よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

日光街道№10間々田宿~小山宿(栃木県小山市)

2019-06-07 19:42:36 | 奥州街道(日光街道)

№9からの続きです。間々田の町を歩くと「間々田のじゃがまいた」の文字が目に入ってきます。

              

  

じゃがまいた」というのは、「田植えの時期を前に五穀豊穣と疫病退散を願い行われる。祭りの日には、「蛇がまいた、蛇がまいた、4月8日の蛇がまいた」という、子どもたちの掛け声が町内に響き、竹、ワラ、藤ツル、

シダなどで作った15mもある竜頭蛇体が町内を練り歩く。国選択無形民俗文化財に指定されている。かつては旧暦の4月8日に祭りを行っていたが、祭りの担い手が子どもである為、学校が休みの

5月5日(こどもの日)に行われるようになった」。

祭りの舞台となる「間々田八幡宮」へ。

 

 

境内には、芭蕉の句碑古池や蛙飛込む水の音」が建っています。松尾芭蕉は、奥の細道の旅の二日目に間々田宿に宿泊しました。もちろんこの句はこの場所で読まれたものではありませんが、その見事な筆致により、多くの方が拓本を取りに来られます。 句碑裏には、『地元の名士であった田口久七は、北越遊歴中に病に倒れた際に、当八幡宮を心に浮かべて一心に祈ったところ、病たちまち癒え、無事故郷に帰ることができた。このことを後世に伝えるため、この句碑を奉納した』と書かれています。嘉永6年(1853年)奉納。

力石 :重さ二十八貫(約110Kg)の力石。大正2年に神社から持ち去られた石を、3人の力自慢が友沼宿から一度も地上に下ろさずに持ち帰ったと伝えられています。 このほか、弁天島の松の根元には三十八貫の力石があります

  

じゃがまいた祭りの写真は下記です。朱印もいただきました。

  

再び街道に戻ります。千駄塚古墳は、思川の東側の台地に築かれた古墳です。径70m高さ10mの円墳で2段に築かれ、墳丘のまわりには幅20mの堀がめぐらされています。円墳としては、県内でも指折りの大きさです。古墳の上に浅間神社がまつられていることから、別名浅間山古墳ともよばれています。

西堀酒蔵は明治5年(1872)創業。酒造は国登録有形文化財です。純米酒の「愛 米 魅(あいまいみー)」はいいネーミングですね。

  

安房(あわ)神社:遠い昔千葉県館山市の安房神社を祀る人々の一部が良き土地を求めてここに永住し、神を祀り、粟の栽培をしたと言われています。主祭神は、天太玉命・莵道稚郎子です。

天慶2年(939)藤原秀郷が平将門討伐に際し、戦勝を祈願して守護神とした。小山氏や古河公方の信仰が篤かった。境内の「モミの群落」は市天然記念物です。

 

 

 

天満宮辺りが、小山宿江戸口(南口)でした。

空が暗くなってきた。今日のゴール小山駅まではもうすぐですので少し先を急ぎます。

「小山評定」で有名な「須賀神社」に行ってみます。

小山評定:、徳川家康は、慶長5年(1600)7月24日、上杉景勝を討伐するために会津(福島県)に向かっていた途上、下野国小山に本陣を置きました。その時、石田三成挙兵の報が入り、翌25日、

急遽家康は本陣に諸将を招集して軍議を開き、「このまま上杉を討つべきか、反転西上して石田を討つべきか」を質したのです。これが世に言う「小山評定」です。家康に従う諸将のほとんどは豊臣家譜代の武将で、

大坂に妻子を残してきており、その去就が家康にとっては興亡の境目だったのです。 このとき、尾張国清洲(愛知県)城主の福島正則が家康のために命を投げ出すことを誓い、続いて遠江国掛川(静岡県)城主の

山内一豊が、「家康に城を明け渡してまでもお味方します」と進言しました。一豊らの建議が諸将の気持を動かし、家康支持で固まったのです。家康は特にこの時の一豊の建議を、「古来より最大の功名なり」と

激賞しました。 こうして家康率いる東軍は、石田三成討伐のため西上することに決したのです。   そして9月15日、美濃国(岐阜県)関ヶ原に東西両軍約20万の大軍が相まみえて天下分け目の一大決戦が行われ、

東軍が勝利したのでした。関ヶ原の戦の直接の勝因は西軍小早川秀秋らの土壇場での寝返りでしたが、西軍が当初から足並みが揃わなかったのに対し、東軍は結束しておりました。

東軍にこの結束をもたらしたのが「小山評定」でした。 もし、「小山評定」が無かったならば、東軍は結束することができたでしょうか。このようにして見ると家康が勝利を収めることができたのは関ヶ原の戦であっても、

その栄光の道筋は、小山から始まったといっても過言ではないでしょう。 「天下分け目の関ヶ原の戦」と良く言われておりますが、実は、「天下分け目の小山評定」だったのです

   

  

長い参道を戻ってきて再び街道を歩きます。

小山宿】小山は壬生通り、結城道、佐野道が集中する要衝で賑わいました。天保14年(1843)の日光道中宿村大概帳によると、小山宿の宿内家数は、423軒、うち本陣1、脇本陣2、旅籠74軒で

宿内人口は、1392人(男636人、女756人)でした。

 

 

14:52今日のゴール小山駅に着きました。何とか雨には遭わずにすみました。

 

5/1のGPS。日光街道も半分を歩きました。次回は11月ごろ予定します。

  

 


日光街道№9古河宿~野木宿~間々田宿(茨城県古河市~栃木県小山市)

2019-06-06 19:20:25 | 奥州街道(日光街道)

令和元年5月1日(水)今日から新しい元号「令和」です。8:15古河のホテルを出発し令和初めてのウォーキング開始です。

古河の街道には、古河市出身の大老「土井利勝」や街道上に松並木を植えた江戸初期の古河藩主「永井直勝」の業績を掲げた案内板が建っています。

金刀比羅宮は、文化11年(1814)建立。平成18年(2006)未明類焼、平成19年(2007)再建しました。幸福神として信仰されています。

   

道標:文久元年(1861)太田屋源六が願主となり、常夜灯型式の道標を八百屋儀左衛門他11名によって建てられました。古河市の指定文化財です。

  

よこまち柳通りに入ります。左側には、「古河提灯竿もみ祭り発祥の地碑」があります。

かつて古河領だった野木神社の神官が神領をまわる「七郷めぐり」を終えて帰ってくるのを、提灯を持って出迎えた人たちが寒さをしのぐために身体を揉み合ったのが始まりと言われ、現在も「おかえり」と呼ばれて人々に親しまれています。古河駅前の特設会場には丸太を組んだ矢来と呼ばれる囲いが作られ、その中で長さ20m近い竹竿の先につけた提灯を20人ほどの若者が支えて、激しくもみ合いながら相手の提灯を消し合います。提灯がぶつかって火の粉が飛び散り、勇壮で迫力のある光景が広がります。毎年12月最初の土曜日に行われるそうです。

   

古河宿北口(日光口)には、燈籠が建っています。この一帯「松並」という地名ですが、昔の中田の松原がこのあたりまであったのでしょうか?

  

塩滑地蔵菩薩:地蔵尊に自分の患部と同じところに塩を塗ると霊験あらたかという。

国境:このあたりが、下野(しもつけ)国(栃木)と下総(しもふさ)(茨城)の国境ですが、案内板もありませんでした。昔は、西側に大榎があったそうです。

余談になりますが、九州育ちの私にとって下野国や下総国の位置関係がどうもちんぷんかんぷんです。調べてみると、

総の国」は、現在の千葉県を主たる地域とし、茨城県・東京都の一部にわたる律令(りつりょう)制以前の旧国名。『古語拾遺(こごしゅうい)』によると、天富命(あまとみのみこと)が阿波(あわ)(徳島県)地方の斎部(いんべ)をこの地に派遣し麻(あさ)・穀木(かじのき)(クワ科の高木)を植えさせたところよく育ったので総国(ふさのくに)と名づけたという。総とは麻の意味と伝える。7世紀後半から末にかけて上総(かみつふさ)・下総(しもつふさ)の二国に分割された。さらに、718年(養老2)に上総(かずさ)国の平群(へぐり)、安房(あわ)、朝夷(あさひな)、長狭(ながさ)の四郡を割いて安房(あわ)国を分置した。房総地方に相当する地域である。

毛の国」上野,下野両国の古称。「けの」とも読む。古代の氏族,上毛野君,下毛野君の根拠地。現在の群馬,栃木両県にあたる。毛野国は最初,上毛野と下毛野の両国に分れ,次いで和銅6 (713) 年,上野 (こうずけ) ,下野 (しもつけ) の2字の国名に改めた。毛とは、作物や木を意味するものだそうです。

 

街道は、下野国へ。4号線と交差する手前に「野木神社」の鳥居があります。ここは、3年前「古河まほろばの里花桃ウォーク」で行ったことがあります。確か、「二輪草」の群生地があったとか・・・・・

  

二輪草は、もう盛りは過ぎていましたが、まだ何輪かお花が残っていました。

境内を覗くと大きな木の周りに望遠レンズを備えたカメラマンの方が10人ぐらいでしょうか、おられます。聞いてみると、木の上に「フクロウ」がいるそうです。私もコンデジではありますが、撮ってみました。

時には、子育てをしているフクロウを見ることができるそうです。

  

 

野木神社には芭蕉の句碑がありました。「一疋の はね馬もなし 河千鳥

   

国道4号線沿いに歩きます。野木宿木戸跡という看板があります。ここが野木宿の江戸口でした。昔は、土塁と矢来柵がありました。

野木宿:野木宿の西を流れる思川には、野渡河岸、友沼河岸があり。江戸との舟運が盛んでした。天保14年(1843)の日光道中宿村大概帳には、野木宿の宿内家数は、126軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠25軒で

宿内人口は527人(男271人、女256人)でした。本陣は熊倉七郎右衛門が勤め問屋も兼ねていました。建坪は157坪。

本陣の向かいには、脇本陣があります。熊倉兵左衛門が勤め、建坪は132坪でした。今でも熊倉氏が住んでいます。

   

大平山道標は、「思川の渡し」を越え、日光例幣使道の栃木宿太平山神社に至る。「日光山近裏道」と呼ばれていました。

  

二十三夜は、旧暦23日の月待(つきまち)行事の一つで、全国に広く行われている。毎月行っている所もあるが、いちばん多いのは1、5、9月の3回に行っている例である。11月23日は大師(だいし)講の日なので、

この日も広く行われている。土地によっては二十三夜は男だけで、女は二十二夜にしている所もある。二十三夜の月は出が遅いので、当番の家に集まって簡単な酒肴(しゅこう)を前によもやま話をして待つ。

二十三夜講をつくっている所では二十三夜塔という記念碑を立てている例もある。二十三夜の月のさまを見てその年の作物の豊凶を占っている土地もある。

 

野木宿には、旧家の長屋門が残っていました。建物自体は新しいのですが、何となく昔を感じられました。

  

法音寺には、芭蕉の句碑があります。「道ばたの むくげは馬に 喰れけり

 

 

  

栃木県小山市に入りました。

  

栃木県は梨の生産が全国第3位。梨の花も咲いていました。

  

小山市立車屋美術館:小山市の中央を流れる思川は舟運が盛んで、特に江戸時代から明治時代にかけて、江戸へ直結する重要な物資輸送路でした。小山市乙女に所在する小川家は、江戸時代から明治時代に

かけて乙女河岸で肥料問屋を営んでいた豪商であり、鉄道の発達にともない、明治末年現在の地に移転しました。現存する建造物のうち主屋・土蔵・表門・米蔵・肥料蔵の5棟は、乙女河岸の繁栄を伝える貴重な

遺産であると同時に近代和風住宅としての価値も高く、平成19年8月に国の登録有形文化財として登録されました。小山市ではこの貴重な建造物の活用を図るため整備をすすめ、多くの方々のご協力とご支援

により平成21年4月、小山市立車屋美術館として開館いたしました。 (小山市HPより)

 

左側の小高い所に大きな榎が建っています。ここは、江戸と日光の中間点(共に18里)にあたるところから「間の榎」と呼ばれ、いつしか「逢の榎」となり、縁結びの木として信仰を集めるようになりました。

お酒の銘柄も「逢の榎」、お菓子は「十八里最中」があります。

  

間々田宿は、元和元年(1618)宿駅となり思川の乙女河岸を控え、物資の集積地として賑わいました。天保14年日光道中宿村大概帳によると間々田宿の宿内家数は、175軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠55軒で

人口は、947人(男440人、女507人)でした。本陣は、青木家が勤め建坪157坪で明治天皇の休息地となりました。

  

 

                                                                                                                              つづく


日光街道№8中田宿~古河宿(茨城県古河市)

2019-06-04 05:52:13 | 奥州街道(日光街道)

№7からの続き

JRの踏切を渡ります。踏切の先には、「中田の松原」があります。「日光街道踏切」辺りから原町入口の間には、寛永7年(1630)古河藩主永井信濃守尚政が植栽した松並木がありました。

「東海道にもこれほどきれいな松並木はない」と言われましたが、戦時中の燃料不足を補うため、全て伐採されてしまいました。近年になって松の再生が行われ、まだ松の木は若いですが、何十年経ったら

昔の松並木に戻るのではないでしょうか?

  

日光街道を歩いて感じるのは、「香取神社」が多く感じられます。九州にはないのではないかな?香取神宮は、千葉県香取市にある元官幣大社。祭神は経津主神(ふつぬしのかみ)。

古来鹿島神宮と共に軍神として尊崇されました。

十九夜塔:旧暦19日に行う月待ちの記念として建てられた塔。十九夜溝は、女性が多かったそうで安産祈願、子供の無事成長祈願を行っていました。

原町の一里塚:明治時代に取り壊されたが、古河第二高校の校庭に復元されていました。ネット越しに撮ってみました。

  

古河宿に入りました。

古河宿は、江戸時代全期を通じて、古河藩が管理していた古河三宿(中田・古河・野木)の一つである。天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、本陣・脇本陣は1軒ずつ設けられ、旅籠が31軒

あった。宿内の家数は1,105軒、人口は3,865人であった。将軍家による日光社参では、古河城は岩槻城・宇都宮城と並び、将軍の宿城とされており、日光街道における主要な宿場の一つであった。

日光社参のときには、従者の数が膨大になるため、通常の宿泊施設だけでは足りずに、城下の武家屋敷や町屋も割り当てられた。宿場は日光街道沿いの台町・一丁目・二丁目・横町

(現在の本町・中央町・横山町の一部)にあったが、渡良瀬川等による河川交通も発達していたことから、古河の町は日光街道から河岸へ向けて折れ曲がった石町・江戸町等にも広がり、T字型に形成されていた。

大名が宿泊する本陣は時期により異なるが、最もよく知られているのは二丁目にあったもので、現在、跡地には「本陣跡碑」がある。脇本陣も二丁目にあった。

本陣は吉沢家が務め、建坪は140坪ありました。

  

  

古河の町は、2016年(平成28年)4月、「古河まくらがの里花桃ツーデーウォーク」で一度歩いていますが、それも渡良瀬川の方で中心部も歩いたのですがあまり記憶にありません。

夕ご飯の時に「丸餃子」をいただきましたが、これってたこ焼きみたいな餃子ですが、本当においしかったです。今でも古河というとこの丸餃子が浮かんできます。

 

   

 

  

16:15今日のゴールJR古河駅に到着。

今日のGPS

   

 


日光街道№7栗橋宿~中田宿(埼玉県久喜市~茨城県古河市)

2019-06-03 16:54:54 | 奥州街道(日光街道)

4/30(火)平成最後の日。草加のホテルを早めにチェックアウトし、今日からの宿泊する茨城県古河市のホテルに荷物を預け、街道歩きのスタートです。

今日は、朝から小雨。ポンチョを着て傘を差してのウォーキングです。

  

 

川通神社:鳥居には、「香取宮八幡宮」と刻まれています。境内には、文化11年(1814)建立の常夜灯があります。

会津見送り稲荷:会津の武士が藩の重要文書を無くして、切腹しようとしたが、狐の化身である白髪老人に助けられました。その狐を祀ったのがこの会津見送り稲荷です。

  

炮烙(ほうろく)地蔵:昔、利根川に関所が設けられ、人の通行を厳しく取り締まっていた時代、関所を通らないで渡った者、或いは渡ろうと企て事前に発見されたものは、関所破りの重罪人として火あぶりの刑に

処せられた刑場跡。地蔵尊は刑死者供養の為象造立されました。

 

栗橋宿に入ってきました。栗橋宿は利根川の舟運で栄え、近郊から集積された廻米の積み出しが行われました。この地は関東平野北辺に位置し、関所が置かれ厳重に警護されました。

利根川対岸の中田宿とは、合宿で問屋業務は半年交代で務めました。天保14年(1843)の日光道中大概帳では、宿村家数は404軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠25軒で宿内人口は、1741人、

(男869人、女872)でした。

  

顕正寺:浄土真宗大谷派の寺院。境内に入ると「池田鴨之助の墓」という案内板があるのでそちらに向かいました。

池田鴨之介(鴨之助)は、『新編武蔵風土記稿』によれば、並木五郎平と共に、幕府に願い出て、慶長年間(1596~1615)に、下総国の栗橋村(現茨城県猿島郡五霞町元栗橋)より村民を引連れ、

後の栗橋宿となる上河辺新田を開墾しました。鴨之介は慶安元年(1648)12月9日に没し、法名を「光明院釈常薫」といいます。

池田家は、江戸時代初代鴨之介の子、與四右衛門よりその名を世襲し、代々栗橋宿の本陣役を務めました


   

旧街道からは少し離れていますが、JR栗橋駅東口に「静御前之墓」とガイドブックに書いていたのでそちらに向かいます。

静御前の墓は、いろいろ諸説があるようですが、ここ栗橋では、「 静御前は源義経の内妻で、義経を追って平泉に行く途中、文治5年(1189)5月、茨城県古河市下辺見で義経の死を知り、

当時栗橋町にあった高柳寺(現光了寺)で出家したものの慣れぬ旅の疲れから同年9月15日(1189年)久喜市伊坂(旧村名、静村)にて悲恋の死を遂げました。 22歳だったそうです。 

その時、侍女琴柱は遺骸を高柳寺(現・中田光了寺)に葬り、1本の杉の木を植えそのしるしとしました。弘化3年5月(1846年)利根川氾濫により枯れてしまいこの時、杉の代わりに銀杏を植えたそうです。

平成13年4月 改修  「静女の墳」は、静御前の墓にしるしがないため、中川飛騨守忠英が、享和3年5月(1803年)に建てたものと考えられています。  

また、静御前墓所内には『静女塚碑』をはじめ静御前にまつわる石碑などがあります。」(久喜市HPより)

 

墓内には、坐泉の「舞ふ蝶の果てや 夢見る塚のかげ」という歌碑が建てられています。静御前は、都の白拍子でした。白拍子というのは、男装して今様を謡いながら舞う女芸者の事です。

  

再び街道に戻ります。街道内には、古民家も残っています。

  

栗橋の関所跡です。江戸幕府は、交通の統制と治安維持のため、主要な街道が国境の山地や大河川を越す要地に関所を設け、特に「入り鉄砲に出女」を取り締まりました。

 栗橋関所は、日光道中が利根川を越す房川渡に設置されたことから、対岸の中田と併せて「房川渡中田関所」と呼ばれました。

関所の位置は、堤防の河川側で利根川の河畔にあり、寛永元年(1624)に番士4人が置かれました。以後、番士は明治2年(1869)の関所廃止まで約250年間続きました。

 「栗橋関所址」碑は、大正13年(1924)に旧番士3家・本陣・宿名主の発起で、町内と近在の有志により、徳川家達の書で、旧堤上に建碑されたものです。 

ガイドブックには、関所跡あたりに「本陣」があると記載されていますが、探しても見つかりません。確か、このあたりではないのかな?

 

関所の先には、「八坂神社」があります。案内板を見ると、この神社の神様は、慶長年間に利根川の洪水のとき渺々たる 水波の中を鯉と亀が運んで来たものと伝えられます。

 この由緒ある神社に御参詣して招福・除災の霊験あらたかな 鯉を撫で身体をさすって下さい。 健康(無病息災)家内安全・商売繫盛・縁結び・学業成就などの 幸福を招く鯉です。

明日から「令和」、新年号を記念して花火大会が行われるそうです。

  

境内には、狛犬ならぬ「鯉」。利根川の洪水の際に鯉が「御神体」を運んできたことに由来します。

  

八坂神社から利根川を渡ろうとしますが、栗橋北堤防強化工事の為、迂回します。

途中、関所番士屋敷跡(足立家)があります。現在発掘作業で更地になっていますが、説明文を読んでみると(薄くなって読みにくいですが)、

関所番士屋敷は、寛永元年(1624)に栗橋関所番士の住まいとして、江戸幕府が設けたものである。  関所番士の定員は4人で、これを2組に分け、毎日明け六つ(午前六時)から暮れ六つ(午後六時)まで、

二人一組五日間交代で勤務していた。 維新期最終の番士は、加藤、足立、島田、富田の四家であった。手当は二十俵二人扶持は、一日五合の割合で、二人扶持は約十俵に当たる。

扶持は、幸手宿本陣中村家から送米されていた。        ここ足立家は、現存する貴重な関所番士宅で、寛政12年(1800)足立十右衛門が五人目の役人として金町松戸御関所から転勤し、

移り住んだのが始まりという。  加藤家、島田家も現存しているが、富田家は、明治二年の関所廃止とともに東京へ移転している。 各屋敷地とも高く盛土し、いずれも約千四百平方メートルである。      

 なお、番士の墓は、常薫寺、深広寺にある。                        昭和六十三年三月    埼玉県     栗橋町

  

いよいよ利根川を渡ります。利根川は、大水上山に源を発し、流末は鹿島灘に注ぐ、坂東太郎と呼ばれる暴れ川でした。武蔵国(埼玉県)と下総国(茨城県)の国境(県境)です。

  

利根川を渡ると、「房川渡と中田関所跡」の看板が建っています。これは、文字が薄くなっており、読めませんので先達の方の記録を引用します。

江戸幕府は、江戸を防衛する軍事上の理由から、大河川には橋をかけることを許さず、また、交通上の要地には関所を設けていた。当地は日光街道の重要地点で、街道中唯一の関所と渡船場の両方があった

所である。  利根川のうち、当地と対岸の栗橋の間の流れの部分を『房川』(理由は諸説あって不明)とよび、渡船場を房川渡、関所を房川渡中田御関所といった。

やがて、関所は対岸の栗橋側の水辺に移されたので、普通には、『栗橋の関所』の名で知られていた。  四人の番士が交代で、関所手形を改め、旅人や荷物を厳しく監視した関所は、

明治2年(1869)の廃止令でなくされたが、二艘の渡し船と五艘の茶船を操る船頭たちによって、およそ40間(約70m)の流れを渡した渡船場の方は、大正13年(1924)の利根川橋の完成前後まで続けられた。

                                                                                               平成元年3月 古河市教育委員会

中田宿は、「房川の渡し」を控え、元和10年(1624)に創設された宿で「鮒の甘露煮」が名物であった。栗橋宿とは合宿で問屋業務は半年交代で務めた。天保14年(1843)日光道中宿村大概帳によると

中田宿の宿内家数は69軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠6軒で宿内人口は、403人(男169人、女234人)でした。

中田宿は、利根川の河川敷に設けられていたが、明治末からの利根川改修によって宿並は利根川下の河原になってしまった。ほとんどは、農家との兼業であった。

   

街道を歩いていると、左側に「鶴峯八幡宮(つるがみねはちまんぐう)」があります。

社伝によれば、平安時代末期の治承4年1180年)、源頼朝の命による下河辺挙兵により当地に集結させ、川沿いの小高い山に鎮座する御稲荷に必勝祈願し、富士川合戦に勝利した。

頼朝は武運が拓かれたと神徳を感じ、翌年の養和元年(1181年)8月に鎌倉鶴岡八幡宮勧請したことに始まる。又、丸山稲荷も勧請し、鶴ヶ峰八幡宮と名付けられた。

天福2年(1234年)、下総国の一宮・香取神宮が勧請され、元禄元年には合殿となる。中世では、元弘年中に新田義貞の参籠し不明なる要人と武運を祈願。中世末期では、鎌倉公方が古河公方に移る際に、

元栗橋にあった栗橋城(旧古河城)に足利成氏が入り、鎮守であった鶴ヶ峰宮に参拝祈願していた。

その後近世まで、古河城歴代城主に崇敬され燈籠や鎧等様々な奉納を賜ったようである。

江戸時代になり徳川家康の命により河川事業が始まり利根川が開河すると、神楽(永代太々神楽)が伝わり、当宮を元に近郷の鷲宮神社から大寶八幡宮、須賀神社などの神主達により奉納されたと伝わる。  

その後池田鴨之介らによる日光街道の栗橋中田宿が成立しその鎮守となる。房川渡しと格の良質な遊郭が特徴のその宿では、江戸や結城、小山等から遊びに来る要人もあったと伝わる。

又、徳川将軍の日光社参の折には、祀られている道中安全の5柱の神に足踏み祈願し、旅の安全と無事を祈願し、日光へ旅立った とされる。

社務所前には、朱印を求める人が多く、私も平成最後の御朱印をいただきました。

  

鶴峯八幡宮の横が「光了寺」です。静御前が帰依し、ここで亡くなり葬むられたという栗橋の「高柳寺(光了寺)」がこの地に移転しました。静御前が後醍醐天皇から賜ったという「蛙螟龍(あまりりゅう)の舞衣」が

保存されています。境内には、芭蕉の句碑「いかめしき 音や霰の 檜木笠」があります。意味は「旅の檜笠に霰が落ちて跳び返る。その音の硬いこと」

円光寺には、見事な庭園があります。

 

  

                                                                                                               (つづく)