渡河点にあたり、最上流に位置するという地の利を得て、慶長以来、明治の中期まで水陸交通の要地として300年間の繁栄を続けた。
鬼怒川上流独特の川船を「小鵜飼船」といい、また、船頭たちが水上安全の守護神として河岸場にまつったのが、船のみたま・船玉(魂)大明神である。境内は船の形を模して作られたといわれ、

舳の位置に神殿がたてられており、一般の神社とは趣を異にしている。

 

浮島地蔵 鬼怒川沿岸の人達が恐れたのは、洪水や水死などの水難です。それを救済してもらおうと水神や地蔵などの民間信仰が生まれ、特にこの浮島地蔵が信仰されました。

どんな洪水にも流れず浮いてその地に留まり救済する霊力のあるのが浮島地蔵です。元文4年(1739)の造立。

  

将軍地蔵 源義家が奥州征伐に向かう途中、鬼怒川釜ヶ渕の悪蛇に進路を阻まれました。そこで宗円法師が念じると「将軍地蔵」が現れ、悪蛇を退散させてしまいましたので勝山城を守護する

寺院として将軍山地蔵院満願寺を建てました。

室町の頃、ここから日光山に修業にいったお坊さんが意地悪山伏に無理やり素麵を食べさせられて気絶しました。別のお坊さんが来て日光中の素麺を食べつくしたので山伏は降参しました。

お坊さんは、将軍地蔵の姿となり、お坊さんを連れて勝山に帰りました。これから「そうめん地蔵」伝説が生まれ日光責め・強飯式が起こったといわれています。

 

勝山城址から左折します。スーパーの横を通り国道4号線を横切ります。この国道歩道がありません。先の信号で車が止まっているのを見て走って渡りました。

 

お伊勢の森 伊勢神宮を勧請したもの。氏家の宿役人は、氏家以北37大名の参勤や公用役人等の送迎をここで行いました。

 

大谷街道と合流する地点に「道標」があります。道標には、「右 江戸海道」「左 水戸かさま 下だて 下づま」と刻まれています。

  

氏家宿に入ってきました。

勝山城が廃城になると禄を失った旧臣「平石佐渡守等三十六人衆」が宿形成に尽力しました。阿久津河岸の集積地で宿内には諸藩の蔵が並び、会津中街道、会津西街道、原方街道の要衝を

控え、大いに賑わいました。天保14年(1843)の奥州道中宿村大概帳によると、氏家宿の宿内家数は、235軒、うち本陣1(平石本陣)、脇本陣1(石井脇本陣、村上脇本陣)、旅籠35軒

宿場人口は、879人(男449人、女430人)でした。

 

 

時間も17時を過ぎました。氏家駅東口の信号から氏家駅に向かいます。

 

ちょうど17:24の宇都宮駅行きがありました。

 

3/28のGPSです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


奥州街道①1日目「宇都宮宿~白澤宿」約12km(栃木県宇都宮市)

2022-04-10 19:17:39 | 奥州街道(奥州道中)

4/2~3までふくしま吾妻荒川・花見山ツーデーマーチに参加しますが、その前に奥州街道「宇都宮宿~白河宿」まで歩きました。

奥州街道は、陸奥(みちのく)を貫き、津軽、蝦夷地函館に至るまでの日本一長大な街道でした。

古代、陸奥(むつ)は、「道の奥の国」と呼ばれ、今の青森、岩手、宮城、福島を包括する広大さでした。

徳川家康は「五街道」の整備に順次着手し、奥州道中は慶長7年(1602)から取り掛かりました。但し、五街道に制定された奥州街道の道筋は陸奥国白河迄でした。(ちゃんと歩ける奥州街道より)

その奥州街道を3/28から4日間の予定で歩こうと企画しました。

奥州街道は、宇都宮~白沢~氏家~喜連川~佐久山~大田原~鍋掛~越堀~芦野~白坂~白河までの10宿、約90km。

   

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【宇都宮宿~白沢宿】

3/28(月)博多を6時00分の新幹線に乗って一路宇都宮へ。宇都宮には12時ごろ到着しました。

ここ2,3日福岡はぽかぽか陽気で春を感じるのですが、宇都宮は、少し寒く感じます。桜の花もまだ開花してないそうです。(3/28現在)

荷物をホテルに預け、奥州街道のスタートです。

昨年の11月に奥州街道を宇都宮駅まで歩きましたので宇都宮駅から歩きます。

 

旧篠原家住宅

宇都宮を代表する旧家の一つである篠原家は、江戸時代(19世紀初めごろ)から奥州街道口の現在の場所で、しょうゆ醸造業や肥料商を営んでいました。
現在の建物は、1895年(明治28年)に建てられたものです。第二次世界大戦の戦火により、主屋と石蔵3棟を残して焼失してしまいましたが、明治時代の豪商の姿を今日に伝える貴重な建造物です。
国の重要文化財・宇都宮市の有形文化財の建造物に指定されています。

中に入ってみようかと思いましたが、今日は月曜日休館日でした。

八坂神社は、宇都宮城の鬼門除けとして康平6年(1063)創建されました。

  

東北新幹線のガード下を潜ります。潜った先右側の細い道が烏山城(現那須烏山市)があった「烏山道追分」です。

 

長屋門 明治27年(1894)築の岩淵家の長屋門。豪農でした。家の中を見てみると、「大谷石」で造られた蔵などがありました。

  

宝蓮院の北側には、立場(たてば)があり、トコロテンが名物でした。

注)立場(たてば)とは、宿場と宿場の間にあって、旅人や人足、駕籠かきなどが休息する場所。もともと杖などを立てて一休みしたのでその名が生じたといわれています。

 

岩曾の交差点の公民館の後ろに「首切り地蔵」があります。

宇都宮藩の刑場跡。根来衆はここで斬首されました。享保8年(1723)造立の「首切り地蔵」は根来塚(首塚)に安置されたものです。

注)根来衆事件:元和元年(1615)二代将軍秀忠の日光社参に先立ち、警護のため「鉄砲組根来同心百人衆」が宇都宮に派遣されました。宇都宮藩主本多正純は、一行に城普請を命じましたが、

お役違いと拒否したため全員を座bb種しました。「宇都宮釣り天井事件」の遠因になりました。

 

県道125号線を進みます。奥州街道は、白沢街道と呼ばれています。

  

遠くに雪を被った日光連山が見えてきます。男体山(2484m)、女峰山(2483m)、赤薙山(2010m)でしょうか?

  

稚児坂に差し掛かりました。1196年、鎌倉幕府から奥州総奉行の任命を受けた伊沢家景が、任地に向かう途中、この坂にさしかかったところで、
同行していた乳幼児の我が子を亡くしました。それ以来、この坂は「稚児坂」と呼ばれる様になりました。

稚児坂の中ほどには茶屋があったそうです。

 

稚児坂を下っていくと、白澤宿の入口です。江戸から30里(約120km)です。私の奥州街道歩きも120kmを越えようとしています。

 

白澤の地蔵堂は、伊沢家景が先ほどの稚児坂(王子製紙あたり)で鎌倉から東北に向かう途中子供が病気になり亡くなりました。そしてこの子をこの地に葬り地蔵堂と石塔を建てました。

この白澤の地蔵堂を含め白澤には、七福神があるそうです。

  

やけん(薬研)坂 この坂は、漢方の薬種をくだく舟形の器具(薬研)に坂の形が大変似ていることから「やけん坂」と呼ばれるようになりました。

mあた、慶長14年(1609)白澤宿として町割りができる以前から街道の道しるべとして夫婦の大きな榎があったそうです。

  

 

白澤宿の案内板がありますが、文字がかすれて読めません。同じ文章がネットでありましたのでここに引用します。

「江戸時代に整備された五街道の一つである奥州街道(道中)の第一宿としておかれたのが白澤宿でした。宇都宮で日光街道と分れて白澤宿から白河宿まで23里(約91km)が

十宿で構成されました。16世紀以前は純農村で我が宿のルーツは、関ケ原の戦いの序曲になった徳川家康の上杉攻めに遡ります。

すなわち、徳川家康が鬼怒川を渡る時、その案内役をかって出たのが、白澤村庄屋「宇加地家」と上岡本村庄屋「福田家」でした。

その功績が認められ、戦いの後、両村共同で白澤宿という往還宿を構成することが許され、慶長14年(1609)には、町割りを完成し両家は御用を勤め問屋になっています。

(本陣:宇加地家、脇本陣:福田家)天保14年(1813)には、本陣1,脇本陣1,旅籠13軒、家数71軒、人口369人(男179人、女190人)を数えていました。

宿場の名物は,鮎と牛蒡汁でした。

白澤宿は江戸から明治になって大いに栄えました。明治18年(1885)奥州街道が現在の国道4号線に移り、おかげで現在の宿場の面影を今にとどめています。

白澤宿がしのばれる由緒ある家並みを保存していくため村おこし事業を契期に用水路に鯉を放流し、環境美に努め、歴史を伝えていきたいと思います。

                                                      昭和62年2月吉日 白澤宿保存会」

 

各家々には、昔の屋号が付けられています。

 

 

 

 

宿場の角の所は、明治元年(1868)創業の下野地酒「澤姫」の蔵元「井上清吉商店」です。

 

 

西鬼怒川を渡った所に「白澤の一里塚」があります。もともとは、鬼怒川の河原にありましたが、度々の洪水で流されたそうです。

 

一里塚の横には、「開田之碑」と白澤の七福神の一つ「福禄寿」がありました。

 

次回は、鬼怒川を渡り氏家宿に入ります。