よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

稚加栄昼のランチ復活(福岡市中央区大名)

2020-08-30 11:43:14 | 食いしん坊

博多の料亭「稚加栄」の昼ランチが8/1から復活しました。

稚加榮福岡店のランチが
このたび満を持して
復活いたします。

当料亭のランチは先代会長の
「料亭を親しみやすく」の構想から、
福岡店の生け簀を増築した昭和48年より始まりました。

当時料亭でランチ営業を行っている店は少なく、
開始以降多数のお客様からご好評頂き、
おかげさまで40年以上ランチ営業を行って参りました。

しかし、昨今の人手不足の影響や
社内環境改善を目指して、2018年の2月25日で
一旦お休みさせていただき皆様にご迷惑を
おかけいたしましたが、
8月1日より万全の体制を以て再開いたします。

https://blog.goo.ne.jp/yokkun1949/e/a58d67b9505db59da10d4a2d934371b7

12時15分ごろ稚加栄の前に来ましたが、もうすでに30人ぐらいの方が待っておられます。待っていると日傘の貸し出しをしてくれました。

約60分待ちです。

  

13時過ぎに店内に入ることができました。

今回は、コロナ感染予防対策も取られています。店内に入る前に検温と手首の消毒、マスク着用、お客様と密にならないよう席の間隔を空ける、仕切り版の設置・・・・などです。

 

2~3分席で待っているとランチが運ばれてきました。

2年前とほとんど変わっていません。明太子せんべいが新しく追加されました。

下の写真が2年前のランチです。

久しぶりにおいしいランチをいただきました。あまりにもおいしいのでご飯のお代わりもしました。

また、食べにきたいです。

 


世界遺産「八幡」を歩く(北九州市八幡西区)

2020-08-28 17:03:50 | ウォーキング

8/26(水)は、ふくおかウォーキング協会楽しいウォークで北九州市八幡に行ってきました。

福岡市の自宅を7時18分の電車に乗り、JR八幡駅に着いたのが9:00。参加者は32名。出発前にストレッチを行い、9:30スタート。

 

先ずは、「東田第一高炉」。明治34(1901) 年に操業をはじめた近代製鉄発祥の地・官営八幡製鐵所(現日本製鉄)。その第一高炉(第10次 改修高炉)一帯を指定文化財に指定し、史跡公園として

公開しています。内部を 見学できるほか、広場内に歴史を学べるパネルや高炉で溶かした銑鉄を運ぶ貨車などを展示しています。2015年(平成27年)7月、「明治日本の産業革命遺産、製鐵、

鉄鋼、造船石炭産業」の世界文化遺産登録が決定しました。「官営八幡製鉄所関連施設」も構成資産の一つとなりました。

  

 

コースは八幡西本町へ。ここには、辰野金吾が設計した「百三十銀行八幡支店」が北九州市有形文化財として残っています。

この建物は大正4年(1915年)12月、辰野金吾の主宰する事務所が設計したもので、営業室・金庫室・管理室からなる鉄筋コンクリートの小規模な造りである。内部は銀行店舗という性格上、

「意匠に特筆すべきものはないが、外観は赤煉瓦の壁体に、玄関・柱頭・窓周りを幾何学的模様で施し、その部分は「洗い出し」で石造風に拵え、盛時辰野式にはほど遠いが、

大正期のモダンデザインを表現している。(北九州市HPより)

八幡市民会館の所には、都市公民館発祥の地「八幡市公民館跡」の碑があります。都市型公民館とは、中学校区単位の公民館建設。その第一号が1951年(昭和26)八幡中央公民館として

建てられました。

  

しばらく歩くと「国際通り」という通りです。この通りに「九州国際大学(旧八幡大学)」があるためかな?

 

九州国際大学前の街路樹に赤い実がなっている木がありました。調べてみると、「辛夷(こぶし)の木」でした。

実も拳みたいな形をしていますね。

 

最初の休憩は、桃園球場がある桃園公園です。

 

コースは、石畳の細い路地に入りました。長崎街道でもないし、何だろう?石畳の終点には「古官道」の碑があります。

古宮道とは、大宰府官道で7世紀~8世紀ごろ整備し完成しました。我が国の政治、外交、国防の上で重要地点大宰府と文字を結ぶ大宰府官道の一部でした。

ここからは、住宅地ですが、アップダウンが続きます。

  

黒崎中学校へやってきました。今日参加の方がこの学校の卒業生だそうです。

 

黒崎中学から幸ノ神を通ると、長崎街道「曲里の松並木」です。10年ぐらい前に長崎街道(長崎~小倉)を歩いた時にも立ち寄りました。

八幡西区役所のHPを見ると、江戸後期の狂歌師太田南畝(おおたなんぽ)は「坂を下るに赤土の岸あり。松の並木をゆくゆく坂を上り下りて、また坂を下りゆけば、左に黒崎の内海見ゆ。」

とその紀行文(小春紀行)にこの「曲里の松並木」あたりの描写をしています。
この松並木は当時幕府が全国の街道に松や杉を植樹させた名残で、日光の杉並木(日光街道)、安中の杉並木(中山道)、さらに箱根の杉並木(東海道)はその代表的なものです。
昭和20年頃まで黒崎から木屋瀬にかけて街道には多くの松を残していましたが、今はわずかにこの辺りが昔日の長崎街道の面影を留めているのみで、当時の松も残り2本となりました。
なお、史跡の指定範囲は幅20~30メートル、長さ約310メートル、面積約8000平方メートルで、現在旧街道緑地として整備されています。(八幡西区役所HPより)

  

 

曲里の松並木から黒崎市街地に向かいます。旧長崎街道沿いに「乱橋」とちょっと変わった名前の橋があります。調べてみると、ホタルの乱舞が橋に邪魔されて乱れ飛ぶ様子から

乱橋というそうです。また他の由来では、昔はこの周辺は遊郭でした。行こうか行くまいか心が乱れたり、思案したりしたから乱橋。長崎の思案橋もそんな意味でした。

そういえば、橋の近くには大きなラブホテルがありました。どちらが本当かな?私個人の感想では、長崎も思案橋の近くに蛍茶屋があったのでどちらも正解ではないかと思います。

 

黒崎商店街を通りゴールのJR黒崎駅へ。

 

駅で帰りの電車を待っていると、肥薩線(八代~隼人)を走る「いさぶろう・しんぺい号」がホームに入ってきました。

先月の豪雨で肥薩線は、橋梁が流失して現在運休中です。8/8より、肥薩線応援企画として博多~門司港間を走っています。車内では、肥薩線関連グッズも販売しているそうです。

  

今日のGPSです。GPSのスイッチを押すのを忘れ、スタートが東田高炉からになっていました。

 


8月度例会「クリークの郷大木町の掘割を歩く」(福岡県三潴郡大木町)

2020-08-25 14:28:53 | ウォーキング

8/22(土) ふくおかウォーキング協会の8月度例会は「クリークの郷大木町の掘割を歩く」でした。

このコースは、3月にサタデーウォークに繰り込まれ、2月に下見を行っていましたが、コロナ感染の為、中止になり資料関係も廃棄していましたが、何と8月の例会のコースで復活しました。

朝7時に福岡の自宅を車で出発し、集合場所の西鉄八丁牟田駅に着いたのは、8:30でした。参加者は36人。

 

 

今日も暑い。筑後地方の最高気温は、36度とのこと。スタート前には、スタッフの方が水分を十分とるようにとのこと。

9:30 スタート。今日は、蒼汰君、あおいちゃんも参加です。

 

大木町役場、木佐木小学校、天然温泉「アクアス」を通るとクリークが見えてきました。

  

大木町は、古代「水沼の縣(あがた)」と呼ばれる沼地で、三潴郡の名称は水沼が変化して名づけられたと言われています。沼地であったこの地域で排水のよい地盤とするため先人が

営々と作り上げたものが「堀」で、この堀が町全体を網の目のように巡り、農業用水や防火用水、生活廃水の放流先、地下水の涵養(かんよう)など生活と密接に関わっているのが町の特徴。

堀の面積は町全体の14%を占めています。その歴史は、荘園時代に遡るそうです。人口約14500人。

  

下見(今年2月)に行ったときは、クリークに蓮の花が咲いてませんでしたが、今回はちょっと盛りは過ぎたかもしれませんが、クリークいっぱいに咲いていました。

  

最初の休憩は、イオン大木店です。暑いのでトイレ休憩だけにして早めに再スタートします。

  

大木町は、もったいない宣言で「ゼロウェイスト」と言って生ごみ、し尿、浄化槽汚泥をエネルギーと有機肥料に分解しています。

それをこのバイオマスセンターで行っています。大木町のごみ分別の特徴は、その種類の多さです。気が付いたものは、紙おむつの回収です。

回収した紙おむつは、再パルプ化して建材の原料になるそうです。

 

バイオマスセンター横には、道の駅おおきです。ここでは、キノコの栽培がおこなわれています。

  

暑いのでショートカットして、11:35にゴールしました。

今日のGPSです。

 

 

 


博多阪急イヤーラウンド10kmコース<後編>(福岡市博多区)

2020-08-14 08:09:13 | ウォーキング

前編からの続きです。

博多リバレインから川端通商店街に向かいます。商店街の入り口には、川上音二郎の銅像があります。

川上音二郎は、1864年(文久3年)博多の大きな藍問屋に生れ世界を駆け巡った明治の演劇人です。

14歳の時に博多港から大阪に渡り歩いて東京まで行き給仕や巡査などの職を転々としたのち、郷里で政治運動に投じ、自由童子と名乗って過激な言動に走りしばしば投獄されます。

やがて、政談演説が禁止されると、落語家桂文之助に入門浮世亭○○の芸名で大阪の寄席で時局風刺の漫談を演じます。1887年(明治20年)には京都の中村駒之助一座で俳優としての

経歴を始めます。その後、書生芝居の一座を組んで巡業を始め東京の開盛座や中村座公演を果たしたのち、自由民権運動をからませた羽織袴に陣羽織姿にハチマキ、

手には日の丸の軍扇という出で立ちで唄った「オッペケペー節」が一世を風靡しました。1899年(明治32年)にアメリカに渡り興業、翌年にはパリ万博に呼ばれて公演し大人気を博しました。

尚、当時人気芸者だった「貞奴」と結婚しています。(博多の魅力より)

「オッペケペー節」
権利幸福嫌いな人に、自由湯(じゆうとう)をば飲ましたい
オッペケペー オッペケペー オッペケペッポ ペッポッポ
堅い裃角取れて マンテルズボンに人力車
いきな束髪ボンネット 貴女や紳士の扮装(いでたち)で
表面(うわべ)の飾りは立派だが 政治の思想が欠乏だ
天地の真理がわからない 心に自由のたねをまけ
オッペケペー オッペケペー オッペケペッポ ペッポッポ

川端通商店街の真ん中には、「川端ぜんざい広場」があります。大正初期、川原四姉弟によって創業された「川端ぜんざい」は、一口ごとにタクアンを食べ、お茶を飲まないと

食べられなかったと言われるほど「日本一甘い」ぜんざい店として評判でした。ところが、姉弟が亡くなり1985年(昭和60年)に一旦閉店してしまいます。しかし、その味を懐かしむ声が高まり、

地元商店街を中心に1994年「川端ぜんざい広場」として復活。その甘さは、当時の3分の1程度に抑えられてはいるものの、現在も博多の名物として愛され続けています。(川端通HPより)

私も若いころ、甘いもの大好きな会社の後輩と一緒に食べに行ったことがあります。ぜんざいは丼に入っていて、辛党の私には、甘すぎて半分しか食べれませんでした。

然し、この後輩君、なんとお代わりをするのです。これにはびっくりしました。川端ぜんざいをお代わりするなんてホント化け物です!!!

 

商店街には、前回15kmコースでも紹介しましたが、博多弁の番付があります。イラストは、長谷川法世さんです。

「ちゃっちゃくちゃら」・・・・めちゃくちゃ、「好か~ん」・・・嫌いという意味ですが、甘える感じです。本当に嫌いなときは、いっちょんすかんといいます。

「すったり」・・・・まったくダメ。

 

前回はスルーしましたが、博多の総鎮守「櫛田神社」です。今年はコロナ禍で博多山笠は来年に延期になりましたが、今年の飾り山笠は、櫛田神社だけ展示されています。

 

櫛田神社を出ると博多町家ふるさと館があります。今日は、開館25年記念で入場無料でした。おまけにマスクまでいただきました。

博多町家」ふるさと館は、明治中期の博多織織元の町家(住居兼工房)を移築復元し、福岡市の指定文化財に登録されている「町家棟」のほか、「みやげ処」「展示棟」の3棟で

構成されています。明治・大正の時代を中心に博多の暮らしや文化を広く紹介しており、博多の歴史、祭り、伝統などを感じて楽しんでいただける施設です。

  

博多町家ふるさと館の館長は、「博多っ子純情」の漫画家長谷川法世さんです。

 

館内を見て回ると、館長の長谷川法世さんをお見掛けしました。(通りもんのお菓子は持っておられませんでしたが・・・)

  

博多町家ふるさと館から祇園町の方に向かいます。途中、小さな神社があります。

新硯(しんけん)稲荷神社です。普通稲荷神社は、キツネの像が置いてあるのですが、ここは、屋根の鬼瓦がおキツネさんです。

稲荷神社から先に進むと、右側に純和風の旅館「鹿島本館」があります。建てられたのは、大正~昭和初期で国登録有形文化財に指定されています。

  

龍宮寺は、浄土宗。開山は谷阿上人。当初は袖の湊の海辺にあり浮御堂と称していたが、貞応元年(1222)に海中より人魚が出現した際に国家長久の瑞兆と占われた。その人魚を寺内に埋葬したことにちなんで寺名を龍宮寺と改称。この時朝廷より下向した勅使・冷泉中納言の姓をとって冷泉山と号するようになった。文明12年(1480)、正風連歌を確立したことで有名な宗祇がこの寺に寄寓し「秋更けぬ 松のはかたの 奥津風」と歌に詠んだことで知られる。

 

東長寺は、福岡藩主黒田家二代忠之公、三代光之公、八代治高公の墓所があります。

  

 

崇福寺には、32代総理「廣田弘毅」、博多織の祖「満田彌三右衛門」、初代玄洋社社長「平岡浩太郎」の墓所です。

廣田弘毅は、前回の博多阪急15kmコースで紹介しましたが、満田彌三右衛門は、33歳の時、南宋に渡り、織物、箔焼などを習得して帰国した。特に博多織の祖として有名であります。

平岡浩太郎は、明治11年自由民権運動に参加し進藤喜平太と共に向陽社を組織し、明治14年(1881)玄洋社と改名し、初代社長に就任した。福岡の炭鉱王とも呼ばれ、

その財力は玄洋社の活動に止まらず、郷土の後輩の学費の援助や孫文など支援していたようです。※「玄洋」とは、玄界灘のことを指します。

 

聖福寺から西門橋を渡り、石堂大橋に向かいます。石堂橋の手前には「濡衣塚」があります。「濡衣塚」は、その名の通り、“濡れ衣”という言葉の由来になった塚。その昔、

聖武天皇の時代(8世紀頃)に、筑前の国司として、佐野近世が妻と一人娘・春姫を連れて赴任したが、在任中に妻が亡くなったため、土地の娘を後妻として迎え一女を授かったそうな。

ところが、連れ子の春姫が疎ましく思えた後妻が、漁師に「春姫様が釣り衣を盗むので困っている」と近世に訴えさせ、その証拠にと、濡れた釣り衣を着て眠っている春姫の姿を見せられた

近世は逆上してその場で春姫を切って捨てたとか。

一年後、近世の夢枕に無実を訴える春姫が現れ、自分の行動を悔いた近世は出家して石堂川の畔に濡衣塚を造ったとされています! (福岡よかとこより引用)

 

コースは千代町に入りました。崇福寺は、福岡城址の表御門が山門として移築されています。また、福岡藩黒田家の菩提寺にもなっており、藩祖黒田如水公(官兵衛)、初代長政公、四代綱政公、

六代継高公、七代治之公、九代斉隆公、十代斉清公の墓所があります。

黒田家の墓所に行こうとしましたが、墓所の門には、鍵がかけられ中に入ることができませんでした。

    

崇福寺には、玄洋社の墓所でもあります。

   

崇福寺から東公園に向かいます。

松原水は、明治初期、まだ井戸水を利用していたころ、博多部の井戸は水質に恵まれず、そのため飲料水は当時の那珂郡千代村一帯(現在の博多区千代付近)に続く松林(千代松原)の

砂地から汲む井戸水を運んでまかなわれていた。これも次第に建て込む人家の家庭汚水で利用できなくなってきた。
そこで明治二九(一八九六)年 福岡市は、飲料水確保のため千代村堅粕(現在の博多区東公園)の東公園内の国有地約一アールを年間一円八銭で借り受け、工費五〇円で市設の井戸を掘った。

これが「松原水」の起こりである。明治34(1901)年には、福岡市による「市設井戸取締規程」が定められている。井戸には看守を置く事、汲む者は給水許可証を携帯すること、

料金は一石(180リットル)に十銭宛などと細かく規定して本格的に管理された。このようにして、業者も水桶一二個積んだ大八車をガラガラ引いて、戸別に配達したため、

上水道通水(大正12年)まで、松原水売りは博多の風物詩であった。
なお、明治33(1900)年 皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)が来福の際、飲料水として使われ、記念の石碑が傍に建っている。(説明文より)

 

東公園は、かつての千代の松原の一部であったのを1873年(明治6)太政官布告に基づいて公園地とした福岡県内初の県立公園です。

野球のグラウンドなどがありましたが、1981年(昭和56)県庁が移転してきたため、廃止になりました。

千代の松原というと、私、思い出があります。当時は現場を担当していたのですが、現場の宴会(顔見世会、打ち上げ会、忘年会・・・)でよく皆さんと博多の歌を歌っていました。

博多ワルツ、博多夜船、・・・こういう歌に千代の松原の歌詞が入っていました。勿論当時はカラオケなどありませんでした。

  

東公園内には、日蓮聖人像や亀山上皇像があります。日蓮は、文応元年(1260)立正安国論で、当時の鎌倉幕府執権北条時宗にいち早く元(モンゴル)軍の来襲を警告しました。

亀山上皇は、元(モンゴル)軍来襲の際、「わが身をもって国難に代わらん」と伊勢神宮などに敵国の降伏を祈願されました。銅像の下の部分には「敵国降伏」の文字が刻まれています。

   

 

コースも終盤です。九州の鉄道は1889年(明治22)博多~久留米間で開通しました。当時の博多駅は、ここ出来町公園の所でした。

昭和38年(1963)出来町公園から500mぐらい離れたところに新しく博多駅が誕生しました。そのころは、博多駅舎以外何もなくただ田園地帯が広がる所でした。

あれから半世紀以上経ち、現在の博多駅前は高層ビルが立ち並び福岡の玄関口にふさわしくなっています。

  

12:10 イヤーラウンド10kmゴールしました。GPSでは、距離が12,5kmとなっていました。

 

 

 


博多阪急イヤーラウンド10kmコース<前編>(福岡市博多区)

2020-08-11 14:00:00 | ウォーキング

8/9(日)は、博多阪急イヤーラウンドの10kmコースを歩いてきました。

コースは、7/26に歩いた15kmとダブる所がありますが、この10kmは、博多区が中心です。

8:20博多駅到着。お盆の時期だから博多駅も混雑しているんでは?と思いましたが、普通の休みの時より人出が少ないくらいです。

福岡は、コロナ感染者が拡大しているので帰省や旅行を自粛しているのでは?

今回も掲載写真が多いので前編と後編に分けます。

  

博多駅には、鉢植えのひまわりが登場していました。

  

博多駅からは、前回も行きました「住吉神社」に向かいます。住吉神社には毎年九州場所の時(今年は九州場所中止)横綱の土俵入りが行われます。

  

 

清流公園:ここは初めて訪れます。公園内には、博多町家寄進高灯籠が建っています。説明文を見ると、「博多誓文晴」の創始者として知られる漬物屋「金山堂」の八尋利兵衛は、地域振興の

為の試みとして中州から住吉にかけての那珂川堤を整備し、桜や柳を植えて東京の向島を模し、遊園地「向島」を開きました。この灯籠は、その開園を記念し、

明治33年(1900)に建設されて住吉神社に寄進されたものです。灯籠には、建設に協力した福博(福岡部、博多部の総称)の商家や魚市場の人々の名前が刻まれ、当時の福岡経済界を

知る上でも貴重な資料といえます。昭和29年(1954)清流公園内の現在地に移されました。」

日本の広告塔の走りとも言えます。この中には、岩田屋(岩田屋デパート)、平助筆(復古堂)、光安商店(光安青霞園)など現存しているお店があります。

  

  

博多の魅力というHPで天本宏さんが、「八尋利兵衛」について書かれています。引用させていただきます。

「毎年11月15日から6日間,博多の街ににぎわいを呼ぶのが,「福博せいもん払い」の大売り出し!!その生みの親は“八尋利兵衛”という博多商人。

バーゲンの元祖「誓文晴(せいもんばれ)」を実現!!アイデアで博多に元気をつくった男,町おこしのパイオニアです。
1849年(嘉永2年),筑紫郡生まれ。14歳の時,博多の有力呉服商で店員修行。1879年(明治12年),30歳で下川端町に漬物店「八尋金山堂」を創業。開店時,

創刊間もない地元紙に「こんこん(たくあん)あります」と珍しい新聞広告を出したアイデアマンです。
商用で出かけた大阪の名物・蛭子市(えびすいち)の誓文払いで,商人達による年に一度の駆け引き抜きの謝恩奉仕の大安売り,押すな押すなの大盛況ぶりを目の当たりにしました。

「この賑わいを博多にも」と,漬物店である自分の店は恩恵を受けないにもかかわらず,「博多でも呉服商の合同大売り出しを」と呼びかけました。
当時の商人にとって大売り出しは「しまえた(倒産した)時の蔵ざらえ」とされていたので,話は難航。それでも足を棒にして説得に回り,合計27店の協賛を得て,1879年の暮れに

「誓文晴(せいもんばれ)」(当時は明るくこう呼んだ)が実現したのである。
広告ビラ1万枚をつくり,博多の周辺各郡まで配ったこともあり,人の波が押し寄せて催しは大成功。売り上げは予想を大きく上回った。1903年(明治36年),売り出し25回目の

開催を記念して,参加する店を呉服商に限らず全業種に拡大,今に受け継がれているのである。」

清流公園から那珂川沿いに歩きます。福博出会い橋を渡ると福岡部です。橋の所には、博多人形師「小島与一作」三人舞妓の像があります。

   

福岡県公会堂貴賓館は、前回通りました。ここからアクロス福岡の横を通ります。ここには、江戸時代からの石垣が現存しています。

  

水鏡(すいきょう)天満宮」:福岡市の中心地「天神」はこの神社から由来します。昔は、「天神町(てんじんのちょう)」と呼んでいました。

水鏡天満宮の鳥居に書かれている「天満宮」は、元総理廣田弘毅が小学校時代に書いたものです。

  

    

水鏡天満宮から昭和通りに出ます。西中島橋の所には、「赤煉瓦文化館」が建っています。よかなびによると、明治時代の我が国を代表する建築家・辰野金吾と片岡安の設計により、

日本生命保険株式会社九州支店として明治42年(1909)に竣工。赤煉瓦と白い花崗岩の外壁は、19世紀末のイギリス様式で、ほかに尖塔やドームなど、小規模ながら変化に富んでいる。
平成2年(1990)まで市歴史資料館として使用された後、平成6年(1994)2月、有料の会議室等を備えた市民に開かれた施設「赤煉瓦文化館」としてオープン。
そして,2019年8月21日に,リニューアルオープンしました。

 

西中島橋を渡ると博多部に入ります。昔は、福岡部と博多部の境界のこの橋に枡形門があったそうです。

明治末期の写真には、この赤煉瓦文化館が映っています。また、福岡市の道路元標は西中島橋の所に設置されています。

  

西中島橋を渡りしばらく歩くと右側に「変なホテル」がありました。恐竜の形をしたロボットがフロントで受付してくれるそうです。

  

明治生命ビルの手前から右に入ります。ビルとビルの間に挟まれた場所に小さな神社「国廣神社」があります。小さくて今まで気づきませんでした。

この國廣稲荷神社は、江戸時代の天保期に幕府主導で遊行地として整備され、1834年(天保5年)にそれまで小さな社であった中洲稲荷神社を改築。名称もその時改められ

「中洲國廣稲荷神社」となりました。それ以来、中洲の守り神、そして日本有数の歓楽街である事から商売繁盛の神様として、中洲で働いている人達の信仰を集めています。

毎年10月の女性だけのお祭り「中州祭り」の女神輿の神様です。

 

国廣神社から博多川を渡ります。左側にはホテルオークラ、右側は博多リバレイン。リバレインには、アンパンマンミュージアムがあります。

 

ホテルオークラの所には、「鏡天満宮」があります。案内板によれば、当社は鏡天満宮と呼ばれ、延喜元年(901年)讒言によって太宰府の権帥に左遷配所され給いし菅公が、 博多に上陸された

第一歩の地に御休息の時、「海路の疲れにおやつれ給ひし御相顔を鏡に映して御覧になった」と伝えられる鏡をお祀りする神社です。
一説には、菅公の供奴をした者とその子孫が菅公を慕い、宅内に神として祀った神社をはじまりとして奴天神(やっこじんじゃ)とも呼ばれています。
当時、この辺りは博多の渡唐国といわれ遣唐使が行き交い大陸の文化がさきがけて我が国に上陸したところですが、 現在の社殿の近くには唐から帰った伝教大師(天台宗の開祖最澄)の

建立による明王山冷泉寺があったと伝えられています。また平安時代に入ると平清盛によって袖の湊が築かれ日宋貿易の玄関口として一層の繁栄をきわめ商都博多の礎と

なったところでもあります。 しかし中世に入るとその富を求めて、群雄が割拠し度々の戦禍に見舞われ、また近くは大東亜戦争によって壊滅的な打撃を博多の町は受けましたが、

人々が鏡天満宮に寄せる信仰は深くその都度再建され、このたびの博多リバレイン建設に際しても、供に浄財を拠出し御縁も深きこの地に新たな社殿を建立するに至っております

   

このあと後編に続く

  


イヤーラウンド佐賀編(佐賀市)

2020-08-04 14:00:00 | ウォーキング

7/30(木) 今日、九州北部の梅雨明けが宣言されました。例年ですと、7/15ごろが梅雨明けですけど、今年は梅雨が長かった・・・・

7月初旬には熊本・球磨川、福岡・筑後川の氾濫など線状降水帯の発生が目立っています。やはり地球温暖化の影響でしょうか?

さて、本題に戻ります。今日は、佐賀のウォーキングステーションで佐賀のイヤーラウンド10kmを歩きました。

マップは、ネットで取り寄せましたが、文字が小さくて老眼鏡をつけて歩きます。

9:05  佐賀駅前のウォーキングステーションのコイケスポーツ店をスタート。

 

佐賀市の中央大通り沿いの1,5kmには佐賀県ゆかりの偉人25人の等身大の像が設置されています。これは、2018年(平成30年)大河ドラマ「西郷どん」にあわせ開かれた

「肥前さが幕末維新博覧会」に合わせたものです。

  

中村梧竹・・・・明治時代の書家。明治三筆の一人(佐賀県小城市出身)

志田林三郎・・・物理学者、電気工学者(佐賀県多久市出身)

黒田チカ・・・・日本最初の女性化学者(佐賀市出身)

辰野金吾・・・・日本の建築家。東京駅設計で有名(佐賀県唐津市出身)

曽禰達蔵・・・・同郷の辰野と共にジョサイア・コンドルに学んだ日本人建築家第一期生。慶応図書館、明治屋京橋ビルなど。(佐賀県唐津市出身)

  

佐賀ゆかりの25偉人に見とれているとちょっと道を間違えたようです。

佐賀市内には、恵比寿さんが800体ぐらいあるそうです。このイヤーラウンドの別のタイトルも「幸せを呼ぶエビスさん探索コース」になっています。

このコースではいくつ恵比寿さんが見つけられるでしょうか?

佐賀市にエビスさんが多いわけを「佐賀エビスHP」より引用しました。それによると

お殿様が恵比須さんを祀って、それが住民に広がった説

佐賀のお殿様(鍋島藩主)が兵庫県の西宮神社から恵比須像を譲り受け、佐賀(北川副)で祀りました。そんなお殿様を見て、住民も恵比須を自宅に祀り、

「家内安全」「商売繁盛」を祈るようになったという説。

海運業が盛んな佐賀城下町だったので、関係者が海の神様として恵比須を祀った説

佐賀城下は水路を利用した海運業が栄えた土地です。そこで海運業者が漁業の豊漁や商売繁盛を願って恵比須さんを祀っていったことで、恵比須が多くなっていったいう説。

重要な道「長崎街道」沿いで、旅の安全を祈願する神様として恵比須を祀った説

佐賀には長崎から江戸へと異国の文化、人、ものが行きかう「長崎街道」があり、その街道沿いで旅人の安全を祈願し、また街道沿いのお店の商売繁盛を祈願するための神様として

恵比須さんを祀ったという説。

石の大工が多かったので恵比須像が広がった説

佐賀には牛津などに石の大工が多くいました。石の大工が近くに沢山いましたので、まちの人が恵比須像を欲しいと思ったときに、恵比須像を簡単に注文できる環境が整っていましたので、

恵比須像が広まったという説。

  

コースは、長崎街道を歩きます。このコースは、春の佐賀城下ひな祭りで何回も歩いています。旧古賀邸には古いお雛様が展示されます。

 

  

長崎街道に面する畳屋さんを右折。畳屋さんにも恵比寿さんがあります。

  

佐賀七賢人の一人「大隈重信記念館」です。大隈重信は、政治家で早稲田大学創立者としても知られています。この記念館は1967年(昭和42)、大隈公生誕125年を記念して造られました。  

佐賀城址前に建つ「鍋島直正公」の銅像。佐賀七賢人の一人。ニッポニカによれば、幕末の佐賀藩主。幼名貞丸、初め斉正(なりまさ)。維新後直正と改名し、閑叟(かんそう)と号した。

1830年(天保1)父斉直(なりなお)から家督を継いだが、前代の放漫財政によって藩財政は破綻(はたん)寸前であった。古賀穀堂(こがこくどう)らの改革派を側近に置き、

藩校弘道館(こうどうかん)出身の人材を登用して人事を刷新し、天保(てんぽう)の改革を行った。均田制を施行して本百姓(ほんびゃくしょう)維持政策をとり、国産方を設置し、

陶器、櫨蝋(はぜろう)、紙の開発や石炭の増産を行い、財政を立て直した。また、佐賀藩は長崎警備の任にあり、直正自身しばしば長崎に赴き、外国警備の重要性、西洋技術の優秀性を

認めていたため、早くから洋式軍制改革を実施した。1852年(嘉永5)わが国で初めて反射炉の建設を成功させ、大量の銃砲を購入し、西洋艦船の製造・購入に努めた。

また蘭学(らんがく)を奨励し、種痘(しゅとう)を施行し、幕末に薩長土肥と通称される雄藩の実力を養った。藩政改革の成功の反面、幕末の幕府・朝廷をめぐる政争への介入には一貫して

慎重であり、直正は1860年(万延1)の幕府の召命を固辞し、翌1861年(文久1)隠退して二男直大(なおひろ)に家督を譲った。その後も招きによって再三上京したが政争への参加には

慎重であった。戊辰(ぼしん)戦争では、強力な軍事力によって官軍に重きをなし、大隈重信(おおくましげのぶ)、江藤新平(えとうしんぺい)ら藩の実力者を新政府に送り込み、

自らも議定につき、軍防事務局輔(すけ)、ついで制度事務局輔を兼任した。その後、上局議長、蝦夷(えぞ)開拓督務、開拓使長官を務め、大納言(だいなごん)に任ぜられた。

明治4年(1871年)1月18日没

  

佐賀城址鯱の門扉には、明治7年(1874)佐賀の乱の銃撃戦の砲弾の跡が今でも残っています。

佐賀城本丸歴史館には、カノン砲、アームストロング砲、モルチール砲が展示されています。

  

  

佐賀城天守跡を通り、彫刻の森に向かいます。彫刻の森は、彫刻家「古賀忠雄氏」の代表的な作品を県立博物館、美術館周辺の野外に展示されています。

木陰もあり市民の散歩道になっています。

  

  

佐賀七賢人の一人「島 義勇(よしたか)」は、文政5年(1822)9月12日生まれ。枝吉神陽,副島種臣の従兄弟。肥前佐賀藩士。安政3年(1856)藩命により蝦夷(えぞ)地(北海道),

樺太(からふと)を視察。北海道開拓の父と呼ばれる。戊辰(ぼしん)戦争には大総督府軍監として従軍。維新後,開拓使判官,秋田県権令などをつとめたが,政府と対立し辞職。

江藤新平とともに佐賀の乱の指導者となり,明治7年(1874)4月13日処刑された。53歳。

 

与賀神社の楼門は、国重要文化財です。

  

与賀神社参道を通ります。マップには「タナジ」と書いてあります。タナジってなんだろう?

調べてみると、佐賀市内には水路が縦横無尽に走っており、タナジ(棚路)とは、石階段(水路に平行した階段)を使って水面に下る施設で生活用水の取水に利用されていたそうです。

水路には、メダカが泳いでいました。

  

肥後ビードロとは、佐賀市重要無形文化財に指定されている手作り宙吹きガラス食器です。藩主直正公が、嘉永5年(1852)精錬方(今でいう理化学研究所)を設置したことが始まりです。

精錬方は、元々生活必需品(金魚鉢、薬瓶など)や学術研究所の為に必要な道具を作った場所で、当時は珍しいガラス窯が築かれ、主に科学実験用の為のビーカーやフラスコが作られ、

その後開国。明治維新に入りランプや食器を作るようになりました。精錬方は、精錬所という民間会社になり、明治36年(1903)独立した副島源一郎が副島硝子工業を創業しました。

  

道祖宮の方から長崎街道に向かいましたが、どうも道を間違えているみたいです。本来のルートは、道祖宮の先の昭栄中学から長崎街道に戻ってこなくてはいけませんでした。

佐賀・伊勢神社です。伊勢神社は、慶長10年(1605)鍋島氏より城下が建設された際、蛎久地区にあった伊勢皇大神宮の分霊を勧請してこの地に創建されました。

藩祖鍋島直茂ご夫妻の信仰が篤かったほか、信仰圏は広く、藩領以外の大村、平戸、五島、壱岐、対馬などからも季節ごとに参拝が続けられました。

伊勢皇大神宮の分霊を勧請した社は全国でここ1か所で「九州のお伊勢さん」とも称されています。

  

  

中央橋交差点に戻ってきました。ここから佐賀駅までは一本道です。佐賀駅前の信号にも佐賀藩で活躍された方の像があります。

田澤 義鋪・・・・大正期から昭和初期の社会教育家、政治家、思想家。「青年団の父」と称されました。(佐賀県鹿島市出身)

下村湖人・・・・小説家。「次郎物語」の著者。(佐賀県神埼市出身)

古賀穀堂・・・・江戸時代後期の朱子学者、佐賀藩年寄。(佐賀市出身)

 

鍋島茂義・・・・武雄鍋島氏9代当主。

副島種臣・・・・佐賀七賢人の一人。枝吉神陽の弟。副島家の養子。明治新政府の参与、外務卿を務める。征韓論に敗れて下野。(佐賀市出身)

江藤新平・・・・佐賀七賢人の一人。佐賀藩を脱藩して尊王攘夷運動に参加。維新後は、司法卿として司法制度の確立に尽力。征韓論を唱える西郷隆盛に同調したが、敗れて下野。

        佐賀の乱を起こし敗れて刑死。

大木喬任・・・・佐賀七賢人の一人。明治新政府に仕え、東京遷都を建議し実現させる。東京府知事。(佐賀市出身)

枝吉神陽・・・・江戸の昌平黌で学び、帰藩して藩校弘道館教諭。副島種臣の兄。(佐賀市出身)

佐野常民・・・・佐賀七賢人の一人。政治家、日本赤十字社創始者。(佐賀市出身)

  

12:00 ウォーキングステーションのコイケスポーツにゴール。約3時間のウォーキングでした。

今日から梅雨明けですが、それにしても暑かったです。

今日のGPS