よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

福岡城址の桜を訪ねて(2018.3.28)

2018-03-29 07:00:23 | ウォーキング

3/28(水)は、ふくおかウォーキング協会の例会で博多駅~福岡城址の舞鶴公園まで歩きました。

福岡地方は、27日に桜の満開宣言が出され、歩きながら満開の桜を楽しもうと思っています。

実は、先週の土曜日にもJR九州ウォーキングでこのコースを歩いており、その時は、桜は3分咲でした。

集合場所は、博多駅筑紫口。現在、福岡市では、一人一花運動が行われており、博多駅には、満開のチューリップがありました。

  

9:30 ウォーキング開始。博多駅から冷泉公園に向かいます。冷泉公園の桜も満開です。

 

  

冷泉公園から中州を通り、那珂川へ。ここの桜も満開です。

  

天神中央公園の花見は、今年から有料になり、一区画2時間で500円です。まだ午前中ですので花見されている方はいませんが、夜になると賑わいます。

 

福岡城址(舞鶴公園)に来ました。

  

公園内は、平日にも関わらず、大勢の花見客が訪れていました。

  

 

結婚式の前撮りでしょうか、お嫁さんも桜もきれいです。

  

  

 

 

満開の桜の下、皆で記念写真。

  

  

平和台球場跡です。ここでも露店が立ち並んでいました。

  

12時前、例会は、ここで解散です。

   

 

満開の桜を見ながらのウォーキングは、ホント気持ちよかったです。

今週末は、お花見で人が多いでしょうね。

 


肥前さが幕末維新博覧会(佐賀市)

2018-03-26 07:25:56 | JR九州ウオーキング

今年は、明治維新から150年の節目の年です。そのためか、NHKは、大河ドラマで「西郷どん」を放映しています。

ここ佐賀も、目立ちませんが、明治新政府樹立に大きく貢献した藩です。3/17からは、「肥前さが幕末維新博覧会」が始まりました。

3/21(祭)、JR九州ウォーキングで、この肥前さが幕末維新博覧会を訪ねるウォーキングがありました。今回は、鹿児島から私の友人も参加しましたので一緒に歩きました。

この日は、朝から雨や風が強く雨具を着てのウォーキングです。

   

佐賀駅をスタートすると、歩道上に佐賀の偉人モニュメントが建っています。

森永製菓創業者「森永太一郎氏」、江崎グリコ創業者「江崎利一氏」。

時の人「〇〇夫人」は、森永太一郎氏の外曽孫娘です。

  

佐嘉神社は、10代藩主鍋島直正と11代藩主鍋島直大を祀っています。直正は藩政改革を行い、大隈重信・江藤新平らの人材を育成した。直大は戊辰戦争で官軍として戦い、

明治2年には版籍奉還を申し出ました。。

神社内には、日本で最初に造られた鉄製カノン砲が復元されています。幕末には、江戸品川沖お台場にこの佐賀藩のカノン砲50基が設置されました。

  

  

幕末維新記念館に入りました。ここでは、幕末維新期、国内最先端の科学技術を持ち、世界を見ていた佐賀藩の人々の思いを未来につなぐメーンパビリオン。

40人ずつ1グループで順に館内を巡り、幕末維新期の佐賀のストーリーを映像などで体感するコーナーです。

 

  

 

  

早稲田大学創立者「大隈重信」の生家です。

大隈重信は、明治から大正にかけて二度首相に就任したほか、外務卿、大蔵大臣、農商務大臣、内務大臣など政府の重要閣僚として日本のかじ取りを担いました。

日本の通貨単位に「円」を採用した明治4年(1871)の新通貨条例制定でも中心的役割を担いました。明治31年(1898)、板垣退助らと日本初の政党内閣を組織し、薩長出身者以外から

初めて首相になりました。

   

  

このあと佐賀駅の方に戻ります。

ここにも佐賀の偉人のモニュメントがありました。

  

辰野金吾は、東京駅、日本銀行などを設計した建築家です。

  

  

鍋島直正、江藤新平、副島種臣、島義勇、佐野常民、大木喬任、大隈重信は、佐賀七賢人です。

車で帰っていると、川上峡では、もう鯉のぼりが泳いでいました。

  


椿まつりウォーキング(久留米市草野町)

2018-03-20 10:44:41 | JR九州ウオーキング

3/17(土)は、JR九州ウォーキングで椿の花が咲き誇る筑後草野駅に行ってきました。

自宅から青春18きっぷを使い、鹿児島本線「博多~久留米」、久大線「久留米~筑後草野」と乗継、8時57分に筑後草野駅に到着。

  

久留米市東部に位置する耳納連山の北麓地域は、古くから文化が栄え、伝統的な街並みや古墳、神社、仏閣等の建物が数多く存在するとともに、植木・苗木の特産地として栄えてきました。

特にツバキ、ツツジは古くから栽培され、貴重な古木や名木などが地域に点在しています。

   

久留米つばき園

全国でも有数の多品種(500種類)2000本の椿が植栽された「国際優秀椿園」。

  

   

  

草野町には、椿の他にも春の花が咲いています。

  

  

  

 

ツバキの語源は「厚葉木(あつばき)」や「艶葉木(つやばき)」といわれ ます。何れもその厚くて光沢の有る特徴的な葉に由来するものです。英語では、「Camellia(カメリア)」。

また、普通、「花は散る」と言いますが、椿は、「落ちる」と言います。牡丹は、「崩れる」です。

椿は、花が終わると首から落ちたので昔の武士たちは、嫌ったそうです。椿と同じ仲間の「山茶花」は、花弁が散りますので、椿と山茶花の見分け方はこれを参考にしたらいいと思います。

  

  

「世界のツバキ館」では、いろんな品種のツバキが展示されています。

  

  

  

このあと、ツバキの小路、山辺道文化館、草野歴史資料館、を通り筑後草野駅にゴールしました。

ツバキというと、山ツバキ、侘助ぐらいしか知りませんでしたが、世界には、こんなたくさんのツバキがあるのですね。

また、草野町を歩いてたくさんの春の花に出会えました。


菜の花のじゅうたん(福岡県古賀市筵内)

2018-03-16 04:30:46 | ウォーキング

3/14(水)は、ふくおかウォーーキング協会の例会で古賀市筵内の菜の花畑を見に行きました。

集合場所は、JR古賀駅。9:30ウォーキング開始。

古賀市役所前の「古賀神社」は、もとは天明の大飢饉後の1789年、飢饉が起きないようにと願って旧皇石神社に設置されたものです。その後清瀧寺を経て古賀神社に移設されると、

葵の葉の形がハートに見立てられ、新たな縁結びスポットとして注目されるようになりました。

  

須賀神社、谿雲寺(けいうんじ)を通り、医王寺へ。

医王寺は、奈良時代の高僧・行基大菩薩によって開基されたという伝承が伝えられています。

医王寺は戦国時代立花氏を支えた有力寺院で、九州随一の名将として名高い立花道雪・宗茂親子の帰依を受けました。

   

医王寺から菜の花畑が見えます。

  

筵内の菜の花畑は、7万㎡の中に600万本の葉の花が咲いています。

  

牛さんもいます。

  

葉の花畑には、子供たちが遊びに来ていました。

  

天気も良く青い空に黄色の菜の花のじゅうたん、本当にきれいでした。

今週末は、「菜の花祭り」がおこなわれるそうで、その日には、JR九州ウォーキングのコースに入っています。

  

 

 

 

 


第8回(2018年)唐津・虹の松原ツーデーウォーク2日目20km(佐賀県唐津市)

2018-03-15 11:01:55 | オールジャパンウオーキングカップ

3/11(日)唐津・虹の松原ツーデーウォーク2日目20km。今日3月11日は、7年前の東北大震災が起きた日です。出発式の前に参加者全員で黙とうしました。

8:00 30kmと一緒にフライングスタート。2日目は、虹の松原を通り鏡山に向かいます。

  

鏡山入口の所が20k、30kの分岐点。20kは、鏡山の方に行きます。ここで誘導員の方から下の道を行くようにと言われ、そちらに行ったのが大間違い。コースを外れてしまいました。

まだ気づいていません。

鏡山というと、佐用姫伝説の地です。佐用姫伝説は、羽衣伝説、浦島太郎伝説と並び日本三大伝説です。ここには、赤水観音がありました。

赤水観音は、松浦作用姫の伝承地である鏡山への登り口にある小堂である。新羅を討つためにこの地に赴いた大伴狭手彦は、この地の豪族の娘・松浦作用姫と恋仲になる。

しかし出発の時を迎え、作用姫は鏡山の山頂から領巾(ひれ:女性が肩に掛けて垂らしていた布)を振って別れを惜しんでいたが、さらに山を駆け下り、加部島まで船を追い、

その地で七日七晩泣き続けて遂に石と化してしまったのである。 一方、新羅を討つことに成功した狭手彦は、再びこの地に戻ってくると、鏡山の麓に船を繋いで作用姫の消息を尋ねる。

しかし出発してすぐにこの世の人でなくなったことを知ると、その菩提を弔うべく、船を繋いだすぐそばに寺を造り、そこに新羅から持ち帰った金銅仏を安置したのである。

これが赤水観音の始まりである。現在、金銅仏は近隣の恵日寺に移されたが、赤水観音のそばには今でも大伴狭手彦が船を繋いだとされる船繋石がある。

小堂自体はかなり寂れているが、堂内には作用姫と狭手彦の位牌が安置されている。   

   

  

昨年までは、このあたりから「ポンポコ村」に行って、チェックポイントをもらうはずなんですが、矢旗も何にもありません。仕方なくまっすぐ歩き出すと後ろから来た人にコースが間違っていると

教えられました。あわてて引き返し、ポンポコ村に戻ります。

鏡山の鳥居の方から入れば、すんなりとチェックポイントに行けたのでした。20分のロス。

  

このあたりからの景色は、ビューポイントです。

 

浜玉町は、枝垂れ梅が満開でとてもきれいです。

   

有須田邸の枝垂れ梅は、114年の古木や大小12本の枝垂れ梅が咲き誇っています。中に入ってじっくり見たかったのですが、時間がなく外側から覗きました。

  

西九州道の高架下を通り、野田温泉に向かいます。

 

野田温泉が2回目のチェックポイント。ここでは、大きなイチゴや飴湯の接待がありました。

  

野田温泉を過ぎても、民家の庭先には、枝垂れ梅が咲き誇っています。

 

 

 

道の脇には、つくしも顔を出していました。

 

五反田改善センターが3回目のチェックポイント。ここまで約15kmです。ここでは、甘いミカンの接待です。

 

 

ここからは、玉島川沿いに歩きます。昨年のこの大会のせっかくウォークでは、玉島川の「シロウオ」料理が出されましたが、今年は、川に簗が掛けられていません。

今年は、シロウオが獲れないのかな?

  

12:30 浜玉公民館にゴールしました。昨日は、ひざ痛であまり歩けませんでしたが、今日は、そんなに痛みもなく、無事ゴールできました。

  

ゴール後、野菜スープが振る舞われました。

今回の2日間の参加者は、スタッフを除いて1388人です。昨年は、1190人でしたので1割ぐらい増えました。

せっかくウォークの時は、悪天候でしたが、2日間とも晴天に恵まれ絶好のウォーキングでした。

 

 


第8回(2018年)唐津・虹の松原ツーデーウォーク1日目25km(佐賀県唐津市)

2018-03-13 17:04:19 | オールジャパンウオーキングカップ

3/10(土)第8回唐津・虹の松原ツーデーウォーク1日目25kmに参加しました。

何と私が、出発の「激」をすることになりました。初めての経験です。歳はとっていますが、やはり緊張しますね。

8:30 私の「激」でスタート。1日目25kmは、浜玉公民館より壱岐行フェリー折り返すコースです。

     

    

魚半の所から右折し、虹の松原に入ります。虹の松原は、三保の松原(静岡)、気比の松原(福井)と並び日本三大松原の一つです。

17世紀初頭唐津藩主寺沢広高が新田開発の一環として、もともとの自然林から防風林、防砂林として植樹を行いました。今では長さ4,5km、幅0,5kmの間に黒松100万本があります。

この虹の松原には、七つの伝説があるそうです。その一つ、秀吉が名護屋城に向かう途中、この松原を通り、あまりセミが鳴くので「騒々しい」と叱った時以来、セミの声が絶えたそうです。

浜防風は、食用です。私も子供の頃に食べた記憶がありますが、どのような料理法で食べたか思い出せません。

  

「松の井」、「洋々閣」は、明治、大正の面影を残す純和風旅館です。

 

舞鶴橋にやってきました。ここからの唐津城がビューポイントです。

   

1回目のチェックポイントが唐津城です。唐津城は現在石垣の工事中です。

唐津城は、慶長13(1608)年の築城。初代唐津藩藩主・寺沢志摩守広高(てらさわしまのかみひろたか)が、慶長7(1602)年から7年の歳月をかけて築城しました。

唐津城は満島山(みつしまやま)とよばれる陸続きの島にあり、この満島山を本丸としていました。城内は石垣をめぐらし、濠が掘られていたそうです。

明治4(1871)年、廃藩置県によって廃城となり、その本丸跡は舞鶴公園となりました。現在の姿は昭和41(1966)年に文化観光施設として完成したもので、

5層の見事な天守閣が堂々とそびえています。 この天守閣(てんしゅかく)を鶴の頭に見立て、左右に広がる松原が、鶴が翼を広げた形に似ていることから、

唐津城は別名舞鶴城(まいづるじょう)ともいわれています。(あそぼーさがより)

  

唐津城を下り、西の浜海水浴場に向かいます。

  

旧高取邸は、杵島炭鉱などの炭鉱主として知られる高取伊好(たかとりこれよし)の邸宅です。唐津城本丸の西南の海岸沿い、約2,300坪の広大な敷地に大きく2棟の建物が建っています。

平成6年から平成7年にかけて行われた国の近代和風建築総合調査でその重要性が確認され、平成10年12月に国の重要文化財の指定を受けました。

話は変わりますが、僕らと同じ世代の方は、御存じかと思いますが、1959年(昭和34年)に公開された映画「にあんちゃん」の舞台は、杵島炭鉱大鶴鉱業所です。唐津市肥前町にありました。

<参考> 写真は、肥前町にある「にあんちゃんの里」碑。

  

大きな船の形をした建物があります。ここは、下水処理場です。周りの景色に合わせてこのような形になったそうです。

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壱岐行フェリー乗り場を通り唐津市水産会館が2回目のチェックポイント。ここではイカ焼きが接待です。

  

西唐津駅、唐津駅を通り松浦川へ。

  

松浦川の反対側には、「佐用姫岩」があります。佐用姫伝説では、鏡山から飛ぶように駆け下りた佐用姫はこの岩に飛び降り、その時に付けられた足跡が岩の頂上にに残されているという。

今では水辺に浮かぶ小島のようになり、遊歩道が設置されて完全に公園化しています。

  

13:30 ゴール!

  

 


唐津・虹ノ松原ツーデーウォーク「せっかくウォークで神集島」へ

2018-03-12 14:39:34 | ウォーキング

3/9(金)唐津・虹ノ松原ツーデーウォークの「せっかくウォーク」で神集島(かしわじま)」に行ってきました。

唐津市には、宝当神社で有名な高島、小川島、松島、馬渡島、向島、加唐島、そしてこの日に行く「神集島」の七島があります。

「神集島」と書いて「かしわじま」。島の名前が珍しく、興味を引くネーミングです。

  

「神集島」は、神功皇后が西暦367年、三韓征伐で新羅に行かれた時、この島に神々を集め、軍議を開いたことに由来します。

また、昔は、「狛島」と呼んでいましたが、漢字で「柏島」と書いたことから「かしわじま」とも呼ばれたと言われています。

島の周囲1,4k㎡、周囲8km。唐津市湊町から定期船で約8分の所にあります。

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13:00 集合場所の浜玉町中央公民館からバスでせっかくウォーク参加者28名を乗せ、渡船場の湊町に移動。

FBの友達の福井・Fさんご夫妻もご一緒でした。

今日は、風が強く、時々強い雨が降る悪天候です。13:50定期船「荒神丸」で出航。今日は海も荒れ、乗っているとまるでサーフィンをしているような状態です。

約8分で神集島に到着。島では、高崎区長さんが出迎えてくれました。

島には、遣新羅使の一行が、神集島に滞在した時詠んだ万葉歌碑があり、七首の歌が残っています。

  

  

西暦736年(天平8年)6月遣新羅使の一行は、大阪・難波津を出発して瀬戸内海を通り、博多に滞在した後、福岡の西端唐泊、芥屋を経て、日本最後の泊地である狛島(神集島)にやってきました。

この一行の正使は、『安倍継麻呂』氏で、副使は『大伴三中』氏でした。 一行は、この神集島で旅の準備をし、風待ちして玄界灘に乗り出して行きました。

当時の船の構造からして、玄界灘を乗り切ることは至難の業でしたから、彼らは、船待ちをしている間に故郷や都を偲んで歌を詠んだそうです。

歴史的に万葉集に綴られた歌七首がここ神集島に残され、現在では石碑として島民が守っています。

命がけの旅を続ける人たちの孤独と、妻や恋人を慕う気持ちが玄界灘の潮の香りとともに胸に迫ってくるようです。(神集島公民館の掲額から)

1号歌碑

「帰り来て 見ぬと思ひし 我が宿の 秋萩すすき 散りにけむかも」  秦田麻呂  (これには作者の名前が書かれています)

  訳)「都に帰ってきて見られると思っていた 我が家の庭の秋萩やススキは、もう散りはててしまったかも 新羅に行き着かないうちに 年月ばかり過ぎて」

     

2号歌碑は、旧中学校の裏の玄界灘に面する地にありました。ここからは風を遮るものがなく、強風で飛ばされそうになりました。  

「あしひきの 山飛びこゆる 雁がねは 都に行かば 妹に逢いて来ね」    雁がね(かりがね)

 訳)「雁がねは、飛んでゆく 山を越えて もし都に行くのなら 我妻に出会って 妻の便りを運んできておくれ 山を越えてゆく雁がねよ 妻に伝えておくれ 私はまめにしていると」 

  

2号歌碑から休憩の為、旧小学校に行きます。旧小学校では、「神集島ひ~な祭り」が行われていました。

 

 

お茶と羊羹が振る舞われました。

2002年2月、神集島沖で深海魚の「リュウグウノツカイ」が捕獲されました。その時の魚拓が展示されています。体長433cm、体高37cm、体重37,8kgでした。

   

一服してから、再びスタート。住吉神社へ向かいます。途中に「岩本三吉翁顕彰碑」がありました。

岩本三吉翁は、大正末期の長崎県生月島での漁労修業の末、大敷網(底引網の一種)組合を設立し、近隣漁業振興に貢献すると同時に、島民にも株分けし、神集島の中興の祖として貢献しました。

  

海の中に鳥居がある「住吉神社」。神功皇后が、神を集めて戦勝を祈願したと伝えられています。

  

ここには、「蒙古碇石」があります。昭和2年神集島沖から発見されたそうです。

  

3号歌碑

  天地の 神を祈ひつつ 吾またむ 早来ませ君 待たば苦しも

 訳)天地の神々に無事をお祈りしながら私は、待ちます。あなたが早く無事でお帰りになるように ただお待ちするのはつらいだけなので 、神々に無事をお祈りして私は待っています。

  

住吉神社の裏手には、4号歌碑があります。

足姫 御船泊てけむ 松浦の海 妹が待つべき 月は経につつ 

訳) その昔、神功皇后が御船が泊まったという松浦の海で 船泊りは続いて妻に帰ると告げた月は、いたづらに過ぎていく 妻の待つ想いをよそに松浦で船泊りは続く。

   

神集島は、ハマユウ(浜木綿)の群生地としても知られています。6月ごろには、白い花が咲きだします。

時間も15時を過ぎました。万葉歌碑はあと3つ残っていますが、帰りの船は15:30 です。時間がありませんのでここで終了します。

 

16:00過ぎに集合場所の浜玉中央公民館に戻りました。

このあと18:00から福井・Fさんご夫妻と食事会の為、唐津シーサイドホテルに移動しました。

  


佐賀城下ひな祭りウォーク(佐賀市)

2018-03-02 19:17:41 | ウォーキング

2/28(水)は、ふくおかウォーキング協会の例会「佐賀城下ひな祭りウォーク」に参加しました。

集合場所は、JR佐賀駅。佐賀駅前には、佐賀県の郷土芸能「面浮立めんぶりゅう)」の像が建っています。

面浮立(めんぶりゅう)は、佐賀県を代表する民俗芸能として全国的にも有名ですが、分布は七浦地区を中心に鹿島市、藤津郡、杵島郡、武雄市、多久市、小城郡そして佐賀郡の一部にまで

広がっています。七浦地区に最も多く、離れるにしたがい少なくなります。各地区の面浮立の伝承によると、やはり七浦の面浮立が各地に広がったのは間違いがないようです。

この面浮立の起源には色々な説があります。例えば大内氏や大友氏との合戦に由来するというもの、豊臣秀吉の朝鮮の役に由来するというものなどがあります。

なかでも約400年ほど前に神埼郡の田手縄手で行われた大内氏と龍造寺氏との戦に由来するという説がよく言われるようです。

この戦いは、中国地方から侵略してきた大内氏を、竜造寺氏が迎え撃った戦いだったのですが、龍造寺氏は軍勢が少なく圧倒的に不利でした。負け戦を覚悟したそのとき、

配下であった鍋島平右衛門の一族郎党百騎余りが、シャグマをかぶり奇襲をかけ撃退しました。そのとき踊った戦勝踊りが元になっているという説です。

いかにも勇壮で、人々が好みそうな由来ですが、残念ながら、記録には「シャグマをかぶって」とは書いてありますが、「鬼面を着けて」とは書いてありません。

また芸能の中心地である七浦と、神埼とのつながりがよく分かっていません。さらに七浦のいくつかの地区には、「面浮立は諫早から伝わった」という伝承も残っています。

おそらくは農耕に伴って、耕作に害をする悪霊を封じ込め、豊作を願う神事として面浮立ができたのではないでしょうか(鹿島市HPより)

 

      

9:30スタート。今日は午後から荒れ模様の天気になるそうで少し急ぎます。

龍造寺八幡宮

応神天皇を主神、天児屋命と住吉三神を相殿神(配神)として祭る。創建は『県神社志要』によれば1187年(文治3年)とされ、龍造寺氏の祖である南次郎季家が佐賀龍造寺村の地頭職となった後に、

相模の鶴岡八幡宮を分霊したとされる。創建当時は同氏の本拠地である村中城本丸内にあったが、慶長年間、鍋島勝茂による佐賀築城の際に現在地近くに遷座した。

以来この地は八幡小路と呼ばれたが、1901年(明治34年)頃に境内を北方へ拡張移転したため現住所は八幡小路ではなくなっている。

龍造寺八幡宮は龍造寺・鍋島両氏の崇敬を集め、慶長9年(1604年)の刻銘を持つ肥前鳥居(佐賀市重要文化財)は鍋島直茂夫人藤女(陽泰院)が献納した。

古文書・宝物類も多数あったが、1874年(明治7年)の佐賀の乱の兵火にかかり焼失し、現在は北部九州の大小諸豪族の氏名、宰領町数などが記載された『龍造寺隆信公着到状』など

少数が残っている。(wikipediaより)

龍造寺家と鍋島家というと、佐賀騒動を思い浮かべます。これは、化け猫騒動といって、戦後映画化されました。

  

 

佐賀には、明治維新で活躍した「佐賀の七賢人」がいます。

そのうちの一人、「江藤新平」。幕末・明治初期の政治家。佐賀の人。名は胤雄。佐賀藩を脱藩して尊王攘夷運動に参加。明治維新後、司法卿として司法制度の確立に尽力。

のち参議となり、征韓論を唱える西郷隆盛に同調したが敗れて下野。民撰議院設立建白書に署名。佐賀の乱を起こし、敗れて刑死した。

佐賀の乱の時、同じく下野した西郷隆盛に指宿・鰻温泉で同調を促しますが、西郷は動きませんでした。このことは、大河ドラマ「西郷どん」でも放映されるかな?

  

この佐賀の乱で一緒に戦った「島義勇」も七賢人の一人です。明治1年佐賀藩海軍軍監として江戸へ進攻、江戸鎮台府判事として民政に当たる。2年北海道開拓使判官として、

札幌市街地の建設に尽力。のち大学少監、侍従、秋田県令などを歴任、7年佐賀憂国党を率い佐賀の乱を戦ったが、敗れ処刑。北海道開拓の父とも言われています。

  

佐賀城址です。鯱の門には、佐賀の乱での砲弾跡が残っています。

  

   

佐賀城址の前には、七賢人の一人「鍋島直正」の銅像が建っています。鍋島直正は、幕末の佐賀藩主。幼名貞丸、初め斉正(なりまさ)。維新後直正と改名し、閑叟(かんそう)と号した。

1830年(天保1)父斉直(なりなお)から家督を継いだが、前代の放漫財政によって藩財政は破綻(はたん)寸前であった。古賀穀堂(こがこくどう)らの改革派を側近に置き、

藩校弘道館(こうどうかん)出身の人材を登用して人事を刷新し、天保(てんぽう)の改革を行った。均田制を施行して本百姓(ほんびゃくしょう)維持政策をとり、国産方を設置し、

陶器、櫨蝋(はぜろう)、紙の開発や石炭の増産を行い、財政を立て直した。また、佐賀藩は長崎警備の任にあり、直正自身しばしば長崎に赴き、外国警備の重要性、西洋技術の優秀性を

認めていたため、早くから洋式軍制改革を実施した。1852年(嘉永5)わが国で初めて反射炉の建設を成功させ、大量の銃砲を購入し、西洋艦船の製造・購入に努めた。

また蘭学(らんがく)を奨励し、種痘(しゅとう)を施行し、幕末に薩長土肥と通称される雄藩の実力を養った。藩政改革の成功の反面、幕末の幕府・朝廷をめぐる政争への介入には一貫して慎重であり、

直正は1860年(万延1)の幕府の召命を固辞し、翌1861年(文久1)隠退して二男直大(なおひろ)に家督を譲った。その後も招きによって再三上京したが政争への参加には慎重であった。

戊辰(ぼしん)戦争では、強力な軍事力によって官軍に重きをなし、大隈重信(おおくましげのぶ)、江藤新平(えとうしんぺい)ら藩の実力者を新政府に送り込み、自らも議定につき、

軍防事務局輔(すけ)、ついで制度事務局輔を兼任した。その後、上局議長、蝦夷(えぞ)開拓督務、開拓使長官を務め、大納言(だいなごん)に任ぜられた。明治4年1月18日没。57歳。

佐賀藩三重津海軍所は、明治日本の近代化遺産で世界遺産に登録されています。三重津海軍所の解説はこちらです。

 https://www.sagabai.com/main/?cont=kanko&fid=521

  

大隈重信も七賢人の一人です。

明治-大正時代の政治家。
天保(てんぽう)9年2月16日生まれ。肥前佐賀藩士大隈信保の長男。長崎でフルベッキに英学をまなぶ。維新後,明治政府の徴士参与職,外国官副知事,大蔵卿,参議などを歴任。

秩禄処分,地租改正などを推進した。明治十四年の政変で官職を辞し,翌年立憲改進党を結成し,総裁。同年東京専門学校(現早大)を創立。21年第1次伊藤内閣,ついで黒田内閣の外相となり,

条約改正にあたるが,反対派の来島恒喜(くるしま-つねき)に爆弾をなげつけられ右足をうしなう。31年板垣退助と憲政党を結成して日本初の政党内閣(隈板(わいはん)内閣)を組織。

大正3年第2次内閣を組織して第一次大戦に参戦,4年には対華二十一ヵ条要求を提出した。大正11年1月10日死去。85歳。

生家の横には、大隈記念館があります。

  

他の佐賀七賢人は、

副島種臣:文政11年9月9日生まれ。枝吉神陽の弟。肥前佐賀藩士。明治新政府の参与となり,政体書の起草にかかわる。外務卿(きょう)もつとめる。

明治6年征韓論をとなえて野にくだり,民撰議院設立建白書に署名。のち枢密顧問官,松方内閣内相を歴任。能書家。明治38年1月31日死去。78歳。初名は竜種。通称は次郎。号は蒼海(そうかい)。

佐野常民:文政5年(1823)12月28日生まれ。肥前佐賀藩士。藩医佐野常徴(つねあき)の養子。医学,蘭学,化学をまなび,藩の精煉方主任となり,日本初の蒸気船をつくる。

ヨーロッパ視察後,新政府で海軍創設につくす。明治10年博愛社(のち日本赤十字社)を創設。元老院議長,農商務相をつとめた。明治35年(1902)12月7日死去。81歳。

大木喬任天保3年(1832)3月23日生まれ。もと肥前佐賀藩士。藩校弘道館にまなび,勤王派として活躍した。維新後徴士となり,京都府判事,軍務官判事を歴任。

江藤新平らとともに東京遷都を実現させる。東京府知事,法相,文相,枢密院議長などをつとめた。明治32年(1899)9月26日死去。

  

旧古賀銀行に着きました。例会はここでゴール。自由解散になりました。お腹もすいてきましたので旧古賀銀行内のレストランで佐賀の御当地グルメ「シシリアンライス」をいただきました。

シシリアンライスは、ご飯の上に甘辛いタレで炒めた薄切り肉(牛肉が多い)と玉ねぎを乗せ、その上にレタスやトマト、きゅうりなどの生野菜を盛り付け、仕上げにマヨネーズを網かけした料理です。

調理法が簡単なため佐賀では家庭料理としても人気があります。

旧古賀銀行では、お雛様の展示も行われています。中でも特に目立つのが、鍋島緞通(だんつう)の雛飾り。

鍋島緞通は、江戸時代幕府への献上品でした。

 

 

  

古賀銀行を出ると隣のお店の前に面白いものが立っていました。

  

  

読んでいると8割ぐらいは、自分に当てはまります。(笑)


第20回宮崎ツーデーマーチ「こばやし霧島連山絶景ウォーク2日目20km」(宮崎県小林市)

2018-03-01 19:10:06 | オールジャパンウオーキングカップ

2/25(日)宮崎ツーデーマーチ「こばやし霧島連山絶景ウォーク2日目」。

前日は、絶好のウォーキング日和でしたが、今日は朝からシトシトと小雨が降っています。午前中でももってくれればいいのですが・・・・・・

昨日は、ゴールした後、道の駅ゆーぱるのじりを覗きましたら、野菜が安い!福岡の産直店より2割~3割ほど安いです。

さて、本題に戻ります。今日は30kmコースに行きたかったのですが、雨の為、20kmに変更しました。勿論いつものフライングスタートです。

8:00 30kmと一緒にスタートします。

 

市役所前を通り、駅伝の名門「小林高校」前を通ります。

小林市役所は、現在新築中で、外観は、木を使ったデザインです。今年6月に完成予定だそうです。

小林高校の駅伝部は、全国大会出場52回(うち、全国優勝7回)を誇る強豪校です。

 

  

小林高校から、最初の上り坂、緑ヶ丘公園に向かいます。緑ヶ丘公園の梅林は、もう7分~8分ぐらい花が咲いています。紅と白のコントラストがいいですね。

  

今年の冬季オリンピックでは、カーリング女子LS北見の「もぐもぐタイム」が有名になりましたが、このコース最初の「もぐもぐタイム」が緑ヶ丘公園です。

公園内には、SLも展示されています。この公園、何年か前の大会で通りました。

 

運動公園入口が20k、30kの分岐点。20kは、運動公園を通り出の山に向かいます。

このあたりから雨が降ってきました。傘を差し、合羽を着てのウォーキングです。

  

このあたりアップダウンが続きます。昨日痛めた膝が泣き始めました。一緒に歩いていた歩友さんと離れ膝をいたわりながらゆっくりゆっくり歩きます。

地鶏の里が2回目のもぐもぐタイム。バナナ、ゆで卵が振る舞われました。ゆで卵は、しょうゆをかけたら味が変わると教えられ、実行すると一段とおいしくなります。

  

ホタル館に到着。ここでは、豚汁、アユのから揚げです。

ここでは、30kmの速い方から抜かれていきました。

  

出の山淡水魚水族館が1回目のチェックポイント。

小林市は、市内に約75ヶ所もの湧水地があり、出の山公園の湧水が名水百選にも選ばれるなど「名水のまち」と呼ばれています。その豊富な名水を活用し、

昭和58年より「宮崎県水産試験場小林分場」がチョウザメ研究に取り組んできました。同試験場は、平成16年に日本で初めてシロチョウザメの完全養殖に成功するなど国内において

トップクラスのチョウザメ技術を有しています。小林市の水は、チョウザメの養殖に適した水温であり、稚魚期には、地下水を利用することで、

悪性の菌を池に入れることなく安全に育てる最高の条件のもと成育することができます。現在、小林市内では5業者で養殖を行っています。

すべての養魚場で飼料の統一、霧島裂罅水で養殖されており品質統一に努めています。(小林市HPより)

チョウザメというと世界三大珍味「キャビア」が有名ですが、チョウザメの魚肉を使ったお寿司などもおいしいそうです。

 

まきば演芸場です。天気がいい日は、ここからの霧島連山のビューポイントですが、残念ながら雨の為煙っています。

  

昨年歩いた時は、ここの河津桜は、ほぼ満開でしたが、今年は開花が遅れているのかまだ蕾でした。

 

消防訓練広場では、ミニトマト「あいこ」の御振舞。

 

2回目のチェックポイントは、「霧島岑(みね)神社」です。

由緒を見ると、大昔、霧島岑神社は高千穂峰中腹(御鉢)の瀬多尾(せだお)の高地に鎮座していた。度重なる噴火により、たびたび社殿などが焼失。
享保14年(1729年)夷守岳中腹に社殿を再建、明治初頭まで鎮座した。
明治6年(1873年)霧島六社権現の一つであった夷守神社を合祀した後、夷守神社跡地に遷座し現在に至る。
祭神は、瓊々杵命(にぎにぎのみこと)、木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)、彦火々出見命(ひこほほでみのみこと)、豊玉姫命(とよたまひめのみこと)、
鸕鷀草葺不合命(うがやふあへずのみこと)、玉依姫命(たまよりひめのみこと)
 
 
 
 
 
霧島岑神社は、近所の方が手造りの炭酸を使った蒸しパン?、お漬物、それに手作りのティッシュカバーです。
 
  
 
霧島岑神社からゴールまで約5km。雨の中ひたすら歩きます。
 
JR小林駅を通り、12:55やっとゴールしました。
 
  

 ゴールでは、白玉ぜんざいがサービスです。雨で濡れたので温まります。

今年の参加者は、2日間(2日目は雨でしたが)で2000人を超えました。昨年は1900人でしたので若干増えましたね。これもスタッフさんたちの地道な努力の賜物でしょう。

来年も参加者が増えるといいですね。勿論私たちも来年も参加する予定です。

ただ、会場のステージとスタート地点が前と後ですので、参加者の方は後方でスタートを急ぐためか、スタートの方ばかり集まり、ステージ側には、あまり集まりません。

折角の来賓の御挨拶や、太鼓の演舞は、見ていない状態です。会場の配置をもう少し考慮されればと思っています。

 

   

 会場をあとに、神の郷温泉で汗を流してきました。歩いた後の温泉はいいですね。