よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

長崎街道を歩いています№8(嬉野宿~武雄(塚崎)宿)

2011-02-24 19:53:44 | 長崎街道歩き
2/20、長崎街道「嬉野宿~武雄宿」まで歩いた。
当日自宅を4時15分に出て車をJR肥前山口駅に置き、
JR佐世保線で武雄温泉駅へ、武雄温泉駅からJRバスで前回ゴール地「嬉野宿」へ。
嬉野に着いたのは、7時半だった。

嬉野に着いて先ず最初の訪問地が瑞光寺
ここが嬉野宿の本陣だった所です。
前回は、日も暮れており、瑞光寺には行けなかったので改めて瑞光寺の中に入る。

瑞光寺は、応安2年(1369)時の領主嬉野氏が本寺を創建、相州鎌倉巨福山建長寺
住職石堂善玖禅師によって開山された。
明和2年(1765)~文久2年(1862)の98年間は長崎街道を往来する奉行の
本陣として利用された。
鎌倉時代の創建とあって楼門など風格が漂っていた。

種田山頭火も昭和7年3月に嬉野に滞在して句を読んでいる。
 「湯壷から桜ふくらんだ ゆっくり湯に浸り沈丁花 寒い夜の御灯またたく」

東構え口を出て明元寺に着いた。
ここには、上使屋の門がある。
上使屋の門とは、大名、長崎奉行、幕史などを宿泊させ接待する蓮池藩直営の
建物でそこを通過する門(武家門ともいう)を上使屋の門と呼ばれていた。
明治になり本陣が廃止になりこの門は民間に払い下げられ塩屋という嬉野
第一の旅館となったが門は必要ないということで門だけが明元寺に移設され
現在に至っている。

明元寺を過ぎると追分石がある。
右に行くと「塩田宿」左に行くと「柄崎宿(武雄宿」。
長崎街道は、昔は「塩田宿」経由だったが塩田川が度々氾濫し、旅人が
足止めされたので宝永2年(1705)に「塚崎宿(武雄宿)」に変わった。

追分からしばらく歩くと老人ホームがある。
地図を見ないままそのまま歩き出すと道が行き止まりになっている。
あれっ、間違えた。
あわてて老人ホームの所まで引き返すと右側に小さな道がある。
そこを登っていく。このあたりは、三つの坂があることから「三坂峠」という
名になった。
峠を登った所には、一面茶畑が広がる。
きれいに植えられてあり、思わず写真を撮る。

峠を降りると国道に出る。街道はここでわからなくなり仕方なく国道を歩く。
テレビ九州の所に追分石がある。
ひらがなで書いてある。「たけおありたみち」もうひとつは「こたしやま道」と
読むんだろうか?
バス停には「小田志入口」と書いてある。
そうか、「小田志」は「こたし」とのことなんだ。

周りを見てみると陶器屋さんの看板がある。
このあたりも陶器の町なんだろうか?

街道は西九州道を高架の下を通る。
西九州道と接するのはこの街道歩きで初めてだ。
長崎自動車道は、武雄ジャンクションで長崎道と西九州道に分かれる。
西九州道はまだまだ未開通の所が多いが、佐世保を通り唐津を経ていずれは
福岡市内に通じる予定だ。

高架を渡ると左側に貴船神社がある。
入ってみると由緒ある神社だ。
由来を見てみると
「1321年夏、このあたりは空前の大干ばつで作物は枯死状態であった。
農民達は雨乞いをしたりしたが雨は降らなかった。
時の領主後藤光明も武雄神社や黒髪神社で雨乞いをしたが、雨は一向に
降らなかった。
ある夜、武雄神社の下宮の祭神が夢枕に現れ「山城国の貴船神社の神霊を歓請
して祈願をすれば雨が降る。
光明は神のお告げに従い古志貴川の辺の清浄な地を選んで雨乞いの祈願を
すると見る見るうちに雨が降ってきた。
以来この神社を風雨の神様として尊崇した。」
本殿には昔の絵馬が天井に貼られていた。

時計を見ると10時を少し回っている。
今日は朝早かったため、ちょっと小腹が空いてきた。
Dバックには昨日スーパーで買ったアンパンが入っている。
休憩も兼ね、ここで小休止する。

10分ぐらい休憩し再び出発。
地図では、次は「蓮和の地蔵」と書いてある。
領主が朝鮮出兵の時に持ち帰ったものらしい。
地図の場所に行ってもそれが見つからない。
近くをウオーキングされている方に聞くが、ご存知ではない。
軽トラックで通りかかった地元の方にも聞いてみるがご存知ではない。
私が使っているこの長崎街道の地図は1997年に作られたもの。
10年以上前のものだ。この10年の間にこの地蔵さんどこに
行ったのだろうか?

気を取り戻し再び街道へ。
国道から亀屋のバス停から小学校の方へ。
再び国道を横切り石仏を見てまた国道へ。
目印は「不二コンクリート」
不二コンクリートの横を歩き「老松宮」へ。

この老松宮の横には、古い石橋がかかっている。
私達はそのお宮からまっすぐ歩き出した。
これが、間違える結果になるとは予想もしなかった。
山に向かって歩き出すと右側に池がある。
地図では、水源地となっているが水源地にしては水が少ないな・・・
と思いながら。
池の周りを歩き、また登りになる。
息を整え山の頂上に着いたところ、行き止まりの表示!
どこで間違ったのだろう?池もあったし・・・・・
誰かに聞こうと思っても誰も通っていない。
ひょっとして池の所が二手に分かれていたからそちらの方かも
しれない。ここも登っていくが牛舎があり又通行止め。
ただただ時間だけが過ぎていく。

その時、山から下りてこられた年配の方がバイクに乗って帰られようと
している。私は走ってその方の所に行き、道を尋ねた。
その方は、詳しく道を教えてくれた。
問題は、私達が老松宮をまっすぐに来たため間違えたのだ。
老松宮を左手に見て行かなくてはいけなかったのだ。
その方は、自宅にバイクを置いて街道の入口まで案内してくれた。
本当にありがたかった。その方に何回も何回もお礼をいい別れた。

街道は大きな道から右手の小さな道になっている。
ここには「長崎街道」の看板が・・・・
この看板、どんなに待ったことだろう。
すぐこの看板の写真を撮ってしまう。
この峠「淵の尾峠」というそうだ。
間違えて2つの山道を登ったせいか、この峠さすがにきつい。
登りきると右側に水源地が見える。
本来の街道はこの水源地の中を通るのだが、通れないので水源地沿いの
道を歩く。
淵の尾峠を降りたら国道35号線に合流する。
塚崎宿(武雄宿)はもうすぐだ。

塚崎宿(武雄宿)は、海に面した塚がある町ということで塚崎宿と
言われています。また、神功皇后が凱旋で太刀の柄を突き刺した所から温泉が
湧いてきたから柄塚宿とも言われていた。
然し、明治になり鉄道が開通して「武雄」に統一された。

その鉄道ですが、佐世保線のガードには、レンガが使われている。

右側を見ると武雄のシンボル「御船山」が見える。
御船山は、その昔、神功皇后が新羅からの帰りに御船をつながれたことから
その名がついた。
武雄二十八代領主鍋島茂義公は、この地15万坪に回遊式庭園を造った。
今でもつつじの名所になっている。

街道は武雄宿に入ってきた。
町並みを見ると古い建物が現存しており何か懐かしさが感じる。
この町並みには、日本で最初に種痘を行った中村涼庵の旧宅もある。

牛の鼻町という所に来た。
何か面白い地名なので説明文を読むと
「平安時代の末、若木町に館を構えていた源為朝は、領主助明に頼まれて
有田の白川に出没する大蛇を退治した。大蛇の鱗が牛の背に積まれ太宰府に
行く為この道を通ったが新町の入口にくると牛が鼻をついて動かなくなったと
いう。以後この辺りを牛の鼻町と称し明治になって新町と呼ばれた。
善念寺は今でも牛鼻山という名を使っている。

途中左側を見ると奇怪な岩が小さい山の上にある。
何だろう?と思い近づいてみると石段がある。
114段の石段を登っていくと「天満宮」があった。
岩はその上にある。
また登ってみるとお墓があり岩はその上にあった。
この山は「桜山」といって昔は武雄のシンボルでもあったそうだ。
この山からの武雄市内の眺めです。

鍵形道路札の辻(高札所)、脇本陣を通り本陣跡へ。

この本陣跡には、辰野金吾の設計した竜宮城みたいな楼門がある。
辰野金吾は、東京駅の設計者として知られているが佐賀県の出身だ。
唐津にも彼が設計した銀行もあった。

楼門を入るとこれまた朱色に塗られた「新館」がある。
いずれもこの武雄温泉のシンボルになっている。
武雄温泉には今も「殿様の湯」「家老の湯」というのがありいずれも貸切湯に
なっている。

時計を見ると13時30分を過ぎていた。
峠を3回も4回も越えたからお腹もすいてきた。
駅に行けば食べるところがあるだろうと街道をはずれ駅に向かって歩き出す。
武雄温泉駅は、新築したばかりかきれいな建物になっている。
そういえば、街道を歩いていたとき長崎新幹線の測量のマークがあった。
この長崎新幹線が出来ると博多から長崎まで1時間20分。
長崎も日帰り圏内になってくる。

武雄駅で軽い食事を済ませ、家内と今日のこれからの行程を打ち合わせる。
本当は、今日武雄からあと2つ先の小田宿まで予定していたのだが、今の
時間(2時半)から小田宿までは無理だろう。
ここで終了するにはまだ早すぎる・・・・・
結局武雄から次の駅の「高橋駅」まで歩くことにした。

また、街道に戻る。
すぐ、八並の石塔がある。
これは、建久4年(1193)源頼朝が富士の裾野で催した「巻狩り」は、
曽我兄弟の仇討ちで世に知られている。曽我兄弟は父の仇工藤祐経がこの巻狩りに
参加していることを知り夜の闇にまぎれて忍び込み無事に父の仇を討つ。
ところが、陣中は大騒ぎとなり兄の十郎は殺され、弟の五郎は捕らえられ
やがて鎌倉の牢屋で病死した。
十郎の許婚者であった虎御前は黒髪を切り落として兄弟の冥福を祈る為
善光寺の尼さんになった。ちょうどその頃佐賀・小城の里に西国一と
いわれる岩蔵寺が経つと聞いて虎御前は九州に下ってきた。
その途中、中国と四国にそれぞれの石塔を建てて兄弟の冥福を祈ったという。
三番目に建てたのが八並の石塔である。虎御前は小城の岩蔵寺で写経と
読経の毎日を過ごしながら余命を全うしたと伝えられている。

実は、私老眼鏡を忘れて今日のナビゲーターを家内に託していた。
地図では、Aコープを通らないで行くように書いてある。
療養所が目印だがそれが見つからない。
歩いていると多蛇古古墳があった。
前述したが武雄は「塚」が多いとのこと。
この古墳は、武雄でも大きい古墳だそうだ。

近くの人に聞きながらやっと療養所前にたどり着いた。
この療養所今は名前が変わり「新武雄病院」となっていた。

その道を歩いていると左側に阿弥陀仏六地蔵がある。地獄道、飢餓道、畜生道、修羅道、人間道、天上道と6体のお地蔵さんが立っていた。

そこから下っていくと閻魔大王石像がある。
閻魔大王の横の石塔も何か不思議な模様をしていた。

街道は、田園地帯に差し掛かった。
畑では、機械で麦踏をしている。
僕らの子供の頃は、足で踏んでいたが時代も変わるものだ。

享保橋から右に入ると「高橋」に入る。
その昔、高橋は、水運が盛んで「一(市)は高橋、二(荷)は牛津」と呼ばれていた。
道の両側には古い家が建ち並び一瞬タイムスリップしたかのようだった。
バス停には今でも「高橋宿」というのがあり祐徳バス、昭和バスが乗り入れ
している。
川の傍には火除地蔵があった。

時計を見ると4時7分。
今日は、道の間違いが多く峠を3つも4つも越えてきたから疲れた。
今日は、もうここまでにしよう。


※本日の交通費
駐車場代@400、JR肥前山口~JR武雄温泉@270
武雄温泉~嬉野温泉バス代@640、JR高橋駅~肥前山口@270













































長崎街道を歩いています№7(彼杵宿~嬉野宿)

2011-02-16 17:55:16 | 長崎街道歩き
(№6からの続き)
彼杵(そのぎ)宿は、千綿から約1,5kの所にあります。
34号線沿いに歩くと「鯨料理屋」さんの看板が立っています。
江戸時代このあたりは鯨漁が盛んだったのでしょう。

彼杵宿に着くとやたら千部塔、万部塔が見られます。
説明文を見てみると「江戸時代初頭、キリスト教の追放が強化され大村藩内仏教に
改宗が進められた。
明暦3年(1657)大村市内で隠れキリシタンが発見された「郡崩れ」で街道沿いや
集落の中に仏教徒の証として寛文4年(1664)に15基の宝塔が建立された。」と
記されています。

彼杵川の橋を渡ると日本二十六聖人乗船地跡の看板が立っています。
川沿いの道を海に向かって進みます。
その右手にこの記念碑はありました。
私たちが行った時には、ベールをつけた信者の方が30人ほど集まってミサが
行われていました。

この「日本二十六聖人」とは
「慶長2年(1597)2月長崎の西坂でキリシタン宣教師、信徒である理由で
処刑された日本最初の殉教者である。
スペイン人のフランシスコ会司祭ペドロ・バウチスタはマニラで布教の後
フィリピン総督の使節として1593年来日。肥前名護屋で朝鮮陣本営で秀吉と
会見するなど日比通商条約締結に努力したが、サン・フェリベ号入港事件を
契機とする豊臣秀吉のキリスト教禁教令強化により6人の外国人フランシス会、
18人の日本人修道が捕らえられた。秀吉は殉教者達を厳しく罰することで
人々への見せしめにしようと左の耳たぶを切り落としたり、鼻をそぎ落として
京都、大阪、伏見、堺の市中を引き回した。
1月9日堺を発った24人のキリスト教信者達は、堺、姫路、岡山、広島を通り
1月31日博多に到着。翌日肥前名護屋近くの村、山本で2人捕らえられ
26人となり長崎へと進んだ。やがて苦しいのぼりの道を超えて大村領の
俵坂峠にたどり着くと足元に湖のような静かな大村湾の素晴らしい景色が
広がっていた。そこで休息したペドロ・バウチスタは岩の上に腰を下ろして
黙想した。今、死地へ向かって進んでいる
然し、自分が全身全霊を傾けた布教が始まったばかりなのにそれを継ぐべき
同僚までも共に死んでいく・・・
ペドロ・バウチスタがすべてを捧げた仕事はガラガラと崩壊していくかに
思えてとめどなく涙が落ちた。
昼を少し過ぎた頃殉教者達は彼杵に行った。やがて殉教者のうち
フランシスコ会以外は皆手を縛られ彼杵の浜を降りるとそこには3艘の船が
繋いであった。それぞれの船に乗船させられた殉教者達は水路時津に向かった。
空には残月が光り始め岸のあちこちに漁村の灯火がまばたき船は単調な櫓の音を
響かせながら静かに水面を分けていった。翌2月5日26人の殉教者達は
長崎・西坂の地で処刑された。
1862年6月7日荘厳な祭典のうち教皇ビオ9世は西坂の26人の殉教者を
聖者の列に入れた。」
(日本26聖人乗船地跡説明文より)

彼杵の浜辺です。


元禄船着場跡
日本26聖人の碑を戻ると彼杵の港がある。
ここは元禄年間築港された港で江戸時代から明治にかけて長崎からの
商品や各地の産物を始め、五島近海で捕れた鯨もこの港に荷揚げ
されたあと九州各地へ運ばれていった。
そういえば、この港の倉庫に「鯨倉庫」というのがあった。

再び街道に戻ると追分石がある。
ここから長崎街道と平戸街道(佐世保方面)に分かれている。

彼杵宿本陣は、彼杵神社の
中にあった。寛永10年(1633)幕府巡見使の視察に併せ472坪の敷地に
五棟が造られ彼杵宿本陣として幕府の要人、大名が利用した。
明治13年(1880)この本陣跡に彼杵神社が遷座された。

彼杵宿脇本陣跡
当地で商業を営んでいた森家の一部を本陣の補助的な宿泊所として利用
されていたが、宝暦2年(1752)改築され脇本陣に指定され上級武士の
宿泊所として利用された。
現在は更地になっている。

その森家ですが、彼杵神社の横に「森英示翁頌徳碑」というのがある。
森英示氏は地元で酒造業をされていたが中央に出られ三楽オーシャンの
礎を作られた方である。体育館、役場用地などを寄贈されている。

街道は彼杵宿を出て今回街道の終点の「嬉野宿」を目指す。
嬉野宿まであと12km余り。
時間は3時40分をまわっており、5時半から6時までの到着を予定
しているので少し急ぎ足になる。
千部塔を抜け彼杵橋を渡る。

彼杵川沿いに歩き長崎道橋脚の下を通る。
愛宕神社鳥居、鞘原大明神を過ぎるとこの街道
名物の大楠跡に出る。

この大楠は、江戸時代長崎街道一といわれた楠の大木があり、シーボルトは
江戸に上る途中この木を測り周囲16.88m、直径5.347m、中は空洞で
面積14.577㎡、畳8畳敷きの広さで15人が座れると記録している。
この大楠は昔、弘法大師が田の畦に突き刺した杖から芽が出て枝を伸ばし
大木になったという伝説がある。
長年人々に親しまれてきた大楠であったが、明治20年代後半樟脳の原料に
するため切り倒された。その跡に1本の苗木を植えたところその脇から
もう1本の芽が出てどんどん大きくなり今ある姿になった。
大楠の生まれ変わりといわれている。

その二代目大楠がこれです。

大楠の横には「大楠小学校」が建っている。

小学校を抜けると山道に差し掛かる。
道が二手に分かれる。左は勾配のある坂道、右は緩やかな下り道。
さあ、どっちだろう?案内板もない。
ふと、左側を見ると松の苗木が植えられている。
長崎街道松並木再現という言葉を思い出し左の勾配のある道を進む。

途中鳥越一里塚がある。
江戸時代主要街道に一里塚が設けられたのは慶長9年(1604)以降とされる。
一里塚は街道の並木と違って修繕や築造についての指示はなかったようで
そのまま放置され、今残っているのはわずかである。
長崎県内ではこの鳥越一里塚がほぼその形態を保っている。

鳥越一里塚を出るとまた国道34号線に出てきた。
街道は、国道を行ったりすぐ脇道にずれたりしている。
時間もだいぶん経ってしまった。
立春を過ぎたとはいえ、暗くなるのが早い。
地図を見てみるとほぼ国道と平行している。
旧街道に入って若し迷ったりすると大変だからここは国道を歩いていく
ことにする。ただ、この国道、歩道がなく道路の端を歩いているが
車にも気をつけなくてはいけない。

16:57国道の県境に到着。
これから「佐賀県嬉野市」に入ります。
2年前だったか、シンクロの原田早穂さんが言ってたように
「長崎の皆様、有難うございました。」「佐賀の皆様こんにちは」と
言ってみる。

国道の県境を過ぎると領境石があります。
その横には俵坂番所跡がある。
この俵坂番所跡の説明によると
「江戸時代になると長崎街道として大村、佐賀両藩の藩境の要地となり
特にキリシタンの取締りが厳しかったといわれる。
敷地面積200坪、建物は間口4間(7.2m)奥行き7間(3.6m)の構えで
※注)7間というと12.6mですので看板間違っていると思います)
侍1名、足軽9名が監視にあたり通路には門柱が建てられその両脇には
竹の柵が巡らされていた。大名行列の際には番所役人は威儀を正して
平伏し送り迎えした。

陽もだいぶん落ちてきた。
遠くに嬉野温泉の灯が見える。
嬉野宿まであと少し。

17:57嬉野宿西構え口に到着。
江戸時代嬉野の町は平野部を蓮池支藩、山地側を佐賀本藩が管理しており、
長崎街道を通過する嬉野宿は蓮池支藩の支配でした。
宿場は当時嬉野湯宿、嬉野湯町とも呼ばれ宿場の東西端には街道に
町木戸を構え宿場の境界を示し、この場所を構口と呼んでいた。
構口の木戸には東口が和多屋別荘の本通入口付近と西側は大正屋入口
付近に建てられており宿場の長さは約500mで平時は監視する人も
扉もない木戸でしたが変事の時は防御地点となる重要な役目を持っていた。
宿場内には30軒余りの旅籠、木賃宿や商家など百軒程のわら屋根の家が
街道沿いに建ち並び宿場の中央には「豊玉姫神社」その隣に御茶屋、
人馬継立所、高札場等があり嬉野川沿いには藩営の温泉が設けられた。
又、長崎奉行などが宿泊する本陣は街道から300mほど離れた
瑞光寺が利用された。


構え口に到着後、本陣のある瑞光寺に行くともう陽が暮れかかっており
暗くて写真が撮れず写真は次回の街道歩きの時にしよう。
今回はここでゴール。万歩計を見ると51000歩になっていた。

ゴールのあと「シーボルトの湯」に直行。
温泉で足を伸ばし今日の疲れをとった。


※本日の旅費
博多~大村(特急代含む)4,200円
タクシー嬉野温泉~嬉野インター 820円
高速バス嬉野インター~福岡天神1,850円
お風呂代400円


















長崎街道を歩いています。№6(松原宿~千綿宿)

2011-02-10 08:19:17 | 長崎街道歩き
(前回№5からの続き)
郡川を渡り街道は左折している。
このあたりは、「寿古」(すこ)という地名らしい。
発電所前のバス停で国道に合流。
ふと目の前を見ると「寿古コーヒー園」の看板。
看板には「長崎はコーヒー伝来の地で江戸時代(寛永18年)オランダ人が長崎出島にコーヒー(南蛮茶)を
持ち込んだのが日本におけるコーヒーの始まりです。」と書いてある。

入場無料の温室内に入ってみるとコーヒーの赤い実がいっぱい。
係の方の話だとこの実から種を出しそれを焙煎してコーヒーにするそうです。
温室内には、ブーゲンビリアの花がたくさん咲いていました。
ここのコーヒーが飲みたくなり併設のレストランへ。
メニューを見るとランチもある。これにコーヒーが付いている。
時計を見ると12時15分前。お腹も減ってきたので私は「ハンバーグ定食」家内は「カレーセット」を注文。
店の方には悪いかもしれませんが、あまり期待はしていませんでしたが、食べてみるとこれが凄く美味しい。
家内のは、ほうれん草とチーズのカレーでしたが、このカレー深い味がする。
食事の後に出てきたコーヒーは、コーヒーの香りがしてとても美味しかった。飲んだ後も口の中にコーヒーの
香りが残っている。
また、街道のことをお店の女性の方に聞いてみるとご本人はご存知なかったが、すぐマスターでしょうか、
その方がやって来られ詳しく教えていただいた。旅をしているとこのような親切を受けると本当にありがたい。
このお店、従業員の教育も行き届いており気持ちのいいお店だった。近ければまた来るのに・・・・・

お腹もいっぱいになり再び街道を歩きます。
リンガーハットの交差点を左折すると松原宿に入ります。

松原宿は、大村、彼杵の中間にあり距離もどちらから来ても
10kmでした。ですから、本陣などなくお茶屋さんがあるぐらいでした。
昔は、大村の中心地がここ松原でした。
昔の庄屋跡には、松原小学校が建っています。
今、地元の方が「松原宿活性化協議会」というのを立ち上げられ地域の活性化活動を行われています。
その活動の拠点が「旧松屋旅館」です。
旅館に入ってみるとメンバーの方が今度の20日に行われるウオーキング大会の準備をされていた。

旧松屋旅館の向かえが松原宿茶店です。
ここでは、松原で造られた鎌、包丁などが即売されていた。
シーボルトが江戸参府で「鉄の槌で名高く武器、小刀、その他鉄製品を産出する。」と書いてますように
松原は、鍛冶屋さんの町でした。
手にとってみると製品は非常に良くまたお値段も良かったです。

この松原宿で有名なのがへこはずしというお菓子です。
ネーミングに魅せられこのへこはずしを見てみると「おこし」です。
もう300年の伝統があるそうです。
由来は、この「おこし」あまり美味しいので兵児がはずれたのも忘れるぐらいだったそうです。

伊東家住宅
鎌倉時代源頼朝の家来、工藤祐経は松原村100町歩を賜ったがその領地の別当として伊東家が下向し、
神社の管理、松原鎌の宗家となり、刀鍛冶を伝承した。「五色塀」が有名。

相撲取りの墓
街道のはずれに「相撲取りの墓」があります。
今、お相撲界がもめていますが、江戸時代ここからお相撲取りが出ました。
四股名は、「大荒鷺山」「秀の川」と記されています。

鹿の島(しかのしま)
この街道初めて海に出ました。ここは、鹿の島といって景観のいい所です。
案内板によると
「老松みどり映えた鹿の島」と呼ばれた。もとは浅瀬でつながれた古墳の島。
大正時代料亭があったが今はない。


街道は、松原宿を後に千綿宿に向かいます。
街道は、国道に入ったりわき道にそれたりしています。
長崎市内では、街道の標識がたくさんあり、地図を見なくても歩けたがやはりこのあたりに来ると
案内板が少ない。

彼杵はお茶でも有名。お茶畑の横を歩いていく。
右手には長崎道大村湾PAが・・・・
又海沿いの街道を歩いていると大村線佐世保行きの電車が通過する。

しばらく歩くと千綿宿に着く。
千綿は、商工業が発達し江戸末期には100軒以上の店があったという。
明治に入って鉄道が開通すると急速に寂れたそうだ。
また、この千綿は、大河ドラマ「龍馬伝」に出てきた大浦慶のお茶や農産物を出荷していた所でもある。
その大浦慶の商品を扱っていたお店が「旧土肥家」です。
今は、他の方の所有になっていますが、この一帯昔の町並みを残しているということで長崎県の
「まちづくり景観資産」に指定されている。

街道は、長崎県最後の宿「彼杵(そのぎ)」に向かいます。       
                                           (続く)




長崎街道を歩いています。№5(大村宿~松原宿)

2011-02-08 18:48:09 | 長崎街道歩き
2月6日
博多発6:02の特急かもめに乗り諫早へ。諫早から大村線に乗り換え前回ゴールの大村へ。
大村駅に着いたのが8:10。
先ず、大村駅から商店街をめざして歩き出す。
商店街はまだ早いのか開いているお店が少ない。この商店街の一角に「浦川豆店」というのがあります。
ここの「塩茹でピーナツ」が美味しくてお店が開いていれば是非買っていきたいのですが・・・・
私の日頃の行いがいいのか、「浦川豆店」はもう開いていました。
すぐ、「塩茹でピーナツ」と「殻付きピーナツ」をゲット。
お店の方と少しお話すると大村では給食の「筑前煮」などにこの塩茹でピーナツが使われているそうです。

お店をあとに前回ゴールの大村宿本陣(大村浜屋デパート)へ。
この本陣は、鯨長者「深沢義太夫」が寄進したそうです。建坪200坪の本陣だったそうです。

「脇本陣」は、アーケードの終った所にあった。

アーケードを抜けるとそこは「水主町(かこまち)」。昔水夫さん達が住んでいた町だそうだ。
そういえば、鯨長者が本陣の所でしたからやはり鯨の仕事だったでしょうか?

水主町、観音寺跡を過ぎると「杭出津町(くいでづ)」に入ります。ここは、昔からの家並みが多く、
「あんこ屋」さんなんか何か懐かしさがこみ上げてきます。

「追分石」を抜けて右の方に行くと本経寺があります。
ここは、大村藩主歴代の墓所。石屋さんの角を曲がるとずーっと続く百軒の白壁。

大村家は、中世から大村を治め江戸時代には大村湾一帯を統治した。27000石の大名となりこれが明治まで
続いた。
戦国時代末期、領主大村純忠は、日本の最初のキリシタン大名となり、領内のキリスト教布教を強力に支援したこと
から領民の殆どがキリスト教信者となり、領内の神社仏閣は破壊された。
秀吉、家康によりキリスト教禁教となり、大村藩は、藩の存続の為キリスト教の禁止と仏教の復興を行うことが
求められた。初代藩主大村喜前は加藤清正の薦めで日蓮宗への改宗を決め、肥後・本妙寺より日眞上人を招き
日蓮宗の布教と寺院の復興を行った。こうして最初に建立したのがこの「本経寺」だ。

大村家藩主のお墓を見ていると6mもある塔や五輪塔など私が今まで見た墓の中でもホント立派なお墓だった。

大村の歴史を見てみると郡崩れというのがある。
「1657年大村領内で「郡崩れ」という事件があった。これは、大村の郡というところに天草四郎の生まれかわりと
いう神童が現れその神童は、萱瀬の山奥に不思議な絵を隠し持って人々に布教しているというものだった。
これを人伝いに聞いた長崎奉行の黒川与兵衛は、約20数年前に起きた島原の乱のようなキリシタンを中心にした
一揆が起こることを恐れ、大村藩に命じて領内のキリシタンを摘発した。その結果、大村の郡村を中心に
キリシタン608人が捉えられた。このうち411人に斬首という処罰が下された。
翌年には411人の内131人が大村の放虎原で処刑された。そして長崎街道沿いの獄門所で131人の首を
塩漬けにして20日間ほどさらし首にした。そしてその後遺体が蘇らないよう首と胴体を別々にして
首塚、胴塚を作って葬った。」

妻子別れの石
大村で処刑されることになった131人は大村牢から200人の武士の厳しい警護をうけて斬罪所に連行された。
この信者達が家族との最後の別れを惜しみ水盃を交わした場所がここである。
地面に半分埋まっている石がこれにあたる。
言い伝えによるとこの石はとめどなく流れた悲しみの涙で濡れたので「涙石」と呼ばれ苔が生えないと言われている。

獄門所跡
聖母マリアと子どもの像があった。

胴塚跡
八坂神社の近くにあり、像は天空に向かって祈っています。

首塚跡
街道沿いの「カトリスーパー」の裏手に建っています。

この長崎街道(大村)を歩き、江戸時代こんな悲しい出来事があったなんてとても心が痛みます。
では、領主の大村純忠はどうしてキリシタンになったのでしょうか?
キリシタン大名は、島原の有馬、豊後の大友など昊海に面した領地です。
私見ではありますが、キリシタンになって諸外国との交易を有利にするためだったのでしょうか?

悲しみに沈んだ心を取り戻し再び街道を歩き始めます。
街道は国道34号線と合流しています。
道路標識には鳥栖まであと95kmの表示があります。今日のゴール地嬉野宿まではあと23km。
時間を見ると10時50分。だいぶん道草をしたので今日のゴール嬉野まで着けるだろうか?
特に彼杵から嬉野までは山道だし・・・・同行している家内と少し急ごうと話し合う。

右側に大きなお宮が見えてきました。
看板には昊天宮(こうてんぐう)と書いてあります。
この街道歩き、何か興味があるものを見つけると「折角だから」という言葉をよく家内と使います。
「折角来たんだし何でも見てみよう。今度はいつ来るかわからないし・・・・・」
これだから予定時間を大幅にオーバーするんですね。(笑)
今回も折角だからといって昊天宮に入っていきます。

この昊天宮 旧肥前国彼杵郡の大村藩総鎮守で、由緒を見ると
文明6年(1474)大村領主純伊候は島原の有馬氏との合戦で敗れ松浦の加唐島に潜居し7年も及びました。
この間日夜御祈願になりご自身本堂川において身を清め千日参拝すると誓願を立てられところ、伊勢参宮せよと
霊夢を得て参拝の途次援護者が現れ大勝利となって無事大村へ帰還されました。
この領主のご帰還を祝って領民が歓迎のため食事を振舞おうとしたが食器が足りず木箱に炊き立てのご飯を広げ
肴の切り身や野菜のみじん切りをのせ、更にそれを挟むように飯や具をのせた押し寿司を作り、兵が脇差で
四角に切って食べたのが大村寿司の始まりです。


再び街道を歩く。
街道は国道に入ったり少し出たりする。
郡川の手前長崎惣兵衛の墓がある。
長崎惣兵衛は、玖島城(大村城)築城の時の奉行を務めた。

長崎惣兵衛の墓を過ぎると郡川がある。
川を見ると飛び石になっている。
昔は飛び石で渡っていたのだろうか?
私も渡って行こうかなと思ったが、すべりでもして怪我したら嬉野までは行けないので
福重橋を渡っていった。
ここから「松原宿」に入ります。











九州観光マスター

2011-02-01 14:57:36 | 日記
ブログ友達のRさんが、大阪検定、京都検定、兵庫検定と立て続けに受検されている。
わが町にそんな検定は、ないかな?と探してみると「九州観光マスター検定」というのがあった。

ウオーキングで各地に行くと色々な史跡や名所にふれることが出来る。
歴史の教科書にも載っていないものもたくさんある。
一つここは、また学生時代に戻り、勉強してみようと思う。

3級の検定試験は、3月6日だが、それまでマスターできるかな?