よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

第20回宮崎ツーデーマーチ「こばやし霧島連山絶景ウォーク1日目30km」(宮崎県小林市)

2018-02-27 17:36:43 | オールジャパンウオーキングカップ

2月24日~25日に宮崎県小林市で行われた「第20回こばやし霧島連山絶景ウォーク」に参加しました。

霧島連山は、現在、高千穂峰の御鉢が警戒レベル2、新燃岳レベル3、硫黄山レベル2と火山活動が活発になってきています。

また、前夜の放射冷却からでしょうか、各山々には、雪が被っています。車のフロントガラスも凍っていました。朝の気温は1度でした。

会場も前年までの総合運動公園からJR小林駅の中央ふれあい広場に戻りました。宮崎ツーデーマーチは、2012年までは、宮崎市内で行われていました。2013年から吉都線100周年という

ことで小林市に移りました。小林に移った最初の大会は、このJR小林駅ふれあい広場でした。

JR小林駅も新しくなり、モダンなデザインです。

   

この大会は、「おもてなし」がいいことで有名な大会です。30kmのコースでは、10か所ぐらいのお接待所があります。最初のお接待は、小林西高校野球グラウンドの前。

小林西高校は、プロ野球タイガース榎田大樹投手の母校です。

 

霧島連山です。真っ青な空に飛行機雲。

  

永久津のビーフクックくらそのでは、永久津小中学校の子供たちが作ったもち米で「きな粉餅」が振る舞われました。ここが1回目のチェックポイント。

 

永久井野かくれ念仏洞があります。

薩摩藩では、戦国時代末期から一向宗(浄土真宗)が禁止されていました。実際に告示されたのは慶長2年(1597)のことで、島津義弘が朝鮮出兵の際、留守に残した掟書の中の一条に

 「一、一向宗の事先祖以来御禁制ニ候之条、彼宗躰に成候者曲事たるべき事」の一文があります。

禁制の理由については、宗派内の封建的性格と宗祖親鸞の平等思想が、当時の封建支配者層にとって非常に危険なものであったためともいわれています。

 しかし、藩の厳しい弾圧にもかかわらず、ひそかに信仰する人は後を絶ちませんでした。信者達は信仰を守るため、人里離れた洞穴(諸県弁でガマ)などに夜目にまぎれて集まり、

講話をきいたり、念仏を唱えました。このような一向宗禁制は明治9年(1876年)まで続き、解禁後、これらの洞穴はしだいに忘れ去られていました。

永久井野地区にあるかくれ念仏洞は入り口幅約70センチメートル、奥行き18メートル、最大幅6メートルで、入り口から8メートルは大人がしゃがみ、ようやく進めるぐらいの余裕しかありません。

 しかし内部は広く、50人ほどが座れ、奥に行くにつれて傾斜しています。(小林市HPより)

  

永久井野古里小屋があります。

  

高山公民館でのお接待。

  

2回目のチェックポイントが「二原遺跡公園」。

二原遺跡公園は、県指定史跡である東二原地下式横穴墓群を整備して公園化したものです。

 地下式横穴墓は、宮崎県南部、鹿児島県肝属平野を中心に分布する古墳時代の南九州特有の墓です。 東二原地下式横穴墓群は、昭和59(1984)年畑を耕作中、1基(1号墓)が発見さ れ、

その後、平成2(1990)年に市教育委員会で発掘調査したところ、新たに地下式横穴墓15基のほか直径20メートルの円墳が発見されました。出土品については、人骨が21体分、そのほか、

副葬品には鉄鏃、骨鏃、刀子、剣、 直刀、鏡、貝輪、朱玉などがあります。これらの出土遺物等から、東二原地下式横穴墓群はおおよそ5世紀末から6世紀前半(約1500年前)に

造られたものと考えられます。(小林市HPより)

 

  

東方体育館にやってきました。毎年ここでは、中学生が応援してくれます。中学生のパワーをいただき、三之宮峡へ向かいます。

  

三之宮峡は、霧島ジオサイトの1つで約34万年前加久藤カルデラの噴火の際に火砕流によって形成された、雄大な景観美と豊かな植生を今に残す美しい渓谷です。

約1kmの遊歩道は、昭和30年代まで木炭や木材を運ぶトロッコ道として利用されており、子どもでも歩きやすく、絶好のウォーキングコースとなっています。

遊歩道には、大小11か所のトンネルがあります。

  

 

 

三之宮峡の最後には、急勾配の階段が待っています。昇った所が「橋満橋」です。今年は、倒木の為通行できません。

橋満橋は、昭和18年地元の人たちが材料を購入し、奉仕作業で造られました。戦争中だったため、鉄の代りに竹を使った竹筋コンクリートと石材を使った珍しい橋です。

  

今年のコースは、昨年に比べアップダウンが多いような気がします。私の持病のひざ痛が悲鳴を上げかけています。

ダイワファームに来ました。ここで18km地点。ダイワファームは、ソフトクリームがおいしいとのことで私と家内分を買っていただきました。

甘さもちょうどよく、しつこくない味でした。おいしかったです。

  

「陰陽石」にやってきました。ここでは、牛乳、ドーナツ、日向夏の接待です。

  

陰陽石:夫婦岩とも呼ばれる2つの奇石、陰陽石。霧島火山帯の溶岩が造り出した自然の妙技で、男石(陽石)が高さ17.5メートル、女石(陰石)が周囲5.5メートルあり、

男女一対であるのは世界でも珍しいものです。よろず生産の神、また子宝の神としても信仰されています。(小林市HPより)

田の神様(たのかんさあ)は、江戸時代の島津氏が統治していた、薩摩、大隅、 日向の一部地方のみの風習だったのです。 田の神. 田の神(たのかみ)は、日本の農耕民の間で、

稲作を見守り、豊穣をもたらすと信じられてきた神です。

    

 田の神様から真方体育館の方に行きます。ここでは、ミルク鍋が振る舞われました。

 

コースも終盤です。市立病院、吉都線の踏切を超え、永田平公園に向かいます。ここが最後の昇りですが、私の膝が痛くなったので、ゆっくりゆっくり昇ります。

永田平公園は、大正時代から公園として利用され、とくに夜景がすばらしいそうです。若いカップルには、いいでしょうね。

永田平公園が最後のチェックポイントです。

  

永田平公園を下り、JR小林駅を通ると、ゴールです。14:30無事ゴールしました。

  

ゴール後の抽選会では、ノンアルコールビールが当たりました。

  

ゴール時間は、昨年と変わりませんが、今年はアップダウンが多かったのか、少々疲れました。

然し、この大会は本当に「おもてなし」が多く、お昼のお弁当も要りませんでした。

明日は、雨の予報です。午前中位持ってくれればいいのですが・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 


稚加栄のランチ(福岡市中央区)

2018-02-23 05:33:59 | 日記

福岡市の名店「稚加栄」がランチの営業を今月25日で終了するということで20日稚加栄に行ってきました。

ランチは11:30からの営業ですが、早めに行こうと11:00に着きましたが、既に200人ほどの行列。

 

あまりにも長い行列のせいか、開店10分前にお店がオープンしました。

  

私達も12時前には、お店に入りました。これが稚加栄お昼のランチ1500円(税込)です。

 

  

稚加栄のお昼のランチは、昭和48年からだそうです。私もサラリーマン時代、会社が近かったせいか、時々食べに行っていました。確か、800円ぐらいだったと記憶しています。

それから、1200円、1500円になりました。名店のおいしいランチが食べられなくなるなるのは、悲しいですね。

今後は、土日限定の昼食を出されるそうです。

 

 

 

 


大河ドラマ西郷どんの舞台鹿児島へ

2018-02-22 06:48:50 | ウォーキング

今年の大河ドラマは、「西郷どん」。その西郷どんの舞台、鹿児島に行ってきました。

先ず、「仙巌園(せんがんえん)」。

ここに来るのは、中学の時の修学旅行以来、もう半世紀以上前です。当時は、「磯公園」と言っていましたが、正式の名称は「仙巌園」です。

仙巌園は、万治元(1658)年、19代島津光久によって築かれた別邸です。錦江湾や桜島を庭園の景観にとりいれた、雄大な景色が仙巌園の最大の魅力です。幕末の名君、

28代島津斉彬がこよなく愛し、徳川将軍家に嫁いだ篤姫も足を運びました。 また、南の玄関口といわれた薩摩の歴史・風土にふさわしく、中国文化の影響が色濃く見られることが

仙巌園の特色の1つですさらに温帯と亜熱帯の境に位置することから、数多くの珍しい植物が植えられています。

幕末から近代にかけては、薩摩藩・鹿児島県の迎賓館のような存在でもありました。幕末にはオランダ海軍将校や幕臣勝海舟、イギリス公使パークスが、明治以降になると、

大正天皇、昭和天皇をはじめとする皇族方、ロシア皇太子ニコライ2世、イギリス皇太子エドワード8世など国内外の数多くの要人が訪れています。

園内やその隣接地は、島津斉彬とその遺志を継いだ人々によって建てられた、日本初の工業地帯、集成館の跡地でもあります。近代日本の技術力、工業力の原点ともいえる地であり、

2015年7月にはこれら史跡・建物を構成資産とする「明治日本の産業革命遺産」が世界遺産に登録されました。(仙巌園HPより)

   

  

薩摩藩には、独自の剣術「示現流」があります。「郷中教育」で学ばれ、明治維新を叩き上げた剣術です。困難に立ち向かう強い心と体を鍛え上げています。

  

仙巌園は、大河ドラマの収録にも使われました。

  

   

岩に彫られた「千尋厳」の文字は、文化11年(1814)、27代島津斉興の時代に述べ3900人余りの人員で3か月かけて刻まれたものです。作業用の足場は、杉や竹で組まれました。

3文字で約11mの大きさがあり。胡粉という顔料で塗られています。景勝地の岩に文字を彫ることは、中国ではよく見られますが、ここにも中国文化の影響が窺えます。(案内板より)

  

ブランドショップには、薩摩切子、薩摩焼が展示販売されています。価格は、どれも何百万円、とても手が出ません。

   

旧尚古集成館跡、は、2015年7月に「明治日本の産業革命遺産」として世界文化遺産に登録されました。この「旧集成館」は、島津28代斉彬が築いた当時日本最大の工場群「集成館」の

ことです。ここでは、製鉄、大砲、造船、紡績、薩摩切子などのガラス、薩摩焼、ガス灯などの作製、研究が盛んに行われました。

西欧諸国からの植民地化をおそれ、いち早く強く豊かな国づくりに取り組みました。(案内パンフより)

館内は、撮影禁止でした。

   

集成館の隣には、「鶴嶺(つるがね)神社」があります。

鶴嶺神社(つるがねじんじゃ)」には、島津家の当主のほか、島津家の分家・玉里島津家(たまざとしまづけ)の歴代当主とその家族らが祭られています。

鶴嶺神社の御祭神の1人には、亀寿姫(かめじゅひめ)が、豊臣秀吉に捕らわれていた際に、秀吉も驚くほどの美貌であったとされ、心優しく賢明だったことから、

この神社でお参りをすると心身ともにきれいになるともいわれています。

 

次に向かったのは、「照国神社」。祭神は島津家28代当主斉彬で、文久3年(1863)、天皇から照国大明神の神号が授けられ、翌年の元治元年(1864)、南泉院跡に社殿が建てられ、

照国神社となった。明治10年(1877)、西南戦争により社殿、宝物を焼失、明治15年(1882)に復興されたものの、明治20年(1945)戦災で再び焼失し昭和33年(1958)復興造営された。

今は鉄筋コンクリート造りになっている。また、入口にある鳥居は昭和4年(1929)の建設で、昭和3年(1928)の御大典を記念して建てられたもので、高さが19.8mもある大鳥居である。

照国神社は島津斉彬を祭る神社として、多くの参拝者でにぎわっている。

島津斉彬公は、勝海舟をして「幕末第一等の英主」といわしめた名君で、西郷隆盛、大久保利通を登用し、幕末日本を開国の方向に導いた人物です。集成館と呼ばれる工場群を整備し

、造船にも力を注ぎ、わが国最初の洋式帆船「いろは丸」や蒸気船を完成させました。(鹿児島県観光ガイドより)

 

    

照国神社の中に「資料館」があります。この中に国旗「日の丸」制定の由来がありました。

斉彬公は、幕末、日本を強く豊かな国にしようと力を注がれた事業の一つに造船があります。我が国初の本格的な洋式軍艦昇平丸や蒸気船雲行丸などの建造を手がけました。

嘉永6年(1853)大型船12隻、蒸気船3隻の建造を申請された公は、日本の総船印として「日の丸」を掲げ、日本の船と外国の船を区別してはどうかと提案されました。

翌安政元年(1854)7月、幕府は、公の提案を受け入れて、日の丸を日本の総船印と定め、安政2年春、幕府に献上するために鹿児島を出航した「昇平丸」に日本総船印として

初めて日の丸が掲げられました。万延元年(1860)には、国旗へ昇格、明治3年(1870)1月明治新政府もまた、日の丸を国旗と定めました。

公は、鹿児島城内で、桜島から昇る太陽を美しく思ったと言われています。

    

帰る時間も近づきましたので、最後は、西郷隆盛公の銅像の前で手を合わせました。「SEGODON

 


東海道道草ウォーク№34「吉原宿~沼津宿」(静岡県富士市~沼津市)

2018-02-18 06:56:59 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

2/4(日)今回の東海道歩きも最終日になりました。今日の15:45の新幹線で福岡に戻る予定です。

早めにホテルをチェックアウトし、前日ゴールの吉原駅に8:10到着。昨日ゴールした時にきれいな姿を見せてくれた富士山は、まだ就寝中かな?顔を見せてくれません。

  

吉原駅から踏切を横断します。渡った所あたりが、「元吉原宿」です。その名残は、もうありません。先に行くと、「妙法寺・毘沙門天」があります。

妙法寺・毘沙門天」武運の神様毘沙門天が祀られ、富士山への修験者の令嬢であり、更に武田氏や紀州徳川家の信仰をうけていました。境内にはインド窟院にならった洞窟七福神堂や

中国様式の建物があり独特の雰囲気をもっています。旧暦正月7日~9日の大祭で開催されるだるま市は、日本三大だるま市の一つです。

毘沙門天から出ると、製紙工場の大きな煙突が建ち並んでいます。ここ富士市には、60社(70工場)の製紙工場があり、全国一の規模です。歴史を見てみると、江戸時代文化年間(西暦1,800年頃)

は富士地区特産である三椏を原料として駿河半紙をすき、江戸や京都、大阪において好評を博したとされています。その後、吉原地区では原料の三椏が量産栽培され、豊富に湧出する水を利用して

製紙業が普及していきました。明治時代には富士地区(旧吉原中心)を中心に県下に中小製紙会社が続々と誕生し、紙の黄金時代が築かれます。その後も紙需用は拡大を続け、

富士市は紙のまちとして発展を続けています。

  

増田平四郎の像があります。水害に悩まされてきた原村を救おうと、明治時代、浮島沼の大干拓を手がけた『増田平四郎(ますだへいじろう)』の碑です。

増田平四郎は、飢饉や水害に悩む住民の救済を決意し、浮島沼の干拓を計画しますが、徳川幕府はなかなか許可せず、計画の立案から許可が出て工事に着工するまでなんと

27年もの月日がかかりました。工事は海から浮島沼にかけて全長505メートル幅7メートルにも及ぶ大規模な掘りを築き、2年後の明治2年(1869)春、ついに大排水路を完成させます。

人々はこれを『スイホシ(水干)』と呼んで平四郎に感謝しますが、その年の8月、高波の被害により無情にも排水路は崩壊、30年に及ぶ平四郎の夢も露と消えてしまいました。

さぞかし無念だったと思いますが、平四郎の計画は後に同じ場所にできた昭和放水路に生かされました。昭和放水路を見守るように、放水路の西側にその碑は立っています。

  

間宿・柏原本陣跡があります。柏原新田は東、中そして西柏原新田に分かれており、間の宿・柏原は西柏原新田にあった。丁度原宿と吉原宿の中間にあたるところです。

※間宿(あいのしゅく)・・・・江戸時代、本宿と本宿の間に設けられた村。本来は、旅人の休憩のためのもので宿泊は禁止されていた。

   

本陣跡の前には、「立圓寺」です。山門をくぐると、望嶽の碑があります。文化5年尾張藩の侍医・柴田景浩は、江戸への道中しばらく立円寺に滞在し、ここから見た富士の絶景を讃えて碑を建てたと

いわれています。石碑の裏側には漢文でそのいわれが書いてあります。「予の性、山を愛し、また山を書いて喜ぶ。山は冨士より奇なるはなし。冨士の勝、この間に望むにしくはなし・・・」

晴れた日には正面に大きく富士山が見えます。

その富士山ですが、残念ながら雲の中に隠れています。

この立圓寺には、望嶽の碑の東隣に、昭和54年、富士市の海岸に打ち上げられたデラティック号の碇があります。昭和54年(1979)10月19日、ゲラティック号は、清水港より救援米を運ぶ途中、

台風20号に遭遇し、強風と高浪により船体は立円寺南方の柏原海岸に直立のまま打ち上げられました。救助を求める二人の船員の遵い生命も奪われました。

当時、新聞・テレビのマスコミにも登場し、日曜、祝日には、5万人の見物人がこの地を訪れ、売店十数軒が出店するなど、近郊はもちろんのこと、東京・愛知・山梨より見物人が押しかけました。

船体は六ヶ月間を要して解体処理され、ここに遭難者の慰霊を祀り、碑を建てました。

  

  

これから、広重の東海道浮世絵の「原宿朝之富士」のモデルになった「浮島ヶ原自然公園」に行きます。浮島ヶ原公園は、東田子の浦駅の国道1号線側にあります。

浮島沼は、湿地草原と富士山を眺望できる風光明媚な場所でしたが、昭和41年(1966)田子の浦港の開港整備に伴う排水工事の改善から湿地の乾田化が進み、湿地地帯は失われて

しまいました。現在湿原に生息している植物を保護し、生態系や風景を保全しようと整備が進められています。

 

  

この時間になると、富士山も起きたのか顔を出してくれました。

  

街道は、沼津市に入りました。植田三十郎のお墓があります。遠州浪人だった植田三十郎はこの地の干拓に尽力するも失敗。後に干拓が成功した後、

この植田の名をつけて植田新田と呼ばれる様になったとの事。

  

浅間愛鷹(せんげんあしたか)神社。愛鷹(あしたか)山は、富士山のふもとに位置する山です。お宮の由緒書きを読んでみますが、かなり古くて文字が薄くなっています。

祭神は、木花咲耶姫命、愛鷹大神(ニギニギノミコト)。

   

桃里改称記念碑というのがあります。改称というのは何のことか?と読んでみますと、浮島ヶ原を最も早く開墾したのは、遠州の浪人だった鈴木助兵衛である。同名の父、鈴木助兵衛良正が

小笠郡堀田城にいた武士で、安倍郡の下足洗新田を開発した後、2代目助兵衛が天正2年(1574)頃浮島ヶ原へ来てこの地を開き、助兵衛新田と称したという。

明治41年(1908)に県知事に改称を申し出、当時この辺りでは桃をよく作っていたので桃里と改めた。この碑は、桃里改名の経緯を記し、助兵衛の功績をたたえている

要するに、助兵衛新田から桃里新田に名称を変えたということですね。

  

休憩の為、コンビニに立ち寄りました。コンビニと富士山・・・・絵になりますかね?

街道は「原宿」に入りました。浮島ヶ原の「原」から名付けられた「原宿」。小さな漁村が東海道13番目の宿場になりました。当時は、鰻のかば焼きが名物と書かれており、

「500年に一人」と言われる臨済宗中興の祖である「白隠禅師」のゆかりの宿場です。東海道は千本松原と並行してまっすぐにのびており、どこからでも富士山が一望できます。

  

高嶋酒造は、文化元年(1804)創業の造り酒屋です。白隠禅師に因んだ「白隠正宗」という山岡鉄舟がつけた銘の酒を製造しています。

原宿の本陣渡邉家は阿野全成(源頼朝の弟・義経の兄)の子孫であり、代々平左衛門を名乗って幕末に至っている。原宿の草分けであり広大な建物を持っていたので、

自然に大名・幕吏等の宿所として本陣となり問屋、年寄、名主等を勤めていた。間口は15~17間で、建坪は235坪、総坪数は山林、畑を含め6600坪の広大な規模であった。

  

原宿は、白隠(はくいん)の里として知られています。白隠禅師は、他の禅宗と比べ衰退していた臨済宗を復興させた名僧です。貞享2年(1685)12月25日、原宿、長沢家の三男として誕生し、

15歳で出家、慧鶴と名付けられ、19歳で諸国行脚の旅に出て、24歳で鐘の音を聞いて悟りを開いたと言われています。享保2年(1717)に33歳で松蔭寺の住職となり、翌年、白隠と号する

ようになりました。当時は「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山と原の白隠」と言われていました。

  

松蔭寺への寺道は、「白隠道」と呼ばれ、カラー舗装になっています。

  

松蔭寺は、開基は、約680年前と言われ、白隠禅師が再興し、諸国の大名が禅師の徳を慕って訪ねていたといわれています。白隠禅師の墓があり、宝物館には、禅師に関する書画、文物などが

収蔵されています。

  

長興寺は、江戸中期、松蔭寺に全国から参集した修行者たちの宿坊でした。両寺の間の小路は白隠道と称されました。

我が家の宗派も臨済宗ですが、臨済宗にこのような方がおられたとは、知りませんでした。

  

白隠道から再び街道に戻ります。三本松の踏切を渡ります。JR片浜駅の近くに「神明塚古墳」があるのですが、ちょっとわかりません。近くのお寺に居た人に聞くと、この方は、昨年まで

自治会長をされていた方で詳しく教えていただきました。

神明塚古墳は、5世紀後半に築造された前方後円墳。沼津市内の3つの古墳の中で全長が54mと最大の古墳です。後円部に建てられている「神明宮」は、元和2年(1616)創建で

天照皇大神が祀られています。

   

沼津市のマンホールは、富士山と、はまゆう、千本松原、愛鷹山がデザインされています。

千本松原は、狩野川河口から田子の浦港までの約10km、30万本以上の松があるといわれています。この松原は、昔から農民が防風、防潮の為に植えていたのですが、武田勝頼が駿河攻めの

為に伐採し、それを増誉上人が5年の歳月をかけて植え直しました。大正時代にも伐採の危機がありましたが、若山牧水らの反対運動により免れています。

   

  

沼津市中心部に入ってきました。「沼津藩領榜示杭」は、沼津藩の東西の領域を示す石。安永7年(1778)に設けられ、沼津藩領が確定しました。

中心部に入ってかなり風が強くなりました。突風でしょうか竜巻でしょうか、、私のDバックの後ろの風車が音をたてて回っています。挙句の果ては、飛んで行ってしまいました。

拾いに行こうかと思いましたが、風車は道路の真ん中にありますが、車の通行が激しく、拾いに行けませんでした。帰ったらまた注文しなくては・・・・・・

 

沼津宿は、12番目の宿場で、戦国時代に武田勝頼によって沼津城が築かれた後、廃城となり、160年後、水野忠成が築城し、沼津藩となりました。交通の要衝として、商業、文化の中心的

役割を果たしていました。家数1234軒、(本陣3軒、脇本陣1軒、旅籠55軒)人口5346人でした。

  

時間も13:30分を過ぎてきました。もう帰りの新幹線に時間も迫っています。今回はここまでとし、次回(4月上旬)、またゆっくり見て回ろうと思います。

 

 


東海道道草ウォーク№33「蒲原(かんばら)宿~吉原宿」(静岡市清水区~富士市)

2018-02-15 22:25:12 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

2/3(土)昨日の雨で、今回の東海道歩きを1日延長しました。折角来たのですから、富士山と一緒に歩きたいですね。

今日は天気もいいし、きれいな富士山が見れるのが楽しみです。9:00 新蒲原駅から今日の街道歩きスタート。

 蒲原宿は、主要国道から離れているので昔ながらの家並みなどが残っています。

吉田家」は、昭和まで続いた「僊菓堂」という屋号で和菓子屋さんでした。玄関はなまこ壁の塗り家造りで中に入ると柱がなく、広々とした店の間造りになっていて商家らしい雰囲気が残っています。

佐藤家」は、元佐野屋という商家でした。町屋に多くみられる造りですが、このような町屋を塗り壁造りといいます。「塗り壁造り」は、土蔵造りに比べて壁の厚さは少ないが、

防火構造が大きく、昔から贅沢普請とも言われています。

  

この近くに日軽金の発電所があり、山から大きな径の送水管が伸びています。

  

北条新三郎」は、北条早雲の孫にあたり、駿河侵攻を目指す武田信玄、勝頼らに対峙する中心武将として蒲原城主になりましたが、永禄12年(1569)に弟とともに武田軍の猛攻にあい、

戦死しています。

光蓮寺の所から左折、街道は、少し急坂になります。東名高速の横断橋を渡ると街道は、「富士市」に入ります。

   

間宿「岩淵」に着きました。東海道一の急流である藤川は、山梨県からの米などの輸送路としても活用されていたことから、間宿である岩淵には、米蔵や船着場があり、大いに栄えていました。

米は、陸路で江尻宿(清水港)に運ばれ、江戸へ輸送されていました。旅人は、船で富士川を行き来していました。

富士川民族資料館」は、桑木野の大家と言われた稲葉家の家で富士市に現存する最古の民家です。現在、工事中で中に入ることができませんでした。

  

間宿岩淵小休本陣常盤邸」 間宿岩淵には、富士川を渡る準備をするため休憩する施設として小休本陣、脇本陣がありました。常盤邸は、安政元年(1854)の地震後に再建され、

現在も残っています。また、岩淵村の名主だったため、一般の民家には見られない、上段の間といわれる部屋があります。

邸内では、案内人の方から丁寧に説明をうけました。常盤邸は、女優、常盤貴子さんの実家の所有で常盤貴子さんの祖父の方は清水銀行の頭取を務められた方です。

   

富士川に来ました。富士川の先に道の駅「富士川楽座」という所が、富士山のビューポイントですのでそちらに行ってみます。

途中、「富士川渡船場跡、角倉了以紀功碑」があります。富士川を渡る時は、船が使われ、上船居、中船居、下船居の3か所に船着場があり、川の状況によって使い分けていました。

富士川の渡船は、慶長7年(1602)~大正13年(1924)まで続きました。

角倉了以(すみくらりょうい)は、富士川を開削し、甲州方面の水運ルートを開発した戦国時代の京都の豪商、土木事業家です。

 

道の駅富士川楽座は、全国約1000の道の駅で来場者数全国一を誇っています。

3階の展望室からコーヒーを飲みながら富士川越しの富士山を見ていますが、富士山は、雲の中に隠れています。約1時間ほど見ていましたら、少し雲が取れてきました。

  

1時間ほど休憩し再び歩き出します。この旅行中、私のDバックの後ろには、「長崎(出島)から・・・・・」というゼッケン?を付けています。

そのせいか、道行く途中で「頑張って!」と声をかけていただいています。中には、3年前草津で出会った小学生の子、「おじさんたちお金ないから歩いているの?」と聞かれたことが今でも

忘れられません。(笑) その時は、確か、「そうよ、おじちゃんたちお金がないからあるいているのよ」と答えたって。お金は今でもありませんが・・・・・・

街道は、富士川橋を渡ります。ここもビューポイントです。

    

富士川橋を渡ると左側に「富士川渡船場跡、富士山道標、水神社」があります。

水神社は、治水、渡し船の安全を祈願している神社です。境内には、渡船場跡の碑や富士山道の道標、雁堤築造記念の碑、渡船関係者奉納の常夜灯など江戸時代の石碑が多く現存しています。

 

  

札の辻とは、幕府からの通達事項などを書いた高札を建てた場所のことですが、ここでは、実相寺の御札を売っていた場所のことです。実相寺は、「西に比叡、東の実相寺」と言われたほどの

寺で、寺幅は広く、現在の札の辻橋付近に山門があったといわれています。

  

先を行くと、ホワイトホテルがあります。ここには、旧松永邸があった所です。松永家は、甲斐国(現在の山梨県)より駿河国富士郡平垣村に移住してきた、一世五左衛門を祖とし、

六世好時(宝暦一〇〈一七六〇〉~文政八年〈一八ニ五〉)のころより土地集積を進め、財力を蓄えたと伝えられています。

その財力を背景に、江戸末期には富士郡下の平垣村村他六ケ村を領地とする旗本日向小伝太から領地の取締役を命じられ、邸内にその陣屋を構え、領主に代わって年貢のとりまとめを行う

業務を担っていました。明治元年には明治天皇の御東行の際に、屋敷の一室が小休所として使われています。

昭和54年富士市に寄贈され、現在は、富士市博物館西側の「ふるさと村」に移築保存されています。

  

 間宿本市場は、吉原宿と蒲原宿にあり、間の宿として多くの茶屋が立ち並び多くの旅人で賑わいました。名物として白酒、葱雑炊、肥後ずいきなどが知られて、

安藤広重は白酒売りの茶屋で憩う旅人を描いています。

鶴芝の碑」文政3年(1820)間宿本市場の鶴の茶屋に建てられたもので、当時ここからの富士を眺めると中腹に一羽の鶴が舞っているように見えたので、京の画家蘆州が鶴を書き、

江戸の学者亀田鵬斉が詩を添え石碑としたそうです。

  

  

富士市のマンホールには、かぐや姫が描かれています。ここ富士市にもかぐや姫伝説がありますが、富士市のかぐや姫は、一般的な伝説では、月に帰りますが、富士市は、富士山に帰るそうです。

富士市のかぐや姫伝説です。  http://www.city.fuji.shizuoka.jp/kids/k_hime/k_story.htm

  

富安橋は、通称三度橋と呼ばれ、江戸と京を1か月に3度行き来していたことから、その便宜を図るために架けられた橋です。

東海道14番目の宿場である「吉原宿」は、寛永16年(1639)、延宝8年(1680)の津波などにより、3度も所替えをしています。最初の宿場を元吉原宿、2番目を中吉原宿、

3番目を新吉原宿と呼んでいます。

商店街を歩いていると「長さん小路」という看板がありました。長さんこと、いかりや長介さんは、1931年東京・墨田で生まれ、小学校卒業と同時に富士市に疎開。

その後、工場の仲間とバンド活動を始め、吉原のダンスホールなどで演奏し、青春時代の16年間を富士市で過ごしました。1959年28歳で上京し、ドリフターズのリーダーとして活躍され、

2004年72歳で死去。2004年、富士市より多くの市民に感動を与えたとして、富士市初めての市民感謝状が贈られました。

 

    

岳南鉄道吉原本町駅裏に「身代り地蔵」が」あります。昔、東本通り付近で目の病が流行り、人々がこのお地蔵さんにお願いすると忽ちに治りました。その時、お地蔵さんの目には、

目ヤニが一杯ついていたので「身代り地蔵」と呼ぶようになったそうです。

うどん屋さんも経営している「鯛屋旅館」は、創業は天和2年(1,682年)より330年以上もの間、当時の場所で現在も営業しております。

また世紀の大親分の清水次郎長、幕末の偉人の一人である山岡鉄舟の常宿としても知られております。

  

このころから、富士山もきれいな姿を見せてくれました。

   

平家越橋を渡ると、「平家越」があります。源氏と平家が争っていた頃、平維盛(たいらのこれもり)は、富士川西岸に、源頼朝は、東岸に陣を構えました。源氏軍は敵の後ろから攻め込もうと

軍を移動させましたが、これに驚いた大群の水鳥が一斉に飛び立ち、その音に驚いた平家軍は逃げてしまったという源平の富士川合戦の碑が建てられ、橋の名前にもなっています。

 

このあたりが、「中吉原宿」です。馬頭観音を過ぎると、「左富士」があります。

左富士は、広重の吉原宿の浮世絵にもなっていますが、大地震後、津波の影響で3度宿場の場所が変わり、そのたびに内陸に移っていったため、江戸から京に向かっていた場合、

海と並行していた東海道は、北側に大きく曲り、右手に見えていた富士山が左手に見える景勝地が生まれました。

現在では、工場の建物で浮世絵みたいな富士山が見えません。

  

左富士のすぐ近くには、左富士神社です。現在工事中ですので外から撮りました。

  

このあたりからの富士山もきれいです。

  

16:15 吉原駅にゴールしました。

  

  


三嶋大社~富士山本宮浅間大社(静岡県三島市~富士宮市)

2018-02-14 04:58:00 | ウォーキング

2/2(金)静岡県の今日の天気予報は、雨のち曇り。

本当は、旧東海道蒲原~吉原まで歩く予定でしたが、この区間は、富士山が近くに見えるロケーション。

せっかく歩くなら富士山と一緒に歩きたい!と思い、今日は、三嶋大社、富士山本宮浅間大社に行くことにしました。また、昨年12月には、富士宮に富士山世界遺産センターもオープンしていますので

それも見てみようと思います。今日からホテルを三嶋に移動しました。ホテルは北口にあり、三嶋大社に行くには、南口の方から行った方がわかりやすいのですが、この三島駅は、北口と南口の

自由通路がありません。行く方法は、①10分ぐらいかけ、駅を迂回する方法、②入場券を買って北口から南口に行く方法。があります。

街道歩きや、全国のウォーキング大会に参加している私達には、こういう方法は初めての経験です。結局私たちもウォーカーの端くれ、10分かけて南口に廻りました。

三島駅から三嶋大社へは、桜川の三島・水辺の文学碑を通ります。

   

ここには、三島の地に関わりのある文学者やその作品の記述が刻まれた文学碑が建ち並んでいます。

   

三嶋大社 三嶋大社にお祀りされているご祭神は、大山祇命(おおやまつみのみこと)と事代主命(ことしろぬしのみこと)の2柱です。こちらの神さまたちを“三嶋大明神”と総称しています。

大山祇命は、山林農産の守護神。事代主命は、「出雲大社」のご祭神である大国主命(おおくにぬしのみこと=大黒さま)の息子にあたり、“恵比寿さま”として親しまれています。

このことから、三嶋大社のご利益は、商売繁盛、家内安全、交通安全、厄除けなどに篤いといわれています。伊豆国の一宮です。

創建時代は、不明ですが、延喜式神名帳(927年)にその名が記載されています。源頼朝が挙兵の際、祈願して以来、多くの武家、庶民の信仰を集めています。

他に大山祇命をお祀りしているのは、四国・大三島の大山祇神社を思い出しますが、この三嶋大社と何か関係があるのでしょうか?

 

 

 

古今伝授・・・・・公家の間で密かに行われていた古今和歌集の解釈伝授が、室町後期に東常縁(とおおのつねより)から初めて、民間人の飯尾宗祇に伝えられた場所が三島です。

また、宗祇が常縁の子の病気平癒を願い奉納した三島千句が三嶋大社に現存しています。(みしまっぷより)

 

三嶋大社から白滝公園に行きます。

 富士の白雪ゃノーエ  富士の白雪ゃノーエ  富士のサイサイ白雪ゃ朝日でとける
とけて流れてノーエ  とけて流れてノーエ  とけてサイサイ流れて三島にそそぐ
三島女郎衆はノーエ  三島女郎衆はノーエ  三島サイサイ女郎衆はお化粧が長い
お化粧長けりゃノーエ  お化粧長けりゃノーエ  お化粧サイサイ長けりゃお客がこまる
お客こまればノーエ  お客こまればノーエ  お客サイサイこまれば石の地蔵さん

これは、「農兵節(ノーエ節)」です。私が子供の頃、親戚の宴会などでよく歌われていたのを覚えています。(そのころは、カラオケなんかありませんでした) 

江戸時代の末期、今からおよそ150年ほど前の嘉永年間、伊豆韮山代官「江川太郎左衛門英龍(坦庵)」は日本を外国の攻撃から守る必要性を幕府に訴え、

韮山に反射炉を設け大砲を製作するかたわら、若き農夫を集め、彼らを兵力とするためその訓練に力を注いでいました。農兵の調練は韮山代官所(現在の三島市役所の場所)で行われました。

文久年間に幕府は江川氏の農兵調練の実益を認め、制度として法令を定め、大いに農兵の調練に当たり、三島調練場で行われた農兵の訓練では志気の鼓舞と団結を図るため、

部隊の先頭に鼓笛隊が組織されたと言われています。

この故事にあやかり、当時東海道筋で流行していた「ノーエ節」を「農兵節」として、昭和初期に平井源太郎によって現在の農兵節が作られました。そして全国に知れわたる「三島農兵節」となり、

三島の代表的な民謡として三島夏まつりには欠かせないものとなっています。(三島観光協会HPより)

その歌碑が白滝公園の中にありました。ボタンを押すとノーエ節が流れてきます。

  

富士の白雪は、溶けて流れて三島に注ぐ」とノーエ節に歌われているように、三島市の湧水は、三島溶岩流の先端下から湧き出た富士山の被圧伏流水と考えられ、

富士山から流れ出た溶岩の末端部で湧き出しています。今から約1万年前の富士山の噴火によって、約30キロメートルにわたる三島溶岩流と呼ばれる水を良く通す地層がつくられ、

その地層の影響で、上流域で降った雨や雪が地下にしみ込み、溶岩流の中をゆっくりと移動して、下流の三島駅周辺の三島湧水群や、さらに下流の柿田川で湧き出しています。

富士山の降雪降雨量は、年間約22億トンと言われていますが、長い年月地下をゆっくり流れて湧き出る三島の水は、清冽でおいしく、厚生労働省の“おいしい水”の基準を十分に満たしています。

  

三島駅に戻り、次の目的地「富士宮浅間大社」に向かいます。富士駅で身延線に乗り換え約20分で富士宮に着きました。

富士宮と言えば、「富士宮焼きそば」です。早速いただきました。富士宮焼きそばは、こだわりがあるそうで①富士宮の焼きそば蒸し麺、②油かす(肉かす)を使う、③削り粉(サバ、イワシ)を振り掛ける

このような条件を満たしていなければ富士宮焼きそばとは言えないそうです。(他にもいろいろあるそうですが)

やはり、本場でいただく「富士宮焼きそば」はおいしかったです。

   

「富士山本宮浅間大社」に着きました。

祭神は、木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)(別称:浅間大神(あさまのおおかみ))

相殿神
瓊々杵尊(ににぎのみこと)
大山祇神(おおやまづみのかみ)

 「日本(ひのもと)の 大和の国の 鎮めとも います神かも 宝とも なれる山かも 駿河なる 富士の高嶺は 見れど飽かぬかも」と万葉の歌人高橋蟲麻呂が詠んだ清らかで気高く美しい富士山。

この霊山を御神体として鎮まりますのは、浅間大神・木花之佐久夜毘売命にまします。

木花之佐久夜毘売命は、大山祇神の御息女にして大変美しく、天孫瓊々杵尊の皇后となられた御方です。命はご懐妊の際、貞節を疑われたことから証を立てるため、戸の無い産屋を建て、

周りに火を放ち御出産になられました。そして、無事3人の皇子を生まれたという故事にちなみ、家庭円満・安産・子安・水徳の神とされ、火難消除・安産・航海・漁業・農業・機織等の守護神として

全国的な崇敬を集めています。木花という御神名から桜が御神木とされています。境内には500本もの桜樹が奉納されており、春には桜の名所として賑わいます。

また、申の日に富士山が現れた故事から神使いは猿といわれています。(富士山本宮浅間大社HPより)

富士山山頂の浅間神社は、この富士宮浅間大社の奥ノ院です。

 

  

湧玉池にいると、何か真っ白いものが見えてきました。    富士山 す。今日は曇り空で富士山は、あきらめていましたが、ラッキーです。

  

然し、すぐ雲の中に消えていきました。しばし、富士山を待っています。30分後また姿を現せてくれました。

  

富士宮市には、昨年12月23日オープンした「富士山世界遺産センター」があります。

静岡県富士山世界遺産センターは、2013(平成25)年6月にユネスコの世界文化遺産に登録された「富士山─信仰の対象と芸術の源泉」を後世に守り伝えていくための拠点施設です。

当センターでは、「永く守る」「楽しく伝える」「広く交わる」「深く究める」の4つの柱を事業として、国内外の多くの方に歴史、文化、自然など、富士山を多角的に紹介します。(富士山世界遺産センターHP)

  

逆円錐形の建物で富士山が見える時は、ここに逆さ富士が見られます。

富士宮から富士山は近いですね。アップで撮ってみると測候所まで見えます。

  

時間も4時近くになりました。さて、今晩の夕食は何にしようか?と考えていましたら、電車の中で隣の方が私の風車と「長崎から歩いています」のゼッケンを見て声をかけてくれました。

三嶋の方でしたので三嶋のおいしいものを聞くと、「うなぎ」を紹介してくれました。三嶋の鰻は、富士山の伏流水に数日さらしているとうなぎの生臭さが消え、また、余分な脂肪分も落ちて

身のしまったおいしい鰻だそうです。

入ったのは「桜家」。多いときは、行列ができるくらいですが、今日はすんなりと入れました。

桜家の鰻です。

  

久しぶりにおいしい鰻をいただきました。


東海道道草ウォーク№32「由比宿~蒲原(かんばら)宿」(静岡市清水区)

2018-02-13 05:46:43 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

由比宿交流館で一服し、再び街道歩きスタートです。懸念していた雨が本格的に降ってきました。

    

交流館の先には、紀州藩七里役所跡があります。七里役所は、江戸時代の初期、寛政年間 紀州 徳川頼宣は、江戸屋敷と領国の居城の間、百四十六里(584km)に沿って

七里間隔の宿場に、独自の連絡機関として二十三ヶ所に中継ぎ役所を設けた。静岡県内では、《沼津》《由比》《丸子》《金谷》《見付》《新居》に設けられ、この役所を『紀州お七里役所』と呼び

五人一組の飛脚を配置した。これには健脚にして剣道、弁舌、に優れた仲間が選ばれ、昇り竜、下り竜の模様の伊達半天を着て《七里飛脚》の看板を持ち腰に刀、十手を差し

御三家の威光を示しながら往来した。普通便は毎月三日、江戸は五の日、和歌山は十の日と出発し道中八日を要し、特急便は四日足らずで到着した。

幕末の古文書に中村久太夫役所、中村八太夫役所とあるのは、由比駅における紀州家お七里役跡のことである。この裏手に大正末期までお七里衆の長屋がありました。

  

   

蒲原駅まであと1km。ただ、蒲原宿の中心地は、蒲原駅の次のえき「新蒲原駅」です。

明治時代の宮内大臣であった田中光顕伯爵は、間宿の岩淵に古渓荘を建てた後、蒲原に新しい別荘「青山荘」を建てて移り住みこの地で95歳の生涯を閉じました。

2万坪の敷地には、邸宅、庭園の他、菜園、ミカン畑などもありました。 

  

蒲原(かんばら)宿に入ってきました。

蒲原宿は、東海道15番目の宿場。東海道開通当初は、海岸近くにあったようですが、水害により現在地に移りました。当時の町割りや見附、問屋場などの主要な施設の場所が

分かる宿場で古い家並みが残されています。家数509軒、(本陣1、脇本陣3軒、旅籠42軒)、人口2480人でした。

  

蒲原宿西木戸です。もともと宿場は、西木戸より南側の海岸近くにあったそうですが、元禄12年(1699)の大津波によって壊滅的な被害を受け、現在地に移りました。

この西木戸の近くに青木の茶屋(茄子屋)が」あり、「茄子屋の辻」で乱闘が起こりました。承応2年(1653)、高松藩の槍の名人、大久保甚太夫らが江戸へ行く途中、薩摩藩の大名行列と出会い、

槍の穂先が相手の槍と触れたことで口論になり茄子屋で薩摩藩の大名行列と乱闘が始まり、70人近くを倒しました。然し、最後に追っ手に見つかり殺されてしまいました。

当時の竜雲寺の住職が墓地に葬り供養しました。甚太夫の槍の穂先は、現在寺宝として保存されています。

    

蔀戸(しとみど)のある家志田家」・・・蔀戸は、日光や風雨などを遮る戸のことです。上下二枚に分かれていて上半分を長押から吊り、下半分は懸金で柱に打った寄せに止め、

全部開放するときは、下のものは、取り外せます。昼は上に吊り上げて目隠しに用い、夜は、下して戸締りの役を果たしていました。

志田家は、「ヤマロク」という屋号で味噌や醤油の醸造を営む商家でした。

旧五十嵐歯科医院」は、大正時代に町屋を洋風に改築した建物です。外観は洋風、内観は、和風で擬洋風建築と呼ばれていました。歯科医の五十嵐準氏は、大正3年(1914)に開業、

名医と言われ、元宮内大臣田中光顕伯爵も患者の一人でした。

 

   

手造りガラスと総欅の家磯部家」明治42年に建築された。当家は素材の美しさから近世以降寺院建築に多く用いられた欅を材とし、柱や梁から1枚板の戸袋に至るまでが欅造りです。

二階の窓ガラスは、波打つような面が美しい手造りガラスです。

  

本陣跡・佐藤家・・・・・・江戸中期までは蒲原には、東本陣多芸家と西本陣平岡家、2軒の本陣がありました。東本陣は、宝暦年間に絶えてしまい、西本陣は江戸末期まで務め、

明治11年京都に移っていきました。建物は、大正時代のもので大名が駕籠をおいたという平石が残っています。

旅籠和泉屋・お休み処・・・・・・天保年間(1830~1844)に建てられ、安政の2度の大地震(1855)の時も倒壊を免れた旅籠です。2階櫛形の手摺や看板掛け、腕木などに当時の

面影を残しています。現在はお休み処と鈴木家の2軒に分かれています。

  

広重の蒲原宿の浮世絵は、「夜の雪」です。広重が蒲原を通ったのは、真夏の頃と言われ、この絵の題材は、新潟の蒲原のイメージとダブらせた、などの説があります。

実際、この蒲原は、温暖な地でめったに雪が降らないそうです。

昭和35年の国際文通週間の記念切手に「夜の雪」が採用されたことを記念し碑が建てられました。

 

  

15:45雨も本降りです。今日はここまでとし、新蒲原駅に向かいました。

  

 


東海道道草ウォーク№31「興津宿~由比宿」(静岡市清水区)

2018-02-12 04:38:33 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

2/1(木) 昨日と変わって静岡地方今日の天気は、曇り。昼から雨の予想。

今日は、東海道の絶景「薩埵(さった)峠」を歩く予定ですが、富士山が見えるかな?前日ゴールの興津駅へ。

8:45ウォーキング開始。資料では興津駅の裏側に「日本のプラタナスのルーツの木」があるそうで行ってみました。

ここは、柑橘研究所、正式の名前は、「農研機構」。ここのプラタナス並木は、東大の銀杏、北大のポプラと共に日本三大並木と言われています。

明治25年(1902年)日英同盟締結を記念してイギリスから送られたもので、今、日本のプラタナスは、この木がルーツです、子孫です。残念ながら、中に入ることはできませんでした。

尚、ここのかんきつ研究所は、「清見オレンジ」を開発しました。名前も興津の清見灘、清見寺から「清見」と名付けられました。

   

興津一里塚の所に「身延道道標」があります。身延道は、ここから始まり、かつては河内道、塩の道と呼ばれていました。もともとは、駿河と甲斐を結ぶ交易道として発達し、

戦国時代には、駿河侵攻の為、武田信玄が道を整備しました。江戸時代には、身延山参詣延道と呼ばれ、江戸幕府の甲府勤番が設置されています。

 

更に先へ行くと「宗像神社」があります。宗像神社??我が福岡県にもある神社です。昨年世界文化遺産に認定されました。

神社の由緒書を見てみると、筑前(福岡県)から勧請したと書いてます。そういえば、福岡の宗像大社は、沖津宮、中津宮、辺津宮の3宮を祀っています。

福岡では、「沖津宮」と書かれていますが、ここでは「興津宮」になっています。ここ興津の地名のルーツは「興津宮」からです。

 

興津川を渡ります。川沿いに歩くと「興津川川越遺跡」があります。広重は、この興津川川越を浮世絵にしています。

   

これから薩埵峠に向かいます。実は私、2015年下田ウォークの後、この薩埵峠を歩いたことがあります。ここからの富士山は、東海道の中でも絶景の一つです。

薩埵峠は、もと上道、中道、下道がありました。私達は、この上道を歩きます。崖下の波が打ち寄せる下道には、「親知らず子知らず」の伝説があります。

親孝行の息子が奉公先から帰る途中で暗くなって、由比のおばさんに「今日は泊まって明日の朝一番で帰ったほうがいいよ」と言われたのに、早く父親に会いたいからと、暗い峠越えをしたのですが、

追いはぎに襲われて、海に死骸を投げ込まれてしまいました。次の日おばさんが父親のもとに訪ねていくと、庭に孝行息子の着物が干してあります。「昨晩は息子さんと久しぶりに会ってよかったね。」

というと、父親が「まだ帰ってない」と答えます。おばさんは「だって、そこに息子さんの着物が干してあるじゃない」と言われ、すべてを悟った父親は、

息子を追って「さった峠」から身を投げたというお話です

瑞泉寺から上り坂になってきます。お墓の真ん中を通ります。このお墓、見てみると「望月氏」「伏見氏」の名前が多いです。

  

 薩埵峠を登りきりました。天気がいい日には、伊豆半島、田子の浦からの富士山などが見えるのですが、今日は、天気が悪く富士山が顔を出してくれません。

  

薩埵峠には、薄寒桜が咲いていました。メジロも今年初めて見ました。

  

 薩埵峠から

天気が良ければここから富士山が見れるのに・・・・・右の写真は、2015年1月に行った時の写真です。この時は富士山がきれいに見えました。

  

広重の東海道の浮世絵は、薩埵峠から下を見る旅人を描いています。

   

薩埵峠は、日当たりがいいのか、紅梅、水仙の花も咲いていました。

 

薩埵峠では、現在地すべり防止工事が行われています。先に進むとミカンのトンネルが・・・・・・これってかんきつ研究所が開発した「清見オレンジ」でしょうか?

  

峠を下りた所が、間宿(あいのしゅく)「西倉沢」です。宿泊でなく休憩を主としているのが間宿です。西倉沢には、当時10軒ぐらいの茶屋があり、本陣は、川島家で脇本陣の柏屋には、

明治天皇も休憩されました。逗留した静岡県令大迫貞清が気候風土がビワの栽培に適していることに気づき故郷の九州からビワの種を取り寄せ栽培を勧めました。「由比ビワ」と呼ばれています。

望嶽亭(ぼうがくてい)藤屋」は、間宿倉沢で望嶽亭を営み、約400年ほどの歴史があるといわれています。磯料理、アワビ、サザエのつぼ焼きを名物としていました。

かつては離れから富士の眺望がすばらしく望嶽亭の名が付きました。慶応4年(1868)西郷隆盛との話し合いの為、府中(静岡市)に向かっていた幕臣・山岡鉄舟は、官軍に追われ、

望嶽亭に助けを求めました。主人は鉄舟を土蔵に匿い、隠し階段から船で江尻宿まで逃がし、清水次郎長に身柄を託したといわれています。

その時の土蔵と鉄舟が残したフランス製のピストルが今でも残っているそうです。

  

鞍佐里神社」があります。日本武尊が東征の途中、賊の焼き打ちの野火に逢い、自ら鞍下に居して神明に念ず、その鞍、敵の火矢によって焼け破れ尽くした。

依って鞍去(くらさり)の名あり」と伝えられ、鞍去が後に倉沢と転訛したともいわれている。

鞍佐里神社は尊が野火にあった薩埵峠(さったとうげ)の雲風(くもかぜ)か、山中あたりに建てられていたが、後に現在地に移されたものと思われる。

神社拝殿の蟇股(かえるまた)には尊が野火を払うところが見事に彫刻されている。

  

東海道名主の館「小池邸」。小池邸は、江戸時代代々小池文右衛門を襲名して寺尾村の名主を代々務めていました。名主は年貢の取立、管理、戸籍事務、他村・領主との折衝等、

村政全般を扱い、村役人の中では、最も重要な役割を担っていました。

路上では、地元のミカン「青島みかん」が売っていましたので一つ買いました。ちょうど喉が渇いていたのでおいしくいただきました。

  

由比宿に入ってきました。由比宿は、16番目の小さな宿場で、現在、本陣、問屋場、高札場、一里塚、紀州藩七里役所などがありました。

1843年の資料によると家数160軒、本陣1、脇本陣1、旅籠32軒、人口712人でした。

「せがい造り」と「懸魚(けぎょ)」の家があります。せがい造りとは、柱の上部から腕木を出して支える棚をもつ民家のつくり。懸魚は、屋根の破風板に下がる大きな飾りが特徴のものです。

   

由比宿の脇本陣3軒は、順番に務めていました。文化3年(1806)には、徳田屋、次は羽根ノ屋(現在は更地)寛政5年(1793)に幕府に願い出しています。

天保12年(1841)では「温飩屋」になっています。

  

時刻も12時を廻っています。FBの友達(静岡市在住)から由比のおいしいお店を聞いていましたのでそちらでお昼をいただきます。

店名は、「海の庭」。せっかくですから由比名物の桜えびをいただきます。

   

「正雪紺屋」は、何代にも渡り紺屋を営む老舗で、現在も続いています。慶安4年(1651)の慶安の変(由比正雪の乱)の首謀者、由比正雪は、この家の生まれといわれています。

正雪は、幕府の政策への批判、浪人の救済を掲げて、浪人を集め、幕府転覆を計りましたが、仲間の裏切りに遭い、駿府で自刃しました。

   

由比本陣は、今川家の家臣として桶狭間で戦った由比氏が町に定住し、本陣となりました。1300坪(4300㎡)の広大な敷地は、そのまま残されていましたが、平成3年(1991)由比本陣公園として

整備されました。表門、石垣、珍しいタイプの水飲み場や東海道広重美術館、離れ座敷「御幸亭」などが建築されました。

   

本陣公園の中の広重美術館に入ります。入ると、版画体験ができたので早速挑戦します。

形は、由比の「薩埵峠」と蒲原宿の「夜の雪」。何色もの色を出すため何回も版を押します。出来上がったのが、これ(右の写真)です。なかなか難しいですね。

外では雨が本降りになったようです。

  

                                                                                                                                     つづく

 


東海道道草ウォーク№30「江尻宿~興津宿」(静岡市)

2018-02-10 04:43:06 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

1/31(水)清水魚市場でマグロをいただいて「東海道歩き」に戻りました。

前回ゴール地「清水駅」を15:00スタート。

約1,5km地点に「ほそいの松原の碑」があります。

慶長9年(1604年)二代将軍・徳川秀忠は江戸へ通ずる主要街道の大改修を行い、江戸の防備と旅人に安全な旅が出来るように、工事奉行に街道の両側に松の木を植えさせ、

慶長17年(1612年)完成したと伝えられています。元禄16年(1703年)の検地によると、松原全長199間2尺(約360メートル)、松の本数206本だったとされています。

細井の松原は太平洋戦争の時、松根油(航空機燃料)の原料として伐採され、今ある松は平成4年に植えられたものとなります。(ふじのくに文化資源より)

 

ほそいの松原の碑の横には、「無縁の碑」がありました。昭和19年(1944)松根油採取の為伐採中、多量の人骨が出てきました。東海道で倒れた旅人を埋葬したもので

町内の人は、寺に葬り、松原に記念碑を建てました。

  

辻町の信号の所から富士山が見えました。東京まであと175kmです。(まだまだ遠いです)

  

興津の町に入ってきました。このあたり明治の公爵「井上薫」の長者荘があるはずなんですが・・・・・・探しても見つかりません。

近くで工事をしている人に聞くと、現在は、静岡市埋蔵文化センターになっているそうです。

井上馨の長者荘は、昭和20年7月空襲によって焼失しました。

注)井上馨   

1836年、長州藩(現山口県)生まれ。幕末の志士で元老、侯爵。過激な攘夷(じょうい)運動家だったが、63年の英国密航で開国論者へと一変。幕府の第1次長州征伐の際、

武備恭順を主張して藩内の反対勢力に襲われ、瀕死(ひんし)の重傷を負う。薩長同盟締結にも奔走。維新後は鹿鳴館を建設し不平等条約改正に尽力、第一国立銀行設立や三井物産創業など

近代化を進め、伊藤博文内閣で初代外相、内相、蔵相を務めた。96年、横砂地区に別邸「長者荘」を建て地元産業振興や園芸試験場の誘致などにも力を注いだ。

  

井上馨公爵の銅像は、線路を渡った海側にありました。昔は、ここが海岸線だったそうです。井上馨の銅像も戦前、高さ4,85m、重さ6,75tでしたが、昭和17年(1942)供出により取り壊されました。

 

街道に戻ります。戻るとすぐ右側に「坐漁荘」があります。坐漁荘は、明治、大正、昭和の政治家「西園寺公望」公の住宅です。大正9年(1920)公望70歳の時に建てられた建物は、明治村に

移設されましたが、平成16年(2004)に復元しています。「のんびりと魚釣りでもして過ごすつもり」という意味で「坐漁荘」と命名しましたが、公望公の助言を求めて多くの政治家が訪れました。

訪れる政治家は、水口屋に宿をとり、そこでの話し合いは、「小閣議」と言われていました。

   

建設当時はこの庭から三保の松原や伊豆などが見渡せたという。

    

東海道本線の線路を渡った所に「清見寺(せいけんじ)」があります。開園時間は16:30まで。然し時間は16:30を過ぎています。

寺の方に話を聞くと寺の中には入れないが、外部の見学だったら17時までだったらOKとのこと。急いで寺の外部を見学しました。

清見寺は、白鳳年間(680年ごろ)警護、往来の監視、治安の維持の関所(清見関)が置かれ、そこにお寺が創建されたといわれています。

清見寺は、室町時代には、日本を代表する寺「全国十刹」として保護されていました。ここには、家康公も手習いに訪れ、朝鮮通信使や琉球使、各大名も訪れました。

境内には、多くの文化財や史跡が残っています。

  

  

高山樗牛假寓 (かぐう)之處」という碑があります。樗牛は清見潟の風景をこよなく愛し 明治三十三年秋当處の三清館に假寓 して清見寺の鐘声を聞いていたそうです。

皇太子殿下御海水浴跡」は、皇太子(大正天皇)明治22年(1889)2月東海道線が開通し、興津駅が開業したことで同年7月清見寺に行啓されたあと、清見灘で海水浴を楽しまれました。

当時は、ここまで海岸線だったそうです。

   

興津宿に入ってきました。

東海道17番目の興津宿は身延、甲府へ通じる身延道が分岐し交通の要衝でした。本陣は、2軒、脇本陣2軒、旅籠34軒で人口は、1668人、家数は316軒でした。

   

脇本陣水口屋は、塩や魚を甲斐へ送るため武田信玄の家臣がこの地に移り住んだといわれています。興津宿の脇本陣であり、宿を営み、明治時代西園寺公望公などの政治家や皇族、

財界人、更に海外にも紹介されたことから外国人客も宿泊し、ここからの景観を絶賛しています。残念なことに埋め立てや道路整備によりその警官が失われたことから廃業しています。

現在はギャラリーとして当時のことを紹介しています。

  

 


清水港といえば・・・・・・

2018-02-09 05:31:09 | ウォーキング

 清水港の名物といえばお茶の香りと男伊達・・・・・・・

そうです、清水の次郎長一家ですね。大政、小政、それと森の石松など28人衆。過去何回も映画になりました。

中でも森の石松の「江戸っ子だってね。寿司食いねえ」は、今でも名せりふとして伝えられています。

その石松の親分の「清水次郎長の生家」を訪ねてきました。

  

次郎長生家までは、「次郎長通り」の看板がつけられています。

    

清水次郎長 (1820~1893)

本名は山本長五郎、駿河国有渡郡清水の美濃輪町(現在は静岡県静岡市清水区美濃輪町)に船頭の息子として生まれましたが、次男であった為、子供の居なかった母方の叔父にあたる

米穀商の甲田屋の主・山本次郎八の養子となりました。

少年時代より次郎八の家の長五郎ということから周りには次郎長のあだ名で呼ばれており、侠客の時代に清水次郎長として名をあげ、現代までその名が通っています。

明治維新後はお茶の輸出に目を付け、清水港を貿易港とすべく整備し横浜港との航路を築いたり、富士山南麗の開墾を行ったり、当時は珍しかった英語塾を開いたりと清水だけに収まらない

多くの功績を残しています。晩年は船宿『末廣』を開業し、港町の好々爺として地元の人々や子供たちに慕われていたとのことです

生家の中に入ると「次郎長28人衆」の名札が掲げられています。

    

  

次郎長というと渡世人というイメージですが、彼が48歳の時明治維新となりました。維新と同時に東征軍判事、伏谷如水から街道警備を命じられ、山岡鉄舟などとも交流し

新しい時代の清水について考え、清水港を国際港にするため奔走、渡世人を辞めて地域を支える大旦那として、富士の開拓、英語塾の開講、医院の開設、東海道敷設の協力、

文化的な施設や事業の企画実施を行いました。74歳で亡くなった時は、3千人を超える参列者がその死を悼みました。

  

次郎長生家から港橋に戻ります。ここからエスパルスドリームプラザの観覧車と富士山のコラボが楽しめます。

   

次郎長船宿「末廣」

この船宿は、次郎長の晩年、明治19年(1886)に清水波止場に開業しました。

  

中に入ると、吊るし雛でいっぱいです。雛の中には、次郎長のものもあります。


館内では、案内人の方から熱心に説明していただきました。

    

次郎長は、若いころ遊びすぎたこともあり、子供ができなくなりました。晩年は、大政を養子にしましたが、大政は次郎長よりも先に亡くなりました。

    

清水駅に戻りました。お昼はまだでしたので、FBの友達Nさんの情報で清水魚市場に行ってきました。

あいにく、水曜日は店休日で、お目当てのお店は休みです。近くの開いている店に入りました。

  

今日から東海道歩き再開のため、ちょっと奮発してマグロ丼を注文しました。

  

これにマグロ、黒はんぺんのから揚げがついていました。やはり本場のマグロです。おいしくいただきました。

このあと、東海道歩きに戻ります。