よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

第27回いぶすき菜の花マーチ1日目22km(鹿児島県指宿市)

2019-01-31 15:52:06 | ウォーキング

1/26からの「第27回いぶすき菜の花マーチ」に参加しました。

今年で11回目の参加。そういえば、最初参加した時(2008年)、NHK大河ドラマ「篤姫」でした。

今年の1日目のコースは、篤姫コースです。会場のなのはな館をスタートして、揖宿神社~今和泉島津家墓地~豊玉媛神社~今和泉小学校~宮ヶ浜~休暇村指宿~なのはな館ゴールの22kmです。

   

8:00より出発式。今日は、風が強く、トレードマークの風車も安全面を考慮し、外して歩きました。

  

指宿の大会は、コース上の案内板が充実しており、今現在どこを歩いているか、すぐわかるようになっています。

  

 指宿と言えば、「マメ」ですね。

  

スタート地点から約10kmが「今和泉」です。今和泉といえば、篤姫の今和泉島津家です。

篤姫は、NHK大河ドラマで平成20年(2008年)「篤姫」、そして昨年の「西郷どん」でも取り上げられました。

篤姫は天保6年(1835)12月19日、今和泉家第5代当主忠剛の第4子として現在の鹿児島市に生まれました。

幼少の頃の篤姫は一子(かつこ)と名付けられ、大変利発で活発な子だったと言われています。約19年間を鹿児島で過ごし、指宿の別邸にも度々訪れたと言われている一子は、家のすぐ前に広がる海岸で

よく兄(忠冬)と遊んでいました。ある日のこと、海岸で漁師とのすれ違いから危険と判断した一子はその漁師に向かって石を投げました。そのことを知った父(忠剛)は、兄(忠冬)にその勇気が持てなかったことを責め

『一子が男の子だったら』と悔しがっていたというエピソードが小説には語られています。(「天璋院篤姫」宮尾登美子:著)このように一子は幼少の頃から人並み外れた感性と器量の持ち主だったと言えます。

そんな一子が18歳のときに転機が訪れます。当時、第13代将軍徳川家定は二人の妻を公家から迎えましたが、二人とも長生きせず家定自身も病気がちだったことから、家定の母である本寿院は、

広大院(十一代将軍家斉の妻として徳川家に仕えた島津家出身の茂姫)にあやかりたいと、将軍を支えられるしっかりとした夫人を求め、嘉永3年(1850)、島津家に将軍夫人の候補を求めました。

島津家には適齢期の娘がおらず、今和泉家の忠剛の子である一子に白羽の矢がたったのです。嘉永6年(1853)、名を篤姫と改め島津家第28代当主斉彬の実子として、鹿児島を立ち、近衛家の養女を経たのち、

安政3年(1856)12月18日に家定と結婚しました。しかし、一年半後の安政5年(1858)7月に家定が35歳で亡くなったため、天璋院と号し、その後、前将軍の妻として大奥を仕切りました。

幕末の動乱期には実家の島津家は将軍の敵となりましたが、新政府に徳川本家の存続を働きかけるなど、徳川家のために尽くしました。明治16年(1883)11月20日に49歳で亡くなりましたが、

徳川家第16代当主家達(いえさと)を育てあげたのも天璋院といわれ、現在でも徳川家に大切にされています 。(指宿観光協会HPより)

 

豊玉媛神社は、篤姫が子供の頃遊んでいた場所です。

  

豊玉媛神社の前には、篤姫が好きだった「ビワの木」、徳川家定公が好きだった「柿の木」が植えられています。

 

今和泉公民館の所には、「孝女袈裟子の碑」があります。「袈裟子は1780年、岩本字高目浦で生まれた。妹を早くに亡くし、一人で父母の世話をした。母は71歳で死去。父も次第に手や足が不自由になり

87歳でこの世を去る。袈裟子は生まれつき口が不自由であったが、苦しい生活の中で昼は仕事に励み、夜は寝ずの看病をするなど、至れり尽くせりの世話をした。そこで2代、3代の今和泉島津家領主はその孝養

褒め称え、袈裟子が51歳で亡くなるまで金銭と米を賜った。また、4代領主はその善行を石に刻んで、生誕地に碑を建てたのである。その後百年を経て、当時の記録も碑も姿を消してしまったのでここに建立する。」

コースは、今和泉小学校に入っていきます。今和泉小学校は、今和泉島津家の別邸があった所です。海岸側には、現在も石垣が残っています。ここが1回目のチェックポイント。

  

  

ここから海岸沿いを歩きます。今日は風が強く、海は荒れ、時々高波がおそってきます。

   

吹越カンタ公園が2回目のチェックポイント。ここまで約16km。

  

この海岸線は、かごしまロマン街道と呼ばれていますが、波が高く、防波堤を乗り越えてきています。波をよけながらのウォーキングです。

中には、もろに波をかぶられた方もいらっしゃいました。

 

なんとか、波をかぶらずに休暇村の所まで来ました。

 

ゴールまで1km余の指宿球場では、砂嵐です。下を向き、口を手で押さえて歩きます。

 

12:35 22kmコースゴールです。ゴール会場では、2020年かごしま国体のイメージキャラクター「ぐりぶ~」「すなぶ~」が来ていました。ぶ~というのは、薩摩黒豚からのネーミングかな?

    

強風、高波、砂嵐と自然と戦ったウォーキングでした。そういえば、3年前には雪が降っていましたね。

この大会のシンボル「菜の花」は、毎年きれいに咲いているのですが、今年は、気温が高かったためか、ピークを過ぎていました。

 


知林ヶ島(鹿児島県指宿市)

2019-01-29 18:31:21 | ウォーキング

1/26~27に開催される第27回いぶすき菜の花マーチ参加の為、前日の25日から指宿に行ってきました。

福岡から車で九州道を南下していましたが、八代周辺で事故があり、通行止めになりましたので、国道3号線をのんびり走りました。

指宿に着いたのは、午後3時ごろ。ホテルにチェックインし、ホテル近くの知林ヶ島(ちりんがしま)を散歩しました。

知林ヶ島は、鹿児島湾(錦江湾)に浮かぶ美しい無人島です。3月から10月にかけての大潮又は中潮の干潮時には、長さ約800mの砂の道(砂州)が出現し、知林ヶ島に歩いて渡ることができます。

陸と繋がる島であることから、縁結びの島とも言われ、島には周遊道路や展望台、「チリンズベル」と名づけられた鐘などが整備されています。

 

1/25は、大潮ではありませんが、(中潮)16時ごろが干潮です。

  

知林ヶ島を見ると、1本の道ができています。

    

歌手の天童よしみさんが歌った「珍島物語」 海が割れるのよ~ 道ができるのよ~ 島と島とがつながるの~  がすぐ口ずさんできました。

珍島は、韓国の西南端、全羅南道(チョルラナムド)珍島(チンド)郡に位置する珍島は毎年4~5月頃に韓国一規模の大きい海割れが起こることで有名です。

韓国の珍島に比べはるかに規模は小さいですが、まさに日本版「珍島」でしょうか。

この日は、1時間ほどで砂州が消えましたが、春の大潮の時なんかは、4時間ぐらい砂州が出現するそうです。

    

一度、大潮の時に知林ヶ島に渡ってみたいですね。

 


「筑肥線新駅と糸島・瑞梅寺川を歩く」下見

2019-01-24 19:54:27 | ウォーキング

1/21(月)は、3月のふくおかウォーキング協会例会の「筑肥線新駅と糸島・瑞梅寺川を歩く」の下見に行ってきました。

集合場所は、波多江~筑前前原間にできる(3月のダイヤ改正から)筑肥線新駅「糸島高校前駅」。ここからスタートします。

例会は、3/20ですのでその時には、この駅も開業しています。

 

この一帯新駅ができるのでマンションや一戸建ての家が建ち並んでいます。

 

 

最初立ち寄ったのが「平原(ひらばる)歴史公園」。※九州北部では「原」を「ばる」と呼びます。

 

この辺りが、魏志倭人伝に記載されている「伊都国」の中心です。

 

平原遺跡を含むこの地域は、曽根遺跡群と呼ばれています。

平原遺跡は伊都国の王墓と考えられる1号墓を中心とした墳墓遺跡で、昭和40(1965)年に発見されました。発見は偶然によるもので、土地の持主がミカンの木を植えるための溝を掘ったところ、

多数の銅鏡の破片が出土しました。そこで原田大六(はらだだいろく;故人)氏が調査主任となって、大神邦博(おおがみくにひろ;故人)氏とともに発掘調査が行われました。

1号墓は14メートル×12メートルの四隅が丸い長方形でその中央に木棺が埋葬されていました。この墓は弥生時代終末期(約1800年前)に造られたものです。

副葬品は銅鏡40枚、鉄刀1本、ガラス製勾玉やメノウ製管玉などの玉類が多数発見されています。銅鏡のなかには直径46.5センチメートルの内行花文鏡が5枚ありますが、

これは日本最大の銅鏡で非常に貴重なものです。また、ひとつの墓から出土した銅鏡の枚数も弥生時代としては日本一で、伊都国王の墓にふさわしい内容です。

この墓に葬られた人物は女性、すなわち女王ではないかと考えられています。その理由は、副葬品の中に武器がほとんどないこと、ネックレスやブレスレットなどの装身具(アクセサリー)が多いこと、

中国で女性が身につける「耳とう」といわれるイヤリングが副葬されていることです。(糸島市HPより)

 

この平原遺跡をまっすぐ伸ばすと「日向(ひなた)峠」になります。日向峠では、春と秋が太陽がここから出てきます。

平原遺跡の女王は、卑弥呼のお母さんという説もあります。

 

 

 

 

平原遺跡から瑞梅寺(ずいばいじ)川沿いに歩きます。

川沿いには、桜並木があり、桜の蕾も少しですが膨らみかけています。今年の桜の開花は早いのではないかな??

  

井田用会支石墓です。支石墓とは、朝鮮半島を中心として,中国東北地区から日本の北九州地方にまで広がる巨石墓の一種。ドルメンと共通する要素が多い。扁平な4枚の板石を地上に立てて四角に組み,

その上に大きなふた石を載せた卓子式 (北方式) 支石墓と,地下に石棺や石室をもち,数個の支石の上に塊石を載せる碁盤式 (南方式あるいは変形) 支石墓がある。前数世紀頃から紀元前後頃までの

初期金属器時代のものである。日本では弥生時代の前・中期に行われ,その分布は北九州が中心となっている。

昔は、玄界灘を挟んで朝鮮や大陸との交流が盛んに行われていたと思われます。一説では、この支石墓には、朝鮮からの渡来人といわれています。

  

支石墓の横には、「三社神社」があります。説明文によれば、元来井田集落には、神明社、御子守神社、埴安社の三社があり、昭和17年(1942)3月、宗教法人の許可を受け、現在の鎮座地に合併と同時に移転し、

社名を三社神社と改称する。神明社:祭神 天照皇大神、豊受大神、御子守神社:祭神 玉依姫命、埴安社:祭神 埴安神、玉依姫命、菅原道真。

  

   

再び、河川沿いに歩きます。河川の横には、九星飲料の大きな工場があります。以前は、202号国道沿いの周船寺にありましたが、こちらの方に移転してきました。

このあと、産直店「伊都采彩」に立ち寄り、波多江駅まで歩きました。距離は10km弱でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 


ウォーキング下見「柳川さげもん祭りウォーク」(福岡県柳川市)

2019-01-13 09:36:10 | ウォーキング

柳川のさげもん祭りは、来月の11日から始まり市内では、各地に「さげもん」が展示されます。

柳川さげもんは柳川藩の奥女中が着物の残り布で、子どものおもちゃや琴爪入れを作ったのが始まり。そのうち、それらを下げて楽しむ様になり、今日に至っています。

さげもんは、一列に7個の細工、それを下げ輪に7列結び付けます7X7=49ですが、子どもの健やかな成長と人生50年と言われていた時代に、1年でも長生きしてもらいたいという親の願いから

さげ輪の中央に大きな毬を2個下げて51にして飾るようになりました。

さげる順序は上中段に飛ぶもの、山のもの、木になる(咲く)、中下段に水中のもの、動物、人形を基本としてます。最下段は這い人形、柳川まりになります。

一般的な「吊るし雛」とは、鞠を使うかどうかで違います。

   

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1/11(金) ふくおかウォーキング協会3月例会の「柳川さげもん祭りウォーク」の下見に行ってきました。

集合は、西鉄柳川駅。9:30スタート。コースは、柳川駅を出て、三柱神社→真勝寺→並倉→日吉神社→白秋道路→からたちの足湯→柳川駅の10kmです。

立花藩の城下町として栄えた柳川。柳川と言えば、「川下り」。2キロ四方、延長60キロにわたって網目状の堀割が巡らされた水郷。堀割をどんこ舟で回る“川下り”は、柳川観光の目玉です。

船頭の舟歌と心地よい水音を聞きながら、のんびりとした時間が過ごせます。また、詩人北原白秋の故郷としても有名です。

   

三柱(みばしら)神社は、初代柳川藩主の立花宗茂公と妻誾千代(ぎんちよ)姫、その父である戸次道雪公の三神を祀っています。

 

  

真勝寺は、初代筑後国主「田中吉政公」の菩提寺です。田中吉政は、慶長5年(1600)関ヶ原の戦で石田三成を捕らえた功により、三河国岡崎城主から筑後一国33万石余の国主になりました。

田中吉政は、柳川城の整備・天守閣の築造、筑後川、矢部川の治水事業、道路の新設・整備など土木工事に多くの業績を残し、現在の川下り観光の基を開きました。

真勝寺寺伝では、遺命により、2代忠政が慶長16年(1611)吉政の遺骸をここに葬りました。

  

 鶴味噌(ツル)味噌は、明治3年(1870)創業。ここの堀割にある「並倉」は、南棟、中棟、北棟の三つの倉があり、麹室でした。

  

梅岳山福厳寺は臨済宗黄檗派の寺院で、旧柳川藩主立花家の菩提寺です。他にも作家「檀一雄」や俳人「木村緑平」のお墓もあります。

  

堀割を歩きます。

  

劉寒吉筆によるうなぎ供養塔は、「筑後路の旅を思へば水の里や柳川うなぎのことに恋しき」と書かれています。

日吉神社は、柳川の総鎮守。境内には、大きなおたふく面がありました。

    

コースは「白秋道路」に入ります。詩人・北原白秋が中学伝習館への通学路に使っていた道です。現在は白秋道路から続く道が川下りコース沿いの「水辺の遊歩道」として整備されていますが、

白秋の詩歌を生んだ情緒はそのままに、散歩道として親しまれています。昭和61年(1986)には、日本の特色ある優れた道路を選定する「日本の道百選」に選ばれました。

一年を通じて柳、花菖蒲、つつじなど四季折々の風景が楽しめるため、市民の憩いの場となっています。

  

  

   

北原白秋生家: 白秋(本名隆吉)は明治18年(1885)1月25日柳川市沖端の造り酒屋を営む商家に生まれました。矢留尋常小学校、柳河高等小学校、中学伝習館(現伝習館高校)に学び

早稲田大学英文科予科に入学、号を射水と称し、若山牧水、中林蘇水らと早稲田の三水と称されました。明治42年(1909)「邪宗門」をあらわし、その2年後「思い出」が上梓されるや、

たちまち世の賞賛をあび、詩壇に確固たる地位を築き、近代日本の詩聖とうたわれるようになりました。

また、童謡では、「雨」、「赤い鳥小鳥」、「あわて床屋」、「ちんちん千鳥」、「揺籃のうた」、「砂山」、「からたちの花」、「かやの木山の」、「ペチカ」、「待ちぼうけ」、「この道」などの作詞も手掛けています。

  

白秋の母校矢留小学校の横に帰去来水の構図などの碑がある「詩歌苑」があります。

帰去来(ききょらい)は、

山門(やまと)は我(わ)が産土(うぶすな)、雲騰(あが)る南風(はえ)のまほら、
飛ばまし、今一度(いまひとたび)。

筑紫よ、かく呼ばへば 戀(こ)ほしよ潮の落差、
火照沁む夕日の潟。

 

盲(し)ふるに、早やもこの眼、 見ざらむ、また葦かび、
籠飼(ろうげ)や水かげろふ。

 

帰らなむ、いざ鵲(かささぎ) かの空や櫨(はじ)のたむろ、
待つらむぞ今一度(いまひとたび)。故郷やそのかの子ら、皆老いて遠きに、何ぞ寄る童ごころ。

 

   

詩歌苑と同じ敷地には、矢留大神宮があります。ここには「六騎」と呼ばれる平家の落ち武者伝説があります。

 

かんぽの宿柳川、御花、からたち文人の足湯を経てゴールの西鉄柳川駅に向かいます。

 

 

12:30西鉄柳川駅にゴールしました。

 

せっかく柳川に来たのですからやはり「川下り」を体験したいですね。

川下り会社に連絡して柳川駅まで迎えに来てもらいました。柳川の川下り会社は、4社あり、それぞれ舟の色にて区別しています。

私は、約30年ぶり、人生で2回目の柳川川下りです。

 

 

約30分間の舟下りでしたが、大いに楽しめました。

今日は、肝心のさげもんは、まだ1月ですので余り余り見つけることができなく、柳川の歴史探索になりましたが、、3月本番の例会では、市内各所にお雛様、さげもんが

たくさん展示されていると思います。

 


「福岡三社詣りウォーク」~新年会

2019-01-11 06:19:16 | ウォーキング

1/9(水) ふくおかウォーキング協会、楽しいウォーキングで「福岡三社詣りウォーク」10kmに参加しました。

コースは、貝塚公園(貝塚駅)~筥崎宮~櫛田神社~住吉神社~博多駅(解散)です。

9:30貝塚公園スタート。途中九州大学箱崎キャンパスを通ります。主要な施設が伊都キャンパスに移ったためちょっと閑散としています。

 

一番目のお宮が「筥崎宮」。

  

筥崎宮の「鳩みくじ」の景品が良かったので今年の運試しとして神籤を引きましたが、「お箸」でした。狙いは旅行券でしたけど・・・・・

 

福岡県庁の近くの「十日恵比寿神社」は、今、大祭中です。この日は、博多の芸姑さんの徒歩詣りがあるそうで凄い人ごみでした。ここはパスしました。

  

二番目は、博多の総鎮守「櫛田神社」。

櫛田神社の近くには、巨大な猫のオブジェがあります。ここは、宿泊施設で、猫は、「旅の守り神」だそうです。高さは4mぐらいあるかな?

櫛田神社は、博多の総鎮守。外国からの観光客の方も来られていました。境内には、日本語、韓国語、中国語、英語のおみくじがあります。

また、普通、「厄」は、60歳までですが、ここでは100歳までの厄年が書かれています。

  

三番目は、「住吉神社

住吉神社は、筑前国一之宮で大阪の住吉大社、下関住吉神社と共に日本三大住吉に数えられています。

  

11:30 住吉神社で解散。このあと博多駅南の「八仙閣」での「ふくおかウォーキング協会」の新年会に参加しました。

ビンゴゲームやカラオケなどで皆さん大いに盛り上がりました。

   

  

  

追伸

1/18より博多華丸主演の「めんたいぴりり」という映画が全国公開されます。※福岡県は1/11から先行上映。

 

 

 

 

 

 

 


冬牡丹(福岡市東区筥崎宮神苑花庭園)

2019-01-06 15:46:36 | ウォーキング

1/5(土) ウォーキング協会の初歩きの後、冬牡丹が見ごろの福岡市東区「筥崎宮神苑花庭園」へ行ってきました

先ず、筥崎宮へお詣りします。

  

神苑花庭園は、筥崎宮から地下鉄入口の方にあります。

   

 入場料500円を払い庭園へ。牡丹は、春に咲く花ですが、春についた蕾をつみとり、夏の終わりには葉を摘み取って花期を遅らせ、藁の霜囲いをして、冬に開花する牡丹を「寒牡丹」といい、

春咲きの品種を人工的に温度調整することによって、冬に花を咲かせる牡丹を「冬牡丹」というそうです。

  

 

  

  

  

立てば芍薬、座れば牡丹・・・・・というほど、牡丹は綺麗ですね。本によると芍薬は、草で、牡丹は木だそうです。

他にも色々花がありました。

  

  

  

福寿草は、春を告げる花だそうです。春もすぐそこにやってきているのかもしれません。

  

 

 

 

 

 

 


2019年あけましておめでとうございます。

2019-01-01 14:36:20 | ウォーキング

2019年(平成31年)新年明けましておめでとうございます。

 

今朝5時ごろ雨が降ったので初日の出は見れないかな?と思い、それでもウォーキングがてら、近くの日の出の名所に行ってきました。

日の出の方向には、雲があり、それでも少し雲の切れ間はありました。

7:26 その雲の切れ間から、2019年の初日の出が拝めました。

 

今年も宜しくお願いします。