よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

伊勢お蔭参りに行ってきました。その1「二見浦夫婦岩」(三重県伊勢市)

2014-05-31 17:43:41 | 旅行

江戸時代、庶民から親しまれた「お伊勢お蔭参り」。

私もそういう歳になったのか、お伊勢さんに御参りに行ってみたくなり、5/24~25に行われる「伊勢志摩ツーデーウオーク」に合わせ行ってきました。

5/23博多を6:05の新幹線で新大阪へ。環状線で鶴橋駅へ。それから近鉄特急で伊勢市駅。伊勢市駅には、10:55到着。

  

伊勢市駅のJR側を歩いていけば、伊勢神宮外宮に行けますが、昔の参拝方法は、二見浦で禊を受けて外宮、内宮に行くそうですので私もそれに合わせ

先ず、二見浦に行くことにしました。伊勢市駅から二見浦までは、快速「みえ号」で6分ほど。11:22到着。

二見浦駅は「ふたみのうらえき」というのが正式の名称だそうです。ただ、どういうわけか、ICカードは使えませんでした。

  

駅前の夫婦岩表参道を歩いていると、古い歴史あるお土産屋さんや旅館が立ち並んでいます。

街道歩きが好きな私には、とてもたまらない光景です。

   

  

朝日館は、この写真の右側にも旧館がありました。パノラマでも入りきれませんでした。

   

歩いていると、お正月のしめ飾りに「蘇民将来子孫家門」と書かれています。

    

近くのお店に立ち寄りお話を聞かせて頂きました。

 昔、伊勢の地を旅した「須佐之男命」が、夕暮れに泊まる所がなくて困り果て、将来兄弟に宿を頼んだ。富裕な「巨旦(こたん)将来」は、それを断り、

貧しくとも心優しい「蘇民将来」が快く、自分の家に泊めてもてなした。

須佐之男命が大いに喜び、一夜の恩返しに茅の輪を与えた。「後の世に疫病あらば、汝、蘇民将来の子孫と茅の輪を以ちて、腰に付けたれば免れなむ」と言い残した。

以来、蘇民家は、疫病が流行っても免れ、代々栄えたという。

この二見では、「蘇民将来子孫家門」の守り札をしめ縄に付けて年中門口に飾り、無病息災を願うそうです。

また、しめ縄の歴史としては、日本書紀では、天岩戸から出てこられた天照大神が再びひきこもることがないように、岩戸の入口に張り巡らした縄がその起源だそうです。

伊勢市の二見以外では、「笑門」「千客万来」などのしめ飾りもあります。因みに「笑門」は、「蘇民将来子孫家門」縮めた「将門」で、さらにこれが、「平将門」に通じるのを嫌って「笑門」になったといわれている。

  

旅館街を出ると、両側に松が植わった参道に出ます。

  

海岸の所に本居宣長の歌碑が建っています。宣長は松坂に住んでいてこの二見浦には、何回も来ているそうです。

歌碑は、「かはらじな 波はこゆとも 二見がた妹背の岩の かたき契りは

「夫婦の契りは、二見浦の夫婦岩のように堅固で変わるものでないと悟した」 という意味です。

右側には、明治時代に建てられ、大正天皇が御幼少の頃、お泊りになられた「賓日館(ひんじつかん)」があります。

現在は、二見町に寄贈され、資料館となっています。

   

二見興玉神社の鳥居にやってきました。ここは、「浜参宮」と呼ばれ、

古来、伊勢神宮に参拝する前、また、祭典に奉仕する前には、清き渚と称される二見浦で(沐浴)を行うのが慣わしであった。現代ではそれに代わるものとして、

二見興玉神社で霊草無垢塩草での祓い清めを受ける。これに使う幣は、興玉神石付近で採れる海草(アマモ)である。

現在、神宮式年遷宮のお木曳行事やお白石持行事への参加者は浜参宮を行う。

二見興玉神社の祭神は、猿田彦大神宇迦御魂大神(うかのもたまのおおかみ)です。

猿田彦大神は、天孫降臨の際に高天原豊葦原中津国の間の道案内を務めたことから、「道開き(導き)の神」といわれています。この神の神使は、蛙とされており、

神社参拝の後に神徳を受けた人々が、神社の境内にカエルの塑像を献納する。このため、境内には無数のカエルの石像が並んでいる。

この神社の授与品もまた「無事カエル」「貸した物がカエル」「お金がカエル」(カエル帰る返る掛詞)と呼ばれるカエルをモチーフにしたものである。

境内の手水場には、蛙の置物があります。

   

   

  

この鳥居から見る夫婦岩が本流だそうです。夏至の時には、夫婦岩の男岩、女岩から日が昇ってきます。また、朝日の下に200kmも離れた富士山が見えることがあります。

夫婦岩の5本のしめ縄が鳥居の役割をしているそうです。

   

  

 我が福岡にも二見ヶ浦・夫婦岩があります。朝日の伊勢二見浦に対し、夕陽の福岡・二見ヶ浦です。

何年か前に伊勢の二見浦の朝日を見て、夕陽の福岡・二見ヶ浦を見に行こうという弾丸ツアーがあったそうです。

因みに福岡の夏至の頃の二見ヶ浦の夕陽は、下記の写真です。(2011.07/05撮影)。尚、福岡の二見ヶ浦がある所の地名も「志摩町」です。何か関係するのでしょうか?

 

    

この日は、夫婦岩の沖の方で「藻刈神事」が行われていました。夫婦岩を過ぎ契橋を渡ると「契りの松」があります。

  

契りの松とは、案内板によると

 「江戸時代末期、お蔭参り、抜け参りと伊勢参詣が最も賑わった頃、阿波国(徳島県)より、若い男女がこの二見浦の浜で身を海水に浴み、塩垢離(みそぎ)をし、

着物を松の木にかけて結び、夫婦の契りと子孫繁栄を祈願した所から、「ちぎりの松」と呼ばれている。

昭和28年9月25日台風13号により流出したままであったが、平成3年5月23日ここにおよそ40年ぶりに昔ながらに再現したものである。」と書かれています。

然し、この二見浦の夫婦岩、何回見ても飽きません。いつの日か、時間に余裕ができたらこの二見の夫婦岩からの朝日を見て、その足で福岡・志摩の夕陽を見てみたいものです。

そんなことを考えながら、次の目的地「伊勢神宮外宮」に向かいました。

 

 

 

 

 


伊勢志摩ツーデーウオークに参加  2日目21km

2014-05-30 05:00:00 | ウォーキング

5/25 「伊勢志摩ツーデーウオーク」2日目。

伊勢志摩2日目の朝です。また今日も早起きして日の出を見に行きました。

この日は、薄い雲がかかっており、日の出の瞬間は、見ることができませんでした。それでも5時を過ぎたら太陽が顔を出しました。

今日も暑くなりそうです。

  

さて、伊勢志摩ツーデーウオーク2日目ですが、

最初は、30kmのコースで登録していましたが、帰りの賢島からの電車を15:00で予約していましたので、ちょっと無理かな?と思い、21kmコースに変更しました。

本来、21kmコースは、9時のスタートですが、今日は、帰らねばいけませんので30kmのコースと一緒にスタートしました。

北海道・札幌からご参加のMさん、Uさんと会場でお会いし、しばし歓談します。こういう大会でないと福岡VS札幌の南と北のサミット(?)ができません。

実は、札幌には、以前入っていましたSNSに札幌の(今は室蘭)「Nちゃん」がおられ、ブログ仲間です。その関係で札幌のウオーカーさんとも知り合いになりました。

  

二日目の21kmコースは、「白浜から市後浜、きらめく海岸の道

  

賢島大橋を渡り、阿児(あご)の松原までの7,7kmは、昨日と同じコースです。

  

9:30 阿児(あご)の海岸到着。昨日のコースは、これから左折しましたが、2日目は、右折します。

    

  

10:05 第一回目のチェックポイント「市後浜(いちごはま)」に到着。

市後浜は、三重県のサーファーのメッカでこの日もたくさんのサーファーが集っていました。

市後浜のチェックポイントから500mぐらい入った所に「おもてなし会場」がありました。檜扇貝やアオサ汁が振る舞われました。

伊勢志摩に来て、私、このアオサが好きになりました。昨日に引き続きまたお代わりをしてしまいました。

ゴール会場でもこのアオサが売っていましたので帰りに買って帰ります。

21kmコースは、ここでお弁当の配布があるのですが、時間はまだ10時を廻ったばかり。アオサ汁をたくさんいただきましたのでまだお腹は空いていません。Dバックに入れ後で食べようと思います。

  

10分ぐらい休憩し再びウオーキングを開始します。

11,5km地点が30kと21kの分岐点。30kは、是から左折し大王埼灯台の方に向かいます。21kmは直進しゴールを目指します。

  

今日もまた暑く、市後浜CPでいただいた飲み物もあっという間に無くなりました。地図を見てどこかに給水所があるか調べますが、給水所、CPなどありません。

前方にコンビニの看板が見えてきました。もう足は、コンビニの方に向かっています。アイスコーヒー、アイスキャンディを買い、ちょっと生き返りました。

   

コースに戻ります。歩道は、工事中の為、アスファルトの再生した砕石?の上を歩きますが、とても歩きにくいです。

    

阿児アリーナ、阿児図書館を通り、また賢島大橋を渡ります。この賢島大橋昨日から3回目の通行です。

   

12:15 やっとゴールしましたwaonカードでチェックし、ビールを売っているコーナーへ。暑い時のビールは格別ですね。

ゴール会場では、出発式で司会を勤められた方が写真撮影に応じて頂きました。

  

この第4回伊勢志摩ツーデーウオークには、2日間で3227人の方が参加されたそうです。

                     2日目21kmコース

      満足度        ★  ★   ☆  ☆  ☆   (5点満点の2点)

      理由: ①スタートから阿児の海岸までは、昨日と全く同じコース。21kmの帰りもまた賢島大橋を通る・・・・・・・・・ちょっと昨日との変化を付けてほしかった。

           ②11,5kmの30kmとの分岐点を過ぎると21kmコースは、CPも給水所もなく、ただただ歩くだけでした。30kは、これから大王埼、ふれあい公園を通り、給水所も何か所もある。、

             21kのコースは、そういうのが全くなかった。30kmコースとの差があまりにも違い過ぎます。

 

 

あまり早くゴールしたため、帰りの近鉄特急の時間を早め、13:30発で帰りました。同じ電車に札幌のMさん、Uさんが一緒でした。

 

               

 2日目21kmのGPS

 

 

 

 

 

 

 

 

 


伊勢志摩ツーデーウオークに参加しました。1日目35km(三重県志摩市)

2014-05-29 14:31:15 | ウォーキング

5/24~25 三重県志摩市で行われた「第4回伊勢志摩ツーデーウオーク」に参加しました。

三重県には、私が社会人になり大阪勤務の時、会社の慰安旅行で確か、鳥羽だったか、行ったことがあります。その時は、飲んでばかりいましたのであまり覚えていません。

今回約40年ぶりの三重県です。

ホテルから見る英虞湾は素晴らしい眺めです。英虞湾には、明治時代から真珠の養殖がおこなわれています。写真の棚が真珠です。

また、朝日も素晴らしいですね。4:45には、朝日が昇ってきました。福岡が5:15ぐらいですので30分ぐらい早く陽が昇ります。

  

  

  

さて、本題に戻ります。伊勢志摩ツーデーウオーク会場は、近鉄賢島駅(かしこじま)横の志摩マリンランド前。出発式の後、8:00スタート。

この大会は、イオンが協賛でスタート、チェックポイントなどには、waonカードをかざせばOK。かざすと「ワォン」と言うのかな?と思っていましたが、「ピッ、ピッ」の音でした。

スタートしたら、前方に「賢島(かしこじま)大橋」が見えてきます。ここからの眺めは、まるで絵に描いたようです。

  

歩いていると、後ろから私の名前を呼ぶ声が・・・・・・・。

福井・敦賀の「車 正吉」さんでした。2月の宮崎・小林でご一緒させていただきましたので3か月ぶりの再会です。

車さんは、JWAオールジャパンでこの三重県をクリアするとあと2県で達成するとのこと。私なんかまだハーフを終えたばかり。オールジャパン達成には、あと4~5年ぐらいかかりそうです。

約8km地点が、「阿児の松原」です。太平洋に面し、波打ち際では、サーファーたちがサーフィンを楽しんでいます。

また、凧を揚げている方がいらっしゃいます。澄んだ青空に元気よく泳いでいます。

  

志摩国分寺を過ぎると、「安乗(あのり)町」に入ります。安乗には、国の重要無形民俗文化財に指定されている「安乗人形芝居」があります。

写真の題目は、八百屋お七の「火の見櫓」でしょうか?

この安乗人形芝居は、約400年の歴史があります。

私の住んでいる町でも人形芝居はあるのですが、歴史は、まだまだ130年ぐらいです。

「安乗文楽人形芝居」

安乗文楽人形芝居は、武将九鬼嘉隆が武功をたて安乗神社にお礼参りをしました。その時から現在の文楽人形の始まりである手踊りを許されたのが始まりです。
安乗文楽人形芝居の特徴の一つが早くから取り入れた「3人遣いの人形」という点です。多くの国で人形劇が演じられていますが3人がかりで一体の人形を操るのは文楽だけとのことです。
現在は、安乗人形芝居保存会を中心に安乗中学校文楽クラブ員を加えて上演が続けられています。中学生が参加するようになったのは約40年前で地域をあげての愛着が感じられます。
毎年9月15日・16日に安乗神社境内の舞台で上演されます。

    

「安乗園地」が第1回目のチェックポイント。ここでwaonカードをかざし、チェックします。一緒に歩かれた大口志摩市長が、地元テレビのインタビューを受けられていました。

市長のゼッケンのコメント欄には、「生きて帰る」と書かれています。

ここでのお接待は、「トコロテン」。上に黄粉をかけてありとても美味しかったです。

    

安乗園地には、日本の灯台50選に選ばれた「安乗埼灯台」があります。太平洋に面し、白亜四角形の形をしています。

この灯台は、333年前、延宝9年(1681)徳川幕府が船の道標として燈明堂を建てたのが安乗埼灯台の始まりです。

現在の四角形の灯台になったのは、昭和23年(1948)からだそうで、映画「喜びも悲しみも幾歳月」の舞台でも知られています。

  

安乗灯台を後に、的矢湾の安乗漁港に入ります。

  

  

コース中の民家の軒先には、「笑門」とか「千客万来」のしめ縄が飾ってあります。我が福岡のしめ縄とはちょっと違いますね。伊勢志摩では、このしめ縄を一年中かけるそうです。

   

18.4km地点の志摩パークゴルフ場を過ぎると、24kmコースの方と合流します。民家の石垣が独特の形をしています。

    

23.6km地点の三ケ所渡船場では、アオサ汁の接待がありました。磯の香りがして、とても美味しかった。お代わりをしたのは、私だけかな?・・・・・・・

お土産に「あおさ」もいただきました。

    

三ケ所渡船場からは、船で的矢に渡ります。何回もJWAの大会に参加していますが、船で渡るのは初めての経験です。

  

乗船時間数分で的矢渡船場に到着。ここから約1kmの所が第2回目のチェックポイントです。また、waonカードをかざし、「ピー」と鳴ればOKです。

ここでは、事前に注文していたお弁当とお接待の帆立貝をいただきました。

  

今日は、暑く飲み物ばかりいただいてます。お腹もあまり減ってはいませんでしたが、食べないと歩けませんのでしっかりいただきました。

帆立貝は、別腹でしょうか、とても美味しくいただけました。(追記:帆立貝ではなく、檜扇貝でした)

的矢は、牡蠣の養殖でも有名です。昭和3年から養殖を始め、今では「的矢の牡蠣」は三重県のブランドになっています。

的矢の牡蠣もいただきたかったのですが、今はオフシーズン。HPを見ますと宅配もされているそうですので機会があれば是非食してみたいです。

   

お弁当もいただき、13:15再び出発します。30分ぐらい休んでいたせいか、起きるのに「よっこらしょ」と声をかけないと起きれないのはやはり歳のせいでしょうか?(笑)

ここからは、緩やかな上り坂に差し掛かります。お腹いっぱいの為スローペースです。ロイヤルホテルを過ぎると的矢大橋が見えてきます。

的矢大橋は工事中の為半分がシートに覆われています。

   

里山を過ぎると再び海岸線に出てきます。対岸には、志摩スペイン村が見えます。

31.7kmが35k、24kの分岐点。35kmコースは、これから右折し「伊雑宮(いざわぐう)」に向かいます。

   

伊雑宮(いざわぐう)は、その昔、倭姫命(やまとひめのみこと)が志摩の国を廻られたとき、伊佐波登美命(いざわとみのみこと)に命じられて造営されたといわれています。

古くから、「志摩一の宮」と称えられ、伊勢神宮内宮の別宮中、特別に高い格式をもっており、今年の秋には、伊雑宮でも20年に一度の遷宮を迎えます。

また、「伊雑宮御田植祭」は、毎年6月24日に行われる日本三大御田植祭の一つで重要無形民俗文化財にしていされています。(大会誌より抜粋)

伊雑宮の本殿横には、遷宮の準備がされていました。

この伊雑宮を見て帰っていると、敦賀の「車さん」と再会。櫻さんも素敵な方でした。

 

    

御田植祭が気になりましたので案内板を見てみると、

磯部の御神田』(御田植祭)

毎年6月24日、志摩の夏を賑やかに彩る伊雑宮の御田植祭は、下総(千葉)香取神宮、攝津(大阪)住吉大社と共に日本三大御田植祭の一つに数えられます。

起源は、その踊込唄に「昔、真名鶴磯部の平田に稲穂落したその祭り」とあるように磯部に伝承される「鶴の穂落とし」の故事に依るものと考えられ、古く平安初期から

鎌倉初期に行われ、現在の形になったのは、室町時代と伝えられています。祭りは、磯部九郷と呼ばれた九地区の人々による輪番で行われています。

神事は、勇壮な竹取の後、一転長閑な田楽に合わせた御田植となり、伊雑宮の一の鳥居に向けての踊り込み、そして境内での千秋楽の舞で幕を閉じます。

この祭りは、踊り込み、刺鳥差の舞があるなど独特な形の御田植神事として貴重であり国の重要無形民俗文化財として平成2年3月29日に指定を受けています。(案内板より)

その御田植祭の準備でしょうか、畑が機械で耕されていました。

 

    

 伊雑宮を過ぎると上ノ郷の町に入ります。途中老舗の鰻屋さんがあります。3時近くになりお腹もすいてきました。鰻もおいしいでしょうね。

一応、この35kmは、近鉄志摩磯部駅までです。ここからは、ゴールの賢島マリンランドまでは、近鉄電車での移動となります。

磯部駅に着いた時は、前の電車が行ったばかりでした。次が15:26。駅のベンチで20分ぐらい待ちました。

   

  

15:48ゴール!!waonカードをかざしチェックします。

  

今日のウオーキング満足度              ★  ★  ★  ★  ★    (5点満点の5点)

   海あり山あり、また、船や電車を使った移動も初めての経験ですので新鮮味がありました。

   欲をいうなら、的矢駐車場から磯部駅までの約10kmの区間、給水所がなくコンビニなどを探しましたがそれもなく、飲み物が空になってしまいました。

   唯一、通りに自販機がありましたので、そこで買って飲みましたが、できればこの区間に給水所を設けてほしかった。

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


関門海峡ウオーキング

2014-05-13 10:48:53 | JR九州ウオーキング

5/10は、JR九州ウオークで関門海峡を歩きました。

この日は、JR九州のお買いものきっぷでスタート地の門司港駅に行きました。

この切符は、博多~門司港まで往復の特急自由席(一部電車では指定もOK)に乗れ、しかも博多駅、小倉駅のアミュプラザで使えるお買いもの券(1000円)がついて3060円です。

通常、博多~門司港は、快速で一時間半かかり料金も片道1470円ですのでかなりのお得な切符です。

    

門司港駅を8:52に出発し、門司港レトロ地区へ。

    

 

門司港と言えば、バナナのたたき売りが有名ですが、ここには「バナナマン」の像が建っていました。

余りにもリアルですので、中に人が入っているのでは?と錯覚するほどでした。

   

和布刈神社を通り、関門橋の下にある「関門人道トンネル」を通り、下関へ。

     

下関は、2012.12月私が山陽道歩きを始めた時以来です。その山陽道もあと一日で西宮にゴールします。

「赤間神社」は、寿永4年(1185)平清盛の孫、源平合戦の末敗れた「安徳天皇」を祀っています。

4月初めに山陽道歩きで神戸・須磨の一の谷に行きました。その一の谷の戦いが寿永3年でしたので約一年間戦っていたのですね。

赤間神社には、「耳なし芳一の像」もあります。耳なし芳一というと、小泉八雲の本を思い出します。

   

 『耳なし芳一物語』

赤間ヶ関阿弥陀寺(今の赤間神宮)に芳一といふ名の盲人が住んでゐました。琵琶法師としてあまりにも有名であったので、妙技入神の言葉のやうに、平家の亡霊も是非これを聞きたいと、

或夜ひそかに現われて来ました。阿弥陀寺に住んで居る琵琶法師の芳一は、呼ばれるまゝに、誘われるがまゝに引かれてゆけば、七まがり八まがりの廊下を辿り大広間に通されました。

居ならぶ武士等は威儀を正して待って居り、正面の御廉の中からは「御苦労であった、壇之浦の合戦を弾奏せよ」との事で、弾奏すれば厳然としてゐた武士たちは

涙を流し婦人等は嗚咽の声を出して泣いてゐる。芳一は自分の琵琶に半ば陶酔しつゝ其の曲を終った。「実に今日は満足した、又明日も明後日も、七日七夜は必ず頼むぞ。」と

頼まれて別れをつげて、寺に帰りました。 かくて毎夜外出することが続きましたので寺の僧侶も、ふと気のつく所と成り「是れは不思議だ、

盲目の芳一が毎夜琵琶を抱えては出てゆく果してどこへゆくのであろう……と張り込みして時の来るのを待って襖の蔭からぢっと息を呑んで見て居りますと、だれも居らないのに

一、二言ものを云ったかと思うと、ふと出てゆきました。僧侶は直ちにあとをつけたが、ヨウとして姿が見えません。 止むなく寺に引返して参りますと、

山の森の中で琵琶の音がけたゝましく聞えるではありませんか!アレあんな所に芳一が、!と大急ぎに草を分けて馳せ寄りますと、又驚きました。

目の前は真暗やみの中にお墓の前に単座して、一生懸命に弾いている芳一は、此の世の人とも思えぬ形相で、あたり一面は鬼火がゆれ、其の凄惨なること二た目と見られません。

僧侶乍らも身の毛のよだつおもいが致しました。 之を呼び起し芳一をかゝえて阿弥陀寺の和尚の前に事の一部始終をかよう~と申し伝えますと和尚は大層驚いて、

「これは平家の亡霊が恨みを以って一人でも彼の世につれ去ろうとするのだ、今宵は声を出すな、動くな、返事をするな」と固く申し渡し、身体中に般若心経を書きつゞりました、

「さ、是れでお前は安全だ」と申し置いて法事に出られて行ってしまいました。その夜のこと、 いつものように単座していると、又昨夜のようにやって来た気配がする、

生ぬるい風と共に足音がピタリと自分の前で止った、「ハテ」とおもう裡に「芳一」と呼びかけられハッと声をあやうく出そうとして和尚の云う事を思い出し口をつむんでいるうちに、

又も「芳一」と半ば大声に呼びかけられました。然し今度は、返事も声も聞えませんでした。「今宵は声も、返事も無い、姿すら見えぬ、ハテ如何した事であろう」とフト見ますと

耳だけが闇夜にはっきりと見えました、「せめてもの是れだけなりと持って帰ろう」とつぶやき乍ら、鉄の氷のような、つめたい手先で耳を持ったかと思うと、フイともぎ取っていずれともなく立ち去りました。

和尚は今日こそは芳一も無事であったろうと寺に帰って、ふと襖を開けて、驚いた、アッ!と云うたまゝしばらく范然としていましたが、耳の無いのを見て、「鳴呼全身に経文を書いたが、

耳に経文が無かったからだ」とつぶやき乍ら、命びろいをした喜びに、全山の衆僧総員して、よく亡霊を弔ったという事でございます。 爾来是れを「耳なし芳一」と呼ぶように成りました。(赤間神社HPより)

赤間神社の向え側が「唐戸市場」です。

市場の中に入りますと、美味しそうなお寿司や海鮮丼が並んでいます。ついつい手が出そうになりますが、今日は小倉で昼食をとることにしていますので、ここはじっと我慢。

   

帰りは、関門連絡船を利用して門司港に戻ります。この船は、もう6年ぐらい前になりますが、街道歩きの師匠が下関に来るということでこの船に乗って会いに行った思い出があります。

また、この船を使った「パロディ」も作りました。(笑)

  

11時00門司港駅に到着。今日は7kmのウオーキングでしたが、何か物足らない気がして小倉に行き小倉城周辺を散策しました。

 

 

 


5/6、野球観戦「福岡ソフトバンクVS北海道日本ハム」

2014-05-07 06:07:28 | 日記

GW最終日の5/6は、福岡ヤフオクドームにて「福岡ソフトバンクホークスVS北海道日本ハムファイターズ」の試合を観戦しました。

今年、初めての野球観戦です。今日は大分・中津デーということで、球場内には中津・官兵衛の幟が建っていました。

   

始球式は、2014日本ミスグランプリの「沼田萌芽」さん。この方も大分出身です。

     

試合は、ソフトバンク・スタンリッチ、日ハム・浦田、両投手の先発で開始。序盤ソフトバンクは無死一、二塁のチャンスを迎えるが、後続が断たれ無得点。

4回、日ハムは、ミランダ選手のレフトスタンドに入る本塁打で先制。  ソ0-1日

日ハム浦野投手は、しり上がりに調子を上げ、5回まで3安打のピッチング。6回からは、カーター、7回、宮西、8回、クロッタと継投。

好調ソフトバンク打線を3回から一人のランナーも許さない。

一方の日ハムは、再三再四チャンスを作るがあと一本が出ない。9回もチャンスが訪れ、期待の代打「大谷」も三振に終わった。

   

    

 

日ハムは、9回から抑えの投手「増井」を投入。

これで終わったかな・・・・・・今日は勝ったら「勝利の花火」が2倍なのに・・・・・・・と思った途端、

一死後、ソフトバンク内川がセンター前ヒット、続く李大浩も続き、一死、一、三塁のチャンス。

  

ここで目下、首位打者の「長谷川」が気迫の同点打。  ソ1-1日   尚も一死、一、三塁のサヨナラのチャンス。

続く打者は選手会長の「松田」。何とかしてくれると球場内のボランテージは、高まるばかり。

然し、松田は追い込まれ、ボール球を振って三振。

ここで奇跡です。

松田選手の空振りした球が捕手が捕れなく、ボールはバックネットへ転々・・・・・・・

その間に三塁ランナーが返り、2-1の逆転サヨナラゲームになりました。サヨナラ振り逃げというのでしょうか。

松田選手の打撃に期待していたのですが、こんな結果になって・・・・・・彼は、何かを持っているのですね。

    

長谷川選手のヒーローインタビューのあと、待望の「勝利の花火」です。

  

そのあとは、球場内の屋根が開く「ルーフオープン」のサービス。

勝利の陽が、ソフトバンク「お父さん」に射しかかります。

   

今日の観衆37610人も大満足の試合だったでしょう。このサヨナラ逆転振り逃げは20年ぶりの記録だそうです。

GW最終日にふさわしい勝ち方でした。私も大満足です。

 

 


デジブック 『海の中道海浜公園』(福岡市東区)

2014-05-05 17:58:50 | デジブック

5月4日 みどりの日にJR九州ウオーキングで福岡市東区「海の中道海浜公園」に行ってきました。

この日は、無料開放日で公園には家族連れでいっぱいでした。

この分をデジブックにしました。

こちらです。  

 

デジブック 『海の中道海浜公園』

 

 


「和の町」うきはウオーキング(福岡県うきは市)

2014-05-05 08:50:17 | JR九州ウオーキング

今年のGW前半は、1日が会社の創立記念日で休みの為、飛び石連休でした。

1日は、家内の実家の草刈りで一日を費やしました。

今日3日は、JR九州のウオーキングで、うきは市を歩きました。(筑後吉井駅~道の駅うきは迄)。

先月久留米つつじマーチで当たった新しい「ウオーキングシューズ」での初歩きです。

    

スタートは、筑後吉井駅。吉井駅の側には、ジャーナリスト鳥越俊太郎さんの実家の製粉工場があります。

吉井町は、江戸時代、久留米藩の城下町と天領である日田を結ぶ旧豊後海道の宿場町として発展しはじめた。

江戸時代中期、大石水道と長野水道の開通により筑後川中流への水運を得たことで商品作物の集散地となった。江戸時代末期からは次第に酒・油・櫨蝋等の商品作物を加工する産業が集積されて、

在郷町として繁栄する。 莫大な富を得た吉井の商人たちは明治2年の大火を契機にその資力を誇示するがごとく「居蔵屋」と称される贅をつくした蔵造りの商家を建て、

最盛期の大正時代には新町や蛭子町にこの「居蔵屋」が立ち並ぶようになった。 昭和初期の戦時体制と終戦後の農地改革等によって、経済活動は減衰し地域経済の拠点性は低下した。

産業構造・産業基盤の変化により居蔵屋など大邸宅の町屋は減少していった。

1984年頃より、官民一体となって在郷町に現存する町屋の保存と修景が開始された。 1996年に重要伝統的建造物群保存地区として選定され、現在に至る。(wikipediaより)

吉井町は、車では何回か通っていましたが、町歩きは初めてです。

  

  

銀行の横の路地に入ると「白壁通り」に入ります。和菓子屋さんには、鯉のぼりのお菓子も売られていました。

   

白壁通りの旧家の中をのぞいてみると、あの懐かしい「オート三輪車」がありました。この車まだ現役で走っています。

   

歩いていると、何か懐かしく思えます。お雛祭りの時には、この白壁通りに、たくさんのお雛様が登場するそうです。

「南新川」に来ると案内板が立っています。

 江戸時代初頭、旧江南村に住んでいた五人の庄屋達が思い立ち、この地域の村人と一緒に造り上げた人工の川です。新川ができる前のこの地域は、周辺の川の水位より土地が高かった為、

水が思うように使えませんでした。その為、穀物の収穫も少なく、農民の飢えを見兼ねた五人の庄屋達は、筑後川の水をどうにかして引き入れるよう話し合い、ここから約10km離れた

筑後川上流の大石に取水口と西部へ水が流れる用水路を造る嘆願書を久留米・有馬藩に出しました。この嘆願書には「工事の費用は、五人の庄屋が全部受け持ち、決してお上には、

ご迷惑をかけませぬ。若し計画通りに導水出来なかったら、磔の刑を甘んじて受けます。」と書かれていました。

1664年1月11日に工事が始まり、長野村の入り口には五人の「はりつけ台」が建てられ、これを見た人々は、「庄屋どんを殺すな」とばかりに、老人、女、子供までが、この水路工事にかかり、

数か月という短い期間で、人工の川(南新川)が完成しました。南新川とうきは市北部を流れる北新川は、西部の田畑を潤します。新川は、田畑だけではなく、その水源を利用した、水車や

唐臼(からうす)が造られ、精米、製粉、また製麺、酒造、櫨蝋や菜種油等の工業も支えました。

 五人の庄屋は、夏梅村庄屋:栗林次兵衛、清宗村庄屋:本松平右衛門、高田村庄屋:山下助左衛門、今竹村庄屋:重富平左衛門、菅井村庄屋:猪山作之丞です。

  

  

鏡田屋敷を過ぎ、若宮八幡宮の所に「村田英雄の生家」という石碑が建っています。あれっ?村田英雄というと佐賀唐津の相知(おうち)出身ではなかったかな?

調べてみますと、村田英雄さんは、ここ吉井で生まれ、義母の結婚で相知の方に引っ越しされたとか。

うきは市、はフルーツの町です。畑の巨峰の房は、まだまだ小さかったです。

  

歩いていると、「なんじゃもんじゃ通り」という所に来ました。ここには、なんじゃもんじゃの木(ヒトツバタゴ)が200本ほど植えられています。

まるで雪を被ったように見えます。プロペラみたいでとてもかわいい花です。

  

なんじゃもんじゃ通りを突き当たると巨瀬川沿いに出てきます。ここはうきは市の桜の名所として知られています。川沿いの側道には、約1000本の桜が植えられています。

民家の軒先には、いろんな花が咲いています。見ているだけで気持ちがよくなりますね。

近頃は、あまり見かけなくなった「レンゲの花」も咲いていました。

 

  

    

清水寺を過ぎ、国道210号線を歩いていくとゴール地「道の駅うきは」です。今日は、祭日の為か、道の駅には沢山の方が来られていました。

「あまおうのソフト」があるということで、早速行きましたらもう10人ぐらいの行列です。

あせをかいたあとのソフトは、美味しいですね。

   

今日下した新しいシューズは、履き心地も良く、疲れませんでした。