よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

松本清張「点と線」の舞台を歩く(福岡市東区香椎浜)

2014-09-29 21:31:54 | JR九州ウオーキング

9/28は、JR九州ウオーキングで千早駅~人工島を歩きました。この歩いたコースは、松本清張の「点と線」に出てくる香椎浜です。

松本清張の「点と線」は、昭和32年に発表されました。この本のあらすじは、

料亭「小雪」の女中2人と、東京駅の13番線プラットフォームで見送られていた機械工具商会を経営する安田辰郎。この3人は、向かいの15番線プラットフォームに、同じく「小雪」で働くお時が男性と夜行特急列車「あさかぜ」に乗り込むところを見つける。だが数日後、お時とその男・佐山は、香椎の海岸で情死体となって発見された。

一見ありふれた情死に見えたが、博多のベテラン刑事・鳥飼重太郎は、佐山が持っていた車内食堂の伝票から事件の裏の真相を探るため、一人、捜査をすることにする。

一方、佐山は現在社会をにぎわしている××省の汚職事件の関係者であった。この事件を追っていた本庁の刑事・三原紀一は、心中事件を追って九州へ向かい、鳥飼と出会う。

捜査の結果、二人は、東京駅で13番線プラットフォームから15番線プラットフォームが見えるのは、1日の中でわずか4分間しかないことを突き止め、安田を容疑者として追及しようとする。だが、安田には完璧なアリバイがあった

今まで映画やドラマ(最近では、ビートたけし主演のドラマが有名です)で放映され、時刻表のトリックに夢中になっていました。

この事件の舞台「香椎」は、次のように書かれています。

鹿児島本線で門司方面から行くと、博多につく三つ手前に香椎という小さな駅がある。この駅をおりて山の方に行くと、もとの官幣大社香椎宮、海の方に行くと博多湾を見わたす海岸に出る。 

前面には「海の中道」が帯のように伸びて、その端に志賀島の山が海に浮び、その左の方には残の島がかすむ眺望のきれいなところである。この海岸を香椎潟といった。

昔の「橿日の浦」である。太宰帥であった大伴旅人はここに遊んで、「いざ児ども香椎の潟に白妙の袖さへぬれて朝菜摘みてむ」(万葉集巻六)と詠んだ。…… 

彼らは、二十日の夜九時二十四分香椎駅着の上りで博多から来たのだ。すると博多駅は九時十分ごろに乗車したことになる。ここまでは十五分ぐらいで着くはずだからだ。 

佐山が女からの電話をうけて宿をとび出したのが、午後八時すぎとみて、博多駅から汽車に来るまでの約「時間、二人はどこで会い、何をしていたのだろう?この調査はたいへん困難で、

おそらく絶望である。広い博多の街では、空漠として当りようもない。・・・・・・

現在では、博多から香椎までには、旧国鉄操車場跡地に「千早」という駅が出来、犯行現場には、この千早駅の方が近くなっています。

またこの一帯は、開発が進み、福岡・東区を代表する住宅地になっています。

  

死体発見場所になった「香椎浜」は、あれから埋め立てられ、人工島などもできました。小説には、香椎浜から海ノ中道、能古島が見えると書いてますが、今はマンションが立ち並んでいます。

   

  

河口では、水上スキーを楽しむ若者がいました。

本日のGPSです。

 

 

 


世界遺産候補「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」を巡る(長崎県平戸市)

2014-09-28 21:19:14 | JR九州ウオーキング

9/27は、JR九州ウオーキングの「長崎の教会群とキリスト教関連遺産を巡るウオーキング」に参加しました。今週末から「しまなみ海道3DM]に参加するため自主トレを兼ね参加です。

出発は、JR佐世保駅。ここからシャトルバスで、松浦鉄道「西田平(にしたびら)駅」まで移動。

  

20分ほど歩くと「昆虫館」があります。カブトムシなどが展示されています。昆虫館の傍には、キリスト教関係の方の墓地があります。

  

田平天主堂」にやってきました。

明治時代、九十九島の黒島や、長崎西彼杵などから移住してきた信徒たちが開墾したこの地に、大正4年(1915)3年の歳月をかけ、信者たちによって建設されました。

教会棟梁「鉄川与助」の代表作です。この田平天主堂も世界遺産候補「「長崎の教会群・・・・・」の一つに挙げられています。

  

  

田平天主堂を過ぎると、「田平公園」に入ります。ここは、スポーツ公園になっていて、サッカーや、テニスなどの競技が行われていました。

話は、それますが、今年の国体は、長崎で来月より開催されます。町のいたるところに「長崎国体」のポスターが掲げられています。

この「田平公園」から見る「平戸大橋」も最高です。パノラマで撮ってみました。

  

田平公園を過ぎ、コースは、このあと平戸大橋を渡ることになっていますが、ここで少し寄り道をします。寄り道をしたのは、平成24年2月にオープンした「平戸瀬戸市場」。

ここでは、平戸産の食材を販売しています。鮮魚コーナーを見ると「小アジ」が袋一杯に詰め込んで@100。少々遠慮気味に詰めたのですが、帰って数えてみると70匹は、ありました。

あと、「湯でタコ」。刺身にしたらおいしそうです。保冷袋をDバックに詰めてコースに戻ります。Dバックは、氷も入り、重くなりました。この市場では、2階が食堂になっており、平戸産のお魚料理や平戸牛を使った肉料理が楽しめます。

 

   

コースに戻りました。ロスした時間は、約45分。平戸大橋を渡ります。この橋と海の光景は、「しまなみ海道」に似ていて来週歩く瀬戸の海を想像します。

平戸大橋は、1977(昭和52)に開通しました。全長655m。橋が開通する前は、田平港(あのころは平戸口)からフェリーで平戸に渡っていました。

私も平戸港ターミナル工事の際、よくこのフェリーを利用し平戸に行っていました。フェリー代金が、何か非常に高かったような記憶があります。

  

渡ると、給水所が設けられています。JRウオーキングではあまり見かけない光景です。給水所では、飲み物の他に「おつまみアゴ」※トビウオのことをこちらでは「アゴ」と呼んでいます。)「塩金平糖」が振る舞われました。

     

最教寺にやってきました。最教寺は1607年、第26代平戸藩主松浦鎮信公によって建立された。建立以前は、真言宗の寺があったといわれ、また 弘法大師が唐より帰朝のおり 護摩を焚いたと伝えられている。

  

平戸の市街地に入ってきました。

平戸の町並みは、古い街並みを再現するため、クラシック基調のお店が並んでいます。その街中の一角に「カメラのたかた」があります。

ここが、通販王手「ジャパネット たかた」社長「高田 明」氏のご実家です。現在は、実兄の方がカメラ屋さんを営業されているそうです。

   

商店街から教会坂に入ります。この坂、ちょっときついです。左側には、瑞雲寺、光明寺があります。ここから教会が見えます。

この地が「寺院と教会の見える風景」です。ここも世界遺産候補の「長崎の教会群」に入っています。

  

  

寺院に重なるように天主堂の尖塔が望まれる場所です。見上げると光明寺。その下が瑞雲寺。その光景は、平戸の異国情緒の香りを感じさせます。この周りの石畳の階段や坂道は、古都平戸ならではの静かな散歩道です。(パンフより)

   

  

崎方公園からの眺めも絶景です。

平戸オランダ商館」は、1609年に設立された東アジアにおける貿易拠点で、江戸時代初期の日本の対外政策を考える上で重要な存在でした。
平戸では比較的自由な活動ができたため、商取引や日常生活で様々な交流が行われていました。

しかし、進展する鎖国政策により、1641年に長崎出島への移転が命じられ、約33年の平戸時代は終焉を迎えます。
復元された建物は、1639年に完成した巨大な石造倉庫であり、日本ではじめての洋風建造物です。

2011年、これらの情報をもとにオランダ商館が復元されました。

   

崎方商店街では、アゴなどの干物屋さん、約400年もの歴史のあるお菓子屋さんがあります。

  

このウオーキングは、平戸港交流広場がゴールです。ゴールでは、参加者に平戸名物「アゴ焼き」が振る舞われました。頭ごと食べてしまいました。(笑)

  

平戸港交流広場から、シャトルバスで出発地の佐世保駅へ。久しぶりの平戸ウオーキングでした。

JWAの平戸2DMは、今年は国体の関係で11月末の土、日で行われるそうです。参加してみようかな・・・・・・・・・・・

本日のGPS

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


赤米観賞田(福岡県糸島市二丈町)

2014-09-24 18:03:32 | 日記

2014.9.22 今年も赤米が実ったということで早速、福岡県・糸島市の「赤米観賞田」に行ってきました。

  

毎年恒例の「田んぼアート」です。今年は、どういう文字が書かれているかな?

田んぼアートの面積が、100mX20mですのでカメラには入りきりません。文字の部分は、白米を使っています。

つんのうて 走ろう 糸島へ」  ※「つんのうて」とは、糸島地方方言で「連れ立って」「一緒に同伴して」という意味です。

今年11月9日、福岡~糸島を廻る「福岡マラソン」があります。この福岡マラソンに関連した文字でした。

   

今年は、8月に雨が多く、日照不足で稲の穂が長く伸びすぎ、赤の稲穂が緑の葉っぱに隠れてしまったそうです。

  

  ※向こうの山を越えると「佐賀県」です。

晴れた日の午後5時ごろ、夕日が赤米を真っ赤に染めるそうですが、残念ながら今日は、お日様が雲に隠れてしまいました。

条件がよければ、この団扇みたいな赤米が見られるそうです。今、台風が近づいていますので、真っ赤に染まる赤米は、来年にとっておきましょう。

この赤米観賞田をデジブックにしました。

デジブック 『赤米観賞田』

 


JR九州ウオーク「佐賀・恵比寿様めぐり」

2014-09-23 21:39:00 | JR九州ウオーキング

9/21は、JR九州ウオークの「福こい恵比須巡りウオーク」に行ってきました。

佐賀市は、市内に約800体の恵比須さんがあり、その数は日本一です。今回は、その恵比須さんから51か所を廻るというウオーキングです。

一方で、佐賀市からは、「恵比須八十八カ所廻り」というスタンプラリーも開催されており、ウオーカーの中には、このスタンプラリーにも参加されている方がいらっしゃいました。

なぜ、佐賀に恵比須さんが多いかというのは、いろんな説があるそうです。saga ebisu.comでは、次のように説明しています。

1. お殿様が恵比須様を祀って、それが住民に広がった説

2. 海運業が盛んな佐賀城下町だったので、関係者が海の神様として恵比須を祀った説

3. 重要な道「長崎街道」沿いで、旅の安全を祈願する神様として恵比須を祀った説

4. 石の大工が多かったので恵比須像が広がった説

 

   

 

1番目の恵比寿は、佐賀駅内1番ホームにある、「旅立ち恵比須」です。それから「快復恵比須」「子育て恵比須」「江戸恵比須」・・・・・・・・・・・

    

    

     

   

   

    

結局51か所分の27ヵ所、廻ることができました。

時間があれば、もう少し廻れたのですが、昼からソフトの試合があるため、やむなくゴールに向かいました。

ゴールに向かうと駅前のビルに「青い山脈」の映画ポスターが描かれていました。吉永小百合さんが若いですね。

途中、佐嘉神社では、結婚式が行われました。今は、花嫁さんの角隠しは、帽子型(綿帽子)になっており、レースですね。初めて見ました。

  

昔ながらのお薬屋さん

 

お茶の花とお茶の実。花は、山茶花に似ています。

     

今日のおいしいもの。鶴の堂の「肉まん」。佐賀を通るといつも行列ができており、今回初めて立ち寄りました。ふっくらして本当においしかった。

   

マウンテンの「シューアイス」「シュークリーム」

  

 

 

 

 

 


JR九州ウオーキング「今宿の田んぼアート2014」(福岡市西区)

2014-09-22 20:31:36 | JR九州ウオーキング

9/20は、久しぶりにJR九州ウオーキングに参加しました。

コースは、JR下山門駅→壱岐神社→生の松原森林公園→元寇防塁跡→長垂海浜公園→JA田んぼアート会場→JR今宿駅までの11km。

私の地元のコースですので、8:25下山門駅着のJRで参加しました。もう受付が始まっており、ウオーカーの方は、スタートされています。

私も受付を済ませ、8:35スタートです。

            

【壱岐神社

壱岐神社は、謀反の疑いがかけられた「武内宿禰」の身代わりとして自ら命を絶った「壱岐直真根子(いきのあたいまねこ)」を祀っています。

真根子は、姿かたちも武内宿禰似ていたそうです。

【生の松原】

神功皇后が三韓征伐に行かれた時、この地で松の枝を逆さに刺して戦勝を占った際、この枝が生きて栄えたので「生の松原」となりました。

  

生の松原を抜けて、旧国道202号線(千代今宿線)に出ます。ここは、旧唐津街道です。

私が学生のころは、「松原ポニー」、「山幸」、「キャビン」、長垂の方には、「ラ・メール」などのドライブイン街でしたが、今は、病院が経営している老人施設になっています。

生の松原海水浴場もありましたね。でもここから見える光景は、昔も今もあまり変わっていません。

  

長垂海浜公園に着きました。ここからの光景も素晴らしいです。40年ほど前までは、「長垂海水浴場」でした。

今は、8月上旬、この海岸で「今宿花火大会」が開催されています。花火が海に映る姿は、本当に綺麗です。

  

海岸線を過ぎ、山手の方に向かいます。田んぼには、近くの小学生が作った「案山子」と「彼岸花」咲いています。

彼岸花も「赤」「白」「黄」の色が咲いています。私たちが子供のころ、彼岸花は、お墓に多く「地獄花」と呼んでいました。彼岸花は、有毒で田んぼの土中に生息する虫たちを退治するために植えられたと記憶しています。

それが、今や、観賞用の花ですね。

     

※何ともユニークな案山子ですね。

  

さて、今回のウオーキングの目玉である「今宿田んぼアート」に着きました。昨年は、義父の法要のため行けませんでしたが、今回で5回目だそうです。

今年のテーマは、「招き猫ときんしゃい今宿」です。子供たちから今年のテーマを募集したところ、この招き猫ときんしゃい今宿になりました。※「きんしゃい」とは、方言で「いらっしゃい」という意味です。

  

田んぼアートを楽しみゴールの「JR今宿駅」には、10時50分に到着しました。楽しい田んぼアートウオークでした。

本日のGPSです。グーグルアースでアップします。

 

 

 

 

 

 

 


越前・日本海ハイ!ウオークツー(第23回二日目越前コース16km)

2014-09-19 22:34:59 | ウォーキング

9/14 越前・日本海ハイ!ウオークツーの二日目。今日は、越前コース。天気は今日も晴れ。

事前では、30kmにエントリーしていましたが、前日の足の疲れがまだとれなく、また、帰りの電車のことを考え、16kmに変更しました。

16kmは、松岡河川公園→(バス移動)→大本山永平寺→越坂峠→鳴鹿大堰→福井県グリーンセンター→松岡河川公園。

   

松岡駅7:54着。駅から会場の方に歩いていると、お年寄りの方が、ゲームをされています。ゲートボールそれにしては、スティックがない

聞きますと「ペタンコ」だそうです。フランスが発祥の地で、早い話、陸上のカーリングです。

九頭竜川の鉄橋を渡るとたくさんの太公望の方が鮎釣りをされています。その竿が長いこと長いこと・・・・・・

   

会場は、九頭竜川鉄橋の下の「松岡河川公園」。参加者は、昨日と同じ500人ぐらいかな?

     

出発式のあと、バスで永平寺駐車場へ。9時20分ウオーキング開始。

永平寺までの道は、狭く車の通行量も多いので、永平寺駅口跡までは、団体歩行です。

  

曹洞宗大本山永平寺は、今から約750年前の寛元2年(1244年)、道元禅師によって開創建された出家参禅の道場です。

室町時代には天皇から「曹洞宗第1道場」の勅額を贈られ、日本の禅修行の場として歴史を刻んできました。33万平方メートルにも及ぶ広大な敷地には、山門・仏殿・法堂・僧堂・大庫院・浴室・東司などの

 修行の中心となる「七堂伽藍」 など、70余棟の建物が、樹齢600年を越える老杉の巨木に囲まれながら 静かにたたずんでいます。150名の雲水たちによって、荘厳な雰囲気の中、

今も750年前に道元によって定められた厳しい作法に従って禅の修行が営まれています。(永平寺町観光ガイドより)  大晦日の「行く年来る年」では、修行の様子がテレビで映されていますね。

永平寺に御参りに行きたかったのですが、団体歩行のため、門前にて拝んできました。また、いつか機会があれば、本堂に御参りしたいです。

  

  

 

永平寺門前町を抜けると「永平寺参ろ~ど」という遊歩道に入ります。ここは、かつて、永平寺鉄道(現京福電鉄)が東古市~永平寺まで永平寺線として営業していました。 

しかし、モータリゼーションなどにより、2002年(平成13年)廃止されました。その跡地を、今年(平成26年)春「遊歩道」として完成しました。約6km、鉄路があったころのように砂利敷きや一部レールを残しています。

志比南小学校が第一チェックポイントです。このチェックポイントの案内板は、目立たない所にありますので何人かの方が気づかず通り過していきました。

私も気づかず素通りしていこうとしましたが、家内が気づいて、教えてくれスタンプをもらうことができました。次回は、目立つ所で案内してほしいですね。

  

  

  

コシヒカリ」でしょうか、田んぼでは、稲刈りが行われています。こういう空気のおいしいところをウオーキングするなんて贅沢な感じがします。

  

諏訪間の信号から左折。コースは、16km最大の難所「越坂峠(こえさかとうげ)」に向かいます。余談ですが、前方に「羽二重餅(はぶたえもち)」の看板が見えますが、昨日お土産を買いに福井駅構内のお土産屋さんに

行きましたが、この羽二重餅は、いろんなお菓子屋さんが作っているのですね。クルミがはいったり、もなかになったり、どれを選ぶか迷ってしまいました。また、羽二重餅を作っているお菓子屋さんは、

勝山とか、永平寺周辺に多いです。やはり永平寺の関連でしょうか 因みに、『羽二重餅』の由来である「羽二重」とは、撚りのない経糸(たていと)と緯糸(よこいと)を使った平織りの絹織物のこと。

柔らかな肌触りと上品な光沢が特徴です。福井では明治初期ごろから生産が本格化し、20世紀初頭には全国輸出額の60%を占めるほどの産地になったそうです。

羽二重餅は、羽二重を彷彿させるようにと、考え作られました。150数年の歴史があるそうです。

  

越坂峠」は、202mあり、古くは、永平寺の参道としての歴史を持ち、多くの修験者がこの峠を越えて大本山に向かったそうです。

しかし、それにしてもきついです。ここまでは、順調に歩いてきましたが、昨日の疲れでしょうか、足が思うように動きません。後から来た人にどんどん追い越されます

修業、修業と口で唱えながら登っていきます。やっと頂上です。

 峠を越えると「松岡」の町に入ります。柴神社を過ぎると、福井の代表的な清酒「黒龍酒造」があります。お店の前の杉玉には、しめ縄がつけられています。こういう光景は、初めてです。創業は、文化元年(1804)だそうです。

昨晩、ホテル近くの居酒屋でこの「黒龍」の大吟醸をいただきました。お値段は、一合@1300円だったかな?一口飲んでみますと、甘くてとても飲みやすいです。

あっという間に一合飲んでしまいました。お代わりをしたかったのですが、ここは、家内に止められました。 

   

黒龍酒造の先には、「浜田醸造」という醤油、お味噌屋さんがあります。こちらは、大正14年の創業。永平寺町は、歴史あるお酒屋さんや醸造屋さんなどがあります。やはり水がいいのでしょうね。

  

チェックポイントは、「鳴鹿大堰(なるかおおぜき)」です。

説明文には、水の便が悪かったもの土地の人々にとって、稲を作ることは、昔からの悲願でした。寛弘8年(1011年)、春日明神のお告げにより、黒龍川の上流を辿っていくと、一頭の鹿が幣を咥えて現れました。

鹿のあとを追うと、川の中で三声鳴いて幣を振って、春日社のあたりで姿を消したと言われています。これが「鳴鹿」の地名伝説です。

鹿の通った通りに堰を設け、水路を開削して十郷用水が生まれ、旧堰は、鳴鹿堰堤と呼ばれました。旧堰の下流に築造された新堰は、この伝説に因んで「鳴鹿大堰」と命名されました。

本堰の堰柱は、「鹿」の姿を表し、また堰全体は、かつてこの地の両岸をつないでいた「鳴鹿の舟橋」を連想できるように設計されています。2003年完成しました。

  

   

この大堰の下には、九頭竜川(くずりゅうがわ)が流れています。

九頭竜川流域は、本州日本海側のほぼ中央にあり、福井県嶺北部に位置しています。流域内には、福井市を始め7市4町と岐阜県郡上市の一部が含まれています。

九頭竜川は、流域を代表する「母なる川」で幹線流路延長が116kmもあります。その流れの源は、福井・岐阜県境の油坂峠(717m)に発し、九頭竜峡谷を経て、大野盆地を南北に流れ、

勝山市で真名川と合流し、永平寺町鳴鹿にて福井平野に入りに西流します。そして福井市高屋において、南越前夜叉が池(1099m)より流下する日野川と合流し、坂井市三国町で日本海に注ぎます。

川では、太公望が鮎釣りをしていました。

   

九頭竜川を渡り、しばらく歩くと「福井県総合グリーンセンター」があります。

 福井県総合グリーンセンターは、都市緑化植物園とグリーンパークからできています。都市緑化植物園には、熱帯植物や季節の草花の温室、緑の相談室、噴水、芝生広場、盆栽展示、

林業試験研究室などの施設があります。グリーンパークには展示室や展望台があるウッドリームフクイ、北前船やからくり時計があるウッドハウス九頭龍、水上ステージと芝生のふれあい広場、

ミニボート池、いろいろな遊具などの施設があります。

グリーンセンターの木々は、紅葉し始めたのもありました。 グリーンセンターを出ると福井大学病院が前方に見えてきます。

やはり、福井大学は、「福大」でしょうか?、また福井銀行は、「福銀」でしょうか?福岡にも「福大」、「福銀」があります。(笑)

  

  

ゴールの松岡河川公園が近づいてきました。時間は12時20分ぐらい。当初の予想では、13時ぐらいでしたけど、だいぶん早く着きそうです。

12時24分、16kmゴールしました。約3時間の歩行でした。ゴールすると、精進カレー汁が振る舞われました。

  

カレー汁を食べ終わると地元のテレビ局のカメラが近づいてきました。私にインタビューをするそうです。Dバックの後ろに「風車」を付けていたからでしょうか?

何か、あがっちゃって、何を言ったか忘れてしまいました。(笑) 福井では、もう放映されたでしょうか?

今日のコースマップです。

昨夜は、ホテルの近くの居酒屋さんで福井の「油揚げ」「サバのへしこ」をいただきました。

「福井の油揚げ」は、とにかく厚いです。厚揚げ?と思いましたが、いや、油揚げなんです。なんでも福井県は、油揚げの消費が全国一だそうです。

そういえば、永平寺などでは、精進料理に「油揚げ」を使いますね。

「サバのへしこ」は、はじめていただきましたが、店の主人から少しずつ食べた方がいいと言われ、少しずついただきましたが、兎に角辛いです。これだったらどんどんお酒が入ります。

しかし、よく麹の味がしてとてもおいしかったです。

  

帰りに電車の中で食べようと、福井駅構内で「焼サバ寿司」を買いました。@1100   身が厚くとてもおいしかったです。

 福井は、「御食(みけつ)国」(若狭地方)と言われます。この3日間、福井のおいしいものを満喫しました。まだまだ食べていないものもたくさんあるみたいです。

やはり、3日間では、全部食べようとは、無理ですね。またいつの日か、福井の町を訪れたいと思います。

次回は、嶺南地方のおいしいものがいいかな?

以上で私の「初めての福井」の旅報告を終わります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


越前・日本海ハイ!ウオークツー1日目(第23回 日本海コース30km)

2014-09-18 19:36:06 | ウォーキング

平成26年 9/13~14、福井県で行われた「越前・日本海ハイ!ウオークツー」に参加しました。

夏の間、雨ばかりであまり歩けていませんが、2日間とも30kmコースにエントリーしています。

初日30kは、日本海コースで 三国運動公園→→吉崎御坊跡→北潟湖→浜地海水浴場→雄島→東尋坊→三国港町町家→みくに龍翔館→三国運動公園

受付は7:30からですので、えちぜん鉄道の始発に乗らないと間に合いません。コンビニで弁当を買い食べてから えちぜん鉄道の駅に向かいます。

今日は、朝の最低気温が18℃、最高気温も25℃、天気は晴れと絶好のウオーキング日和です。

えちぜん鉄道は、福井駅から三国港に行く「三国芦原線」と福井駅から勝山に行く「勝山永平寺線」があります。勝山には、恐竜博物館があります。

 

ホームに入ったのは、一番でしたが、長椅子にもう誰か座っています。

恐竜のモニュメントでした。約1時間の乗車で終点の三国港駅に到着。三国港は、昔、北前船で栄えた町です。会場の三国運動公園へは、徒歩15分で着きました。

   

8:15から出発式。出発式のあと30k,16k,7kと一斉にスタートします。30kは、バスで「吉崎御坊跡」に移動します。

  

約30分で吉崎御坊跡に到着。吉崎御坊は、今から約540年前、蓮如上人が浄土真宗北陸布教の拠点とした所です。

  

別院には、「嫁威しの面」というのがあり、立ち寄ってみたかったのですが、しばらくは団体歩行のため立ち寄れませんでした。

どうも気になりますので「嫁威しの面」を調べました。

むかしむかし、吉崎(よしざき)に蓮如上人(れんにょうしょうにん)のお寺がありました。そしてその近くの二俣(ふたまた)という村に、与三次(よさじ)という若者と母親が住んでいました。

 ある日の事、この与三次の家に、やさしい働き者の嫁さんが来ました。嫁さんは蓮如上人の教えをうけて、毎日、吉崎御坊(よしざきごぼう)へお参りに通っていました。
 そのうち与三次も、嫁さんと二人仲よく吉崎御坊に通うようになりました。ところが母親は信心のない人だったので、おもしろくありません。
 嫁さんが、母親に信心をすすめると、「ふん! なにを言っているんだい。信心したって、腹はふくれないよ! そんなひまがあったら、もっと働き! だいたい、お前という嫁は・・・」
と、母親は嫁さんをいじるのでした。

 ある日、与三次は急な用事が出来て、吉崎御坊へ行けなくなりました。嫁さんは仕方なく、一人で吉崎御坊へお参りに行きました。
 嫁さんが、まっ暗な夜道を一人で帰ってきますと、家の近くの竹やぶから突然鬼が現われました。
「こら! 毎晩親をないがしろにして、吉崎御坊へ通うとは何事じゃ!」
 嫁さんはビックリしましたが、すぐにいのりました。「蓮如上人さま、どうぞお助けください」
 すると不思議なことに、鬼はピクリとも動かなくなってしまいました。「蓮如上人さま、ありがとうございます」
 嫁さんは急いで家にかけ込みましたが、家に帰ってみると母親の姿がありません。
「もしかして鬼が、お母さまを」 母親が鬼におそわれたと思い、嫁は母親を助けようと家を飛び出そうとしました。
 するとちょうど与三次が帰ってきたので、く二人はさっき鬼が出たところまで行ってみました。
 すると母親が、鬼の面をかぶって泣いているではありませんか。「お母さま、大丈夫ですか」
「母さん、そこで何をしているんだ」二人がわけを聞くと、母親は嫁が吉崎御坊へ行きたがらないようにと、鬼の面をかぶっておどかしたそうです。
 ところがどうしたわけか、母親の顔から鬼の面が取れなくなってしまったのです。
 二人は母親を吉崎御坊へ連れて行って、阿弥陀(あみだ)さまに一生懸命おいのりをしました「どうか、お母さまをお助けください」
「母さんも反省しています。どうかお助けください」すると今までびくともしなかった面が、ポロリとはずれたのです。
 それからは母親も心を入れかえて、三人は仲良く吉崎御坊へ通ったという事です。(福井民話より)

  

上っていくと視界が開け、右側に海が見えてきます。そして高村光雲作の「蓮如上人像」が建っています。

  

旧吉崎道は、蓮如上人が、吉崎へ下向する際に通った道です。旧北陸道と分岐する細呂木には、切通しが往時のまま残っており、苔むした岩肌が歴史を物語っています。

  

細呂木関所跡

福井藩祖「結城秀康」が慶長6年(1601)5月、越前入国の際、北陸道の開門として設けたもので、今庄町、板取の関と共に、北と南で国境を警備し通行人と物資の搬出を監視した。

この関所を通るには、福井藩の役所手形が必要で、鉄砲と女改め方には、特にきびしかった。

  

民家の庭先を見てますと、栗の実が実っています。また、畑には蕎麦の花が咲いていました。田んぼには、実りの秋を迎え、稲刈りが行われています。

雑談ですが、今や、お米のブランド名になっています「コシヒカリ」は、福井県が発祥の地です。「越の国に光輝く米」として命名されたそうです。

コースは、田園地帯を歩きます。遠くに風力発電の風車が見えてきます。私のDバックの後ろにつけている「風車」よりはるかに大きいです。(笑)

 

10時20分、最初の給水ポイント「北潟湖」に到着。ここまで7km(時速6km/h)。私にしてはちょっと早いペースです。

北潟湖は、福井県内3番目に広い湖です。湖畔には300種20万株の花菖蒲園や湖畔を一周できるサイクリングロード、湖ではカヌーもできます。本当に素晴らしい景色です。

  

パノラマで撮ってみました。

「あわら夢ぐるま展望台」が最初のチェックポイントです。目の前で見る風車は大きいです。(私の風車が小さく見えます)

ここでは、ソフトクリームがおいしいということで買ってみました。売店には、産直店も兼ねており、あの「越のルビー」「さつまいも」もありました。

  

  

展望台から海岸に向かって歩きます。途中、日本海の波の音が聞こえてきます。今日は波が高いのでしょうか、冬の海のように荒れ狂っているように聞こえます。

ここから浜地海水浴場までは、日本海を眺めながらの歩行です。ただ、この細い道に車が行き来し、通れないのでちょっと避けたりします。

  

日本海の水平線の先は、北朝鮮でしょうか?

18kmの所が、浜地海水浴場。時刻は、12時半。ここがチェックポイントになっています。ここで事前予約していたお弁当を受け取ります。

   

お弁当休憩後再びスタート。

  

このあたりは、東北の松島に似ていることから、「越前松島」と呼ばれています。磯に点在する柱状節理の岩が、独特の景観を見せてくれます。

丸岡藩砲台跡 砲台は、丸岡藩が沿岸警備のために坂井市三国町梶の東方に突出した海岸部に建設したものである。外面は土砂で築き、内面と側面は石を積み上げて作られている。

銘文によると嘉永五年(1852)2月、高島秋帆の門人と伝えられる栗原源左衛門の設計で築造されている。現存する遺構は、北面して弓形を呈し5つの砲眼を開く東西33m、

高さ1.8mの胸墻(きょうしょう:敵の射撃をよけ、味方の射撃の便のために土を胸の高さほどに積み上げたもの)を主体としている。(福井の歴史より)

  

昔の防波堤を見ていると、横がお墓です。そのお墓に、蓆(むしろ)が巻かれています。初めて目にしました。どういう意味なのか、調べてみますが、わかりません。ご存知の方教えてください。

   

コースは、「雄島(おしま)」に近づいてきました。雄島は、東尋坊の沖に横たわる島で、周囲2kmの遊歩道があります。古来から神の島と崇められており、例年4月20日には、「雄島祭り」が行われます。

  

海岸線に広い展望台があります。ここには、1997年1月に遭難したロシアの貨物船「ナホトカ号重油流出記念碑」があります。三国の海岸にナホトカ号の船首部分が流れ着き、重油が漏れ、

重油回収のため、自衛隊や民間のボランティアの方の協力で約3か月で回収を終えました。

  

雄島の駐車場がチェックポイントです。今日は、気温は、25℃ぐらいですが、歩いていると汗が噴き出てきます。小まめに水分を補給しています。

このチェックポイントでも給水サービスがあり、ペットボトル2本分の水分を補給しました。先へ進むと「思い出せ、家族や友の顔」という看板がありました。東尋坊は、自殺の名所でもありますね。

  

 

  

東尋坊にやってきました。海面から約25mの屹立する断崖が、約2kmにわたって続く景観は、日本海随一の名称として知られ、毎年百数十万の観光客が訪れているそうです。

さて、「東尋坊」という名称ですが、お坊さんの名前だろうと思っていますが、ウィキペディアをみますと、

 

昔、平泉寺には数千人僧侶がいた。その中にいた東尋坊という僧は、怪力を頼りに、民に対して悪事の限りをつくした。東尋坊が暴れ出すと手がつけられず、誰も彼を押さえることが出来なかった。

東尋坊はまさにやりたい放題、好き勝手に悪行を重ねていたので、当然のように平泉寺の僧侶は困り果てていた。また東尋坊はとある美しい姫君に心を奪われ、

恋敵である真柄覚念(まがらかくねん)という僧と激しくいがみ合った。

そんな寿永元年(1182年)4月5日、平泉寺の僧たちは皆で相談し東尋坊を海辺見物に誘い出す。一同が高い岩壁から海を見下ろせるその場所へ着くと、早速岩の上に腰掛けて酒盛りが始まった。

その日は天気も良く眺めの良い景色も手伝ってか、皆次第に酒がすすみその内、東尋坊も酒に酔って横になり、うとうとと眠り始めた。東尋坊のその様子をうかがうと一同は目配せをし、

真柄覚念に合図を送った。この一同に加わっていた真柄覚念は、ここぞとばかりに東尋坊を絶壁の上から海へ突き落とした。平泉寺の僧侶たちのこの観光の本当の目的は、

その悪事に手を焼いた東尋坊を酔わせて、高い岩壁から海に突き落とすことにあった。崖から突き落とされつつ、ようやくそのことに気付いた東尋坊であったが、もはや手遅れ。

近くにいた者どもを道連れにしつつ、東尋坊はまたたくまに崖の下へと落ちて行った。

東尋坊が波間に沈むやいなや、それまで太陽の輝いていた空は、たちまち黒い雲が渦を巻きつつ起こり青い空を黒く染め、にわかに豪雨と雷が大地を打ち、大地は激しく震え、

東尋坊の怨念がついには自分を殺した真柄覚念をもその絶壁の底へと吸い込んでいった。

以来、毎年東尋坊が落とされた4月5日の前後には烈しい風が吹き、海水が濁り、荒波が立ち、雷雨は西に起こり東を尋ねて平泉寺に向ったという。

 

  

東尋坊を過ぎると、ゴールまであと6km。東尋坊までのアップダウンで少々疲れ気味です。やはり、練習不足がでしょうか?

三国の町に入ってきました。三国港は、昔、北前船で栄えた町です。往時の面影が随所に残り、風情ある町歩きを楽しむことができます。

眼鏡橋」は、北陸線から三国へしせんが敷設されたことにより、大正2年(1913)建設されました。橋の形式は、斜角度60°の斜めアーチ型。半円断面のトンネルで、煉瓦造りの「ねじりまんぽ」と

呼ばれる珍しい技術を採用されているそうです。  お魚屋さんでは、魚を焼いていましたが、その匂いに近づいてきました。せめて写真だけでもと思い撮らせていただきました。匂いが伝わるでしょうか?

  

三国の町を歩いているとウオーカーの方が見当たらない。私達がしんがりなのでしょうか?少し寄り道をしすぎたかな・・・・・・

しかし、三国の町を歩いていると、ウダツのある家や、旧家など、街道歩きが好きな私には、嬉しくなります。

  

  

北前船貿易で莫大な財を形成した豪商の町家「旧岸名家」。2階が展示場になっています。ここが最終チェックポイントです。

北前船貿易から金融業に転換した「旧森田銀行本店」、現在は福井銀行が引き継いでいます。

    

みくに龍翔館は、明治12年にオランダ人土木技師エッセルのデザインによって川沿いの丘の上に建てられた龍翔小学校をモデルに建てられました。

内部は、三国の自然、文学、歴史、暮らしや文化などを展示されています。

   

15時44分、30kmをゴールしました。9時11分にスタートしましたから、6時間30分かかってしまいました。前半の早いペースが応えたかな????

もう足がパンパンになっています。ゴール後「おろし蕎麦」が振る舞われました。

  

地元の新聞を見てみると参加者は、7k、16k、30k合わせて530人でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


初めての福井(その3)

2014-09-17 16:08:30 | 旅行

 

以前所属していたSNSに福井・鯖江のYさんがおられました。

彼が紹介したのが、「橘 曙覧(たちばな あけみ)」。

橘 曙覧(1812~1868)は、幕末の福井に生まれた歌人、国学者です。心豊かな歌を詠み、「橘曙覧遺稿志濃夫廼舎歌集」を残しています。 

歌の中で最も親しまれているのが、「独楽吟(どくらくぎん)」52首の連作。生活の中にある素朴な「たのしみ」を読み込んだ歌は、多くの人の共感を得ています。

 ガイドブックを見ていたら、「橘曙覧記念文学館」があるそうで、ここに行ってみました。

九十九橋を渡り、愛宕坂を上っていくとこの記念館がありました。

 

      

入場料は、100円ですが、JAFカードを提示すると半額の50円です。残念ながら館内は撮影禁止です。 

独楽吟

たのしみは 草のいほりの筵(むしろ)(しき)ひとりこゝろを靜めをるとき

たのしみは すびつのもとにうち倒れゆすり起
(おこ)すも知らで寝し時

たのしみは 珍しき書
(ふみ)人にかり始め一ひらひろげたる時

たのしみは 紙をひろげてとる筆の思ひの外に能くかけし時

たのしみは 百日
(ももか)ひねれど成らぬ歌のふとおもしろく出(いで)きぬる時

たのしみは 妻子
(めこ)むつまじくうちつどひ頭(かしら)ならべて物をくふ時

たのしみは 物をかゝせて善き價惜
(をし)みげもなく人のくれし時

たのしみは 空暖
(あたた)かにうち(はれ)
し春秋の日に出でありく時

たのしみは 朝おきいでゝ昨日まで無
(なか)りし花の咲ける見る時

たのしみは 心にうかぶはかなごと思ひつゞけて煙草
(たばこ)すふとき

たのしみは 意
(こころ)にかなふ山水のあたりしづかに見てありくとき

たのしみは 尋常
(よのつね)ならぬ書(ふみ)に畫(ゑ)にうちひろげつゝ見もてゆく時

たのしみは 常に見なれぬ鳥の來て軒遠からぬ樹に鳴(なき)しとき

たのしみは あき米櫃に米いでき今一月はよしといふとき

たのしみは 物識人
(ものしりびと)に稀にあひて古(いに)しへ今を語りあふとき

たのしみは 門
(かど)賣りありく魚買(かひ)て煮(に)る鐺(なべ)の香を鼻に嗅ぐ時

たのしみは まれに魚煮て兒等(こら)皆がうましうましといひて食ふ時

たのしみは そゞろ讀(よみ)ゆく書(ふみ)の中に我とひとしき人をみし時

たのしみは 雪ふるよさり酒の糟あぶりて食(くひ)て火にあたる時

たのしみは 書よみ倦(うめ)るをりしもあれ聲知る人の門たゝく時

たのしみは 世に解(とき)がたくする書の心をひとりさとり得し時

たのしみは 錢なくなりてわびをるに人の來(きた)りて錢くれし時

たのしみは 炭さしすてゝおきし火の紅(あか)くなりきて湯の煮(にゆ)る時

たのしみは 心をおかぬ友どちと笑ひかたりて腹をよるとき

たのしみは 晝寝せしまに庭ぬらしふりたる雨をさめてしる時

たのしみは 晝寝目ざむる枕べにことことと湯の煮(にえ)てある時

たのしみは 湯わかしわかし埋火(うづみび)を中にさし置(おき)て人とかたる時

たのしみは とぼしきまゝに人集め酒飲め物を食へといふ時

たのしみは 客人(まらうど)えたる折しもあれ瓢(ひさご)に酒のありあへる時

たのしみは 家内(やうち)五人(いつたり)五たりが風だにひかでありあへる時

たのしみは 機(はた)おりたてゝ新しきころもを縫(ぬひ)て妻が着する時

たのしみは 三人の兒どもすくすくと大きくなれる姿みる時

たのしみは 人も訪ひこず事もなく心をいれて書(ふみ)を見る時

たのしみは 明日物くるといふ占(うら)を咲くともし火の花にみる時

たのしみは たのむをよびて門
(かど)あけて物もて來つる使(つかひ)えし時

たのしみは 木芽
(きのめ)(にや)して大きなる饅頭(まんぢゆう)を一つほゝばりしとき

たのしみは つねに好める燒豆腐うまく煮
(に)たてゝ食(くは)せけるとき

たのしみは 小豆の飯の冷(ひえ)たるを茶漬(ちやづけ)てふ物になしてくふ時

たのしみは いやなる人の來たりしが長くもをらでかへりけるとき

たのしみは 田づらに行(ゆき)しわらは等が耒(すき)(くは)とりて歸りくる時

たのしみは 衾(ふすま)かづきて物がたりいひをるうちに寝入(ねいり)たるとき

たのしみは わらは墨するかたはらに筆の運びを思ひをる時

たのしみは 好き筆をえて先
(まづ)水にひたしねぶりて試(こころみ)るとき

たのしみは 庭にうゑたる春秋の花のさかりにあへる時々

たのしみは ほしかりし物錢ぶくろうちかたぶけてかひえたるとき

たのしみは 神の御國の民として神の(をしへ)をふかくおもふとき

たのしみは 戎夷(えみし)よろこぶ世の中に皇國(みくに)忘れぬ人を見るとき

たのしみは 鈴屋大人(すすのやうし)の後(のち)に生れその御諭(みさとし)をうくる思ふ時

たのしみは 數ある書(ふみ)を辛くしてうつし竟(をへ)つゝとぢて見るとき

たのしみは 野寺山里日をくらしやどれといはれやどりけるとき

たのしみは 野山のさとに人遇(あひ)て我を見しりてあるじするとき

たのしみは ふと見てほしくおもふ物辛くはかりて手にいれしとき

1994年6月、今上天皇、皇后がアメリカを訪問した折、ビル・クリントン大統領が歓迎の挨拶の中で、この中の歌の一首「たのしみは朝おきいでて昨日まで無かりし花の咲ける見る時」を

引用してスピーチをしたことで、その名と歌は再び脚光を浴びることになりました。

曙覧は、家族を大事にしていました。歌にもその思いが表れています。庭園に入ると幼くして亡くした三女健子との仲むつましい姿が銅像になっています。

曙覧は、この自分の家を「藁屋」と称しました。その藁屋に、彼の学を伝え聞いて1865年福井藩主「松平春嶽」が家老の「中根雪江」を案内に出仕を求めに

やってきました。春嶽は、いい人材をどんどん活用してきた方です。他にも熊本藩「横井小楠」を政治顧問として迎えたり、土佐の脱藩浪士「坂本龍馬」と接したり身分などもろとも

しませんでした。今日、学力テストが小、中学校で行われていますが、福井県は常に上位クラスです。このような春嶽の教えが現代にも活きているのでは、ないでしょうか?

因みに我が福岡県は、全国36位でした。

  

橘 曙覧記念文学館を出て、さらに愛宕坂を上ります。

5分ぐらいの所に「足羽(あすわ)神社」があります。この神社は、「継体天皇」をお祀りしています。

継体天皇は、応神天皇五世皇孫で越前の治水事業を行い、平野を開き諸産業を興された男大迹王(すおのみこと)が越前から第26代天皇として即位され

発たれる時に「末永くこの国の守り神とならん」と自ら生き御霊を鎮めて旅立たれました。それより継体天皇が主祭神として祀られています。

境内には、見事な樹齢360年の「しだれ桜」と参道の「タカオモミジ」は、天然記念物になっています。

   

足羽神社を上っていくと「継体天皇の像」があると聞き、また坂を上りました。(結構この坂はきついです)

長い階段を上り詰めた所に継体天皇像がありました。天皇は、越前平野の方を見られているそうです。また、山頂には古墳もありました。

  

足羽山を下りていくと「百坂」というのがあります。勾配がきつくゆっくり下りないと足を踏み外しそうです。

百坂を下りた森の中の左内公園内に「橋本左内の像」がありました。

橋本左内は、幕末の歴史物には、よく出てきます。実家は医者でしたが、のちに松平春嶽の側近として活躍し、将軍の後継問題では、一橋慶喜を推しましたが、

時の大老「井伊直助」らが推す紀州、徳川慶福(のちの家茂)と対立しました。(安政の大獄)

安政の大獄後、左内は捕えられ、斬首されました。時に26歳でした。左内や、龍馬などが生きていたら日本もまた違う行き方をしていたかもしれません。

  

駆け足で福井の町を見て廻りましたが、まだまだ見るべきところがあります。また次回福井に行ったときにでも訪ねたいと思います。

【追記】ホテルで地元の新聞を見ていますとこんな記事がありました。

福井にもクマがいるんですね。知りませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 


初めての福井(その2)

2014-09-16 19:26:03 | 旅行

北ノ庄城跡見学のあと、デパートに立ち寄りました。トマトの「越のルビー」や「鯖のへしこ」、「小鯛の笹漬け」などどれも福井を代表する食べ物ですね。

    

一乗谷朝倉氏遺跡」は、今から500年以上前の戦国時代、朝倉氏が5代103年間にわたって越前を支配した城下町跡です。

最盛期には、1万を超える人口を有し、雄大な城下町とみやびやかな文化の華を咲かせましたが、1573年織田信長によって跡形もなく焼き払われ滅ぼされました。

遺跡の発掘調査は、昭和42年から進められ昭和46年には国の特別史跡に指定され、平成3年には諏訪館跡庭園、湯殿跡庭園、義景館跡庭園、南陽寺跡庭園が特別名勝に指定されました。

平成19年、朝倉氏遺跡出土品のうち、2343点が重要文化財指定を受け、全国でも5例目となる(特別史跡、特別名勝、重要文化財)となりました。

復原町並みでは、塀に囲まれた重臣の屋敷が山際に並び、計画的に造られた道路を挟んで武家屋敷や庶民の町家が形成されていた様子がリアルに再現されています。(大会誌より)

   

500年前の城下町を見事に復元されていました。各コーナーには、ガイドさんも待機され詳しく説明されています。

ただ、欲を言うなら、道路が黒のアスファルト舗装というのは、どうもしっくりいきません。昔の道だと車いすが動けないとか、ハイヒールの方が歩きにくいという難がありますが、

今はカラー舗装もありますのでその点をもう少し考えて欲しかった。

   

 

   

    

 一乗谷川を渡ると「朝倉氏館跡」があります。

   

朝倉氏館は、朝倉家当主が居住した館である。東側後背に山城があり、西、南、北の三方を高さ1.2メートルないし3メートルほどの土塁で、その外側を幅約8メートル、深さ約3メートルの堀で囲んでいる。

三方の土塁にはそれぞれ隅櫓や門があった。西方にある門が正門(御門)であり、現在は唐門が建てられている。平坦部の面積は約6,400平方メートルあり、内部には17棟の建築物があった。

館内最大の常御殿(東西約21.4メートル、南北約14.2メートル)を中心に、南側には主殿や会所・数寄屋・庭園・花壇など接客用の施設群が、北側には台所や持仏堂・湯殿・蔵・厩など日常生活のための施設群が存在した。

建物はすべて礎石に角柱を立てて建てられており、屋根はこけら板等を葺いていたと考えられているが、鬼瓦や棟石等も発掘されている。舞良戸や明障子などの引き戸を多用し、畳を敷きつめた部屋も多かったとされる。(ウィキペディアより)

     

 

一乗谷城は、この山頂にあったそうです。この朝倉氏の遺跡、本当に見事でした。

朝倉氏遺跡を後にし、次は、私の福井で行ってみたい所№2「芦原温泉(あわら)」に向かいました。

福井ICから北陸道を通り、丸岡で降りて15分ぐらいでつきました。入った温泉は、「セントピアあわら」。入浴料を払おうとするとJAF会員には割引があるそうです。

500円→400円でした。

芦原温泉は、1883年明治16年)開湯。一帯はこれといった作物も育たない湿地帯であり、農地の灌漑工事を行っている最中に噴出した。しかし、風景が平凡であるために、

各旅館はこぞって京都から職人を招き、庭園美を競うようになった。また、それに見合った建築、露天風呂などを設え、風情のあるものに仕立て上げた。その後は、落ち着いたたたずまいが人気を呼び、

また永平寺の精進落としの湯、はたまた関西地方の奥座敷として発展を遂げていくが、1956年(昭和31年)に大火に見舞われ、温泉街は烏有に帰す。

その後、新たな都市計画の元に碁盤目上に区画された温泉街が作られた。(ウィキペディアより)

  

お湯もよく、ゆったりした気分になれました。芦原(あわら)は、金津町と合併し、現在「あわら市」になっています。

さて、今晩の夕食は、「越前おろしそば」です。福井県は、そばの生産量が全国5位です。そばに大根おろしをのせて出汁をかけたり、大根おろしに出汁を加えてつけツユにして食べるなど

大根おろしを利用することから「おろしそば」と呼ばれています。

  

先ずは、ビールで。

  

焼きサバ寿司も厚みのある鯖を使ってあり、大変おいしくいただきました。

福井は、2018年国体が開催されるそうです。通りには、国体の垂れ幕がありました。

福井市のマンホール。空襲や地震、水害などから不死鳥のごとく復興したことから福井市のマンホールには、不死鳥が使われています。

  

 

 

 

 

   

  

 


初めての福井(その1)

2014-09-15 17:04:46 | 旅行

「越前、日本海ハイウオーク」に参加するため、初めて福井市に行きました 博多発6:05発ののぞみで新大阪へ。新大阪からは、サンダーバードに乗り換えて福井へ。約5時間の旅でした。

  

 

福井駅でレンタカーを借り福井市内散策です。

福井は、初めてで知らないことばかり。福井に来る前に少し勉強してきました。 昔は、若狭から山形・荘内地方の一部までを「越(こし)の国」と呼んでいました。

福井が、「越前」石川、富山が「越中」、新潟が「越後」。のちに越中が、「能登」と「加賀」に分かれます。

その越前「福井」は、北陸街道の難所である「木の芽峠」「栃ノ木峠」(北陸トンネルの所)を境に「嶺南」「嶺北」の分かれます。これは、木の芽峠が通称「木嶺」と呼ばれたことに起因します。

京に近い方が「嶺南」(敦賀、若狭方面)、「嶺北」は、越前、鯖江、福井、坂井などを指します。

「福井市」は、人口約263000人(福井県総人口約79万人)。戦国時代には、朝倉氏、柴田氏が支配し、江戸初期には、結城秀康(徳川家康の二男)を中心に68万石の城下町でした。

お城は、もうありませんが、福井駅から5分ぐらいの所に「福井城址」があります。

  

福井城址には、現在福井県庁がありますが、ところどころにお城の面影が残っています。天守閣跡の近くには、「福井」の地名の由来になった「福の井」があります。

案内板によれば、井戸の底部まで5,7m、水深1,9m。

  

お城址を散策していると、2018年福井国体のキャラクター「はぴりゅう」に会いました。「はぴ」は、ハピネス、「りゅう」は、福井の恐竜を意味しています。

福井城址の横の公園には、1936年の2・26事件で負傷した福井出身の元首相「岡田啓介」の銅像が建っています。

    

さて、お腹もすいてきましたので、昼食にしようと思います。これも事前に調べましたヨーロッパ軒の「ソースかつ丼」。地元の方に聞いてやっとたどり着いたヨーロッパ軒。

お昼時で多いかな?と思いましたが、すぐ座られました。

   

普通「かつ丼」というと揚げたとんかつに卵をとじているのですが、ここのかつ丼は、揚げたとんかつに独特のソースをかけたものです。

とんかつも一般的には、脂身の入った1cmぐらいの肉ですが、このソースかつ丼は、脂身をとったやや薄いお肉です。御飯にソースをかけるなんて、辛いのでは?と思いますが、なんのなんの決して辛くありません。

隣の席では、日本テレビ系の「けんみんショー」の録画が行われていました。隣に座っていたので少しぐらい映っていたかもしれません。放映は、10/16だそうです。

   

お腹もいっぱいになり、北ノ庄公園に行きます。

この北ノ庄城址は、柴田勝家が、福井を治めた時、北ノ庄城というお城があった所です。案内パンフを見ると、北ノ庄城は、天正3年(1575)に築城が始まり、織田信長の安土城天守(7層)をしのぐ、9層の天守閣を持つ

日本最大級の城だったそうです。天正11年(1583)羽柴秀吉に攻められ落城。城もわずか8年で「幻の名城」となりました。現在は、勝家とお市(信長の妹)を祀る「柴田神社」、茶々、初、江を祀る「三姉妹神社」があります。

  

 信長亡き後、天正11年(1583)4月、賤ヶ岳(しずがだけ)の戦いで羽柴秀吉に敗れた勝家は、妻の お市の方(織田信長の妹で絶世の美人と言われ、政略的婚姻により近江の小谷城主浅井長政に嫁ぎ1男3女をもうけた。

天正10年(1582)10月3人の娘を連れて柴田勝家の許に嫁ぐ)に3人の娘と共に城を出るように諭したが、お市は、3人の娘を秀吉の陣におくったのち、勝家と共に城内で自害した。

残された3人の娘の長女「茶々(淀姫)」は、秀吉の側室となり寵愛を受け秀頼をもうけたが、慶長19年(1615)家康軍と交戦することになり、翌元和元年5月、秀頼と共に大阪城中で自害した。

次女「お初」は、従兄弟の京極高次に嫁ぎ忠高をもうける。高次は、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いののち若狭国小浜城主となる。

三女「お江」は、豊富秀勝などと再婚を重ねた後、徳川二代将軍秀忠の正室になる。

 

   

北ノ庄城址からしばらく市内を歩きます。大手町の所には、大きな神社があります。

これは、「佐佳枝廼社(さかえのやしろ)」といって、徳川家康、松平秀康(結城秀康)、松平慶永(春嶽)をお祭りしています。別称「越前東照宮」ともよばれています。

大手町の道路を見ると路面電車が走っています。これは、福井鉄道といって、福井から武生(たけふ)までの約21kmを走っています。

  

このあと、レンタカーで一乗谷に行きました。(続く)