よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

大晦日

2011-12-31 05:00:00 | 日記
今日は大晦日です。
辞書で調べてみると一年の最後の日と書いてあります。

今年はいろいろなことがありました。
やはり一番は東北大震災でしょう。
テレビで中継されていましたが何か映画でも見るようでした。
復興計画もまだ見通しがたってないようです。
一日も早く復興して欲しいですね。

個人的には約30年間の自営業を引退しました。
今まで私を支えていただいた皆様に感謝申し上げます。
それと5年間入っていましたSNSが11月で廃止されました。
今までブログなんて書いたことがなかった私が初めてブログを書いたのがこのSNSでした。
ブログ上のお友達も出来ました。
SNS廃止後もまだ沢山のお友達とお付き合いさせていただいています。

大晦日というと年越し蕎麦。
蕎麦よりもうどん文化のここ福岡でも大晦日の日には必ず蕎麦をいただきます。
蕎麦は長く伸ばして細かく切って食べますので、「長寿」の意味があるそうです。
今年も紅白を見ながら年越し蕎麦を食べて新しい年を迎えたいと思います。

写真は昨日今年最後の朝市に行ってきました。
博多のお雑煮には欠かせない「ブリ」が売られていました。





10時ごろからは、近くの産直店に行ってきました。
9時からの開店ですが、ここの近くの道路は渋滞です。
係りの方の話では今日一日で3万人の方が来られるそうです。
もう大きな門松が飾られていました。



皆様今年一年本当にお世話になりました。
よい年をお迎え下さい。


このブログは、リレーブログです。
次はぶたころしゃんにバトンを渡します。
ぶたころしゃんはこちらです。↓

http://blog.goo.ne.jp/butakoro61

長崎街道を歩いています№15「桂川~直方」

2011-12-28 18:11:47 | 長崎街道歩き
12/23 前回に引き続き長崎街道を歩きました。
博多駅から福北ゆたか線に乗って前回ゴール地の桂川(けいせん)駅に8時43分到着。
この桂川という地名なんですが、どうして「かつらかわ」でなく「けいせん」なのか
いろいろ調べてもわかりません。

桂川に着くと先ず行ってみたいのが「王塚古墳」。
ここには6世紀ごろの古墳があって石室に絵が描かれているものです。
このような装飾古墳は奈良「高松塚古墳」が有名ですが、高松塚古墳は7世紀の作品です。



『王塚古墳』は六世紀中ごろに作られたと考えられる、前方後円墳です。
 昭和9年に福岡県嘉穂郡桂川町大字寿命で、採土工事中、偶然発見され、多数の馬具、武器、銅鏡、装飾品、土器類を出土しています。  
最大の特徴は装飾壁画の壁面に赤・黄・緑・黒・白で描かれた靫(矢筒)・盾・騎馬・星・双脚輪状文・
わらび手文・三角文などの文様がところ狭しと配列されています。
その豪華絢爛さはわが国における装飾古墳の頂点として昭和27年に国の特別史跡に
指定されています。

古墳の横には王塚古墳展示場があります。
入場料300円を払い館内へ。
館内は撮影禁止のため写真を撮ることができませんが、石室の中は馬、○や△など幾何学的な
模様の装飾が施されていました。この模様は今でも通用するようなデザインです。





6世紀の装飾古墳は九州にたくさんあり、それが東の方に普及していきました。
歴史好きの私は胸が高まります。

王塚古墳をあとに、街道に合流します。
寿命(じゅめい)という地に来ました。ここには寿命古墳群という看板があります。
昔はこの一帯、「穂波」の王がいたのでしょうね。
この「じゅめい」という地名も珍しいですね。



街道は国道200号線の陸橋を渡り「天道(てんとう)」の町へ。
この天道は少し前まで嘉穂郡穂波町天道でしたが、2006年飯塚市に合併しました。
天道の町は昔ながらの町が多く、歴史が感じられます。



天道宮があります。
由来を見てみると
「古老よりの伝えによれば、61代朱雀天皇の承平、天慶の御代、平将門 藤原純友の反乱(承平、天慶の乱)の際源満仲勅命を受けて先ず将門を東国にて討ち、のちに純友を現在の大将陣に対陣し決戦を挑む  満仲勅命を奉じ朝敵を討ち祖神の加護を信じ戦うべしと部下に命じて大将陣の麓に祭る天照大神に祈願し全軍玉串を襟にさして戦い撃滅するを得たりと云へけり、即ちこの頃天道神社ありしものと考えられる、今より約1000年以前のことなり 」



穂波川を渡ると「飯塚宿」に入ります。
「飯塚」という地名がどうしてついたのか、二つの説があります。
一つは、神功皇后がこの地方を お通りになったとき、従軍兵士の論功行賞をなされ、おのおの郷土に帰されたが兵士たちはなお皇后の 徳を慕って飯塚まで従い「いつか再び玉顔そ拝し奉らん」と深く歎き慕ったといわれ、名づけてイヅカ (飯塚)の里と伝えられたといわれています。

また、一つには聖光上人が、当市太養院において旧鎮西村明星寺虚空蔵の再興と三重の塔建立のため、民を集めて良材を運ばせたときに炊いたご飯があまって小山をつくり、それがあたかも塚のようであったので「メシノツカ」すなわち飯塚と呼ばれるようになったとも伝えられています。





飯塚は人口13万人の筑豊第一の都市です。明治時代から石炭で今日の日本経済の礎を
築いた所でもあります。今はもう炭坑はありませんが町にはボタ山が残っておりかつての繁栄を
物語っています。
また、飯塚には九州を代表するお菓子屋さんがあります。
ひよこ、千鳥饅頭、さかえや・・・・・注)千鳥饅頭、創業は佐賀県
長崎街道によって運ばれた砂糖がこの地で饅頭として生まれました。
この饅頭は炭鉱従事者に愛され、今日に至っています。


飯塚宿は現在商店街になっており古い建物はありません。
所々に中茶屋跡、問屋跡などの石碑が建っています。



この商店街に長崎街道のからくり時計があります。
現在時間が11時45分。毎正時に始まりますのでそれまでここで時間をつぶします。
※このからくり時計をYou Tubeにしました。(ちょっとぶれましたけど)

こちらです。コピーしてご覧下さい。
http://youtu.be/rbf1t6gzYyU

からくり時計を見て再び街道歩きを続けます。
飯塚宿は商店街端が東構口になってます。

片島という地区に入ってきました。
国道から少し離れていますが旧家が立ち並んでいます。



時間も1時を過ぎました。
今日も一応軽い食料は持って来たのですが、風が冷たく何か温かいものが食べたくなります。
国道の方を見るとチェーン店のチャンポン屋さんがあります。
お昼はこのチャンポンで温まろうと思います。

30分ぐらい休憩しまた歩き出します。
幸袋(こうぶくろ)いう所に来ました。
ここは炭鉱主で有名な「旧伊藤伝右衛門邸」があります。
一度紅葉の時期に来たことがありますがとにかく広い家でした。
年が明けて3月のひな祭りのころには伊藤家のお雛様が一般に公開されます。



街道は遠賀川沿いに歩きます。
川からの風が強く寒く感じます。
鯰田、目尾、を過ぎると小竹の町に入ってきます。

ここで以前にも書いたと思いますが、長崎街道を歩いた象の話を。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
享保14年(1729)3月ベトナムから入ってきた象が将軍吉宗公献上品として
長崎~江戸まで354里(約1400km)約80日間の旅に出発しました。
象は象使いの人と一緒に一日約4里ぐらいを歩きました。
ここ飯塚には10日目の3/23に入っています。
象は今では動物園に行くと必ず見ることができますが、当時としては珍しい動物として
沿道には見物客が殺到していたのではないでしょうか?
史料によれば、「江戸への献上の象、享保14年3月に罷登る、日本にてめずらしきけだものにて、
登り候節は宿々に見物の者、夥しく出候、前もって道筋往還念入りに作り、喰うもの用意、
真笹、芭蕉、ひいな草、久年母、まんじゅう用意致候、宿々、泊まり宿拵え致し置き罷登り候節、
象使いとび口を持ち象に乗り通り候」

万年代記帳では
「象、通り申す事、3月23日飯塚へ泊まり、小竹休み、木屋瀬泊まり、
水を飲むこと一日に五斗宛、足に関節なし、指無して爪あり、爪大栗のごとし」※福岡県史料より

飯塚では明正寺に宿泊しています。
この象、長崎街道を小倉まで行き、そこから船で本州に渡り京都に行きました。
京都では中御門天皇ともお会いし、「広南従四位白象」という称号を与えられています。
5月25日には江戸に到着し江戸城浜御殿にて将軍吉宗と対面しました。
それから10年ぐらい浜御殿で飼われていましたがある日飼育係が象に殺されるという事件が
起こり、中野の源助というお百姓さんに払い下げされました。
源助さんは象小屋を建てて皆さんに見物させていましたが、1年後栄養失調で亡くなりました。
その骨は中野の宝仙寺に保存されているそうです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

小竹の町に入ると冷たい小雪がちらついてきました。
遠賀川からの風が冷たくポケットから手袋を出します。
寒いので足は急ぎ足になります。
「郡境石」があります。
読むと「北鞍手郡」「勝野村」と書いてあります。
その先にはお酒屋さんの所に「休憩所」があります。
先ほどの象の話、小竹で休憩となっていますが、ここで休息したのでしょうね。



小竹駅に着きました。時計を見ると2時半。
寒いのでここまでにしようかな?などと思いますが、次回の行程を考えると今日どうしても
直方まで行かないと今後の街道歩きの日程に影響がありますので寒さを我慢しながら
歩き出します。
勝野駅を過ぎ、直方の町に入ってきます。

直方は元和9年(1623)筑前藩の支藩「東蓮寺藩」として四男高政が入封しました。
その後藩名を直方藩と改めました。
元禄元年(1688)福岡藩三男黒田長清が直方藩4代藩主となり、御館山に新館を造営し
新町、門前町を開きました。
然し長清の嫡男が福岡藩の養子になった為、享保5年長清の死とともに直方藩は100年の
歴史に幕を閉じました。



直方も炭鉱の町、多賀神社の近くには石炭博物館があります。
また、商店街の入口には、筑豊炭鉱御三家の一つである貝島太助の像が建っています。

私事ではありますが、子供の頃、よくお土産で四宮成金饅頭を頂きました。
これは直径20cmぐらいあったでしょうか、大きなお饅頭でした。
子供の頃は、一度でいいからこのお饅頭を一人で全部食べてみたいと思っていました。
然し、母は子供たちにきれいに3等分(3人姉弟でした)していました。
この直方の商店街に四宮の成金饅頭がありました。
即、お店に入り普通サイズの饅頭を買って帰りました。
今は、辛党なので、もう20cmのお饅頭は食べることが出来ません。
あっ、そうそう成金饅頭という名は、炭鉱で当たり一躍大金持ちになった人がいたから
そういうネーミングになったそうです。



直方駅には4時5分到着。電車の中で食べた成金饅頭は懐かしく美味しかったです。
今回は、GPSもちゃんと動いてくれました。
桂川から直方まで27kmでした。





この街道歩きもあと木屋瀬、黒崎、小倉になりました。
あと2日で完歩出来そうです。
1月の連休ぐらいにゴールしたいと考えています。














 


長崎街道を歩いています№14(原田宿~内野宿)

2011-12-26 19:12:54 | 長崎街道歩き
10月初旬から中断していました長崎街道歩きを再開しました。
2ヶ月間の間に木々は紅葉してもう落ち葉になっています。
今回はこの街道の難所「冷水峠」へ挑戦します。

JR原田駅に8時に到着。
前回は気付かなかったのですが、原田駅には伊能忠相の像があります。



原田駅から前回ゴール地の筑紫神社に向かって歩きます。

約1時間ほど歩くと「山家」に入ります。
すぐ目に付くのが「郡境石」これには西「御笠郡」東「夜須郡」と書いてあります。



「敬止義塾跡」があります。説明文を見ると

「福岡藩士であった杉山灌園が明治10(1877)年頃に自宅の離れで塾を開いていた。
近隣から30人ほどの塾生が集まり寄宿しているのもいた。
教科書として日本外史、十八史格図書などが用いられた。
明治23(1890)灌園が死去した為閉鎖された。」
昔の人は向学心に燃えていたのですね。





「山家宿」は黒田藩二十四騎の一人である桐山丹波が慶長16(1611)によって建てられました。
桐山丹波は初代代官となり今でも彼の碑が立っています。







山家宿の東構口には大庄屋「近藤弥九郎」の碑が建っています。



説明文によると
寛保二年(1742)山家村大庄屋に就任した近藤弥九郎の役宅跡です。大庄屋とは江戸時代に触
(郡を二つか三つに区分した行政区)を管理していた役人のことで各村への年貢の割り当てや
納入、土木工事、参勤交代のときの人馬役など広範囲にわたり村政にかかわっていました。

街道は冷水峠に向かって歩きます。
私何度か車ではこの道路を通っていますが歩いていくなんて初めてです。
道路には大型車は有料を通りましょうなどと書かれています。
勾配は緩やかでそんなにきつくはありませんが、ここは大型トラックが何台も何台も通っています。
歩道があればそちらを歩こうと思うのですが歩道もなく仕方ないので道路の隅を歩きます。
然し、カーブの多いこの道路、対向車は下りになりますのでスピードを出してカーブを曲がってきます。
ガードレールには車がこすった跡もあります。
このトラックが私達の方に突っ込んできたらどこに逃げようか?など周りを見ながら歩きます。
トラックの運転手の人にすればどうしてこんなカーブの多い道を歩いているんだい?
などと思われますがこの道は長崎街道になっていますので歩かないわけにはいきません。
それでも何とかトラックを除けながら歩き続けます。
体はヒートテックをつけているから暖かいのですが指先は手袋をしないと寒いし吐く息も白くなっています。
長崎街道迂回路という看板がありそちらに行こうかなと思いそちらに向かいますがそこは小さな道で
ちょっとでも足を踏み外すと谷の底。怖くなり元の国道に戻ります。



上西山バス停から国道に別れを告げ旧道に入ります。
先ず目にするのが庚申塚。これは道路の守り神なんでしょうか?
旧道から再び国道へ。すぐ大根地神社の案内図があります。
地図では大根地神社の方に行くようになっていますがちょっと解らなくなり近くの人に
訪ねようとしますがこのあたり誰も歩いていない。仕方なく民家の方に聞きました。
街道は、土手沿いの狭いあぜ道?だそうです。
よく見ると看板らしいものがありますが、字が消えて見えません。



この西山にも御茶屋さんがあります。
近くの畑で仕事されている人に聞きますとその方が吉野屋だそうです。
隣には長崎屋がありました。
このように街道の御茶屋さんには地名がついているのが多いです。
ここは長崎街道、今までいくつもの「長崎屋」さんに遭遇しただろうか。



しばらく歩くと「大根地神社」の看板が見えてきます。
ここから山道に入っていきます。



10分ぐらい歩くと大根地神社の鳥居が見えてきます。



石畳の道があります。
シーボルトは革靴より草鞋の方が滑りにくいと書いています。
木々に太陽が遮られ寒くなってきました。



首切り地蔵にやってきました。
この首切り地蔵には伝説があります。
「悪者が連れのものを殺した。横の地蔵に「誰にも言うな」というと地蔵が「わしは言わぬが
われ言うな」と言った。びっくりした悪者は地蔵の首をはねた。
何年か後2人連れの旅人の一人が地蔵の首のないことを自慢げに話した。
連れは殺された人の縁者だった。地蔵の忠告を忘れ話した悪者は仇を討たれた。」



この首切り地蔵の辺に冷水の源流でしょうか、湧き水があります。
説明文を読むと
「流れの冷たい水で旅人は喉を潤し、疲れを癒していた。これが冷水峠の名の由来と
言われている。英国の初代公使オールコックはその著「大君の郡」でこの峠の景色の
素晴らしさを著し、祠の横で休む旅人を描いている。」
この冷たい水が冷水峠の名になったそうです。



荒田の鳥居に出てきました。もうここから内野宿まではあと少し。
お腹がすいてきました。時計も12時半を廻っています。
どこか、食堂でもと探しますが、何せ山の中 食べる所なんかありません。
仕方なく保存食として持ってきたロールパン、バナナを食べお昼にします。
(この街道歩きでは必ず少しぐらいの食料を持参することにしています)



内野宿は、慶長17(1612)黒田藩の命で黒田節で有名な毛利但馬が建設にあたりました。
但馬が大隈城主になった後は内野太郎左衛門がその任にあたりました。
そこから内野宿の名前になったのでしょう。
当時内野宿は200軒の商家や旅籠、陣屋などがあり筑前六宿では木屋瀬宿に次ぐ
規模でした。
現在内野宿は国道建設から外れているため江戸時代の道路がそのまま残り当時の宿場の
名残が残っています。















内野宿を歩いていると肥前屋に長崎街道案内所というのがあり入場料100円を払い
中に入ると先ず見せていただいたのが内野宿案内ビデオ。
ビデオを見ていると疲れがどっと出たのか眠くなってきます。
寝てはいけないと思い立ち上がって展示品を見て廻ります。
そしてその館の方にいろいろ質問してみますが、この方無口なんでしょうか、
あまり話してくれません。
街道に興味があってみて廻っているのですからもう少し積極的に内野宿の魅力とか
何かを話して欲しかった。

内野宿を見て廻ったらもう2時半になっています。
本来ならここで内野駅から帰ろうかなと思ったのですが、内野駅は列車の本数が少なく
次回ここから出発するのには不便ですので福北ゆたか線の走っている桂川駅まで歩くことにします。
桂川駅には3時20分到着。すぐ25分発の博多駅行き快速に間に合いました。



今日もGPSを持って行ったのですが、どうもGPSの調子が悪くこの行程が記録されていませんでした。












クリスマスイブ

2011-12-24 05:00:00 | 日記
メリークリスマス!

今日はクリスマスイブですね。
昨年まではあるSNSで皆とワイワイガヤガヤしながらバーチャルのクリスマスを
楽しんでいました。
ところがそのSNSが11月末で閉鎖されましたので今回初の試みのリレーブログを
行いたいと思います。
先ず、先頭バッターとして私から。

写真は先日行きました台湾のホテルのクリスマスイルミネーションです。












では次のバッター「ぶたころさん」にバトンをお渡しします。

ぶたころさんはこちらです。
http://blog.goo.ne.jp/butakoro61

台湾旅行(その10 )故宮博物院

2011-12-20 05:00:00 | 旅行
台湾最後に日は、故宮博物院見学です。
世界四大美術館の一つで中国式宮殿を模した建物です。





中国の紫禁城や中央博物院から持ち出した文物60万点に独自に収集した5万点を加え
収蔵品の総額は65万点。全部見るには10年かかるといわれています。
館内には外国人サービスとして日本語を含む4カ国の音声ガイドが準備されています。

展示品は5000年前の彫り物、4000年前の陶器、3000年前の青銅器、象形文字などが
あり、それぞれ目を釘付けにしてみて回りました。

この展示品の中に「翠玉白菜」があります。
大きさは20cmぐらいでしょうか、白菜の上にキリギリス、バッタなどが止まっています。
凄く精密に作られています。
館内は写真禁止ですのでホテルの売店で売っていたレプリカを写しました。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
台北でのホテルは圓山大飯店でした。
父のアルバムを見てみますと台湾神社というのがあります。
実はこのホテル台湾神社の跡に建てられています。
旅の最後に父の足跡を追うことが出来ました。





                                         (台湾旅行記 完)      

台湾旅行(その9)忠列祠の衛兵交代

2011-12-19 11:13:22 | 旅行
九份から観光バスで台北に戻りました。
先ず行ったのが行天宮(シンティエイコン)。
ここは台湾でも商売繁盛の神様です。

祀られているのは関羽(關雲長)、呂洞賓、張単(張單)、王善、岳飛の「五恩主」です。
境内に入っていくと希望があればボランティアの方が線香を手にして一緒にお祈りをしてくれます。







忠列祠の衛兵交代





忠列祠は辛亥革命から現代まで国家の為殉死した英霊33万人を祭る政府管轄の祭祀場です。
日本でいうならば靖国神社みたいなところです。
ここでの見所は毎時丁度に行われる衛兵の交代式です。
衛兵は陸、空、海軍の20歳前後の成績優秀で背の高い兵から選抜されます。

瞬き一つもしないで立っています。

4時になりました。
衛兵の交代式です。




控え室からリーダーのもと交代衛兵が出てきます。
靴音もきちんとそろって見事な交代式です。






この交代式の間、日本から修学旅行で来ている女子高校生がまるで芸能人にするような
奇声を浴びせていました。
同行の先生もそれには注意するどころか黙ってみているだけでした。
思わず、じろっとにらみつけてやると私のほうを見て「何様と思っているの」との声。
こんな厳かな儀式では静かに見学すべきです。
台湾の方も沢山こられているのに大変失礼で申し訳なく
同じ日本人として恥ずかしかったです。





台湾旅行(その8)九フン;(きゅうふん)

2011-12-18 19:34:29 | 旅行
12/9早朝ホテルを出発し花蓮駅へ。
約2時間余りで端芳駅に着きました。

この旅行中、雨にはあまり会いませんでしたが、今日は朝から雨が降っています。
今から行く九份(きゅうふん)は、一年の内200日雨が降ると
言われています。やはりここでは雨とは切っても切れないですね。

九份は9世帯しか家がなかった。当時は交通も発達してなく人々はいつも9世帯の物資をまとめて
調達していたそうです。こうして九份(9つ分)と名付けられたそうです。
ところが19世紀末金鉱が発見されたことで町が発展し、人口も3万から4万人増えました。
ですが、金鉱はだんだん枯渇。1971年にはとうとう閉山し町はもとの静けさに戻りました。
80年代この九份を扱った台湾映画「悲情城市」がベネチュア映画祭で金賞をとると、風光明媚な
この町を見ようと人々が集まるようになり、また再び町が脚光をあびるようになりました。
日本では宮崎監督の「千と千尋の神隠し」のモデルになった場所でもあります。



九份の中を歩いて見ますと狭い通路に食べ物屋さん、お土産屋さんがたくさんならんでいます。
中には日本語で書かれた店もあります。








何か、映画のセットのような感じです。
雨が降ってなければ見て廻りたいところもありましたが、濡れたのか少し寒くなってきました。
「九戸茶語」で昼食の後1時間ほど散策し、バスで台北に移動しました。(続く)

台湾旅行(その7)花蓮太魯閣渓谷へ

2011-12-17 20:35:53 | 旅行
台湾と日本は時差が1時間あって日本が5時の場合台湾は4時。
然し、この歳になると体内時計が覚えているのか、日本時間5時には目が覚めます。
朝食は7時(台湾時間)だし、また、この旅行中あまり歩いていないのでちょっとホテル周辺を
歩くことにします。

今日(12/8)は少し靄が出て見通しが悪いのか高雄一のビルが霞んで見えます。
河畔ではスロージョギングしている人もいました。



今日の旅程は特急で花蓮に行き太魯閣渓谷(タロコ渓谷)に行きます。
台鉄(台湾の国営鉄道)高雄駅8:45の強羅号(日本の特急)で一路花蓮へ。


台湾の特急電車は、外見は普通の電車と変わりませんが、乗っていて揺れがあまり感じません。


車内では、車内販売もありますが、日本と違ってゆっくり行くのではなく急いで廻っていきます。
ですから買いたいときにはもう他の車両に行っていました。

約4時間ほどで花蓮駅に到着。
駅から観光バスで太魯閣渓谷へ。

花蓮県を流れる立霧渓が永年に渡り太魯閣の大理石を侵食し断崖や滝などを作りました。
ここのトンネルは殆ど手掘りです。工事の最中に犠牲になった人を忌うため長春祠が建っています。
説明はこのくらいにして、写真をご覧下さい。
     
       
     
          
       

バスを降りて歩いていきます。
     
     
     
     
      
     
     
     
     
台湾といってもここは3000mクラスの山の中、雨も降っていますし寒くなってきました。
然しこの太魯閣渓谷雄大です。
この景色も一刻一刻変わっているそうですので次回行った時は変わっているでしょうね。

今晩のホテルは美倫大飯店です。
夕食はホテルの和式レストランにて「しゃぶしゃぶ」でした。






台湾旅行(その6)高雄へ

2011-12-16 10:50:54 | 旅行
高雄は、人口277万人の台湾第二の都市です。
高雄という地名は、昔、打狗(ターカウ)と呼ばれていたそうですが、日本統治時代、発音が京都の
高雄に似ているということで「高雄」になりました。
高雄港は、世界第三の港です。

高雄というとやはり、蓮池潭(リエンツータン)ですね。

観光雑誌によくでてくるのが龍虎塔です。

龍と虎の二つの入口があり龍の方から入り虎の方から出てきます。

台湾では龍は縁起のいい動物で虎は悪い動物。
10元ほど支払えば、搭の上に登ることができます。

上から見るとかすかに蓮がありますね。


龍虎塔の前には色んなお店が並んでいます。
その中に高雄のフルーツを売っている店があります。
買って食べてみると、甘さ控えめでさっぱりしています。

龍虎塔の向えには、りっぱな(超派手)な慈済宮が建っています。
ここは、医術の神様の保全大亭を祀っています。


日も暮れてきました。
これから高雄港を一望できる「寿山」に行きます。
寿山は、高雄の夜景が美しい所でデートスポットにもなっています。
暗くて高雄港の方は確認できませんでしたが、高雄の夜景は見事です。


寿山には、「忠烈祠」があります。
ここには、日本統治時代「高雄神社」がありました。

今晩の夕食は、港町高雄ということで海鮮料理です。




刺身を期待していたのですが、出ませんでした。

夕食のあとは、六合二路の夜市見学です。
いろんなお店が並んでします。
ドラえもんのドラ焼きもありますね。
立ち止まって何か食べてみようかとも思いますが、先ほど海鮮料理をたらふく食べてきましたので
もう何も入りません。注)1元は、2.7円ぐらいです。安いでしょう?


さて、今夜のホテルは、国實大飯店(アンバサダー)です。
ホテルの横には、川があります。
明日の早朝川べりを散歩してみましょう。








台湾旅行(その5)台南市

2011-12-15 15:14:25 | 旅行
日月潬をあとにしてバスは台南市へ向かいます。

台南市は、台湾では早くから世界に開かれた街でした。
17世紀初頭オランダがこの地を統治し、ゼーランディア城やブロビデンシャ城を築きました。
そのビロビデンシャ城跡が赤崁楼(せきかんろう)です。


中には鄭成功(ていせいこう)がオランダとの交渉している像が建ててある。


亀の上に碑が乗ってる。何か意味があるのかな?

石馬は、足がとれており、あとでセメントで補修してあります。

石馬には、こんな伝説があります。

もとは鄭成功の墓前を守っていたのですが、鄭成功の墓が福建省に移された後、この場所は荒廃し、民兵の首長が鄭成功の墓穴だった場所に埋葬されました。石馬は、その墓を守ることを拒み、夜になると付近の田んぼを踏み潰すという災いを起こすようになり、怒った農民に脚を鋸で切られてしまい今の姿になったのです。



別の建物の文昌閣にいきますと
学問の神様「魁星爺」の像が建っています。

右手に筆、左手ペン、右足で伝説の魚を踏み、左足で星を蹴っています。

台湾では、入試の前には受験生がお参りにきて希望の学校の名前を書きお祈りします。
福岡で言えば、太宰府天満宮みたいなところでしょうか?
また、神様の前においてある鉛筆は神様の許可が得られれば持ってかえることができます。
これで試験を受ければ合格間違いなしですね。




バスは次に延平郡王祠に向かいます。


台湾を占領していたオランダ人を駆逐した鄭成功の功績を賛え、鄭が死去した1662年に
彼を慕う人々によって創建され、開山王廟と名づけられた。
1875年には、清朝の大臣・沈葆禎によって福州式建築の新しい祠が建てられた。

日本統治下に入った後の1896年(明治29年)、開山王廟は鄭成功を祭神とする神社となって開山神社(かいざんじんじゃ)と改称され、翌1897年(明治30年)には県社に列格した。日本式の拝殿は作られたが、中国風の祠はそのまま残され、本殿とされた。第二次世界大戦終戦後、中華民国政府によって社殿が全て取り壊され、中国北方式建築を模した鉄筋コンクリート製の廟に建て替えられた。建物が全て新しいものであることから、延平郡王祠は古蹟に認定されておらず、史跡のみである。

中央には鄭成功の座像が祀られ、後殿には彼の母「翁太妃」(田川松)の位牌が安置されている。


鄭成功は、中国人の父と日本長崎平戸の田川松との間に生まれ7歳まで平戸で過ごしました。


参拝の後、ツアーの同行者からここのマンゴアイスが美味しいと聞き、神社の前のベンチで
食べました。マンゴの香りがしてとても美味しかったです。100元だったかな?


途中、お土産屋さんに立ち寄るとカラスミが売られていました。
カラスミは、日本では長崎の名物ですが台湾ではこの台南の名物なんです。
台湾では、「鳥魚子」と呼ばれています。値段は900元(日本円約2500円)、安いですね。

バスは今日の宿泊地「高雄」に向かいました。   (続く)