よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

日光街道(奥州街道)№13「雀宮宿~宇都宮宿」(栃木県宇都宮市)

2021-11-25 20:35:28 | 奥州街道(日光街道)

11/9(火)歩き旅6日目

今日は、昨日日没で終了した宇都宮市SUBARUから宇都宮宿、できれば日光道中も歩きたいと思ってましたが、朝から雨です。

天気予報を見ても終日雨の予報です。従って予定を変更し雨の中SUBARUから宇都宮宿まで歩きます。ポンチョを着て傘をさしてのウォーキングです。

バスでSUBARUまで移動しウォーキング開始。

JR日光線の跨線橋を渡ります。

   

不動前交差点のほぼ中央に「不動堂」があります。宇都宮朝綱が造立した不動明王が安置されています。傍らの昭和3年(1928)建立の道標には、「正面東京に至る 右奥州街道及び

日光街道 左裁判所前に至る」と刻まれています。

江戸時代初めの頃、宇都宮城主本多正純は、日光街道と奥州街道を付け替えました。その時、旧奥州街道と奥州街道の分かれ目にあったのが不動明王を祀った不動堂です。

江戸方面から来る旅人にとっては、宇都宮に入る目印となっていました。不動堂は、初めこの場所より東方(旭陵通りを少し入った辺り)にありましたが、後にここに移されました。

今でも不動前という地名があるのは、この不動堂に由来するものです。

 

東武宇都宮線のガードを潜ります。この辺りが宇都宮宿の江戸口(南口)で木戸、土塁、番所があり、明六つから暮六つ迄通行が許可されました。

東武宇都宮線を渡るとすぐ右側に「蒲生君平勅旌(ちょくせい)碑」があります。勅旌碑には、「勅旌忠節蒲生君平里」と刻まれています。

明治2年12月明治天皇は、蒲生君平の著した書物や行いが明治維新に大きな功績があったとして「君平の人となりはまことに立派であるからこれを広く天下に表して、庶民に知らせるように」と

勅命を下しました。そこで、当時の宇都宮藩知事の戸田忠友が奉行となり、宇都宮の入口に「この地が蒲生君平の里である」という碑を建てました。

蒲生君平は、明和5年~文化10年(1768-1813)名は秀実(ひでざね)通称は伊三郎  号は修静庵  字は君平・君臧

宇都宮の新石町(現・小幡1丁目)の燈油商に生まれました。父の名は福田正栄(又右衛門)父の死後、兄が家業を継ぎました。

6歳のとき、延命院で住職の良快和尚から読み書きを教わり、その後、鹿沼の儒学者鈴木石橋(せっきょう)や黒羽藩家老鈴木為蝶軒(いちょうけん)に師事しました。幼いころ、

祖母より先祖が会津城主蒲生氏郷(うじさと)であることを教えられ、成長してから自ら姓を蒲生と改めました。

足利学校が興廃していると聞き、寛政5年(1793)に当時の庠主・青郊を助けて、その復興にも尽力しました。

藤田幽谷、林子平、高山彦九郎と交友があり、享和元年(1801)に吉祥寺の近くに学塾「静修庵」を開き、文筆活動に励みました。

寛政8年(1796)から同9年と、寛政12年(1800)の2回、荒廃した天皇陵を調査して享和元年(1801)には『山陵志』を完成させ、文化5年(1808)にそれを出版しました。

その中で、はじめて「前方後円」墳という名称が使われたのです。

宇都宮藩の藩校・修道館の設立に参画していたとみられ、昌平坂学問所主宰・林述斎にも師事しています。

文化10年7月5日、江戸で没しました。46歳でした。谷中(現・東京都台東区)の臨江寺(りんこうじ)に葬られましたが、後に宇都宮の桂林寺に分葬されています。

著書に『不恤緯(ふじゅつい)』、『山陵志(さんりょうし)』、『職官志(しょっかんし)』、『今書(きんしょ)』、『皇和表忠録(こうわひょうちゅうろく)』があります。
蒲生君平、林子平、高山彦九郎の三人は「寛政の三奇人」と呼ばれています。(宇都宮の歴史と文化財より引用)

私たちが古墳を見て「前方後円墳」「円墳」などと区別していますが、蒲生君平は、二度にわたる近畿地方(きんきちほう)・四国地方(しこくちほう)への古墳調査を行い、

数多くの天皇陵を調査し、その調査結果を『山陵志(さんりょうし)』にまとめました。君平は、古墳を訪ね歩き、地元での聞き取り調査を丹念に行いました。
特に地名について念入りに調査した結果、「車塚(くるまづか)」の名が多いことがわかり、古墳は死者を運ぶ車をかたどったものと考えるようになりました。
そのため、前方部を車を引く取っ手の部分、後円部を柩(ひつぎ)を乗せる台座の部分、中間の左右にせり出した部分を車輪と想定し、「前方後円墳」とする考えに至ったそうです。

 

 

新町の大ケヤキ・・・樹齢八百年で県天然記念物でしたが、平成25年(2013)の台風で半倒壊し、伐採されました。九州では巨大な楠が多いのですが、関東はケヤキなんですね。

 

台陽寺:曹洞宗西原山。慶長10年(1605)の創建。墓所には戊辰戦役で戦死した宇都宮藩士の墓があります。参道の「子安地蔵尊」は宇都宮藩主戸田氏の守り地蔵尊でした。

   

熱木(ねぎ)不動尊:康平2年(1059)初代下野国司宇都宮宗円が奥州征伐の戦勝を祈願して掘った不動尊を祀っています。宇都宮城乾の守護仏でした。

 

歌橋町:昔、この辺りに住まいした者の歌が万葉集に載ったのが地名の由来です。ここには、宇都宮城の木戸口があり番所が置かれました。

一向寺:応永12年(1405)宇都宮十二代城主満綱が造立した銅造阿弥陀如来坐像は、「汗かき阿弥陀」と呼ばれ、異変が起こる前に汗をかいたといわれています。

  

街道の途中には、旧町名の説明版が置かれています。

茂破町:この付近は、宇都宮城主本多正純が日光街道を開くまでは、竹藪や雑草の生い茂る原野であった所を「茂を破って」町づくりをしたことから「茂破町」と呼ばれるようになったそうです。

江戸時代には、二のつく日に市が立ち賑わいました。明治時代初めになって茂登町と改められました。

挽路町:元和5年(1619)宇都宮城主本多正純が日光街道の付け替えを行った時、付近の道を西側に引いて町をつくったので挽路町という名が付いたといわれています。

江戸時代には、二のつく日に市が立ち賑わいをみせていました。

材木町:この付近は、宇都宮城の北西に位置する町人町で、特に藩の御用材を商う材木問屋が軒を並べていたことが町名の起こりだといわれています。町の中ほどから東の城内へ通じる道には

不明門と呼ばれた木戸番所がありました。

   

街道は、宇都宮の中心部にやってきました。

 

宇都宮宿は、二荒山神社の門前町として栄え、地名は下野国「一の宮」や奥州攻めの源氏勢が戦勝祈願をした「討つの宮」を地名の由来としています。

その後、宇都宮藩の城下町として発展し、主要街道の要衝、そして鬼怒川の舟運によって江戸と結ばれ、日光道中一番の賑わいでした。天保14年(1843)の日光道中宿村大概帳によると、

宇都宮宿の家数は、1219軒、うち、本陣2,脇本陣1,旅籠42軒で宿内人口は、6457人でした。

本陣は、上野本陣。建坪191坪余で門構え玄関付でした。問屋を兼ね、貫目改所が置かれていました。現在は、大イチョウだけが残っています。

もう一つの本陣の「石塚本陣」は、池上町のみずほ銀行あたりにあったといわれています。

本陣の少し先が日光街道、奥州街道の追分です。

  

日光街道を少し入った所に蔵造りの商家があります。㈱上野で油を扱い、副産物の油粕を肥料として農家に販売していました。上野本陣と同じ名前ですので何か関係があるのかな?

 

本来なら、ここから日光を目指す予定でしたが、この雨でもうシューズにも水が入りつつあります。

もう日光は、止めてここから奥州街道を歩こうと思います。

 

二荒山(ふたあらやま)神社:祭神は、豊城入彦命、相殿が大物主命、事代主命。

二荒山は県都宇都宮市のほぼ中央にあります。昔は小寺峰(現在社殿のある臼ヶ峰の南方・馬場町交番付近)と臼ヶ峰の二峰を持った小高い荒山でした。山姿からして瓢型の墳墓であったと言う

学者もいます。江戸時代に街の割替えが行われ、山は二分され真中に道路が設けられて、小寺峰は次第次第に削られ今日その原形を全く失い、標高約130mの臼ヶ峰のみが残っています。
二荒山神社は大変歴史が古く、第十代崇神天皇の御代に遡ります。当社は何度も火災にあい、近世に入ってからも天正13 年、安永2 年、天保3 年、更に明治維新の戊辰の役と4度もあって

古い記録のほとんどが焼失しています。現在残っている社記には、第16 代仁徳天皇の御代に毛野国が上下の二国に分けられ、御祭神豊城入彦命の四世孫奈良別王が下毛野国の国造に任ぜられます。

この時、祖神である豊城入彦命を荒尾崎(下之宮)に祀ったのが始まりで、その後承和5 年(838)に現在の地、臼ケ峰に遷座されたと伝えられています。
延長5 年(927)に政治のよりどころとして完成した延喜式・神名帳には「下野國河内郡一座大 二荒山神社 名神大」と記載があります。栃木県内唯一の名神大社として「お明神さま」

「ふたあらさん」の名で広く親しまれ、篤く崇められてきました。平安から鎌倉時代には各々の国で最も格式が高いとされる神社を一之宮としました。二荒山神社もまた「下野国一之宮」と

よばれ、宇都宮という地名はこのイチノミヤが訛ってウツノミヤになったという一説があります。
宇都宮はこの二荒山神社を中心に、平安・鎌倉時代には神社の門前町として発展し、江戸時代には城下町として繁栄しました。 北関東の経済・文化の中心都市として発展した現在でも、

お正月や七五三など暮らしの節目にたくさんの市民が参拝に訪れます。
また、 宇都宮市の多くの祭りが二荒山神社に由来しており、 神輿が担がれる盛大なお祭りに地域は賑わい活気に満ちています。(宇都宮二荒山神社HPより)

 

日光にも「二荒山(ふたらさん)神社」があります。私は、同じ系統と思ってましたが、全然別の神社なんですね。

日光二荒山神社は、霊峰二荒山(ふたらさん・男体山)⇒標高2,486㍍を神の鎮まり給う御山として尊崇したことから、御山を御神体山と仰ぐ神社で、日光の氏神様でもあります。

  

宝蔵寺:本尊の普賢菩薩坐像は、文和3年(1354)の造立。鐘楼門の「およりの鐘」は、宇都宮八代城主貞綱が寄進したものです。

  

篠原家は戦後まで醤油醸造業、肥料業を営んでいました。嘉永4年(1851)築の石蔵や明治28年(1895)築の店蔵は国指定重要文化財です。

雨の中、どうにかJR宇都宮駅まで歩いてきました。

  

次回は、いつになるかわかりませんが、奥州街道としてとりあえず白河宿まで歩いてみたいと思ってます。

 

 


日光街道(奥州街道)№12「小金井宿~石橋宿~雀宮宿」(栃木県下野市~宇都宮市)

2021-11-24 18:42:32 | 奥州街道(日光街道)

№11からのつづき。

下野市役所から旧道を歩きます。

  

道中「パパイアの木」を見かけました。南国でもないのに栃木で見るとは、正直びっくりしました。

「下石橋の一里塚」は、標識は立っているのですが、どこにあったかは不明です。

右側のとんかつ屋さんの横に「長屋門」があります。これは下総関宿(せきやど)藩の門を移設したそうです。

  

丸大食品正門に大きな「慈母観音像」が立っています。理由はわかりません。

その先、夕顔橋の所には、10体の石仏が立っています。夕顔橋の石仏群というそうです。

  

本町の信号の先に愛宕神社がありましたのでここで休憩します。

 

愛宕神社には、「二十三夜塔」「勝善神(そうせんしん)」の石碑があります。

二十三塔とは、陰暦の23日の夜に人々が集まって神仏を祀り、飲食を共にしながら月の出を拝み、その信仰の深さを形に表す為に造立した塔です。

勝善神とは、蒼善神とも書き、馬の神を祀ったものです。主に関東、東北地方で信仰の対象でした。

 

石橋宿の本陣跡は、現在の伊沢茶舗にありました。脇本陣は、伊沢写真館でした。(写真撮り忘れました)

石橋の地名は、池上明神前の石橋に由来します。宿は、幕府領で代官北条雄之助が支配しました。天保14年(1843)の日光道中大概帳によると宿内家数は、79軒。

うち本陣1,脇本陣1,旅籠30軒、宿内人口は、414人(男192人、女222人)で干瓢、瓢箪細工が名物でした。

旧石橋町は、グリム兄弟の出身地のドイツ・ヘッセン州にある旧シュタインリュッケン(ドイツ語で石橋)と姉妹都市です。

石橋地区は、「グリムの里」として街づくりを行い、駅の北北西1,5kmには、グリムの森、グリムの館があります。

街の中には、メルヘンチックな街灯、駅には、時計台が立っています。

  

開雲寺は、将軍日光社参の際、「御殿所」となりました。慶長9年(1604)幕府から寺領7石を賜り、葵の紋の使用が許されました。

  

先を行きます。「石仏石塔群」があります。このうち「十九夜塔」は、女の人を助ける如意輪観音のことです。主に安産の神様として地元の人たちの進行を集めています。

毎月旧暦の19日の夜に地区の女の人が十九夜様のまわりに集まって灯篭や蝋燭、線香などを上げました。そして十九夜念仏を唱えてお産が軽く済むよう祈ったそうです。

この近くには、近くで採れる大谷石を使った蔵や家の壁が目につきます。

  

河内郡上三川町(かみのかわまち)に入りました。上三川町は、現在河内郡の中で唯一の自治体です。

 

鞘堂地蔵尊は、康暦2年(1380)小山宇都宮の戦い(茂原合戦)で小山義政が宇都宮基綱を破りました。村人が戦死者の鞘を拾い集め、ここに埋葬し堂を建て石造地蔵を安置しました。

八代将軍吉宗日光社参の際に休息所となりました。

 

星宮神社は、鞘堂新田村の鎮守です。人々の背負う星々(一生)を守護しています。

街道は、宇都宮市に入りました。

  

  

雀宮(すずめのみや)宿は、日光道中の整備に伴い、雀宮村が開かれ宿駅になりました。天保14年(1843)の日光道中大概帳によると雀宮宿の宿内家数は、72軒、うち本陣1,

脇本陣1,旅籠38軒で宿内人口は、268人(男138人、女130人)でした。

本陣は、小倉半右衛門が勤め、名主、年寄を兼ね、建坪は115坪でした。小倉家は宇都宮氏の家臣として二万石を領しましたが宇都宮氏が没落するとこの地に土着しました。

本陣は、現在ありませんが、酒屋さんの前に石碑が立っています。

脇本陣は、芦谷治左衛門が勤め、名主、年寄を兼ね、建坪は94坪余でした。明治14年(1858)明治天皇奥州巡幸の際、休息所となりました。

現在でも門構えや式台等を残しています。

  

仮本陣の先の方に雀宮の地名の由来になった「雀宮神社」があります。長徳3年(997)八幡太朗義家の創建されました。歴史と趣のある神社として、地元民に敬愛されています。

この地域を治めていた宇都宮氏の信仰は篤く、雀宮神社を、城を守る四神の内、南の『朱雀』と位置づけ、城主がしばしば遠乗りをしてお参りに来たそうです。皇族である御諸別王を

祭神としていることから、1713年(正徳三年)東山天皇から金文字で『雀宮』と書かれた勅額が掲げられていたため、日光社参をする将軍家をはじめとして、諸大名は下馬して参拝したと

伝えられています。

雀宮由来】百人一首の歌人藤原実方が陸奥守として任地に赴任すると、妻の綾女が夫のもとに向かいましたが、この地で病死してしまいました。夫も任地で死亡しましたが、

霊魂が雀となって飛来し、綾女塚の上まで来て息絶えました。里人が憐み塚上に綾女神社を祀り供養しました。

また、このような民話も残されています。昔々、食っては寝てを繰り返すばかりで、仕事もせず怠けている男がいた。ある日、村人は男を少し懲らしめてやろうと、針の入った饅頭を男に与えた。

男が饅頭を食べると、針でお腹が痛くなった。しばらく苦しんでいると、雀がニラをついばんでいるのを見つけた。珍しがって見ていると、雀の糞から縫い針が出てきた。

男は雀を真似てニラをたくさん食べると、お腹から針を出すことに成功した。これ以来、男は改心して働き始め、雀に感謝してお宮を建てた。これが雀宮の由来なのだと。

 

雀宮神社の所が東京から100kmの地点です。私の日光街道は、旧道を廻ったり、寄り道をしたりしているので100km以上にはなっていると思います。

「一里」という信号の所に江曾島の一里塚があったそうですが、東北線施設のため取り壊されたそうです。 

  

時間は4時半を過ぎたばかりですが、だんだん暗くなってきました。まだ九州では明るい時間です。(1時間ぐらい違うのかな?)

先を急ぎます。国道4号線もこのあたりから「東京街道」という名称に変わりました。

 

SUBARUの所に来るとまだ5時前ですが、もう真っ暗です。暗い中歩くのは危険ですので今日はここで終わりにします。

  

ちょうどSUBARUの所にバス停がありましたのでここからバスで宇都宮駅に帰ります。

 

 


日光街道(奥州街道)№11「小山宿~新田宿~小金井宿」(栃木県小山市~下野市)

2021-11-22 09:03:45 | 奥州街道(日光街道)

11/7 日本スリーデーマーチが行われた埼玉県東松山市から宇都宮に移動してきました。台風の影響やコロナ禍で歩けなかった「日光街道」を2年半ぶりに再開します。

11/8(月)宇都宮から前回ゴール地の小山駅へ。小山駅は、学生さんの姿が多くみられます。駅の近くに白鳳大学があるからでしょうか?駅前には白鳳大学のスクールバスが止まっています。

駅前本町の交差点を右へ。これから宇都宮に向かって歩きます。

結城街道は、水戸城下と奥州街道の小山宿を結ぶ街道で、街道沿いには、笠間藩の藩庁が置かれた笠間城、下館藩の藩庁が置かれた下館城、結城藩の藩庁が置かれた結城城の城下町を結んだ

ことから参勤交代でも利用されて重要視されました。人や物資の往来も多く、各宿場町や城下町も繫栄しました。

  

興法寺は、嘉祥2年(849)創建の古刹で本尊は阿弥陀三尊。元は小山城内にあり、小山氏代々の祈願寺でした。境内の地蔵尊には、戊辰戦「小山の戦い」の碑弾痕があります。

   

蛸屋総本店は、元禄11年(1698)創業のお菓子屋さんです。まだ、開店前なのか、静かでした。先を行きます。両毛線の踏切を越えます。両毛線は、小山から新前橋まで結ぶJRの路線です。

 

日枝神社のケヤキは、樹齢400年以上です。

  

喜沢の交差点に来ました。昔は、ここに立場茶屋がありました。男體山の下に「右奥州、左日光」の文字が刻まれています。裏に行くと、馬頭観音、日清、日露、日支出征馬碑があります。

  

喜沢の信号から旧道に入ります。喜沢の一里塚は、ホテルの向かい側にあるとガイドブックに書いてますが、説明看板もなく、このあたりと推測してみました。

 

旧街道は、東北新幹線沿いに歩きますが、途中、工事中で4号線の方に迂回します。

新田(しんでん)宿」は、江戸日本橋から数えて13番目の宿場。日光街道の中でも最も小さな宿場でした。現在は栃木県小山市羽川に相当します。

天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、本陣は1軒、脇本陣は1軒設けられ、旅籠が11軒(大2、中4、小5)ありました。

宿内の家数は59軒、人口は244人(男127人、女117人)でした。

  

本陣は、青木本陣。本陣の近くの民家には、昔の屋号が付けられています。

 

  

下野(しもつけ)市に入りました。下野市は、2006年(平成18)河内郡西河内町、下都賀郡国分寺町、下都賀郡石橋町が合併して「下野市」が誕生しました。

 

小金井一里塚:江戸日本橋より22里目。保存状態が良く、日光街道で唯一、国指定史跡です。

  

領主陣屋跡:現橘屋菅井製菓。この地を領した下総佐倉藩の出張陣屋跡です。代官を務めた大槻氏の位牌を残しています。

その隣には、「俳諧の句碑」が立っています。この碑は、文化4年(1807)に小金井宿蔵田屋(大越家)の屋敷内に建てられた俳諧の句碑。

句碑の一面には、慈眼寺三十世住職である宣照による四季の発句と江戸談林俳諧の頂点にあった、谷素外の発句の下に小金井宿俳人12人の発句が刻まれています。

  

慈眼寺は、建久7年(1196)新田一族の祈願寺として創建された真言宗の古刹です。本尊は、勢至菩薩。境内には、御成御殿(御座所)がありました。

日光社参の将軍は、ここで昼食を摂りました。

  

慈眼寺の隣には、「金井神社」があります。小金井宿の鎮守です。

小金井という地名は、近くに小金井という湧水の池があり、旱魃(かんばつ)の時にも枯れることがありませんでした。池の中から黄金が出てきたという伝承に由来します。

この井から「金井村」という村名が生じ、のちに小金井村になりました。

小金井宿」は、延宝9年(1681)宿の西側にあった金井村を移住させて宿駅としました。天保14年(1843)の日光道中宿村大概帳によると、小金井宿の宿内家数は、165軒、

うち、本陣1,脇本陣1,旅籠43軒で宿内人口は、767人(男374人、女393人)でした。

本陣は、大越家が務め、本陣門を残しています。

 

 

蓮行寺は、元徳元年(1329)の創建、足利尊氏の古文書が所蔵されています。宇都宮藩主は、当寺に控え、日光社参の将軍を出迎えました。

薬師堂の本尊は、行基作「木造薬師如来立像」でしたが、今は、慈眼寺に保管されています。

 

歩いていると、桑の木があります。この地でも蚕を飼っていたのでしょうか?

  

先の方に下野市役所が見えてきました。ここで休憩します。

  

                                                               「石橋宿~雀宮宿~宇都宮宿」につづく

 

 

 

 


日光街道№10間々田宿~小山宿(栃木県小山市)

2019-06-07 19:42:36 | 奥州街道(日光街道)

№9からの続きです。間々田の町を歩くと「間々田のじゃがまいた」の文字が目に入ってきます。

              

  

じゃがまいた」というのは、「田植えの時期を前に五穀豊穣と疫病退散を願い行われる。祭りの日には、「蛇がまいた、蛇がまいた、4月8日の蛇がまいた」という、子どもたちの掛け声が町内に響き、竹、ワラ、藤ツル、

シダなどで作った15mもある竜頭蛇体が町内を練り歩く。国選択無形民俗文化財に指定されている。かつては旧暦の4月8日に祭りを行っていたが、祭りの担い手が子どもである為、学校が休みの

5月5日(こどもの日)に行われるようになった」。

祭りの舞台となる「間々田八幡宮」へ。

 

 

境内には、芭蕉の句碑古池や蛙飛込む水の音」が建っています。松尾芭蕉は、奥の細道の旅の二日目に間々田宿に宿泊しました。もちろんこの句はこの場所で読まれたものではありませんが、その見事な筆致により、多くの方が拓本を取りに来られます。 句碑裏には、『地元の名士であった田口久七は、北越遊歴中に病に倒れた際に、当八幡宮を心に浮かべて一心に祈ったところ、病たちまち癒え、無事故郷に帰ることができた。このことを後世に伝えるため、この句碑を奉納した』と書かれています。嘉永6年(1853年)奉納。

力石 :重さ二十八貫(約110Kg)の力石。大正2年に神社から持ち去られた石を、3人の力自慢が友沼宿から一度も地上に下ろさずに持ち帰ったと伝えられています。 このほか、弁天島の松の根元には三十八貫の力石があります

  

じゃがまいた祭りの写真は下記です。朱印もいただきました。

  

再び街道に戻ります。千駄塚古墳は、思川の東側の台地に築かれた古墳です。径70m高さ10mの円墳で2段に築かれ、墳丘のまわりには幅20mの堀がめぐらされています。円墳としては、県内でも指折りの大きさです。古墳の上に浅間神社がまつられていることから、別名浅間山古墳ともよばれています。

西堀酒蔵は明治5年(1872)創業。酒造は国登録有形文化財です。純米酒の「愛 米 魅(あいまいみー)」はいいネーミングですね。

  

安房(あわ)神社:遠い昔千葉県館山市の安房神社を祀る人々の一部が良き土地を求めてここに永住し、神を祀り、粟の栽培をしたと言われています。主祭神は、天太玉命・莵道稚郎子です。

天慶2年(939)藤原秀郷が平将門討伐に際し、戦勝を祈願して守護神とした。小山氏や古河公方の信仰が篤かった。境内の「モミの群落」は市天然記念物です。

 

 

 

天満宮辺りが、小山宿江戸口(南口)でした。

空が暗くなってきた。今日のゴール小山駅まではもうすぐですので少し先を急ぎます。

「小山評定」で有名な「須賀神社」に行ってみます。

小山評定:、徳川家康は、慶長5年(1600)7月24日、上杉景勝を討伐するために会津(福島県)に向かっていた途上、下野国小山に本陣を置きました。その時、石田三成挙兵の報が入り、翌25日、

急遽家康は本陣に諸将を招集して軍議を開き、「このまま上杉を討つべきか、反転西上して石田を討つべきか」を質したのです。これが世に言う「小山評定」です。家康に従う諸将のほとんどは豊臣家譜代の武将で、

大坂に妻子を残してきており、その去就が家康にとっては興亡の境目だったのです。 このとき、尾張国清洲(愛知県)城主の福島正則が家康のために命を投げ出すことを誓い、続いて遠江国掛川(静岡県)城主の

山内一豊が、「家康に城を明け渡してまでもお味方します」と進言しました。一豊らの建議が諸将の気持を動かし、家康支持で固まったのです。家康は特にこの時の一豊の建議を、「古来より最大の功名なり」と

激賞しました。 こうして家康率いる東軍は、石田三成討伐のため西上することに決したのです。   そして9月15日、美濃国(岐阜県)関ヶ原に東西両軍約20万の大軍が相まみえて天下分け目の一大決戦が行われ、

東軍が勝利したのでした。関ヶ原の戦の直接の勝因は西軍小早川秀秋らの土壇場での寝返りでしたが、西軍が当初から足並みが揃わなかったのに対し、東軍は結束しておりました。

東軍にこの結束をもたらしたのが「小山評定」でした。 もし、「小山評定」が無かったならば、東軍は結束することができたでしょうか。このようにして見ると家康が勝利を収めることができたのは関ヶ原の戦であっても、

その栄光の道筋は、小山から始まったといっても過言ではないでしょう。 「天下分け目の関ヶ原の戦」と良く言われておりますが、実は、「天下分け目の小山評定」だったのです

   

  

長い参道を戻ってきて再び街道を歩きます。

小山宿】小山は壬生通り、結城道、佐野道が集中する要衝で賑わいました。天保14年(1843)の日光道中宿村大概帳によると、小山宿の宿内家数は、423軒、うち本陣1、脇本陣2、旅籠74軒で

宿内人口は、1392人(男636人、女756人)でした。

 

 

14:52今日のゴール小山駅に着きました。何とか雨には遭わずにすみました。

 

5/1のGPS。日光街道も半分を歩きました。次回は11月ごろ予定します。

  

 


日光街道№9古河宿~野木宿~間々田宿(茨城県古河市~栃木県小山市)

2019-06-06 19:20:25 | 奥州街道(日光街道)

令和元年5月1日(水)今日から新しい元号「令和」です。8:15古河のホテルを出発し令和初めてのウォーキング開始です。

古河の街道には、古河市出身の大老「土井利勝」や街道上に松並木を植えた江戸初期の古河藩主「永井直勝」の業績を掲げた案内板が建っています。

金刀比羅宮は、文化11年(1814)建立。平成18年(2006)未明類焼、平成19年(2007)再建しました。幸福神として信仰されています。

   

道標:文久元年(1861)太田屋源六が願主となり、常夜灯型式の道標を八百屋儀左衛門他11名によって建てられました。古河市の指定文化財です。

  

よこまち柳通りに入ります。左側には、「古河提灯竿もみ祭り発祥の地碑」があります。

かつて古河領だった野木神社の神官が神領をまわる「七郷めぐり」を終えて帰ってくるのを、提灯を持って出迎えた人たちが寒さをしのぐために身体を揉み合ったのが始まりと言われ、現在も「おかえり」と呼ばれて人々に親しまれています。古河駅前の特設会場には丸太を組んだ矢来と呼ばれる囲いが作られ、その中で長さ20m近い竹竿の先につけた提灯を20人ほどの若者が支えて、激しくもみ合いながら相手の提灯を消し合います。提灯がぶつかって火の粉が飛び散り、勇壮で迫力のある光景が広がります。毎年12月最初の土曜日に行われるそうです。

   

古河宿北口(日光口)には、燈籠が建っています。この一帯「松並」という地名ですが、昔の中田の松原がこのあたりまであったのでしょうか?

  

塩滑地蔵菩薩:地蔵尊に自分の患部と同じところに塩を塗ると霊験あらたかという。

国境:このあたりが、下野(しもつけ)国(栃木)と下総(しもふさ)(茨城)の国境ですが、案内板もありませんでした。昔は、西側に大榎があったそうです。

余談になりますが、九州育ちの私にとって下野国や下総国の位置関係がどうもちんぷんかんぷんです。調べてみると、

総の国」は、現在の千葉県を主たる地域とし、茨城県・東京都の一部にわたる律令(りつりょう)制以前の旧国名。『古語拾遺(こごしゅうい)』によると、天富命(あまとみのみこと)が阿波(あわ)(徳島県)地方の斎部(いんべ)をこの地に派遣し麻(あさ)・穀木(かじのき)(クワ科の高木)を植えさせたところよく育ったので総国(ふさのくに)と名づけたという。総とは麻の意味と伝える。7世紀後半から末にかけて上総(かみつふさ)・下総(しもつふさ)の二国に分割された。さらに、718年(養老2)に上総(かずさ)国の平群(へぐり)、安房(あわ)、朝夷(あさひな)、長狭(ながさ)の四郡を割いて安房(あわ)国を分置した。房総地方に相当する地域である。

毛の国」上野,下野両国の古称。「けの」とも読む。古代の氏族,上毛野君,下毛野君の根拠地。現在の群馬,栃木両県にあたる。毛野国は最初,上毛野と下毛野の両国に分れ,次いで和銅6 (713) 年,上野 (こうずけ) ,下野 (しもつけ) の2字の国名に改めた。毛とは、作物や木を意味するものだそうです。

 

街道は、下野国へ。4号線と交差する手前に「野木神社」の鳥居があります。ここは、3年前「古河まほろばの里花桃ウォーク」で行ったことがあります。確か、「二輪草」の群生地があったとか・・・・・

  

二輪草は、もう盛りは過ぎていましたが、まだ何輪かお花が残っていました。

境内を覗くと大きな木の周りに望遠レンズを備えたカメラマンの方が10人ぐらいでしょうか、おられます。聞いてみると、木の上に「フクロウ」がいるそうです。私もコンデジではありますが、撮ってみました。

時には、子育てをしているフクロウを見ることができるそうです。

  

 

野木神社には芭蕉の句碑がありました。「一疋の はね馬もなし 河千鳥

   

国道4号線沿いに歩きます。野木宿木戸跡という看板があります。ここが野木宿の江戸口でした。昔は、土塁と矢来柵がありました。

野木宿:野木宿の西を流れる思川には、野渡河岸、友沼河岸があり。江戸との舟運が盛んでした。天保14年(1843)の日光道中宿村大概帳には、野木宿の宿内家数は、126軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠25軒で

宿内人口は527人(男271人、女256人)でした。本陣は熊倉七郎右衛門が勤め問屋も兼ねていました。建坪は157坪。

本陣の向かいには、脇本陣があります。熊倉兵左衛門が勤め、建坪は132坪でした。今でも熊倉氏が住んでいます。

   

大平山道標は、「思川の渡し」を越え、日光例幣使道の栃木宿太平山神社に至る。「日光山近裏道」と呼ばれていました。

  

二十三夜は、旧暦23日の月待(つきまち)行事の一つで、全国に広く行われている。毎月行っている所もあるが、いちばん多いのは1、5、9月の3回に行っている例である。11月23日は大師(だいし)講の日なので、

この日も広く行われている。土地によっては二十三夜は男だけで、女は二十二夜にしている所もある。二十三夜の月は出が遅いので、当番の家に集まって簡単な酒肴(しゅこう)を前によもやま話をして待つ。

二十三夜講をつくっている所では二十三夜塔という記念碑を立てている例もある。二十三夜の月のさまを見てその年の作物の豊凶を占っている土地もある。

 

野木宿には、旧家の長屋門が残っていました。建物自体は新しいのですが、何となく昔を感じられました。

  

法音寺には、芭蕉の句碑があります。「道ばたの むくげは馬に 喰れけり

 

 

  

栃木県小山市に入りました。

  

栃木県は梨の生産が全国第3位。梨の花も咲いていました。

  

小山市立車屋美術館:小山市の中央を流れる思川は舟運が盛んで、特に江戸時代から明治時代にかけて、江戸へ直結する重要な物資輸送路でした。小山市乙女に所在する小川家は、江戸時代から明治時代に

かけて乙女河岸で肥料問屋を営んでいた豪商であり、鉄道の発達にともない、明治末年現在の地に移転しました。現存する建造物のうち主屋・土蔵・表門・米蔵・肥料蔵の5棟は、乙女河岸の繁栄を伝える貴重な

遺産であると同時に近代和風住宅としての価値も高く、平成19年8月に国の登録有形文化財として登録されました。小山市ではこの貴重な建造物の活用を図るため整備をすすめ、多くの方々のご協力とご支援

により平成21年4月、小山市立車屋美術館として開館いたしました。 (小山市HPより)

 

左側の小高い所に大きな榎が建っています。ここは、江戸と日光の中間点(共に18里)にあたるところから「間の榎」と呼ばれ、いつしか「逢の榎」となり、縁結びの木として信仰を集めるようになりました。

お酒の銘柄も「逢の榎」、お菓子は「十八里最中」があります。

  

間々田宿は、元和元年(1618)宿駅となり思川の乙女河岸を控え、物資の集積地として賑わいました。天保14年日光道中宿村大概帳によると間々田宿の宿内家数は、175軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠55軒で

人口は、947人(男440人、女507人)でした。本陣は、青木家が勤め建坪157坪で明治天皇の休息地となりました。

  

 

                                                                                                                              つづく


日光街道№8中田宿~古河宿(茨城県古河市)

2019-06-04 05:52:13 | 奥州街道(日光街道)

№7からの続き

JRの踏切を渡ります。踏切の先には、「中田の松原」があります。「日光街道踏切」辺りから原町入口の間には、寛永7年(1630)古河藩主永井信濃守尚政が植栽した松並木がありました。

「東海道にもこれほどきれいな松並木はない」と言われましたが、戦時中の燃料不足を補うため、全て伐採されてしまいました。近年になって松の再生が行われ、まだ松の木は若いですが、何十年経ったら

昔の松並木に戻るのではないでしょうか?

  

日光街道を歩いて感じるのは、「香取神社」が多く感じられます。九州にはないのではないかな?香取神宮は、千葉県香取市にある元官幣大社。祭神は経津主神(ふつぬしのかみ)。

古来鹿島神宮と共に軍神として尊崇されました。

十九夜塔:旧暦19日に行う月待ちの記念として建てられた塔。十九夜溝は、女性が多かったそうで安産祈願、子供の無事成長祈願を行っていました。

原町の一里塚:明治時代に取り壊されたが、古河第二高校の校庭に復元されていました。ネット越しに撮ってみました。

  

古河宿に入りました。

古河宿は、江戸時代全期を通じて、古河藩が管理していた古河三宿(中田・古河・野木)の一つである。天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、本陣・脇本陣は1軒ずつ設けられ、旅籠が31軒

あった。宿内の家数は1,105軒、人口は3,865人であった。将軍家による日光社参では、古河城は岩槻城・宇都宮城と並び、将軍の宿城とされており、日光街道における主要な宿場の一つであった。

日光社参のときには、従者の数が膨大になるため、通常の宿泊施設だけでは足りずに、城下の武家屋敷や町屋も割り当てられた。宿場は日光街道沿いの台町・一丁目・二丁目・横町

(現在の本町・中央町・横山町の一部)にあったが、渡良瀬川等による河川交通も発達していたことから、古河の町は日光街道から河岸へ向けて折れ曲がった石町・江戸町等にも広がり、T字型に形成されていた。

大名が宿泊する本陣は時期により異なるが、最もよく知られているのは二丁目にあったもので、現在、跡地には「本陣跡碑」がある。脇本陣も二丁目にあった。

本陣は吉沢家が務め、建坪は140坪ありました。

  

  

古河の町は、2016年(平成28年)4月、「古河まくらがの里花桃ツーデーウォーク」で一度歩いていますが、それも渡良瀬川の方で中心部も歩いたのですがあまり記憶にありません。

夕ご飯の時に「丸餃子」をいただきましたが、これってたこ焼きみたいな餃子ですが、本当においしかったです。今でも古河というとこの丸餃子が浮かんできます。

 

   

 

  

16:15今日のゴールJR古河駅に到着。

今日のGPS

   

 


日光街道№7栗橋宿~中田宿(埼玉県久喜市~茨城県古河市)

2019-06-03 16:54:54 | 奥州街道(日光街道)

4/30(火)平成最後の日。草加のホテルを早めにチェックアウトし、今日からの宿泊する茨城県古河市のホテルに荷物を預け、街道歩きのスタートです。

今日は、朝から小雨。ポンチョを着て傘を差してのウォーキングです。

  

 

川通神社:鳥居には、「香取宮八幡宮」と刻まれています。境内には、文化11年(1814)建立の常夜灯があります。

会津見送り稲荷:会津の武士が藩の重要文書を無くして、切腹しようとしたが、狐の化身である白髪老人に助けられました。その狐を祀ったのがこの会津見送り稲荷です。

  

炮烙(ほうろく)地蔵:昔、利根川に関所が設けられ、人の通行を厳しく取り締まっていた時代、関所を通らないで渡った者、或いは渡ろうと企て事前に発見されたものは、関所破りの重罪人として火あぶりの刑に

処せられた刑場跡。地蔵尊は刑死者供養の為象造立されました。

 

栗橋宿に入ってきました。栗橋宿は利根川の舟運で栄え、近郊から集積された廻米の積み出しが行われました。この地は関東平野北辺に位置し、関所が置かれ厳重に警護されました。

利根川対岸の中田宿とは、合宿で問屋業務は半年交代で務めました。天保14年(1843)の日光道中大概帳では、宿村家数は404軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠25軒で宿内人口は、1741人、

(男869人、女872)でした。

  

顕正寺:浄土真宗大谷派の寺院。境内に入ると「池田鴨之助の墓」という案内板があるのでそちらに向かいました。

池田鴨之介(鴨之助)は、『新編武蔵風土記稿』によれば、並木五郎平と共に、幕府に願い出て、慶長年間(1596~1615)に、下総国の栗橋村(現茨城県猿島郡五霞町元栗橋)より村民を引連れ、

後の栗橋宿となる上河辺新田を開墾しました。鴨之介は慶安元年(1648)12月9日に没し、法名を「光明院釈常薫」といいます。

池田家は、江戸時代初代鴨之介の子、與四右衛門よりその名を世襲し、代々栗橋宿の本陣役を務めました


   

旧街道からは少し離れていますが、JR栗橋駅東口に「静御前之墓」とガイドブックに書いていたのでそちらに向かいます。

静御前の墓は、いろいろ諸説があるようですが、ここ栗橋では、「 静御前は源義経の内妻で、義経を追って平泉に行く途中、文治5年(1189)5月、茨城県古河市下辺見で義経の死を知り、

当時栗橋町にあった高柳寺(現光了寺)で出家したものの慣れぬ旅の疲れから同年9月15日(1189年)久喜市伊坂(旧村名、静村)にて悲恋の死を遂げました。 22歳だったそうです。 

その時、侍女琴柱は遺骸を高柳寺(現・中田光了寺)に葬り、1本の杉の木を植えそのしるしとしました。弘化3年5月(1846年)利根川氾濫により枯れてしまいこの時、杉の代わりに銀杏を植えたそうです。

平成13年4月 改修  「静女の墳」は、静御前の墓にしるしがないため、中川飛騨守忠英が、享和3年5月(1803年)に建てたものと考えられています。  

また、静御前墓所内には『静女塚碑』をはじめ静御前にまつわる石碑などがあります。」(久喜市HPより)

 

墓内には、坐泉の「舞ふ蝶の果てや 夢見る塚のかげ」という歌碑が建てられています。静御前は、都の白拍子でした。白拍子というのは、男装して今様を謡いながら舞う女芸者の事です。

  

再び街道に戻ります。街道内には、古民家も残っています。

  

栗橋の関所跡です。江戸幕府は、交通の統制と治安維持のため、主要な街道が国境の山地や大河川を越す要地に関所を設け、特に「入り鉄砲に出女」を取り締まりました。

 栗橋関所は、日光道中が利根川を越す房川渡に設置されたことから、対岸の中田と併せて「房川渡中田関所」と呼ばれました。

関所の位置は、堤防の河川側で利根川の河畔にあり、寛永元年(1624)に番士4人が置かれました。以後、番士は明治2年(1869)の関所廃止まで約250年間続きました。

 「栗橋関所址」碑は、大正13年(1924)に旧番士3家・本陣・宿名主の発起で、町内と近在の有志により、徳川家達の書で、旧堤上に建碑されたものです。 

ガイドブックには、関所跡あたりに「本陣」があると記載されていますが、探しても見つかりません。確か、このあたりではないのかな?

 

関所の先には、「八坂神社」があります。案内板を見ると、この神社の神様は、慶長年間に利根川の洪水のとき渺々たる 水波の中を鯉と亀が運んで来たものと伝えられます。

 この由緒ある神社に御参詣して招福・除災の霊験あらたかな 鯉を撫で身体をさすって下さい。 健康(無病息災)家内安全・商売繫盛・縁結び・学業成就などの 幸福を招く鯉です。

明日から「令和」、新年号を記念して花火大会が行われるそうです。

  

境内には、狛犬ならぬ「鯉」。利根川の洪水の際に鯉が「御神体」を運んできたことに由来します。

  

八坂神社から利根川を渡ろうとしますが、栗橋北堤防強化工事の為、迂回します。

途中、関所番士屋敷跡(足立家)があります。現在発掘作業で更地になっていますが、説明文を読んでみると(薄くなって読みにくいですが)、

関所番士屋敷は、寛永元年(1624)に栗橋関所番士の住まいとして、江戸幕府が設けたものである。  関所番士の定員は4人で、これを2組に分け、毎日明け六つ(午前六時)から暮れ六つ(午後六時)まで、

二人一組五日間交代で勤務していた。 維新期最終の番士は、加藤、足立、島田、富田の四家であった。手当は二十俵二人扶持は、一日五合の割合で、二人扶持は約十俵に当たる。

扶持は、幸手宿本陣中村家から送米されていた。        ここ足立家は、現存する貴重な関所番士宅で、寛政12年(1800)足立十右衛門が五人目の役人として金町松戸御関所から転勤し、

移り住んだのが始まりという。  加藤家、島田家も現存しているが、富田家は、明治二年の関所廃止とともに東京へ移転している。 各屋敷地とも高く盛土し、いずれも約千四百平方メートルである。      

 なお、番士の墓は、常薫寺、深広寺にある。                        昭和六十三年三月    埼玉県     栗橋町

  

いよいよ利根川を渡ります。利根川は、大水上山に源を発し、流末は鹿島灘に注ぐ、坂東太郎と呼ばれる暴れ川でした。武蔵国(埼玉県)と下総国(茨城県)の国境(県境)です。

  

利根川を渡ると、「房川渡と中田関所跡」の看板が建っています。これは、文字が薄くなっており、読めませんので先達の方の記録を引用します。

江戸幕府は、江戸を防衛する軍事上の理由から、大河川には橋をかけることを許さず、また、交通上の要地には関所を設けていた。当地は日光街道の重要地点で、街道中唯一の関所と渡船場の両方があった

所である。  利根川のうち、当地と対岸の栗橋の間の流れの部分を『房川』(理由は諸説あって不明)とよび、渡船場を房川渡、関所を房川渡中田御関所といった。

やがて、関所は対岸の栗橋側の水辺に移されたので、普通には、『栗橋の関所』の名で知られていた。  四人の番士が交代で、関所手形を改め、旅人や荷物を厳しく監視した関所は、

明治2年(1869)の廃止令でなくされたが、二艘の渡し船と五艘の茶船を操る船頭たちによって、およそ40間(約70m)の流れを渡した渡船場の方は、大正13年(1924)の利根川橋の完成前後まで続けられた。

                                                                                               平成元年3月 古河市教育委員会

中田宿は、「房川の渡し」を控え、元和10年(1624)に創設された宿で「鮒の甘露煮」が名物であった。栗橋宿とは合宿で問屋業務は半年交代で務めた。天保14年(1843)日光道中宿村大概帳によると

中田宿の宿内家数は69軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠6軒で宿内人口は、403人(男169人、女234人)でした。

中田宿は、利根川の河川敷に設けられていたが、明治末からの利根川改修によって宿並は利根川下の河原になってしまった。ほとんどは、農家との兼業であった。

   

街道を歩いていると、左側に「鶴峯八幡宮(つるがみねはちまんぐう)」があります。

社伝によれば、平安時代末期の治承4年1180年)、源頼朝の命による下河辺挙兵により当地に集結させ、川沿いの小高い山に鎮座する御稲荷に必勝祈願し、富士川合戦に勝利した。

頼朝は武運が拓かれたと神徳を感じ、翌年の養和元年(1181年)8月に鎌倉鶴岡八幡宮勧請したことに始まる。又、丸山稲荷も勧請し、鶴ヶ峰八幡宮と名付けられた。

天福2年(1234年)、下総国の一宮・香取神宮が勧請され、元禄元年には合殿となる。中世では、元弘年中に新田義貞の参籠し不明なる要人と武運を祈願。中世末期では、鎌倉公方が古河公方に移る際に、

元栗橋にあった栗橋城(旧古河城)に足利成氏が入り、鎮守であった鶴ヶ峰宮に参拝祈願していた。

その後近世まで、古河城歴代城主に崇敬され燈籠や鎧等様々な奉納を賜ったようである。

江戸時代になり徳川家康の命により河川事業が始まり利根川が開河すると、神楽(永代太々神楽)が伝わり、当宮を元に近郷の鷲宮神社から大寶八幡宮、須賀神社などの神主達により奉納されたと伝わる。  

その後池田鴨之介らによる日光街道の栗橋中田宿が成立しその鎮守となる。房川渡しと格の良質な遊郭が特徴のその宿では、江戸や結城、小山等から遊びに来る要人もあったと伝わる。

又、徳川将軍の日光社参の折には、祀られている道中安全の5柱の神に足踏み祈願し、旅の安全と無事を祈願し、日光へ旅立った とされる。

社務所前には、朱印を求める人が多く、私も平成最後の御朱印をいただきました。

  

鶴峯八幡宮の横が「光了寺」です。静御前が帰依し、ここで亡くなり葬むられたという栗橋の「高柳寺(光了寺)」がこの地に移転しました。静御前が後醍醐天皇から賜ったという「蛙螟龍(あまりりゅう)の舞衣」が

保存されています。境内には、芭蕉の句碑「いかめしき 音や霰の 檜木笠」があります。意味は「旅の檜笠に霰が落ちて跳び返る。その音の硬いこと」

円光寺には、見事な庭園があります。

 

  

                                                                                                               (つづく)

 


日光街道№6幸手(さって)宿~栗橋(埼玉県幸手市~久喜市)

2019-05-31 21:13:40 | 奥州街道(日光街道)

№5からの続きです。国道4号線と合流した後、上高野小学校の信号から旧道に入ります。東武の踏切を渡って突き当りが日光御成道(おなりみち)と合流します。

  

日光御成道は、東京文京区・本郷追分から幸手宿の手前で日光街道に合流するまでの12里(48km)。もともとは、鎌倉時代の奥州へ通じる幹線道路「鎌倉街道中道」でした。

慶長5年(1600)この道を北上して上杉征伐へ向かった家康は、小山宿で石田光成の挙兵を知り、直ちに引き返して関ヶ原の合戦で勝利し、やがて征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開きます。

家康はその遺言により、日光東照宮に祀られました。以来歴代将軍の日光社参が幕府の大切な行事となります。そのための特別な道が「日光御成道」です。

志手橋の所に神明神社があります。宝暦5年(1755)伊勢神宮の分霊を祀りました。境内には、「たにし不動」があります。たにしを描いた絵馬を奉納して祈願すれば眼病に霊験あらたかということです。

 

明治天皇行在所御跡碑:明治天皇は、明治9年(1876)6月奥羽巡幸の際、明治14年7月、同年10月山形・秋田・北海道巡幸の際、29年10月近衛師団の演習天覧の際に幸手を通られ、明治9年には

元本陣の知久家に、あとは、右馬之助町の元名主であった中村家に宿泊しています。

 

幸手市街地に入りました。「幸手(さって)」という地名は、この日光街道を調べていくときに初めて耳にしました。地名の由来を調べてみると、この地に日本武尊が東征の際、「薩手ヶ島」に上陸、田宮の

雷電神社に農神を祀ったという言い伝えが残っており、幸手の地名はその「薩手」に由来するという。その薩手は、大落古利根と中川の間の沖積地に位置します。地名はアイヌ語から解され、乾いた(サッツ)

原野からその名が起こったという。埼玉の地にアイヌ語・・・・・どんな繋がりがあったのでしょうか? 現在人口は5万人。

 

幸手宿は、日光御成道、筑波道の要衝を控え、権現堂河岸には江戸舟運の廻船問屋が軒を連ね賑わっていました。天保14年(1843)の日光道中宿村大概帳によると、宿内家数は962軒、うち、本陣1、

旅籠は、27軒で宿内人口は3937人。

  

 

聖福寺は、日光社参の将軍や例幣使の休息地でした。山門は、勅使門。本堂「将軍の間」の欄間は左甚五郎の作と言われています。

聖福寺の入り口には、芭蕉と曽良の句碑が建っています。

  「幸手を行ば 栗橋の関」(芭蕉)  「松杉をはさみ 揃ゆる寺の門」(曽良) 

  

幸手の一里塚  江戸日本橋より12里目

  

4号線と合流地が「内国府間」。難しい地名ですが、「うちごま」と呼びます。この先には「外国府間」(そとごま)があります。

多分、下野国分寺(栃木・下野)と下総国分寺(千葉・市川)の間に位置するからその名が付いたのではないでしょうか?

  

歩いていると右側の方に権現堂公園があります。三郷の歩友Oさんお薦めの所ですので行ってみることにしました。

関東の桜の名所として有名な幸手権現堂桜堤は、約1000本のソメイヨシノが1kmにわたって咲き誇り、堤の周辺の菜の花とのコントラストは 見事で、花見を楽しむ来園者で賑わいます。

また、6月には色とりどりの紫陽花、9月には真っ赤に染まる曼珠沙華(彼岸花)、1月には白い可憐な水仙が見ごろを迎え、 1年を通して権現堂桜堤をお楽しみいただけます。

行ったときは、もう桜や菜の花が終わっており、係の人がアジサイにの手入れをされていました。

 

  

権現堂堤の先の方に「明治天皇権現堂堤御野立所」があります。権現堂堤は、権現堂川の水防のために江戸時代になる前に造られた堤です。 しかし、江戸時代を通じて何回もの洪水を経て、

明治時代になって地元から新しい堤防造成の機運が起こり、明治8年6月に着工し、10月にはここから栗橋町小右衛門にかけて旧日光道中に並行した新権現堂堤が完成したのです。

(現在は国道4号線がその上を通っています。)   明治9年6月に、明治天皇が東北巡幸の際に立ち寄られてその労を感じ入り、この仕事に携わった者の名前を石に刻んで残すように言われ、

費用の一部が下賜されました。   人々は大変恐縮し、是非この堤を行幸堤と呼ばせていただきたいと申し出たところ許可されたということです

  

行幸橋を渡るとすぐ左折します。ここからは4号線と並行して歩きます。「筑波道追分道標」があります。この道標は安永4年(1775)日光街道と筑波道が分かれるこの場所に建てられました。

道標には、「左日光道」「右つくば道」「東川つままいばやし」と刻まれています。「川つま」とは、現在の茨城県猿島郡五霞町川妻、「まいはやし」は茨城県古河市前林のことです。

 

  

雷電社湯殿社は、外国府間村の鎮守。

小右衛門の一里塚:江戸日本橋より13里目。小右衛門は、この地の新田を開発した者の名前です。

  

時間も16時を過ぎました。今日はここまでとします。最寄りの駅は南栗橋駅。南栗橋駅は、ここから歩いて15分ぐらいかかりました。

今日(4/29)のGPSです。

  

 


日光街道№5粕壁~杉戸~幸手(埼玉県春日部市~幸手市)

2019-05-30 17:50:40 | 奥州街道(日光街道)

№4からの続き)

小渕信号から4号線に沿って歩きます。左側には、「観音院」があります。この観音院には、芭蕉の「毛(も)のいへば唇寒し秋の風」の句碑があります。

意味は、「人の短所を言った後は、寒々とした気持ちに襲われる。」

  

不二山浄春院の寺標を過ぎると、杉戸町(北葛飾郡杉戸町)です。杉戸町は、この地は杉林が多かったことから、いつしか「杉の渡」といわれ、それが「杉戸町」になったそうです。

また、杉戸町は、北緯36度線上に位置しているので地球儀のモニュメントが建っていました。因みに36度線上の都市は、中国・チンタオ、アメリカ・ラスベカス、グランドキャニオン、イラン・テヘランなどです。

 

   

大作桃塢は、5代忠三郎、6代助右衛門(有隣・文蔚堂)、7代暢(桃塢・豊秋教舎)と、3代亙って南埼・北葛・東葛の子弟教育に尽力しました。内容は、論語・日本外史・十八史略・孟子・文章規範から詩賦にまで及び、

門下は2千名にも達しました。

  

九品寺(くほんじ)には、道標を兼ねた庚申塔「左日光」「右江戸」があります。天明4年(1784)堤根の住民42人が造りました。また、この道路の向かい側の高野家が立場茶屋を営んでいました。

  

馬頭院:慶安2年(1649)の中興で本尊は、伝教大師の作。明治になると新知学校に使われました。

  

4号線堤根の交差点から県道373号線に入ります。それと並行するように「みなみがわ散策道」というのがあります。農業用水路であった南側用水路の跡地を散策道にしたと説明文がありました。

サクラなどの樹が植えられており、散歩コースにはもってこいの場所でしょうね。

  

三本木の一里塚は、民家の生け垣の中に説明文があります。江戸日本橋より10里目。

万福寺には、六地蔵があり、明治になると本堂は、清地学校の仮校舎になりました。

 

三本木八幡神社:境内の手水石は、文政2年(1819)の建立。

  

杉戸町の中心部にやってきました。街道の右側には関口酒造があります。関口酒造が創業したのは1822年。その前、1670年の江戸時代から、別事業を豊嶋屋という名で始めていました。

現在のご主人は造り酒屋を始めて6代目、関口家の始まりからは14代目になります。歴史ある関口酒造の家屋は約120年前のものです。

 

杉戸宿は、江戸幕府が1616年(元和2年)に日光街道に設置した宿場です。日本橋から日光へと向かう間、21ある宿場の第5番目にあたります。 

杉戸宿は、江戸に近い方から新町、下町、中町、上町、河原組、横町から構成されていました。更には南隣に清地村、北側に九軒茶屋(茶屋組)があり、宿場と連続した町場を形成していました。

元々の日光街道は、上杉戸方面を古利根川に沿って北上し和戸橋付近で御成道と合流するルートでありましたが、1647年(正保四年)に現在のルートに付け替えられたと言われ、横町の形成は、

その後の1658年(万治元年)のことと言われています。(杉戸町HPより)

高札場は、2016年(平成28年)杉戸宿開設400年を記念して復元されました。

 

近津神社はには、元治元年(1864)建立の珍しい「見返り狛犬」がありました。

   

神明神社:杉戸宿新町北側の鎮守でした。

 

本陣跡地前の信号で本陣を探すが、見つからない。場所としては、三井信託銀行あたりかな?

 

  

漢方医虎屋跡は、現在とらや薬局になっていた。名主は、現在で言う村長で、年貢の徴収や宗門人別(戸籍)の取り扱い、代官からの通知を住民に周知することなど町政を司る役職をしていました。

鈴木小左衛門は、杉戸宿最後の名主でした。

 

 

 

渡辺金物店は、横町の名主渡辺家から分家となった先々代が創業したそうです。平成になって看板を降ろしました。

  

角穀屋跡:宿場の特徴の一つでもある町端の「枡型」。その道沿いに堂々たる風格を見せる古民家、「角穀」です。母家と蔵が並ぶ優美さは道行く人の心にひときわ刻み込まれてきたでしょう。

創業は、二代目小島定右衛門、屋号は枡形の通りの「角」にある米穀問屋を意味しています。

 

 

宝性院から日光方面にかけて電柱に赤いテープが貼られています。これは昭和22年(1947)のカスリーン台風で利根川の堤防が決壊し、一帯に浸水した水位を示しています。

ホンダの所で国道4号線と合流しました。この辺りから筑波山が見えるのですが、今日は曇ってみることができません。

  

厳島神社を過ぎます。茨島の一里塚は、山田うどんの駐車場内にありました。街道は幸手(さって)市に入りました。

  


                                                                                                                                             つづく


日光街道№4越谷宿~粕壁宿(埼玉県越谷市~春日部市)

2019-05-28 07:19:49 | 奥州街道(日光街道)

4/29(月)晴れ。前日ゴール地東武せんげん台を8:30スタート。新方川を渡ると、すぐ春日部市に入ります。

 

 

  

国道4号線一宮信号より左折。粕壁市街地に入ります。東陽寺には、芭蕉宿泊の寺碑「廿七日夜カスカベニ泊ル江戸ヨリ九里余」があります。

  

粕壁宿は、古利根川の舟運により江戸と結ばれ、諸物産の集散地として栄えた。天保14年(1843)の日光道中宿村大概帳によると粕壁宿の宿内家数は、773軒、うち、本陣1、脇本陣1、旅籠45軒で

宿内人口は3701人(男1791人、女1910人)でした。粕壁宿はその後町名が粕壁町になり、1944年(昭和19)粕壁町と内牧町が合併し春日部町になりました。その後市制を敷き春日部市に至ります。

中宿の脇本陣は、最初、蓮沼屋庄兵衛が務めていましたが天保元年(1830)現在地で旅籠を営んでいた高砂屋竹内家が務め、嘉永2年(1849)から幕末までは本陣になりました。

市街地の中心部には、親子の争いで話題になった「匠大塚」(お父さんの方)があります。2015年西武春日部店の後に入居されました。

 

    

小沢本陣跡:粕壁の本陣は、最初は、関根次郎兵衛家が務め、その後、関根助右衛門家、見川家、小沢家、竹内家の順に4度移転しました。また、日光山法会など公用の通行者が多いときには、

最勝院・成就院が宿泊施設として利用されることもありました。

本陣の履歴:関根次郎兵衛家(仲町郵便局辺り)→関根助右衛門家(げんき薬局辺り)→宝暦4年(1754)見川家(りそな銀行辺り)→嘉永2年(1849)竹内家(金子歯科辺り)

  

  

  

田村家:宿場の北側には白壁が美しい三軒の「田村家」の家があります。「田村本家」は、土蔵造りの2階建て、明治7年(1874)造られた。江戸期の創業で当代八代目にあたる。以前は米穀商。

「田村家」は、明治22年(1889)に土蔵造り2階建てで造られた。当代は三代目。以前は穀物商でした。

「田村荒物店」は、明治8年(1875)に造られ、当代四代目。

田村家の前には、道標(東江戸、西南いわつき)があります。

  

永嶋庄兵衛商店:慶長年間(1596~1615)創業の米問屋。屋根に鍾馗(しょうき)像を乗せています。

案内板には、日光街(海)道から日光道中に変わった謂れが書いてあります。それによると、1716年のおふれで日光街道は、海のない国を通る為、日光道中に改められたとのことです。

   

宿場の先の方には、「最勝院」があります。日光東照宮に移葬される三代将軍家光の亡骸がかり安置されました。境内には、「春日部」の地名由来となった春日部重行公の「墳塚」があります。

  

春日部重行の墳塚:案内板を見てみると、

南朝の忠臣贈従四位春日部重行公は逆臣北條高時の専横極まるところ、恐れ多くも後醍醐帝は隠岐に遷され給い王業の光正に淡きを歎ずる時、護良親王の令旨を奉じ勤王の義兵を春日部に挙げ、

建武元年(一三三四年)新田義貞と共に鴟張(しちょう)の賊北條氏を鎌倉に滅ぼし建武の中興の大業を成す。 更に足利尊氏の反旗を翻して九州より東上するや大義の血潮渾(さかん)に燃えこれを京に迎え撃つ。

然れども南風遂に競わずして戦時に利あらず延元元年(一三三六年)六月三十日鷺の森において恨み深き自刃を遂ぐ。其の長子家縄遺骨を携えて帰郷し、最勝院に墳を築き此処に葬る。

大正七年(一九一八年)其の功を嘉し、特旨を以て従四位を贈らる。

    

最勝院から街道に戻ります。新町橋は、江戸時代には、大橋と呼ばれ、古利根川に架かる唯一の橋でした。長さ16間(29m)、横幅3間(5m)の板橋で、高覧が付いて架け替えにあたっては、幕府が費用を負担し、

往来を妨げないように仮橋が架けられました。新町橋の上流には、上喜蔵河岸と呼ばれた船着場があり石垣の一部が現存しています。江戸時代粕壁宿では共同で河岸を利用し、古利根川の水量が多い

6月中旬~8月中旬には、小型の高瀬舟などで米や生活物資を運搬しました。

   

粕壁は、桐ダンスでも有名です。匠大塚がここにお店を出した理由もなんとなくわかる気がします。

 

しばらく歩くと道標があります。「青面金剛、左日光道」と書かれています。街道は、小渕交差点で4号線と合流します。

   

                                                                                         (つづく)