よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

見帰りの滝のアジサイ(佐賀県唐津市)

2021-05-31 05:15:37 | ウォーキング

5/28(金)見帰りの滝アジサイ祭がコロナの影響で中止になり、また、6/5 JR九州のウォーキングが計画されていましたが、これもコロナで中止になりました。

そこで個人で行ってみることにしました。

見帰りの滝のアジサイは、昭和40年代に川魚料理店の女将さんが観光客の癒しに供しようと植えた1株が発祥と云われています。その後相知町(現唐津市)が主体となり、

植栽が行われ、今日、九州でも最大規模の群生となり、平成元年(1989)からアジサイ祭も行われています。

  

見帰りの滝の由来は、昔、滝へ行く際に登る坂道を登り、帰る。でも「もう一度」と思い、また坂道を登ってでも見たい滝。あの坂道を立ち帰ってでも見たい滝から、「見帰りの滝」と

呼ばれました。見返りの滝ではありません。

滝までは、遊歩道があるのですが、今日は工事中の為、車道を登っていきます。

 

あじさい橋を渡ります。この橋橋の中ほどに来ると揺れます。

 

  

  

見帰りの滝には、ブルー、ピンク、赤、紫など約40000株のアジサイが植えられています。

 

 

滝から下りていくと、ホタル橋があります。

 

橋の欄干には、オブジェがあります。

  

 

 

 

アジサイは、まだ蕾が多く、あと1週間もすれば見ごろになると思います。

 

 


薩摩街道(豊前街道)を歩いています。番外編「卑弥呼の里瀬高」

2021-05-28 20:29:23 | 薩摩街道(豊前街道)

「ヤマト」というと、すぐ思い浮かべるのは、魏志倭人伝に出てくる「邪馬台国」。ここ、みやま市瀬高町も合併する前は、山門(やまと)郡でした。

旧山門郡は、瀬高町、山川町、三橋町、大和町の4町でした。これが、平成の大合併で、三橋町・大和町は、柳川市へ、瀬高町・

山川町は、三池郡高田町と3町合併し「みやま市」になりましたので「山門郡」は無くなりました。

江戸時代の学者 新井白石は、邪馬台国の所在地を全国の地名と照らし合わせ九州の「山門郡」と推理しました。

実際、瀬高町には、卑弥呼の墓であろうといわれる「権現塚古墳」があります。また、卑弥呼が居城したであろうという「女山(ぞやま)神籠石」があります。

街道歩きのついでに立ち寄ってみました。

●農産物直売所は、「卑弥呼の里」というネーミング。

● 女山(ぞやま)神籠石(こうごいし)  読み方は、「ぞやま」です。昔は女王山だったそうで、それがいつの間にか、「女山(ぞやま)」になったそうです。

案内板によれば、「神籠石とは、自然石や方形に加工した石を斜面に並べて土塁を築き、谷に水抜きの為の水門をつくったものです。用途については、これまで霊域説と山城説の二説で

争われましたが、おつぼ山神籠石(佐賀・武雄市)等の発掘調査により、古代山城としての性格があることがわかりました。

古代山城には、日本書紀に記載された「大野城」を始めとする朝鮮式山城と記載のない神籠石系山城があります。神籠石系山城とされるものは、全国で17箇所あって、福岡県に8箇所、

佐賀県に2箇所、山口県に1箇所の11箇所と北部九州地域に多く見られるものです。

女山神籠石は、標高200mの頂上部から南半分を約1,5kmにわたって列石がとりまいています。

西斜面の谷部には南から産女谷、源吾谷、長谷、粥餅谷(横尾寺谷)と4か所の水門が確認され、特に粥餅谷(横尾寺谷)と4か所の水門、長谷水門は保存状態もよいです。

尚、北半分の列石については現在の所確認されていません。  平成25年 みやま市教育委員会 」

女山には、首飾り、銅矛が発見され、また、内部にも多数の古墳が発見され、勾玉や管玉が出土しています。卑弥呼がここに居城して祭祀を行っていたかもしれません。

 

この上の方に女山神籠石展望台がありますのでそちらの方に行こうと思い、山の中に足を入れた所、長さ1mぐらいの蛇が行く手を遮りました。

私、この歳になっても蛇は苦手です。ですから展望台には行けませんでした。

 

● 権現塚古墳 市内最大級の二段築成の円墳で、市指定史跡です。規模は径45m、高さ5.7m、周囲113.5m。年代ははっきりしていませんが、大化の改新の際、規模の大きい古墳を造るなどの

厚葬を禁じていたため、大化の改新以前のものとされています。伝説によると、神功皇后が田油津媛を討った際に多くの戦死者を出したので葬った塚との説もあり、または卑弥呼の塚とも

言われていますが定かではありません。(観光案内文より)

周辺には、縄文時代から古墳時代にかけて集落が形成されたそうです。邪馬台国にしては、規模が小さく思えますが、瀬高を始め、柳川、八女、山鹿の一部あたりを統括していたのでは

ないでしょうか?

 

● 蜘蛛塚古墳  蜘蛛塚古墳とナビで検索しても出てきませんので農産物直売所に行って聞きましたけどわかりませんでした。その中の一人の方が老松宮にあるのでは?といわれ

その老松宮に行ってきました。老松宮の左側の片隅に蜘蛛塚古墳がありました。説明文を見ると、

この塚は、瀬高町大字大草字大塚の南東、老松宮入口に位置し、ここ大塚というの名の起りでもある。今は石室の中心部のみ残り、塚上に地蔵尊を祀ってある。昔は雨が降ると

この古墳から血が流れると言われていたが、これは石棺内の朱が流れていたのであろう。

伝説によると景行天皇の西征の時に、この地に朝廷に従わない者がいたので、天皇は之を征伐して首長を葬った所だとされている。又、土蜘蛛の首長田油津姫の墓であるとも言う。

この墳の南約18mの田の中に小墳があった。これも大塚といい、もと一緒の前方後円墳であったが道路作りの時、二分されたものと思われる。

大正二年春、田の中の小塚を崩してその上に新道が作られた。往時は女王塚と言っていたが 後世にはばかって大塚(蜘蛛塚)に改めたと言う。     瀬高町教育委員会

田油津媛(たぶらつひめ)は、日本書紀に記述される山門郡に居たとされる土蜘蛛の巫女女王。日本書紀では仲哀9年3月丙申に神功皇后により誅殺されたとされるが、事実とすれば

4世紀半ば頃の出来事になる。(ウィキペディアより)

※土蜘蛛「つちぐも」は、天皇への恭順を表明しない土着の豪傑・豪族・賊魁などに対する蔑称として用いられていた。

卑弥呼→台与→田油津媛という説もあります。

 

 

九州各地には、卑弥呼がいた「邪馬台国」の候補地が何か所かあります。ここ瀬高の地も候補地です。

 

 


薩摩街道(豊前街道)を歩いています。3日目(その2)「羽犬塚(筑後市)~瀬高(みやま市)」

2021-05-27 18:22:28 | 薩摩街道(豊前街道)

(その1)からの続きです。

タマホームスタジアム筑後の先の信号を左折します。このあたりに「今寺番所跡」があるそうですが、見つけられませんでした。

旧街道は、光明寺を通ってまた県道96号線に戻ります。

  

筑後広域公園プールを過ぎるとみやま市瀬高町に入ります。

 

行基が造った「行基橋」。橋の手前には、行基を祀った「お堂」があります。※326 本郷の行基橋 瀬高町 (biglobe.ne.jp)

 

行基橋を渡ると、右側に瓦葺の堤防があります。多分高貴な方の渡し場の跡ではないでしょうか?

 

本郷の信号の手前、右側に神社があります。何て書いてあるかわからず、近くの魚屋さん、農家の方に聞きますがわからないとのこと。

帰って調べると「聖母宮(しょうもぐう)」だそうです。お宮なのに聖母?何か不思議に感じますが、もともと長崎県壱岐市にあるお宮で神功皇后をお祀りしているそうです。

 

 

中山のゑびす像あたりから、柳川市三橋町に入りました。三橋町も昔は、山門郡でしたが、平成の大合併で柳川市に合併しました。

中山の大藤の信号の先に「二里石」があります。説明文を読むと、

関ヶ原の合戦で石田三成を捕らえた田中吉政は、慶長6年(1601)に筑後33万石の領主として柳川城に入りました。吉政は柳川城の大掛かりな改修や長大な干拓堤防(慶長本土居)の築造、

柳川城と支城の久留米城とを結ぶ通称田中道を初めとする幹線道路の整備などを行いましたが、筑後全域の道路に柳河辻町の札の辻ノ辻の標石(現在の柳川市辻町交差点)を基点とする

一里ごとの標識を置きました。標識として、瀬高道、三池道など筑後南部には標石(一里石)が建てられ、田中道(久留米往還)など筑後北部には塚(一里塚)が造られました。

この二里石は、柳川から矢部川沿いに豊後国(大分県)に向かう道路に置かれたもので、川に近い二里石付近は堤防上に道路がつくられいました。手前の一里石は久末にあります。

この道は二里石の先で二手に分かれ、もう一方は現在の筑後市を経由して久留米に向かっています。逆に中山から柳川に向かうと、柳川から肥後、薩摩に向かう街道に合流します。

そのため、江戸時代の中山周辺は人の往来が盛んであったと考えられます。
当時の二里石は大正期に堤防を低めた際に失われ、現在の二里石は昭和57年に地元有志によりほぼ元の位置に復元されたものです。          平成22年3月   柳川市

  

街道とは、ちょっと離れますが、「中山の大藤」がある熊野神社に立ち寄ります。

毎年「中山の大藤」は、見に来ているのですが、昨年、今年とコロナ禍で「密」になりそうなので行きませんでした。写真は2019年のものです。

来年こそ、マスクを外して見に行きたいですね。

 

 

街道に戻ります。三軒屋の信号を左に行けばよかったのですが、真っすぐ行ってしまいました。途中、金屋久橋で間違っていることに気づき、三軒屋信号迄戻ります。往復約2,5kmのロス。

 

三軒屋の信号から瀬高町上庄になります。瀬高町は、瀬高橋を挟んで上庄と下庄に分かれて宿場がありました。

瀬高町は、酒造業が多い町です。江戸時代柳川藩では、藩の財源を図り、酒に適した豊富なコメと良質な水があり、更に矢部川には、輸送に適した港があることから瀬高に酒造業を推奨しました。

 

 

ふくおかウォーキング協会の〇〇さんの母校「福岡県立山門高校」です。

国道443号線と交差する所が、瀬高上庄のお茶屋跡です。現在はその遺跡が見られません。バス停だけがその姿を残しています。

 

国道を横断し旧道を歩きます。このあたりは、国道から離れているせいか、旧家が残っています。

みやま市に入って思うことは、みやま市には、歴史的建造物の案内板が少ないということです。前もって調べておかなくては、迷うこともあることでしょう。

 

瀬高町上庄の八坂神社です。上庄八坂神社では毎年7月21日に「提灯ぞろえ」、24、25日には「大人形祭」を開催。魚鱗・魚皮・虫の羽・貝殻・木皮などを材料とした高さ2.5m・直径1mの

大提灯には人物、風景などが描かれ、氏子の若者によって町内を回ります。高さ約2mの大人形は、柳川藩祖立花宗茂公が霊夢を見て始められたと伝えられ、向かって右が八幡太郎義家、

左は安倍宗任もしくは貞任を毎年交互に立て、中央に祇園宮の被壇を設けます。大人形の股をくぐれば、無病息災のご利益があるといわれ、昭和31年(1956)、県の有形民俗文化財に

指定されました。

  

八坂神社の隣は、児童文学者「與田準一」の生家です。「ことりのうた」を作詞。【童謡】ことりのうた♪ - Bing video

 

與田準一生家の向かえは、「菊美人酒造」です。北原白秋の実姉が嫁がれた酒蔵です。そういう縁で與田準一と北原白秋は交流があったそうです。

與田準一記念館は、みやま市図書館にあります。(現在緊急事態宣言で休館中)

菊美人酒造から瀬高橋を渡ります。

 

橋を渡った左側には、「池田屋酒造」です。

 

橋を渡ると瀬高町下庄になります。

 

旧道の突き当りが星隈酒造です。その先の新町公民館の前には、「伊能忠敬測量基点之地」の碑が建っています。

碑には、「伊能忠敬は、寛政10年(1800)より十七年の歳月を費やして全日本地図を完成した人で当地方を測量して廻ったおり、この地点を測量基点と定めた」とかいてあります。

  

 

旧街道の中ほどには、「松尾宮」があります。松尾宮の詳細はわかりませんが、瀬高には、酒造の蔵元が多く、京都の松尾神社(酒造りの神)を勧請したのではないでしょうか?

  

13:45JR瀬高駅にゴールしました。

本日のGPSです。

 

 


薩摩街道(豊前街道)を歩いています。 3日目 (その1)「羽犬塚(筑後市)~瀬高(みやま市)」

2021-05-26 18:33:19 | 薩摩街道(豊前街道)

5/25(火)今日は天気もいいので薩摩街道を歩こうと、車で出発。車を瀬高駅に置き、JRで前回ゴール地羽犬塚迄戻ります。

9:00街道歩きスタート。歩いていると「停車場公民館」というのがあります。普通公民館の名前は、その地区の名を付けるのですが、ここは、羽犬塚か山の井です。

停車場公民館とはどういう意味なんでしょうね?

 

羽犬塚の一里塚は、民家の庭先に建っていました。

 

山の井の信号から旧道に入ります。信号の所にも「羽犬」の像がありました。

 

ちょっとここで寄り道です。SNSの先輩の会津のKさん、女優・黒木瞳さんの母校「福岡県立八女高校」です。

 

再び旧街道に戻ります。二本松橋の所に山頭火の歌碑が建っています。「うららかな 今日の 米だけはある

筑後市には、街道の所々に「坊津街道」の道標がたっています。これは、大変役立っています。

  

「上妻郡・下妻郡」の郡境石があります。上妻郡は、現在の久留米市荒木、八女市大部分、筑後市大部分、八女郡広川町。下妻郡は、みやま市瀬高町、野町などです。

 

尾島上町の信号で国道209号線と合流します。右側にある天満神社には、「山門合戦の絵図」があるということで行ってみました。

山門合戦の意味はわからなかったが、境内には大きな楠があります。

尾島には、えびす様が沢山建っています。この写真は、文化年間のもの。あと、天明年間のもありました。昔は、商業でにぎわっていたのでしょうね。

  

天満神社の国道の反対側には、「一之塚源平古戦場跡の碑」があります。

壇ノ浦の戦いで生き残った平家の一団は船または徒歩で博多を経て、そこから大宰府に向かったものと思われます。ただ頼りの原田種直は「葦屋浦の戦い」で源範頼に敗れもう

平家の人々を守る力も気力もなかったのかもしれません。
そこから一行は源氏の追手を逃れるために行くあてもなく薩摩街道を南へ南へと急ぎます。
ただ女人を伴う行軍で思うように進めなかったと想像され、現在の筑後市尾島あたりで源氏の追手に追いつかれ戦闘が起こり、多くの平家の武者が討ち取られます。
現在その遺骸を葬ったといわれる地に「一之塚源平古戦場跡」の塚と碑が建てられています。

この供養塔の近くには、凄い数のお地蔵さまがあります。平家の兵士を供養のためのお地蔵様でしょうか?

  

尾島の信号から街道を離れ、船小屋鉱泉場の方に行ってみます。

船小屋は、旧名を東古賀原と称え、その昔福岡県筑後国下妻郡下妻村大字尾島でした。本来この地は藩政時代、柳川立花藩下に属していて、この時代に土木用の小舟をこの地に格納していた

仮の舟小屋が、矢部川の堤防上に設置されていました。この小屋は旧藩に属し、厳重な監視下におかれていました。附近の人々はみだりに立ち入ることが許されなかったので、

土地の人々はこれを「御舟小屋」といって祟めていたのですが、後に至って御の字が除かれて「船小屋」という今日の名に転じたとされています。(船小屋温泉郷HPより)

船小屋では昔からわき水が吹き出ており、この上を飛ぶスズメがよく落ちていたため、『雀地獄』と呼ばれていました。文化年間(1804~1818)、難病で苦しんでいた老人が病の苦しさから

いっそのこと死んでしまいたいと『雀地獄』の水を飲み、その中に浸りました。ところが、死ぬどころか気分がよくなり長年の病気が楽になり、一ヶ月もすると治ってしまいました。

この噂が広がり、近くの村々から湯治客がやってくるようになったため村の大庄屋が井戸を掘ることを決め、有馬藩の殿様に願い出て井戸を掘ったのが船小屋温泉の始まりとされています。

浴場が完成すると、鉱泉の評判が広まり、多くの人が集まるようになりました。明治19年の分析の結果、この泉は含有量日本一の含鉄炭酸泉で、飲用して胃腸病・貧血症・浴して婦人病・

神経痛などに効果があることが分かりました。その後、船小屋温泉は戦傷軍人の湯地場に指定され、そして多くの文化人にも愛されました。夏目漱石は結婚したばかりの妻・鏡子と共に

この地を訪れ、浴しました。鉱泉場の北側には漱石が読んだ句『ひやひやと雲が来るなり温泉の二階』の碑があります。また、昭和天皇や秩父宮殿下の訪問の際の宿泊もありました。

私も、手ですくって飲んでみました。何とも言えないような味です。お薬と思って飲んでみたら飲めます。

  

 

 

夏目漱石の歌碑「ひやひやと雲がくるなり温泉の二階

  

  

街道に戻ります。街道は、尾島の信号から斜め右です。水洗小学校を過ぎ、筑後広域公園の前を通ります。

 

歩いていると「秋津島浪右衛門の供養塔」があります。本名を村上浪右衛門といい、元禄10年(1697)当地で生まれました。幼少より身体が大きく、19歳で江戸に上がって力士となり

27年間も現役力士として相撲をとりました。最盛期には、6尺1寸8分(約187cm)38貫(約142,5kg)の巨体を誇り、二千数百番もの勝ちを重ねた彼は「天下第一」とうたわれました。

供養塔には、歴代力士の若乃花、柏戸、大鵬を始め多くの力士が地方巡業の際に立ち寄っています。

 

歩いていると民家の庭先に「歌碑」が建っています。俳句かなんかの先生の家でしょうか?

   

最初の休憩地は、九州新幹線筑後船小屋駅です。駅の向かい側には、九州芸文館がありますが、現在緊急事態宣言中の為休館していました。

  

筑後船小屋駅を出ると、福岡ソフトバンクホークスの2軍球場「タマホームスタジアム筑後」があります。

今日は13:00から阪神を迎えて2軍の公式戦が行われます。尚、タマホームの創業地は、筑後市です。

 

長文になりますのでこのあとは、(その2)につづきます。 

 

 


薩摩街道(豊前街道)歩いています。2日目(古賀茶屋(久留米市)~羽犬塚(筑後市))

2021-05-22 05:12:37 | 薩摩街道(豊前街道)

5/19(水)薩摩街道(豊前街道)2日目  梅雨の真っ最中ですが、今日は梅雨の晴れ間、自宅を7時に出発し電車を乗換しながら前回ゴール古賀茶屋に8:27到着しました。

古賀茶屋駅から北野天満宮下宮を通り、筑後川に向け歩きます。

  

筑後川にかかる神代(くましろ)橋近くに神代浮橋の碑があるそうですが、見つけられませんでした。

 

説明文によると、文永11年(1274)蒙古軍撃退の為、鎌倉幕府の執権北条時宗の命を受け、薩摩・大隅・日向・肥後勢が博多に北上していた。その際、高良大社の一族で当地を管理していた

神代良忠が九州最大の難所といわれた筑後川に舟を浮かべ(船橋)通行を手助けしたことで、軍勢は速やかに博多に趣くことができたという。「高良大社所蔵文書」には、その功績を記した

幕府感謝状の写しがある。尚、神代の名が初めて登場するのは平安期に編纂された「和名抄」。古来よりこの地は南九州諸国と大宰府や京都方面との交通において筑後川の重要な渡河地点で

あったとされる。室町末期には、薩摩坊津(現南さつま市坊津町)を起点とする坊津街道に「神代船渡し」の名が見られ、江戸期に入ると、鹿児島・人吉・熊本・柳川・島原といった諸藩は、

参勤交代の折にここで船渡をし、八丁峠、冷水峠を通って小倉に向かっていた。

  

神代橋を渡ると「神代天満宮」があります。これは、菅原道真公が水田の郷より北野へ帰還、筑水の辺り神代天満宮の所在地にて沐浴されたという。故に村民一同この地に天満宮を建て

当地の産神とした。それ故神代天満宮を見浴びの天満宮という。

野口、旗崎交差点を過ぎ九州道の高架下を通ります。

  

久大本線の踏切を過ぎると左側に「山川招魂社」があります。明治2年(1872)久留米藩主有馬頼咸公の命により創建されました。高山彦九郎、真木和泉守、稲次正訓を始めとして、明治維新の大業に身を捧げた久留米藩士たちをお祀りしたのが始まりで、明治以降の戦役で命を落とされた旧久留米藩領出身者の御英霊もお祀りしています。

 

久留米市府中宿は、良山中学校前信号からが「北構口」です。

  

府中宿は、高良山の門前町で、坊津(薩摩)街道、日田街道、柳川往還が合流する重要な宿場町でした。府中の名は、筑後国国府が7世紀前半から鎌倉時代が始まるまでの約500年間あったことに

由来しています。宿場には、庄屋、横目という役人と往還筋の町並みを世話する町別当がいて、これら双方が宿駅の行政全般を取り仕切っていました。この支配下で実務にあたる人馬問屋場があり、

問屋役がいました。更にこの下に馬や人足を差配する問屋場役人がいました。問屋場には、通行人を継送するための人足15人、馬10疋、駕籠10挺が常備されていました。

町には、上・中・下町の3つに分かれ、上町には広手があり、ここから東へは高良社、西へは久留米城下につながっていました。

府中本陣は、御井小学校の正門の坂を登り切った所にありました。

  

 

街道の方に戻ります。府中宿には、16軒の旅籠がありました。

  

   

高良下宮社

 

下町で最も古い300年以上の歴史を持つ大鍋屋(青柳家)。鬼瓦や漆喰のコテ絵が美しく映えます。

  

  

 

  

矢取の信号を直進します。左側には、久留米信愛学院中・高・短大があります。つい先日まで信愛女学院でしたが、平成31年に共学になりました。

女優の吉田羊さん、高校1年迄でしたが、歌手の松田聖子さんが通われていました。

信愛学院の先の高牟礼市民センターの所に「久留米藩鋳造所跡」があります。

説明書によると、「「からくり儀右衛門」として親しまれている「田中久重」は寛政11年(1799)通町10丁目に生まれました。幼い頃から才能を発揮し、文政2年(1819)から天保3年(1832)

頃までの五穀神社の祭礼では、水からくりなど新しい仕掛けを次々と考案し、大変な評判を呼びました。この間九州各地や大阪・京都・江戸でも興行を行い、その成功により全国に

知られるようになりました。

天保5年(1834)には、大阪・伏見に移り、懐中燭台・無尽灯などを考案し、後に京都へ移り天文学や蘭学などの西洋の文化技術を学び、嘉永4年(1851)には、当時の時計の最高傑作

「万年自鳴鐘」を完成させました。嘉永6年(1853)、佐賀藩精錬方に招かれ蒸気船・銃砲の製作などを行い、元治元年(1864)には、久留米藩に帰り、藩の軍艦購入や銃砲の鋳造に携わり、

この石碑が建つ裏山に藩鋳造所を設けました。ここでアームストロング砲を鋳造し、ここから約3000m先の飛岳に向けて大砲が試射されたところです。

久重は明治14年(1881)に亡くなりましたが、優れた発明の数々により、日本の近代技術の発展に貢献しました。」

久重75歳の時、政府の要請を受け東京に移り、銀座に電信機などのメーカーとして「田中製作所」を開きました。これが、現在の「東芝」です。

  

先を進みます。下川原橋を渡ると街道は、自衛隊久留米駐屯地を左に大きくカーブします。(元々は自衛隊の中を街道が通っていたのではないかな?)

 

長閑な道に出ると正面に仮囲いをした大きな建物が見えてきました。(マンションの工事中かな?)

 

浦山公園が最初の休憩地です。浦山公園は、4つのため池や自然林を生かして整備された公園です。横には、5世紀後半の前方後円墳の浦山古墳があります。

 

 

浦山公園を下りていくと太鼓の音が聞こえてきました。その音の方に向かうと、ここは、成田山久留米です。

久留米成田山は、昭和33年(1958)に身代わり不動尊で全国的に知られている千葉県成田市の新勝寺から御分霊を勧請し、浦山古墳に隣接した現在地に開山された直系分院です。

 

マンションみたいに見えたものは、「久留米成田山母子大観音像」でした。

62mの高さ日本一を誇る母子大観音像は、現在お色直しの真っ最中でした。工事中でなければこの大きな母子大観音像がみられたのですが・・・・・

  

国道3号線二軒茶屋の交差点に差し掛かりました。二軒茶屋というと、昔、ここに茶店が2軒あったのでしょうか?

街道は、二軒茶屋から上津小学校を通ります。ここから緩やかではありますが、上りです。

 

上津小学校から緩やかではありますが、長い上り坂です。この先は、自衛隊高良台の演習場になっています。時々自衛隊の車両とすれ違いますが、道幅も狭く避けていきます。

 

途中道を間違えながらようやく抜けました。

 

国道209号線の永代橋に永代橋橋脚跡と茶屋跡があるとガイドブックに書かれていますが、見つけることが出来ませんでした。

  

筑後市に入ってきました。民家に「原田万吉生家」があります。調べてみると植物学者だそうです。

  

秋葉神社が左側にあります。時間も12時を過ぎましたのでここで休憩します。

  

休憩後再スタート。

 

  

羽犬塚上町あたりが「羽犬塚宿」の北構口です。社日神社には、種田山頭火の歌碑が立っています。昭和5年(1930)12月に羽犬塚に滞在しています。

羽犬塚には、山頭火の歌碑が4か所立っています。そのうちの一つ、社日神社の所には、「お経あげて お米もろうて もず鳴いて」。

ここには、山頭火が滞在した木賃宿「喜楽屋」がありました。

羽犬塚の地名の由来となった「羽犬」の塚がある「宗岳寺」に行ってみました。

 

羽犬塚(はいぬづか)という地名にもなり、JR鹿児島本線の駅名にもなっている羽犬伝説。この羽犬伝説には、2種類の話が伝わっています。

●ひとつは悪い犬バージョンで、昔この地に羽の生えた犬がいたというものです。この羽の生えた犬は性質が荒く乱暴で、家畜や旅人を襲うため、地元の民たちから大変恐れられていました。

天正15年(1587年)、島津氏討伐のため九州に遠征した豊臣秀吉は羽犬に行く手を阻まれ、やっとの思いでこれを退治。秀吉は羽犬の強さと賢さに感心し、塚を作って弔ったといいます。

●もうひとつは愛犬バージョンで、秀吉が九州遠征の際に羽が生えたように跳び回る犬を連れていたというものです。残念ながらその犬は病気にかかり死んでしまいます。

犬を大変かわいがっていた秀吉は非常に悲しみ、家来たちが見かねて犬の塚を建てたという伝説です。

 

羽犬塚小学校には、羽犬の銅像が建っています。

 

羽犬塚小学校の所には、「羽犬塚お茶屋跡(本陣跡)」もあります。お茶屋とは、大名居城の御殿に対し、遊猟、領国内巡覧などの時休泊する本陣の事で久留米藩直営の施設でした。

施設の広さは、間口十七間余、奥行二十八間余の五百坪で更に付属地として691坪余がありました。建物は、平屋建てで四脚門を通った奥に本屋があり、本屋南の中庭三方を屋根付きの

土塀が巡り、蘇鉄、茅、マキ、ナギが植えられました。

 

お茶屋跡(羽犬塚小)の先には、国内最古級の夫婦えびすがある「六所宮」です。

 

六所宮の夫婦ゑびす像は、幅35㎝、高さ30cmで男女並んで彫られています。元々羽犬塚中町会所の敷地内にあり、明治時代に六所宮に移されました。

古くから市が栄え、交通の要所でもあった羽犬塚には、町のあちこちにゑびす神が祭られていました。

 

川村皮膚科の所から右折します。ここも宿場町特有の桝形になっています。藤島橋の所にも山頭火の歌碑が建っています。

さろうとして けふもくれたか 山頭火

 

羽犬塚の旧道を通り、今日のゴール地「羽犬塚駅」に到着です。羽犬塚駅前にも「羽犬」の像がありました。

今日は、8:30に古賀茶屋駅をスタートし、羽犬塚駅には、14:20に到着しました。約6時間のウォーキングでした。(20,7km)

  

今日のGPSです。

※今日の交通費 :西鉄福岡~古賀茶屋 @630 、JR羽犬塚駅~博多駅 @950

 

 


駕与丁公園のバラ園(福岡県・粕屋町)

2021-05-14 13:50:24 | ウォーキング

5月のふくおかウォーキング協会の例会は、「駕与丁公園のバラウォーク」でしたが、5/12に福岡県が緊急事態宣言発出の為、中止になってしまいました。

駕与丁公園のバラをみたかったのですが・・・・・

それで今日(5/13)午後から行ってきました。駕与丁(かよいちょう)は、昔、皇室の乗る駕籠(かご)を担ぐことを任務にしていました。その団体がこのあたりに住んでいたものと思われます。

駕与丁公園は、池の周囲4,2195kmを遊歩道で囲む公園で、春には約700本の桜が、春と秋には、展望広場にあるバラ園のバラが見事に咲き誇ります。

池の周囲を10周するとちょうどマラソンと同じ距離になります。

  

バラ園に到着。

  

  

 

  

バラのトンネルです。

 

バラの花言葉は、

赤いバラが「あなたを愛します」「愛情」「情熱」「熱烈な恋」

白いバラは「純潔」「私はあなたに相応しい」「深い尊敬」

ピンクのバラは「しとやか」「上品」「感銘」

黄色のバラは「愛情の薄らぎ」「嫉妬」「友情」

バラ園の中央には、全国のバラが集まっています。

 

 

  

展望台の近くにもいろいろなバラがあります。ここからは三郡山地が見えます。

 

 

  

  

  

  

 

バラの名所、北九州市若松区の響灘緑地のバラ園は、コロナで閉園となっています。この駕与丁でも毎年この時期バラ祭が行われるのですが、今年はコロナで中止です。

でも開いててよかったです。楽しませていただきました。

 

 


薩摩街道(豊前街道)を歩いています。その1「石櫃(福岡県朝倉郡筑前町)~古賀茶屋(久留米市宮ノ陣)」

2021-05-12 11:21:14 | 薩摩街道(豊前街道)

今度の街道歩きは、「薩摩街道(豊前街道)」です。

薩摩街道は、福岡県の山家で長崎街道から分岐して久留米・熊本・八代・水俣・出水を経て串木野から薩摩半島を横断して鹿児島に至る約395kmの街道です。

久留米では、坊津に通じる道から「坊津街道」、熊本では、熊本城を起点に薩摩に通じる道を「薩摩街道」、江戸方面の豊前(福岡県北九州市)までの道を「豊前街道」と

呼んでいます。今回は、山家から熊本までの「豊前街道」(約110km)を歩いてみたいと思っています。

豊前街道は、山家をスタートし、(今回は、石櫃の追分石から)松崎宿(小郡市)~筑後川~府中宿(久留米市)~羽犬塚宿(筑後市)~瀬高宿(みやま市)~原町宿(みやま市)~

南関宿(熊本県玉名郡)~山鹿宿(熊本県山鹿市)~味取新町(熊本市)~熊本宿(熊本市)まで歩く予定です。

薩摩街道(豊前街道)第1日目 2021年(令和3年5月9日)

朝8時半に福岡の自宅を出発し西鉄朝倉街道駅からバスで石櫃まで行く。豊前街道は、山家が起点ですが、先月、山家から日田街道を歩いていますので石櫃の追分石からスタートします。

10:12スタート。

  

筑前町のマンホールです。筑前町は、平成17年(2005)夜須町と三輪町が合併して発足しました。町の木と花、鳥は、松、藤、鶯です。

  

県道53号線沿いに歩くと、「東小田峯遺跡」があります。説明書を読むと「弥生時代を中心とする一大拠点集落で竪穴住居跡457軒、甕棺墓532基などを検出しました。

前期の墓地は、八基の土壙墓をコの字形の溝で区画し、盛土をもつ墳丘墓で小型の壺が副葬されていました。各土壙墓間に身分の差はありませんが、選ばれた人たちの墓地でしょう。

中期の墳丘墓は10号甕棺墓に副葬品が集中し、中国の前漢時代(紀元前202~紀元8年)のガラス製の壁2個、青銅鏡2面の他、鉄製の剣、戈(か)、毛抜きが出土しました。

この甕棺墓は、この地方の「王墓」と考えられています。」

先月日田街道を歩いた時もこの筑前町には、梨子木遺跡、大木遺跡がありました。また、朝倉市には大規模な平塚川添遺跡があります。

古代この辺りは、大きな集落があったのでしょう。

 

曽根田川を渡って右折します。左側には、「水神社」があります。ここは、曽根田川と宝満川が合流する所です。水害被害除けとして勧請したのでしょうか?

入口には「河工事記念碑」もありました。

  

しばらく歩くと筑紫野市に入ります。このあたりは、昨年小郡市のカエル寺に行ったときに通りました。

  

野添の天満宮を通ります。その先の右側には、筑前国と筑後国の「国境石」が立っています。筑前側が「従是北筑前国」筑後側が「従是南筑後国」。

車のナンバープレートも筑前側は、「福岡」ナンバー、筑後側は、「久留米」ナンバーになります。

  

乙隈の国境石を過ぎると小郡市に入ります。乙隈の信号の先には、「野越堤」があります。平成28年の道路工事中に、旧薩摩街道の全長約90メートルにわたって石垣・石敷が発見されました。

道路西側法面に高さ1.5メートルにわたって6段に石が積まれ、下面には幅1.5メートルにわたって5石分の石敷きがあり ます。確認調査の結果、粘土と砂を交互に積み重ねて造った街道に、

石垣と石敷を施していることがわかりました。使用された石材は大きさ30~60センチメートルの花崗岩で、石質・色味から花立山古墳群の石室に使用されていたものを再利用した可能性が

考えられます。この野越堤は、参勤交代道である薩摩街道を北側を流れる草場川の洪水から守るための施設です。洪水で水がオーバーフローした際に、流水で街道が壊されることを防ぐため、

石垣・石敷によって野越しの機能を持たせました。これにより、洪水による崩壊を最小限に食い止め、破損個所も限定させて復旧を速やかに行うことができるようになります。

当時の人々の自然災害に対する考え方や工夫が分かる重要な発見で、水利土木史上貴重な遺跡です。(小郡市HPより)

  

干潟の一里塚 赤松医院を過ぎると、一里木というバス停があります。そのバス停の所に半分土中に埋まった「一里塚」があります。昔は、榎が植えられ、その木陰で旅人たちが休んで

疲れを癒した所でした。

   

立石の信号から右折しなければいけなかったが、直進してしまい、干潟信号の所で気づき引き返します。

小郡市立立石中学校の入り口には、薩摩街道(豊前街道)の説明版があります。立石中学校の近くには、造園業者が何軒か立ち並んでいます。街道の脇には、植木が植えられています。

 

大分道の高架下を過ぎると、「松崎」です。松崎宿の入口には、霊鷲寺があります。

霊鷲寺(りょうじゅうじ):もともと三潴郡西牟田(現筑後市)にあった寺で、延宝八年(1680)、松崎宿の鎮護としてこの地に移されてきた。勅願寺であるため、街道を通る諸大名も

この寺の前では、駕籠や馬から降り、礼拝してから通過したといわれている。

  

霊鷲寺の参道には、両側に杉並木が植えられています。

 

「松崎」の地名は、有馬豊範が久留米藩から御原郡19ヶ村一万石の分地を受け、寛文9~12年(1669~72)に御原郡内の山隈原の一角「鶴崎」の地に城を築き、鶴崎を松崎に

改めたことに由来します。延宝二年(1674)従来の往還である久留米より横隈への宝満川右岸を通る横隈街道に代わり、北は山家宿(筑前町)、南は府中宿(久留米)に至る松崎街道が

天下道と定められたのに伴い、城下町である松崎の地が宿場町として整備されていった。貞享元年(1684)の松崎藩改易の後も参勤交代道として、薩摩藩(島津氏)、熊本藩(細川氏)、

柳川藩(立花氏)等九州の主だった大名がここを通り重要な宿場町として繫栄していった。

慶応年間の資料によれば、松崎宿の総戸数は、129軒で大名や小名が宿泊する「本陣」「脇本陣」を含めて旅籠が26軒、賄の付かない「木賃宿」が若干あったという。

旅籠以外には、「駅伝(継立)」を設けて物資・書状の運搬にあたったほか、旅人の為の「立場茶屋」もあり、これに食料品や日用品を扱う商家も含めれば当時の松崎宿の賑わいが

しのばれる。こうした宿場町の運営は、庄屋・町別当があたり、必要があれば問屋(駅伝)、町年寄、組頭らが加わった寄り合いによって合議されていたという。

  

松崎宿歴史資料館は、三原家の土蔵の跡です。

 

旅籠「油屋」は、西郷隆盛も宿泊したそうです。

 

 

桜馬場の標識から右折します。

   

途中、詩人「野田宇太郎歌碑」がありました。野田宇太郎は、小郡市の出身です。

  

桜馬場の突き当りには、「松崎城跡」があります。

 

松崎城の本丸は、現在の県立三井高校の中にありました。

 

先に進みます。鶴小屋というのがあります。(現在は空き家みたいですけど)黒岩家の住宅で、黒岩氏は元和6年(1620年)吉兵衛が久留米有馬氏と共に丹波(京都府福知山市)より入部し、

御鶴番(鶴は高級食材として重宝された)として久留米藩に仕えた。御鶴番は松崎の最南端(現下岩田)にあり、軍事的役割も担ったとされる。この後、幕末から明治にかけて

「御宿 鶴小屋」を始めた。現存する家屋は明治28年(1895)に建てられ、平成12年まで実際に居住されていたそうです。そういえば、松崎の町の名前の前身が鶴崎、関係ありそうですね。

 

枡形道路の先には、松崎宿北構口です。

  

下岩田に着きました。標識には「消えた薩摩街道下岩田」と書かれています。何かテレビのサスペンスドラマのようです。これは後で説明します。

  

古飯と書いて「ふるえ」と読みます。ここには、二人の偉人の記念碑が立っていました。

高松凌雲は、日本赤十字精神の祖と呼ばれています。天保7年(1836)古飯の庄屋高松家の三男としてこの地に生まれた。成人するに及んで久留米藩家老の家臣川原弥兵衛の養子となるが、

24歳の時に脱藩して医学の道を志す。江戸で医学の修養に励んだ後、文久元年(1861)には、大阪の緒方洪庵塾(適塾)への入門が許されている。その後一橋家に仕官したのをきっかけに

慶応2年(1866)には、15代将軍徳川慶喜の奥詰医師を命じられた。慶応3年には、徳川昭武(慶喜の実弟)に随行してフランスに赴きそのままとどまって医術(外科学)の研究を続けていたが、

翌年戊辰戦争勃発の報を受け、急遽帰国した。帰国後は、榎本武揚らと行動を共にするが、箱館では病院頭取として敵味方なく傷病兵1300余人の治療にあたった。

戊辰戦争後は、一介の町医者として開業し、明治12年(1879)には、医師仲間と「同愛社」を設立し貧民治療に努めた。凌雲は大正5年(1916)東京の自宅で生涯を閉じるが、同愛社は、

昭和20年まで続き戦前の日本における社会福祉医療の一端を担った。

日本赤十字というと、佐賀藩の佐野常民を思い出します。高松との接点があったのでしょうか?

古屋佐久左衛門:幕末開国論の先覚者古屋佐久左衛門は、高松虎之助直道の次男として天保4年(1833)筑後古飯に生まれる。(高松凌雲とは、3歳上の兄)

医学を志し大阪に出ますが、医学が性に合わない事を悟り、江戸に向かい英語や洋学を学び、洋学書の翻訳などを手がけます。また婿養子で古屋家を継ぎ幕臣となります。

戊辰戦争では坂本龍馬を斬ったとされる今井信郎(のぶお)と共に衝鋒隊を率い北関東、越後、会津、箱館と転戦し最期は官軍の艦砲射撃に合い被弾、37歳で幕府に殉じます。
語学堪能で神奈川奉行所で通訳していた頃に横浜で町屋の子供がイギリス人の乗った馬に蹴られ大怪我をする事故が起こりますが、泣き寝入りになりそうなところを佐久左衛門が

イギリス領事館に乗込み交渉、治療費を出させたと言う逸話を残しています。

   

古飯の町を先に進むと、「郡境石」があります。この境石は、当時の御井郡(北野町他)と御原郡(小郡市など)の境界を示すために文政12年(1829)に建てられました。

  

マップでは、天満神社を大きく廻るようになっていますが、先を行くと「圃場整備の記念碑」が立っています。それからの道がありません。

少し戻って畑の手入れをしている方に聞くと権藤鉄工の方から公民館の方に向かったら国道322号線に出るとのこと。

なるほど、「消えた薩摩街道」というのは、これの事だったんですね。

江戸時代に参勤交代の道として利用された薩摩街道は、小郡市内の光行から乙隈まで、市東部を縦断しています。小郡市東部はのどかな田園風景が今でも残っている地域で、薩摩街道も

ほぼ現存しています。ただ、数箇所で昭和56年(1981)に着工した御原圃場整備などの影響で道が無くなっています。道が突然消えているので不思議な感じがします。

消えたポイント ①平方区松行の平方圃場整備事業竣工記念碑の数10m先の途切れた場所

 竣工記念碑の南側は田が広がり、その中を街道は光行茶屋方面へ道は伸びています。しかし、数10mで突然、街道は途切れています。

        ②古飯南枡形で消えた場所    枡形の形状がかなり失われていると同時に当時の街道も失われています。

        ③下岩田区藤三町(トウゾウマチ)で途切れた場所

 古飯の北枡形を過ぎて下岩田に入ってすぐにT字路になり、T字路の先の部分の街道は消えています。田が利用されていない時には、旧街道跡がうっすらと見えることもあるそうです。

        ④下岩田区寺川で途切れた場所  下岩田区野田に旧街道の一部が残っていますが、その前後の街道は田んぼとなっています。(小郡の歴史と文化を守る会より引用)

  

何とか、国道322号線に出ることができました。

 

光行土居は、宝満川などの氾濫に備えた土手で、中世から街道に利用されたと考えられます。大正時代頃までは、十数本の榎の大樹があり、その付近には茶屋が6〜7軒

あったと伝えられています。現在では、桜並木になっています。
市境を越えてすぐ、久留米市宮ノ陣町八丁島の国道322号線の脇には、一里塚跡の碑が立っています。

  

光行土居を歩いているときは、車に気を付けなくてよかったのですが、土居が途切れた所から国道322号を歩きます。この国道交通量が多く、大型のトラックがスピードをあげて

通り過ぎています。おまけにこの国道には、歩道がありません。怖いです!ふと、土手の下を見ると国道と平行した道があります。こっちの方を通ればよかったかな・・・・

 

15:23 今日のゴール西鉄古賀茶屋(こがんちゃや)駅にゴールしました。

  

福岡県は、12日から緊急事態宣言が発出されましたので次回はいつ行こうかと考えています。

今日のGPSです。

 

 


日田街道(宰府往還・朝倉街道)その4(福岡県朝倉市杷木~日田市丸山永山布政所ゴール)

2021-05-04 17:30:01 | 日田街道(宰府道・朝倉街道)

日田街道完歩しました!

4/23(金)日田街道最終日。朝6時半に車で福岡の自宅を出発し、ゴール付近の日田市月隈公園に車を置き、高速バスで前回ゴール地、杷木まで移動します。

高速バスは早いです。15分で杷木に着きました。バス代@630。日田の学友に待ち合わせ場所、時間を連絡しました。

8:30ウォーキング開始。

 

 

杷木小学校の手前から旧道に入ります。このあたりに宝珠山追分があるのですが見つけられませんでした。

赤谷川にかかる頼母橋を渡ります。赤谷川も工事中です。

  

杷木神籠石があります。神籠石(こうごいし)または、神籠石式山城は、九州地方から瀬戸内地方にある、石垣で区画した列石遺跡の総称。一般には、日本書紀や続日本紀に記載が

なく、遺構のみ存在が確認される山城をさします。

 

向かい側の神籠石公園に詳しい説明があるということで行ってみました。

 

ここにも山城があったそうです。

 

神籠石から先に進みます。

 

旧道から国道に戻ります。「阿蘇山」というバス停があります。

 

ここには、阿蘇神社があります。祭神は、健磐龍命(タケイワタツノミコト)、中山祇命(ナカヤマツミノミコト)、高龗神(タカオカミノカミ)。

阿蘇神社は、江戸初期(1692年)頃、穂坂地区の産神として熊本県の阿蘇大明神を勧請した神社です。

 

この神社には、例祭で「泥打祭」というのがあります。神主の祝詞が終わると客座に集まった氏子一同に五ッ組、二升入りの大盃がまわされて、ひとまわり終わった所で「おみくじ」で

その年の代宮司が決まる。純白の神衣に着替えた代宮司が泥で作った「神の座」につくと氏子十二名(小学校高学年男子)が一斉に泥を代宮司に塗り付ける。

大盃で酒を飲み、酔いのまわった代宮司は、牡獅子、牝獅子の先導のもとに約500m離れた村はずれの道祖伸までの御神幸が始まる。この間、3~4m毎に用意してある泥土をとって、

十二名の子供たちがよろめく代宮司をめがけて投げつける。代宮司の体に泥が多くつくほどその年は豊作であるといわれています。(説明文より)

阿蘇神社の国境石もあります。表には、従是西北筑紫領、裏には谷川半境と書いてます。

  

堺谷川の所が大分県・福岡県の県境です。草が生えて読みにくいですが、県境標には、「大分縣日田郡夜明村字関」「福岡縣朝倉郡杷木村大字穂坂」と書いてます。

  

  

このあたりから歩道が無くなり、国道の脇を歩きますが、大型トラックが絶え間なく通り、ちょっと怖いです。国道も狭いです。

 

国道トンネルの手前から左折します。

 

しばらく歩くと、左側に「行徳(ぎょうとく)家住宅」があります。ただ、現在行徳家住宅は、工事中で中に入れません。

行徳家は久留米藩の御典医を経て、現在まで代々続く医者の旧家。現代ではなかなか見られない意匠を凝らした貴重な民家。天保時代の鍵屋式住宅で、当時の医療資料を展示しています。

国指定重要文化財。工事の案内には、「天保13年(1842)の建築とされ、大分県西部に残る茅葺屋根を持つ住宅のうち、特に大型の例であり、江戸時代の建物を現代に伝える貴重な建物です。

今回、屋根の経年劣化が進んだため、令和3年~4年度にかけて屋根替え工事、耐震補強工事を行っています。」と書かれています。

 

向かい側にある「行徳家資料館」も工事の為閉館していました。

  

行徳家住宅から先の方を右折します。しばらく歩くと右側に「有王社」があります。祭神は、瀬織津姫、古事記や日本書紀には記されていない神です。水神、祓神、龍神、川神とされています。

 

有王社を下りてくると国道です。すぐトンネルに入ります。トンネルを出ると右側が「夜明ダム」です。

 

旧街道は、杷木山から左折。ここから上り坂になります。横には大分道が並行して走っています。

 

この道アップダウンがありかなりきついです。やっとのことで下りてきました。

 

上村バス停から右折。

 

突き当たると大肥川の茶屋ノ瀬橋なんですが、大肥川が工事中で迂回します。

 

茶屋ノ瀬新橋を渡り旧道に戻ります。小月橋を渡ります。この小月橋案内文によると、「この橋は小月橋である。嘉永二年(1849)豆田の手島氏が施主になり、肥後の石工岩永大蔵によって

造られた。この下流約百米の大肥川には、かつてこれと兄弟の眼鏡橋があって、歌詠橋といった。

歌詠橋は、豆田の広瀬氏、千原氏、関の行徳氏が施主になり、長さが三十米あったという。広瀬淡窓は、嘉永二年四月十二日青邨等と訪れて真に、偉観なり、と日記に書いている。

また碑文を書き、誌にも詠んで、空を横ぎる橋の美しさを、長虹とも新月ともたとえている。  しかしこの橋はわずか一年ほどで、洪水に流失した。(淡窓会)」

橋のそばには、桐の花が咲いていました。

  

またここから上りです。

 

萩尾公園に着きました。ここで休憩します。萩尾公園には、もう何年前になるかな、桜の季節にJR九州ウォーキングで来たことがあります。池の周りに約700本の吉野桜が咲いていました。

秋には、11000本の萩の花が咲くそうです。

  

萩尾公園の横には、「萩尾稲荷神社」があります。看板には、「九州三大稲荷」と書かれています。九州三大稲荷というと、1番目は文句なしに佐賀・鹿島の祐徳稲荷、2番目は、どこだろう?

ネットで調べると、大分・竹田の扇森稲荷、熊本市高橋稲荷、福岡・大宰府石穴神社、そしてここの萩尾神社。もう九州五大稲荷にすればいいのに・・・・

 

萩尾公園を過ぎてもまだ上りが続きます。この日田街道平坦なコースで歩きやすかったのですが、最終日アップダウンで鍛えられます。

 

日田中央木材市場から下りになりました。もう日田市街地はすぐそこです。

 

二串川を渡り突き当りの久大本線沿いに歩きます。

 

大内田公民館の所に梵字岩があるそうですが、探しても見つけられませんでした。

学友との待ち合わせ時間がまだありますのでここでちょっと寄り道。甥のお嫁さんの母校に立ち寄ってきます。

 

寄り道の後、再び街道に戻ります。

岳林寺は、豊後日田郡司大蔵氏の第10代当主大蔵永貞が1299年から1342年に建立、後醍醐天皇の綸旨、足利尊氏の支援によって創建された勅願寺である。現在の寺院は江戸時代の

1635年(寛永12年)に玉翁和尚らによる再興によるもので、現存する建物はそれ以降のものである。現在は南北朝時代の1343年(興国4年(南朝)・康永2年(北朝))に造られた

釈迦三尊像や明極楚俊坐像のほか、明極楚俊の頂相画、涅槃図、安土桃山時代から江戸時代の古文書、絵図などの史料や宝物を所蔵する。境内にある岳林寺郷土資料館兼文化財収蔵庫では、

岳林寺文書や岳林寺絵図などを収蔵し、一般公開している。

また、現在の境内外であるが、北友田2丁目にある片山磨崖仏、吹上台地の東にある吹上神社の観世音菩薩像(吹上観音)も岳林寺のものとされる。

岳林寺が収蔵する「岳林寺絵図」によると法堂を中心に、南には「瑞雲閣」と書かれた額の山門、続いて1対の蓮池を脇に配置した惣門のほか東西には「正寿院」「延命院」「小吹上観音堂」

「三重塔跡」、などの礎石と建物が描かれている。日田で亡くなった郡代達の殆どは岳林寺墓地に葬られています。

  

 

吹上町の信号に差し掛かりました。この先の吹上橋を渡れば、ゴールの永山布政所はすぐです。

 

 

「進撃の巨人」の作者、諌山創氏は、日田の出身です。町のいたるところにこの幟が立てられています。

  

御幸橋から左折します。永山布政所跡にゴールしました

 

 

永山布政所は、文禄2年(1593)、文禄の役における行動を理由とした大友氏の豊後徐国を機に日田郡は太閤歳入地となり、代官宮木長次郎により、日隈城が築かれ、城下町として

隈町が形成されました。宮木氏の後に隈城主となっていた毛利高政は、慶長6年(1601)に佐伯に転封され、新たに入部した代官小川光氏により、月隈山上に丸山城が築かれ、

政治の中心が丸山に移りました。豆田町は、この丸山城下の町地として形成された「丸山町」が始まりといわれています。元和4年(1618)に日田藩主石川忠総が城下を拡大整備した後、

「丸山城」は、「永山城」、丸山町は永山町と呼ばれるようになり、幕府直轄地となって代官所(日田御役所)が置かれた寛永16年(1639)から「豆田町」と呼ばれるようになりました。

代官の邸宅も兼ねた代官所である日田陣屋(通称永山布政所)は寛永16年に入部した小川藤左衛門正長、小川九左衛門氏行両代官の時に設けられますが、陣屋の前身である永山城は、

正行4年(1647)の正保絵図では、既に廃城となっていました。豊前・豊後では、日田の他にも大分郡の高松(現大分市)に、万治元年(1698)には、主として宇佐・下毛郡方面の幕府領を

管轄する四日市陣屋(現宇佐市)が設置されました。高松陣屋の成立後、寛文6年(1666)以降、代官は日田と高松両方の陣屋を行き来することが続きますが、享保9年(1724)からは、

日田に在陣しました。明和4年(1767)に支配石高の増加に伴い、日田代官が西国筋郡代」に昇格すると、永山布政所は、九州における幕府領支配の拠点として、益々重要な場所となり

幕末まで存続しました。(説明文より)

月隈公園が、永山城があった場所です。 

 

日田の学友とは、約束の時間に会うことができました。コロナ禍で毎月の飲み会が行われず、彼とは、1年半ぶりの再会でした。

彼は、週のうち月~金は、親の介護の為日田に留まり、週末家族がいる福岡に帰っているそうです。

 

この日のGPSです。

コロナ禍の折、全国にも感染者が拡大してきました。わが福岡県も5/1にまん延防止措置法を国に申請しました。

所属しているふくおかウォーキング協会の例会もコロナが落ち着くまで自粛することになりました。

今後は、感染予防をしながら、また違う街道を挑戦したいと思っています。