台湾の地震の被害はすごいですね。
今回の地震の被害の大きかった「花蓮」には、2011年12月、仕事をリタイアした記念に行きました。
その時のブログです。
台湾旅行(その7)花蓮太魯閣渓谷へ - よっちゃんのおててつないで (goo.ne.jp)
明日にでも役所に行って少額ですが、台湾地震の復興のため寄付したいと思います。
台湾の地震の被害はすごいですね。
今回の地震の被害の大きかった「花蓮」には、2011年12月、仕事をリタイアした記念に行きました。
その時のブログです。
台湾旅行(その7)花蓮太魯閣渓谷へ - よっちゃんのおててつないで (goo.ne.jp)
明日にでも役所に行って少額ですが、台湾地震の復興のため寄付したいと思います。
8/4(木)旅行会社の日帰りツアーで長崎軍艦島(端島炭鉱)に行きました。
軍艦島(端島)は、長崎半島(野母半島)から西へ約4.5km、三菱石炭鉱業の主力炭鉱があった高島から南西に約2.5km、長崎港から南西に約18kmの沖合に位置します。
軍艦島(端島)は、南北に約480ん、東西に約160m、周囲約1,200m、面積65,000㎡という小さな海底炭鉱の島で岸壁が島全体を囲い、高層鉄筋アパートが立ち並ぶその外観が軍艦「土佐」に
似ていることから「軍艦島」と呼ばれるようになりました。
炭鉱閉山後、長い眠りについていた「端島炭鉱」ですが、2015年(平成27)「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼・造船・石炭産業」の構成資産の一つとして世界文化遺産に
登録されました。(長崎さるくより)
午後2時長崎港元船桟橋から出港。乗客の方は約100人ぐらい。
昨日(8/3)まで先月末の台風の影響で上陸禁止でしたが、今日から上陸できるようになりました。但し、1.風速5メートルを超える場合、2.波の高さが0.5メートルを超える場合
3.現場海域の視界距離が500メートル以下の場合は上陸が禁止となります。
クルーズ船は、三菱重工長崎造船所を通っていきます。長崎造船所でも世界遺産のものがあります。その一つがジャイアント・カンチレバークレーン。
高さ62m、アームの長さ75mで今でも現役です。
伊王島は昭和40年代まで炭鉱で栄え活気に満ちていたしたが、時代とともに石炭の需要が減り炭鉱は閉山、人口も激減し衰退の一途を辿ってきました。
平成の時代になり海水浴場やホテルなど観光化が進められるようになりました。
30分ほどで「高島」に到着。
高島の石炭の発見・採炭の始まりは、18世紀初めころとされています。記録では、天明7年(1787)深堀鍋島家が高島炭の長崎での販売を許可しており、この頃には、すでに高島での
採炭が事業として成立していたことがわかります。江戸時代の高島における最短の方法は、「たぬき堀り」と呼ばれる石炭の露頭部から炭層に沿って掘り進んでいく原始的な方法でしたが、
慶応4年(1868)佐賀藩とグラバー商会との間で高島炭鉱共同経営契約が成立し蒸気機関を使った国内初の立坑(北渓井坑)を開坑し、採炭を行いました。
明治14年(1881年)土佐藩出身の岩崎弥太郎率いる三菱財閥に権益を譲り、本格的に採掘が開始されました。
以来近郊伊王島・端島の炭鉱とともに西彼杵炭田の一角として1世紀以上にわたって日本のエネルギー経済を支え続けました。
その後、国の石炭政策の変更等により、1986年(昭和61)11月閉山しました。
島に入ると、三菱財閥創始者「岩崎弥太郎」の像が島全体を見渡しています。
高島石炭資料館に入ります。ここには、高島炭鉱の支山であった端島(軍艦島)の概要を説明しています。
高島町へは、長崎港から連絡船が一日に8便出港しています。(高島港からも8便)
15:05高島を出港。南西方向に「軍艦島(端島)」が見えてきました。クルーズ船は、ここから軍艦島を周回します。
遠くから見ると、軍艦に見えます。
軍艦島(端島)では、1810年頃に石炭が発見され、佐賀藩が小規模な採炭を行っていましたが、1890年三菱合資会社の経営となり、本格的海底炭鉱として操業が開始されました。
出炭量が増加するにつれ、人口も増加し、狭い島で多くの人が生活するため1916年(大正6)には、日本初の鉄筋コンクリート造の高層集合住宅が建設され、最盛期には約5300人もの
人々が住み、当時の東京都の9倍もの人口密度にまで達しました。
エネルギー革命により、エネルギーの需要が石炭から石油に移ったことで出炭量も人口も徐々に減少し、1974年(昭和49)1月に閉山した後は、同年4月に無人島になりました。
軍艦島(端島)に上陸します。上陸の際には、日傘を含む傘が禁止になっています。(雨の日は、カッパを着るそうです)
見学する場所は、限られており、下記の赤い印の所です。
30号棟の前で説明を聞きます。
1916年(大正5)に建てられた30号アパートは、日本最古の7階建て鉄筋コンクリート造の高層アパートと言われています。
鉱員住宅として建設され、内庭には吹き抜けの廊下と階段があり、地下には売店もありました。31号棟鉱員住宅には、地階に一般用の共同浴場があり、1階には郵便局や理髪店も
設置されていました。
30号棟は、崩壊が進んでおり、昨年11月の診断では、あと半年ぐらいで崩壊するとのことです。パンフの写真と比較するとだいぶん崩壊が進んでいますね。
島での生活
軍艦島(端島)では、学校や病院、商店のほか、映画館やパチンコホールなど娯楽施設も揃っていましたが、木々を育てる場所がなかったため、PTAなどが協力してアパートの屋上に土を
運び、花や野菜を育てていました。これが日本初の屋上庭園だったといわれています。
電気や水道の確保は島では切実な問題でした。電気は当初、島の自家発電で供給されていましたが、人口の増加などに伴い、電力不足となったため、1918年(大正7)に高島から海底ケーブルが
敷かれ、送電されるようになりました。
飲料水も当初は海水を蒸留していましたが、のちに給水船で運ばれるようになり、高台にある貯水槽に蓄えられ、数か所の共同水栓から配給されるようになりました。
風呂の水は、海水を沸かしたもので上がり湯だけしか真水を利用できませんでした。1957年(昭和32)には対岸の三和町から6500mもの海底送水管が敷かれ、送水されるようになりました。
これにより、軍艦島(端島)での給水制限はなくなりましたが、高級職員用のアパートであった3号棟以外のアパートには、室内風呂は設置されず、公衆浴場が利用されていました。
昭和30年代からプロパンガスが利用されましたが、それまでは、かまどを使っていたため、アパートには煙突がありました。
30棟での説明が終わり、クルーズ船に戻ります。
軍艦島から約40分で長崎港に戻りました。
短い滞在でしたが、昔の炭鉱での生活が少しではありますが、わかったような気がします。
この遺産後世にも長く残したいものです。
文中の説明文は、「長崎さるく軍艦島」から引用しました。
9/29(金)
9/30~10/1に行われる「瑠璃色ロマン神秘第19回田沢湖ツーデーマーチ」に参加するため、秋田県仙北市に行ってきました。
福岡から秋田へは飛行機の直行便がなく、福岡から羽田まで飛行機、東京駅から秋田新幹線で田沢湖に入りました。
朝、福岡は、快晴でしたが、田沢湖は小雨が降っていました。この雨、明日も続くそうです。日本列島も長いですね。
田沢湖駅前にある田沢湖市の中を見学すると「月の輪熊の缶詰」が売られていました。
田沢湖駅でレンタカーを借り、事前受付が行われている「田沢湖レストハウス」に向かいました。
田沢湖では、もう木々が紅くなりかけています。
田沢湖は、秋田県の中東部に位置する。直径は約6kmの円形、最大深度は423.4mで日本第1位(第二位は支笏湖、第三位は十和田湖)、世界では17番目に深い湖である
(世界で最も深い湖はバイカル湖)。湖面標高は249mであるため、最深部の湖底は海面下174.4mということになる。この深さゆえに、真冬でも湖面が凍り付くことはない。
そして、深い湖水に差し込んだ太陽光は水深に応じて湖水を明るい翡翠色から濃い藍色にまで彩るといわれており、そのためか日本のバイカル湖と呼ばれている。(ウィキペディアより)
今日は、雨のためか、瑠璃色の田沢湖が見れませんでした。
田沢湖レストハウスには、秋田犬、比内鶏がいます。
また、田沢湖のシンボル「辰子姫」を祀っ「辰子姫明神」もあります。
雨も止みましたので、このあとレンタカーで「秋田駒ヶ岳」の方に向かいます。
秋田駒ヶ岳は、十和田八幡平国立公園の南端にある秋田県第一の高峰である(最高地点は鳥海山山腹)。山頂部には北東-南西方向に2つのカルデラが並び、
本峰の男岳(おだけ、1,623m)や火口丘の女岳(めだけ、1,512m)、寄生火山の男女岳(おなめだけ、女目岳とも書く、1,637m)からなる。
各地の駒ヶ岳と区別するために秋田駒ヶ岳と呼ばれ、地元では「秋田駒(あきたこま)」とも呼ばれる。昔は女人禁制の信仰の山であった。(ウィキペディアより)
秋田駒ヶ岳は、土曜、日曜、祭日には、マイカー規制が行われており、(バスが運行)この日には、マイカーで行くことはできません。今日は、金曜日ですので車で行けます。
狭い登山道を登っていくと廻りの木立が色づき始めています。
秋田駒ヶ岳8合目に着きました。周りは、ガスが出て何にも見えません。散策道を歩きたかったけどこれでは無理ですね。天気のいい日でしたら鳥海山も見えるのですが・・・・・
今回、田沢湖ツーデーマーチの宿舎は、休暇村乳頭温泉です。ここの横のブナの森がきれいでしたので夕食までの間、散歩してみることにしました。
ブナの森は、上の方が少し黄色くなりかけています。10月半ばになるとこのようになるそうです。(休暇村HPより抜粋)
歩いていると温泉の硫黄の匂いがしてきました。
途中、「熊出没注意」の看板が立っていましたので休暇村周辺の散策だけにしました。
乳頭温泉のお湯は、乳色で硫黄の香りが漂っていました。(写真は、休暇村HPより抜粋)
気持ちのいいお湯でした。
9/1(金) 山形県遊佐(ゆざ)町で行われる「第25回奥の細道鳥海山ツーデーマーチ」に参加するため、山形県酒田市に行ってきました。
福岡から山形には飛行機の直行便がなく、福岡空港から新潟空港へ行き、新潟から羽越本線で酒田に入るルートです。
2年ぐらい前、新潟・長岡に行ったとき初めて食べた「へぎそば」の味が忘れられなく、新潟駅で「へぎそば」をいただきました。
へぎそばとは、新潟県魚沼地方発祥のつなぎに布海苔という海藻を使った蕎麦をヘギといわれる器に盛り付けた切そばです。
新潟駅からは、12:33発「いなほ5号」で酒田に向かいました。(ウオーキング大会は、遊佐町で行われますが、ホテルは、酒田に予約していて、また、「山居倉庫」にもいってみたいので)
新潟・山形県境を超えるあたりから、電車は、日本海沿いを走ります。この海岸線を見ようと思ってましたが、いつの間にか眠ってしまいました。
電車は約2時間で酒田駅に到着。酒田駅の裏には、「鳥海山」が見えます。
酒田市は、 江戸時代、大阪と蝦夷地(現在の北海道)を結び、米やニシンなどを各地に運んだ北前船。酒田では「ベザイ船(べざいせん)」と呼ばれたこの回船は、中継港となった酒田に大きな繁栄をもたらしました。
酒田の湊は、蝦夷や上方に向かう北前船だけでなく、最上川を行き来する川船も多数集まり、大きな賑わいをみせ「西の堺、東の酒田」と言われるほどの賑わいだったといいます。
このように各地との交易が盛んだった酒田。「~さけ(接続詞)」という酒田の方言は、大阪の方言「~やさかい」に由来するといわれるなど、日本各地の言葉が方言として使われており、
方言からも各地との交流の濃さを感じられます。 (酒田市観光案内より)
マンホールにも千石船が描かれていました。
酒田で一番行きたかった所は、「山居(さんきょ)倉庫」。
酒田駅から山居倉庫までは、約2km。ホテルでバス路線を聞きましたが、1時間に1本ぐらいしかないそうで、私たちもウオーカーの端くれ。山居倉庫まで歩くことにしました。
山居倉庫は、米どころ庄内のシンボル、山居倉庫は明治26年旧藩主酒井家によって建てられた米保管倉庫です。
米の積出港として賑わった酒田の歴史を今に伝え、NHK朝の連続テレビ小説「おしん」のロケーション舞台にもなりました。
白壁、土蔵づくり9棟からなる倉庫の米の収容能力は10,800トン(18万俵)。夏の高温防止のために背後に欅並木を配し、内部の湿気防止には二重屋根にするなど、
自然を利用した先人の知恵が生かされた低温倉庫として、現在も農業倉庫として使用されています。敷地内には酒田市観光物産館「酒田夢の倶楽」、庄内米歴史資料館が併設されています。(酒田市観光HPより)
※写真家の土門拳さんの土門家は、代々この地で染物業を営んでいました。
強風や直射日光を避けるために植えられたケヤキ。現在は41本残っているそうです。
山居倉庫には、庄内米歴史資料館があります。入場料を払い中に入ります。
昭和58年(1983)のNHK朝ドラは、「おしん」でした。
おしんは、少女時代酒田の米問屋「加賀屋」に奉公に上がります。テレビでは、山居倉庫も映っていました。少女時代を演じた小林綾子さんの演技がよかったですね。
「小鵜飼舟」・・・・・・・荷物を積んで最上川を上り下りする船には、ひらた船と小鵜飼舟の2種類がありました。どちらも舵は無く、櫂や帆で進み、急流を上る時には網で挽きました。
多く利用されたのは建造費の安かった小鵜飼舟です。3人乗りで、長さが15m、幅が1.7m。一度に30~50俵(2~3t)ものお米を運ぶことができました。
江戸時代には左沢より上流でしか使用できませんでしたが、明治時代になって制限がなくなると、下流でも小鵜飼舟が多く利用されるようになりました。
酒田市のゆるキャラは、黒獅子の「もしぇのん」と赤獅子の「あののん」です。
山居倉庫から駅に戻ります。途中、「本間家旧本家」という看板を見つけましたのでそちらに向かいます。
本間家旧本家の前で写真を撮っておられる方がいらっしゃいました。どこかで見たことのある方なんですが・・・・・・
埼玉の歩友Iさんの奥様の「お龍さん」でした。(写真左の方に写っています)
本間氏(ほんまし)は佐渡本間氏の分家で、山形県酒田市を中心に農地解放による解体まで日本最大の地主と称された豪商。
「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」と謳われるほどの栄華を誇りました。
本間家には、初代・原光(もとみつ) 以来、「弱者救済」、「地域貢献」の精神が受け継がれていました。特に三代目・ 光丘(みつおか)は、千石船(せんごくぶね) による商いを始める一方で、
農業振興のための土地改良や、長年にわたる海沿いの飛砂の害から人々を守るための砂防林の植林に心血を注いでいます。また、藩主のために建てた別荘や庭園には、
本間家の家族ですら立ち入らせなかったことや、庭園の造成は農民の仕事を確保するため行ったものであることなど、控え目で、常に地域の人々のことを考えていた姿が伝えられています。
地域と共に歩み発展に尽くした本間家は、現在でもその業績をたたえられており、酒田市には、松林や寄進した寺社仏閣など、本間家ゆかりの場所が数多く存在します。(山形県HPより)
酒田市には、本間家旧邸の他にも「本間美術館」もあります。残念ながらもう閉店時間を過ぎており、邸内には入ることができませんでした。
時間は、6時半を過ぎています。酒田でおいしいものをと探していると、タクシーの運転手の方から、紹介してもらったのが「さわぐち」。
高級料亭とはいきませんが、おいしい料理をリーズナブルな料金で食べさせてくれました。
酒田の地酒「初孫大吟醸」は、辛口でしたが、おいしくてお酒がどんどん進みます。明日は、ウオーキング大会、ある程度セーブしていただきました。
明日は、酒田発6時33分の電車でウオーキング会場の遊佐(ゆざ)町に行きます。今夜は早く寝ます。
12/11 名護やんばるツーデーマーチゴール後、下関・Mさんご夫妻と合流するため、本部のリゾートホテルに向かいました。
Mさんご夫妻とは、翌日ご一緒に「美ら海水族館」へ行くことになっています。
21世紀森公園から国道429号線を北上。
途中コンビニでお金を引き出したところ、2千円札が出てきました。もうここ数年見かけませんが、沖縄ではまだ出回っていたのですね。
2千円札は、2000年の沖縄サミットの時に発行されました。沖縄首里城の守礼門がデザインされています。
本部(もとぶ)港では、伊江島行のフェリーが停泊していました。また、この少し先の渡久地港では、水納(みーな)島行の船が出ています。
明日行く美ら海水族館を通りすぎると今夜の宿の「オリオンモトブリゾートホテル」です。部屋は最上階ですのでここからのロケーションは最高です。
夕方Mさんご夫婦と合流し、ホテル1階のレストランで食事します。
30度の泡盛もいただきすっかり酔ってしまいました。明日は、美ら海水族館に行きます。
下の写真は、早朝3時ごろ月の明かりが綺麗でしたので撮ってみました。
12/9(金)
12/10~11の名護やんぱるツーデーマーチ参加の為福岡空港から沖縄へ向かいました。
福岡を飛び立つときは、雨模様でしたが、沖縄に近づくにつれ晴れてきて上空から沖縄の地形が見えてきました。海の色がとっても綺麗です。
約2時間のフライトで沖縄・那覇空港に到着。那覇の気温は22度。
那覇空港からレンタカーを借り、ウオーキング会場の名護市へ沖縄自動車道を通り向かいます。沖縄は他県ナンバーの車はほとんどなく、レンタカーが非常に多いです。
約50分で許田(きょだ)IC下車。道の駅許田がありましたのでここで「沖縄そば」「ソーキそば」をいただきます。
沖縄そばとソーキそばの違いは、トッピングの違いです。沖縄そばは、上にかまぼこや豚の三枚肉をトッピング。対しましてソーキそばは、ブタのスペアリブがトッピングされています。
また、そばといってもそば粉から作るのではなく小麦粉からです。うどんと同じですね。味は、出汁も良く(なんでとっているのかな?)美味しかったです。
明日からの大会に備え、今日13時から事前受付が行われます。
会場の屋内体育館の前には、「トックリキワタ」の花が向かえてくれます。見ていると桜が咲いたように見えます。
受付後、沖縄最初の観光として世界遺産の「今帰仁(なきじん)城跡」に行きます。途中の嵐山展望台からの光景です。素晴らしいですね。
明日のウオーキングでは、ワルミ大橋、古宇利大橋を歩いて渡ります。
古宇利島には、「沖縄版アダムとイブ」の神話があるそうです。
昔、古宇利島に空から男女二人の子供が降ってきた。彼らは全くの裸であり毎日天から落ちる餅を食べて幸福に暮らしていた。最初はそれに疑問を抱かなかったがある日餅が降らなくなったらどうしようという
疑念を起こし、毎日少しずつ食べ残すようになった。ところが二人が貯えを始めたときから餅は降らなくなった。二人は天の月に向かい声を嗄らして歌ったが餅が二度と降ってくることはなかった。
そこで二人は浜で生活するようになり、魚や貝を捕って生活と労働の苦しみを知り、ジュゴンの交尾を見て男女の違いを意識し恥部をクバの葉で隠すようになった。
この二人の子孫が増え琉球人の祖となった、と云う神話である。(ウィキペディアより)
今帰仁城跡に着きました。今帰仁城跡は、2000年「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の中の一つとして世界遺産に登録されました。(注:グスクとは、本土でいう「城」です)
今帰仁城跡は、14世紀琉球王国成立以前に存在した北山の国王北山王の居城でした。北山は、尚巴志に1416年滅ぼされますが、滅ぼされた後も旧北山統治の要所として引き続き使用され、
北山監守が派遣されました。1609年薩摩藩による琉球侵略の際、その攻撃の第一目標にもなりました。
沖縄本島やその周辺離島には、420か所ものグスク(城)があるそうです。今帰仁城跡などの大型のグスクとともに豪族の屋敷規模も含まれるそうです。
沖縄の城は、東南アジア、中国、日本、琉球の文化を取り入れて、独自の文化を創っていました。
今帰仁城跡を出ると、サトウキビがたくさん積まれています。サトウキビは、戦後間もなく福岡でも栽培されていました。5歳ぐらいの頃、サトウキビをおやつ代わりに食べた記憶があります。
今帰仁村歴史文化センターがあります。ここでは、今帰仁村の歴史が展示されています。残念ながら館内は撮影禁止でした。
今夜の宿泊地は、ウオーキング会場から近くのホテルです。ホテルの目の前は、名護球場です。プロ野球日本ハムが春のキャンプに使っています。
このホテルが日ハムの宿泊ホテルになっていて、フロントには、日ハムナインの色紙などが飾られています。
大谷選手人気でファンの方もたくさん来られるでしょうね。
さて、今夜の夕食は、ホテルの方から聞いた「ゆきの」。沖縄料理もありました。
先ずは、沖縄の地ビール「オリオンビール」。
海ブドウ、島らっきょは初めての食感です。それと本場の「ゴーヤチャンプル」。
子供の頃の思い出と言えば、「越中富山の薬売り」でしょう。置き薬と言って薬を置いておき、使った分だけ代金を支払う・・・・・・
そして、私達子供へのお土産は、「紙風船」でした。確か、昭和30年ごろだったかな・・・・・・・
折角富山に来たのだから、富山の薬売りの歴史を見てみようと思いました。
富山城は天文12年(1543)にこの地に築かれ、その後何人かの武将がこの城を支配していました。寛永16年(1639)富山藩が成立し、加賀より前田家が入城しました。
明治4年(1871)富山県が設置されるまでの約230年間、富山前田家が13代にわたりこの城を領有しました。
富山城の「千歳御門」は、富山藩10代藩主前田利保が隠居所として造営した千歳御殿の正門で嘉永2年(1849)に建築されました。
総欅造りの三間薬医門で屋根は切妻造本瓦葺、桁行6M,梁間1,8Mです。同一の建物としては「東大の赤門」として有名な加賀屋敷御守殿門ですので、いわば、東大の赤門の親戚です。
さて、話を戻します。富山藩第二代藩主前田正甫(まさとし)は、富山売薬の基礎を築いた人です。元禄3年(1690)、正甫が参勤交代で江戸城に登城した折、とある大名が激しい腹痛を訴えました。
そこで懐中に常備していた「反魂丹」をすすめた所、たちどころに治りました。その様子を見た諸大名は、「反魂丹」の効能に驚き、自分の領内での販売を求めるようになった為、正甫の命で諸国に
行商させたのが富山売薬の始まりです。正甫は、富山売薬を広めたお殿様として市民の間から親しまれています。
江戸時代の富山売薬は、富山藩の統制下にありました。全国に販路を広げ、売薬人たちは行商先の国・地域別に仲間組を作り、行商の人数を決めるとともに、示談と呼ばれる取り決めを定めて
お互いの利益の維持を図っていました。売薬で利益を得た町人はいましたが、利益を他の資本に投じることは禁じられていました。また行商人は、薬以外の物を扱うこと、旅先から商品を仕入れて
くること、旅先で居住することなども禁じられていました。
明治に入るとこれらの束縛が外れて商売が自由にできるようになり、売薬業者は、金融機関を始め、水力発電、鉄道、各種製造業など幅広く進出しました。
また、売薬業者自身も製薬会社を設立しました。その代表格が「廣貫堂」です。
富山市梅沢町には、「廣貫堂資料館」があります。この資料館では、歴史・文化的にも価値の高い古文書や当時の薬売りが使った珍しい品々を展示されています。
富山の薬売りの特徴は、「先用後利(せんようこうり)」という、品物を先に預けて使用してもらい使った分だけ代金を後から回収して利益とするという意味ですが、この顧客の利便性を考えた
販売方式は富山売薬を支える精神ともなっています。
富山の売薬さんは、柳行李を包んだ大きな風呂敷を背中に担いだ独特の井手達で全国を行商しました。旅立ちは、主に春秋の年に2回が標準で、この時期は出稼ぎから帰る時期、あるいは、収穫の
時期に当たり、各家々に現金収入があるころだからです。
先用後利の販売システムを支え、売薬さんの行商に最も重要なものが「懸場帳(かけばちょう)」。この帳面には、訪問した年月日、配置した薬の種類と数、売上金額、回収状況や家族構成、健康状態などが
記せられ、現代版「顧客管理台帳」なるものです。
明治以降、西洋医学や薬学が取り入れられると、和漢薬は一時壊滅の危機にさらされました。富山売薬は生き残りをかけ西洋医学の研究に取り組みました。
廣貫堂では、後継者の育成に力を入れ、明治26年(1893)、富山市も補助金300円を基に、薬業者の寄付により、最初の薬学校「共立薬学校」が設立されました。
この薬学校は、県立、官立を経て、富山医科薬科大学となり、その後統合により現在の富山大学薬学部となっています。
廣貫堂では、来館記念としてドリンク剤をいただきました。
続いて市内安養坊にある「富山市売薬資料館」に行ってきました。
館内は、撮影禁止の為、写真がありませんが、ここでは、富山売薬の歴史、また薬業出身の御三家「密田氏」の密田家土蔵も公開されています。
※富山薬業御三家:密田家、中田家、金岡家
密田家は、能登の出身で、寛文2年(1662)富山古寺町へ出て能登屋と称し、のちに売薬業を営みました。当主は代々林蔵を名乗っていました。6代林蔵は、富山売薬薩摩組の中心として活躍しました。
7代林蔵の時、金融業(質屋)に携わりました。9代林蔵は、越中売薬の近代化を企てて仲間と株式会社「廣貫堂」を設立しました。明治11年(1878)に富山第百二十三国立銀行の副頭取となり、
10代林蔵は富山貯蓄銀行を創立しました。また金岡又左衛門と協力して富山で初めて水力電気を起こした密田孝吉は、分家の長男でした。
中田家は、般若村茶ノ木(現砺波市)の出身と言われ、富山で初めて薬種店を開業しました。5代三郎右衛門が富山藩2代藩主正甫公の御用商人となり、妙薬の奇応丸や熊参丸を創りました。
6代清兵衛から代々清兵衛を名乗り、14代清兵衛が富山第百二十三国立銀行の副頭取になり、15代清兵衛は、密田家9代林蔵の5男徳次郎が中田家に入り襲名して家業を継ぎました。
彼は先代のあと、十二銀行(明治17年(1884)金沢の国立十二銀行と富山の第百十二銀行が合併)の頭取となり、昭和18年には統合した北陸銀行の初代頭取に就任しました。
長男の勇吉が16代清兵衛を襲名し北陸銀行の頭取に就任、4男の孝吉が富山県知事を務めました。
金岡家は、江戸末期より新庄町で、金剛寺屋と呼ばれる薬種屋を営んでいました。金岡又左衛門(初代)は、初め政界を目指しましたが、のちに密田孝吉の助力を得て、電力事業に打ち込み、
成功の後は、鉄道・紡績・育英事業などに力を注ぎました。2代目又左衛門は、経済界で活躍し、現在の富山第一銀行の基をつくりました。3代目又左衛門は、薬学を修め、製薬会社、金融機関の
トップとして活躍する傍ら、富山女子短期大学理事長を務めるなど教育界に足跡を残しました。現在金岡家の家業は3代又左衛門の係累により、富山国際大学、富山短期大学、
資料館から帰る時、お土産に「紙風船」をいただきました。
10/24(月) 氷見でのキトキトウオーキングのあと、黒部立山の紅葉が見たく富山市に向かいました。
紅葉の時期でもありますし、立山駅に向かいホテルを6時に出発。立山駅には6:50到着。
立山駅は、標高475m。これから室堂の2450mを通り黒部ダム1455mまで約2時間かけて行きます。
午前9時黒部湖到着。
黒部ダムは、その建設は世紀の大事業として語り継がれ、中でも破砕帯との格闘は石原裕次郎主演の映画「黒部の太陽」に描かれた事でも有名です。
昭和31年から始まったダム建設には当時の金額で513億の巨費が投じられ、延べ1,000万人もの人手により、実に7年の歳月を経て完成しました。(黒部ダムHPより)
人造湖である「黒部湖」には、真っ赤な紅葉が見られました。放水ショーは、先週で終わっていて見ることができませんでした。
朝が早かったので空気も澄んで、正に快晴の天気、立山連峰の山々が綺麗に見えます。
レストハウスでは、黒部ダムカレーをいただきました。御飯がダムの形をしています。
観光客の方が扇沢の方から来られました。ども外国の方が多いようです。
これから立山駅に戻りますが、途中の光景を見るため、ゆっくり戻りたいと思います。
【黒部平】 左手に遠く鹿島槍ヶ岳が見えます。
【室堂】 室堂(むろどう)とは、修験者が宿泊したり祈祷を行ったりする堂であり、山岳信仰や神奈備がある神体山では建立されることが多い。またはそこから派生した地名です。
ちょっと室堂内を探索したいと思います。
立山玉殿の湧水は、雄山直下の地下水で、立山トンネル開通と共にその一部が湧出したものです。室堂平には立山玉殿の湧水給水場があり、多くの登山客、観光客に愛飲されています。
また、全国名水百選にも選ばれました。標高2450mでの湧水は国内に例が無く、「立山玉殿の湧水」は日本国内で市販されている水の中では一番標高の高い場所(室堂平、標高2450m)で採水された水です。
ターミナル内に入ると「さらさら汁」というものが販売されていました。天正12年(1584)厳冬。戦国武将佐々成政(富山城主)が敢行した「立山ザラ峠越え」に由来した地元料理を現代風にアレンジしたそうです。
中には、白玉団子、つくね、などが入っていて醤油味でした。
雄大な山々を身近で見るのは、生まれて初めての経験です。
【ミクリガ池】は、立山火山の水蒸気爆発によって出来た凹地に水がたまった池です。プランクトンなどはいますが、魚はいない貧栄養型の湖沼です。
みくりは、御厨と書き神様の食物を調理する所です。
素晴らしい光景ですね。
先を歩くと「みくりが池温泉」がありました。ここは、日本で一番の高所にある温泉です。あたりには地獄谷からの硫黄の匂いが立ち込めています。
タオルも持ってないのでどうしようかと思い、フロントに聞きましたらタオルだけ売っていました。
浴槽は2つあり、右の浴槽は少し熱めの湯です。熱いお湯はあまり好きではありませんが、折角ですので入りましたが、3分持ちませんでした。(笑)
然し、本当にいいお湯でした。時間があればもう少し入りたかったのですが・・・・・・・・
入湯記念にコースターをいただきました。
立山の地獄谷は、今でも火山系のガスが発生しています。散策路の脇には立ち入り禁止のロープが張られていました。
【山崎圏谷(カール)】は、氷河によって山腹が削られて出来たものでカール(圏谷)と呼ばれています。
黒部立山アルペンルートは、初めて行きましたが、ホント素晴らしい所です。今から雪の季節になりますがこのあたりもたくさんの雪が積もるでしょう。
室堂からバスで美女平へ、美女平からケーブルカーで立山駅に戻ってきました。
今日は、朝6時前から行動を起こしましたが、早く行って正解でした。
10/21(金)
10/22から始まる「氷見キトキトツーデーウオーク」に参加するため富山県氷見市に行きました。
博多から新幹線さくらで新大阪へ。新大阪から特急サンダーバードで金沢。金沢からはレンタカーで氷見に向かいました。
氷見市は、能登半島の付け根部分に位置し、富山湾の新鮮なお魚が美味しい所です。中でも「寒ブリ」「白エビ」「ホタルイカ」などが有名です。
氷見市はもちろん富山県に行くのは初めてですので楽しみです。金沢からは約1時間で到着しました。
先ず、高岡市の「雨晴(あまはらし)海岸」へ。
ここは、晴れた日には富山湾越しに3000m級の立山連峰が見ることができますが、今日は少し雲がかかっていて、連峰がぼんやり霞んでいます。
文治年間(1187年)に、源義経と弁慶が、山伏姿に身をかわし奥州へ落ち延びる途中、にわか雨の晴れるのを待ったという岩。地名「雨晴」の由来ともなっています。
伝説では、弁慶が持上げたと言われるこの岩石は、上代の古墳の石槨であろうという説もある。昔、辺りが海となっていなかったころの貴人を埋葬した古墳だが、
波が上の部分をさらってしまい、石槨だけが残ったものと言われている。(雨晴観光協会HPより)
この海岸は、明日のツーデーウオークのコースにもなっています。
雨晴海岸から氷見市内に入ります。
氷見は、藤子A不二雄(我孫子素雄)さんの出身地。市内には「怪物君」の漫画ロードがあります。
午後4時近くになりました。商店街の湊川公園では、「忍者ハットリ君のからくり時計」があります。
商店街を少し入った所に「光禅寺」があります。ここが藤子不二雄A(我孫子素雄)さんの生家です。安孫子さんは、1934年光禅寺の長男として生まれました。
10歳の時高岡市に転居し、そこでパートナーとなる「藤本 弘氏」と会い、17歳で二人の合作「藤子不二雄」というペンネームで漫画家デビューしました。
私も子供の頃よく藤子不二雄さんの漫画を読んでいました。てっきり一人で書かれているのだろうと思っていましたが、二人の合作だったのですね。
光禅寺の隣には。「日宮神社」があります。天長5年(828年)勧請。以前は比美の浜(富山湾)に面していました。日の出の名所として日見の宮から日宮と称しました。
祭神は、天照大御神。
今夜の宿は、氷見漁港に面した所です。寒ブリは、12月からですので今の時期はありませんが、白エビや地元漁港で採れたお魚を出してくれました。
明日は、30kmのウオーキングです。
10/14 今回の旅行最終日。8時にホテルをチェックアウトし、すぐ白虎隊の飯盛山に向かいました。飯盛山までは、動く坂道(@250)に乗って登れば楽ちんです。
NHK大河ドラマ「八重の桜」で有名になりました「ならぬことは ならぬものです」
戊辰戦争のおり、16~17歳の少年たちで編成された白虎士中二番隊20人が戸の口原合戦場から退却し、滝沢峠の間道を通り、戸の口堰の洞門をくぐり飯盛山に辿り着くと、
鶴ヶ城の天守閣は黒煙の中に見え隠れして、「城は陥落したか、今は主君のために殉じよう」と、全員が自決しました。
20名のなかで1人だけ生き残った 飯沼貞吉 によって、白虎隊の忠義と悲運の物語は広く人々に知られるところとなりました。
※戊辰戦争:1868年(慶応4)戊辰の年に始まった維新政府軍と旧幕府軍との間に十六か月にわたって戦われた内戦。
戦死者の墓標を見てみると、ソニー創立者井深 大氏や元自民党政調会長伊東正義氏の縁者の方も殉死されています。
飯盛山を左に行った所に「さざえ堂」があります。
このさざえ堂は、9月に放映されたNHKテレビ「ブラタモリ」で紹介されました。
会津さざえ堂は寛政8年(1796)福島県会津若松市の飯盛山に建立された、高さ16.5m、六角三層のお堂です。
正式名称は「円通三匝堂(えんつうさんそうどう)」といいます。
当時飯盛山には正宗寺(しょうそうじ)というお寺があり、その住職であった僧郁堂(いくどう)の考案した建物です。
かつてはその独特な2重螺旋のスロープに沿って西国三十三観音像が安置され、参拝者はこのお堂をお参りすることで三十三観音参りができるといわれていました。
また、上りと下りが全く別の通路になっている一方通行の構造により、たくさんの参拝者がすれ違うこと無く安全にお参りできるという世界にも珍しい建築様式を採用したことで、
建築史上その特異な存在が認められ、平成8年に国重要文化財に指定されました。 (福島観光ナビより)
内部に入るとらせん階段みたいになっており、下りの人とはすれ違いません。一番上で上りと下りが入れ替わります。
2百数十年前の建物ですが、よく考えられています。また、お賽銭も1階で集中して集められることができるそうで同行のKさんの奥様が一番上からお賽銭を入れました。
Mさんご夫妻は、郡山発12時ぐらいの新幹線で帰られるそうで、さざえ堂をあとに帰路に着きました。
帰りの磐梯山P・Aにて。
郡山駅には11時過ぎに到着。Mさんご夫妻を見送り車を返却しました。3日間の走行距離は360kmぐらいでした。
また、来年も行きたいですね。