よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

第31回若狭・三方五湖ツーデーマーチ2日目10km(福井県三方上中郡若狭町)

2023-05-28 18:54:26 | ウォーキング

5/21(日)若狭・三方五湖ツーデーマーチ2日目。10kmコース

本当なら今日も20kmwぽ歩きたかったのですが、JR小浜線三方発の電車は、10時7分の次が12時29分、それに乗り遅れると15時まで待たなくてはいけません。

出来ればツーデーマーチ期間中、13時台、14時台の臨時電車を増発していただければと思います。

帰りの電車の関係上、今日も8時にフライングスタートします。

出発式では、渡辺町長が飯めしあがれこにおさんと漫才をされていました。このコンビでM-1一回戦突破したそうです。

8時00分、今日もフライングスタート。岐阜の若夫婦から見送りを受けました。

 

 

30k・20kと10kの分岐点を過ぎると歩いているのは、私たちのグループだけになりました。

 

 

 

 

踏切を渡ると遠くに30kのウォーカーが見えてきました。

宇波西神社近くに行方久兵衛門(なめかたきゅうべい)の石碑があります。

美浜(みはま)町と若狭(わかさ)町にまたがる三方五湖(みかたごこ)は、もともと久々子(くぐし)湖と菅(すが)湖がつながっていましたが、江戸時代の初めに起きた地震で、川が盛り上がり、

水が流れなくなってしましました。

上流の湖の水位は上昇し、湖畔の集落は湖に沈んでしまいます。その時、湖の水を流す工事を指揮することになった小浜藩の役人・行方久兵衛(なめかたきゅうべえ)が選んだ方法は、

最も距離が短い水月(すいげつ)湖と久々子湖の間を掘るというものでした。それによって2つの湖を結ぶ人工の川・浦見(うらみ)川が完成したのです。

行方久兵衛門は、江戸前期の若狭国(福井県)小浜藩士。水没した三方五湖周辺地域救済のため浦見坂を開削した。名は正成。寛永7(1630)年中小姓並で出仕の後,同20年家督,140石。

作事奉行を経て万治2(1659)年郡奉行。寛文2(1662)年の大地震で三方五湖周辺が冠水したため,普請奉行梶原重安と共に排水路の開削に着手,翌年勘定奉行に転じたが工事を続け,人夫22万人,

費用1700両かけて同4年完成。「掘かけてとおらぬ水の恨こそ行方故のしハさなりけり」などと非難中傷される難工事であったが排水に成功,400石の新田が出来た。

延宝6(1678)年三方郡金山村新田御用加役,天和1(1681)年致仕。

 

 

30k、20k、10kの分岐点

 

 

三方五湖沿いの道を歩きます。

 

 

 

スマートインター三方五湖の所が5k、10kのチェックポイント。

普通、大会では、距離の半分ぐらいの所がチェックポイントですが、10kコースはもう8km近く歩いています。

今日も5k、10kと同じところでのチェックポイントです。5kウォーカーが10kですと言ってもわかりませんね。

 

三方五湖展望台から。

 

 

もうゴールも間近。5kmを歩いた小学生の一行が走って抜いていきました。

この小学生に福井出身の野球選手は?と聞くと、吉田正尚選手と帰ってきましたが、わがソフトバンクの選手の名前が出てきません。

10:40 10kコース完歩しました。

 

参加者は2日間で5000人を超えていました。

 

三方発12:29の電車で敦賀から福井に向かいました。

来年福井駅に新幹線が開通するそうで福井駅前も依然来た時より随分変わりました。

福井駅前には、「恐竜広場」があり、恐竜のモニュメント。このモニュメント鳴き声が出るんです。日没から22時ぐらいまではライトアップされるそうです。

 

 

 

 

さてっと、福井のおいしいものは、昨日、おろしそばをいただきましたので今日は、ソースかつ丼(ヨーロッパ軒とは違います)、福井のおあげ、ゴマ豆腐、福井の地酒・・・・

あと、水ようかんも食べたかったのですが、福井では、11月~3月までの販売とのこと。冬、こたつの中で冷たい水羊羹を食べる習慣があるそうです。ですから食べれませんでした。

  

 

※私事ですが、新年度より地元のウォーキング協会の役職をすることになりました。

月に7回の例会、ウォーキング教室を開催するのでそのルート図、IVVの作成、電話番(携帯に転送しています)、下見交通費の清算・・・・・

忘れていたエクセルを思い出しながらパソコンのキーを打っています。前担当者から教えていただいていますが、何せ未熟ですので仕事も遅いです。

慣れるまで当分、宿泊を含む遠征は、控えようと思っています。

 

 


第31回若狭・三方五湖ツーデーマーチ1日目20km「鯖街道熊川宿」(福井県三方上中郡若狭町)

2023-05-27 10:27:15 | ウォーキング

昨年に引き続き今年も5/20~21に行われる「若狭・三方五湖ツーデーマーチ」に参加しました。

今回は、JR西日本の「西日本グリーンパス5日間コース」を利用、このグリーンパスだと5日間JR西日本の営業区間は、乗り放題になります。しかも6回までグリーン車がつかえます。

ツーデーマーチの後、ビワイチを歩こうと予定しています。

 

1日目20kmコース「鯖街道熊川宿」

宿泊地の敦賀駅から6:49の電車で会場の若狭さとうみパークへ。

会場に着くともう出発式が行われていました。8時ちょうどに30kコーススタート。一緒にフライングスタートします。

 

 

 

   

円成寺に到着。円成寺は、「見返りの松」が有名。

 

日本名木部門別の「松の部十選」にも選定され、枝張りは、東西も南北も約24メートルと、どの方向から眺めても絵に描いたような美しい姿で、初雪をかぶった姿はまた一興です。

この松を、土地の人は「大門の松」と呼びます。樹高は約12メートルです。
「みかえりのマツ」の愛称は、「枝が何度もかえるように折れ曲がっていること」、あるいは傘を広げたように美しく均整のとれた枝ぶりをみて「道行く人が思わず振り返りたくなること」

から名付けられたともいわれています。宝暦元年(1751)第11代淳長大和尚の手植えと言われています。

 

先に進みます。

 

かみなか農楽舎」ここがチェックポイントかな?と思いましたが、トイレ休憩でした。

かみなか農楽舎は、自然の営みに学び、作物の生育に学ぶ体験型の施設です。田植え、稲刈り、餅つき、そばうち、味噌づくり、陶芸、わら細工、雪遊びなど体験メニューは盛りだくさん。若狭の海、湖、里の美しい自然のもとで、心も体もリフレッシュできます。(若狭三方五湖観光協会HPより)

ここが、20k、30kの分岐点。20kは、かみなか農楽舎から若狭カントリークラブの方に向かいます。

長い長い上り坂です。

 

 

 

 

熊川小学校を通り、「熊川宿」へ。

 

熊川宿は、若狭から京都を結ぶ重要な宿場で、特に天正17年以来発展を続けました。奉行所・番所・お蔵屋敷の跡が残り、情緒あふれる街道沿いには、昔ながらの用水路が流れています。

豊臣時代から藩政末期におよぶ古文書・御用日記なども保存されています。熊川宿は、重要伝統的建造物群保存地区に選定され、往年の繁栄を偲ぶ町並みが保存されています。

平成27年に熊川宿を含む鯖街道が「~御食国若狭と鯖街道~」として日本遺産に認定されました。(福井県公式観光サイトより)

白石神社は、奈良二月堂若狭井の水源地として伝説に名高い「鵜の瀬」の清流の畔に、渡来の姿をした若狭比古神が最初に降臨した若狭彦神社の元宮、白石神社です。
境内地は椿の群生林で、椿との関係が知られる八百比丘尼の伝承、東大寺を開いた良弁僧正生誕地の伝承などがあり、奈良と渡来文化、海と都をつなぐ伝承が集中して伝わる地と

なっています。鵜の瀬に注がれた聖水は10日かけて東大寺二月堂若狭井に湧き出し、お水取りが行われます。若狭の水と食を象徴する古代ロマンあふれる地です。(御食国若狭と鯖街道より)

  

  

 

熊川番所は、寛永年間(1624~44年)に小浜藩主酒井忠勝が設けたとされています。正保2年(1645)の「若狭敦賀之絵図」では、番所は中ノ町に所在していたことに

なっていますが、寛政年間(1789~1801年)の「熊川山絵図」には現在地に番所が描かれており、番所の位置が変わったことが分かります。
番所には二人の役人が勤めており、通行人の取り調べのほかに、移出入荷物への課税を行い、藩の財政に大きく貢献していました。明治3年(1870)に廃止され、建物は民家として

増改築がされ利用されてきました。
平成14年(2002)に町が買い取り、復元整備を行いました。内部には刺又(さすまた)、突棒(つくぼう)、袖(そで)がらみなども展示し、公開されています。

伝建地区の中では唯一の番所建物です。(御食国若狭と鯖街道より)

 

道の駅若狭熊川宿が20k、30kのチェックポイント。

 

チェックポイントを終え、葛湯の接待所に向かいます。

 

熊川宿から上中に向かいます。

 

 

上中駅に入る所が20k、30kの分岐点。30kコースは、瓜割の滝に向かいます。20kコースは、上中駅に向かいます。

 

上中駅に着いたのが、12時37分。ここから電車で三方駅に戻るのですが、次の電車は、13:06.しばし、駅の構内で時間をつぶします。待合室では、地元の中学生のブラスバンドの

演奏がありました。

 

13:06 臨時電車「ツーデーマーチ号」2両編成ですが、すぐにウォーカーで満員になりました。

三方駅からは、歩いてゴールのさとうみパークへ。13:56 ゴールしました。

 

 

 


楽しいウォーク「岡垣の自然と歴史巡り」(福岡県遠賀郡岡垣町)

2023-05-19 08:56:32 | ふくおかウォーキング協会

5/17(水)ふくおかウォーキング協会の楽しいウォークは、「岡垣の自然と歴史巡り」でした。

集合場所は、JR海老津駅。参加者25名。

「岡垣町」は、福岡市中央区から約40km、北九州市小倉北区から約30kmと北九州市と福岡市のほぼ真ん中に位置しています。

コースは、海老津駅スタート~高倉神社~龍昌禅寺~大地の水~やっぱー岡垣~海老津駅ゴールの約10km。

岡垣町は、ホタルの名所。今月の25日から27日までほたる祭りが開催されます。

 

 

小学生の団体に遭遇。聞くと3年生とのこと。皆、挨拶をして気持ちよかったです。

 

このあたりは、「高倉」という地区です。高倉といえば、「高倉ビワ」が有名です。

明治34年(1901年)頃、遠賀郡岡垣村(現岡垣町)高倉の大村氏が長崎県茂木町のびわを視察し、栽培の有望なことを認め、若干の果実を郷里に持ち帰りました。

里人とともに試食した後、播種行い数本の苗木を得ました。さらに、明治36年大村永壮氏が、びわが岡垣村の自然条件に適していることを知り、 千葉県より田中の苗木20本を

取り寄せ、栽培を始めました。これが高倉びわの始まりです。今では福岡県下ナンバーワンの出荷量を誇っています。

 

高倉神社に着きました。

高倉神社は、古墳時代にまでさかのぼる古い縁起を持っていて、旧遠賀郡21か村の総社として古くから多くの信仰を集めている神社です。
約1800年もの歴史をもち、開運・厄除けの神を祀っています。
祭神は、大倉主命(おおくらぬしのみこと)と菟夫羅媛命(つぶらひめのみこと)です。

境内に植えられている樹齢700年の綾杉は、神功皇后が植えられたという言い伝えが残っています。また、約500年前に造られた【銅製毘沙門天立像】は、須藤駿河守行重の命により、

筑前芦屋の鋳物師大江貞盛によって造られたもので、県指定文化財となっています。秋には、海の幸・山の幸の豊穣に感謝し祝福する秋季大祭が3日間続けて行われ、正月には初詣に

参拝客で賑わいます。

 

 

境内に植えられている樹齢700年の綾杉は、神功皇后が植えられたという言い伝えが残っています

  

 

高倉神社から龍昌禅寺へ。

龍昌禅寺は、1490年ごろに麻生弘繁によって創建された曹洞宗のお寺です。のちに、黒田家4代藩主に仕えた人物 『井上周防之房』 が再興しました。
山林の中にひっそりとたたずんでおり、奥深い自然に引き込まれそうな歴史的情緒溢れるお寺です。

龍昌寺本堂の裏には、歴史的人物である黒田官兵衛に仕えた、井上周防守之房の眠る墓所があります。ここには、周防の菩提寺と墓碑、紙本著色黒田如水像、紙本著色井上周防像など

県指定文化財が存在します。(岡垣町観光協会HPより)

 

 

 

龍昌禅寺から熊野神社に向かいます。

 

 

岡垣中央公民館で休憩

 

休憩後再スタート。大地の水に到着。

響灘、南は孔大寺山系に彩られた自然豊かな岡垣町。壮大な山々と大地に降り注いだ雨は、地下深くに浸み込み、さまざまな地層を通る間に自然ろ過され、ミネラル分を蓄えた口あたりの

やさしいおいしい地下水へと生まれ変わります。
町内には6カ所の水源と14本の井戸があり、町の水道水は、その85%をこれらの井戸からくみ上げられる地下水によって賄っています。
町と九州大学が共同で行った研究によると、この地下水は、100年以上前の雨から生まれていることが判明しています。カルシウムやマグネシウムをたっぷりと含んだ硬水で、

ヨーロッパに多い水質です。 
「水道水をそのまま飲むのはちょっと…」と感じる人や、浄水器を設置している人もいるかと思いますが、岡垣町の水道水は心配ご無用。もともとそのまま飲める基準を満たしている地下水をさらに24時間体制でろ過処理や殺菌をしているので、その水質はお墨付き。厚生労働省の「おいしい水」の基準値もほぼ満たしているため、蛇口をひねればすぐに安全で安心なおいしい水を

利用することができます。(岡垣町HPより)

紙コップについでもらい飲みましたが、おいしい水です。できれば持ち帰ってコーヒーやお茶に入れたらおいしいでしょうね。

自販機もありましたが、20Lも持ち帰るのは大変ですね。

 

大地の水からゴールの海老津駅に向かいます。

 

 

  

12:00 海老津駅にゴールしました。今日のGPSです。

 

 

 


サタデーウォーク「虹ノ松原と唐津城散策」(佐賀県唐津市)

2023-05-16 20:04:21 | ふくおかウォーキング協会

5/13(土)ふくおかウォーキング協会サタデーウォークは、「虹ノ松原と唐津城散策」でした。

ここでふくおかウォーキング協会のひと月の予定を紹介します。

例会(第1土曜日x1)、楽しいウォーク(毎週水曜日X4)、やさしいウォーク(第2木曜日x1)、サタデーウォーク(第2土曜日x1)と月に7回のウォーキングを実施しています。

年間ですと約80回(夏休み、正月休みを除く)行います。担当は、中央区を境に「西グループ」「南グループ」「東グループ」と3つに分けています。

一時は、各ウォークに70名ほど参加していましたが、最近は、コロナの影響や会員さんの高齢化のため、参加人数もだんだん少なくなってきました。

今日のコースは、西グループの担当、リーダーは唐津市在住の方です。

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集合場所は、JR筑肥線浜崎駅、ここは、唐津虹ノ松原ツーデーマーチの会場でもありました。参加者20名。参加者の中には、佐賀県ウォーキング協会Y会長も参加されていました。

GWから毎週土曜日は雨です。この日も予報では一日中雨。

今年、唐津ツーデーマーチは、会場をJR唐津線 相知(おうち)駅を中心に11月18日~19日に行われる予定です。

 

コースは、浜崎駅スタート~虹ノ松原~唐津シーサイドホテル~唐津城~唐津駅ゴールの約10km。

唐津湾の海浜に続く虹の松原(にじのまつばら)は、国の特別名勝で、三保の松原(静岡県)、気比の松原(福井県)とともに日本三大松原のひとつに数えられる景勝地です。

長さ約4.5km、幅約0.5kmにわたり、約100万本のクロマツが群生しています。その歴史は古く、17世紀初め初代唐津藩主寺沢広高(ひろたか)が防風・防潮のため、海岸線の砂丘に

クロマツを植林したのがはじまりとされています。江戸時代には、「二里の松原」とも呼ばれていました。また、虹の松原は数々の不思議な伝説がある場所でも有名です。
〈その一〉豊臣秀吉が名護屋城へ向かう途中この松原を通り、あまりセミが鳴くので「騒々しい」と叱った時以来、セミの声が絶えたと言います。
〈その二〉秀吉が松原を通っている時、松が高く邪魔で眺望がきかなかったので、「低くなれ」とグッと一睨みして以来、高くならない「睨み松」があります。
〈その三〉秀吉の軍隊の槍を立てかけた「槍掛松(やりかけまつ)」があります。
〈その四〉百万本の松はクロマツばかりです。
〈その五〉松原の中に海岸近くであるが塩分を含まぬ真水を湧出する井戸があります。
〈その六〉高島の東端と神集島の西端を結ぶ延長線が松原の中心です。
〈その七〉浜崎にある諏訪神社にまつられている諏訪姫の願により松原には蛇はいません。
〈その八〉松原の南側、松浦川河口付近の千人塚砂丘に「根上りの松」があります。
以上が虹の松原の八つある七不思議です。

9:30雨の中スタート。

 

雨も止み、時々パラパラとするぐらいになりました。

 

県道347号線沿いには、「従是東対州領」という石碑が建っています。江戸期には、唐津市浜玉町から福岡県糸島市二丈町大入までは、対州領でした。対州とは、現在の対馬市です。

ここが対馬領(対州領)になったのは、1818年(文化15年→文政元年)で朝鮮通信使易地聘地を務めた賞です。

 

海岸に出ます。砂浜には、ハマボウフウがあります。これは、食用や医薬品になります。子供のころは、酢味噌で食べた記憶があります。

 

 

 

松原おこし製造の麻生本家の裏には、海岸近くでありながら塩分を含まない「真水の井戸」があります。これは、虹ノ松原七不思議です。

 

JR筑肥線が走る前までは、この地に馬車道が走っていました。遺構は残ってませんが、下記写真の所です。

 

唐津シーサイドホテルが最初の休憩地です。

 

休憩後再スタート。

 

コースは、唐津城にかかる「舞鶴橋」に来ました。

 

 

4月中旬頃でしたら、唐津城の藤が楽しめるのですが、今年は、「藤」の花も開花が早かった・・・・写真は、4月中旬に見学した「唐津城の藤」です。

 

一応、唐津城前で仮ゴールにします。IVVが配られました。私は、雨が降ったばかりですので唐津城はパスし、唐津駅に向かいます。

 

東京駅の建築に携わった「辰野金吾」は、唐津の生まれです。唐津には、彼の造った「旧唐津銀行」があります。

また、曾禰達蔵は、辰野と同様唐津出身で主に三菱関係の建物を造りました。

 

 

商店街を歩くと「海鮮丼」の有名店があります。今日は、土曜日ですのでもう行列ができています。せっかくですので並んで待ちました。

待った甲斐がありました。魚は新鮮でおいしく、九州大学と共同研究された「Qさば」も入っていました。

 

今日のGPSです。

 

 

 


優しいウォーク「福岡市内の庭園・新緑巡り」(福岡市博多区他)

2023-05-14 06:10:06 | ふくおかウォーキング協会

5/11(木)ふくおかウォーキング協会やさしいウォークは、「福岡市内の庭園・新緑巡り」でした。

私、優しいウォークにはあまり参加したことはありませんが、今月から参加することにしました。

福岡市内都心部には、大濠公園日本庭園、友泉亭、楽水園、松風園などの日本式庭園があります。

集合場所は、博多駅前の明治公園。参加者32名でした。明治公園には、トチノキの花が咲いていました。

 

コースは、明治公園スタート~楽水園~薬院大通り~松風園~野村望東尼山荘跡~旧高宮貝島家住宅~西鉄高宮駅ゴール約7km。

9:30スタート。10分ぐらいで「楽水園」に到着。

 

楽水園

明治39年(1906年)に博多商人、下澤善右衛門親正が住吉別荘を建てた跡地となります。

親正は、父尚正と親子二代にわたり、家業と並んで福博の発展に貢献した人物で、「楽水」とは、親正の雅号です。

戦後は、旅館「楽水荘」として使用され、平成7年(1995年)に福岡市が池泉回遊式の日本庭園として整備、開園しました。その際に、本園の名称もその由来を受け継ぎ「楽水園」と

名付けられています。

 

博多塀(はかたべい)とは、博多独特の土塀のことです。 天正15年(1587年)に、豊臣秀吉の太閤の博多町割によって 戦災から復興した博多の町に博多べいが長く連なりました。

博多べいは、郷土再興を祈願して、焼け石や焼け瓦などが土の中に厚く塗り込められています。

今でいう、リサイクルですね。現在、楽水園、櫛田神社、友泉亭などに残っています。

 

 

楽水園から薬院に向かいます。途中の住吉神社ですが、昔は、この辺りまでが海でした。

 

 

 

 

西鉄薬院駅で休憩。

 

休憩後再スタート。薬院から浄水通りへ。この辺りは、九電体育館がありましたが、跡地には、高層マンションが建っています。

 

松風園に着きました。

松風園は、もともとは、福岡銀行頭取の社宅を中洲にあった玉屋百貨店(福岡玉屋)を経営していた田中丸善八氏が1950年(昭和25)改築して移り住みました。

昭和25年ごろには、松の大木が多数生育していたことから「松風荘」と呼ばれていました。邸宅内には、昭和27年ごろに著名な京都の数寄屋師笛吹嘉一郎氏によって建てられた

茶室があり、「松風庵」と呼ばれ、昭和54年(1979年)に開催された日米市長会の公式接待にも利用されました。善八氏は1973年に没しましたが、以降も家族が住んでいました。

その後当地へのマンション建設計画の浮上を機に、1997年12月に地域住民によって市に対し松風荘の買収・整備・有効利用の請願が提出されました。翌1998年に請願が採択され、

福岡市が2000年度から2002年度にかけて用地を買収、2005年度から2006年年度にかけて公園としての整備を行い、新たに和室などが増築されました。

2007年(平成19年)7月1日に福岡市文化交流公園「松風園」として開園し、茶道体験や庭園鑑賞の場として活用されています。

 

 

 

松風園から「野村望東尼(のむらぼうとうに、又は、もとに)山荘跡」に向かいます。

  

野村望東尼は、陰で長州藩士高杉晋作を支えた人物として知られています。高杉晋作の辞世の句の下の句を詠んだ女性としても有名です。

文化3年(1806年)9月6日、筑前国御厩後(現福岡市中央区赤坂)に生まれる。福岡藩士・浦野重右衛門勝幸の三女で、幼名は"モト。幼少時より二川相近に和歌や書道を学んだとされる

文政元年(1818年)、13歳の時に林五左衛門家に行儀見習いとして仕え、学門や裁縫手芸など多芸な趣味を覚える。

文政5年(1822年)、17歳の頃に20歳年上の福岡藩士郡甚右衛門に嫁ぐものの半年ほどで離縁、生家に戻って和歌・書道などに加えて尊王思想を学んだ

文政12年(1829年)、24歳で二川塾同門の福岡藩士・野村新三郎貞貫と再婚。野村も再婚であるが、その連れ子との関係は良好だった。一方で、4人授かった子どもは早世している。

二川相近が病で家塾を閉めると、天保3年(1832年)からは夫と共に大隈言道の門下に入る。

弘化2年(1845年)、連れ子である次男に家督を継がせ夫が隠居すると、福岡南側の山村 (現・福岡市中央区平尾)にあった自分の山荘(平尾山荘)に40歳で隠棲した

安政6年(1859年)、54歳の時に夫が亡くなり、剃髪して受戒。 文久元年(1861年)11月、望東尼は福岡を発ち4年ほど前から大坂に滞在していた大隈言道の元を訪ねた。

その後、京都へ赴き、翌2年5月まで滞在したが、この間に島津久光の上洛や寺田屋事件など、騒然とする京都市中の様子を見聞きした。また、福岡藩御用達の商人で尊皇攘夷派と交流が

あった馬場文英と知り合い、次第に政治に強い関心を持つようになった。その後、福岡へ戻った望東尼は平尾山荘に勤皇の士を度々かくまったり、密会の場所を提供したりする。

彼女に便宜を図って貰った中には、勤王僧・月照長州藩士・高杉晋作熊本藩士・入江八千兵衛、対馬藩士・平田大江、福岡藩士・加藤司書平野国臣中村円太月形洗蔵

早川養敬などがいる。

慶応元年(1865年)6月、福岡藩内の尊攘派弾圧の動きが強くなり、孫で福岡藩士の野村助作(夫と前妻の孫)と共に自宅謹慎を命じられ、親族が集まって今後の相談をしていた深夜、

親しく近所づきあいをしていた隣家の喜多岡勇平が暗殺された。望東尼は藩の密命を受けて重要な任務にあたっていた喜多岡から様々な情報を得ていた。

禁門の変後の12月、長州周旋を成し遂げた喜多岡が「長州の高杉が空き家に潜居しているようだ」などと望東尼に伝えている。

10月に姫島(現・糸島市志摩姫島)へ流刑となった。(乙丑の獄)

翌2年(1866年)9月、晋作の指揮により福岡脱藩志士・藤四郎、多田荘蔵らが姫島から脱出の手引きをし、下関の勤皇の豪商・白石正一郎宅に匿われた。

その後病に倒れた晋作の最期を看取る事となり、晋作が「おもしろき 事もなき世に おもしろく」と詠むと、望東尼が続けて「住みなすものは 心なりけり」と詠んだ。

望東尼はその後も毛利家から二人扶持が与えられ厚遇されるが、薩長連合軍の戦勝祈願のために行った断食が祟り 、望東尼は体調を崩し、慶応3年(1867年)11月、

三田尻(現・山口県防府市の古称)で62歳で死去した

辞世の句は「雲水の ながれまとひて花の穂の 初雪とわれふりて消ゆなり」

山口県防府市の大楽寺の桑山墓地と福岡県福岡市博多区の明光寺に墓がある。明治24年(1891年)、正五位を追贈された。(Weblioより)

  

このあたりは、野村望東尼山荘跡に因み、「山荘通り」と名付けられています。周りは、高級住宅地です。

 

 

 

西鉄高宮駅手前が仮ゴール。このあと希望者は、旧高宮貝島住宅に向かいます。私は、今年2月ここを来ていますので今回はパスしました。

貝島家は、炭鉱経営で麻生家、安川家とともに「筑豊御三家」と呼ばれていました。

写真は、2月に行った時のものです。

 

 

 


楽しいウォーク「駕与丁(かよいちょう)公園バラ園を訪問」(福岡県粕屋郡粕屋町他)

2023-05-12 10:13:25 | ふくおかウォーキング協会

5/10(水)ふくおかウォーキング協会楽しいウォークは、「駕与丁(かよいちょう)公園バラ園を訪問」でした。

駕与丁(かよいちょう)も難解地名ですね。かつて身分の高い人が乗った「駕与(かよ)」と呼ばれる神輿(みこし)を担ぐ職の人のことを「駕与丁」と呼んでいました。

この土地に「駕与丁」が結成した座「駕与丁座」があったことが地名の由来になっています。

駕与丁公園の中心にある水面面積28haの「駕与丁池」は、元禄10年(1697)に郡奉行であった川村茂右衛門によって人口築堤されて、現在の形になったと古文書に記されています。

古くは、筑前三大池の一つに数えられています。

現在では、駕与丁池の周囲に約4,2kmの遊歩道が整備され、ジョギングやウォーキングを楽しむ人が多くいます。

駕与丁公園は、1300㎡の園内に、5月、10月には、180種約2400株の色とりどりのバラが花を咲かせます。

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集合場所は、福岡空港から入った所にある「下臼井公園」。参加者は、37人。

 

コースは、下臼井公園スタート~東平尾公園~坂瀬池東~片峰新橋~志免鉄道記念公園~三宮神社~駕与丁公園バラ園(ゴール・解散)~JR長者原駅 の約10km。

博多の森陸上競技場は、平成2年(1990年)とびうめ国体のメイン会場になりました。

 

 

片峰新橋を通り志免町へ。

 

志免鉄道記念公園で休憩。ここは、旧勝田線志免駅があった所です。

 

休憩後再スタート。旧勝田線線路跡は、現在遊歩道になっています。

 

三宮(みつのみや)神社

祭神: 玉依姫命、神武天皇、神功皇后由来 (意訳)「筑前国続風土記附録によると産土神として祭っていた三つの社があった。
大祖権現、宝満明神、香椎大明神である。
三神は別々の場所に分かれて祭っていたが、いつの頃か一つの社にあわせ祀ったので三つの宮(みつのみや)と呼ばれた。

 

三宮神社境内にある「御酒殿(みきどの)」は、この地域の地名の由来となっています。

説明文によると、「安楽寺目録によると酒殿(さかど)村は、七宴席の供料所と記されている。七宴席とは、年に七回行われている神事のことで、酒殿では、この神事に用いる酒を

醸造して天満宮に奉納した。神に奉げる酒(御神酒)を醸造する神聖な建物を「酒殿(さけどの)」という。この境内にある「御酒殿」は、神酒を醸造していた場所と考えれれる。

村の名前もこの「酒殿(さけどの)」が次第に「さかど」と呼ばれるようになったのだろう。

右の説明から、昔、この付近で酒づくりが行われていたことが判っています。しかし、オン酒殿自体は、酒づくりをした建物にしては小さく、酒の神をまつったものか、或いは、

菅原道真公をまつった建物だと考えられています。」

 

 

酒殿の三宮神社から「駕与丁(かよいちょう)池」にやってきました。

 

3月中旬ごろには、桜の花見で賑わったでしょう。池周辺には、約700本の桜が植樹されています。

 

バラ園で仮ゴールでここでIVVが渡されました。

 

解散した後、しばしバラ園を見学します。今週の日曜日には、「バラ祭り」が開催されるそうです。

バラの名はわかりませんが、素晴らしいバラの数々でした。

  

 

 

 

 

 

 

駕与丁大橋を渡り、長者原駅へ向かいます。

 

粕屋町役場もバラの花でいっぱいです。

 

12:40 JR長者原駅に到着しました。

 

今日のGPSです。(ゴールは、駕与丁公園にしています)

 

 

 

 

 

 


5月例会「大分(だいぶ)を歩く」(福岡県飯塚市筑穂町)

2023-05-07 16:05:51 | ふくおかウォーキング協会

5/6(土)ふくおかウォーキング協会5月例会は、「大分(だいぶ)を歩く」でした。

この日、福岡地方は、大雨の予報。然し午前6時時点では、雨は降っておりません。(会の規約では、6時時点で大雨警報が出ていれば中止になる)

雨の予報からか、事前参加登録者は、30人ぐらいでしたが、参加者は、20人でした。

集合場所は、JR福北ゆたか線「筑前大分(だいぶ)駅」。私、この地を歩くのは初めてです。

大分(だいぶ)」という地名は、難解地名ですね。調べてみると、神功皇后は、三韓征伐から帰国後、糟屋の宇美にて応神天皇を出産され、大口獄(ショウケ越のことかな?)を

超えて当地に至ります。皇后は、ここで引率した兵士を解隊し、それぞれの故郷に返します。以来この地を「大分(おおわかれ)」と呼んだのが「大分(だいぶ)」の地名の始まりと

されています。なお、ショウケ越とは、糟屋郡須恵町と飯塚をまたぐ県道60号線の峠です。ショウケとは、竹で編んだザルの一種である笊笥(そうけ)が訛ったもので、神功皇后が

宇美町で応神天皇を出産された際、ショウケの籠に入れて峠を越えたことからその名が付きました。

また、「飯塚(いいづか)」という地名は、大分で解隊された兵士たちは、尚、皇后の徳を慕って飯塚まで従い「いつか再び玉顔を拝し奉らん」と深く歎を慕ったといわれ、

名付けてイヅカ(飯塚)の里と伝えられたといわれています。(諸説あります)

このように、神功皇后とのかかわりのある地です。

現在、大分のある筑穂町は、2006年(平成18年)飯塚市と合併しましたが、町内には、旧長崎街道が貫いており、内野地区は、筑前六宿の一つ「内野宿」として栄えました。

近代に入り、日鉄嘉穂炭鉱をはじめ、石炭産業で栄えました。

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コースは、筑前大分駅スタート~鴬台~大分宮~筑穂中学~筑穂支所~JR桂川駅ゴールの約10km。

9:30スタート。

 

 

雨も激しくまた風も出てきました。30分ほどで「大分(だいぶ)八幡宮」に到着。

 

大分八幡宮は、祭神は、応神天皇・神功皇后・玉依姫命です。

奈良時代の神亀3年(726)に創建されたと云われます。祭神は八幡神・神功皇后・竃門山神です。平安時代の延長元年(923)には、八幡神が大分宮から博多湾岸の筥崎へ

遷座するという出来事が起こりました。大分八幡宮が筥崎八幡宮の前身と云われるのはこのためです。しかし、その後も大分八幡宮は、九州五所別宮第一に位置づけられるなど、

由緒正しい名社として存続しています。境内には、神功皇后が三韓の役から帰国の際に持ち帰った3本の樟の内の1本の子孫であると云われている大樟があります。推定樹齢は約350年、

胴回りの径は約9メートルで福岡県指定天然記念物となっています。
創建当時の社殿は現在地より後方の丘陵上にありましたが、戦国時代に戦乱のため消失。天正5年(1577)に秋月種実が現在地に再建しました。現在の社殿は拝殿、本殿とも

平成7年(1995)に改築されたものです。
神殿裏山の小高い丘陵地は全国でも珍しい皇室古墳埋蔵推定地「仲哀天皇陵」として考古学者の学問的期待をかけている聖地です。(飯塚観光ポータルより)

境内には、神功皇后が三韓征伐から持ち帰った3本の樟の内の1本の子孫であるといわれる天然記念物の大樟がありました。樹齢は、約1300年ぐらいです。

   

大分宮から先に進みます。途中、明円寺の前に「大分小学校発祥の地」の石碑がありました。江戸期、ここで寺子屋を始めたのが大分小学校の始まりだそうです。

明円寺から県道90号線に出ます。

  

筑穂元吉から県道65号線へ。

 

 

雨が酷くなってきました。ここからゴールの桂川(けいせん)駅までは、約3km、1時間ぐらい歩かなくてはいけません。

当番のリーダーが調べると原田線「上穂波駅」が歩いて10分ぐらいの所にあるそうです。また、列車の時間も11:25発で今から行くと間に合いそうです。

11:00上穂波駅に到着。今日はここでゴールとします。

 

JR原田線って本数が少ないですね。この列車を逃すと3時間待たなくてはいけなかったです。

 

【追記】筑前茜染

江戸時代末期、鹿児島藩主の島津斉彬が、幕府に日本の「総船印」として日の丸を建議したが、同藩には赤色に染める技術がなかったため、縁戚関係にあった福岡藩主の黒田長溥に依頼。

領内の穂波郡山口村(現飯塚市)の茜屋地区で行われていた茜染めを用い、日の丸を染めたとの言い伝えがある。

茜染は、野や山に自生するあかね草の根を染料とした染技の一つです。化学染料の登場によって姿を消していったこの伝統ある茜染を復活させようと昭和55年、商工会青年部、婦人部が

中心となって挑戦、ネクタイ、スカーフなどを見事な茜色に染め上げました。