よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。





秋の吉野ヶ里~弥生の遺跡と赤いそばの花(佐賀県吉野ヶ里町)

2020-10-27 15:20:26 | JR九州ウオーキング

10/24(土)は、JR九州ウォーキングで佐賀県吉野ヶ里へ行ってきました。スタートは、JR吉野ヶ里駅。吉野ヶ里駅には8:20到着。

てっきり、8:30受付開始と思っていたら、今日は、吉野ケ里歴史公園の開園時間に従って、9:30受付。

開始まで待っていると二百数十人が列を作っていました。

 

駅南口から歩き始めます。役場を通っていくと、見慣れた光景です。ここは、長崎街道に面しており、このあたりが「田手宿」です。

平成23年(2011年)9月に長崎街道田手宿を歩いた時には、追分石がなかったのですが、(道路拡張工事でなくなっていた)また設置されていました。 

 

追分石の先には、田手川沿いに「田手神社」があります。

この神社は1300年前天智天皇が創建され天照皇大神を祀っています。
また、この一帯は1530年(享禄3)北九州の覇権をめぐり、周防・大内氏と肥前・少弐氏との間で戦があった所です。(田手畷の戦い)

  

田手神社から田手川沿いに歩きます。長崎本線のガードを潜り、吉野ケ里歴史公園に向かいます。本日、吉野ケ里歴史公園は、無料開放日です。

  

 

吉野ケ里歴史公園に入るのは何年ぶりでしょうか?8年?ぐらいきてないなぁ~。

現在、吉野ケ里歴史公園では、赤のそばの花が満開だそうです。

  

  

 

 

鳥居の上には、鳥が止まっています。この鳥は何か係りの人に聞くと水鳥だそうです。私の薄学の知識では、鳥居の起源については、天照大御神あまてらすおおみかみが天の岩屋にお隠れになった際に、

八百万の神々が鶏を鳴せましたが、このとき鶏が止まった木を鳥居の起源であると信じていました。ところが吉野ヶ里の鳥居と門の説明では、穀霊信仰は穀物の霊に対する信仰であり、

精霊信仰の一種です。稲作が開始された弥生時代に、縄文時代以来の精霊信仰の上に穀霊に対する信仰、観念が独自に発達していったことは当然推定されます。
それとともに穀霊を運ぶ生物としての鳥を崇拝する観念が生まれたことが大阪府池上遺跡や山口県宮ヶ久保遺跡など、各地の弥生時代の遺跡から鳥形木製品や鳥装のシャーマンと

おぼしき人物の描かれた土器などにより推察できます。
鳥への信仰は現在でも穀霊観念が明確な東南アジアの稲作民族に秘匿認められるものであり、ここから逆に弥生時代に穀霊信仰が存在したことを推定することができます。
鳥に対する独自の観念は『古語拾遺』や『古事記』、『日本書紀』などの古代文献でも認めることが出来、そうした観念は弥生時代に遡ると言えます。
天空に近い場所をより神聖な場所とする観念の表れでもあることが、東南アジア民族事例や古代中国の文献などから窺ことが出来、弥生時代の建物が描かれた絵画土器などに高床建物、

重層建物が多く描かれ、吉野ヶ里遺跡の祭殿、物見櫓などが出現してくる背景には稲作とともにもたらされたアジアの稲作地帯にみられる穀霊を運ぶ生物として鳥を神聖視する観念が

存在したことが窺われます。(吉野ケ里歴史公園資料より)

 

赤いそばの花です。

私、白いそばの花は見たことがありますが、赤いそばは、初めてです。

  

 

事務所では、ミス吉野ヶ里?が迎えてくれました。お土産もいただきました。

  

吉野ケ里歴史公園を出て、吉野麦米に立ち寄ります。

 

11:10吉野ヶ里駅へゴール!コース地図では、8kmでしたけど、実際は、6,6kmでした。

 

 

 

 

 

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能古島のコスモス(福岡市西区能古島)

2020-10-20 18:50:31 | ウォーキング

10/20(火)今朝の新聞に能古島のコスモスが見ごろという記事が載っていましたので早速行ってきました。

姪浜発10:15のフェリーで能古島へ。船内では、やはり記事を見たからか、能古島へ出かける人が多かったです。

能古島からコスモスのある能古島アイランドパークまでは、路線バスが運行していますが、私もウォーカーの端くれ、歩いていきます。

 

  

お客さんが多かったのか、バスは臨時便を3台出していました。

 

途中の道で見つけた花。

 

11:10 能古島アイランドパークに到着。

 

お花畑は海側ですのでそこまでお花を楽しみながら歩きます。

  

  

 

 

 

何と、つつじが咲いています。狂い咲きでしょうか???

 

コスモス畑に着きました。

 

  

  

山側の方もコスモス畑があるということでそちらに移動します。

 

 

 

 

帰りの船は、13時です。ここから渡船場まで約3km。現在12時半。急いで帰りました。

 

 

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室見川散策(福岡市早良区)

2020-10-17 18:15:20 | ウォーキング

10/14(水)のふくおかウォーキング協会楽しいウォークは、「室見川散策」でした。

集合場所は、地下鉄賀茂駅近くのヤマダ電機裏、賀茂中央公園。参加者は49名でした。

    

9:30 スタート。

 

賀茂橋の所には、賀茂の地名にもなった「賀茂神社」があります。(私が若いころは、このあたり「免」と呼んでいました)

賀茂神社の御祭神は、玉依姫、別雷命、天児尾根命の三神です。免(旧地名)の賀茂神社の建立年次は境内から出土した瓦から約1200年以前に建立されていたことがわかります。

荘園時代の承和11年(844)頃から現在の社がある一帯の旧地名である免の年貢は、京都の賀茂御祖神社(下鴨神社)に納められていました。その後、貞観2年(860)頃、賀茂御祖神社から

年貢の見返りに使者を通じて有難くも御分霊を授かりました。地区の者は大変喜んで旧大字免深町に社を建てて座石を祀り、免村の氏神様として崇めてきました。

寛文10年(1670)に社の付近が耕地整理されたため、止む無く現在地(早良区賀茂1丁目)に新たに社を建てて移転し免村の産土神としてお祀りし現在に至ります。

 

賀茂神社は、なまず神社として知られています。享保17~18年頃(1732~1733)西日本一帯を大飢饉が襲いました。当時、福岡、博多と近郊の郡部を含めて、約11万人の人が餓死したそうです。

人々は「髪の祟りじゃ、天の罰じゃ」と恐々としていました。村々に祀っている氏神様の親神様に災難防止の祈願に行こうと相談が彼方此方で始まりました。

免の賀茂神社も親神様である京都の賀茂御祖神社(下鴨神社)に祈願に行きました。神主さんは、「神社の使いは、ナマズです。神社の近くに川があるでしょう、ナマズさんナマズさんと

呼び出しお尋ねするがいい」とのことでした。それから2~3日したあと、代表の一人の夢枕にナマズが現れ「願いの義、之に応ずる。己を信じ精を出し努めよ。ナマズは神が使いなり、

殺生、捕食まかりならぬ、川をきれいにして安住を願え」とお告げがありました。賀茂神社の使いは、ナマズです。ナマズの神様として崇められてきました。

今では、橋の欄干などにナマズのイラストがあります。現にこの神社の前の金屑川には、ナマズが生息しています。

  

コースは、有田交差点です。戦国時代には、講倫館高校の迎には、小田部城址があったそうです。今でも「小田部」という地名が有田の近くにあります。

 

室住団地で休憩。室住団地は、昭和45年(1970)建てられました。当時は、人気のある団地でしたが、もう50年経っています。

   

団地内では、保育園児が散歩していました。我々高齢者は、保育園児とみると孫のようでついつい近づきたがります。

今日の私の姿は、マスクにサングラス。子供さんに声をかけると泣かれてしまいました。 

 

室住団地から室見川に入ります。この室見川が早良区と西区の区界になります。

 

 

室見橋のマンションでは、ゴリラがいます???

 

11:09 ゴールしました。GPSでは、距離が6,6kmでした。

 

 

 

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第15回皿倉山健康ウォーク(福岡県北九州市八幡東区)

2020-10-13 16:40:55 | ウォーキング

10/11(日)は、北九州市八幡東区で行われた「皿倉山健康ウォーク」に参加しました。以前、北九州の歩友から一回は皿倉山に登ってみたらといわれ、今回それが実現しました。

この皿倉山健康ウォークは、例年5月に開催されていましたが、今年はコロナの影響で10月に延期されました。

会場は、スペースワールド駅の近く「東田大通公園」。

皿倉山は、標高622m。権現山、帆柱山、花尾山などと共に帆柱連山を形成し、北九州国定公園の一部です。

皿倉山の名前は、神功皇后の伝説に由来します。この山に登った神功皇后が、下山するときには、日が暮れていて「更に暮れたり」といったことからこの一帯が更暮山、更暗山と呼ばれ、

それが更倉山、皿倉山に転じたといわれています。

皿倉山健康ウォークは、4コースに分かれていて 1、皿倉八景満喫コース(21km)、2、地域発見やまさか枝光うまかもんコース(8km)、3、地域発見中央町ぶらり町歩きコース(4km)、

4、ミュージアムウォークラリー(1,5km)、勿論私達は皿倉八景満喫コース21kmにエントリーしました。

     

コロナ対策として、検温、手指の消毒、マスクの着用それと参加者へのソーシャルディスタンスで2mの間隔が設けられていました。

 

 

9:00 約400名の参加者で皿倉八景満喫コーススタート。長崎街道、旧東田高炉跡、旧百三十銀行跡などを通過。ここは、8/26ふくおかウォーキング協会楽しいウォークで歩きました。

   

 

歩き始めてから20分後ぐらいから上り坂になります。ケーブルカー山麓駅からは、皿倉山登山道です。

 

  

 

帆柱十五景と皿倉八景  1937年(昭和12)に表登山道の完成を記念して、地元の子供たちに皿倉山の素晴らしい景色を募集し、さまざまな史跡や風景の中から選びだされたのが

「帆柱十五景」です。その十五景も時代と共に当時とはすっかり変わってしまい、2017年(平成29)旧八幡市制100周年を記念して皿倉山頂に到るまでの現在の素晴らしい景色の中から

8箇所を厳選したのが「皿倉八景」です。

   

大扇望(帆柱十五景) ここからの眺めは黒崎地区を中心に若松、芦屋を経て響灘が開けます。

  

四合目からけやきの森に進みます。今まで舗装面でしたが、やっと山道らしくなりました。

 

 

  

皿倉八景:巨樹老木・皇后杉  権現山北面の標高450~500mにかけ約4haにわたり、杉が林立しています。中でも巨樹老木は、樹齢400年という長い歴史を生き抜いてきた神秘的な

重々しさを感じます。神功皇后伝説に因んで、皇后杉と呼ばれています。

皿倉平にやってきました。このあたりが八合目です。

  

皿倉平から皿倉八景の「ねむの木の展望台」に向かいます。

 

 

ねむの木の展望台からは、河内貯水池や貫山、福知山、香春岳などが見渡せます。今日は、曇りで少し視界が煙っています。天気のいい日などは絶景でしょうね。

ねむの木の展望台から折り返します。

 

ここから皿倉山ビジターセンターに向かいます。この階段が年寄りにはこたえます。一気に登っていこうかとも思いましたが、歳を考え、ゆっくりゆっくり登っていきました。

この大会、スタートして歩きながらゴミ拾いをするようになっています。集めたごみ袋をここで回収されます。ゴミ袋と引き換えに北九州市のおいしい水がいただけます。 

  

ビジターセンターからの眺め

  

ビジターセンターに昇る階段はどうにかこうにか登ってこれましたが、ここから急階段です。手すりが設けられていますのでそれを伝って登ります。

途中、詩人の野口雨情詩碑があります。雨情は、昭和7年(1932)帆柱山に登られてこの歌を作ったそうです。

「くきの海辺の船もよい 船も帆がなきゃ行かれない お供についたくまわにが 山で帆柱きりました その時きった帆柱は 帆柱山の杉でした」

  

11:30 やっと皿倉山頂上に到着。東田大通公園をスタートして2時間半です。

皿倉山頂には、福岡のテレビ局のテレビ塔が建っています。

  

 

 

皿倉山からの夜景は、新日本三大夜景に選ばれています。(他は、奈良市若草山、山梨市笛吹川フルーツ公園)

 

スロープカー  ケーブルカー山上駅からスロープカーで皿倉山頂に来れます。皿倉山は、パラグライダーのメッカでもあります。

 

少し休憩して、山を下ります。

  

約1時間で山麓駅。

 

 

八幡駅前では、けやきマルシェが開催中。

  

製鐵病院の所があと1km。

 

中央町商店街では、100円商店街が開催中。

 

製鐵病院の所があと1km地点。

 

 

13:40 ゴールしました。久しぶりの20kmでしたが、何とか無事ゴールすることができました。所要時間4時間50分でした。

今日のGPSです。GPSでは、18,5kmになっていますが、ヤマップでは、20,3kmでした。どちらが正しいのだろう?

 

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南公園界隈散策(福岡市中央区)

2020-10-09 18:15:22 | ウォーキング

10/7(水)のふくおかウォーキング協会楽しいウォークは、「南公園界隈散策」でした。

集合場所は、中央区天神警固公園。参加者51名。久しぶりに福岡市内中心部の開催です。

 

警固公園の隣には、警固神社があります。警固神社は、祭神は神直日命・大直日命・八十枉津日命。警固の地名は鴻臚館近くに置かれた大宰府の防衛施設警固所にちなんだもの。

その地名は『万葉集』や藤原純友の乱、刀伊の入寇の時にも見ることができる。福岡城鎮守の神、福岡藩二代藩主・黒田忠之の産神として、歴代藩主の崇敬が厚かった神社でもある。

アクセス良好な天神市街にあり、隣接する警固公園は市民憩いの場となっている。(YOKAナビより)

 

 

国体道路沿いには、「若宮神社」がありました。いつもこの道は車で通るので気が付きませんでした。

  

国体道路を西に進み赤坂2丁目から左折します。左折すると、正面に高校女子駅伝の強豪校「筑紫女学園」があります。この学校の卒業生は、歌手の小柳ルミ子さん、松坂投手の奥方さんなどです。

筑紫女学園は、浄土真宗西本願寺派の学校です。

 

歩いていると保育園から園児たちが私たちに手を振ってくれました。子供たちの笑顔が可愛いですね。

ウォーキング協会の会員さんも殆ど(いや全員かな?)高齢者の方です。皆さん自分のお孫さんとダブらせているみたいでした。

コースは、桜坂に入りました。桜坂は、その昔、黒田藩の家老クラスの屋敷がありました。今でもこの一帯、福岡市内でも高級住宅地です。

ここから、動物園入口までは、坂が続きます。

  

  

南公園西展望台に着きました。ここで休憩。

  

休憩時間を利用して展望台に上ってみました。今日は快晴で遠くまでよく見えます。

西展望台から小笹団地の方に向かいます。

  

小笹団地は、1956年(昭和31)から建設が始まり、市内中心部から近く、約1000戸が造られました。ですが、建設から60年を経過し、建物や設備が老朽化し、空き家が目立つようになりました。

そこで2014年(平成26)から建て替え事業が行われています。

  

2回目の休憩は、小笹中央公園です。中央公園では、同年代の方がグラウンドゴルフを楽しまれていました。協会の会員さんもスカウトされたのではないでしょうか?(笑)

  

平尾大池公園の所には、スーパー銭湯があり、私も時々行っていましたが、3年前に辞められ、今は、葬儀場になっています。

 

11:22 西鉄平尾駅近くの市崎公園にゴールしました。

今日のGPSです。

ゴール後、ネットで餃子のおいしい店を探しましたので薬院駅まで歩きました。

  

名物の餃子定食を注文しました。博多は一口餃子というのも人気ですが、この店の餃子の大きさは半端ではありませんでした。

 

 

 

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10月例会「北野路を歩く」(福岡県三井郡大刀洗町大堰~久留米市北野町)

2020-10-06 10:34:49 | ウォーキング

10/3(土)は、ふくおかウォーキング協会の10月例会「北野路を歩く」でした。北野町は、現在久留米市ですが、合併前は、三井(みい)郡北野町でした

集合場所は、西鉄甘木線大堰駅。大堰駅のすぐ近くには三井郡大刀洗町役場があります。現在三井郡は、大刀洗町だけになりました。

 

参加者は44人。9:30スタートします。

大刀洗町は、クリークが多いです。昔は、海運にも使っていたのでしょうか?

 

 

金島駅で休憩。ここから久留米市に入ります。

 

広い田園地帯です。

 

大城(おおき)駅。大城駅の近くには、酒造場があります。筑後の酒というと、久留米市城島町が有名ですが、旧三井郡にも創業200年近い酒造場があります。

 

大城小学校運動場の所に「益影の井」がありますが、今日学校は運動会です。中に入れませんでした。

「益影の井」を調べてみると、益影ノ井の水は、約1600年前、神功皇后がこの地で応神天皇を出産した時に産湯として献上されたほどの名水だったと伝えられています。

高良山の御手洗の井、朝妻の井と共に三泉の一つとして、三井郡の名称の由来になったといわれています。

  

 

  

コスモス街道にやってきました。コスモス街道というと、すぐ思い浮かべるのは、狩人が1977年(昭和52)に発売した「コスモス街道」です。この歌は、長野県軽井沢が舞台です。

ここ北野町の筑後川水系陣屋川沿いの「コスモス街道」は、色とりどりのコスモスが植えられています。この日は、10月初めということで花の開花は、まだ3分咲きぐらいでした。

コスモス街道が生まれたきっかけは、昭和47年(1972)川へのごみの投げ捨てに心を痛めていた一人の住民の方が自宅前の土手に10mほどコスモスを植えたことでした。

昭和53年には、600m、昭和59年には、2,7m、現在4kmほどになり、約50万本が植えられ、「コスモス街道」と呼ばれるようになりました。

平成7年(1995)10月、この住民の娘さんが満開に咲き乱れるコスモス街道を白無垢姿で嫁がれていきました。

このコスモス街道は、毎年街道沿いの人々により管理育成されています。

    

 

北野天満宮は、天喜2年(1054年)に創建されました。時の関白藤原道隆の孫、貞仙僧正が、京都の北野天満宮より菅原道真公の分霊をこの地に祀ったことが始まりです。

祭神、菅原道真公ゆかりの花といえば「梅」。御神橋を渡り、朱色に潤色された華麗な桜門をくぐると、玉垣の内に「神梅」が枝を伸ばしている。これは、太宰府の「飛び梅」に

なぞられたもの。境内には県の天然記念物に指定されている樹齢900年の大樟があります。 祭神、菅原道真公とカッパについての伝説もあり、その伝説を証明するかのように、

現在でも「カッパの手」が天満宮の宝物として大事に保管されています。 毎年、10月の第3日曜日には県の無形文化財に指定されている、秋祭り「おくんち」が行われます。

また、「光の道」といえば宮地嶽神社が有名ですが、北野天満宮でも光の道を見ることができます。

春分の日(3月21日)、秋分の日(9月23日)頃に、北野天満宮の参道から楼門を夕日がまっすぐ差し込む神秘的な光景が現れます。(久留米の観光スポットより)

  

ゴールの西鉄北野駅までは、あと5分ぐらいです。11:27北野駅にゴールしました。

  

今日のGPSです。

 

 

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秋の草野路、山辺の道を散策(福岡県久留米市)

2020-10-01 14:47:22 | ウォーキング

9/23(水)は、ふくおかウォーキング協会 楽しいウォークで「秋の草野路、山辺の道を散策」コースを歩きました。

集合場所は、JR善導寺駅。善導寺駅は無人駅ですが、駅の待合室には、地元中学生が書いた善導寺周辺の見どころが描かれています。

 

9:30 スタート。このコースの一部は、くるめつつじマーチの40kmコースにもなっています。また、JRウォークでも時々歩いているコースです。

出発前、駅で降ろされたコンバインがこの田んぼに来ています。これから稲刈りでしょうか?

 

久大本線の踏切を渡ります。歩いていると彼岸花やススキを目にします。もう秋本番ですね。

  

久留米市と隣のうきは市はフルーツの産地です。

  

  

  

久留米つつじ園で休憩。

  

天満宮の横を通って「須佐能袁神社」へ。須佐能袁神社は、建久8年(1197)、筑後在国司草野太郎永平が建立したもので草野家代々の神社として大事にされてきました。

主神が素戔嗚尊(すさのうのみこと)、右の座に天照大御神(あまてらすおおみかみ)、左の座に菅原道真公の三座が祀られています。

現在の社殿、楼門は、明治19年(1886)に完成。本殿、拝殿、楼門が県文化財に指定されています。

また、社殿や楼門には、檜を用いた見事な彫刻が施されています。

 

  

 

草野の町は、江戸時代、久留米からの日田街道は山川町の追分で川辺道と耳納山麓へと向かう山辺道に別れ、草野はこの街道沿いの宿駅として栄えました。

この道沿いにある須佐能袁神社を中心に元禄八年(1695年)頃には長さ五丁、軒数百四十軒余りの様々な生業をもった民家が集まり、大変な賑わいでした。

草野の代表的な民家である「鹿毛家住宅」(県指定文化財)も江戸時代より醤油や櫨蝋製造(はぜろうせいぞう)、質屋などを営んでいました。

18世紀後半に建造された建物は町家としてはもっとも古いもので、かつては数十棟の蔵が屋敷内に建ち並んでいたといいます。

 

 

歩いていると、桜が咲いていました。これは、十月桜といって今頃から一月ごろまで咲きます。

 

下馬場(しもばば)古墳」は、6世紀後半に築造されたと推測され、直径は42m、高さは約5mの円墳です。現在は存在しない「薬師下北(やくししもきた)古墳」

「薬師下南(やくししもみなみ)古墳」などとともに、「吉木(よしき)古墳群」と呼ばれています。
内部には前室両側壁から玄室奥壁まで、ほぼ壁面全体に壁画が描かれており、奥壁には赤色の同心円文が数個、玄室左右両壁に同心円文や連続三角文、また玄室右壁中央部には舟と

思われる文様を見ることができます。使用された顔料(絵の具)は、赤色と青色が確認されています。
副葬品は不明ですが、墳丘からは円筒埴輪や顔に入れ墨をした男性埴輪、たすきをかけた女性埴輪などが出土しています。 (ご来福スポットより)

九州には、このような装飾古墳があります。筑豊の王塚古墳、菊池のチブサン古墳・・・・

先日この会で歩いた福岡県筑紫野市の五郎山古墳も装飾古墳でした。ここにも舟の形をした装飾があります。昔の人は、死者をこの舟に乗せて黄泉の国へつれていったのでしょうか?

素人の推理で申し訳ございません。

 

ふれあい農業公園に来ました。ここでは、貸農園があり、里芋の収穫が行われていました。

私も仕事をリタイア後は、農園を借りて野菜でも作ろうかと考えましたが、腰痛が再発するのではないかと思い、断念しました。

 

ゴールの善導寺駅が近づきました。スタート時のあのコンバインは、稲をすっかり刈り、次の田んぼに移っています。

このような高速のコンバインで刈ると早いでしょうね。私の父が農家の出だったので、私も子供の頃(確か小2~5ぐらいまで)稲刈りの手伝いに行きました。

鎌で稲を切ってまとめ、それを脱穀機にかける・・・この作業が2~3日かかっていたように覚えています。稲刈りにしても田植えにしても皆親戚が集まってしていましたね・・・・

コンバインの力は親戚何人分にあたるのでしょうかね・・・・・・

 

11:42 善導寺駅にゴールしました。今日のGPSです。

 

 

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九州オルレ奥豊後コース(大分県豊後大野市~大分県竹田市)

2020-09-29 12:27:46 | 九州オルレ

9/27(日)は、九州オルレ奥豊後コースに挑戦しました。

自宅から奥豊後コースのスタート地JR朝地駅まで車で約3時間。9時現地到着を目標に自宅を午前6時に出発しました。

大分道湯布院ICを下り、ここから約50km一般道を走ります。朝早かったせいか朝地駅には、8時50分に到着。

観光案内所でスタンプをもらい、9:10奥豊後コーススタート。

 

  

 

踏切を渡ると坂道が待っています。

  

2kmぐらい歩くと人の塊でしょうか?私たちを出迎えてくれています。よく見ると「案山子」でした。

  

歩いていると彼岸花が・・・・

 

朝地町には、水を田んぼに供給するため道路の上に水路を設けています。

    

用作(ゆうじゃく)公園にやってきました。用作公園は、江戸時代に岡藩主が家老の中川平右衛門長伸に賜った別荘地で、明治13年には吉良家に譲り受けられ、

現在では朝地町が管理しています。岡藩の参勤交代の経路に位置するこの地には、藩主中川氏が参勤交代の途上などにたびたび立ち寄るとともに、田能村竹田や頼山陽といった文人墨客も多く

来訪し、岡藩の玄関、接客所としての役割を果たしました。心字池を中心に、500本を越えるモミジやカエデなどの紅葉樹が植えられ、11月の紅葉期間中の週末や祝日にはライトアップが行われ、

多くの見物客で賑わいます。(大分県観光情報公式サイトより)

※ 用作公園の紅葉写真

 

丹字池を見ると少し紅くなっています。見ごろは、11月中旬だそうです。次回このオルレを歩くときは、紅葉のシーズンがいいかな?

  

  

用作公園を後に里山に戻ります。この風景いいですね。のどかで時間が経つのを忘れそうです。

  

普光寺の近くまでやってきました。ここまでスタートして1時間10分。約4kmです。

  

普光寺に着きました。普光寺は、高さ11,3mと全国でも最大級の摩崖仏は、約12万年前の阿蘇火山大噴火でできた「阿蘇溶結疑灰岩」の岩壁に彫られたものです。

初夏にはあたり一面に咲くアジサイが美しいことでも有名です。(奥豊後オルレパンフより)

「豊後国志」によると、6世紀九州出身で百済の王に仕えた「日羅」によって創建。日羅は豊後国内に7か所の寺院を創建し、それぞれに磨崖仏を彫ったといい、普光寺磨崖仏は

その一つとされています。

本殿の前には、「撫で仏」があります。真言「オンカカカビザンマエイソワカ」を唱えながら体の悪い処と同じ部分をさすると治るといわれています。また、知恵を授かるともいわれています。

私も頭と、ひざ、腕などをさすってみました。

  

お寺の境内から磨崖仏の方に行ってみます。

  

窟の中にも石仏があります。

   

 

普光寺で少し休憩し再スタート。遠くに傾山、祖母山が見えています。

  

このあたりが豊後大野市と竹田市の市境かな?コースは、万里が坂に差し掛かります。この舗装した道路の下には、昔の石畳があります。お殿様もこの道を通ったのでしょうね。

     

歩いていると、川の音が聞こえてきます。十川の柱状節理ももうすぐです。濁淵川にかかる狭田橋を渡ります。

  

   

旧城下町の十川(そうかわ)地区は鎌倉時代・室町時代(志賀氏)に竹田の城下町があった場所です。1594年(文禄3年)に岡城に入封した岡藩初代藩主・中川秀成(なかがわひでしげ)が現在の

竹田市大字竹田町に城下町を移転させました。現在では数軒の民家があるだけの静かな集落となっています

  

十川(そうがわ)の柱状節理です。柱状節理は、火山の噴火の際に起こる火砕流が冷えて固まる際にできる縦方向のひび割れの事。十川の河岸に見られる柱状節理は、

約9万年前の阿蘇火山大噴火の際にできたもので、太古の地球のダイナミズムを今に伝えています。(オルレ案内文より)

  

コースは、発電所の横を通り旧岡城址に向かいます。

  

右の小高い丘を走っていくものがあります。イノシシです。そういえば途中、猪が掘った穴などがありました。こちらに来たらどうしようか?と考えましたが、

イノシシは私たちには目もくれず走り去っていきました。この日、リュックにクマよけの鈴をつけていましたがこれが効果を発揮したのかな?

  

岡城址は、奥豊後の山深く、稲葉川と白滝川に挟まれた断崖絶壁の地に、天高く聳え立つ高石垣。広大な敷地に広がる山城「岡城」は、総石垣のまさに「難攻不落の堅城」です。

岡城は、兄である源頼朝に追われた源義経を迎えるため、文治元年(1185)に緒方三郎惟栄が築城したという伝説にはじまります。

時は流れ、やがて岡城は豊後国守護大友氏の一族である志賀氏の居城となります。天正14年(1586)、薩摩の島津義弘率いる大軍が、志賀親次の守る岡城を3度にわたり攻撃します。

島津軍は、険峻な要害である岡城を落とすことができずに撤退し、岡城は「難攻不落の城」として世に広く知られることになりました。その後豊臣秀吉の朝鮮出兵で主家の大友氏が失脚すると

志賀氏はこの地を去ることになりました。代わって播磨国三木城から中川秀成氏が岡城の城主となり、総勢4千人余で入部、明治4年(1871)の廃藩置県により城を去るまでの277年間、

岡城は中川氏の居城となりました。中川氏の時代に岡城の大改修が行われ、要害堅固な地形を土台とした総石垣の広大な近世城郭へと変貌していきました。

明治になり、廃城令の施行に伴い、役目を終えた岡城の構造物は、明治7年(1874)に競売にかけられ、石垣のみが残る城跡になりました。少年時代を竹田で過ごした作曲家「滝廉太郎」は、

岡城をモデルにして名曲「荒城の月」を作曲したと云われています。阿蘇くじゅうの山々や祖母山を遠方に望む岡城址では、雄大なスケールの石垣と、四季折々に変化する自然が唯一無二の

景色を楽しむことができます。(岡城址パンフより)

  

  

遠くには、くじゅう連山が見えます。

  

岡城址の駐車場で入城料金300円を払い、岡城址を後にします。ゴールまであと2km。竹田市には、大きな岩があります。これも火山の副産物でしょうか?

  

トンネルを抜けると右側に広瀬神社があります。日露戦争の旅順戦で戦死した軍人広瀬武夫は、幕末岡藩勤王の志士 広瀬重武の次男として竹田茶屋の辻で誕生。

彼を顕彰するために昭和10(1935)年に広瀬神社が建立されました。境内には広瀬武夫記念館があり遺品などを展示。鳥居の前に広瀬武夫胸像があり、神社の境内には伊豆坂から丘越えで

弥五兵衛坂を通って武家地の鷹匠町と城下町の上町通りを結ぶ江戸時代の城下道も残されています。(おんせん県大分観光より)

 

  

コースは終盤に差し掛かりました。豊後竹田駅が見えてきます。ゴールは駅の横の竹田温泉花水木です。

 

花水木には、足湯がありました。

 

スタートしてから3時間50分(13:00)にゴールしました。ここからスタート地点の朝地駅まで戻ります。発車時間まで(13:52大分行)時間があるので駅周辺をブラブラします。

 

今日のGPSです。

このコース、カンセやリボン、矢印が整備され間違わずに歩くことができました。次回は紅葉のシーズンに歩きたいと思っています。

 

 

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九州歴史資料館と周辺文化財を訪ねて(筑紫野市原田~小郡市~佐賀県基山町)

2020-09-19 18:07:04 | ウォーキング

9/16(水)ふくおかウォーキング協会楽しいウォークで「九州歴史資料館と周辺文化財を訪ねて」に参加しました。

生憎、今日は朝から小雨。それでも42人の参加でした。スタートはJR原田(はるだ)駅。

原田駅前には、日本全国の測量をした伊能忠敬の銅像が建てられています。ここ原田駅前は、長崎街道の一部です。

  

9:30 スタート。雨の為、傘をさしてのウォーキングです。10分ぐらい歩くと「五郎山公園」に着きました。

五郎山公園は、五郎山古墳を有する公園です。

 

五郎山古墳は、

筑紫野市原田にある装飾古墳で、昭和22年(1947年)3月、盗掘坑が陥没したことにより石室の一部が発見され、同年11月に福岡県教育委員会によって発掘調査が行われた墳丘径約32m、

高さ5.5mの筑紫野市最大級の古墳時代後期(6世紀)の円墳です。石室は前・後の二室を持った全長11.2mの横穴式で、南西に開口しています。一番奥の遺体を安置する部屋(玄室)は、

長さ約4.5m、幅約3m、高さ約4mで比較的大きな規模です。盗掘によって副葬品はほとんど残ってはいませんでしたが、金環、管玉、勾玉、刀子、須恵器が採集されています。

五郎山古墳の最大の特徴は、石室内部の壁面に黒・赤・緑の三色の顔料によって彩色された具象画が描かれていることです。その壁画は武器(弓・靫ゆぎ(矢を入れる容器)・鞆とも

(弓の弦から手を守る防具))、人物(巫女・騎馬像・力士)、動物(犬・猪)、船、旗、家、太陽などの多くの図柄で構成されています。おそらく、被葬者の生前の様子、

あるいは黄泉の世界を表現したものと考えられます。このような古墳壁画は他に類例は少なく、非常に貴重な装飾古墳であると言えます。おそらく6世紀に筑紫平野を治めた地域の

豪族首長の墳墓であると考えられます。 現在では、国指定の史跡に指定され、「五郎山古墳館」とともに、内部の見学をすることができます。

(筑紫野市歴史博物館『筑紫野の指定文化財』より)
この五郎山古墳は、筑紫神社の近くにあり、埋葬された方は、筑紫神社と何か関係があるのでしょうか?

  

 

五郎山公園を下りてしばらく歩くと、右側に大きな建物があります。「善隣教本部」と書いてありますが、善隣教は、まったく知りませんでした。

福岡県小郡市に入りました。雨はまだ降り続けています。小郡市は、昭和47年(1972)福岡県が「小郡・筑紫野ニュータウン計画」を打ち出したことで市北西部の丘陵地帯で

宅地開発が進み、人口増加につながりました。現在人口約58000人。余談ですが、私の先輩のお父様が一時小郡市長を務めておられましたが、残念ながら交通事故で他界されました。

  

三国の鼻遺跡は、現在の宝満川浄化センターから三国ヶ丘団地に広がっていました。遺跡は、弥生時代と古墳時代を中心とする複合遺跡で、中でも注目されるのは、弥生時代後期の

環濠集落と古墳時代前期の前方後円墳です。環濠集落は全長356mの巨大な環濠と竪穴住居群で編成されています。環濠は、最大幅4,5m、深さ2,3mで34軒の竪穴住居群を守るように

取り囲んでいます。環濠や竪穴住居の内部からは大量の土器、石器が見つかっています。前方後円墳「三国の鼻1号墳」は、全長66mの市内最大の古墳で造られたのは、4世紀中頃で

「津古生掛古墳」から始まる古墳時代前期の津古古墳群の最期を飾るに相応しい巨大古墳です。(案内板より抜粋)

   

コースは西鉄「三国が丘駅」に着きました。この三国というのは、筑前、筑後、肥前(対州領)と接しているから三国と呼ばれています。

因みに、九州は7つの県ですが、どうして九州と呼ばれたかというと、古くは、筑紫の国、豊国、火の国、日向の国と4つに分かれていましたが、律令時代、筑前、筑後、豊前、豊後、日向、

薩摩、大隅、肥後、肥前と9つに分けられましたので九州と呼ばれています。

三国が丘駅東口から構内を渡り、西口に出ます。

西口には、「三沢(みつさわ)遺跡」があります。

 

九州歴史資料館の東隣の丘陵は、三沢遺跡(みつさわいせき)という福 岡県の史跡に指定された弥生時代の集落遺跡です。弥 生時代のはるか2,000年前、この地に人々が生活し、周 辺の水田を耕し、

生活を行っていた痕跡が発掘調査で 明らかとなっています。 かつて小郡の三沢の地は風光明媚な行楽地で、近く のピクニックセンターには県内から多くの行楽客が訪 れ、

周辺に数多くある池ではカモ猟が行われ、三沢遺 跡の丘は福岡県種畜場の牧草地でした。  昭和40年代はじめ、九州自動車道建設に伴い、三沢 の地が道路建設の土取り用地の

候補地として選定され ました。それを契機として昭和45年(1970)に福岡県 種蓄場跡地の分布調査が行われて遺跡が確認され、そ の翌年の確認調査で、良好に保存された弥生時代の

集 落「三沢遺跡」が発見されたのです。  当初の予定では、土取りにより消滅することとなって いましたが、遺跡の保存活動は市民の間にも広がり、新 聞各社はその重要性や活動を報じました。

その結果、 発見された弥生時代の集落は、集落構造や当時の生活 様式を考える上で、非常に重要な遺跡であり、なおかつ 保存状態も良好であるとして、昭和47年に現状保存が 決定、

さらに昭和53年に福岡県史跡に指定され、永久 に保存されることが決定したのです。  その後、遺跡の周辺は宅地開発等により大規模に開 発されましたが、遺跡は自然豊かな森として

市民の憩 い、散策の場となっています。(九州歴史資料館展示物より抜粋)

 

この下に2200年前の「ムラ」が眠っています。

 

三沢遺跡を下りた所が「九州歴史資料館」です。ここで休憩します。

九州歴史資料館は、1973年(昭和48)に大宰府に開館。開館して30年以上経ち隣接地に「九州国立博物館」が開館することから2010年(平成22)筑後小郡レクセンター跡地に

移転しました。

  

15分の休憩の後再スタート。

 

歩いているとまた、遺跡の案内板がありました。

一ノ口遺跡  南北450m、東西190mの大きな独立丘陵地に位置していました。多くの弥生時代の集落が存在する三国丘陵の中でも中心となる集落でした。

弥生時代前期後半から中期前半(約2200年前)の竪穴式住居119軒、貯蔵穴278基、建坑228基、堀立柱建物跡4棟、道状遺構4条、棚列状遺構などが見つかりました。

道状遺構の一つは全長約600mの大規模なもので途中に門が存在したことが考えられます。その南側斜面には集落の内部と外部を隔てる棚列のあとと考えられます。

柱状群が確認されそれに囲まれた2棟の堀立柱建物群は、物見櫓の可能性も確認されています。当時の地域社会が集落への出入りを監視しなければならないような緊張状態にあったことを

知ることができます。貯蔵穴からは、炭化米、栃の実、猪の骨の他、海産物のカキ、オキシジミなどが多く出土しています。これらの貝類は有明海から持ち込まれていたと考えられ、

当時の経済活動の広さをうかがわせます。弥生前期から中期にかけて村落共同体が発展し、「クニ」になる前の段階の社会を表す集落遺跡として非常に注目されています。

(平成23年11月 小郡市教育委員会)

私は、小郡にこんな大きな弥生遺跡があるとは、知りませんでした。弥生遺跡として有名なものは佐賀県吉野ヶ里遺跡ですが、この小郡から吉野ヶ里までは約25kmです。

昔は吉野ヶ里との交流もあったのではないでしょうか?  

※(参考)クリックしてください 吉野ヶ里遺跡 

 

11:48ゴールの佐賀県けやき台駅に到着。

 

今日は雨が降っていたので急ぎ足のウォーキングでしたが、機会があれば、もう一度この遺跡群をゆっくり廻りたいと思います。

今日のGPSです。

 

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宗像市を歩く(福岡県宗像市)

2020-09-14 19:21:24 | ウォーキング

9/9(水)は、ふくおかウォーキング協会楽しいウォーク「宗像市を歩く」に参加しました。

宗像市は、福岡市と北九州市のほぼ中間に位置し、古代より中国、朝鮮との交易で繁栄した地域で宗像大社の神領で世界文化遺産「沖ノ島」があります。現在人口約97000人。

集合場所は、JR東郷駅。参加者は、39人。9:30ウォーキングスタート。

 

1kmぐらい歩くと、日の里団地が見えてきます。1971年(昭和46年)九州最大級の団地として開発され、現在70棟の集合住宅棟、3000の一戸建て住宅があり、約12000人の方が

お住まいです。建設当時、小生、まだ会社に入ったばかりの駆け出しの営業マンでしたので毎日この現場へ売り込みに行っていました。(あんまり成果はありませんでしたが)

もうあれから約半世紀が経ちます。団地では、建て替え工事などが行われていました。

 

日の里東小学校から左折。長浦池を通り、久原澤田古墳群に向かいます。

 

久原澤田古墳群は、4基の古墳で、もともとこの地にあった久原古墳群のうち、前方後円墳1基と円墳3基を1500年前の姿で復元し、周囲を散策できる公園にしました。

前方後円墳は、墳丘の全兆5m、2段築城、後円部直径26mで6世紀中ごろに築造されました。

 

 

  

古墳群の先が「宗像ユリックス」です。ここで1回目の休憩。宗像ユリックスは、1988年(昭和63年)に開業された総合複合施設です。全日本女子駅伝予選会の発着点にもなっています。

ユリックスの名前は、市の花「ユリ」と市の木「クスノキ」をかけた造語です。

 

光岡八幡宮です。この神社には、樹齢500年の大楠があります。

 

光岡八幡宮の大楠は、幹回り9,2m、高さ29,5m、枝張りは、東へ18m、西へ24m、南へ22,5m、北へ19,5m、1956年(昭和31)県の天然記念物に指定されています。

  

2回目の休憩は、産直店「かのこの里」です。時刻は10時半ですが、野菜類が安いということを聞いていたので中に入るとほとんどの野菜が売り切れです。

宗像市には「道の駅むなかた」がありますが、道の駅は、観光客が主体、一方のかのこの里は、地元の方が買いに来られるそうです。

  

かのこの里の前は、唐津街道です。2010年(平成22)初めて唐津街道を歩いた時、この道を歩いたっけ・・・・・

案内板によれば、「原町宿は、赤間宿と畦町宿の中間にあり、黒田藩(福岡藩)、唐津藩の参勤交代の時の休憩所になった」と書いてます。

 

唐津街道沿いに歩いていると自由ヶ丘という住宅地です。小生がまだ中学生の頃はこの辺りは「森林都市」という分譲地だったのでは?

  

自由ヶ丘から田久へ。

11:30 JR赤間駅にゴールしました。距離は約8km。

  

今日のGPSです。

 

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