よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

日光街道№6幸手(さって)宿~栗橋(埼玉県幸手市~久喜市)

2019-05-31 21:13:40 | 奥州街道(日光街道)

№5からの続きです。国道4号線と合流した後、上高野小学校の信号から旧道に入ります。東武の踏切を渡って突き当りが日光御成道(おなりみち)と合流します。

  

日光御成道は、東京文京区・本郷追分から幸手宿の手前で日光街道に合流するまでの12里(48km)。もともとは、鎌倉時代の奥州へ通じる幹線道路「鎌倉街道中道」でした。

慶長5年(1600)この道を北上して上杉征伐へ向かった家康は、小山宿で石田光成の挙兵を知り、直ちに引き返して関ヶ原の合戦で勝利し、やがて征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開きます。

家康はその遺言により、日光東照宮に祀られました。以来歴代将軍の日光社参が幕府の大切な行事となります。そのための特別な道が「日光御成道」です。

志手橋の所に神明神社があります。宝暦5年(1755)伊勢神宮の分霊を祀りました。境内には、「たにし不動」があります。たにしを描いた絵馬を奉納して祈願すれば眼病に霊験あらたかということです。

 

明治天皇行在所御跡碑:明治天皇は、明治9年(1876)6月奥羽巡幸の際、明治14年7月、同年10月山形・秋田・北海道巡幸の際、29年10月近衛師団の演習天覧の際に幸手を通られ、明治9年には

元本陣の知久家に、あとは、右馬之助町の元名主であった中村家に宿泊しています。

 

幸手市街地に入りました。「幸手(さって)」という地名は、この日光街道を調べていくときに初めて耳にしました。地名の由来を調べてみると、この地に日本武尊が東征の際、「薩手ヶ島」に上陸、田宮の

雷電神社に農神を祀ったという言い伝えが残っており、幸手の地名はその「薩手」に由来するという。その薩手は、大落古利根と中川の間の沖積地に位置します。地名はアイヌ語から解され、乾いた(サッツ)

原野からその名が起こったという。埼玉の地にアイヌ語・・・・・どんな繋がりがあったのでしょうか? 現在人口は5万人。

 

幸手宿は、日光御成道、筑波道の要衝を控え、権現堂河岸には江戸舟運の廻船問屋が軒を連ね賑わっていました。天保14年(1843)の日光道中宿村大概帳によると、宿内家数は962軒、うち、本陣1、

旅籠は、27軒で宿内人口は3937人。

  

 

聖福寺は、日光社参の将軍や例幣使の休息地でした。山門は、勅使門。本堂「将軍の間」の欄間は左甚五郎の作と言われています。

聖福寺の入り口には、芭蕉と曽良の句碑が建っています。

  「幸手を行ば 栗橋の関」(芭蕉)  「松杉をはさみ 揃ゆる寺の門」(曽良) 

  

幸手の一里塚  江戸日本橋より12里目

  

4号線と合流地が「内国府間」。難しい地名ですが、「うちごま」と呼びます。この先には「外国府間」(そとごま)があります。

多分、下野国分寺(栃木・下野)と下総国分寺(千葉・市川)の間に位置するからその名が付いたのではないでしょうか?

  

歩いていると右側の方に権現堂公園があります。三郷の歩友Oさんお薦めの所ですので行ってみることにしました。

関東の桜の名所として有名な幸手権現堂桜堤は、約1000本のソメイヨシノが1kmにわたって咲き誇り、堤の周辺の菜の花とのコントラストは 見事で、花見を楽しむ来園者で賑わいます。

また、6月には色とりどりの紫陽花、9月には真っ赤に染まる曼珠沙華(彼岸花)、1月には白い可憐な水仙が見ごろを迎え、 1年を通して権現堂桜堤をお楽しみいただけます。

行ったときは、もう桜や菜の花が終わっており、係の人がアジサイにの手入れをされていました。

 

  

権現堂堤の先の方に「明治天皇権現堂堤御野立所」があります。権現堂堤は、権現堂川の水防のために江戸時代になる前に造られた堤です。 しかし、江戸時代を通じて何回もの洪水を経て、

明治時代になって地元から新しい堤防造成の機運が起こり、明治8年6月に着工し、10月にはここから栗橋町小右衛門にかけて旧日光道中に並行した新権現堂堤が完成したのです。

(現在は国道4号線がその上を通っています。)   明治9年6月に、明治天皇が東北巡幸の際に立ち寄られてその労を感じ入り、この仕事に携わった者の名前を石に刻んで残すように言われ、

費用の一部が下賜されました。   人々は大変恐縮し、是非この堤を行幸堤と呼ばせていただきたいと申し出たところ許可されたということです

  

行幸橋を渡るとすぐ左折します。ここからは4号線と並行して歩きます。「筑波道追分道標」があります。この道標は安永4年(1775)日光街道と筑波道が分かれるこの場所に建てられました。

道標には、「左日光道」「右つくば道」「東川つままいばやし」と刻まれています。「川つま」とは、現在の茨城県猿島郡五霞町川妻、「まいはやし」は茨城県古河市前林のことです。

 

  

雷電社湯殿社は、外国府間村の鎮守。

小右衛門の一里塚:江戸日本橋より13里目。小右衛門は、この地の新田を開発した者の名前です。

  

時間も16時を過ぎました。今日はここまでとします。最寄りの駅は南栗橋駅。南栗橋駅は、ここから歩いて15分ぐらいかかりました。

今日(4/29)のGPSです。

  

 


日光街道№5粕壁~杉戸~幸手(埼玉県春日部市~幸手市)

2019-05-30 17:50:40 | 奥州街道(日光街道)

№4からの続き)

小渕信号から4号線に沿って歩きます。左側には、「観音院」があります。この観音院には、芭蕉の「毛(も)のいへば唇寒し秋の風」の句碑があります。

意味は、「人の短所を言った後は、寒々とした気持ちに襲われる。」

  

不二山浄春院の寺標を過ぎると、杉戸町(北葛飾郡杉戸町)です。杉戸町は、この地は杉林が多かったことから、いつしか「杉の渡」といわれ、それが「杉戸町」になったそうです。

また、杉戸町は、北緯36度線上に位置しているので地球儀のモニュメントが建っていました。因みに36度線上の都市は、中国・チンタオ、アメリカ・ラスベカス、グランドキャニオン、イラン・テヘランなどです。

 

   

大作桃塢は、5代忠三郎、6代助右衛門(有隣・文蔚堂)、7代暢(桃塢・豊秋教舎)と、3代亙って南埼・北葛・東葛の子弟教育に尽力しました。内容は、論語・日本外史・十八史略・孟子・文章規範から詩賦にまで及び、

門下は2千名にも達しました。

  

九品寺(くほんじ)には、道標を兼ねた庚申塔「左日光」「右江戸」があります。天明4年(1784)堤根の住民42人が造りました。また、この道路の向かい側の高野家が立場茶屋を営んでいました。

  

馬頭院:慶安2年(1649)の中興で本尊は、伝教大師の作。明治になると新知学校に使われました。

  

4号線堤根の交差点から県道373号線に入ります。それと並行するように「みなみがわ散策道」というのがあります。農業用水路であった南側用水路の跡地を散策道にしたと説明文がありました。

サクラなどの樹が植えられており、散歩コースにはもってこいの場所でしょうね。

  

三本木の一里塚は、民家の生け垣の中に説明文があります。江戸日本橋より10里目。

万福寺には、六地蔵があり、明治になると本堂は、清地学校の仮校舎になりました。

 

三本木八幡神社:境内の手水石は、文政2年(1819)の建立。

  

杉戸町の中心部にやってきました。街道の右側には関口酒造があります。関口酒造が創業したのは1822年。その前、1670年の江戸時代から、別事業を豊嶋屋という名で始めていました。

現在のご主人は造り酒屋を始めて6代目、関口家の始まりからは14代目になります。歴史ある関口酒造の家屋は約120年前のものです。

 

杉戸宿は、江戸幕府が1616年(元和2年)に日光街道に設置した宿場です。日本橋から日光へと向かう間、21ある宿場の第5番目にあたります。 

杉戸宿は、江戸に近い方から新町、下町、中町、上町、河原組、横町から構成されていました。更には南隣に清地村、北側に九軒茶屋(茶屋組)があり、宿場と連続した町場を形成していました。

元々の日光街道は、上杉戸方面を古利根川に沿って北上し和戸橋付近で御成道と合流するルートでありましたが、1647年(正保四年)に現在のルートに付け替えられたと言われ、横町の形成は、

その後の1658年(万治元年)のことと言われています。(杉戸町HPより)

高札場は、2016年(平成28年)杉戸宿開設400年を記念して復元されました。

 

近津神社はには、元治元年(1864)建立の珍しい「見返り狛犬」がありました。

   

神明神社:杉戸宿新町北側の鎮守でした。

 

本陣跡地前の信号で本陣を探すが、見つからない。場所としては、三井信託銀行あたりかな?

 

  

漢方医虎屋跡は、現在とらや薬局になっていた。名主は、現在で言う村長で、年貢の徴収や宗門人別(戸籍)の取り扱い、代官からの通知を住民に周知することなど町政を司る役職をしていました。

鈴木小左衛門は、杉戸宿最後の名主でした。

 

 

 

渡辺金物店は、横町の名主渡辺家から分家となった先々代が創業したそうです。平成になって看板を降ろしました。

  

角穀屋跡:宿場の特徴の一つでもある町端の「枡型」。その道沿いに堂々たる風格を見せる古民家、「角穀」です。母家と蔵が並ぶ優美さは道行く人の心にひときわ刻み込まれてきたでしょう。

創業は、二代目小島定右衛門、屋号は枡形の通りの「角」にある米穀問屋を意味しています。

 

 

宝性院から日光方面にかけて電柱に赤いテープが貼られています。これは昭和22年(1947)のカスリーン台風で利根川の堤防が決壊し、一帯に浸水した水位を示しています。

ホンダの所で国道4号線と合流しました。この辺りから筑波山が見えるのですが、今日は曇ってみることができません。

  

厳島神社を過ぎます。茨島の一里塚は、山田うどんの駐車場内にありました。街道は幸手(さって)市に入りました。

  


                                                                                                                                             つづく


日光街道№4越谷宿~粕壁宿(埼玉県越谷市~春日部市)

2019-05-28 07:19:49 | 奥州街道(日光街道)

4/29(月)晴れ。前日ゴール地東武せんげん台を8:30スタート。新方川を渡ると、すぐ春日部市に入ります。

 

 

  

国道4号線一宮信号より左折。粕壁市街地に入ります。東陽寺には、芭蕉宿泊の寺碑「廿七日夜カスカベニ泊ル江戸ヨリ九里余」があります。

  

粕壁宿は、古利根川の舟運により江戸と結ばれ、諸物産の集散地として栄えた。天保14年(1843)の日光道中宿村大概帳によると粕壁宿の宿内家数は、773軒、うち、本陣1、脇本陣1、旅籠45軒で

宿内人口は3701人(男1791人、女1910人)でした。粕壁宿はその後町名が粕壁町になり、1944年(昭和19)粕壁町と内牧町が合併し春日部町になりました。その後市制を敷き春日部市に至ります。

中宿の脇本陣は、最初、蓮沼屋庄兵衛が務めていましたが天保元年(1830)現在地で旅籠を営んでいた高砂屋竹内家が務め、嘉永2年(1849)から幕末までは本陣になりました。

市街地の中心部には、親子の争いで話題になった「匠大塚」(お父さんの方)があります。2015年西武春日部店の後に入居されました。

 

    

小沢本陣跡:粕壁の本陣は、最初は、関根次郎兵衛家が務め、その後、関根助右衛門家、見川家、小沢家、竹内家の順に4度移転しました。また、日光山法会など公用の通行者が多いときには、

最勝院・成就院が宿泊施設として利用されることもありました。

本陣の履歴:関根次郎兵衛家(仲町郵便局辺り)→関根助右衛門家(げんき薬局辺り)→宝暦4年(1754)見川家(りそな銀行辺り)→嘉永2年(1849)竹内家(金子歯科辺り)

  

  

  

田村家:宿場の北側には白壁が美しい三軒の「田村家」の家があります。「田村本家」は、土蔵造りの2階建て、明治7年(1874)造られた。江戸期の創業で当代八代目にあたる。以前は米穀商。

「田村家」は、明治22年(1889)に土蔵造り2階建てで造られた。当代は三代目。以前は穀物商でした。

「田村荒物店」は、明治8年(1875)に造られ、当代四代目。

田村家の前には、道標(東江戸、西南いわつき)があります。

  

永嶋庄兵衛商店:慶長年間(1596~1615)創業の米問屋。屋根に鍾馗(しょうき)像を乗せています。

案内板には、日光街(海)道から日光道中に変わった謂れが書いてあります。それによると、1716年のおふれで日光街道は、海のない国を通る為、日光道中に改められたとのことです。

   

宿場の先の方には、「最勝院」があります。日光東照宮に移葬される三代将軍家光の亡骸がかり安置されました。境内には、「春日部」の地名由来となった春日部重行公の「墳塚」があります。

  

春日部重行の墳塚:案内板を見てみると、

南朝の忠臣贈従四位春日部重行公は逆臣北條高時の専横極まるところ、恐れ多くも後醍醐帝は隠岐に遷され給い王業の光正に淡きを歎ずる時、護良親王の令旨を奉じ勤王の義兵を春日部に挙げ、

建武元年(一三三四年)新田義貞と共に鴟張(しちょう)の賊北條氏を鎌倉に滅ぼし建武の中興の大業を成す。 更に足利尊氏の反旗を翻して九州より東上するや大義の血潮渾(さかん)に燃えこれを京に迎え撃つ。

然れども南風遂に競わずして戦時に利あらず延元元年(一三三六年)六月三十日鷺の森において恨み深き自刃を遂ぐ。其の長子家縄遺骨を携えて帰郷し、最勝院に墳を築き此処に葬る。

大正七年(一九一八年)其の功を嘉し、特旨を以て従四位を贈らる。

    

最勝院から街道に戻ります。新町橋は、江戸時代には、大橋と呼ばれ、古利根川に架かる唯一の橋でした。長さ16間(29m)、横幅3間(5m)の板橋で、高覧が付いて架け替えにあたっては、幕府が費用を負担し、

往来を妨げないように仮橋が架けられました。新町橋の上流には、上喜蔵河岸と呼ばれた船着場があり石垣の一部が現存しています。江戸時代粕壁宿では共同で河岸を利用し、古利根川の水量が多い

6月中旬~8月中旬には、小型の高瀬舟などで米や生活物資を運搬しました。

   

粕壁は、桐ダンスでも有名です。匠大塚がここにお店を出した理由もなんとなくわかる気がします。

 

しばらく歩くと道標があります。「青面金剛、左日光道」と書かれています。街道は、小渕交差点で4号線と合流します。

   

                                                                                         (つづく)

 

 


日光街道№3草加宿~越谷宿(埼玉県草加市~越谷市)

2019-05-26 10:41:35 | 奥州街道(日光街道)

草加松原を過ぎ綾瀬川の蒲生大橋を渡ります。この橋が草加市と越谷市の市境です。

  

蒲生大橋を渡った所が「蒲生の一里塚」です。日本橋から5番目の一里塚です。

 

一里塚の横には、「藤助河岸跡」。案内板を見ると、綾瀬川通り蒲生の藤助河岸は、高橋藤助氏の経営によるもので、その創立は江戸時代の中頃とみられている。

当時綾瀬川の舟運はことに盛んで年貢米はじめ商品荷の輸送は綾瀬川に集中していた。それは延宝8年(1680)幕府は綾瀬川通りの用水引水のための堰止めを一切禁止したので、堰による荷の積み替えなしに

江戸へ直送できたからで、以来綾瀬川通りには数多くの河岸場が設けられていった。  明治に入り政府は河川や用悪水路普請に対する国費の支給を打ち切ったので、特に中川通りは寄洲の堆積で

大型船の運航は不可能になり、中川に続く古利根川や元荒川の舟運は綾瀬川に移っていった。このなかで陸羽道中(旧日光街道)に面した藤助河岸は地の利を得て特に繁盛し、

大正2年(1913)には資本金5万円の武陽水陸運輸株式会社を創設した。当時この河岸からは、越谷・粕壁・岩槻などの特産荷が荷車で運ばれ、高瀬船に積み替えられて東京に出荷された。

その出荷高は、舟の大半を大正12年の関東大震災で失うまでは、年間1万8千駄、着荷は2万駄以上に及んだといわれる。この河岸場は昭和初期まで利用されていた。 

なお、ここに復元された藤助河岸場は、藤助十八代当主高橋俊男氏より寄贈されたものである。

 

不動明王道標:享保13年(1728)建立の不動明王像の台石には「是より大さがミ道」と刻まれ、大聖寺(大相模不動)への道標を兼ねている。

清蔵院: 天文3年(1534)の創建で山門は寛永15年(1638)の建立。「龍」の彫刻は、名人左甚五郎作と伝わる。夜な夜な山門を脱け出し畑を荒らしたところから金網で囲われている。

  

窮民救済の碑: この石碑は、天保9年(1838)1月に観音堂敷地内に稲垣宗輔らが建立した碑である。稲垣宗輔は、浅草福富町の豪商稲垣氏、池田屋市兵衛方に婿養子に入った、瓦曾根村名主

中村彦左衛門重梁の次男である。この日を要約すると、名主中村彦左衛門は、凶年手当用として御貸付所(幕府の銀行)に預金をしていたが、天明年間の凶作年に御貸付金の元利金を下ろして窮民に与え

飢餓より救った。重梁は、その子らにも凶年手当金を備えておくよう遺言して没したが、稲垣宗輔はこれを受け、文政9年(1826)浅草猿屋町会所御貸付所に百両を預金し、天保7年(1836)の大凶作に

そこから92両をおろし、瓦曾根村の窮民92名に1両づつ施金してこれを救った。銘文と歌は、恩間村の国学者渡辺荒陽によるものである。

  

越ヶ谷宿の中心部にやってきました。天保14年(1843)の日光道中宿村大概帳によると、宿内家数は、1005軒、うち、本陣1、脇本陣4、旅籠52軒で宿内の人口は、4603人(男2272人、女2331人)でした。

宿並は、明治7年(1874)と明治32年(1899)の大火で灰燼に帰してしまいました。現在の人口34万人。

宿場内を歩いてみると奥まで黒塀が続く古民家や、黒塗りの古民家なども見られます。又、古くからの荒物屋、金物屋さんが目につきます。そんなに需要があったのでしょうか?

 

   

 

  

元荒川に架かる大橋を渡ります。

  

渡った所が昔の本陣、脇本陣があった所です。残念ながら、案内板もなくガイドブックを頼りに探します。

   

宮内庁埼玉鴨場というのがあります。鴨の飛来が少なくなった東京浜離宮の代替として明治37年(1904)皇室用の遊猟場として建設されました。約11万7000㎡の敷地の中に約12000㎡の鴨池があります。

勿論立ち入り禁止です。

下間久里香取神社には、獅子舞があります。下間久里の獅子舞は、1594年(文禄3年)に京都から伝わったとされ、昭和54年に埼玉県の無形民俗文化財に指定されました。雨下無双角兵衛流とも呼ばれ、

埼玉県東部や千葉県西部の獅子舞行事の源流とされており、春日部市や千葉県野田市に伝わったとされる記録も残っています。  現在は毎年7月第3日曜日に行われ、神社で獅子舞が奉納された後、

家内安全や五穀豊穣を祈願し、丸一日かけて地域の家々を回ります。

  

日光街道参考書には、この近くに「秋田炉(しゅうでんろ)跡」があるように書いてますが、探すけど見つかりません。近くの家で聞きますが、「知らない」とのこと。仕方ないのでそのあたりを探していると

昔から住んである農家の方に聞いてみました。「確か上原さんの所じゃないかな?参勤交代で秋田藩佐竹侯が立ち寄った・・・」と教えていただきました。

参考書には、この辺りは、「間久里(まくり)の立場」で8軒の茶屋が軒を連ねていた。中でも「秋田屋」(上原家)には、参勤交代の秋田藩佐竹侯が必ず立ち寄り名物の「鰻蒲焼」に舌鼓を打った。

秋田屋には、藩主専用の座敷「秋田炉(しゅうでんろ)」があった。

※越谷秋田屋で検索すると、越谷駅前に「秋田家」というお店があった。この秋田屋の流れだろうか?

  

街道は、国道4号線に合流します。時間は16:10を過ぎたころです。地図を見るとこの先に東武の「せんげん台」駅があります。今日はここまでとします。

 


日光街道№2梅島駅~草加(東京都足立区~埼玉県草加市)

2019-05-24 11:29:42 | 奥州街道(日光街道)

4/28(日)晴れ 前日ゴールの東武梅島駅に移動。8:25ウォーキング開始。

しばらく歩くと「将軍家御成橋 御成道松並木跡」の標識があります。隣には、写真には写っていませんが、「南無妙法華経題目碑」があります。

 

マップを見ると「国土安穏寺」というのがこの近くにあります。名前に興味を抱き、コースからは外れますが、行ってみました。

国土安穏寺は、応永17年(1410)創建。安穏寺八世日芸上人が「宇都宮釣天井事件」を予言した所から徳川家の祈願寺となり「葵の紋」の使用が許されました。将軍専用の御成門が建てられ、御成道が

造られました。境内には、家光公御手植之松があります。

   

鷲神社は、文保2年(1318)創建、島根村の鎮守。享和2年(1802)建立の明神型石鳥居は足立区有形文化財指定。

 

増田橋道標から増田橋を渡ると、埼玉県草加市になります。

 

谷塚駅入り口の所に「富士浅間神社」があります。浅間神社の創建年代は不詳ですが、他所に祀られていた当社を明暦年間(1655-1657)当地へ遷座したといいます。明治6年村社に列格、

明治40年・明治42年に周辺の無格社9社を合祀したといいます。

火あぶり地蔵尊
昔々、千住の掃部宿(現在の千住仲町付近)に母親と一人の娘が住んでいました。娘の父は、かなりの借金を残してこの世を去り、後に残された母娘二人は、借金を返済するために一生懸命働きました。

生活は苦しいながらも、人柄の良い親子は、近所のだれからも好かれていました。しかし母娘二人の収入では生活していくのが精一杯で、とても借金を返す余裕などありません。

ある時、瀬崎村のさるお大尽の家で女中を探しているという話を聞き、これがかなりの好条件だったものですから、娘は奉公に出ることになりました。親孝行で働き者の娘は、ここでもみんなから可愛がられ、

娘の家の借金もだんだんと少なくなり、幸せな毎日を送っていました。お大尽の家に奉公に出て何年か過ぎたある時、長い間の無理がたたったのでしょうか、娘の母親が重い病気で倒れ、近所の人に

面倒をみてもらっている事を知りました。娘は、主人の気げんのよい時や、ひまな時などを見はからっては、「ご主人様、お願いでございます。母が重い病で伏せっております。看病のために、

しばらくおひまをいただきたいのです」と何度も哀願しましたが、主人はどういうわけか、娘の頼みを聞きいれてはくれません。その間にも母の病状は悪化し、娘はいてもたってもいられません。

悩みぬいたあげく、「この家が燃えてしまえば、母の元へ帰ることができるのだわ」と考え、大胆にもお大尽の家に放火をしてしまいました。

幸いにも、被害は少なくてすみましたが、「犯人は、誰か」という事で大騒ぎになりました。意外にも、犯人がこの家の働き者と評判の女中であり、放火の理由がわかった時は、村人たちは大いに同情しました。

しかし、火つけの罪は「火あぶりの刑」と定められていましたので、娘はこの地で処刑されてしまいました。村人たちは、この哀れな罪人の霊を慰めるために、講(こう)の人々が中心となって、処刑された場所に

お堂を建立し、地蔵を安置して供養しました。お地蔵さんは現在、旧四号国道の激しい車の往来を何事もなかったかのように眺めています。

   

草加といえば、煎餅の町です。歩いていると煎餅のお店が建ち並んでいます。

草加は昔から米どころと言われ、多くの米がとれたことから、農家の人たちは余った米を保存するために団子状にした米を乾かしたものを保存食として作っていました。

江戸時代になり、草加宿ができると、茶屋や物売りが軒を並べるようになりました。このころから保存食だった煎餅も店で売られるようになり、広まっていったと考えられています。当初は生地に塩を練りこんだもの

でしたが、醤油が普及し始めた幕末から、焼いたせんべいに醤油が塗られるようになりました。

明治後半になると煎餅屋が増えていきますが、当時はお煎餅屋としてではなく、雑貨などの商売の片手間に行われていました。

大正時代以降、煎餅の認知度は高くなります。そのきっかけは当時川越で行われた特別大演習で、「煎餅」が埼玉の名産品として天皇に献上されたことにあります。これが「天皇家が召し上がったおいしい草加の

煎餅=草加せんべい」として名称が広がっていきました。このころから煎餅づくりは地場産業として発達していきました。(草加市HPより)

東武草加駅前には、「おせんさん」が煎餅を焼いている像があります。

因みに「草加」の由来は、千住から越谷間は沼地が多いため、東側の八条(八潮市)から古利根川沿い迂回する遠回りのコースを強いられていた。 これを慶長11年(1606)に地元の大川図書が、

低湿地帯を草を束ねて敷いた上に土で固め、その上にまた草を束ね敷いて土で固めるというやり方を繰り返して、千住と越谷をほぼ一直線の新往還道を造成した。 この「草」を「加」えて道を造成したところで

あったので、「草加」と名づけられたという。 その後この道を通る人々が急増したため、寛永7年(1630)大川図書が幕府に願い出千住と越谷の間の宿として、草加宿が成立した。といわれています。

現在東京にも近く、都市化が進み、人口24,4万人の市です。

   

江戸の豪商、浅古氏が 子育て地蔵尊として寛 文7年(1667)に建て た。旧大和屋本宅角に あった屋敷神で現在市 役所の一角にある。12 月を除く毎月24日に扉 が開き、この日にお参 りすると子供の

病気が 治ると伝えられています。草加市役所の敷地は幕末から明治にかけての豪商大和屋跡。主の浅古半兵衛は、江戸店を出し、全国第二位の質屋でした。

  

回向院は、浄土宗のお寺で元禄14年(1701)創建。旅籠屋武蔵屋が抱えていた飯盛り女のお墓があります。

  

八幡神社:草加宿下三町の鎮守。獅子頭雄雌一対は市の指定有形文化財です。

  

草加宿は、この地一帯は、沼地が多く街道は大きく迂回していました。大川図所は、幕府に願い出て千住~草加間をほぼ一直線に結ぶ新道を開削し、慶長12年(1607)草加宿を創設した。

天保14年(1843)の日光道中宿村大概帳によると、宿内家数は723軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠67軒で宿内人口は3619人(男1693人、女1926人)でした、宿並は、天明4年(1784)と明治3年(1870)の

大火で灰燼(かいじん)に帰してしまいました。

  

藤城家住宅は、明治初期の町屋造りで国登録有形文化財建造物に指定されています。

 

おせん茶屋公園

 

  

草加宿神明庵: 江戸時代末期の町家建築「久野家(大津屋)」を改修・保存し、草加宿を訪れた人たちや草加市民のための「お休み処」として、2011年7月にオープンしました。

現在、草加宿神明庵運営協議会のメンバー18人と、運営ボランティアスタッフの40人で運営され、4人のスタッフが常駐しています。1階は観光案内所、お休み処、2階はギャラリー。

  

神明交差点の所に「おせん公園」があります。どうも紛らわしいのですが、先ほど通った公園は、おせん茶屋公園です。

ここには、「草加煎餅発祥の地」の碑が建っています。草加の茶屋のおせんがつくる団子は、旅人に評判だった。それまで売れ残った団子は川に捨てていたのだが、ある日それを見た武者修行の侍が

「団子を捨てるとはもったいない。その団子をつぶして天日で乾かして焼餅として売ってはどうか」と教えた。早速作って売り出したところ大評判になり、日光街道の名物になったという。

そのすぐ横には、「河合曽良」像があります。河合曽良は、芭蕉の門人で「奥の細道」に随行し、「曽良旅日記」を著しました。信濃の国下桑原村(現長野県諏訪市出身)

 

草加松原にやってきました。

草加市は、江戸時代の日光街道の宿場町で、松尾芭蕉の『奥の細道』の旅の第1日目にも記されている。松並木のある地域は札場と呼ばれ、古くから草加宿の北の拠点で、綾瀬川の舟運で栄えた札場河岸があった

太平洋戦争後はこの日光街道は一般国道4号として東京と東北地方を結ぶ重要な幹線道路となり1967年(昭和42年)の草加バイパス完成後は埼玉県に移管されて1973年(昭和48年)に県道足立越谷線になった。

日光街道の草加松原の松並木は、一説によると1683年(天保3年)の綾瀬川改修時に、関東郡代伊奈半十郎忠篤が植えたと伝えられており、「千本松原」と呼ばれ古くから親しまれてきた。

1877年(明治10年)頃には806本あったマツが、戦後高度経済成長期のモータリゼーションによって急速に普及した自動車の排ガスの影響で枯死が続き、一時は60本余りまで減少した。このため、

地域住民により保存の機運が高まり、1976年(昭和51年)には草加市民による「松並木保存会」が結成され、マツの植樹と手入れが行われた結果、現在の520本余りまで回復した。1983年(昭和58年)には、

松並木の保存を図るため都市計画街路事業により松並木内にあった県道足立越谷線の車道を外側に移築して遊歩道化を行った。また1985(昭和60年)からは、埼玉県と草加市の協力により、

埼玉シンボルロード整備事業に着手し、その3年後に歴史ゾーン、イベントゾーン、シンボルゾーン、松原ゾーン、せせらぎゾーンという水と緑の調和する5つの空間エリアを完成させた。(ウィキペディアより)

現在、松の数は、東京スカイツリーに因み、634本だそうです

  

草加松原は、1,5kmの遊歩道です。芭蕉の像も建っていました。

ここには、芭蕉の句の他に、高浜虚子、水原秋桜子などの句碑もありました。

  

太鼓橋の矢立橋からは、何と富士山が見えました

  

 

 

遊歩道の真ん中あたりに「お休み処」がありました。入ってみると、お茶と草加煎餅をサービスしていただきました。

  

 

  

 


日光街道①「日本橋~梅島駅」その2

2019-05-22 04:30:11 | 奥州街道(日光街道)

その1からの続きです。

泪橋交差点から荒川区に入ります。ここから千住宿です。

 

しばらく歩くと左側に素盞鳴神社があります。ここには、芭蕉が奥の細道をスタートした句があります。芭蕉の矢立は、後ほど紹介します。

  

千住大橋を渡ります。隅田川に架かる千住大橋を渡ると足立区です。千住大橋には、松尾芭蕉の「おくの細道矢立初の碑」があります。

 

「月日は、百代の過客にして行き交う年もまた旅人なり。・・・・・・」という書き出しで始まる「おくの細道」は、 

元禄2年(1689)3月27日(陰暦。現在の暦では5月16日)、46歳の松尾芭蕉は、弟子の曾良を伴として江戸の深川を出発し、ここ千住に到着。その後陸奥、出羽、北陸の各地をまわる旅に出ました。

そして8月21日、美濃の大垣に到着。この156日間、476里余に及ぶ長旅の中で、特に印象に残った出来事をまとめたのが、紀行文「おくのほそ道」です。

千住では、「千じゅと云う所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて幻のちまたに離別の泪をそそく  行春や鳥啼魚の目に泪  是を矢立の初として行道なをすすまず、人々は、

途中に立ならびて、後かげのみゆるまではと見送なるべし」と書いています。

 

 

 

千住宿に入りました。千住宿は、天保14年(1843)によれば、宿内家数は、2370軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠55軒で人口は9956人でした。

歩いていると「やっちゃ場」というのが目につきます。足立区のHPによると、千住河原町はかつて「やっちゃ場」とよばれた青物市場で、戦前には旧日光街道沿いに多くの青物問屋が軒を連ね、活気あふれる問屋街

でした。千住河原町稲荷神社境内には明治39(1906)年建設の「千住青物市場創立三百三十年祭記念碑」が立っています。これによれば市場開設は天正4(1576)年になりますが、史料によれば、

公的に市場の形をなしたのは享保20(1735)年でした。青物市場は神田・駒込と並び江戸の三大市場に数えられ、幕府の御用市場でもあったのです。市場には現足立区域内外から多くの農産物が集められ、

それらが都心部へ運ばれましたが、その際に活躍したのが投師(なげし)といわれる人たちです。大正期には130人いたという投師は、やっちゃ場から都心の神田・京橋といった市場へ転売しました。

そのため、他の朝市に間に合うように運ぶ必要があり、やっちゃ場はそれよりも早い午前3時には市が開かれていたといいます。

 

   

  

源長寺は、将軍の鷹狩の際に御膳所となり脇本陣も兼ねていました。

  

千住宿宿場町通りに来ました。千住宿の本陣は、100円ショップの前にありました。ここで雨が・・・・・・とっさにお店の軒先に逃れ雨をしのぎます。

  

雨は、5分ぐらいで止みました。

  

横山家住宅は、地漉き紙問屋で伝馬屋敷の面影を残しています。

吉田家は、絵馬を始め、地口行燈や凧などを描いてきた際物問屋です。

  

   

荒川に架かる千住新橋を渡ります。

  

東武梅島駅に来ました。現在時間は、16:00丁度。今日はここまでとします。

 

今日のGPSです。距離は14,5kmでした。

 


21世紀の朝鮮通信使友情ウォーク48日目「吉原~三嶋大社」

2019-05-21 07:28:34 | ウォーキング

5/18(日) 昨日は、後半、持病の膝痛が痛み出してきて、ホテルに帰り湿布を施しました。そのせいか、痛みは和らいできました。

朝鮮通信使友情ウォーク48日目、「吉原~三嶋大社」に参加。集合場所は、JR吉原駅南口の公園。今日は東静歩こう会の方がコースリーダーを務められます。

今日も風車・鯉のぼりを背負ってのウォーキングです。

 

 

ストレッチの後8:30スタート。毘沙門天を通り、田子の浦海岸へ。

昨年2月に東海道歩きでここを通ったのですが、残念ながら田子の浦はパスしてしまいました。ここからの富士の眺めもいいのですが・・・・・残念ながら雲に隠れています。

  

田子の浦というと、万葉集「山部赤人」が詠んだ「田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にそ 不尽の高嶺に 雪は降りける」が浮かんできます。

さて、その富士山ですが、雲の隙間から少し顔を出してくれました。が、また雲に隠れました。

 

 

今日は、風が強く、おまけに向かい風です。私の風車が勢いよく廻っており、「これだったら、富士山に向かって飛んでいくかもしれない」と思い、風車を手に持ち歩きます。

約10kmぐらい田子の浦の堤防を歩いたでしょうか?やっと松原の中に入りました。

駿河湾の海岸線に沿って、約10kmにわたり連なる千本松原。その由来は、戦国時代、 戦で防風林が切り払われた際に、潮風に苦しむ農民の姿を見た千本山乗運寺の開祖・ 増誉上人が植えたものと伝えられます。

 

千本松原から、JR踏切を渡り、「帯笑園」に着きました。ここで休憩です。帯笑園は、原の素封家植松家が江戸時代後期から昭和初期まで代々伝えた庭園です。

平成24年9月、国登録記念物(名勝地関係)となりました。

  

 

昼食は西友沼津店で。30分後再スタート。

 

 

沼津「三国橋」を渡ります。天文23年(1574)の北条氏、武田氏、今川氏により甲相駿三国同盟が成立したからこの名称になったのかな?

沼津市役所では、頼重市長と交流。

 

ラブライブサンシャインというのは、高校生が沼津を盛り上げようとするまんがです。

  

三島市に入りました。

  

三島は鰻のおいしい所です。富士山からの伏流水をつかった鰻は、絶品です。市内には名店もあります。

 

15:47 三嶋大社へゴールしました。

 

朝鮮通信使友情ウォークに2日間参加しましたが、私、韓国語は「アニョンハセヨ」と「カムサハムニダ」しか知りませんでした。

然し、韓国の隊員の方は、日本語も堪能でおまけにロシア語もできるそうです。私も会話は全部日本語でした。これを機に私なりに日韓友好をしてみようと思います。

さしずめ、来年3月のチェジュ島で行われる「菜の花マーチ」に参加しようと思っています。(もう10年ぐらい韓国に行ってませんのでパスポートの更新もしなくっちゃ)

 

朝鮮通信使友情ウォークも5/23東京・日比谷公園ゴール予定です。無事ゴールされることをお祈りします。

 

<追伸> 三嶋の鰻が気になって翌日三島に鰻を食べに行きました。おいしかったです。

  

 

 


第7次21世紀の朝鮮通信使友情ウォーク47日目「清水~吉原」に参加しました。(静岡市清水区~富士市)

2019-05-20 18:00:26 | ウォーキング

今年の4/1~5/23まで53日間をかけてソウル~東京間2000kmを歩いて行くという「第7次21世紀の朝鮮通信使友情ウォーク」が行われています。

私達夫婦も47日目「清水~吉原32km」、48日目「吉原~三嶋27km」の2日間デーリー隊として参加させていただきました。

   

朝鮮通信使とは、李氏(りし)朝鮮の国王が日本国王(日本の外交権者)に国書を手交するために派遣した使節。日本では朝鮮来聘使(らいへいし)ともいう。1404年(応永11)足利義満(あしかがよしみつ)

日本国王として朝鮮と対等の外交(交隣(こうりん))関係を開いてから明治維新まで、両国は基本的にその関係を維持した。それを具体化したのが両国使節の往来による国書の交換である。

義満以来かなり両国使節の往来があったが、徳川将軍は直接使節を送らず、朝鮮も釜山(ふざん)以外への日本人の入国を禁じたので、近世では朝鮮使節が来日するのみとなり、国書の交換もその際にまとめて

行われた。近世の朝鮮使節は1607年(慶長12)から1811年(文化8)まで12回来日した。日本側はこれらをすべて通信使と考えたが、朝鮮側は、初めの3回は徳川将軍からの国書(対馬(つしま)藩宗(そう)氏の

偽作)への回答と、文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役で日本に拉致(らち)された被(ひりょにん)の刷還(さっかん)を目的とする回答兼刷還使を名目とした。この齟齬(そご)は柳川一件(やながわいっけん)

契機に修正され、以後9回は名実ともに通信使となった。  通信使一行は正使以下300人から500人で構成され、大坂までは海路、それ以東は陸路をとった。一行が日本国内を往来する際の交通宿泊費や

饗応(きょうおう)はすべて日本側の負担であったが、通信使の来日は両国の威信をかけた外交行事でもあり、その接待は豪奢(ごうしゃ)を極め、経費は50万両とも100万両ともいわれた。

近世中期以降の通信使は将軍の代替りごとに来日するのが例となっていたが、12回目は天明大飢饉(てんめいだいききん)のために延期され、行礼場所も対馬に変更されて、1811年にようやく実施された。

その後はたびたび計画されながら財政難や外圧のために延期され、実現しないままに明治維新を迎えた。朝鮮側の通信使派遣には日本の国情偵察という目的もあり、来日のたびごとに詳しい観察記録が

残されていて、外国人による近世日本についての貴重な記録の一つとなっている。なお1711年(正徳1)、新井白石(あらいはくせき)は、朝鮮側国書にある将軍の呼称を従来の「日本国大君(にっぽんこくたいくん)

から「日本国王殿下」に改めさせ、また使節の接遇を簡素化したが、白石失脚後はすべてもとの形態に戻された(殊号事件)。[荒野泰典]  2017年(平成29)、日本国内12都府県と韓国に残る江戸時代の

朝鮮通信使に関する外交資料が、「朝鮮通信使に関する記録」として、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の「世界の記憶」に登録された。(日本大百科全書ニッポニカより抜粋)

  

何年か前韓国釜山に旅行に行ったとき、南浦洞には、朝鮮通信使のモニュメント、滋賀県の近江八幡では、朝鮮人街道(京街道)の道標がありました。

我が福岡県でも新宮町相島で朝鮮通信使を接待したという資料が新宮町歴史資料館に、当時の料理などが展示されています。

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本題に入ります。5/17(金)47日目の集合場所は、JR清水駅。ストレッチの後スタート。コースリーダーは、掛川歩こう会の方です。

  

清見寺

  

さった峠に差し掛かりました。

薩埵峠越えの道は3つありました。。江戸時代以前は潮が引いたときに波打ち際を駆け抜ける、これが「下道」。明暦元年(1655)に朝鮮通信使のために崖に道を切り開き、これを「中道」です。

その後内陸から山中に道を付け、これを「上道」としました。

  

昔の朝鮮通信使もここから富士山が見えたら感動したでしょうね。残念ながら今日は富士山の所に雲がかかり、見えませんでした。天気が良ければ、こんな風景なんですが・・・・・

 

  

さった峠展望台では、静岡市清水区役所との交流会が行われました。

 

清水区のゆるキャラ「シズラ」は、朝鮮の民族衣装を着ています。

 

さった峠を越え、由比宿に入りました。

 

由比宿本陣跡の広重記念館で昼食。

  

30分ぐらいの昼食休憩の後、再びスタートします。

 

富士川まちづくりセンターで休憩。このあと富士川を渡ります。

 

富士川からの富士山の眺めの絶景なんですが、今日は見えません。

  

富士市役所では、交流会が行われました。

 

 

この日一緒に歩いたYさんと話していると、4月に大分に行き、スーパーボランティアの「尾畠春夫さん」に会われたそうです。

その時尾畠さんから色紙をもらったそうで、それを、見せていただきました。

17:15吉原ビジネス旅館美波ゴール。

  

帰りは岳南鉄道吉原本町からJR吉原へ、吉原駅からJRでホテルに戻りました。少々バテ気味です。メンバーには85歳の方もいらっしゃいますのでこのくらいでバテたなんて言っておられませんね。

JR吉原駅では、富士山が少しだけ顔を出してくれました。

  

  


日光街道①(日本橋~梅島駅)その1

2019-05-16 04:59:11 | 奥州街道(日光街道)

2019年4月27日のゴールデンウィークから「日光街道」を歩き始めました。今回は、山と渓谷社発行の「ちゃんと歩ける日光街道」という本を参考に歩きたいと思っています。

この日、福岡発7:00の飛行機で東京に行き、羽田から京急で日本橋に行きました。昨年12月東海道・日本橋ゴールして以来の日本橋です。

  

10:40日本橋をスタート。

長崎屋跡:江戸時代、ここは長崎屋という薬種屋があり、長崎に駐在したオランダ商館長の江戸登城、将軍拝謁の際の定宿になりました。将軍拝謁は諸外国のうち、鎖国政策のため外国貿易を独占していた

オランダが、幕府に謝意を表するために献上品を携えて行った行事でした。江戸出府は江戸初期から毎年一回行われましたが、長崎からの随行の人々は、商館長の他、通訳、学者などが賑やかに行列して

江戸に来ました。しかし、経費のことなどで、江戸中期からは4年に1回となっています。

 商館長に随行したオランダ人の中には、ツンベルクやシーボルトなどの一流の医学者がいたので、蘭学に興味を持つ桂川甫周や平賀源内はじめ日本人の医者、蘭学者が訪問し、

長崎以外における外国文化の交流の場として、あるいは、先進的な外国の知識を吸収していた場として有名になりました。

鎖国時における数少ない西洋文明との交流の場として貴重であり、区民史跡に登録されています。(中央区の遺跡より)

 

 
郡代屋敷跡:江戸時代に、関東一円及び東海方面など、各地にあった幕府の直轄地(天領)の、年貢の徴収、治水、領民紛争の処理などを管理した関東郡代の役宅があった跡です。

 関東郡代は、徳川家康が関東に入国したときに、伊奈忠次(ただつぐ)が代官頭に任命され、後に関東郡代と呼ばれるようになり、伊奈氏が十二代にわたって世襲しました。

その役宅は初め、江戸城の常盤橋御門内にありましたが、明暦の大火(1657)で焼失し、この地に移りました。

伊奈忠尊(ただたか)が罪を得て失脚した寛政4年(1792年)以後は、勘定奉行が関東郡代を兼ねてここに居住しました。

文化3年(1806年)に焼失した後、代官待ちとなって、馬喰町御用屋敷と改称されましたが、江戸の人々はこの地を永く郡代屋敷と呼んでいました。  

浅草橋を渡ると、台東区です。ここには、浅草見附跡があります。神田川にかかる浅草橋は、江戸日本橋から奥州路、浅草観音、新吉原へ行く重要な道筋に江戸三十六門の一つ浅草橋の浅草御門が

浅草見附と呼ばれ、寛永13年(1636)に作られ江戸防衛の要でもありました。明暦3年(1657)の江戸大火では、囚人の逃走をふせぐために門をしめ切ったため、一般市民の避難路が絶たれ多くの焼死者を出した。

こうした悲しい出来事もあったが、明暦以後吉原が盛んになると、このあたりから柳橋にかけて船宿ができ、船遊びも盛んになり、猪牙舟(ちょきぶね)という粋な二挺櫓の廓通いの舟が出来たのも

浅草御門付近であります。現在は橋のたもとに碑が立てられています。

  

歩いていると、テレビでよく出てくるところが多く、目をきょろきょろして歩いています。

銀杏岡八幡神社は、源頼義・義家が奥州征伐に向かう途中、小高い丘だった当地に銀杏の枝を差して戦勝祈願し、その帰途、康平5年(1062)に当社を創建したと伝えられます。

また、この神社は、子守唄発祥の地です。江戸時代に伝わった我が国の子守唄やわらべ歌を集成し高く評価される「童謡集」は、釈行智の著によるものです。行智(1778~1841)は、銀杏岡八幡神社の氏子一同に

より、享和3年(1803)別当寺として勧請された覚吽院(かくうんいん)にて阿光坊と称して修験僧となり、後に住職になります。行智は、子守唄を「寝させ唄」「目覚め唄」「遊ばせ唄」と分類し、子供の暮らしの背景が

よくわかるように書き残すなどして伝承に努めました。

注)「寝させ唄」:♪ねんねのおもりはどこへいた・・・・・♪ 「目覚め唄」:♪お月様幾つ・・・・・♪ 「遊ばせ唄」:♪うさぎうさぎ何見てはねる・・・・♪

このように今でも歌われています。

天文台跡:伊能忠敬の師匠天文方高橋至時は、この地で天文観測を行いました。

  

隅田川越しにスカイツリーが見えてきました。10年前に行ったときはまだ工事中でした。東京は刻一刻変わりつつあります。来年は東京五輪、また変わるでしょうね。

左側に「駒形どぜう」が見えてきました。駒形どぜうは、享和元年(1801)創業のどじょう料理の老舗。文化3年(1806)大火に遭い、それまでの「どぢやう」の4文字では縁起が悪いと「どぜう」の3文字に改称しました。

店前には、久保田万太郎句碑「神輿まつまのどぜう汁すすりけり」があります。

  

王子の音無川から隅田川に注ぐ水路の山谷堀を埋め立てて作ったため、細長い形をしています。江戸時代には吉原に通う猪牙船で賑わったと伝わります。隅田公園から北西に向かって約700mにわたって延びる公園には、様々な植物が植栽されています。数多くのサクラが育ち、例年3月下旬から4月上旬のシーズンには一面をピンク色に彩り、混雑する隅田公園よりも、隠れた桜の名所として数多くの花見客が訪れます  

山谷堀公園:(さんやぼりこうえん)王子の音無川から隅田川に注ぐ水路の山谷堀を埋め立てて作ったため、細長い形をしています。江戸時代には吉原に通う猪牙船(ちょきぶね)で賑わったと伝わります。

隅田公園から北西に向かって約700mにわたって延びる公園には、様々な植物が植栽されています。

山谷というと、僕らが若いころ、岡林信康さんが歌った「山谷ブルース」を思い出します。現在その歌のイメージとは全然違います。ただ、近くに木賃宿が多いなという印象だけです。

今戸神社に来ました。ここは、新撰組沖田総司の終焉の地です。沖田総司は、当地に居住していた御典医松本良順の治療にも拘わらずその甲斐なく当地で歿したと伝えられています。享年27歳だったとか。

  

今戸神社は、ご祭神は應神天皇(おうじんてんのう)、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)で、浅草七福神の一神・福禄寿も祀られている。康平6年(1063年)京都の石清水八幡を勧請し

今戸八幡を創建。昭和12年に白山神社を合祀し、今戸神社と改称した。権現造りの社殿は昭和46年に造営されたもの。縁結びの神社として知られ、境内には願いを込めた招き猫の絵馬がたくさん架かっている。

今戸焼(いまどやき)は、東京の今戸や橋場とその周辺(浅草の東北)で焼かれていた素焼及び楽焼の陶磁器。

日用雑器、茶道具、土人形(今戸人形)、火鉢、植木鉢、瓦等を生産した。言い伝えによれば天正年間(1573年–1592年)に生産が始まるといわれる。

 

   

泪橋交差点に来ました。この交差点の先が荒川区になります。

泪橋は、小塚原刑場に引き立てらえる罪人と身内の者がここで涙の別れをした。

  


                                                                                                                                                  (続く)

 


第25回九州国際3DM3日目アコウの樹コース20km(熊本県八代市)

2019-05-15 04:30:00 | ウォーキング

5/12(日)九州国際3DM最終日。今日も福岡の自宅を5:30過ぎに出て八代に向かいます。

会場に着いたのが、7:30過ぎ。すでに30kが出発した後でしたが、まだアンカーの方がスタートしていなかったので10分遅れてスタートします。

  

金剛歩道橋を渡ると1回目のお接待。赤飯のおにぎりがありました。

  

30kの分岐点で北九州のぼくちゃん、埼玉のSさん、北九州のIさんに追いつきました。

  

球磨川河口を歩くと、正面に鼠蔵山(そぞうやま)が見えてきます。ここには、高さ14m、幹回り7,9mの大きなアコウの樹があります。

  

民家の庭には、ブラシの花が咲いていました。歩いているといろんな花に出会えますね。

  

約10k地点の北原河川公園が1回目のチェックポイント。ここでは、トマト、イチゴなどが出されました。

  

栴檀(せんだん)の樹には、花が咲いていました。栴檀の花は初めて見ました。このあと、新前川橋を通って八代市街地へ向かいます。

 

橋を渡るとすぐ見えてくるのが「札の辻」。薩摩街道熊本城下から11里(44km)地点にもなります。

江戸時代、熊本城下から鹿児島へ向う主要道路は「薩摩街道」と呼ばれました。八代城の真南に位置し、前川(球磨川の支流)に面した一帯は、「徳淵津」と呼ばれ、古くから国内外との交易が盛んに行われていた

港です。徳淵の地名は、徳(財宝)の集まる淵(港)という意味です。 ここは、薩摩街道上の要衝で「札の辻」と呼ばれ、熊本城下から十一里(一里は約4km)の距離であることを示す「十一里木」や幕府や藩からの

お触れを掲示する「高札場」がありました。徳淵津は、その昔、海外からやって来た河童が、はじめて日本に上陸した地点と伝えられており「河童渡来の碑」が建てられています。(八代市文化まちづくり課)

  

本町商店街に来ました。前は、ここに熊本の鶴屋百貨店があったのですが、建て壊され、新しく病院が建設されています。

 

八代城は、元和5年(1619)の地震により、麦島城が崩壊したため、熊本城主加藤忠広(清正の子)が幕府の許可を得て、家老の加藤正方に命じ、同6~8年にかけて球磨川河口北側の松江村に築城した平城です。

寛永9年(1632)改易となった加藤家の改易により熊本城主となった細川忠利の父忠興(三斎)が入城し、北の丸を居所として本丸に四男の立孝(立允)を居住させました。正保2年(1645)閏5月に立孝が、

続いて12月に三斎が没したため、翌3年(1646)家老松井(長岡)興長が入城し、以後は代々松井氏が在城しました。落雷による焼失や明治維新後の取り壊しがあるも、本丸の石垣と内堀が残り、

本丸跡に懐良親王をまつる八代宮が鎮座しています。 (きなっせ八代より抜粋)

  

元禄元年(1688)、八代城主松井直之公が母崇芳院尼のために建てたお茶屋です。当時この辺りには松が茂り、八代海を見渡せる浜辺であったことから松浜軒と名づけられました。

別名「浜の茶屋」とも呼ばれていました。(国指定名勝)  四季折々の花々が咲き、特に6月上旬には約5,000本の肥後花ショウブが大輪の花を咲かせ、多くの人々の目を楽しませます。  

また松井家に伝わる家宝を展示する松井文庫の資料館があり、宮本武蔵ゆかりの「戦気」の軸や手彫りの木刀も展示されています。(八代観光情報より)

 

八代駅は、大正時代から近郊に日本セメント八代工場、興人八代工場、メルシャンワイン工場、日本製紙八代工場などがあったため、八代駅西側からそれぞれの向上に向かう引き込み線がありました。

この引き込み線も、工場の閉鎖などにより1989年(平成元年)に廃線となりました。その跡地には、自歩道が整備されています。

 

 

2回目のチェックポイントは、八代ハーモニーセンターです。

  

 

 

12:10アコウの樹コースゴールしました。

この大会3日間福岡の自宅から通いましたが、車の走行距離は、3日間で1,100kmでした。