よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

佐賀城址の桜、佐賀城址周辺ウォーキング(長崎街道番外編)

2011-04-21 16:32:46 | ウォーキング
4/10、佐賀城址の桜が綺麗だと聞いていたので、街道歩きを中断し、
佐賀城跡に向かいました。
佐賀城は、天正年間(約420年前)龍造寺氏が築き、慶長16年(1608)実権を受け継いだ
鍋島勝茂氏が入城しました。

先ず佐賀城の鯱の門です。
これは、天保9年当時の姿を残しています。
佐賀の乱での鉄砲の跡も残ってます。

桜は、天守閣跡に咲いています。
ちょっと盛りは過ぎた感はしますが、見事な桜です。
やはり、城と桜似合いますね。

佐賀城本丸です。
佐賀城本丸は、明治新政府以降佐賀藩庁として使われました。
その後裁判所、小学校などとなり、平成16年佐賀城本丸歴史観として建て替わりました。
「御座間」は天保期の瓦、柱などが使われています。



佐賀城の近くには、大隈記念館があります。
御存知の通り、大隈重信は、早稲田大学の創設者、政界では2度の総理大臣を
経験しています。
大隈重信の生家が残っていました。

龍谷高校の近くには、大木喬任(たかとう)の生誕地が
あります。大木喬任は、江藤新平と共に「江戸遷都」を唱え、文部卿として
教育体制の整備を行いました。東京府知事でもありました。

弘道館跡
佐賀藩の藩校です。この弘道館からは、大隈重信、大木喬任、副島種臣、
江藤新平、島 義勇(よしたけ)、佐野常民
など明治新政府で活躍した人たちが
巣立っています。


 ※島 義勇・・・・札幌を中心に北海道を開発した北海道開拓の父。
          佐賀の乱で江藤新平と共に刑死。
 ※佐野常民・・・・工部大丞・元老院議長、農商務相、枢密顧問官などを歴任、
          博愛社(現日本赤十字社)の創設者。
 ※副島種臣・・・・維新後参議となり、外務卿時代にはマリア・ルース号の解決に
          あたる。征韓論を主張して下野。のち、枢密顧問官、内相などを
          歴任。書家としても才能を発揮した。

弘道館の教育方針は、25歳までに卒業しないと親の家禄を削減するというもので
現在のスパルタ教育みたいなものでした。

弘道館跡横には、徴古館(ちょうこかん)があります。
ここには、鍋島家ゆかりの博物館として昭和2年開館。しばらく休館していましたが
平成10年再開。鍋島家伝来の資料を公開しています。
私が行った日は、開館時間を過ぎており、中には入れませんでした。


徴古館近くにもきれいな桜が咲いていました。
          


長崎街道を歩いています№10「牛津~佐賀城内」

2011-04-16 13:30:26 | 長崎街道歩き
4月10日長崎街道「牛津~佐賀城址」まで歩きました。
長崎街道歩きも今回で7日目(正確に言うと6日目)。
だんだん街道歩きの楽しさが分かってきました。

午前7時15分、福岡を車で出発し佐賀駅前に車を置き、佐賀発8時24分の
電車で前回ゴール地の牛津駅へ。
ここから今回のスタートです。
旧街道の商店街を抜け、継場跡、(前の宿場から送られた一般旅人の荷物をここに
受け継ぎ次の宿場に送り継いだ所)高札場跡、(高札を掲げて禁制すべき箇条を列挙し、
一般市民に告示した場所)を通り、本陣であった正満寺を通って一路久保田へ。
途中の新宿観音の桜が満開なのでしばし桜見学をする。
今日は町内の出方なのか皆さんで草刈作業が行われていた。



「町分」というバス停に来た。
ここから右に行きと「芦刈町」。芦刈町の案内板がむつごろうの絵が載っている。

時間は9時を過ぎたところ。歩き出すとエンジンがかかってきたのか暑くなってきた。
「祇園宮」でジャンバーを脱ぎまた歩き出す。

「香椎神社」に差し掛かった。
このお宮は、安元3年(1177)に窪田因幡守利常が勧請したもので鳥居は「肥前鳥居」と言って
佐賀県の重要文化財になっている。また、鳥居の横の石橋も古さを物語っている。

街道は、嘉瀬川に差し掛かった。
旧道はここから右に入っていく。
そこで見かけた古い「千鳥饅頭」の看板、家も白壁の家でレトロな雰囲気が漂っている。
ふと、表札を見てみると「原田本家」と書いてある。
原田本家というとあの千鳥饅頭??
帰ってから調べてみると原田家は、ここ久保田で和菓子店「松月堂」を営んでいた。
どうかして拡販を図りたかった先代は炭鉱景気で湧く飯塚に目をつけた。
ここで支店を設け、カステラの中に餡子が入るような饅頭を開発した。
これが炭鉱に働く人に受け「千鳥饅頭」の誕生となった。それから飯塚支店を本店にした。
因みに千鳥は、菅原道真の句からとったという。
また、先代の長女は、羊羹で有名な「村岡屋」に嫁つぎ、ご主人亡き後社長として
活躍された。先日90歳で亡くなられたと新聞に載っていた。

街道は嘉瀬川を渡る。
ここの河川敷は今やバルーンフェスタの会場。
若し江戸時代の人がこのバルーンを見たらどんなふうに感じただろうか?
嘉瀬川を渡ると嘉瀬町。
右側に森林公園がある。広い敷地には野球場などがある。
「刑場跡」はこの公園の中にあった。
隣には千人塚があった。江藤新平もここで処刑された。

公園の案内板を見てみるとこの公園内に「鑑真和上上陸記念碑」があると書いてある。
鑑真和上は、鹿児島の坊津に上陸し太宰府を経て平城京に行かれた。
その足跡を私は、一昨年に坊津へ、昨年は太宰府、奈良の唐招提寺に行った。
坊津からは陸路だろうと思っていたが坊津から東シナ海を通り、有明海から
この嘉瀬津に上陸したのだ。和上はその後太宰府~博多に行き瀬戸内海を通り平城京に
着いたという。鑑真和上記念碑の横には中国から送られた「瓊花」という木が植えられていた。

公園の前には、俊寛僧都の墓がある。
俊寛は、平安時代の僧で1177年鹿ヶ谷で藤原親成、成経父子や平康頼らと平氏討伐を
謀ったが源行綱の密告により発覚し喜界島に流された。当地で亡くなったということに
なっているが、ここ佐賀を始め脱出したという説もある。
歌舞伎「俊寛」の題目にもなっている。


「せんぺい」という看板が面白い
国道207号線森林公園バス停から旧道の方へ向かう。
国道から離れている為かこの通りにも昔の家並みが残っている。
家の造りからしてこの家は昔の商家だ。何屋さんだったんだろう?
色々想像してみるのも面白い。これが街道歩きの楽しさだろう。
近くの方に聞いてみた。「呉服屋」さんだそうです。

旧道と国道が交差する所に来た。
ここに別れの松がある。
この「別れの松」は刑場に曳かれる罪人がここで見送りの肉親や知人と永遠の別れを
告げねばならなかった。そこでこの場所を別れの松と呼ばれていた。早朝白衣に
まとった姿で駕籠を出された罪人はこの松の所でしばらく駕籠を止めて見送りの
者と別れの水盃を酌み交わすことが許されていた。
明治になり嘉瀬の刑場が廃止になっても「別れの松」は代々植え継がれ今も残っている。

国道207号線「高橋」の信号から左折する。
左折するや、前方に木製の橋が架かっている。これが高橋だ。
旧高橋は本庄江を航行する船の往来を便利にするため橋桁を高く持ち上げ船の帆柱や
竿が支障なく通るようにした為その名が起こったといわれている。
江戸時代までは高橋の市場には集散する船の積荷で賑わっていた。
また、この時代のことを数え歌で歌っていた。
「一(市)は高橋、二(荷)は牛津、三(産)は泰順、四(詩)は安道、五(碁)は
但馬、六(禄)は諫早、七(質)は成富、八(鉢)は皿山、九(句)は十方庵」
このように高橋周辺は、市として栄え瓦屋、蒲鉾屋、元結紙製造屋などがあった。
この辺りが佐賀宿の入口になっている。

佐賀宿に入ると路上の片隅に恵比寿像が建っている。
色々な形の恵比寿様があり楽しませてくれる。
また、街道の印としてU字溝のフタに街道の絵をプリントしている。
これを辿っていけば長崎街道だ。

八戸(やえ)の地蔵菩薩がある。
これは、宝暦6年(1756)に長瀬町の鋳物師であった谷口安左衛門兼品のよって
鋳造された銅製のものであったが戦時中の昭和19年に拠出され、昭和29年
八戸地区の有志によって石像が再建された。
昔、街道を旅する人々は道中の無事と無病を祈願した。

久保薬店という古い薬屋さんがある。
案内板によれば「城下で最も古い生薬屋といわれ、醫局監製「牛黄清心圓」
(ごおうせいしんがん)の看板がその昔を偲ばせる。
安政5年(1858)6月8日付けの「久保家日記」を見ると「明日牛黄清心圓」を
調合したいという願いを好生館御役所に提出した」とある。
当時佐賀藩の薬局は好生館薬局と称され醫局立会いの下に諸薬が調整されていた。
尚、牛黄清心圓は中国漢方医学書「恵民和剤局方」に記載されたもので牛黄を主薬
としたかんの薬とされ神経を安定させ身体を強める
薬として賞用されていた。」
※牛黄:牛の胆嚢や胆管に出来た結石を採集し乾燥させたもの。

久保薬店の付近の家々は道に対してやや斜めに建てられ家の前にはさんかくの空間が
出来ている。これがノコギリの歯に似ていることからノコギリ型家並みといわれている。
また、この家並みが建てられた理由は敵が攻めてきたときその窪みに隠れて不意をついて
攻撃できる為などといわれている。

このあたりは、どういうわけか知らないがお寺が多い。
街道から左に入ったところに「龍雲寺」がある。
入ろうとするが橋桁の工事のため通行止め。迂回路に従って行く。
「龍雲寺」は、藩内外の武士の言行の批評を通じて武士の心構えを説いた
「山本常朝(じょうちょう)」の墓がある。葉隠武士を説いた人です。
名文句は「武士道と云ふは死ぬ事を見付けたり」である。
よく、太平洋戦争で特攻、玉砕や自決の時に使われていたが、常朝自身「我人生くる事が
好きになり」と後述しているように葉隠は死を美化したり自決を推奨する書物と一括する
ことはできない。嫌な上司からの酒のお誘いを丁重に断る方法や部下の失敗を上手く
フォローする方法、人前で欠伸をしないようにする方法等現代で言うところの
ビジネスマナーの指南書である。(Wikipediaより)

街道の資料によるとこのあたりに江藤新平の墓があるそうだ。
ちょっと街道を離れるが行ってみる。
本行寺に彼の墓はあった。江藤新平は(1834~1874)は、藩校弘道館時代に枝吉神陽の
影響を受け尊皇論を唱え文久2年(1862)には脱藩して倒幕運動に従ったが捕らえられ
永久閉門となり慶応3年(1867)まで謹慎させられ極貧の生活を送った。
明治維新後新政府に招かれ大木喬任(たかとう)とともに江戸遷都を建議し実現させた。
のち文部大輔として文部省官制を整備し更に左院、副議長、司法卿、参議を歴任。
特に司法卿として司法権の独立、民法編纂に大きな業績を残した。
また、征韓論に敗れて下野し島義勇(よしたけ)らと共に佐賀の乱をおこし志を遂げようと
したが成らず刑死した。のち罪名をとかれ大正5年(1916)従四位を追贈された。


再び街道に戻る。
日新小学校の所に反射炉があると地図に書いてある。
佐賀藩は寛永19年(1642)から福岡藩と交代で長崎港の警備にあたってきたが、
文化元年ロシア使節レサノフの来航、文化5年にはイギリス軍艦「フェートン号」の
長崎港侵入があり長崎港の警備はそれ以来緊迫した空気に包まれた。
鍋島直正が10代藩主につくとこれに対処する為長崎港台場の増設と洋式大砲の設置を
痛感し、幕府に提議するが認められず嘉永3年(1850)藩独自に築地(今の日新小学校)に
反射炉を築き日本で最初の鉄製大砲の鋳造に成功した。
嘉永6年(1853)ペリーが来航すると幕府は江戸湾防御の為、品川に台場を新設し
大砲を佐賀藩に注文した。そこで佐賀藩は多布施に公儀用の反射炉を増築し安政3年
(1856)までに24ポンド砲25門、36ポンド砲25門納めた。更に150ポンド砲
3門を幕府に献上した。また、当時世界で最高の技術を要するアームストロング砲を
佐賀藩では元治、慶応年間に3門鋳造することに成功している。
今、東京・フジテレビのあるお台場は、この佐賀藩の大砲が設置された所です。


街道は六座町に入る。
六座とは何か?と歩きながら考えていると「穀物屋跡」「縫工屋跡」「木工屋跡」
「金銀屋跡」「鉄砲屋跡」「煙硝屋跡」の碑が建っている。
佐賀城下の町づくりの際、鍋島町蛎久から北面八幡宮と共に蛎久の市場をここに移した。
城下で一番古い歴史を持った町で市場発祥の地として長崎街道佐賀城下一の繁華街で
あった。

伊勢神宮を通ると交差点の向こう側に魚料理屋さんが・・・・
今、1時15分。今日は佐賀に行くので朝食を朝5時ごろとった。
どうもお腹がすいてきた。まだランチタイムということで迷わず店へ。
美味しい店なのか、お客さんが順番を待っている。
15分ぐらい待ったであろうか、お店の方の誘導で店の中へ。
私は、海鮮丼定食、家内は鯖竜田揚げ定食を注文。
出てきた定食は、どちらも美味しく流石行列のできる店は違うな!

30分ぐらい休憩し再び街道へ。
龍造寺八幡宮に着いた。
この八幡宮は、龍造寺李益が鎌倉鶴岡八幡宮の分霊を祭ったもの。
藤原道隆の流れを汲む高木季家が文治2年肥前国小城郡龍造寺の地頭となり
その地名から龍造寺を名乗った。南北朝では足利尊氏につき、次第に勢力拡大する。
水ヶ江に城を構えそれが今日の佐賀城の原型になった。

九州北部に覇を唱えていた龍造寺隆信は、天正12年(1584)島津・有馬連合軍に
敗れ、家は没落。補佐役の鍋島直茂が実権を掌握し佐賀藩を打ち立てた。

ここにあの「鍋島化け猫騒動」がおこる。
色々脚色されているが、
「2代藩主鍋島勝茂の時代、勝茂の碁の相手を務めていた盲目の龍造寺又七郎が
勝茂の機嫌を損ねた為、斬殺される。又七郎の母は飼っていた猫に悲しみの京中を
語り自害。母の血を舐めた猫が化け猫となり城内に入って毎晩のように勝茂を苦しめるが
忠臣が猫を退治し鍋島家を救うというもの。

私が子供の頃は、夏場はこの怪談映画が多かった。この化け猫は、入江たか子さんが
演じ、迫力ある演技で映画を見た夜は恐くて一人で寝れなかった。

街道は佐賀市の中心部を歩く。
「柳町」という所に差し掛かった。
ここには、佐賀歴史民族館があり明治時代の古い建物が公開されている。
古賀銀行は、明治18年両替商をしていた古賀善平が設立した
銀行で大正8年には九州の五大銀行の一つに数えられるまで成長した。
大正15年恐慌により休業に追い込まれその後は商業会議所、労働会館として改築され、
現在佐賀市歴史民族館として復原されている。

旧古賀家
古賀銀行の創設者古賀善平の住宅で明治17年に建てられた。
町屋でありつつも武家屋敷の様式を呈している。
室内には15の和室があってそれぞれの部屋には見事な欄間やふすま絵が楽しめる。
三省銀行
明治15年7月旧佐賀藩士柿久栄次を頭取に佐賀郡の米穀商を株主にして三省社という
銀行類似業が設立され佐賀郡蓮池町(現佐賀市柳町)に本社を置いた。三省社は営業向上
とともに普通銀行への転換が要求された。明治18年資本金5万円の三省銀行となる。
その後米穀思惑売買の投機師とも取引を結ぶようになった。
それがいつの間にか投機師専門の金融機関化し貸付方針が乱れ貸付資金の大部分が
回収不能に近くなりその後経営が悪化し明治26年商法実施直前に解散した。

あと、牛島家、福田家、中村家など明治時代の建物が
残されている。

肥前通仙亭というのがある。
ここには、煎茶の祖といわれる高遊外売茶翁(こうゆうがいばいさおう)のことが展示されている。

今日佐賀の町を歩いていると幕末から明治新政府にかけて活躍した佐賀の七賢人の功績を
見たくなり、急遽、佐賀城址に行くことにした。   (続く)

今回のGPS

8時間歩行。距離22.3km




















長崎街道を歩いています№9(武雄・高橋~牛津宿)

2011-04-09 14:49:29 | 長崎街道歩き
3月27日長崎街道(武雄・高橋~牛津宿)約25kmを歩きました。
福岡を7時15分に出発し、途中小城に立ち寄り武雄温泉駅に着いたのが9時10分。
車を駅に置き、ここから前回ゴール地の高橋駅まで歩きます。

高橋駅に着いたのが9時45分。
ここから今回の街道歩きのスタートです。

この街道歩きには、前からGPSが必要だなと思っていろいろ探してみると値段も
手ごろでGPSウオッチというのを見つけ出し今回初めてこれをつけての街道歩きです。
それと、前回道を間違えたので今回は事前にコースをチェックし特に曲がり角などには
蛍光ペンで印を入れていました。

今回の歩行GPS

【北方宿】
長崎自動車道の高架を通り過ぎると北方宿に入ってきます。
民家の前に追分石が立っています。
もう古くて読めませんが、多分「さが」「たけお」「いまり」と書いてあるんでしょう。

この北方は、合併により武雄市に入っていますが元々は杵島郡でした。
杵島郡というと真っ先に思い出すのが「杵島炭鉱」。
炭鉱絵馬が奉納されていると聞いて「大崎八幡宮」へ。
本殿に入ると神事が行われているのか中には入れませんでした。
本殿の外から見てみると炭鉱絵馬がありません。
天井絵は、十二支が書かれていました。


北方宿本陣は、この八幡宮から少し入った所にありました。
江戸時代、旅人は旅籠がある塚原宿に泊まり北方宿は通過するだけの宿場でした。
本陣は天保10年に建てられ伊能忠敬も宿泊した記録があります。
北方は、国道から少し外れているのでしょうか、古い家が立ち並んでいます。
木ノ元集落に着きました。
左手に「稲主神社」があります。
五穀豊穣を願ったのか、境内の狛犬の所に俵の石碑が建っています。

木ノ元神社を過ぎると今はトタンで覆われていますが、藁葺きの屋根があります。
何か、昭和半ばにタイムスリップしたような感です。

しばらく街道を歩いていると石楠花の寺・高野寺という看板がありちょっと覗いて
みたくなり街道を離れる。残念ながら石楠花はまだ咲いてなく4月中旬ぐらいに
なろうという住職さんの話。諦め再び街道へ。

「追分」という信号に出てきた。
ここから「塩田」と別れる。
長崎街道は、昔は塩田を通るルートだったが、塩田は、川の氾濫が多く、いつの間にか
武雄のルートが定着した。

「焼米宿」という説明看板がある。近くには、焼米溜池もある。
長崎街道25宿には入っていない。
説明文を読んでみると
「船運みにも恵まれた船津で上使屋はなく、旅籠、船宿があって酒屋、茶屋、味噌、
醤油などの日用雑貨店がある庶民の宿場だった。
寛政12年(1800)鍋島治茂公は、白石地方の新田が開発され灌漑用水、干害防止を
兼ねた焼米溜池を築造させた。」

因みに「焼米」という地名は、武内宿禰が来たとき住民達が焼き米を
献上したからとか?
また、「武雄」の名は武内宿禰のお父さんの名「武雄」からとったとか。

「福母地蔵」を通り、大町町役場近くに来ると「土井家住宅」の看板がある。
「土井家住宅」は、19世紀初頭から江戸末期まで造り酒屋だった。
明治初期農家の土井家の所有になった。国の重要文化財になっている。

このあたりは、昔の大きな家が多い。
また、赤レンガの倉庫など歩いていて楽しむことが出来る。

また、お地蔵様も赤レンガで囲われている。

【小田宿】
「小田宿」に入ってきた。
街道の家々には「小田宿」の旗を立てている。民家の玄関先には「千切り大根」に
するためであろうか、切った大根を干してある。

「横辺田代官所跡」がある。
説明文によると
「文明15年(1483)肥前の国主藤原朝臣家兼公が現在の砥川町、江北町、大町町、
北方町の六角川北岸の北郷地域を総称して横辺田と称し領有したことに始まる。
享和元年(1801)に佐嘉本藩の直轄地として藩主鍋島治茂公(第8代)が七代官所の
一つに入れ明治9年(1876)に廃止されるまでの172年間横辺田、東郷、白石中郷、
南郷、六角郷、橋下郷、成瀬郷、北方郷、塩田郷、吉田郷、嬉野郷、能古見郷、
七浦郷、須古郷、など15の郷を嘉永2年(1849)には諫早代官所の所轄地域も
横辺田代官所に合併されて民政の安定と課役を司り行政所轄の中心所在地であった。」

現在は、何も無く、大きな椋の木が植えられている。

「馬頭観音」に着いた。
奈良時代の天平9年(739)僧行基がこの地に居た豪族親娘の情愛や孝行話に感動して
かつては海辺にあった大楠に馬頭観音様を彫りあわせて人馬の安全と健康を守る為
祈願したといわれる。
然し、江戸時代の嘉永4年(1851)側の観音堂が火災に合い楠樹に延焼し、観音像は
難を免れたが焼け跡から風化腐朽を早め現在は尊像をみることはできない。

観音堂に行ってみると天井には馬の絵がたくさん描かれていた。

小田宿は、各民家の軒先に「小田宿」の旗を立ててある。
これも町おこしの一環だろうか?
民家の玄関先にはビオラがきれいに咲いていた。
歩きつかれた私達を和ませてくれる。



小田宿追分石跡のあった「中島商店」に差し掛かった。
河島さんの地図ではここを右折と書いてある。
この中島商店の家も大きい。昔は商家だったのだろうか?
尚、この追分石、現在は江北中学校に移設されています。


街道は田園地帯になった。
今日は、天気がよく、私のDバックの後につけた「鯉のぼり」が勢いよく泳いでいる。
街道歩きの先輩のRさんが鯉のぼりをつけて「東海道」を歩かれたので私も真似して
鯉のぼりをつけて歩いている。

「朝鍋宿」というバス停に差し掛かった。朝鍋宿は、この街道の宿場町にない。
説明文もないので帰ってネットで調べるがわからなかった。

街道は、JR肥前山口駅に着いた。
前回の街道歩きはここを終点にしていたのだが道を間違えたりして来れなかった。
今回は、事前にコースを予習していたからここまで間違えなく歩いている。

「カンカン石」という所にやってきた。
そこに置いてある小石でこの石を叩くと「カンカン」という音がする。
面白いので何回かやってみる。端の方を叩くとならない。真ん中あたりで音が
しているみたいだ。この石、磁鉄を含んでいるのでこんな音がするそうだ。


【牛津宿】
六角川を渡ると牛津に着いた。
昔、牛津は小城郡の中に入っていたが、2005年旧小城郡の小城、三日月、牛津、
芦刈の4町が合併し新しく「小城市」になった。人口約46000人。
牛津は長崎街道沿いの宿場町「牛津宿」として、また有明海に面した港町で
西の浪花と呼ばれるほど商人の町として栄えた。小城支藩の米、佐賀の物流を
扱う卸問屋が集まったので賑わい「港には百石船が目白押し」といわれていた。
牛津のことを歌ったものに「一(市)は、高橋、二(荷)は牛津」
「牛津 津でもち 駅でもち 町の栄えは店でもつ」というのがあった。
物資は有明海から牛津川をさかのぼる船によって運ばれました。

牛津駅にある長崎街道銅板。当時の牛津宿のことが描かれている。

牛津駅構内

時計を見ると午後4時。今日の街道歩きはここまでとするが
武雄まで戻る電車を見ると少し時間があったので駅の裏にある「旧田中丸邸」に
行くことにする。
「旧田中丸邸」は、現在牛津会館、赤レンガ会館になっているが、
田中丸氏は牛津商人の代表格で三代目田中丸善蔵氏は、日清戦争で財をなし
佐世保に玉屋デパートを創業した人です。
玉屋デパートは全盛期には、小倉、博多、佐賀、長崎、佐世保、伊万里と
店舗があった。
その田中丸さんの自宅が「牛津会館」倉庫が「赤レンガ館」になっている。

この田中丸邸を見学したらちょうど帰りの電車の時間迫ってきた。(次回続き)


  ※本日の交通費  駐車場代(武雄駅)400円
           牛津~武雄JR  360円
























讃岐うどんつるつるウオーク(香川県坂出市)

2011-04-04 13:41:59 | ウォーキング

ゴール後、讃岐うどんが振る舞われるという単純な目的で讃岐うどんつるつるウオークに
参加しました。
2日の夜、福岡から夜行バスに乗り、一路香川県坂出へ。
今年は、いろいろな所に遠征に行って夜行バスは、時々使うのですが、
今までは、快適に寝ることができたのですが、
このバス、前の席との間隔が狭く、前の人が椅子を倒すと私の長い足(?)が
引っ掛かりとても窮屈でした。
従ってあまり寝れませんでした。

坂出駅には午前6時到着。駅前の24時間営業のレストランで朝食を食べ、会場へ。
私の地元の歌手「泉ゆかり」さんたちに送られ8時スタート。
また、この日もGPSウオッチをつけてきました。

35kmのコースだから2時ごろにはゴールできるな、ゴール後は、讃岐うどんを
食べまくるぞなどとこのコースがどんなものか知らずにそんなことばかり
思ってました。

いま、このSNSのメンバーの「ちゅう」さんが四国お遍路ウオークをされていますが、
35kmには、お遍路コースが3か所入っています。
それまでは平坦なコースでしたが、西行法師の道にかかると急な坂道、
最後の「白峯寺」に行く所は約500段の階段。
これには流石に私でも一気に登れず休み休みしながら登っていきました。
「白峯寺」は、西行法師が崇徳天皇のお墓をお参りに行ったところ、
江戸時代の上田秋成の「雨月物語」にも出てきます。
四国81番礼所です。ここがチェックポイントです。
息をきらして登ってきましたので何か記念にとお寺に行って「朱印」をもらいました。
あとでGPSを見ましたら300m登っていました。

「白峯寺」を出てからは、急な下りになっています。
私は、登りには強いのですが、下りは苦手です。
滑らないよう滑らないよう気をつけながら下りていきました。

2時55分やっとゴール。
ゴールするや否や完歩賞を受け取り、うどん会場へ。
久しぶりに食べる讃岐うどん、このこしがたまらないんです。
お昼を抜いた甲斐がありました。
お代わりをしたかったのですが、1杯のみの接待。
おいしかったです。



讃岐うどんの接待につられて参加したこの大会、
予期しなかった朱印3枚、はじめてのお遍路道、足の疲れは別にして
大いに満喫しました。