よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

海風を感じながら海の幸「福吉一粒牡蠣」を堪能ウオーキング

2017-01-30 18:30:07 | JR九州ウオーキング

1/28(土)は、久しぶりにJR九州ウオーキングに参加しました。

集合場所は、JR筑肥線大入(だいにゅう)駅。この駅は、隣の「福吉駅」の切符「大入⇔福吉」が縁起のいい切符ということで人気がありました。

それも交通系のカードの普及により両駅とも無人駅になり、この切符が見れなくなりました。

「大入(だいにゅう)」とは、ちょっと難解な地名ですが、多分このあたりが大きな入江になっていたから「大入」と名づけられてのではないでしょうか?(私の勝手な解釈ですので詳しいことはわかりません)

福吉は、昔から、福井地区と吉井地区があり、その頭文字をとって「福吉」と名づけられました。

 

大入駅から旧道を通ります。ここからは海岸線を歩きます。ちょっとコースを外して海岸に出ました。やはり入江になっています。

このあたりは、リゾートマンションもあります。

   

再びコースに戻ります。国道202号線を抜け、産直店「福ふくの里」へ。

ここは、毎年店の前の畑に「菜の花」を植えています。お店では、食用の菜の花が配られました。

  

福ふくの里から少し坂道を登り、大法寺、白山神社、妙現寺へ。

白山神社は、石川県の白山比咩神社を勧請したもの。祭神は、菊理姫命(くくりひめのみこと)。相殿には、伊弉諾尊、伊弉册尊が祀られています。

菊理姫命は、伊弉諾尊、伊弉册尊夫婦喧嘩の仲裁をしたことで知られており、「くくり」というのは、紐をくくるというように離れているものを結ぶ意味があります。

このことから白山は、縁結びの神様として御神徳を仰がれています。

  

妙現寺には、高さ5Mぐらいの大仏様があります。

  

このあたりが一番高い所。これから下りて行きます。まだ膝の具合が本調子ではないので下りには非常に気を使いゆっくりゆっくり下ります。

福吉海岸に着きました。朝日森神社の前には、「力石」の説明があります。文政年間、吉井浦と福井浦は、廻船問屋や海運業で賑わっていました。その時の若者が力試しに使った石が置いてます。

  

今日のウオーキングの目玉は、「福吉の焼き牡蠣」です。JRウオーキングセット1000円で牡蠣、サザエ、緋扇貝が入っています。

飲み物も1杯サービスですが、お昼からお酒はちょっと飲めませんのでソフトドリンクをお願いしました。

焼き牡蠣は、最高ですね。

  

食べ終わって歩き出すと木に何か白いものがあります。これは、潮が引くのを木に止まって待っているサギです。

  

 

しおさい公園に行くと「吉井浜思ひ出の歌」の歌碑があります。歌碑の由来は、「海のない佐賀平野のど真ん中にある旧佐賀高校(現佐賀大学)水泳部は昭和3・4・5年とインターハイで三連覇達成。

昭和9・10年インターハイ で連覇達成。全国高校水泳大会などで素晴らしい足跡を残した。その礎になったのが吉井浜です。大正12(1923)年、大法寺(二丈福井)を宿舎に、

この地で合宿を行っていた旧制佐賀高等学校(現佐賀大学)の水泳部員・吉原正俊さんが、吉井浜の美しさと福吉の人々の温かさ・優しさに感動して作詞、同じ水泳部員の山口正之さんが作曲したものです。

その歌はこちらです。

 https://youtu.be/bPS_rOzSYto

  

再びコースに戻ります。福吉の町は、旧唐津街道になっています。10年前、この唐津街道(若松~唐津)を歩いた時この道を通りました。

唐津街道は、202号線と交差する所を二丈カントリーの方になります。

  

喜八荘で折り返します。ここの海鮮丼も絶品です。

   

喜八荘を折り返しまむしの湯に向かいます。途中横断歩道に面白いものがありました。

   

お昼は、浜チャンポンの「海鮮チャンポン」を頂きました。店内は、ウオーカーで満員。20分ほど待って待望のチャンポンにありつけました。

そのあとも次々にウオーカーの方が入ってこられました。

  

12:25 ゴール。8KMでしたが、ゆっくりゆっくり歩きました。

ウオーキングのポイントが40ポイントになり景品と交換しました。リュックです。

  

 

 

 

  

 

 


第25回(2017年)いぶすき菜の花マーチ2日目指宿コース22km

2017-01-26 18:17:19 | オールジャパンウオーキングカップ

指宿菜の花マーチ2日目指宿コース。

昨年は、指宿地方何十年ぶりかの大雪で2日目のコースをキャンセルしました。そのリベンジでもあります。お天気は、今の所大丈夫ですが、9時ごろ雨が降る予報。

一応、レインコートと傘を準備します。朝食を終え、会場の「ふれあいパークなのはな館」へ。

本来、22kmコースは、8:30スタートですが、お天気が夕方から荒れるそうなので30kmコースと一緒にフライングスタートします。

   

7:00 スタート

   

約4km地点が「揖宿神社

 揖宿神社は、天智天皇御滞興の縁の地として、慶雲3年(西暦706年)にこの地に建立され、航海安全、諸業繁栄の守護神として崇敬されています。

特に、薩摩藩代々藩主の尊崇殊の外篤く、32度に及ぶ社殿の改修等全て藩費をもって施行されております。また、目通り8メートル、樹齢1000年を越える大楠8本を始め樹齢500年の
大銀杏・椋・那岐等の大樹が群生し、鬱蒼とした森を形成していることから、「揖宿神社の社叢(しゃそう)(森)」として鹿児島県天然記念物に指定されています。
  
6km地点の大門口交差点が22kと30kの分岐点。22kは、直進します。ここからは、錦江湾が見えてきます。天気が良ければビューポイントでしょうね。
  
国道226号線宮ヶ浜に来ました。歩いていると「日本一のアコウの木」というプラカードがありました。
アコウの木は、クワ科ノ半常緑高木で樹高は約10 - 20m。樹皮はきめ細かい。幹は分岐が多く、枝や幹から多数の気根を垂らし、岩や露頭などに張り付く。新芽は成長につれ色が赤などに変化し美しい。
葉は互生し、やや細長い楕円形でなめらかでつやはあまりなく、やや大ぶりで約10 - 15cm程である。年に数回、新芽を出す前に短期間落葉する。
ただし、その時期は一定ではなく、同じ個体でも枝ごとに時期が異なる場合もある。
 5月頃、イチジクに似た形状の小型の隠頭花序を、幹や枝から直接出た短い柄に付ける(幹生花)。果実は熟すと食用になる。
 アコウの種子は鳥類によって散布されるが、その種子がアカギやヤシなどの樹木の上に運ばれ発芽して着生し、成長すると気根で親樹を覆い尽くし、枯らしてしまうこともある。

そのため絞め殺しの木とも呼ばれる。これは樹高の高い熱帯雨林などで素早く光の当たる環境(樹冠)を獲得するための特性である。琉球諸島では、他の植物が生育しにくい石灰岩地の岩場や露頭に、

気根を利用して着生し生育している この報国神社のアコウの木は、樹齢470年以上、幹周り14,6m、高さ22mです。

  

ここで前方を歩く、ぼくちゃん&相棒さん一行に追いつきました。しばらく一緒に歩きます。

宮ヶ浜は、指宿発祥の地です。日本集落の源流とされる約3万年前~1万5千年前の遺跡が発見されたのが、宮ヶ浜地区が“指宿発祥の地”と言われる所以。

江戸時代には、海を超えて才を競う商人たちがひしめく町となり、その歴史が、現在では、明治~昭和時代初期の商家が居並ぶレトロな町並みの中に、国や市の有形文化財が多くある地区を形成しています。

中俣家は珍しい三段の屋根。明治37年(1904)当時は、呉服屋として開業したそうです。裏に回ると屋根は二段でした。

  

指宿小学校が最初のチェックポイント。ここで8,5km地点。

  

指宿小学校から海岸に出ます。宮ヶ浜駅には快速「菜の花号」が入ってきました。(宮ヶ浜は通過)

  

歌手の「長渕剛」さんのお母さんは、ここ宮ヶ浜の出身です。長渕さんも子供の頃この海岸で泳いだそうです。

遠くに霞んでいますが、桜島が見えます。

  

コースは海岸沿いに歩きます。途中30kmのトップ集団から抜かれました。速いですね。

吹越カンタ公園が給水所。ここでは、鹿児島の郷土菓子「げたんは」(下駄の歯に似ているから)が出されました。

  

知林ヶ島(ちりんがしま)が見えてきました。鹿児島湾(錦江湾)に浮かぶ美しい無人島です。3月から10月にかけての大潮又は中潮の干潮時には、長さ約800mの砂の道(砂州)が出現し、

知林ヶ島に歩いて渡ることができます。日本版「珍島」ですね。

陸と繋がる島であることから、縁結びの島とも言われ、島には周遊道路や展望台、「チリンズベル」と名づけられた鐘などが整備されています。

平成28年9月20日に接近した台風16号に伴う高波により、砂州が流失しました。現在渡島は砂州が出来るまで禁止されています。

    

魚見岳は、かつて漁師が、その山頂から錦江湾の魚群を見つけて漁に出たと言われることから「魚見岳」の名がつけられたといわれ、その眺望の良さは抜群。

指宿市街地をはじめ知林ヶ島や干潮時の砂州、晴天時には開聞岳、遠くは桜島まで眺望できます。

その形がハワイのダイヤモンドヘッドに似ているため、指宿が「東洋のハワイ」と呼ばれています。

  

ここからゴールの「なのはな館」までは、もう1kmぐらいの距離ですが、コースはこれから指宿港を経由し、指宿駅の方へ行きます。

  

前から来る人が、「虹が出ているよ」と教えてくれたので振り向くと虹が出ていました。写真にはちょっとはっきり写りませんでした。

後日、定刻時間に出発した人に聞くと、宮ヶ浜あたりで雨に遭ったそうです。

 

砂むし会館「砂楽」です。もうお客さんが砂蒸しを楽しんでいます。

  

橋牟礼川(はしむれがわ)遺跡です。橋牟礼川遺跡は,十二町下里にある。大正7・8年に京都帝国大学教授の濱田耕作博士らの発掘によって,開聞岳の火山灰をはさんで上から弥生土器,

下から縄文土器が出土することが確認され,日本で初めて縄文土器が弥生土器より古いことが証明されました。この成果を受け,大正13年に国指定史跡に指定。その後の調査によって,

貞観16年(874年)3月25日の開聞岳の火山灰で埋まった平安時代の集落も発見され,国内でも貴重な火山災害遺跡として知られています。

  

2回目のチェックポイントは、「時遊館COCOCOはしむれ」です。ここには、橋牟礼川遺跡が展示されています。

  

ここでは、菜の花やオクラのお漬物が接待されました。

   

指宿駅が20km地点。昨年はこのあたり一面雪でした。

  

  

ゴールの「なのはな館」が見えてきました。

 

11:50  22kmゴール 

 

  

ゴールの後、大会参加者を見ると、2日間で6313人。毎年1万人以上の参加者で賑わうのですが、ちょっとさびしいですね。

来年は、NHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」ですので、沢山の方が鹿児島に来てくれればいいですね。

2日目指宿コース22kmGPSです。今日もスタートのスイッチを押し忘れました。(途中からになっています)  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 
 
 
 

 

 

 

 

 


2017 いぶすき菜の花マーチウェルカムパーティ

2017-01-25 04:12:54 | オールジャパンウオーキングカップ

1日目ゴールの後、ウェルカムパーティまで時間がありましたので、長崎鼻の方に向かい散歩しました。

やはり、開聞岳はどの方向からみてもきれいですね。花畑では、金魚草も咲き出していました。

  

再び会場に戻ります。会場前には、樹齢400年のアコウの木がありました。この木がフラワーパークのシンボルツリーになっています。

  

もうチューリップが咲いていました。日本一早いチューリップだそうです。

  

16:00 菜の花マーチウェルカムパーティが始まりました。

豊留指宿市長など御来賓の挨拶の後、パーティが始まりました。

 

  

イベントでは、指宿市、鹿児島市に住む3歳~18歳までの子供さんで結成されている「山川ツマベニ少年太鼓」の皆さんの演奏です。

まだ幼稚園児ぐらいのお子さんも演奏されています。

  

さて、抽選会ですが、私達夫婦、昨年まで全国のウオーカーの集いに参加し、夫婦共、5回連続何かが当たっています。

今回の目当てはムーンスターのシューズです。

私の方は、初めの方でTシャツが当たりました。家内は、鉢植えのブーゲンビリアが当たりました。 

これで6回連続で夫婦共当たりました。(日頃仲がいいからかな????)

注目のシューズは、3人いて、一人は同じテーブルの東京Hさんの御主人。おめでとうございます。

パーティは、18時ごろ終り、バスで宿泊先のホテルまで送っていただきました。

 


第25回(2017年)いぶすき菜の花マーチ1日目山川コース25km(鹿児島県指宿市)

2017-01-24 07:07:22 | オールジャパンウオーキングカップ

今年もまた指宿菜の花マーチに参加しました。今年で8回目の参加です。

1日目は、山川ステージ。会場は、フラワーパークかごしま。会場には全国からのウオーカーが集まっていました。私は25kmにエントリー。

       

8:30スタート。

  

 最初は、フラワーパークの中を歩きます。園内の干支の花壇、今年は酉年ですが、「酉」の形に植え付けられています。また花壇と開聞岳のコラボもいいです。

 

    

絶景の場所

竹山は、江戸時代から修験道の場として、天狗伝説が残っています。奇型の山です。開聞岳には、菜の花がよく似合いますが、ここの菜の花は、まだ蕾状態でした。

  

常盤建設の所では、しょうが湯、と甘い金柑が振る舞われました。

  

指宿は、ソラマメの生産量が日本一です。茹でたソラマメもおいしいですが、焼きソラマメも絶品です。(自分のお土産に道の駅で買って帰りました)

   

地熱発電所、山川中学を通り、国道226号線に合流。ここから鰻温泉まで長い上り坂です。例年このあたり、土筆が何本か顔を出していますが、今年は見つけることができませんでした。

約14km地点のうなぎ湖畔が1回目のチェックポイント。

  

元々は、火山の噴火口だった「鰻池」。

集落のあちらこちらで白い噴気をあげる「スメ」と呼ばれる温泉の蒸気を利用したカマドがあります。現在も、家庭で日常の煮炊 きに使われています。

今年も、温泉卵、ふかしイモ、茶ブシなどが振る舞われました。何回も参加していますが、ここでのお接待が楽しみになっています。

  

来年(2018年)のNHK大河ドラマは、「西郷(せご)どん」です。

明治時代の初期には、征韓論に敗れ下野した西郷隆盛が一ヶ月ほど逗留して狩猟の日々を過ごした所でもあます。

その折、佐賀の乱に敗れた江藤新平が西郷を訪ねてきて激論を交わしたことが知られています。江藤は薩摩士族の旗揚げを西郷に請いましたが西郷は動きませんでした。

西郷が逗留した場所には今は家はありませんが、 記念碑と西郷の小さな像が建っています。

ドラマでは、この鰻温泉のシーンもあるのでしょうか?楽しみにしています。

鰻温泉は、入浴料200円。少し熱めの温泉です。

  

歩いているといろんな花に出会います。花を見ていると何だか気分もうきうき状態です。

  

焼酎「白露」工場の所から見る開聞岳もビュースポットです。

   

西大山駅が2回目のチェックポイント。ここの光景も絵になります。

    

サツマイモ伝来の地

宝永2年(1705)山川郷岡児ヶ水村の利右衛門は、琉球からカライモを持ち帰り、栽培普及に努めました。このカライモは、度重なる飢饉から薩摩の人を救ったと言われています。

地元では、利右衛門の徳を教え、徳光(とっこう)神社を建立し、「からいもおんじょ」と敬愛の念をこめて、代々今も伝えている。カライモは後に「サツマイモ」と呼ばれるようになりました。

13:40 フラワーパークかごしまへゴール!所要時間約5時間でした。

 

    

このあと、16時からのウエルカムパーティに参加します。 (つづく)

今日のGPSです。

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 


東海道道草ウオーキング№20 「御油宿~吉田宿」(豊川市~豊橋市)

2017-01-19 14:35:58 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

1/7(土)今回の東海道歩き最終日。

折角豊橋まで来ましたので街道歩きの前に日本三大稲荷のひとつである「豊川稲荷」に行くことにしました。

JR豊橋駅から飯田線で豊川駅へ。豊川駅から豊川稲荷まで徒歩3分。

  

豊川稲荷は、正式の寺号は妙厳寺(みょうごんじ)。詳しくは「円福山 豊川閣 妙厳寺」(えんぷくざん とよかわかく みょうごんじ)と称する寺院です。境内に祀られる鎮守の稲荷(吒枳尼天)が有名なため、

一般には「豊川稲荷」の名で広く知られています。豊川稲荷は神社ではないものの、商売繁盛の神として知られており、境内の参道には鳥居が立っています。また、日本三大稲荷の1つとされています。

 

総門を潜り左に行くと、狐様が迎えてくれます。(ちょっと怖い顔をされています) 今日は土曜日ですが、朝早い為、参拝の方もまばらです。お正月3が日は、賑わったでしょうね。

  

参拝を終え、「狐塚」に向かいます。

 

たくさんの狐様の数。神聖な世界。何かパワーが宿っているみたいです。

  

御朱印をもらい、名鉄豊川稲荷駅から昨日のゴール地「御油」に向かいます。

 

 国府(こう)駅で御油方面の普通電車に乗り換えようとしましたが、待ち時間が20分以上あるため、国府(こう)駅から御油に向けて歩きました。※国府と書いて「こう」と読みます。ちょっと難解ですね。

 

行力信号の近くには、「姫街道追分」があります。

姫街道は、磐田市の見附宿から愛知県の御油宿までの十五里四町(約60km)の距離で、江戸時代、 東海道の新居宿が、江戸から下る女性に対して、厳しい取調を行ったので、

それを避ける女性がこの道を利用したことから、この名前が付いたといわれています。見附宿で再び東海道に合流します。

その横には、「国幣小社砥鹿神社道」、「秋葉山三尺坊大権現道」の石碑も立っています。砥石神社は、平安時代初めころから、三河国の神社では筆頭格の扱いを受けています。

やがて「三河国一宮」として記録に登場するようになり、これが一宮町の名前の由来にもなっています。(名鉄豊川稲荷駅の次の駅)

家運隆昌、交通安全、厄難消除の御神徳で東海の総鎮守砥鹿神社は大己貴命(おおなむちのみこと)大国さまを祀る旧国幣小社で東海地方の総鎮守の神として各方面から篤い崇敬をいただいています。

秋葉山三尺坊大権現は、浜松天竜区にある秋葉神社でしょうか?

 

信用金庫駐車場の端には、「御油の一里塚」があります。江戸まで76里(約298km)。

その先が、「大社神社」。社伝によれば、天元・永観(978~985)の頃、時の国司 大江定基卿が三河守としての在任に際して、三河国の安泰を祈念して、出雲国大社より大国主命を勧請し、

合わせて三河国中の諸社の神々をも祀られたとあります。

社蔵応永7年(1400年)奉納の大般若経典書には、奉再興杜宮大社大神奉拝600年と有る事から、天元・永観以前より当社地には何らか堂宇が存在し、そこへ改めて出雲より勧請して、

神社造営をしたものと考えられます。

当社には、徳川14代将軍 家茂が長州征伐に際して、慶応元年5月8日、戦勝祈願をされ、短刀の奉納をされております。

また、明治5年(1872年)には、大社神社は国府村の総氏神となりました。

「大社」という名前から、出雲大社の大国主命を勧請したのですね。なるほど。

  

「八平次記念館 八の蔵」があります。古民家を利用したレンタルライブハウスみたいです。詳しいことは、わかりませんでした。

 

国府駅前に通じる新栄2丁目を過ぎると、「薬師瑠璃光如来」があります。母の死を嘆く娘に行基が仏像を刻んで提供すると、娘は寺を建立したそうです。

その少し先には、秋葉神社の常夜燈があります。

  

街道は、国府高校の所で1号線と合流。白鳥橋を渡ると斜め右へ。しばらく歩くと「伊奈町」に入ります。

太鼓屋さんの横に「伊奈の一里塚」があります。

  

伊奈村立場茶屋跡加藤家」(茶屋本陣跡) 芭蕉の句碑もあります。説明文を見ると、

一 茶屋の地名
 東海道吉田宿と御油宿の中間にあたり立場茶屋が設けられたので茶屋の地名ができた。
二 加藤家と良香散
 茶屋のうち格式の高い加藤家(初代は大林平右衛門)では、「良香散」という腹薬が売られ、この薬は茶屋の地名よりも有名であった。交通の変遷によって今はこの古井戸一つ残すのみとなった。
三 明治天皇御旧跡
 東京遷都の時、明治天皇はこの加藤家で御休憩になられた。その時天皇が使用された箸が、牧野英一氏宅に保存されている。
四 俳人烏巣
 烏巣は、加藤家の生まれで、謙斎といい、芭蕉と親交があり、京都で医者をつとめていた。
五 芭蕉句碑
 芭蕉が烏巣方へ一泊した時の作。「かくさぬそ 宿は菜汁に 唐が羅し」
六 烏巣句碑
 「ももの花 さかひしまらぬ かきね哉」           小板井教育委員会

  

街道は、小坂井町に来ました。「莵足(うたり)神社」があります。

7世紀後半頃に建てられたといわれる菟足神社は菟上足尼命(うなかみすくねのみこと)が祀られています。稲の豊作を願った「田まつり」、風に対する信仰を寄せた「風まつり」が行われます。

風まつりの際に販売される「風車」は郷土玩具として多くの人が買い求めに来ます。

また、弁慶の書と伝えられている「大般若経」585巻は国の重要文化財に,梵鐘(ぼんしょう)は県の有形文化財に指定されています。(豊川観光協会HPより)

風祭りは、毎年4月第2土、日に行われますが、手筒花火も行われることで有名です。

  

豊川放水路です。ここを渡ると豊橋市になります。豊川は、洪水に悩まされましたが、昭和40年(1965)豊川放水路が完成しました。

  

豊橋市に入るとすぐ右側に「豊橋魚市場」があります。今日は、土曜日ですので閉まっているみたいです。

 

更に進むと、国指定史跡「瓜郷(うりごう)遺跡」があります。

この遺跡は、弥生時代に属する土器、石器、骨角器、木製の農具などが出土しており、農耕の他に漁撈、狩猟の生活が行われていたことを示しています。

奈良県の唐古遺跡、静岡県の登呂遺跡とともに低地弥生遺跡の一つとして有名です。

  

聖眼寺には、「松葉塚」があります。貞享4年(1687)11月23日、芭蕉が愛弟子杜国の身を心配して渥美郡保見(現渥美町)の里を訪れる途中、当寺に立ち寄り詠んだものといわれている。

左の自然石の方が「古碑松葉塚」と呼ばれ、寛保4年(1744)、芭蕉の没後50周年を記念して建てられたもの。  松葉(ご)を焚(たい)て手ぬくひあぶる寒さ哉

右のものが「再建松葉塚」と呼ばれ、明和6年(1769)に建てられたもの。

  

「豊橋」に来ました。豊川に架かるこの豊橋は、豊橋市の地名にもなった橋です。(江戸時代まで、豊橋は。「吉田」と呼ばれていました。)滋賀・瀬田の唐橋、岡崎の矢作橋とともに東海道三大橋と言われていました。

当時は、吉田大橋と呼ばれていました。広重の「吉田宿」の浮世絵は、この豊橋が描かれています。(お城側から見たもの)

 

橋を渡ると右側に大正年代に造られた「豊橋」の一部が展示されています。

  

豊橋のマンホールです。

一つは、吉田城と手筒花火、一つは、豊橋公会堂と市電、一つは、朝日の中を出航する船と人々と町がデザインされています。

   

船町には、高札場がありました。

  

豊橋市の中心部札木に来ます。

 

吉田宿本陣は、現在鰻屋さんの所にありました。吉田宿は、本陣2、脇本陣1、旅籠65軒。東海道に面した「表町十二町」と「裏町十二町」からなり、東海道の中でも大きな宿場の一つでした。

 

この鰻屋さんには、「べっぴん」語源発祥地の案内板も設置されています。現在NHK朝ドラ「べっぴんさん」が放映されていますが、案内文によると、

明治初期、田原藩家老渡辺崋山の息子、渡辺小華の発案により「すこぶる別品」の看板を掲げ鰻を売り出した所、大好評を得、その言葉が全国に広がってゆき、極上品は、「べっぴん」と呼ぶようになって

そのあとの明治中期には、美しい女性「美人」にも使われるようになりました。丸よは、その伝統の「べっぴん」の鰻を今も焼き続けております。

  

  

ついでに吉田城に行きました。途中の吉田神社では、「手筒花火発祥の地」の看板があります。

吉田神社の手筒花火は、毎年7月第3金曜日の祇園祭で開催されます。テレビで見たことはありますが、近くで見ると迫力満点でしょうね。

  

吉田城は、永正2年(1505)今川氏の被官であった一色城(豊川市牛久保)の城主牧野古白によって構築され、今橋城と呼ばれていました。以来東三河の要衝でした。

今川、武田、松平(徳川)ら戦国大名の激しい攻防を経て、吉田城と改称されました。

永禄8年(1565)徳川家康は、今川氏の東三河における最大拠点であった吉田城を攻略し、ここに酒井忠次を置きました。

天正18年(1590)豊臣秀吉により、家康が関東移封となってから池田輝政が入城し、15万2000石の城地に相応しい拡張と城下の整備が行われましたが、未完成のまま明治を迎えました。

現在は豊橋公園として整備されています。

  

  

 豊橋公会堂は、昭和6年(1931)建築の半球ドームと鷲がシンボルのロマネスク様式の建物で、国指定登録文化財。完成以来多くの催しが行われ、現在も講演会の開催や式典、舞踊大会、歌謡大会等

幅広く利用されています。過去には太平洋戦争末期に市役所機能が移された時期や、豊橋中央公民館や市民窓口センターとして使用された時期もありました。(豊橋市観光協会HPより)

 

今回の東海道寄り道ウオークは、ここまでとし、市電で豊橋駅に移動しました。お昼がまだでしたので豊橋市B級グルメの「豊橋カレーうどん」を頂きました。

豊橋カレーうどんには、5か条があります。

1.自家製麺をつかうこと。2、器の底からご飯、とろろ、カレーうどんの順に入れる。3、豊橋産うずらの卵使用。4、福神漬、又は壺漬、紅ショウガを添える。5、愛情をもって作る。

食べ方は、1.カレーうどんを普通通りに味わう。2、うどんを食べ終わるとうどんの下からとろろがのった御飯が出てくる。カレーと絡めて二度目の味を楽しむ。

先ず、お箸でうどんを食べ、次にスプーンでご飯を頂きました。何かカレーライスにうどんがのっているという感じでした。これって結構いけます。お薦めです。

  

帰りは、豊橋から新幹線乗換で博多に戻りました。

1/7 御油宿~吉田宿(豊橋)GPS

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


東海道道草ウオーキング№19 「藤川宿~御油宿」(岡崎市~豊川市)

2017-01-17 18:53:55 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

藤川宿から赤坂宿までは、2里9町(8,8km)

藤川宿の東棒鼻を出て市場の信号で1号線と合流。これより「舞木町」にはいります。

舞木の地名は、山中八幡宮記の一節に「文武天皇(690~707)の頃、雲の中より神樹の一片が神霊をのせて舞い降りる」と書いてあることから「木が舞い降りる」を取って「舞木」と付けたと言われています。

近くには、山中八幡宮、山中城址もあります。

  

街道は再び1号線に合流し、本宿(もとじゅく)町沢渡から旧道に入ります。

本宿は、名の通り、額田郡駅家郷や山中郷に属し、古代道路、鎌倉街道沿いの街として古くから栄えました。江戸時代に入り東海道が整備されると、藤川宿と赤坂宿の中間地点にある村として利用され、

のちに両宿の助郷村となりました。江戸時代初期は天領及び法蔵寺領でしたが、1698年に旗本柴田勝門が入り、本宿陣屋を構え、以降旗本柴田氏が、法蔵寺とともにこの地を治めました。

享和2年(」1802)本宿村方明細書上帳によると、家数121軒、村内往還道19丁余、立場茶屋2カ所があり、旅人の休息の場として繁盛をきわめました。

 

宇都野龍碩(うつのりゅうせき)邸と長屋門】 

宇都野龍碩 は、本宿村医家宇津野氏は古部村(現岡崎市古部町)の出といわれ宝暦年間(1751~1763)三代立碩が当地において開業したのが始まりといわれています。

七代龍碩はシーボルト 門人青木周弼 に、医学を学んだ蘭方医として知られています。 安政年間当時としては画期的ともいわれる植疱瘡(種痘)を施しています。

街道の中ほどには、「本宿の一里塚」、「十王堂跡」があります。

   

本宿の陣屋は、元禄11年(1698)旗本柴田出雲守勝門(柴田勝家子孫)が知行所支配の為本宿村に陣屋を設けました。以来明治に至るまで存続しました。

陣屋代官職は、冨田家が世襲しました。現在は冨田病院の敷地になっています。。尚、昨年亡くなられた作曲家の冨田 勲さんは、同家の出身です。

  

本宿の東側には、「法蔵寺」があります。大宝元年(701)僧行基の開山と伝えられています。松平初代親氏が深く帰依して1387年に堂宇を建立。寺号を「法蔵寺」としたと言われています。

家康が幼いころ、手習いや漢籍を学んだとされ数々の遺品が残されています。桶狭間の戦い以後、家康は法蔵寺に守護不入の特権を与えるなどしました。

境内には、新撰組で有名な「近藤勇の首塚」も祀られています。

 

 【御草紙掛松】徳川家康が幼少時に学問を学んだ地で、その当時家康が手習いで使用した草紙を掛けたとも、家康自ら手植えしたとも云われ「御草紙掛松」や「御茶屋の松」、「御腰掛の松」と

呼ばれるようになりました。平成17年(2005)まで3代目の松がありましたが虫害により朽ち果て、平成18年(2006)に4代目の松が植樹されました。

家康縁の地として重要視され文化12年(1815)には旗本木造清左衛門俊往が石柵を寄進しています

【法蔵寺団子】この団子は、法蔵寺門前の茶店で売られていたことから法蔵寺団子と呼ばれるようになった。

本宿村方明細書上帳(享和2年・1802)に「此ノ村名物ハ早縄並餅団子・草鞋ニ御座候。」また、参河聡視録(みかわそうしろく)本宿村記(嘉永2年・1849)にも

「法像寺辺り前後茶店ニテ餅ニ醤油ヲ付テ炙リ売ル 名高シ。」と書かれている。以後、昭和の初めごろまで売られていた。

この団子の特色は、一本の串に指で押し平たくした五個の団子を炙り溜りで味を付けたものである。

この独特の風味が、近郷近在はもとより、東海道筋の名物団子として、評判となったのである。(平成9年3月 郷土史本宿研究会)

  

本宿東入口、冠木門を過ぎ、本宿深田の信号を過ぎると「豊川市音羽町」に入ります。

  

しばらく1号線に沿って歩きます。このあたり1号線の道路幅が広く車はスピードを出して過ぎ去ります。一応歩道はありますが、あの勢いで歩道に向かってくると非常に怖いです。

音羽町は、旧宝飯郡でしたが、2008年豊川市と合併しました。

長沢小学校の所に「長沢城跡」の案内板があります。それによると、長沢は東西三河の境目にあり、両側から山が迫る地形で、中世において戦略上重要な位置であった。

東海道を挟んで南(御城山山頂)に岩略寺城跡、北(古城団地)に長沢城跡がある。長沢城は、東西約200m、南北約250mに及ぶ大規模なもので、主郭の全面を土塁や三重の堀が巡り、南側に出入り口があった

現在は宅地化されて、堀の一部をわずかに残すのみである。また、寛永11年(1634)家光上洛のとき、休憩所として建てられたといわれる御殿が、長沢小学校敷地内にあった。

そのすぐ先には「長沢の一里塚」があります。    

  

赤坂宿」に入りました。御油宿や吉田宿とともに多くの飯盛女を抱えていた赤坂宿は、「御油や赤坂、吉田がなけりゃ なんのよしみで江戸通い」という程活気のある宿場でした。

赤坂宿は、本陣3、脇本陣1、旅籠83、総家数400軒、人口1304人の規模でした。

【赤坂陣屋跡】陣屋とは代官所 ともいい、年貢の徴収や訴訟などを取り扱ったところであった。 赤坂陣屋は、三河の天領支配の中心であり、当初この奥の大藪地内に設けられたが

元禄二年(1689)神木屋敷(現赤坂保育園附近)に移された。 幕末に三河県役所と改められた。手狭になったため明治二年(一八六九)再び大藪地内へ新築移転された。廃藩置県後、明治五年に廃止となった。

 

陣屋跡のすぐ向えには、平成14年赤坂宿の旅籠をイメージした休憩施設「よらまいかん」があります。ここで少し休憩。

    

歌川広重の「赤坂宿舎招婦図」のモデルになった「大橋屋」があります。旧音羽町のマンホールにもこの赤坂宿舎招婦図がデザインされています。

大橋屋は、屋号を「伊右ヱ門 鯉屋」といい、正徳6年(1716)の建築といわれる。赤坂の旅籠の中では、大旅籠に属し、間口9間、奥行き23間ほどであった。

入口の見世間、階段、二階の部屋は往時の様子を留めています。つい最近まで営業されていましたが、平成27年3月廃業され、この建物を豊川市に寄付されています。

この浮世絵に描かれている蘇鉄は、浄泉寺境内に移植されました。

 

尾崎屋さんは、赤坂宿の民芸品店です。曲げわっぱと呼ばれる木製の弁当箱などが売られています。

  

 

宝暦年間(1751~1764)に建立された関川神社には、芭蕉の句碑「夏の月御油よりいでて赤坂や」があります。

  

赤坂宿から御油(ごゆ)宿までは、1,7km。すぐ目につくのは国指定天然記念物に指定されている「御油の松並木」。

御油の松並木は、江戸時代の初め東海道の並木として御油~赤坂間で整備され幕府によって管理されていました。明治に入り、宿場制度が解体され管理の所在がはっきりしなくなりましたが、

地元御油町で管理を続けました。その後、太平洋戦争の為、多くの松が燃料として切り倒されていることを憂慮し、御油町の人達が存続させるため天然記念物指定を受ける働きかけを行い、

その結果、「東海道の松並木として代表的なもの」という理由により、昭和19年11月、国の指定天然記念物に指定されました。

現在では、町全体で保存活動をが行われており、松の補植も行われています。

  

  

御油宿は、本陣2、脇本陣0、旅籠62、家数316軒、人口1298人でした。京から江戸に向う旅人は、赤坂宿で宿泊し、逆に江戸から京に向かう人は、御油宿で宿泊したそうです。

  

歌川広重は、東海道五十三次の浮世絵で御油宿は、旅人を宿に引き入れる「留め女」として描いています。この場所は、どこか探しますが、わかりませんでした。

 

街道の東側には、「御油松並木記念館」がありますが、時間は16時まででもう閉まっていました。

もう時間も16時を過ぎました。今日はここまでとします。

 

御油駅までの帰る途中通った御油橋には、浮世絵がレリーフされていました。

  

御油駅には、16:25に到着。時刻表を見ると普通電車は、30分に1本しかありません。隣の国府(こう)駅には、特急も急行も止まりますのでもう少し街道を歩いて国府(こう)駅まで歩けばよかったかな・・・・・・・・・

豊橋駅では、イルミネーションが綺麗でした。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


東海道道草ウオーキング№18 「岡崎宿~藤川宿」(岡崎市)

2017-01-16 18:24:48 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

1/6 ホテルを6:30に出て今日の宿泊地豊橋まで移動。豊橋のホテルに荷物を預け名鉄で前日ゴール「岡崎公園前駅」にで降ります。

9:00から街道歩き開始。

  

東海道の中でも三番目の規模の大きい宿場として栄えた岡崎宿は、「岡崎の二十七曲り」と呼ばれた屈折の多いその町並みの長さでも有名です。天正18年(1590)岡崎に入城した

田中吉政は、城下の道を防御の必要性から外敵には、城までの距離を伸ばし、間道を利用して防御することができる屈折の多い道として開発しました。

二十七曲りは、欠町、両町、伝馬通りから籠田を抜け、連尺通、材木町、田町、板屋町、八帖町、矢作橋と繋がっており、二十七曲りを示す碑が現在の町並みにもいくつかあります。

  

先ず、徳川家康の父「松平広忠」公の菩提寺「松應寺」に行きます。松平広忠公は、天文18年(1549)3月、岡崎城中で家臣に刺殺され、亡きがらはこの地に埋葬されました。

当時人質として尾張にいた松平竹千代(家康)は、同年11月岡崎に帰るとこの墓上に小松一株を植え、松平一族の繁栄を祈願しました。

永禄3年(1560)家康は桶狭間の戦いの後、岡崎城主となり、この地に一寺を建立しました。手植えの松が緑深く東方に伸長するのを見て、「我が祈念に應ずる松なり」として

松應寺と名づけました。

  

街道に戻ります。

 

城下には、「田中吉政」の銅像も建っています。伝馬町の西本陣跡は、コンビニの前にありました。

  

伝馬の本陣は、正徳3年(1712)頃は、中根甚太郎、浜島久右衛門の2軒でしたが、後に中根甚太郎、浜島久右衛門、大津屋勘助の3軒が本陣。脇本陣は、鍵屋定七、山本屋丑五郎、

桔梗屋半三郎の3軒と推移しました。岡崎東本陣(服部家)は、現在の伝馬通り2丁目交差点辺り(現在の花屋さん)にあり、建坪209坪半で部屋は200畳以上。脇本陣を勤めた桔梗屋は、

総坪数125坪半のうち、建坪は、105坪とどちらも玄関や書院を持つ建物でした。

この伝馬町には、岡崎宿のことが石碑で案内されています。その一部を紹介します。

【飯盛女】本来は、旅籠屋で旅人の給仕や雑用をする女性ですが、三味線を弾き唄や踊りも披露する遊女でした。

【駒牽朱印幕府が伝馬を使用する時に用いた権威ある印鑑でこの印が押された朱印状が公用旅行者の伝馬使用許可証になります

【人馬継立】旅行者は各宿場の人足会所、馬会所で宿場ごとに馬や人を雇いながら旅行しました。東海道では、五十三ヵ所の宿駅でこうした継立をしたので東海道五十三次と呼ばれました。

【三度飛脚】伝馬宿には飛脚屋と言う職業の人がいました。現在でいう郵便配達屋さんで三度飛脚というのは毎月東海道を三度往復したことからそう呼ばれました

【あわ雪茶屋江戸時代岡崎の名物と言えば、石製品、八丁味噌、鍛冶物、木綿などがあげられますが、名物の食べ物と言えば、「あわ雪豆腐」があげられます。当時あわ雪茶屋で出されていたのは、

葛や山芋をベースにした醤油味のあんをかけた「あんかけ豆腐」で岡崎宿を通行する旅人に親しまれていました。現在のお菓子「あわ雪」は、江戸時代のあわ雪に因んで作られました。

岡崎宿には、天明2年(1782)創業のお菓子屋さんがあります。

岡崎宿東の入口冠木門に来ました。ここからが二十七曲りの始まりです。冠木門の所には、説明文がありますが、反射している為、写真に撮れませんでした。

  

大平の一里塚を過ぎると、左側に西大平藩陣屋跡があります。ここは、テレビドラマでも人気の大岡越前守忠相が三河の領地を治めるために置いた陣屋です。

   

歩いていると面白い標識を発見。これから高齢時代になりますのでこのような標識が増えるのではないでしょうか。

  

岡崎宿から約1時間半で「藤川宿」に到着。先ず、目につくのは、岡崎市の指定文化財に登録されている「藤川の松並木」。

藤川宿西側から1kmの間に90本の黒松が植えられています。

  

藤川宿の西端で南西の方向に分かれて、土呂(現・岡崎市福岡町)西尾(現・西尾市)吉良(現・幡豆郡吉良町)方面へ出る道があります。この道を「吉良道」と呼んでいて、

その分岐点に「吉良道道標」が立っています。

道標石は、高さ143㎝・幅20㎝の四角柱で、彫られている文字は、右面…文化十一年(1814)甲戌五月吉日建、正面…西尾、平坂、土呂、吉良道、左面…東都小石川住 と書いてます。

 

宿場には、松尾芭蕉の句碑や「歌川豊広」の歌碑があります。

芭蕉の句は、 「 爰(ここ)も三河 むらさき麦の かきつばた」

歌川豊広の歌碑は、 「藤川の しゅくの棒ばな みわたせば 杉のしるしと うでたこのあし」

意味は、藤川宿の棒鼻を見渡すと杉の木で造った表示が立っており、付近の店には、西浦、吉良から持ってきたうでたこを売っており、たこの足がぶら下がっている。

歌川豊広(1774~1829)は、江戸時代後期の浮世絵師。門人として歌川広重がいます。

※「棒鼻」:宿場の入口。九州では、構口(かまえぐち)と呼んでいます。

  

藤川宿西棒鼻

  

 

藤川宿の町並みは、九町二十間で天保14年(1843)の宿場人口は、1213人、家数302軒、本陣は、森川家1軒、脇本陣は、橘屋大西家1軒、旅籠大7、中16、小13でした。

宿場の中ほどには、本陣、脇本陣跡があります。脇本陣は、「藤川宿資料館」としてオープンしています。

入ってみましたが、誰もいませんでした。

  

脇本陣の隣の本陣跡は、広場になっており、高札場などが再現されていました。

  

広場の奥には、本陣の石垣が残っています。また、芭蕉の句に出た「むらさき麦」は、現在、藤川小学校の児童が栽培していました。

むらさき麦は、大麦の栽培品種で観賞、染物に使われていました。別の名を「紺屋麦」「高野麦」と呼ばれ、食用にはあまり適さず次第に栽培されなくなっていました。

1996年に地元住民らで「藤川まちづくり協議会」を発足し、栽培を復活させました。(写真は岡崎観光協会HPより引用)

   

  

広重の浮世絵「藤川宿」は、東棒鼻の様子が描かれています。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


東海道道草ウオーキング№17(その2)「池鯉鮒宿~岡崎宿」(愛知県知立市~岡崎市)

2017-01-15 08:04:29 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

(その1)からの続きです。

旧道を歩いて御林の交差点で1号線と交差します。右側には大きな松の木が・・・・・・ここが「知立の松並木

知立の松並木は、近年まで牛田~山町まで約1km続いていたのですが、住宅が次々と建てられ、今では、450mほどになりました。戦前まで昼なお暗い程、鬱蒼としていましたが、

昭和34年の伊勢湾台風で60~70%の松が折られたり、根ごと吹き飛ばされていました。昭和45年、幼松158本を補植し、以後毎年松くい虫の防除に努め、昔の姿を今に留めています。

   

  

広重の53次の浮世絵にも知立の松並木が描かれてています。松並木の側道には、モニュメントも設置されています。

   

また、ここでは、毎年4月末から5月初めまで馬市が催され、近郷近在から人々が集まり賑わったといわれています。広重の池鯉鮒宿には、この馬市が描かれています。

 

松並木の近くの喫茶店でランチを頂き、再び出発。

伊勢物語の「八橋」がどうも気になり、先ほどの喫茶店で場所を聞くとここから歩いて15分ぐらいの所に「無量寿寺」があるというのでそこに行ってみることにしました。

途中、来迎寺小学校信号の先に「来迎寺一里塚」がありました。ここも街道の両側に完全に残されていました。

  

 平安時代に書かれた「伊勢物語」の第9段で在原業平が詠んだという項があります。(学生の頃習いましたが、もう忘れています。(笑))

昔、男ありけり。その男、身をえうなきものに思ひなして、京にはあらじ、東の方に住むべき国求めにとて行きけり。もとより友とする人、ひとりふたりして、いきけり。道知れる人もなくて惑ひ行きけり。

三河の国、八橋といふ所にいたりぬ。そこを八橋といひけるは、水ゆく河の蜘蛛手なれば、橋を八つ渡せるによりてなむ、八橋といひける。その沢のほとりの木の陰に下り居て、(かれいひ)食ひけり。

その沢に、かきつばたいとおもしろく咲きたり。それを見て、ある人のいはく、

「かきつばたといふ五文字を、句の上に据ゑて、旅の心を詠め」といひければよめる。 

らころ(唐衣) 

つつなれに 

ましあれ 

るばるきゆ 

びをしおも  

とよめりければ、みな人、餉の上に涙落として、ほとびにけり。

句の意味は、「馴染んだ唐衣のように馴れ親しんだ妻が都にいますので、はるばるこんな田舎まで旅をして来たものだ、と悲しくなるんです」となります。

句の上の「か・き・つ・ば・た」は、見事に使われていますが、最後の「ふ・る・ば・し・も」も八橋にかけているのでしょうか?

来迎寺町の信号を左折。しばらく行くと「八橋かきつばた園」があります。残念ながらカキツバタは、4月ごろに咲きますので閉まっていました。

   

無量寿寺」です。今は、杜若(かきつばた)のシーズンではないので寺院内はひっそりとしています。寺院内を歩いてみます。

  

  

【芭蕉句碑】

かきつばた 我に発句の おもひあり (芭蕉)  ・麦穂なみよる 潤ひの里 (知足)

芭蕉が「野ざらし紀行」を終えた翌年貞享2年(1685)4月に鳴海の俳人下里知足の家を訪ね、その時開かれた俳席での作です。

【八橋古碑】碑文は、「八橋紀事并王孫歌」と題され八橋と業平の故事それについての感慨が漢文で書かれていますが、難解なことで有名です。

 

【業平竹】一説には、竹(男竹)であるが、笹(女竹)のように一節から多くの枝を出す為、色男と言われる業平に見立てました。男女竹と称され、縁結びの竹として信仰されました。

【ひともとすすき】謡曲「井筒」の故事にならって植えられました。「八橋の一もとすすき穂にいでてはるばる来ぬる人まねくらん」

このすすきの葉を片手で結ぶと願い事が叶うという言い伝えから縁結びのすすきと言われています。

 

 

杜若供養塔】杜若姫は小野中納言篁の娘と伝えられ、東下りの在原業平を恋い慕ってやっとこの八橋の逢妻川で追いつきましたが、業平の心を得ることが出来ず、悲しんで池に身を投げて果てたと

伝えられています。この塔は姫をあわれみ後の世に供養して建てたものです。

  

無量寿寺を出て再び街道に合流します。来迎寺町の信号の所に「元禄元標」があります。これは元禄九年(1696)に在原業平ゆかりの八橋無量寿寺への道標として建てられました。

  

猿渡川橋を渡ると「安城市」になります。橋には、東海道松並木がデザインされています。

  

安城市のマンホールは、三河万歳で使われる扇、鼓がデザインされています。三河万歳は、安城市の「別所万歳」、西尾市の「森下万歳」が有名です。

もう一つは、雨水で安城市の七夕まつりがデザインされています。

     

永安寺には、「雲竜の松」があります。幹周り4,4m、樹高4,8m、枝張り東西17,9m、南北24,7m、樹齢約350年。ホント、見事です。

  

熊野神社の所に「尾崎の一里塚」がありました。またここは、「鎌倉街道跡」の案内板もありました。

建久3年(1192)鎌倉幕府が開かれると京都と鎌倉の間に鎌倉幕府が定められ、宿駅63カ所が設置されました。尾崎町では里町不乗の森神社から証文山の東を通り、熊野神社に達していました。

街道はここで右に曲り、南東へ下っていたのでこの神社の森を踏分の森と呼んでいます。ここより街道は、西別府町を通り、山崎町に出て岡崎市新堀町へ向かい大和町桑子(旧西矢作)へと通じていました。

この位置を旧鎌倉街道と伝えており、それを証する「目印の松」が残されています。

  

安城市尾崎を過ぎ、宇頭町の信号から岡崎市です。

   

岡崎市の旧東海道には、ボランティア連絡協議会の案内板が設置しています。

誓願寺には、浄瑠璃姫のお墓があります。

今からおよそ800年程前、鎌倉街道矢作の宿に「浄瑠璃姫」というそれは美しい姫がいました。姫の出生については諸説がありますが、何れにしてもこの辺りの支配的立場にあった者の家に生まれたようです。

承安4(1174)年、浄瑠璃姫16歳の春のこと、とき、源氏再興の大望を抱き、金売り吉次を伴い東北地方きっての豪族藤原秀衡のもとへ向かう牛若丸こと「源義経」が旅の途中でこの矢作の宿に立ち寄り、

折しも浄瑠璃姫の奏でる「想夫恋(そうふれん)」の琴の調べに、名笛「薄墨(うすずみ)」を合わせ吹いたのが縁となり、二人は別れを惜しむ中となりました。

しかし、奥州へ下る身の義経は、再開の証にと母の常磐御膳(ときわごぜん)より送られた父の愛管「薄墨」を姫に預け、そのもとを去って行ったのです。僅か十数日のはかない夢の日々でした。

唯々、義経との再会だけを心の支えに待ち続けた姫の想いは、月日を重ねるほどにますます深まり、ついに心乱れて寿永2(1183)年3月12日、この付近の岩場から乙川の流れに身を投じたのです。

その死を痛く悲しんだ両親は、その近くの洞に観音像を祭り「穴観音」としてその霊を弔いました。

翌年の秋、旅の途中で姫の悲報を聞いた義経は、その霊を弔うために「瑠璃山明大寺」を建立し厚く供養したと言われています。しかし、この寺も今は無く、姫が入水した「足跡岩」も、

「穴観音」も昭和56(1984)年の堤防大改修で無くなりました。今となっては、明大寺の町名にこそ往事が偲ばれます。(岡崎観光きらり百選より引用)

この浄瑠璃姫と源義経の悲恋を脚色したのが「浄瑠璃」の始まりと伝えられています。 

  

矢作(やはぎ)橋に着きました。橋の袂には、日吉丸(豊臣秀吉)と蜂須賀小六「出逢いの像」があります。

説明文を見ると、日吉丸は、尾張国中村の木下弥兵衛(弥助)と妻お仲の子で八歳の頃から奉公に出されましたが、十二歳の時、奉公先の陶器店を逃げ出しました。家に帰ることも出来ず、

東海道を東へ下る途中、空腹と疲れで矢作橋の上で前後不覚で寝ていました。ここに海東郡蜂須賀村(今のあま市)に住む小六正勝(蜂須賀小六)という野武士の頭が手下を連れてこの付近を荒し、

矢作橋を通りかかりました。通りざまに眠り込んでいる日吉丸の頭を蹴った所、日吉丸は「頭を蹴り一言の挨拶をしないのは無礼である。詫びていけ」ときっと睨みつけました。

小六は子供にしては度胸があると思い、手下にするからその初手柄を見せよといいました。日吉丸はすぐさま承知し、橋の東の味噌屋の門の傍の柿の木によじ登り、邸内に入り、扉を開いて

小六達を引き入れました。目的を果たし逃げようとした時、家人が騒ぎ出しました。日吉丸は咄嗟に石をかかえ井戸に投げ込み「盗賊は井戸に落ちたぞ」と叫び、家人が集まる隙に門を抜け、

小六達の一行についたといいます。

史実とは異なりますが、日吉丸と小六の伝説は、後の太閤秀吉と武将蜂須賀小六の人間的一側面を語る物語として今なお、私達の心に生き続け乱世の時代劇を垣間見る逸話となっています。

  

街道は、矢作橋を渡り右折します。ここには、八丁味噌の蔵が建ち並んでいます。通りには「八丁蔵通り」になっています。

平成18年(2006)のNHK朝ドラでは岡崎の八丁味噌を舞台にした「純情きらり」が放映されました。

岡崎城の西、八丁(約870m)の距離にある、八丁村(現在は八帖町)にある、東海道を挟んで2社の味噌蔵、まるや八丁味噌、カクキュー八丁味噌の2社が江戸時代から、手を取り、時には競い合い、

伝統製法で味噌作りを行っています。まるやさんは、まだお正月休みでしたのでカクキュウさんの方に行きました。

  

 

八丁通りから今日のゴール「岡崎城」を目指します。岡崎城は家康が生まれた所として有名です。

享徳元年(1452)から康正元年(1455)にかけて三河守護代大草城主、西郷稠頼により築かれ、70年ほど後に家康の祖父・松平清康が入城しました。家康の父・広忠が殺された後は、

今川氏の勢力下におかれていましたが、桶狭間の合戦後、家康が再び入城しました。家康は永禄7年(1564)三河一向一揆をおさえ、城郭の整備を行ない、ほぼ全三河を平定したことで、

後の天下統一に向けて動き出します。現在の岡崎城は、歴史資料館として市民に親しまれています。

  

 

龍城(たつき)神社は、徳川家康、本多忠勝を祭神としています。明治期までは、三河東照宮と呼ばれていたそうです。

往昔、三河の守護代西郷弾正ェ門稠頼が此の地に築城成る日、何処ともなく柳の五ッ衣に紅の袴をつけた気高い乙女が天守に現われ、「われはこれ歳久しく此の処に住む龍神なり、

汝われを鎮守の神と崇め祀らば永く此の城を守護し繁栄不易たらしめん」と、おりしも城中の井水噴き出で、高く天に沖し飛瀑の如く龍神に注ぎ、一群の黒雲舞い下りて天守を包むと見るまに

龍神の姿は忽ち消えうせた。此の不思議に城主おどろき、天守楼上に龍神を祀って城地鎮守と崇め永く加護を祈り、城の名を龍ヶ城、井の名を龍の井と称えしと云う。(神社由来より)

    

菅生(素顔)神社も徳川家康公をお祀りしています。

  

岡崎城公園から歩いて東岡崎駅まで行き、それから名鉄で宿泊先の名古屋駅に戻りました。今日はよく歩きました。GPSでは、38kmを示していました。

夕ご飯は、名古屋駅構内で博多の明太子屋さんが営業しているお店に行き、博多の名物「もつ鍋」を頂きました。

旅先で郷土の食べ物を頂くのもいいですね。美味しかったです。

今日(1/5)のGPSです。

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 


東海道道草ウオーキング№17(その1)「有松~池鯉鮒宿」(名古屋市南区~愛知県知立市)

2017-01-13 16:36:49 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

1/5(木) 今日もいい天気です。7時半にホテルを出て名鉄で前日ゴールの有松駅へ。8時よりウオーキング開始。

大将ヶ原の交差点から「豊明市」です。豊明市のマンホールは、「桶狭間古戦場」をデザインしています・。

    

さて、その桶狭間古戦場ですが、中京競馬場前の所から少し入った病院の前にあります。有松の方でもこの古戦場がありましたので、桶狭間の戦いは広範囲で行われたのでしょう。

一応、有松は「桶狭間古戦場」、豊明は、「桶狭間古戦場伝説地」と区別しています。

ですが、ここにも今川義元の戦死場所がありました。また、今年の大河ドラマ「女城主 井伊直虎」の父、井伊直盛もこの戦で亡くなっています。

  

  

  

街道に戻ります。1号線中京競馬場の信号を斜め右に行き、旧道に出ます。

  

五軒屋バス停の所から1号線を横切った所に「戦人塚」があります。ここの坂道はちょっと急です。何度か立ち止まろうかと思いましたが、私もウオーカーの端くれ、何とか休まず来れました。

戦人塚」は、桶狭間の戦いにおける戦死者を曹源寺二世快翁龍喜和尚が明窓に命じ埋葬供養した塚で、石碑は元文4年(1739)180回忌の供養祭に建碑されたものです。

  

  

街道に戻ります。池下信号の近くに「阿野一里塚」があります。愛知県には、18の一里塚があって現存するのは4か所。そのうち道の左右に残っているのは、この阿野一里塚と知立市のみです。

1号線の標識には、345の数字が見えます。日本橋まであと、345kmです。長いな~

   

 

豊明駅を過ぎると何か、焼きたてのパンの匂いがしてきます。匂いにつられて入って行きたい気分です。どこか、パン屋さんがあるのかな?と探しますがそれらしい所はありません。

境川にかかる「境橋」に来ました。この橋が、尾張国と三河国の境です。橋を渡ると。「刈谷市」です。

  

橋を渡ると左手に大きな工場があります。地図を見ると「敷島パン」とありますが、工場には「Pasco」。このPascoは、「パン敷島コーポレーション」という意味で関東、東海方面に売られているパン屋です。

九州ではあまり見かけませんが、ウオーキング大会などで関東に遠征するとコンビニなどで売られています。

豊明駅で匂っていたパンは、このPascoだったのですね。

   

刈谷市内の旧東海道を歩いているとお寺が多く眼につきます。

   

「いもかわうどん発祥の地」の碑がありました。江戸時代の東海道紀行文に「いも川うどん」の記事が良く出てきます。この名物うどんは、「平うどん」でこれが関東に伝わり「ひもかわうどん」として現代に残り、

今でも東京では、うどんのことを「ひもかわ」と呼んでいます。私もひもかわというと、群馬県をイメージしていました。

    

一里山町新屋敷の信号から知立市です。昔は、ここに一里塚があったそうです。知立市のマンホールは、伊勢物語の一部を引用しています。

頭文字を並べると「か・き・つ・ば・た」になります。カキツバタが知立市の花になっています。

逢妻橋にやってきました。逢妻川というと、「八橋」ですね。知立市の昔話には、「八橋」があります。

むかし、野路の宿に、名前を羽田玄喜という医師が、この地の荘司(荘園の役人)の娘である妻と、二人の男の子と楽しく暮らしておりました。しかし、父親の玄喜は、若くしてなくなってしまい、

家はだんだんに貧しくなっていきました。母は二人の子どもを育てるため、山に行ってたき木を拾ったり、浦(今の逢妻川は海に続き、浦になっていた)に出て海草をとったりして、苦労しながらも、

子どもの成長を楽しみに暮らしておりました。兄は八歳、弟は五歳になっていました。

ある日のこと、母親は二人の子どもに、「よい子だから、母さんが帰るまでおとなしく留守番をして、待ってておくれ。」といいきかせて、この浦にのりをとりにでかけました。

二人の子どもは、初めのうちはおとなしく家でまっていましたが、そのうちに母がこいしくなり、川辺まできました。向こう岸で一生懸命のりをとっている母の姿をみつけると

「おかあさん、おかあさん。」といいながらかけよろうとして、あやまって川の深みに落ちてしまいました。あっと言う間のできごとです。

目の前で水におぼれて流されて行く二人のわが子を見て、母は気も狂わんばかり。なんとかして子どもを助けようとしましたが、そのかいもなく、とうとう二人のこどもを見失ってしまいました。

母親の悲しみといったら、たとえようがありません。母は無量寿寺に入り、髪をおろして、師孝尼という名の尼さんになりました。

朝夕仏に仕え、二人の子どものめいふくを祈り続けました。そして、「この川に橋さえあれば、子どもがおぼれることもなかったろうに、また、村の人たちも安心して、川を渡ることができるのではないか」と思い、

観音様の本尊に祈願をこめ、「どうかこの川に橋をかけることができますように」と、一心に祈りました。

ある夜のことです。

「彼の浦へ行けば、材木がたくさん岸べに打ち寄せられている。それを使って橋をかけるがよい。」と、夢のお告げがありました。

師孝尼は喜んで、浦へ行ってみますと、お告げどおりたくさんの材木がありました。

その材木で、橋を渡そうとしましたが、この川は、流れがいくすじにも、くもの手のようになっていて、まっすぐの一本の橋をかけることはとても無理でした。しかしたがいちがいに板を渡して、

どうにか向こう岸にとどく八つの橋ができあがりました。

それからは、村人たちも、楽に向こう岸に行くことができるようになり、橋の数にちなんで、この地を八橋と名づけました。仁明天皇の時代、承和九年(八四二)五月のことです。

の後、師孝尼は、この川のほとりに咲くかきつばたの花を、なき子の供養の花と思いますます信心を深めたということです。

現在、その二人の子の供養塔は、無量寿寺の境内に、師孝尼の供養塔は、在原寺の境内にひっそりと建っています。(知立市HP 知立の地名の由来より)

 

 

  

   

街道を歩いていると右側に「総持寺」があります。大きな龍宮門が眼に入ります。ここは、徳川家康側室「於萬の方」様が誕生された所です。

碑には、徳川秀康の母、於萬と書かれています。於萬は、池鯉鮒明神の社人・永見吉英の娘です。

 

総持寺を左に入ると、「知立神社」です。池鯉鮒大明神と呼ばれ、江戸時代東海道三社の一つに加えられた名社で、社伝では第12代景行天皇の42年(112)創建と言われています。

祭神は、鸕鶿草葺不合尊 (うがやふきあえずのみこと) - 主神。(神武天皇の父)

境内に建てられている「多宝塔」は、国の重要文化財であり、古額、舞楽面、能面等は県指定に、獅子頭面他9点は市指定の文化財になっています。

例祭であります「知立まつり」は毎年5月2日・3日に行われていて、隔年で開催される本祭(ほんまつり)の山車5台は絢爛目を奪うばかりです。

この時上演される人形浄瑠璃芝居の「山車文楽」と「からくり」は、ともに国指定重要無形民俗文化財として伝統ある民俗芸能を今に伝えています。昨年12月ユネスコ無形文化遺産に登録になりました。

  

 

 

  

街道に戻ります。知立公園には知立城址があります。知立城は長く知立神社の神官を勤めた永見氏の居館として築かれたのが始まりとされます。

永見氏は平安時代末期には後白河院配下の武士として頭角をあらわし、戦国時代に徳川家康の側室於万の方(長勝院)を輩出し、子供である結城秀康は福井藩(福井県福井市)62万石の大大名になっています。

永見氏は刈谷城(愛知県刈谷市)の水野氏や岡崎城(愛知県岡崎市)の松平清康、駿府城(静岡県静岡市)らに従いましたが、永禄3年(1560)桶狭間の戦いで今川義元が討死すると、

織田軍が当地まで進軍し敢え無く知立城は落城しています。その後、織田信長に従った水野忠重が知立城を接収し、天正年間(1573~92)に信長に対しての迎賓館的な施設を設けました。

寛永年間(1624~43)には将軍上洛時の宿泊施設として増改築が行われましたが、元禄の地震により大破しています。 (知立ナビより)

  

知立祭りに使う「山車」の格納庫があります。1/3から愛知県を歩いていますが、愛知県のお祭りの山車には、からくり人形や文楽などがあり、見る人を楽しませています。

一度お祭りの時に来てみたいですね。

   

池鯉鮒宿は、江戸時代、知立神社の御手洗池には多くの鯉、鮒がおり、池鯉鮒宿と名付けられました。本陣1、脇本陣1、旅籠35、人口1620人の宿場でした。本陣跡は、歩道橋のそばにありました。

  

お昼に近づきましたが、近くに食べる所がありません。まだお正月休みかな?

食べる所が見つかるまでもう少し歩きたいと思います。

    

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 


東海道道草ウオーキング№16(その2)「笠寺観音~有松」(名古屋市南区~名古屋市緑区)

2017-01-12 17:16:10 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

(その1)からの続きです。

笠寺観音を出てすぐの所に「笠寺の一里塚」があります。ここは、名古屋市内を通る旧東海道で唯一残る一里塚です。

尚、一里塚を造るにあたって、家康は、「え~木を植えよ」と指示しました。家臣は間違ってえ~木→ →「榎」と勘違いしそれで一里塚には、榎が植えられています。

 

天白橋を渡ると緑区鳴海町です。東海道40番目の宿「鳴海宿」に入りました。

左側に鉾ノ木貝塚」の案内板が建っています。縄文時代早期から前期にかけての貝塚で、貝層はハイガイを主としている。下部貝層や基底面からは、縄文のあるやや厚い土器や、薄手の細線文土器、

上部貝層からは、前期中ごろの羽状縄文、爪形文を施した平底の深鉢型土器を主体として出土しており、上層土器の型式をとらえ「鉾ノ木式」と呼称されている。昭和5年(1930)野村三郎氏により発見された。

ハイガイ(灰貝)・・・・・・フネガイ科の二枚貝。浅海の泥底にすむ。殻長4cmくらい。赤貝に似ている。貝殻はやや方形で厚く、殻表に放射状の肋(ろく)が18本ほどあり、灰黄色の殻皮で覆われる。

三河湾以西に分布。肉は食用。貝の殻を焼き顔料にしたため、この名がついた。

丹下町常夜燈は、鳴海宿西口に設けられました。

 

鳴海宿の町並みです。旧家が建ち並んでいます。一軒の旧家で1階の屋根に守り神?でしょうか、珍しいものを発見しました。

  

鳴海宿は、天保年間の調査では、本陣1、脇本陣2、旅籠68,家総数847、人口3643人。本陣跡は、本町の所にありました。

本陣は、間口36m、奥行き51m、建坪235坪。

  

高札所跡が鳴海城址に復元されているそうでそちらに向かいました。

  

高札場復元場所のすぐ先には、「鳴海城址」があります。

鳴海城は、根古屋城とも言われ、室町時代の応永3年(1394)安原備中守宗範の築城と言われる。

永禄3年(1560)桶狭間の戦いでは、今川方の猛将「岡部元信」がこの城に配され、義元が討たれた後も最後まで立てこもって奮戦した。その後佐久間信盛、正勝らが城主となったが、

天正18年(1590)廃城になった。「尾張志」では、東西35間((約63m)、南北34間(約61m)で四面に堀址、本丸と二、三之丸にも堀を残すと記している。

「天神社」(あまつかみしゃ)成海神社はこの場所に創建され、1394年、安原備中守宗範が鳴海城を築城する際に移転した。

  

街道に戻ります。

お菓子屋の「菊屋茂富」の角から直角に曲がります。これを「曲尺の手」と言うそうです。

 

鳴海の町は、お寺が多い町です。街道を通ってきた中でも、如意寺、誓願寺、円通寺、万福寺、浄泉寺、瑞泉寺・・・・・・・・・7つぐらいの寺がありました。

  

今日4日は、一般の会社では仕事始め。お昼に近づきましたので食べる所を探しますが、どこも開いていない。まだお正月休みなのかな?

鳴海宿東の入口、平部町常夜燈の所にレストランがありましたのでそこに入ることにしました。入ると家族連れでいっぱい。

この店は、ランチメニューを選ぶとサラダバーがバイキング式になっており、サラダ、スープ、御飯、カレー、ソフトクリームが食べ放題です。

街道を歩く時は、急にお腹が痛くなったりしますので、お昼はできるだけ軽いものにしていますが、バイキングと言うと、昔、草野球で1番打者の切り込み隊長をしたせいか、俄然「ファイト」が湧いてきます。 

  

お腹が満腹状態で再びスタート。お腹がいっぱいの為歩くのも超スローペースです。

有松の一里塚です。江戸から88里。まだまだ先が長いですね。

有松は、旧東海道と知立の宿の間に慶長13年(1608)に、間の宿として開かれた。尾張藩の症例により、阿久比村から移住した人達の一人、竹田庄九郎により、絞り染めが考案され売り出されると、

藩の庇護も受け、絞りは有松名産として、全国にその名が知られた。有松は絞りと共に繁栄したが、天明4年(1784)、大火が起こり全村ほとんどが焼失した。

村の復興に当たり、建物は従来の茅葺きを瓦葺きにし、壁は塗り籠め造り、2階の窓は虫籠窓に改め、当時の防火構造で造られた。豪壮な商家が建ち並ぶ現在の町並みは、この時に形成された。

商家の建物は、中2階建て切り妻平入りで、1階の前面についている半間の土庇の下は、昔は絞りの店頭販売の為に大きく開かれていたが、今は格子がついている。

名古屋市は有松を町並み保存地区に指定し伝統的建造物や、町並み保存上必要な物件を定め、古い町並み調和した景観の整備に努め、建物の修理・修景工事の補助事業を進めている。

幕末の狂歌師「梅屋鶴寿」は、 あり松の 柳しぼりの 見世にこそ しばしと人の 立とまりけれ  と詠んでいます。

  

有松の町並みは、旧家が大切に保存されており、街道好きな私には、何か心が落ち着きます。

 

有松には、名古屋市指定有形文化財の家があります。広重の東海道53次の浮世絵には、鳴海宿有松絞りが描かれています。

【小塚家住宅】

 

【竹田家住宅】

  

【中舛竹田荘】

 

【服部家住宅】

  

有松絞りのお店「井桁屋」さんのお店の中を拝見させていただきました。

   

昭和61年には皇太子殿下(平成天皇)、妃殿下も行啓されています。

  

有松には、「布袋車(東町)」、「唐子車(中町)」、「神功皇后車(西町)」の3台の山車があります。これらは、有松の氏神、有松天満社の秋季大祭(10月第1日曜日)に曳き出されます。

昔の町並みを残す有松東海道を曳行される姿は、誠に勇壮で風情があります。道中の随所でからくり人形の演技が披露されます。(有松まちづくりの会HPより)

   

先を歩いていると有松郵便局に「桶狭間古戦場跡」の表示板があったので、折角ですので行ってみることにしました。

郵便局から約1,2km。約10分かけて到着。

桶狭間の戦いと言うと学生の時に歴史で習いましたね。試験には必ず出ていたような記憶があります。

桶狭間の戦いは、永禄3年(1560)5月19日(太陽暦の6月22日)尾張の領主織田信長が、駿河・遠江・三河の領主今川義元の10倍に余る大軍を打ち破り、

近世という時代の幕を開けた日本史上特筆すべき戦いです。

今川義元は、25000余の兵を率いて5月18日に沓掛城に入り、翌19日8時頃、大高城へ向け出発。前日瀬名氏信が設営した「おけはざま山」の陣地に入り、今朝方撃ち落とした鷲津砦、丸根砦の戦果を

聞きながら休息をしていましたが、昼頃天気が急変し雷雨となり高地に着陣していた今川軍本隊は落雷により大混乱状態になりました。

一方、信長は、午前4時頃清須城で鷲津砦、丸根砦が今川軍の攻撃を受けたとの報告を聞き、謡曲「敦盛」を舞い、直ちに出陣、8時頃熱田神宮に到着、戦勝を祈願。10時頃には、善照寺砦に着き、

本陣ここにありと見せかけておいて、雷雨の中を義元本陣近くの釜ヶ谷に進み、雨が止むや間髪を入れず、今川軍に突撃。ついに今川義元を討ち取りました。

この戦いでの戦死者を信長は村人に丁重に葬るよう命じました。村人は七つの塚を建て弔い、後年これを一つにして「七ッ塚」と称して残してきました。

  

  

現在、この地は、公園になっており、私達が訪れた時は、この戦を知らない子供たちが遊んでいました。

今日は、昨日の疲れか、または、お昼にたくさん食べすぎたせいか、これ以上歩けなくなりました。有松駅までは歩いて帰ろうかと思いましたら、名鉄有松駅行のバスがきました。

このバスに乗り、名鉄有松駅から名古屋駅に戻りました。明日は頑張って歩きたいと思います。