よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

筑紫富士・可也山麓の志摩を歩く(福岡県糸島市志摩町)

2021-10-30 09:34:23 | ウォーキング

10/27(水)の福岡ウォーキング協会楽しいウォークは、「筑紫富士・可也山麓の志摩を歩く」でした。

集合場所は、JR加布里駅、参加者は43名。

糸島市のシンボル可也山(かやさん)は、標高365m、昔は、火山で富士に似ていることから糸島富士、筑紫富士、小富士などと呼ばれています。

東側の麓から山頂まで遊歩道があり、手軽に登れる山としてハイカーに親しまれています。私も5年ほど前登りましたが、階段の段差が高く息を切らして登った思い出があります。

  

9:30加布里駅スタート。

 

加布里駅周辺は、「神在」と書いて「かみあり」と読みます。難読地名ですね。神功皇后がこの地を通られたとき、紫雲の棚引くのを見て「ここには、神あるべし」と言われたので

この名が付いたそうです。10月は、神無月で全国の神様は、出雲に出張中ですが、ここは、いつでも神様がおられるのですね。

 

泉川と船越湾に架かる弁天橋を渡ります。ここから志摩町です。

  

最初の休憩地は、産直店「愛菜」です。今日は、暑くなりそうですので給水をしっかりとります。

愛菜では、地元の特産「落花生」が売られていました。これを塩ゆでにするとお酒のあてには最高です。

 

北山神社の先で坂道コースと一般道コースに分かれます。私は、坂道コースへ。

   

このあたりは、小富士の梅林といって、梅林があり、2月には、梅の花が咲き観光客が訪れます。

 

 

御床地区に入りました。2回目の休憩地は、「西林寺」です。 御床には、学生時代友人がいましたので時々行っていましたが、卒業と同時に疎遠になり今回50年ぶりに歩きました。

 

「西林寺」は、天平18年(746年)に作られた太宰府観世音寺の49ある分院のひとつ。寺領(寺院の領地)だった同地区で寺務に当たっていた宗顕という僧が退官後もこの地を

愛してとどまり、惜しまれつつ亡くなったことから、この地に塚を築いてお寺が開かれたと言われています。境内には、立派な本殿をはじめ、恵心僧都源信の作と伝わる国指定重要文化財の

木造阿弥陀如来坐像など見所満載となっています!

  

休憩後再スタート。

 

農家の畑では、落花生の収穫作業が行われていました。花が落ちるようにして(花が受粉して落ちて)地中で実を生むことから「落花生」という名前が付けられたそうです。

 

志々岐(ししき)神社は、天智天皇時代、大宰府の観世音寺建立のため、唐から仏像を船で運んでいましたが、海が荒れたため、平戸(長崎県)の志々岐神社を勧請しました。

 

行くときに通ってきた弁天橋を通り、ゴールの加布里駅に向かいます。

12:07 加布里駅にゴールしました。距離は約10km。

 

 

 

 


「太閤水と遠賀川のコスモス」ウォーク(福岡県遠賀郡水巻町他)

2021-10-28 18:01:51 | ウォーキング

10/24(日)は、下関ウォーキング協会主催の「太閤水と遠賀川のコスモス」ウォークに参加しました。

集合場所は、JR折尾駅。参加者は約20名。今日はお昼持参ということで折尾駅にある三日月でクロワッサンを買いました。

 

10:20 折尾駅スタート

 

折尾駅前には、福原学園の高校、大学が立ち並びます。

 

30分ぐらい歩いたところのコンビニが最初の休憩。休憩後江川沿いに歩きます。ここから若松区です。

 

太閤水は、秀吉が文禄元年(1592)朝鮮出兵のため肥前名護屋城に出陣したとき、大阪から名古屋までの道々に太閤水や給水所を設けました。

  

太閤水から芦屋町に向かいます。ここは、唐津街道かな?

林の左側に「安徳天皇行在所址」の石碑が立っています。「「寿永2年(1183)7月、平家一門は、安徳天皇を擁して九州太宰府へ都落ちしたが、豊後の緒方三郎唯義の軍に追われ、

悲惨な逃避行を続け、香椎、宗像を過ぎ、山鹿兵藤次秀遠のお迎えを受け、山鹿で過ごされた。
のち、秀遠は、この地、大君の茶臼山に幼帝のために行在所を造営した。」安徳天皇は、当時数えで6歳。このあと四国の屋島に行き、最後は下関の壇ノ浦で命を絶たれた。

行在所址は、現在「大君神社」となっています。

大君神社:寿永二年(一一八三)山鹿城主山鹿兵藤次秀遠茶臼山に行在所を設け、安徳天皇を迎え奉った駐輦の跡にして、何時の世からか此の地を社地として安徳天皇・大山祇大神を奉祀す。

後大君炭坑が開坑されるや明治三十九年(一九〇六)現在の此の地に社殿を移し、炭坑の主護神として祭祀を厚くす。此の里を大君と呼ぶは他所にかゝる地名なく、安徳天皇の在わせられた

聖地による地名にして、此の里に限り水田に蛭を生せず毒蛇文人に毒せずとか、或は社地の下の谷を「稚子が谷」と呼びて幼帝の駐彗し給える故に呼ぶとの伝説あり。

  

小高い山の所に山鹿兵藤次秀遠の城があった「山鹿城址」です。

 

  

河川敷には、傘を逆さまに置いたのがあります。これは、バードゴルフといい、ゴルフボールにバドミントンの羽をつけたボールをゴルフクラブで打ち、打数の少なさを競うスポーツである。

ホールには上部がかさを逆さにした形の直径110cmの「アドバンテージホール」と、地面に約86cmの輪を置いた「セカンドホール」があり、セカンドホールにホールインした場合には

スコアはそれまでの打数に1加えた打数になる。1969年、埼玉県の野嶋孝重が考案。1988年には日本ターゲットバードゴルフ協会が設立された。主に老人のスポーツである。

 

遠賀川河川敷のコスモス街道にやってきました。この河川敷には、約6kmの間に約500万本のコスモスが植えられています。

例年ですと、この時期「コスモス祭り」が行われるのですが、今年はコロナで中止になっています。

 

コスモスの花壇には、「MIZUMAKI」と書かれています。

コスモス鑑賞後帰途につきます。途中、伊豆神社に立ち寄ります。伊豆神社の鳥居の前は、昔の国道3号線でした。

 

伊豆神社由緒によると、ご祭神は彦火々出見命、玉依姫尊、塩土老翁、でした。元亀二年(1571)頃、古賀鎮座の伊豆大明神(今の久我神社)より御分霊を受け、山頂に神殿を建立。

よって、この山を明神ヶ岳という。大正三年(1914)にこの地に遷座、現在に至っている。

本殿中央には、「ヤタガラス」があります。

  

この神社の狛犬は、面白い形をしています。

   

14:10 ゴールの水巻駅に到着。

 

今日のGPSです。12kmでした。

 

 

 


第12回道の駅うきは案山子まつり(福岡県うきは市)

2021-10-26 18:28:12 | ウォーキング
 今日10/26(火)は、道の駅うきはで行われている「第12回かかしコンクール」に行ってきました。
今年は東京五輪が行われたせいか、オリンピック関係の案山子が登場していました。
 
      
二刀流の大谷選手

  
左、「こころをつなぐワンチーム」。  右、「小さな花火だよ」

 

「オリンピックのピクトグラム」                「オリンピック女子バスケチーム」

  
パラリンピック女子マラソン                   オリンピック女子柔道素根選手
  

5歳児チコちゃん                           カーリング

 

 

 


 

  

 

  


 




桂川(けいせん)町の新駅舎と自然・史跡を楽しむ」ウォーク(福岡県嘉穂郡桂川町)

2021-10-23 11:03:15 | ウォーキング

10/20(水)ふくおかウォーキング協会楽しいウォークは、「桂川(けいせん)町の新駅舎と自然・史跡を楽しむ」ウォークでした。

桂川町は福岡県のほぼ中央に位置し、JR篠栗線・筑豊本線で福岡市と30分で結ばれ、福岡都市圏におけるベッドタウンとしての役割を担っています。

また、昭和9年に発見され、同27年に国の特別史跡の指定を受けた王塚古墳は、全国に比類なき装飾古墳として、町民の誇りとなっています。

桂川駅は、令和3年(2021)3月新駅舎に生まれ変わりました。※桂川駅は、昔は、「長尾駅」と呼ばれていました。

難解地名の一つである「桂川(けいせん)町」ですが、町内を流れる泉河内川が古くは、桂川(かつらがわ)とよばれていたことから、この地名がついたそうです。

9:30JR桂川駅スタート。

  

先ず最初に「王塚古墳

王塚古墳は、横穴石室の内部のいたる所に描かれた装飾壁画で有名。黄赤青白黒の5色を使った絵は、美術史上でも貴重。
六世紀中ごろに作られたと考えられます。前方後円墳で、その豪華絢爛さはわが国における装飾古墳の頂点として昭和27年に国の特別史跡に指定されています。

 

 

王塚古墳より先に進みます。

 

土居の交差点より左折。

ここには、筑前竹槍一揆の門があります。ここの当主Kさんが丁寧に説明してくれます。Kさん今年89歳なんですが、声も大きく説明もうまいです。

前ブログで「筑前竹槍一揆」を説明しましたが、筑前竹槍一揆の門は、県道444号線の信号機「土居」付近にあります。この門には、その一揆時に打ち込まれた鍬や鉈ぼ傷跡が残っています。

筑前竹槍一揆は、明治6年(1873)嘉麻郡の一角で起こった県民一揆や田川郡で発生した打ちこわしを皮切りに、たちまち筑前全域に広がり、一部は筑後地方を巻き込みながら、勢力を

拡大し、10万人以上が一揆に参加したといわれています。この一揆により当時、福岡城内にあった福岡県庁が襲撃される他、各地で大規模な被害をもたらせました。

今でも福岡城下之橋御門にも刀傷があります。

この一揆は、徴兵制や太陽暦の採用、身分制度の廃止など明治政府による急激的な改革、米価の高騰などが重なった背景がありました。

このK宅は、大庄屋をされていたから襲われたそうです。

  

竹槍一揆の門から、泉河内川の土手沿いを歩きます。最初の休憩は、桂川町役場横の「桂川住民センター」です。

 

 

2回目の休憩は、町民グラウンド。ここには、全天候型のゲートボール場があります。

 

今日は、朝のうち雨が降っていましたのでそんなに暑くはありませんが、一応給水スポットでした。

町民グラウンドから泉河内川沿いの土手を歩きます。この泉河内川が昔、桂川(かつらがわ)と呼ばれていました。

  

コースは、再び桂川町役場へ。ゴールまであと2km。

 

コースは、国道200号線沿いを歩きます。

豆田天満宮の看板が見えてきました。歩道橋も朱色に塗られています。

豆田八幡宮: 豆田は、かつて土師(はじ)庄の中にあり、安楽寺(現在の太宰府天満宮)領でした。土師氏の土師連乙磨(はじのむらじおとまろ)は、菅原道真の没後、

豆田河原に神社を建てその遺品を神体として祀りました

 

豆田八幡宮の裏手には、「天神山古墳」があります。

天神山古墳は、国道200号線沿いの丘陵に位置する前方後円墳で王塚古墳の南東700mの位置にあります。内部の発掘調査が行われていないので詳細は不明ですが、王塚古墳と

大体同じ6世紀ごろに築造された装飾古墳ではないかともいわれています。規模は、全長が約62mで周りには周濠が巡らされています。

墳丘の一部を天満宮建設によって削られていますが、築造当時の状況をよく残す古墳として学術上貴重な資料であるといわれています。

 

豆田天満宮の歩道橋を通り、ゴールのJR桂川駅に向かいます。

12:10 桂川駅にゴールしました。

 

 

 


赤間宿酒造巡りウォーク(福岡県宗像市)

2021-10-21 14:22:17 | ウォーキング

10/13(水)ふくおかウォーキング協会楽しいウォークは、「赤間宿酒造巡りウォーク」でした。

集合場所は、JR教育大駅から少し行った所にある「熊越池公園」。参加者は42名。

長崎街道赤間宿には、200年以上の歴史を持つ酒蔵が二つあります。

伊豆酒造」は、享保2年(1717)創業。もともとは、静岡伊豆の伊東にいて、参勤交代か何かでこちらに来たそうで、始めは荒物屋を営んでいましたが、ある時幕府から米があるから

何かできないかということで酒を造られたそうです。幻の酒米といわれる「亀の尾」を使ったお酒を造られています。

勝屋酒造」は、寛政2年(1790)三郎丸で創業、明治6年(1873)筑前竹槍一揆 - Wikipediaで打壊しにあったのちに現在地に移転。宗像大社の御神酒「楢の露」「沖ノ島」の醸造元として知られ、

主屋と煙突は、国有形文化財に登録されています。

  

9:30 ウォーキング開始。七社宮には、「赤間」の由来が書いてあります。それによると、「神武天皇が、当地をお通りになった時、道に迷われました。

その時、赤い馬に乗った威容のある老人が現れ天皇をご案内しました。そして姿が急に消えました。里人は、これは神がお導きになったと信じ、この地を神地として崇めました。」

 

 

伊豆本店は、幻の酒米「亀の尾」を使ってお酒を醸造されています。酒のラベルも「亀の尾」です。

伊豆本店には、名物おばあちゃんがいらっしゃいます。今日は店舗に出ておられないので聞きますと「お元気」とのこと。もう90歳ぐらいになられるのでは?

私の先輩に「伊豆さん」がおられます。この先輩のルーツは、伊豆本店です。

  

伊豆本店から「正助(しょうすけ)ふるさと村」に向かいます。

 

  

平成4年4月にオープンした正助ふるさと村は、自然を愛し、地元の親孝行で有名な「武丸の正助さん」をモチーフに、「農」をテーマとした体験学習の場、都市と農村の交流の場、

観光の拠点をめざした公園です。公園内には、そば打ち体験ができるレストラン、会合などで利用できる研修施設、正助資料館や売店などがあります。
また、季節野菜などを収穫できる体験農園や市民農園もあります。

武丸正助翁は、寛文十一年(1671年)に今の宗像市大字武丸の土師上(はじかみ)というところで生まれました。父は庄三郎。孝子の誉れ高く時の藩主から武丸村の名に因み武丸の姓を

許されました。宝歴7年(1757年)没。

逸話の事例紹介(要点・要約) 

●「曇りの日、雨が降ると考えた思った父からは下駄を履くよう、また雨は降らないと思った母からは、草履を履くようにと助言された正助さんは、片足に下駄、もう片足に草履を履いた。 」 

●「お酒が好きであった父に日毎すこしの酒を買う正助に、とある酒屋が酒をただで渡すも、彼はその日からその酒屋に来なくなった。「自分の働いた金で買って飲ませたい」という理由による。」 

●「懸命の親の介護。背負う父が軽くなったと妹の前で涙する」 

●「両親を敬愛するにとどまらず、公けを敬い、人をあわれみ、世話をした。」 

●「正徳元年に没すまで18年間父の介抱に努め、その後は耕作と諸役以外は母に孝養を尽くした」 

●「母81歳、正助60歳の折、藩主は正助を城下に呼び、年貢免除、母の孝養手当などの沙汰があったが、正助は感謝しつつも辞退した」 

●「年貢米を盗んだ貧しい人の様を見て庄屋から米一俵を借りて、盗人に年貢米と交換させ、輸してもらった」 

●「荷物を運んだ帰りは『馬が大変だろう』と馬に乗らず、蓑笠などの軽いものも馬に付けず、更に鞍を自ら背負ったこともある。」 

●「ある時、薪を背負い山より帰る途中乞食に突き当たり、謝罪し焚火をして労わった」 

「池田村というところに住む目の不自由な人のためもえる石(石炭)を持って行ってあげた」 

●「疫病が流行した時、恐れて人が近づかない病人の家に正助は往来して助けた」 

●「長雨や干ばつの折にも、愚痴をこぼさず自分の仕事を怠らなかった」

 

 

休憩後再スタート。

  

釣川に来ました。これから釣川沿いに歩きます。釣川には、カササギ(鵲)がいます。サギと名がついていますが、サギではなくカラスの仲間です。

佐賀県(佐賀県の県鳥)を筆頭に北部九州には、カササギが生育しています。別の名を「カチガラス」。

七夕伝説には、7日に雨が降って天の川が増水すると、対岸へ渡れない彦星と織姫が出会えるように、何羽ものカササギが連なり橋の代わりを努めるという話があります。(鵲の橋)

  

赤間宿構口に来ました。赤間宿は筑前二十一宿の一つで 参勤交代などのため、慶長8(1603)年頃に小倉-福岡-唐津を結ぶ唐津街道沿いに福岡藩主黒田長政が整備した宿場です。

宿場の長さは約500メートルで、南北に傾斜した街筋には町茶屋、問屋場、旅籠、商家が立ち並び、街道に面して往来する人々の喉を潤すため7つの辻井戸が掘られていました。

また、群内村役人の集会所である群屋や、宿場役人の下代屋敷、福岡藩御用米蔵などの公的施設も設けられ、現在の城山中学校グラウンドの場所には藩主の休憩、 宿泊のための御茶屋が

置かれました。当時の赤間宿は、間口が狭く奥行きが長い短冊形の町屋が軒を連ね、家具屋や呉服屋、造り酒屋、鍛治屋、旅館があり「赤間に行けばなんでも揃う」と言われ、

峠を越えて鞍手郡や岡垣からも買い物客が訪れ賑わっていました。この宿場の賑わいは、明治23(1890)年に九州鉄道(現在の鹿児島本線)が開通するまで続きました。(宗像遺跡マップより)

  

「出光興産」創業者の出光佐三さんは、ここ赤間の出身です。現在も生家があります。

  

勝屋酒造は、主屋、煙突が国有形文化財に指定されています。

 

法然寺の所には、五卿西遷の碑があります。幕末の文久3年(1863)8月18日の変で攘夷派の急先鋒だった三条実美公たち7人は、身の危険を察し、京都を脱出して長州げ落ち延びた。

慶応元年(1965)1月15日、そのうちの5人「三条実美」「三条西季知」「壬生基修」「東久世通禧」「四条隆謌」が長州から筑前入りし、大宰府へ向かうことになった。(澤宣嘉は、生野の変で

平野國臣と共に身を投じた。錦小路頼徳は、1864年長州で病死)この時、吉留村の草葬の志士・早川勇は、黒田藩の指示で随行を命じられ、赤間宿の御茶屋(本陣)に1月18日から2月12日まで

五卿とともに滞在した。随行の中には土佐脱藩の中岡慎太郎、土方楠左衛門がおり、薩摩藩の西郷隆盛は、五卿の待遇改善のため、赤間宿に出向いた。

   

ゴールは、五卿西遷ノ碑がある法然寺です。11:35ゴールしました。

 

 


三瀬街道から室見川河畔を往く(福岡市早良区~西区)

2021-10-19 16:57:31 | ウォーキング

10/9(土)のふくおかウォーキング協会のサタデーウォークは、「三瀬街道から室見川河畔を往く」でした。

集合場所は、地下鉄次郎丸駅から200mぐらいの「埴安(はにやす)神社」。参加者は40名。

 

三瀬街道は、唐津街道西新の追分(紅葉八幡宮鳥居付近)から飯場峠を越え長崎街道佐賀城下に至る約12里(47,2km)の街道です。

この街道は、殿様道ではなく、庶民が主に物資の運搬に利用しました。

筑前(福岡)から肥前(佐賀)へは、塩、魚などの海産物、肥前から筑前へは、米、木炭などが運ばれていました。

私も以前三瀬街道に挑戦しようかと資料を探しましたが、飯場峠から三瀬方面は、整備されていなく何か獣道みたいで歩くのが難しいと思い断念しました。

 

9:30 埴安神社スタート。

 

最初の休憩地は、田村中央公園。

 

休憩後再スタート。金武中学校を通り室見川にかかる「松尾橋」を渡ります。渡ると西区です。

 

三瀬街道金武宿(かなたけ)  福岡と佐賀とを結ぶ三瀬街道の宿場跡。福岡藩内の筑前二十一宿のひとつです。
 宿場の中心には人馬継所(馬や人足を手配するところ)があり、木賃宿が一軒あった。その他、醤油屋・酒屋・紺屋・質屋・雑貨屋などが営まれていました。
 現在も石垣・土蔵などが残り、宿場の面影をとどめています。(福岡市文化財HPより)

 

 

南金武バス停より直進し、「かなたけの里公園」に向かいます。左に行くと三瀬街道飯場峠です。

  

かなたけの里公園で休憩。「かなたけの里公園」は説明文によると、「福岡市民にとっての「里」として育んでいく公園です。「里」は、田畑や周囲の森を舞台として人々の農の営みによって

植物や生き物と人とが共生し受け継がれたものです。昔から受け継いできた「里」の知恵と恵みを市民の交流の中で未来へとつなぎ、かなたけの里公園を皆で育んでいきましょう」

この公園には、貸農園があります。30㎡で年間使用料は、42,000円(種苗、肥料含む)だそうです。

   

休憩後再スタート。

 

次に向かったのは、吉武高木遺跡の所に造られた「やよいの風公園」。

吉武高木遺跡は、今から2200~2000年前の弥生時代の遺跡です。「三種の神器」をイメージさせる鏡・玉・剣を副葬した「最古の王墓」など数々の重要な発見があり、1993(平成5)

国指定遺跡になりました。魏志倭人伝に記載される伊都国と奴国に位置しますので「早良王国」が存在したのではないかと言われています。

やよいの風公園は、歴史公園として2017年(平成29年)にオープンしました。2,7haの敷地に当時の地形や植生を復元し、出土した銅剣、鏡、甕棺などの実物大に展示し、公園内を

巡りながら遺跡や弥生時代の暮らしについて学ぶことができます。

 

 

今日も暑いのでしっかり給水をしています。休憩後再スタート。

  

 

室見川を渡り、早良区に入ります。

三瀬街道沿いにある次郎丸は、昔ながらの白壁の家が目につきます。

12:00 地下鉄次郎丸駅にゴールしました。

 

 

 

 


幻の城(き)の山道・基山山麓を歩く(佐賀県基山町)

2021-10-18 14:27:59 | ウォーキング

10/6(水)ふくおかウォーキング協会の楽しいウォークは、「幻の城(き)の山道・基山山麓を歩く」でした。

集合場所は、JR基山駅。

 

9:30基山駅スタート。基山の町には、駅前に長崎街道が通っています。

 

天気は快晴です。基山町役場を通り今年夏の甲子園に佐賀代表で出場した「東明館高校」前を通過します。

漫画「キングダム」の作者「原 泰久氏」は、この東明館高校の卒業生です。

 

最初の休憩地は、基山公園。

 

しばらく歩くと「基肄城水門跡」の看板が見えてきます。

  

基肄城跡(きいじょうあと)は、天智4年(665年)に大野城跡(福岡県)とともに築かれた日本最古の本格的な山城で、構造上の特徴から「朝鮮式山城」と呼ばれています。

天智2年(663年)、唐・新羅の連合軍に滅ぼされた百済の再建を支援するため、韓半島に出兵した倭(当時の日本)は、白村江の戦いで大敗します。その後、大宰府を中心とした

北部九州の防衛の一つとして、この基肄城が築城されました。

城の構造は、基山(きざん:標高約405m)とその東峰(標高327m)とを土塁と石塁で囲み、その内側の尾根上に建物を配置しています。これまでに約40棟の建物が確認されており、

主に武器や食糧などが蓄えられたと考えられます。現在は、「礎石群」と呼ばれる柱を据えた基礎石を見ることができます。これまでに建物に葺かれた瓦や生活容器として使われていたと

考えられる土師器・須恵器などが出土しています。

城壁の長さは約4kmで、その途中には推定を含め4ヶ所の城門を備えています。南側では谷を塞ぐようにして築かれた石塁に、川の水を流すための水門があります。また、最近の調査により、

同じ石塁においてこの水門のほかに、排水機能をもつ3つの通水溝があることがわかりました。

中世頃には「木山城」として再び使用されます。詳しい築城時期や築城主体は不明ですが、周囲が堀に囲まれた基山頂上にある高台や土塁を4ヶ所掘りきった「いものがんぎ」などが

当時つくられたものと考えられています。

このような基肄城の歴史的・学術的価値が国に認められ、昭和12年(1937年)12月21日に国史跡に、昭和29年(1954年)3月20日には、国の特別史跡に佐賀県内で初めて指定されました。

佐賀県内の特別史跡である吉野ヶ里遺跡、名護屋城跡並びに陣跡とともに、国を代表する史跡の一つとなっています。(基山町HPより)

 

2回目の休憩地は、九州道基山P・A。

 

基山P・Aの近くには、「エミュー」の飼育場がありました。10/7には、熊本・菊池で飼育しているエミューが脱走する事件がありました。エミューは、世界で2番目に大きい(1番目はダチョウ)

鳥です。走る速度も40~50km/hです。

 

コースは、高速道の脇を通ります。

 

原田駅近くには、パゴダがあります。旗は、国旗でしょうか?調べましたが、どこの国旗かわかりませんでした。

  

次の休憩地は、五郎山公園。今日は天気はいいのですが、暑くて水分補給のため休憩時間を多くとっています。

 

五郎山公園横の「筑紫神社」です。

筑紫神社は927年(延長5年)成立の「延喜式神名帳」に名神大とあり、朝廷より尊崇された歴史の深いお社。その昔,筑前国と筑後国のさかい目(現在の筑紫野市)に荒ぶる神様がいて,

往来の人々の命を奪うことから「人の命尽しの神」と呼ばれており,それを鎮めるために「筑紫神」としてお祀りしたとされ,その伝説が筑紫神社や筑紫の呼び名の起源ではないかと

言われています。「筑紫」の名称は,九州を「筑紫嶋」(古事記)又は「筑紫州」(日本書紀)のように広義では九州全体を指しますが,狭義では筑紫神社周辺の地名を指すとされています。

 

境内の裏手では、この時期には珍しく「桜」が咲いていました。

 

福岡常葉(じょうよう)高校は、以前は福岡南女子高でしたが、男女共学になり校名も「福岡常葉高校」となりました。

 

11:50 西鉄筑紫駅にゴール!

この日のGPSです。

 

 

 


薩摩街道(豊前街道)7日目「植木味取~熊本城」(熊本市)

2021-10-17 17:02:35 | 薩摩街道(豊前街道)

猛暑やコロナのまん延防止、緊急事態宣言などで一時中断していました「薩摩街道(豊前街道)」を緊急事態が解除された10/1(金)に歩いてきました。

朝、6時50分福岡天神バスターミナル発の熊本行高速バスで熊本北区植木インターへ。植木インター8:30到着。植木インターから前回ゴール地、味取観音迄歩いていきます。

9:00 味取観音(瑞泉寺)スタート。味取観音を出ると、味取町について書いてある看板がありました。

「味取町」は、来民往還の分岐点、豊前街道沿いの加茂坂の登り詰めにあり、豊富な湧水もあって、かなり以前より集落が形成されたものと思われる。

寛永9年(1632)内村内に味取町が設けられ、在町として栄えた。町名の起源は、“荷取”とも、和名抄の“三重郷”等に由来するとも伝える。

参勤交代の際の茶屋が豪商松屋(堀家)に置かれた。盛時には約150戸の民家を数え、上、西松屋、冨七屋、砥石屋といった商家が軒を並べたと云う。

元禄年間に当町から植木町(味取新町)に分かれた。

明治18年(1885)、新道(福岡往還)の開通によって往時の賑わいを失っていった。

 

味取町を歩くと少し坂になっています。ここが、「ほたて坂」(保立坂)です。ほたて坂の看板も錆びて見にくくなってます。

  

専福寺の所には「山本高等小学校記念碑」があります。熊本市立山本小学校のHPを見ると、前身の「内村小学校」は1884年設立、その後「内村小学校」と「向原小学校」を合併して

「山本尋常小学校」となる。1902年に「山本尋常小学校」と「清水尋常小学校」を合併して、新たに「山本尋常小学校」になり、現在の校区になる。
 その後も、1924年「山本尋常高等小学校」、1941年「山本国民学校」、1947年「山本村立山本小学校」、1955年「植木町立山本小学校」と名前を変え、2010年に

「熊本市立山本小学校」となり現在に至る。と書いてあります。設立当時は専福寺境内で授業が行われていたのでしょうね。

 

国道3号線に合流する所に「植木青果市場」があります。植木といえば「スイカ」です。スイカのオブジェがありました。

平田機工の近くに錆びて見にくいですが「三里木跡」があります。熊本城から三里(約12km)です。

 

植木の信号の近くに「小野泉水公園」があるそうですが、見逃してしまいました。諸説ありますが、小野小町の生誕地だそうです。

小町の父である出羽郡司「小野良実」は、養父である公卿「小野篁(たかむら)」の罪に連座して植木に流され、この地で小町が生まれたそうです。

小町が産湯を使ったのが小野泉水公園だそうです。

 

県道30号線を歩くと、左側が植木小学校です。運動会が近いのか、児童が旗を持って練習しています。

 

植木小学校から郵便局の所に行くと「植木学校跡」です。案内板を見ると「ここは明治8年4月26日に開校した変則熊本第五番中学校、通称植木学校のあったところ。

もとは山本郡正院手永会所(現在の町役場のような組織)のあった場所で、これを改造して校舎とした。同校は熊本民権党が中心となり設置、運営した極めて先進的な学校で、

中江兆民の訳によるルソーの民約論を経典とした。校長平川唯一のもと宮崎八郎(弟が宮崎滔天)、広田尚、麻生直温等が教師を務め、城北各地から優秀な若者が入学した。

自由民権主義者の養成所として植木学校の名は高まり、盛時には80名近くの若者が在籍していたという。しかし、鹿児島私学校と気脈を通じ、戦闘訓練を行なう等したことから、

県と反目して補助金を打ち切られ、同年10月末、わずか半年で閉校するに至った。同校の関係者は城北の戸長征伐を指導、明治10年の西南の役では熊本協同隊を組織して薩軍に参加し、

後には自由民権思想の普及に尽力した。なお、現在の植木小学校校庭には植木中学記念碑が建てられている。」

元禄8年(1695)、細川忠利の命を受け、従来の味取観音があった味取から三池街道とも交わるこの場所、現在の植木町に「味取新町宿」を設けました。

  

 

先へ進みます。「植木天満宮」には、官薩両軍緒戦の地の標識があります。明治10年(1877)ここを起点に官軍と薩摩郡の戦いが始まりました。これが「西南戦争」です。西南戦争 - Wikipedia

  

歩いていると「河原林少尉戦死の地」の碑があります。碑文によれば、明治十年二月二十二日、この植木町向坂が官薩両軍の城北における緒戦の地となった。すなわち熊本城籠城軍に加わる為、

小倉より南下した第十四連隊(連隊長代理乃木少佐)は夕刻植木町に入り散歩線を敷いた。一方熊本城を包囲した薩軍はその一部(村田三介隊)が北上激突した。その後十四連隊は植木町千本桜に

後退したが、その際連隊旗手河原林少尉は本道の殿軍に加わり戦死、連隊旗は薩将村田三介の手に渡った。乃木少佐がこの時の責任を感じ死を決意したことは明治天皇への殉死の遺言にも

明記されている通りである。乃木少佐は連隊旗奪回を念じ、その後常に第一線立って戦い名将への道をあゆんで行った。この地が連隊旗手河原林少尉が村田隊兵士岩切正九郎に切られたと

伝えられる茶畑付近である。

 

熊本県警自動車訓練所の近くに、「明徳官軍墓地」があります。案内文によれば、「明徳官軍墓地には、現状で122基の墓石があります。政府軍の陸軍士官、下士、兵卒の墓石117基、

軍夫5基です。警視隊の暮石はありません。

階級は、士官2,下士17,兵卒98で所属別では、近衛兵第二連隊が最も多く71基で次いで東京鎮台、熊本鎮台、大阪鎮台、広島鎮台と続きます。

兵士の出身地は南は、熊本から北は山形まで全国に及んでいます。戦死日、場所で最も多いのが明治10年3月20日、ここの近くの向坂一帯で、全体の7割以上の92名です。

この日は、田原坂が陥落した日で、勢いに乗った政府軍は、一気に熊本城まで攻め込もうとしますが、向坂で薩摩軍の猛反撃にあって抜くことができず、多くの死傷者を出し、潰乱して

植木の町まで引きます。それから4月12日迄の間、植木の町を南北に中分して対峙しました。尚、近くの寄鶴には、軍夫30名の合葬墓があります。」

尚、「明徳」という言葉を広辞苑で調べましたら、「公明な徳行、りっぱな徳性」という意味だそうです。この墓地があるところも「明徳町」です。

  

西福寺の所が「二里木跡」です。

  

街道は、旧北部町に入りました。旧北部町役場の先には、フジバンビの工場があります。ここで休憩します。

 

休憩後再スタート。街道の左側には、四方寄(よもぎ)六地蔵・庚申塔があります。

  

その横には「御馬下(みまげ)の角小屋」です。この建物(母屋)は、江戸時代、庄屋を務めるかたわら質屋・酒屋を営んだ堀内(赤木)家の住宅であるとともに、豊前街道を往来する

細川・島津などの大名が休憩所として使用したお茶屋の跡であり、薩摩藩主島津斉彬と共に西郷隆盛も立ち寄ったといわれています。
そのため、商家としての役割を果たす店舗や茶の間などの部分と大名一行を迎えるための「御成りの間」「次の間」「御用人の間」などをあわせ持つ珍しいつくりになっています。

黒光りする柱や梁、鴨居に施された木象嵌など当時の姿をそのまま残しており、日本古来の木造建築のすばらしさを見ることができます。
資料館には、九代当主赤木弾蔵が明治政府参与を命じられた細川護美の共をして京都へ赴いた際の「見聞記」をはじめ、堀内家の江戸時代から昭和に至るまでの古文書や当時の人々の

暮らしぶりを伝える道具類などの資料も展示しております。
また、海軍体操の創始者として知られ、日本最初の落下傘部隊の隊長・指揮官である堀内豊秋海軍大佐の生家でもあり、その関係資料等も展示しております。(熊本観光ガイドより)

 

先へ進みます。大窪2丁目の信号で道が右と左に分かれています。街道は右の道です。

肥後銀行清水支店の所が「一里木跡」です。熊本城まであと4kmになりました。

山伏(やんばし)塚」は、熊本城の築城に際して、清正は、上方から山伏(修験僧)の龍造院を招いて地鎮祈祷をしました。祈祷は無事に終わったのですが、上方へ帰る龍造院を送るため、

宴会が開かれました。宴席で龍造院がふと、城構えについて話したから大変です。城の秘密が漏れると考えた武士達は、龍造院の後を追い熊本城の北、現在の熊本市西区池田町あたりで

龍造院を切り殺してしまいました。この塚は殺された龍造院を葬ったものと言われています。

  

街道は熊本市中央区京町に入ります。

  

池田屋味噌は、寛政4年(1792)創業、200年以上の歴史があります。

熊本地方裁判所の建物は、明治41年(1908)に建てられました。昭和50年(1975)、庁舎新築の際、取り壊される予定だったが、住民たちの要望で主塔部分残して資料館にしました。

 

熊本城に入ってきました。熊本城は、平成28年(2016)の熊本地震で天守閣の瓦や石垣が崩れた他に国重要文化財の櫓や塀が倒壊するなど大きな被害を受けました。

地震後、急ピッチで工事が行われ、今日10/1に一般公開されるようになりました。石垣やその他はまだ手が付けられていないとこもありますが、ようやく一般公開にたどり着けました。

私は、熊本城の一口城主ですので入場は無料なんですが、今日は5時までに福岡まで帰らなくてはいけませんのでまた後日伺うようにします。

 

 

 

加藤清正公を祀った「加藤神社」です。ここからの熊本城の眺めも最高です。

 

  

  

 

城内には、「神風連の乱」の石碑が立っています。「神風連の乱」は、明治9年(1876)10月、熊本で起こった反政府暴動。新政府の開明政策に不満を抱く旧士族太田黒伴雄らが

結成した神風連(敬神党)が国粋主義を掲げて鎮台・県庁を襲撃、まもなく鎮圧されました。

  

豊前街道は、熊本城内にある「里程元標跡」 がゴールです。この先鹿児島までは薩摩街道になります。

 

これで豊前街道(約110km)を7日間で完歩しました。

また、いつの日か、ここから鹿児島まで歩いてみたいですね。

 

 

 


10月度例会「幻の糸島水道、汽水地帯を巡る」(福岡県糸島市)

2021-10-03 13:52:07 | ウォーキング

10月2日(土)ふくおかウォーキング協会10月度例会は、「幻の糸島水道、汽水地帯を巡る」でした。

8月からの緊急事態宣言が9/30で解除され、久しぶりの団体歩行です。参加者は、46名。

この日、福岡地方は、朝は少し寒かったけど、陽が上るにつれだんだん暑くなってきました。

集合場所は、JR波多江駅裏の「産宮(さんのみや)神社」。

産宮神社の由緒は、

御祭神奈留多姫命は御懐妊の際、胎児教育をとても大切にされ、祖神豊玉姫命・玉依姫命に産育の吉兆を祈られました。 そこで「わたくしのお腹にいる子が、月が満ちて生まれてきた時、健康であったならば、萬世産婦の守護神となりましょう」と誓いを立てられました。

そしてお産に臨まれ、心忘れたかのように皇子神渟名川耳命(第二代綏靖天皇)をお生みになられました。
産前の誓いを守られ「産婦の守護神」となり、安産育児の神さまとして多くの方々からの崇敬をあつめています。(産宮神社HPより)

 

9:30 ウォーキング開始。

池田川沿いを歩きます。ここは、桜の名所としても有名です。

 

まだ少ししか歩いていないのにもう汗が出てきています。板持の真行寺で最初の給水タイム。

 

志登神社に到着。志登神社は、延長5年(927)にまとめられた延喜式神名帳に十九式内社の一社として唯一記載された式内小社です。

 

志登神社は、古代糸島水道によって分離されており(下記の図参照)、島だった志登神社周囲はその糸島水道にあたり、海神である豊玉姫命、和多津見神を祀っています。

龍宮で身籠った豊玉姫命が彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)を慕って陸に上がったのが当地とされ、昔は浮島となっており、海上から参拝するようになっていました。

この糸島市には、彦火火出見命を主神とした「高祖(たかす)神社」があります。

 

太陽観測石は、伊都国時代の祈祷師が太陽を測るために用いたとされています。

福岡市西区今津には「登志神社」という神社があります。登志という言葉は、韓国語で日の出という意味だそうです。

では、「志登」という名は?と境内でグラウンドゴルフをされていた方に聞きましたが、不明とのこと。

やはり、太陽に関係しているのでしょうね。

 

  

次に向かったのが、「志登支石墓群」。コトバンクによると、福岡県糸原市志登にある墓群。福岡平野の西、玄界灘に突き出た糸島半島の付け根に広がる平野のほぼ中央部に所在する。周辺の水田面より約1m内外高い場所に、10基の支石墓が1~2mの間隔を置いて並んでいる。

1952年(昭和27)に発見され、1953年(昭和28)の発掘調査で、支石墓4基と甕棺(かめかん)8基が見つかり、支石墓は朝鮮半島南部に多い「基盤形支石墓」であることが判明した。1954年(昭和29)に、稲作農耕の伝播とともに伝わった外来墓制を示す好例であり、わが国の墓制史を知るうえでも貴重であることから国の史跡に指定された。支石墓は、1~3個の支石で、径1.5~2m、厚さ50cmほどの平らな石や亀甲状の大石を支える形式のもので、下部構造は塊石によって長方形の石囲いをしたものと、浅い土坑をもつものがあった。副葬品として、黒曜石製石鏃(せきぞく)6、朝鮮製と判断される柳葉形磨製石鏃4が出土。上石の大石は玄武岩と花崗岩が使用され、甕棺は単棺・合口甕棺で、弥生時代前期~中期のものと推定されている。

西洋では、支石墓のことを「ドルメン」と呼んでいます。

 

 

次の給水ポイントは、東風(はるかぜ)公民館。今日は30度を超えているのか、とにかく暑いです。しっかり給水します。

 

産直店の一番田舎(いちばんでんしゃ)で買い物休憩。

一番田舎の近くが可也山(かやさん 通称糸島富士)が最も綺麗に見えるスポットです。

 

11:58 JR筑前前原駅にゴール! 久しぶりのウォーキングで疲れました。

今日のGPSです。距離は約9kmでした。