よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

楽しいウォーク「糸島“健康街道”を歩く」(福岡県糸島市)

2023-12-23 10:34:03 | ふくおかウォーキング協会

今年最後のふくおかウォーキング協会楽しいウォークは、「糸島“健康街道”を歩く」でした。

集合場所は、JR筑前前原駅。参加者36人。

糸島健康街道は、JR美咲が丘駅から「アゴラ」までの3,5kmの区間です。所々に距離が道路に書かれています。

今日は、風が冷たく寒いです。なんでも今晩から寒波が押し寄せ福岡でも積雪の恐れがあるそうです。

9:30スタート。

 

丸田池

 

糸島市役所新庁舎 来年1月4日からオープンだそうです。

 

 

荻浦には、唐津街道境界石があります。江戸時代、糸島は、福岡領、中津領、対馬領、幕府領などに分割されていました。

荻浦の多久川から西が中津領、深江から西側が対馬領となっていました。幕府領は、香力など雷山地区でした。

 

荻浦神社は、昔は老松天神と言った。一説には十六天神、また宝満神、山王神の相殿(同じ社殿に二柱以上の神を合祀すること)であるとも言う。明治5年(1872年)年11月3日村社に定めらる。明治45年(1912年)5月12日区内鎮座の無格社を当社に合併すると共に社殿の改修整理完成

 

神社裏のはな咲公園で休憩。ここから“健康街道”が始まります。

 

道路のインターロッキングには、距離の表示があります。

 

糸島健康センター「アゴラ」で休憩

 

アゴラの入口には、「健康街道」の説明があります。

アゴラより産直店「伊都菜彩」へ。今日はここが仮ゴール。

 

伊都菜彩まで約7,1km。ここからJR波多江駅までは、約1,5kmあります。

今日のGPS(ゴールは、伊都菜彩にしています)

 

 

 

 

 

 


優しいウォーク「渡り鳥とコウノトリ観察ウォーク」(福岡県小郡(おごおり)市)

2023-12-19 14:42:02 | ふくおかウォーキング協会

順序がバラバラになっていますが、12/7(木)、ふくおかウォーキング協会優しいウォークは「渡り鳥とコウノトリ観察ウォーク」でした。

小郡市には、コウノトリが毎年何羽か飛来してくるそうです。そのコウノトリを見に行こうというウォーキングです。

コウノトリは赤ちゃんを運んでくると伝えられていますが、若しコウノトリが赤ちゃんを運んで来たら赤ちゃんが20歳になると私はいくつになるのかな????

この歳でコウノトリはないですよね。(笑)

9:30西鉄小郡駅スタート

 

小郡市役所横の公園には、「大原古戦場」の碑が建っています。

大保原合戦」(大原合戦ともいう)は、北朝側の筑前・少弐氏、豊前・大友氏と南朝側の懐良親王(かねよししんのう)、肥後(ひご)・菊池氏が、正平14年(1359 年)7月下旬から

8月上旬にかけて繰り広げた戦いです。当時九州の政治の中心であった「大宰府」(だざいふ)は北朝側が支配しており、南朝側はこれを奪うことで九州での勢力を拡大したいと考えて

いました。大保原合戦はこの大宰府をめぐる戦いです。筑後川をはさんで、南岸には親王・菊池勢が、北岸には少弐・大友勢が互いに軍を並べてのにらみ合いから始まり、戦いは現在の

小郡・大保・山隈を中心に、両軍合わせて約10万人の大軍勢で展開しました。

小郡市の近くの大刀洗町は、南北朝で兵が刀を洗ったことからその地名になったそうです。

 

甘木鉄道の高架下を歩きます。

 

 

農家の野菜無人販売所があります。どれも100円! どこかのTVCMを引用すると「安い! うれしい」かな?

 

ふれあい磐戸公園で休憩

 

休憩後再スタート。

大添堤に来ました。ここに野鳥が飛来するそうです。コウノトリは・・・・・???

今日はコウノトリはいなく、代わりに絶滅危惧種の「クロツラヘラサギ」が20羽ほどいました。

 

 

大添堤の横には、「稲次因幡公墓」の碑が建っています。墓は、霊鷺(りゅうじょう)寺にあります。

稲次因幡正誠は、享保13年(1728)8月、生葉、竹野、山本、三郡の農民は藩の重税に堪えず、減税運動の一揆を起こした。 総勢5700余人が凶器を持ち、善導寺に集まり御井町まで押寄せた。

27才の若年家老、稲次因幡正誠は単身主謀者と会見して、

  1. 農民の要求に応ずる。
  2. 以後の税は一割一歩減税。
  3. 主謀者の処刑はしない。

という約束の下に解散させて農民の苦しみを救った。 喜んだのは農民だったが、 家老仲間の不満、藩公の怒りは後年藩主襲封の問題とからんで津古の庄屋斉田氏宅に幽閉させられ3000石の

家老から10人扶持の士となり、2年後没した。享年35歳。罪ある身だったので、この墓地に葬った。 後年、久留米に五穀神社が建立されるにあたり、公の霊を合祀して永く農民の神として

仰ぐことにした。

 

松崎宿にやってきました。コロナ禍でウォーキング大会などが中止になっている2020年、私は個人で、薩摩街道を歩いたとき、松崎宿を歩きました。

薩摩街道を歩いた時の写真も掲載しています。

松崎宿」は、有馬豊範が御原郡19ヶ村1万石の分知を受け、 寛文9年-12年(1669-72)に郡内の「鶴崎」の地に居城を築き(現在の三井高校)、 名を「松崎」と改めたことに由来する。

松崎藩の設置に伴って、北は山家宿、南は府中宿に至る街道筋が天下道(参勤交代道)と定められ、 城下町である松崎の地が宿場町として整備されていった。

貞享元年(1684)に松崎藩は改易され、 最終的には久留米藩の所領に戻るが、 その後も参勤交代道路として九州の主だった大名がここを通り、 筑後地域における重要な宿場町として繁栄して

いったのである。

慶応2年(1866)の古文書によれば、 松崎宿の総戸数は129軒で、旅籠はたごが26軒、煮売屋にうりやが6軒あったという。 旅籠以外には、藩主や大名を休泊させる御茶屋おちゃやを設け、 また駅伝えきでん(問屋といや)では物資の

運搬にあたった。宿場町の運営には庄屋・町別当が主にあたり、 必要があれば問屋、町年寄、組頭らが加わった寄り合いによって合議決定されたという。(お寺巡りの友より引用)

旅籠「油屋」には、西郷隆盛も宿泊したそうです。

  

 

 

松崎宿北搆口です。

 

松崎宿北搆口からゴールの甘木鉄道松崎駅へ。

 

 

 

 

 


新春合同三社詣りウォーク下見(福岡市中央区)

2023-12-18 05:02:14 | ふくおかウォーキング協会

12/13(水)ふくおかウォーキング協会の楽しいウォークは、新年早々行われる「新春合同三社詣りウォーク」の下見でした。

集合場所は、中央区舞鶴公園三ノ丸広場。参加人数は33人でした。

新春合同三社詣りは、1/7(日)NPO福岡県ウォーキング協会主催で県下のウォーキング7団体が集まって行われるウォーキング大会です。

今回は、ふくおかウォーキング協会が当番です。大会は10k・6kコースがあります。

福岡市では、ウォーキングの時、矢張りや矢印、旗の設置は認められていないため、要所要所に人を配置して誘導してもらいます。

                   

 

9:30スタート

 

大濠公園を通り西公園へ。西公園の途中には、「平野國臣」の銅像があります。

 

光雲(てるも)神社には、「軍師官兵衛」として有名な福岡藩祖・黒田如水(官兵衛)と、初代藩主・黒田長政が神として祀られている。「光雲」という神社の名前は、2人の法名から

名付けられたものという。

 

光雲神社から下り、福浜団地に向かいます。

 

福浜団地から菰川を通り、ももち海浜公園へ。

 

 

ももち海浜公園

 

 

ペイペイドームから地行を通り「鳥飼八幡宮」へ

古来より地域住民の生活と深く結びついてきた八幡信仰。その昔,神功皇后が新羅からの帰途,鳥飼村で胎内の皇子(後の応神天皇)の将来を祈念して杯を振る舞い,後に村がその地に社を

建てたのが鳥飼八幡宮の始まりと言われています。福岡藩初代藩主・黒田長政が現在地に移転しました。八幡神社は全国に2万社あると言われていますが,中でも鳥飼八幡宮は最も歴史が

あるとお宮の一つと考えられています。

 

鳥飼八幡宮の敷地の近くには、「中野正剛」先生の旧宅跡です。※中野正剛 - Wikipedia

   

鳥飼八幡宮から大濠公園を通り護国神社へ

 

護国神社の大鳥居は、ただいま工事中。新年には間に合うそうです。

 

護国神社から名島門を通り舞鶴公園三ノ丸広場へゴールしました。

 

 

 


ビワイチ徒歩の旅番外編(その3)「百濟寺(ひゃくさいじ)の紅葉」(滋賀県東近江市)

2023-12-13 06:32:01 | 琵琶湖一周徒歩の旅

湖東三山最後は、東近江市の「百濟寺」です。金剛輪寺から坂道を登っていき、約30分で着きました。百済寺のパンフを見ると、

百濟寺は、近江最古級の寺院。西暦606年(推古14年)に聖徳太子が「近江の仏教拠点」の一つとして建立されたと伝わる。仏教が半島の百済国経由で伝来したことから山号を

「釈迦山」、寺号を「百濟寺(ひゃくさいじ)」と称する。平安中期以後天台寺院として発展し、一千坊を擁したが、1573年4月、信長の焼討ちで壊滅的打撃を受けた。

1650年に広大な石垣遺構の中に本堂以下数棟が再建された。とくに寺社庭園として県下最大の「天下遠望の名園」内の散策と近江歴史舞台の眺望は、絶景です。

 

先ず庭園の方に向かいます。

 

 

素晴らしい紅葉です!

 

ハナノキ・・・・「その昔、聖徳太子が百済寺を建立したとき、仏教が繁栄していくなら、この木も栄えて花をつけるであろう、と誓って自ら食事の箸を各々の花沢村(北花沢村・南花沢村)に1本ずつ突き刺したところ、誓いの通り立派な木となった。」といわれています。百濟寺のハナノキは、その子孫です。

 

庭園から遠望台に向かいます。今日は山の方が少し霞んでいますので三上山がぼんやりしか見えません。

  

 

 

ルイス・フロイスが地上の天国と称した百濟寺ですが、戦国時代、織田信長によって焼打ちされました。百濟寺のHPを見ると、

織田信長おだのぶながの所業と聞けば比叡山延暦寺の焼き討ちが有名であるが、釈迦山百済寺しゃかざんひゃくさいじも天正元年(1573年)、信長に全域を焼き討ちされている。なぜ信長は百済寺を焼き討ちしたのか、そこには戦国乱世における武将たちとの因縁とも言える物語があった。
 近江源氏と呼ばれた名門、佐々木一族の流れを組む六角氏は、百済寺を含む近江国南部の守護職として長く支配していた。百済寺では常々、六角氏を御館様おやかたさまと呼んで安泰祈願を行っている。百済寺の城塞化には、六角氏から重臣を派遣されるなど、六角氏と百済寺は鎌倉時代以来の親密な関係にあった。
 一方、天下統一に向かう信長は、永禄十一年(1568年)に六角氏の居城、観音寺城を攻略するも、城主であった六角義賢ろっかくよしかた義治よしはる父子はすんでのところで脱出、逃げ延びることができた。この時、信長は百済寺に禁制を送っている。以下、現代訳。
一、 百済寺は以前からの寺法に従って、以前の通りに寺院の行事を行ってよろしい。臨時に百済寺に対して租税を課してはならない。
一、 百済寺領も以前からの通りである。なお、この地を治める武士は百済寺に人足を申し付けてはならない。
   また、武士は山林の竹木を伐ってはならない。
一、 百済寺は信長の祈願所とする。他の者が祈願所にすると申し出ても受け入れてはならない。
 信長の“祈願所”にするという一文は、明らかに百済寺を他の寺院とは別格に扱っている表れである。これは信長が全国を制した後、この地方に本拠地をつくり、百済寺を信仰の中心とする思いがあったと考えられ、経済力や文化力など、信長が注目する最も大きな力を持つ寺院が百済寺であったのである。
 しかし、百済寺の側になると、今まで六角氏を御館様と呼んでいた事から信長の祈願所にされることには相当の抵抗があった。さらに寺中の長老や高僧には六角氏に属する豪族や地侍の子弟が数多くいる。
 逃げ延びた六角氏は信長に反抗する浅井長政あざいながまさや本願寺一揆とも通じて徹底抗戦していた。信長は六角氏が籠城ろうじょうする城を佐久間盛信さくまもりのぶ蒲生賢秀がもうかたひで丹羽長秀にわながひで柴田勝家しばたかついえの四将によって包囲させ、この戦況を見るために自らの祈願寺とした百済寺に軍勢とともに入り、何のためらいもなく宿坊その他に宿泊して戦況を眺めている。しかし数日後、百済寺には六角氏の女子供がかくまわれていることを知った。さらに百済寺が六角氏に食糧を支援していた事実をも発見したのである。
 信長の怒りは頂点に達した。
 「全山ことごとく焼け山にしてしまえ。石垣は崩して安土に持ち帰るのだ」
 そして、信長の軍勢により、中枢部300坊を加え総計1000坊とも言われる百済寺は全山焼土と化し、石垣は安土城の建造のために持ち去られたのであった。同じく麓で寺領鎮護する十禅師社(現日吉神社)も焼失した。

 

仁王門から本堂に向かいます。

  

 

 

 

 

もう少しいたかったのですが、帰りの新幹線の時間も迫っており、下山します。

参道入口には、露店があり、「松茸のフライ」「松茸ご飯」などがあります。特に松茸のフライは食べてみたかったです。

 

このあと、車を米原のレンタカー屋さんに返却し、米原から新快速で新大阪へ、新大阪から「のぞみ」で博多に帰ってきました。

琵琶湖徒歩の旅もあと1/3です。次回は桜が綺麗な頃に行ってみたいな~

 

 

 


ビワイチ徒歩の旅番外編(その2)「金剛輪寺(こんごうりんじ)」の紅葉(滋賀県愛知郡愛荘町)

2023-12-12 06:17:47 | 琵琶湖一周徒歩の旅

西明寺から車で約10分ほどで「金剛輪寺」に着きました。

金剛輪寺」は、湖東三山の真ん中のお寺で奈良時代に聖武(しょうむ)天皇の勅願により行基が開山した天台宗の寺院。本尊は行基の作と伝えられます。また、源義経

(みなもとのよしつね)が義仲追討の武運必勝を願い太刀を寄進したり、北条時宗が佐々木頼綱に命じて元軍降伏の祈願をしたといわれます。 山門から本堂までサツキに囲まれた石段が続き、山岳城郭であったころの趣を今なお残しています。石段を登りつめたところに、当時の僧の機智により織田信長の焼き打ちによる焼失の難を免れた本堂大悲閣、三重塔、二天門が

あります。本堂大悲閣は、鎌倉時代の和様建築の代表とされ、国宝に指定されています。本堂前にある二天門は室町時代の建立で、最初、八脚門と呼ばれる楼門でしたが、江戸時代に

二階部分が取り壊され現在の形になりました。三重塔は大悲閣(だいひかく)より古いものですが、荒廃したままとなっていたため、昭和49年(1974)復元されました。 

ツツジやシャクナゲの名所としても知られ、山門脇に塔頭の常照庵(じょうしょうあん)が草むらに埋もれ残っていて、寺宝にも見るべきものが多いです。また、厄除けのかぶら汁が

接侍される初観音や、大きな数珠(じゅず)を回して念仏を唱える千体地蔵盆など有名な行事もあります。(滋賀県琵琶湖観光情報)

 

入山料800円を支払い黒門から寺内へ。

 

受付から参道を上がっていきます。

 

まるで寺院全体が真っ赤に燃えています。

 

庭園の方に回ってみます。

 

 

 

 

 

 

庭園から二天門を通り本堂へ

 

 

 

三重塔

  

 

西明寺も金剛輪寺もホント綺麗な紅葉でした。車を走らせ次の「百濟寺」に向かいます。

 

 

 

 


ビワイチ徒歩の旅 番外編「湖東三山の紅葉」その1「西明寺(さいみょうじ)」(滋賀県犬上郡甲良町)

2023-12-11 06:08:46 | 琵琶湖一周徒歩の旅

11/27(月)せっかく琵琶湖に来たのだから、滋賀県の紅葉の名所を訪ねようと思い、長浜でレンタカーを借り、湖東三山に行ってきました。

先ずは、西明寺へ。

今日は、平日ですが、お寺の前の駐車場は、貸し切りバスが何台も駐車しています。この時期福岡の旅行会社のパンフにも湖東三山の紅葉巡りツアーが出て居ます。

 

西明寺は、平安時代初期の承和元年(834)、三修上人が仁明天皇の勅願により開創され、「日本100の古寺」「近江水の宝」アメリアのニュース専門放送局・CNNのウェブ特集において

厳島神社、金閣寺とならび「日本のもっとも美しい場所31選(Japan's 31 most beautiful places)の中に選ばれた天台の古刹です。
本堂は鎌倉時代の代表的な建造物で、国宝第一号に指定されています。
本堂内には秘仏本尊薬師如来(重文)、釈迦如来(重文)、不動明王(重文)などが安置され、なかでも頭に十二支の動物の頭を乗せた十二神将はユーモラスな親しみやすきが特徴で、

自分の生まれ年の干支(えと)の十二神将に願いを託す参拝者も多く、「えと寺」として有名です。
三重塔は総桧造りの優美な塔として国宝に指定され、初層内部に極彩色で描かれた法華経の極楽世界の壁画はまさに圧巻です。
国指定の名勝庭園「蓬莱庭」は四季折々の変化が見られ秋には境内一円に1,000本を数える楓が紅葉し、11月になると天然記念物の「不断桜」とのコントラストが楽しめます。

ゆっくり歩いて紅葉観賞です。

 

 

見事な紅葉です。

 

 

  

 

 

 

 

西明寺のフダンザクラ(不断桜)は、9月上旬から翌年4月頃まで開花する。花はソメイヨシノなどと比べるとやや小振りで、赤みが弱く、白い小花である。紅葉の11月に満開となる

このサクラは、西明寺境内の樹木と調和して独特の風情を醸しだす。
現在指定されているものは、樹齢250年といわれる古木であるが、母樹の主幹は枯死し、萌芽再生によって維持されてきた個体であり、江戸時代以降の西明寺を象徴する存在となっている。

しかし近年,衰退が著しく、その後継木の育成が課題であった。
こうしたことから約30年前に、母樹となる指定木から取り木がなされ、後継木の育成が試みられた結果、3本が育成に成功し、現在の指定木の東側に1本、現本坊の西庭に2本が植えられて

いる。場所により成長等の差異はあるが、おおむね幹径20センチメートル以上、樹高5メートル以上の安定した成木となり、秋には開花し、西明寺の風景の一部として親しまれている。
また、10年前には母樹となる指定木の萌芽から若木を育てることに3本が成功し、本坊庭園上段、仁王門西側平坦面、および三重塔西側斜面の3箇所において一本づつ育成されている。

現在では、幹径10センチメートル以上、樹高最大5メートル程度であるが、いずれも安定した状態で、秋の開花も見られるようになっている。
これら6本の後継木は、西明寺における複数回のヒアリング調査によって250年前に西明寺に植えられたとされる母樹(指定木)の由来樹木と認められる。そこで今回、これらの6本を

後継木として認定し、追加指定することによって、江戸時代より継承されるフダンザクラの保全をはかるものである。(滋賀県西明寺HPより)

 

 

一番先に行った西明寺の紅葉がこんなにきれいでしたので、金剛輪寺、百濟寺の紅葉も楽しみです。

次は、金剛輪寺に向かいます。

 

 

 

 

 


ビワイチ徒歩の旅9日目「長浜~彦根」(滋賀県長浜市~彦根市)

2023-12-08 15:02:27 | 琵琶湖一周徒歩の旅

11/26(日)ビワイチ9日目、今日は、長浜から彦根まで約16kmを予定。

昨日まで宿泊した今津のホテルをチェックアウトし、荷物を持って湖西線近江今津駅から長浜駅まで移動します。

北陸本線の乗換駅の近江塩津駅では、長い階段を荷物を持って移動しました。ホント、エレベーターの設置が望まれます。

今日宿泊する長浜のホテルに荷物を預け、ビワイチスタート。

長浜港近くには、長浜鉄道スクエア、慶雲館があり、まずそこを見学。

長浜鉄道スクエアは、「旧長浜駅舎」、「長浜鉄道文化館」、「北陸線電化記念館」の3施設からなる鉄道資料館です。

<旧長浜駅舎>
 1882年(明治15年)に北陸線の始発駅として建設された初代の長浜駅。現存する駅舎としては日本最古のもので、第1回の鉄道記念物に指定されています。施設内は、駅長室や待合室など、当時の面影をそのまま残しています。また、敷地内には、旧北陸本線のトンネルに掲げられていた扁額(石額)や旧長浜駅29号分岐器ポイント部などの明治の鉄道遺産も展示しています。

<長浜鉄道文化館>
 2000年(平成12年)10月14日の「鉄道の日」に、旧長浜駅舎に隣接して開館。長浜の鉄道史を紹介するほか、琵琶湖水運に関する資料、北陸線を走った鉄道の模型車両などを展示しています。

<北陸線電化記念館>
 北陸線で活躍した歴史的車両「ED70形1号機交流電気機関車」と「D51形793号機蒸気機関車」を展示しています。また、交流電化と直流電化の違い、全国の交流電車などについてパネルなどでわかりやすく展示しています。

  

扁額(石額)

  

 

 

長浜鉄道スクエアの向かい側が、「慶雲館」です。

明治19年(1886年)秋、明治天皇皇后両陛下が翌年京都行幸啓の帰路に大津から船を利用し、長浜に上陸されるとの報が入りました。

長浜に上陸をされてから鉄道へ乗り換える時間に滞留するための適当な施設が無かったことから、当時太湖汽船頭取を務めていた長浜の実業家・浅見又蔵氏は早速私財を投じ、天皇陛下の誕生日である11月3日に行在所建設を着工しました。 行幸啓は翌年2月21日ですから、3ヶ月余りの突貫工事。行幸啓当日の朝に完成する慌ただしさだったと伝えられています。天皇皇后両陛下は同日の13時前に長浜に到着され、慶雲館で休憩し13時45分の列車で名古屋へ向かわれました。

 

 

 

慶雲館からビワイチに戻ります。さざなみ街道の県道2号線を歩きます。

長浜港・・・ここからも竹生島観光船が就航しています。対岸は、昨日まで宿泊した高島市今津、琵琶湖の中で長浜と今津間の幅が約22kmと最大です。

琵琶湖周航の歌にも♪今日は今津か 長浜か…♪と歌われています。

 

琵琶湖沿いの歩道を歩きます。右側のガードフェンスの所に「赤とんぼ」の歌碑が・・・・ガードフェンスのパイプを叩くとメロディが流れるようになっています。

   

歩いていると左側に大きな仏像が建っています。これは、滋賀県長浜市にある臨済宗妙心寺派の平安山良疇寺(りょうちゅうじ)。

こちらの境内には、琵琶湖を背にして大きな大仏さまが立っておられます。その名も「長浜びわこ大仏」です。高さ28m。

 

長浜バイオ大学が左側にあります。その横には長浜ドームです。

 

道の駅近江母の郷で休憩。1997年(平成9年)開設。駅名となっている「母の郷」とは、この地域の特産品である近江真綿が女性の手によって製造されていたことに由来している。

 

休憩後再スタート。ここからは伊吹山が綺麗に見えます。

天野川(あまのかわ)にやってきました。あまのかわというと、「天の川」を連想しますが、調べてみるとありました。

この地に残る七夕伝説は、雄略天皇の皇子「星川稚宮皇子」と仁賢天皇の皇女「朝嬬皇女」の悲恋により伝わるものです。5世紀後半頃の話と言われています。互いに米原の天野川により

隔てた地におり、2人は仏道の修行に励まれていました。会うこともままならず、叶わぬ恋に終わってしまったのです。

全国には、いろいろな七夕伝説があります。ここもその一つでしょう。

  

朝妻湊は古代から東海・北陸地方の人の行き来や荷物の運搬など、湖上交通の要港として発展してきました。歴史上でも秀吉が京の大仏殿建立の際、尾張や美濃から木材を運搬し、木曽義仲の後続部隊の出陣時にも朝妻湊を経て戦地に向かうなど、重要な役割を果たしてきました。しかし江戸時代に入り彦根藩主、井伊氏が米原湊を御用港として保護するのを境に、それまで

行われていた湖上交通は制限され、港のにぎやかさは影をひそめました。今では朝妻湊跡の石碑、港内に敷き詰められた石畳が、当時を偲ぶものとして残っています。(長浜・米原を楽しむ)

朝妻千軒と呼ばれていたので結構発展した湊だったのでしょう。

 

なべかまの里 筑摩」という看板があります。この地でなべ・かまを生産していたのかな?と思い、調べると、何と「鍋冠祭り」でした。

毎年5月3日、滋賀県米原市の筑摩神社(ちくまじんじゃ)で『鍋冠まつり』(なべかぶりまつり)が行なわれます。筑摩地区は桓武天皇の時代に内裏大膳職の御厨(みくりや=神饌を調進するための領地)が置かれた地。筑摩神社の春の例祭『鍋冠まつり』は、近江を代表する奇祭で、米原市無形民俗文化財に指定。

数え年8つの少女8人が、狩衣(かりぎぬ)姿に張子の鍋をかぶって、約300名の行列とともにお旅所から神社まで1kmほどを渡御します。
例年14:00頃に筑摩の御旅所を行列が出発し、15:30頃〜16:00頃に筑摩神社の本殿に参進します。

『鍋冠まつり』の起こりついては諸説ありますが、筑摩神社の祭神が食物の神・御食津神(うかもみたま)であること、当地の御厨から神前に作物、魚介類などを供えるとともに、

特産であった鍋を贖物(罪のあがないとして出す物)としたことが、原初の姿ではないかと推測されています。

当初は、過去には鍋冠りは数え年8つの少女ではなく15歳未満の少女で、それまでに交際(関係)した男の数だけ鍋釜を冠るという不文律があり(貞操を守らせるため)、『伊勢物語』にも

「近江なる 筑摩の祭 とくせなむ つれなき人の 鍋の数見む」(第120段)と詠われるほど有名でした。
さらに「若しその中に犯淫の輩在るときは、必ずその鍋落ちて発覚す」(筑摩神社『筑摩大神之紀』)とも。
江戸時代に、少ない数の鍋をかぶった女性に神罰が下り、かぶっていた鍋を落とされ笑いものにされたことで自殺するという事件が生まれ、藩主の井伊家が断絶を通告。
その後、数え年8歳ならという事で継承したという歴史を有しているのです。(ニッポン旅マガジンより)

今でいうならば「セクハラ」にあたるでしょうね。

  

  

琵琶湖の沖に「多景島(たけしま)」が見えてきます。昔は、竹島と呼ばれたそうです。

見る方向によってさまざまな景色を見せることからその名が付いたといわれる多景島は、彦根市街より沖合約6.5kmに浮かぶ周囲600mの小さな島です。彦根港から遊覧船で行くことが

できます。島全体が断崖絶壁で、岩の上に松や竹が生い茂り風致(ふうち)に富んでいます。
島内には日蓮宗の見塔寺や桜田門外の変で井伊直弼(いいなおすけ)が水戸(みと)藩士に暗殺された時、鮮血を滲ませたという題目(だいもく)岩などの名所があります。島の西4kmに

浮かぶ白石はここから眺めるのが一番美しいといいます。彦根港より、オーミマリンの観光船が運行しています。(びわ湖観光情報より)

 

磯崎神社 伊吹山の荒ぶる神の毒気に当たった日本武尊が、醒井の居醒の清水で正気を取り戻し、都へ帰る途中に千々の松原にて崩御され、ここ磯山に葬られたと伝えられています。
崩御された日本武尊は白鳥になって飛び立ったとも伝わっています。日本武尊を祭神として祀るため、この神社が建立されました。毎年5月3日の例祭では「磯武者行列」が行われ、日本武尊にあやかって男児は武者姿、女児は稚児姿で巡行します。

 

 

彦根市に入りました。入るとすぐ右側に「ミシガン州立大学連合日本センター」があります。

滋賀県とミシガン州の姉妹提携20周年を記念して、1989年に設立された施設で、日米両国、特に滋賀県とミシガン州のさらなる友好関係に寄与することなどを目的に、日本語・日本文化

プログラム、英語プログラム、JCMU学生と滋賀県民との交流など、これまでに例のない画期的な事業に取り組んでいます。当センターの運営は、ミシガン州の15の州立大学の連合体が

あたり、滋賀県の委託により、公益財団法人滋賀県国際協会が施設の維持管理、各種プログラムの運営支援を行っています。

  

ミシガン州立大学連合日本センターの横には、ジュブリルタン クラブハリエ」があります。バームクーヘンで有名なクラブハリエですが、ここはパン専門店です。

お腹も減ってきましたのでここでお昼にします。テラスからの琵琶湖の眺めは最高です。

  

多景島(たけしま)が近くに見えてきました。

 

 

歩いていると「彦根城」が見えてきました。お堀の紅葉が綺麗です。

 

 

  

姫路城などとともに天下の名城の一つに数えられる彦根城は、井伊直継(なおつぐ)・直孝(なおたか)によって約20年の歳月をかけて建設され、元和8年(1622)に完成しました。

佐和(さわ)山城・安土城・長浜城・大津城の石垣や用材が使われました。月明かりに浮かぶ彦根城は美しく、琵琶湖八景の1つに数えられています。明治時代の廃城令や戦火を免れた

彦根城の勇壮な姿を、城内散策で眺められます。また、彦根城の別名金亀城(こんきじょう)の名は、彦根城築城以前、彦根山上にあった寺院に金の亀に乗った観音像が

安置されていたため、と言われています。国指定の特別史跡です。

 

 

 

彦根駅から電車で長浜駅へ。

朝、見逃した「長浜スクエア」を見に行きます。

 

黒壁スクエア

北国街道と、長浜城から東に延びる大手門通り(美濃谷汲街道)との交差点は、江戸時代に高札が立ち、現在でも「札の辻」と呼ばれています。古くから長浜の中心だったこの辻に、

明治33年(1900)第百三十国立銀行長浜支店(6年後に明治銀行となる)が建てられ、壁が黒塗りだったことから「黒壁銀行」の愛称で親しまれました。
和洋折衷の重厚な建物は、その後さまざまな変遷を遂げ、平成元年(1989)、「黒壁一號館・黒壁ガラス館」としてオープンしました。低い鉄柵で囲まれた黒漆喰に白い窓枠のモダンな

外観、内部は玄関上部が吹抜けになっています。1階はガラス製のアクセサリーや生活用品など、2階では、世界中からスタッフが直接買い付けたガラス製品を展示販売しています。

この一號館を取り囲むように、約30店が軒を連ね、二號館 スタジオクロカベはオリジナルガラスを集めた工房併設型のショップであり、ガラス職人による制作の実演をご覧いただけます。

また、黒壁体験教室では、7種類の体験メニューをご用意。初心者の方でも気軽にガラス制作の体験をしていただけます。

 

 

  

今日のGPS

今回4日間で今津~長浜迄約82km歩きました。ビワイチ完歩まであと1/3になりました。

明日は、湖東三山の紅葉を見学に行きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ビワイチ徒歩の旅8日目「塩津~長浜」(滋賀県長浜市)

2023-12-04 18:52:31 | 琵琶湖一周徒歩の旅

11/25 ビワイチ徒歩の旅8日目 今日の予定は、前日ゴールした塩津の道の駅あぢさとの里から長浜市長浜城を目指して歩きます。距離で約30km、最近は20km以上歩いていないので

歩けるかな?宿泊した近江今津駅発8:13で近江塩津駅へ。8:32着、ここから道の駅まで歩きます。今日も朝から細かい雨が降っています。

近江塩津駅のホームから改札口までは長い階段があります。この駅は、湖西線と北陸本線の乗換駅ですが、エレベーターもなければエスカレーターもありません。

思い荷物を持っての乗り換えは大変でしょうね。

  

この道国道303号線なんですが、歩道がありません。このまま国道を歩くと危ないので旧道を通ります。

旧道に「塩津海道」という石碑が建っています。塩津海道は、福井県(越前国)の敦賀と滋賀県(近江国)の塩津を結ぶ街道(道路)五里半越、塩津越とも呼ばれています。

「塩津」という地名には、「塩のない近江に塩が入ってくる港」という意味が込められています。塩津を北の港、大津を南の港にして、北陸から京都・大阪までを結んだ道が、

塩津海道と呼ばれる道です。江戸時代には、物流の拠点として賑わい、塩津は大きな宿場町でした。

 

然し近くの塩津神社の由来を見てみると、

祭神は塩土老翁神(しおつちおじのかみ)で、かつては志波谷に塩池があって23戸が製塩を行なっていたと伝えられ、その人々が遠租である塩土老翁神を祀ったのが始まりだと伝えられて

います。まさに製塩をする津(港)という地名 、果たしてどちらが正しいのか?いずれにしろ北陸から来る海産物などが京・大阪に届けられる港町だったので「塩」の「津(港)」と

呼ばれたのだろうと推測します。

  

先に進みます。国道8号線を横断し県道336号線で琵琶湖に向かいます。ここは、横断歩道もなくまた、トンネルを出た車がスピードを上げてくる所ですので安全確認が必要です。

 

 

飯浦から8号線を離れ、賤ケ岳の方向へ。

 

 

賤ケ岳トンネルを出ると、「千手堂」があります。「伊香33番」と書かれていますが、ここ木之本町、高月町、余呉町、西浅井町は、平成22年長浜市に合併する前は、「伊香郡」でした。

 

「賤ケ岳古戦場」という看板が見えてきます。賤ケ岳の頂上にこの遺跡があるそうです。リフトで登れます。先を急ぎますのでパスします。

賤ケ岳古戦場は、安土桃山時代、本能寺の変で織田信長が倒れた後、明智光秀を討ち実質的な実権を握っていた「羽柴秀吉」と、織田家の旧臣中、第一の家柄を誇る「柴田勝家」との間に

権力争いが生じ、ついに武力を持って決着を付けようとしました。これが、「賤ケ岳の合戦」です。この戦いは織田勢力を二分する激しいものとなり、これに勝利した秀吉は亡き織田信長が

築き上げた権力と体制を継承し天下人への第一歩がひらかれました。歴史で習いましたね。

 

粉かけ地蔵」というのがあります。説明文を見ると、この地蔵さまは粉かけ地蔵またの名は乳呉れ地蔵とも昔から呼ばれています。粉(はったい粉を供えて、お乳がよくでますように、

また乳離れをお願いすると共に、次の子供が生まれるまで乳を預かって下さると言われています。

その昔、大音の峠越えで山梨子の港へ向かう子連れの旅人が、お地蔵様の前まできたとき背中におぶっていた子が急に泣き出し、お地蔵様の前の大きな石に腰をおろしお乳を飲ませようと

したが、お乳が出なかったので、お地蔵様に供えてあった粉を乳首に付けて含ませたところ、不思議なことにお乳が出るようになり、子供は空腹を満たしすやすやと眠ったと言われています。
大音では昔から、はったい粉を作るたびにお地蔵さまに供える風習があり、子供に供えに参らせたところ、うまく供えられなくお地蔵さまにぶっかけたことから粉かけ地蔵と呼ばれるように

なり広く親しまれています。

 

遠くに「伊吹山」が見えてきました。昨晩の冷え込みからか、山頂には白いものがありました。8号線をそのまま進むと木之本駅です。

2011年だったか、NHK大河ドラマで「江姫」が放映されたとき、長浜ツーデーマーチで余呉湖から長浜城まで40k歩きました。山の中をずーっと歩いた記憶が蘇りました。

まだまだ、若かった??から40kも歩けたと思いますが、今でも若いとは思ってますが、膝痛を抱えていますし、もう歩けないかな~

8号線から県道44号線に入ります。長浜まであと18km。長いな~

 

ここは、サイクリングロードですが、トイレも休憩スペースもありません。ひたすら歩き続けます。

右側に「西野水道」という看板が見えます。水道工事屋さんの看板かな?と思ってましたが、調べると、「滋賀県指定文化財。西野水道(にしのずいどう)は、西野の西山という山の麓に、琵琶湖へ向かって貫かれている高さ約2m、幅約1.5m、長さ約250mの排水用の岩穴です。今から170年前、たびたび洪水に見舞われていた西野地区を、洪水から守るために、充満寺の第11世・恵荘上人の発起により行われた土木事業です。能登、伊勢から石工を招き、6年の歳月と1275両をかけてノミだけで掘り抜かれた手堀りの岩穴です。(長浜・米原を楽しむ)」

 

トンネルを通り、再び琵琶湖に。トンネルを出ると琵琶湖からの風が強くなりました。寒いです。空からは冷たいものも降ってきました。

 

 

道の駅みずとりステーションが見えてきました。ここで休憩と遅い昼食。軽い昼食と思ってうどんを注文しましようとしましたが、どれも1000円近い値段。

福岡だったら普通500円前後です。やはり道の駅だからかな???

 

休憩後再スタート。琵琶湖に沿って歩きます。

 

 

 

姉川を渡ります。この姉川も歴史で習いましたね。俗にいう「姉川の戦い

元亀1 (1570) 年6月 28日,近江国姉川の流域で行われた織田信長,徳川家康連合軍と浅井長政,朝倉義景の族将同景健連合軍との戦い。

これより先,信長は足利義昭を将軍職に推して上洛したが,越前朝倉氏と近江浅井氏はともに畿内における信長勢力の伸張をはばもうとし,しばしば信長と戦った。元亀1年4月,信長は

朝倉氏追討の軍を起したが,浅井氏は,朝倉氏に呼応したので,信長は家康に援軍を依頼してこれに対した。初め浅井,朝倉連合軍が優勢であったが,徳川軍の奮戦により,結局織田,

徳川連合軍の勝利に終った。織田,徳川軍の兵力は,2万 9000人,浅井,朝倉連合軍のそれは1万 8000人という。この勝利によって,織田信長の畿内における覇権がほぼ決定した。

浅井,朝倉両氏はこの敗戦により,次第に勢力を失い,やがて信長によって滅ぼされた。

 

ここからは伊吹山が綺麗に見えます。

 

 

ヤンマーの工場を過ぎ、遠くに長浜の街が見えてきました。

 

 

長浜城から長浜駅へ。16:20長浜駅に到着。

 

歩行時間7時間30分、距離は30kmでした。

   

 


ビワイチ徒歩の旅7日目「マキノ~塩津」(高島市マキノ町~長浜市西浅井町)

2023-12-01 11:26:01 | 琵琶湖一周徒歩の旅

11/24(土)天気予報では滋賀県は曇りですが、琵琶湖北部は、朝から細かい雨が降っています。

ビワイチ7日目は、マキノ~塩津まで予定しています。塩津は、湖西線と北陸本線の交差する駅です。

マキノ駅8:25スタート

 

 

歩いていると石積みが見えてきます。案内板には、「高島市 海津・西浜・知内の水辺景観」としてこの石積みが説明されています。

海津は古くから湖上交通の要衝として栄えた宿場町です。湖岸には、風波から家宅を守るために江戸時代に代官西与一左ェ門によって作られた、城壁を思わせる古い石積が延々約1.2kmにわたり残っており、往時の繁栄を偲ばせる雰囲気をかもしだしています。また別の記録によると、海津の石積みはこのころにはすでに築かれていたとされ、江戸時代中期には、ほぼ現在に残る海津・西浜の石積みの景観が完成していたものと思われます。この湖岸の石積みをはじめ、河川や内湖、共同井戸、知内川で続けられている伝統的なヤナ漁など、多様な水文化が存在するマキノ町海津・西浜・知内地区の水辺景観が、平成20年全国で5番目の重要文化的景観に選定されました。重要文化的景観「高島市 海津・西浜・知内の水辺景観」では、その景観を構成する重要な要素として、この海津・西浜の石積みのほか、海津漁業協同組合旧倉庫、知内川漁業者組合旧倉庫のほか、江戸時代に建造された町家5軒を定めています。

  

 

 

 

町の中に金色の建物があります。見てみると「海津迎賓館」と書かれています。

もともとは、幕末から明治の実業家「井花伊兵衛」の家で、彼は、肥料用石灰の製造で財をなした方です。後年磯野源兵衛と共同で汽船を製造し、琵琶湖の南北を結ぶ「大津~海津」を

就航させました。現在は、別の方が所有されているそうです。

 

 

歩いていると鮒ずし「魚治」という鮒ずしのお店があります。創業は天明4年(1784年)。

何と、この店、コミック誌「美味しんぼ」に出てきた鮒ずし屋さんです。鮒ずしは、私、苦手ですが、小魚の佃煮とごりのお茶漬けを買いました。※美味しんぼは全巻持っています。

 

海津の町を歩いていると他にも旧家が目につきます。

吉田酒造は、大正15年(1926年)創業。「竹生島」という銘柄のお酒の製造。中村商店は、「角二醤油」の製造元。創業400年の歴史があるそうです。

 

海津の町を離れ、大崎へ向かいます。

 

「日本のさくら名所100選」にも選ばれている海津大崎の桜。樹齢80年を優に超える老桜から次世代へ引き継ぐ若木まで約800本の華麗なソメイヨシノがびわ湖岸約4kmにわたり続きます。

近年見頃は4月上旬頃(気候等により前後します)となり、近畿圏では遅咲きの桜名所として知られています。また、海津大崎は、琵琶湖八景「暁霧・海津大崎の岩礁」としても知られる

景勝地で、びわ湖随一の岩礁と、湖の碧、遠くに望む竹生島、その景色の絶妙なコントラストは何度見ても美しく、毎年多くの花見客で賑わいます。この美しい景観を後世に継承して

いくため、地元「美しいマキノ・桜守の会」が中心となり保全活動にも取り組んでいます。(高島観光ガイドより)

 

 

 

大崎寺は、真言宗智山派の寺院です。近江西国9番の札所で、俗に「大崎観音」の名で親しまれています。
奈良時代に泰澄によって開基され、尊像は聖徳太子の作といわれています。境内の千貫松(せんかんまつ)・弁天松(べんてんまつ)と呼ばれる老松、春には美しい桜が見事な景観を

作り出します。

 

海津大崎には、トンネルがあります。ビワイチウォーキングのガイドブックを見ているとトンネル内は暗くて歩道がないということでしたので、ヘッドライト後ろには、工事に使う

赤の保安灯また、熊が出るかもしれないので熊よけのスズもつけて歩きます。

  

 

ここからは、竹生島が近くに見えます。

 

大崎の中間ぐらいが、高島市と長浜市の境界です。長浜市西浅井(にしあざい)に入ります。浅井というと、戦国大名「浅井長政」からとった地名でしょうか?

 

 

このあたり、リゾートホテルやキャンプ場が多くみられます。

 

 

 

先ほどから気になっていましたが、道路の中央に保安灯みたいなものがあったのですが、これって雪を解かす水だったのですね。今日、試運転されていました。

古い建物のお店があります。サイクリングの人が何人か中に入っていくので私も中に入りました。

ピーナツせんべいのお店でした。歳をとるとせんべいなんか歯に挟まるのであまり食べませんが、一口食べてみるとそんなに硬くなくピーナツの香りがして美味しかったです。

お土産に3個買いました。この近くに丸子船の館があるとお店の方に聞いて行ってみることにしました。

  

丸子船(まるこぶね)とは、かつて琵琶湖の水運を担った和船。琵琶湖の環境や用途に合わせて独自の発達を遂げた帆船の木造船で、同時代の輸送船を代表する沿岸海洋用の弁財船と比べると船幅は狭く喫水は極めて浅い。また、船体脇にオモギと呼ばれる丸太を半割りにしたような部材を用いる独特な構造や、ヘイタと呼ばれる短冊状に成形した板を桶のように曲面状に剥ぎ合わせた船首構造と、船首にダテカスガイと呼ばれる短冊状の銅板を貼り付ける装飾をもつことなどが特徴である。

琵琶湖北岸の長浜市西浅井地区には、琵琶湖舟運を利用した塩津浜、その西の大浦(北淡海・丸子船の館の建つ地)、菅浦という3つの湊があり、塩津浜は塩津街道(現在の国道8号)で、

大浦・菅浦は西近江路(国道161号)で敦賀と結ばれていた交通の要衝。
江戸時代、日本の経済を支えたのは日本海沿いに下関を回って瀬戸内海に入る北前船(「北前」とは上方で日本海を意味した言葉)。
また寛文12年(1672年)に幕府の命を受け、出羽国で産する城米(天領で産する米)を運ぶために河村瑞賢が西廻り航路(北前船)を確立するまでは、敦賀から琵琶湖の北岸まで陸送し、

塩津浜、大浦・菅浦で丸子船に載せ替えて、京・畿内に運ぶ道がメインルートでした。
つまり鉄道網が発達するまでは、北前船の交易と琵琶湖の舟運を使った大動脈が存在していたことに。
琵琶湖の総船数は関ヶ原の戦い直後の慶長6年(1601年)に1200艘、近距離輸送の増大した18世紀初頭の享保年間(1716年〜1736年)には3939艘を数えています。
丸子船だけに限ると、慶安2年(1649年)に1007艘、享保19年(1734年)に1348艘となっています。

 

 

 

先に進みます。大浦腹帯観音というのがあります。観音様の腹帯をいただいて祈願すれば安産すると伝えられています。美智子上皇后様御懐妊の際も献上されたことで広く知られています。

榧(かや)の木の一木彫りで比叡山延暦寺の開祖・伝教大師の作と伝えられています。

 

ここから岩熊トンネルまでは、坂道です。

 

 

トンネルを通りしばらく歩くと「塩津」(しおつ)の交差点。塩津が琵琶湖の一番北側です。

交差点の所に紫式部の句碑があります。※塩津(しおつ)と大津(おおつ)は、濁点がありません。

長徳2年(996)紫式部は、越前守となった父藤原為時に同行して越前国に下向。塩津山(深坂峠)を越えていくときに詠んだ句。

「知りぬらむ ゆききにならす塩津山 よにふる道は からきものぞと」 意味は、「人足たちよお前たちも人生の道は、この峠のように知っているだろうに」

ここには、読人不詳の句もあります。

「あぢかまの 塩津をさして漕ぐ舟の 名を告りてしも 逢はざらめやも」意味は、「アジカモや鴨の群れ飛ぶ塩津をさして漕ぐ舟 その名を告げたのだからお逢いせずにおられましょうか」

※「あぢかま」とは、塩津地域を指す枕言葉で、琵琶湖の水辺で冬を越す鴨に由来しています。

 

今日のゴールは、「道の駅あぢかまの里」。14:15ここで遅い昼食をいただきました。

 

道の駅から路線バスで近江塩津駅に移動。距離は18kmぐらいでしたが、坂道が多く疲れました。