よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

皇居を歩きました。

2018-12-29 06:55:32 | ウォーキング

12/20(木) 昨日の日本橋ゴールの後、下関のMさんと皇居内を歩いてみました

私、皇居内を歩くのは、初めてです。

  

   

東御苑から入ります。ここで手荷物チェックを受け、大手門へ。

  

皇居内は、まだ紅葉が見れます。

  

  

   

東京のど真ん中ですが、こんなきれいな光景が見れます。

  

昨日、泉岳寺で義士の墓を見てきましたが、ここが「松の廊下跡」です。

  

 

  

   

天守台

  

   

   

午前中だけの駆け足散策でしたが、12月でもきれいな紅葉が楽しめました。

 


東海道道草ウォーク№46「品川宿~日本橋」ついにゴールへ!(東京都港区~中央区)

2018-12-26 21:29:00 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

東海道(京都~日本橋)ついにゴールへ!!

12/19(水)2016年3月から歩き始めた「東海道道草の旅」も今日が最終回です。

今日は、15時に日本橋ゴールを予定しています。日本橋まであと7km。ちょっと時間がありますので昨日行けなかった「川崎大師」に行ってきます。

品川より京急で川崎へ。川崎から大師線に乗り川崎大師へ。昨日六郷橋から富士山が見えませんでしたが、今日はビルとビルの間から富士山が見えました。

 

川崎大師は、真言宗智山派の大本山。詳しくは金剛山金乗院平間寺と称するが、厄除弘法大師、川崎大師で親しまれている。成田山新勝寺、高尾山薬王院とともに智山派の関東三大本山の一つ。

大治年間(1126~1131)、平間兼豊(ひらまかねとよ)・兼乗(かねのり)父子の武士が、諸国流浪のすえ川崎の地に住み着き漁業をなりわいとしていたが、あるとき海中より1体の木像(弘法大師像)を

引き揚げた。兼乗は当年42歳の厄年であったので、その像を日夜懇ろに供養し、厄除けを祈願した。そのころ高野山の尊賢上人が諸国遊化の途上たまたま兼乗のもとに立ち寄り、

尊像の霊験奇瑞に感動し、兼乗と力をあわせて1128年(大治3)一寺を建立したのが当寺の開創で、兼乗の姓平間をもって平間寺(へいけんじ)と号し、本尊を厄除弘法大師と称するようになった。

中世には兵火にかかり衰えたが、江戸初期には六郷宝幢院末寺となり、1648年(慶安1)幕府より朱印6石を寄せられた。明和・安永年間(1764~1781)隆範、隆盛らが相次いで諸堂を修造して興隆

このころ将軍徳川家斉(いえなり)の参詣を得て寺運栄え、広く庶民に信仰されるに至った。1805年(文化2)宝幢院を離れ、醍醐三宝院直末(じきまつ)となる。

1879年(明治12)三宝院を離れ京都智積院(ちしゃくいん)直末、1898年に別格本山となり、1958年(昭和33)大本山に昇格した。1945年戦災で諸堂宇を焼失したが、戦後復興に努め、

1964年に不動堂および本堂を落慶。さらに、中書院、交通安全祈祷殿、信徒会館、大山門、八角五重塔を建立し、伽藍の偉容を一新した。

年中行事は、元朝大護摩供、節分会、本尊弘法大師降誕奉祝会など数多い。縁日の21日はことに参詣者が多い。寺宝に、川崎市重要歴史記念物に指定される絹本着色の毘沙門天像、

文殊菩薩像、不動明王像、愛染明王像、弘法大師像などがある。(コトバンクより)

 

初詣にはたくさんの参拝者が来るので有名です。もうお正月のしめ縄などの飾り付けが準備されていました。川崎大師の名物は「久寿餅」です。早速参道でいただきました。@400

  

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川崎大師から昨日のゴール、品川駅に向かいます。10:30品川駅スタート日本橋まであと7km。

  

品川駅から港区になります。高輪海岸の石垣石があります。江戸時代高輪海岸に沿って造られた石垣に用いられたものです。という案内板が。

高輪という地名は、海より眺めて高台の縄手道から「高縄手」と称されていましたが、転じて高縄から高輪となりました。古くから海沿いに人家が点在していましたが、江戸時代幕府が参勤交代の為に

東海道を整備しこれにより街道沿いに町が広がりました。東都名所図会でも海沿いの町として描かれています。

   

山手線では新駅の建設が行われています。先ほど新駅の名称が発表されました。「高輪ゲートウェイ駅」です。

 

泉岳寺に着きました。先週の14日には赤穂浪士の「義士祭」が行われました。泉岳寺は、曹洞宗の寺。万松山と号する。本尊は釈迦如来。1612年(慶長17)下野(しもつけ)国(栃木県)

大中寺の門庵宗関が徳川家康の帰依を受けて外桜田の地に創建したが、火災にあい、1641年(寛永18)現在の地に移った。1677年(延宝5)橋場(台東区)の総泉寺、愛宕(港区)の青松寺とともに

曹洞宗江戸三か寺触頭となった。播州(兵庫県)赤穂浅野家の菩提所で、1701年(元禄14)浅野長矩(ながのり)が切腹すると、この寺に葬られ、03年大石良雄ら赤穂浪士が切腹して同じくこの寺に

埋葬された。寺内の玉垣の中に浅野長矩、同夫人瑤泉院の墓があり、南の丘に四十七士の墓がある。(コトバンクより)

   

義士の墓に行ってみると、14日の義士祭からまだあまり日にちが経ってないせいか、墓所には線香の香りと花が活けられていました。

   

高輪大木戸です。山手線の新駅の名前もこの大木戸から採用したのでしょうか?

昔は、この一帯「牛町」(現在の高輪2丁目)は、牛車を利用した輸送業者の町でした。江戸幕府の御用を勤め、諸問屋の荷物輸送を行うなど、最盛期には600頭を超える牛が飼われていました。

 

御田八幡神社、札の辻を通ります。時間は12時ですので歩道には、昼食をとる人で多くなりました。

  

三菱自動車の前に、「西郷隆盛・勝海舟会見の碑」があります。この辺りにあった薩摩藩邸で会見し、江戸城無血開城の交渉を行いました。今年の大河ドラマでもこのシーンがありましたね。

 

古川に架かる金杉橋を過ぎます。川には、屋台船が停泊しています。

  

大門の信号から左折します。増上寺です。増上寺は、浄土宗の大本山。関東十八檀林の筆頭。山号は、三縁山。もと光明寺と称する真言宗寺院で、今の千代田区紀尾井町にありましたが、

1393年(明徳4)聖聡が浄土宗に改め、増上寺と称し、1598年(慶長3)家康が徳川家菩提所と定めて現在地に移しました。以後寛永寺と並ぶ江戸の大寺となり、全浄土宗の諸寺を管しました。

  

芝大明神:平安時代寛弘二年に創建、古くは芝神明と称したが明治五年正式に官許され芝大神宮に改称す。祭礼は期間の長さから(11日〜21日)「芝神明だらだら祭り」として知られ、

生姜市、甘酒茶屋で有名、授与品には「千木筥(ばこ)」がある。これは東京の郷土玩具としても知られている。江戸時代境内でおきた、め組鳶と角力とのいさかいは「め組の喧嘩」として

再三歌舞伎で上演せられ、その半鐘は今でも宝物として当宮に保存されている。

   

歩いていると歩友の「あすかさん」から新橋駅SL広場で待っているとの連絡があり、新橋駅に向かいます。

あすかさんとは、2年ぶりの再会でしょうか、以前は赤羽駅でお会いしました。ここからは、あすかさんの案内で歩きます。

  

新橋駅から汐留跡(新橋停車場)に向かいます。明治5年(1872)、日本初の鉄道は新橋駅を起点に横浜駅までの区間が開業しました。その後、東京駅の開業に伴い烏森駅が新橋駅と改称し、

元の新橋駅は貨物専用の汐留駅となりましたが、昭和61年、貨物駅の廃止に伴い歴史に幕を閉じました。平成3年度から12年度に実施された汐留地区の再開発に伴う発掘調査により、

日本最初の鉄道駅としての全貌が明らかになりました。ホームや駅舎の基礎のほか、お雇い外国人の宿舎の跡なども発掘され、西洋皿や洋酒ビン、切符や汽車土瓶など鉄道に関連した様々なものが

出土しました。現在は、ホームや駅舎の基礎などを保存して、一部が観察できるようにしてあります。また上屋として開業当時の建物を復元しています。建物内には「鉄道歴史展示室」が併設され、

発掘調査による出土資料や絵図面などにより、当時の様子を知ることができます。

館内は撮影禁止でした。屋外に行くと、当時のプラットホームやレール、0哩の標示が残っていました。

  

再び街道に合流します。旧新橋の親柱の所には、「銀座の柳の碑」があります。 昔恋しい銀座の柳~~

銀座は、1612年(慶長17年)、幕府が駿府(すんぷ)(静岡県)の銀貨鋳造所(銀座)を、当時は「新両替町」であったこの地に移転したことで「銀座町」と呼ばれるようになった。

1800年(寛政12年)、座人による不祥事で銀座は日本橋の「蛎殻町(かきがらちょう)」に移転されたが、「銀座」の名前は地名として定着し、現在に至る。

銀座は1丁目から8丁目までですが、私が子供の頃、神戸一郎さんが歌った「銀座9丁目は水の上」という歌がありました。この歌が流行った昭和30年代には、銀座と新橋の間が川になっていて

屋形船がありました。その屋形船から見る銀座の風景が綺麗でしたのでこのような歌ができたのではないでしょうか?

然し、東京に関する歌はたくさんありますね。「東京の灯よいつまでも」、「東京の人」、「東京ララバイ」、「東京だよおっかさん」、マイペースの「東京」・・・・・・・

      

   

日本橋から京に向かって最初の橋が「京橋」。現在は、埋め立てられています。「江戸歌舞伎発祥の地」は、寛永元年(1624)に初代中村勘三郎が興行した場所です。

京橋大根河岸跡は、寛文4年(1664年)に水運のよい京橋川に野菜の売り場が設けられ、昭和10年(1935年)に築地に市場が移されるまで、庶民の台所を支える青物市場として栄えました。

冬になると10本まとめにしたたくさんの大根が舟から下ろされ、まるで大根の花が咲いたようだったため、大根河岸といわれたといいます。

 

   

14:50 日本橋にゴールしました。

  

日本橋では、旧SNSの仲間、歩友、ブログ友など多くの方のお出迎えを受けました。

  

   

17:00からは、半蔵門ふくおか会館の「福扇華」で打ち上げ会。開店から閉店時間まで4時間以上大いに盛り上がりました。

  

この東海道は、2016年3月にスタートし2018年12月に32日間でゴールしました。

これで2010年6月に長崎・出島を出発して約8年半かけて日本橋に着きました。道中、たくさんの方にお世話になりました。厚くお礼申し上げます。

次回もまだ決めていませんが、どこかの街道に挑戦したいです。

 


東海道道草ウオーク №45「川崎宿~品川宿」(神奈川県川崎市~東京都品川区)

2018-12-25 17:08:38 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

12/18(火)福岡空港を7:00の飛行機で東京へ出発します。飛行機の中では、富士山が綺麗に見えました。

  

羽田から京急で川崎へ。京急の電車の発着メロディは、川崎市出身の坂本九さんの「上を向いて歩こう」です。今回の街道は、この川崎からです。「かわさき宿交流館」に立ち寄りました。

かわさき宿交流館は、2013年(平成25年)に開館。1階は街道歩きや街歩きの人達が休む所、2、3階は川崎宿の歴史が展示されています。

  

 街道歩きをスタートします。川崎宿は、久根崎、新宿、砂子、小土呂の4町で構成されていてその中心がここ「新宿」だったそうです。

川崎稲荷社」は、1716年(享保元年)紀州藩主徳川吉宗が8代将軍になる為江戸に向かう途中この境内で休息したという言い伝えがあります。

  

六郷の渡しの手前には、万年屋、会津屋、新田屋などの旅籠や茶店がありました。特に「万年屋」は、奈良茶飯が有名でした。アメリカ領事館ハリスが宿泊し、更に皇女和宮も訪れたそうです。

万年屋から医王寺までを万年横町と呼んでいました。

 

奈良茶飯」は、米に、勝栗、小豆、大豆、粟などを混ぜて、お茶の煎じ汁で炊いたご飯だったそうです。奈良の興福寺や東大寺で食べられていたといい、これに目を付けたのが、

多摩川を渡って、すぐの場所にあった茶屋の「万年屋」でした。米や豆類の旨みがじっくり味わえることや、腹持ちがいいことから、人気になったそうです。

今では、お菓子処「東照」が現代風にアレンジした奈良茶飯を再現しています。

   

六郷川にやってきました。六郷川は、今では、箱根駅伝で有名です。橋の中央部が神奈川県と東京都の境界となっています。

   

1600年(慶長5年)、多摩川に六郷大橋が掛けられましたが、1688年(貞享5年)の大洪水で流されて以来1874年(明治7年)迄、渡しが続けられました。

1868年(明治元年)明治天皇行幸の際には、船橋をかけて渡りました。明治天皇六郷渡御碑には、その行幸の模様がレプリカになっています。

安藤広重の浮世絵はこの六郷の渡しが描かれています。

余談ですが、享保年間将軍吉宗の献上品として象が長崎から江戸まで旅しましたが、六郷川では、三十艘の船を河中に並べ、3トン以上ある象が渡れるように要所要所に杭を打ち固定し、

その上から大きな板を敷いて船橋を作って象を通行させたそうです。(石坂昌三氏著書 「象の旅長崎から江戸へ」より)

因みに、門司から下関の関門海峡では、石船に象を乗せて渡ったそうです。

   

東京都に入りました。長崎から数えると、15都府県目です。六郷橋の所から富士山が見えるのですが、今日は快晴なのに丁度富士山の所だけ雲があり、富士山が見えませんでした。

  

六郷橋を渡り、橋の下の土手を歩きます。宮本台緑地には、大正14年(1925)から昭和59年(1984)まで使われた親柱が立っています。

 

近くには、「北野天神社」があります。別名「落馬止め天神」又は「止め天神」。八代将軍吉宗が乗る馬が暴走し、あわや落馬という時に将軍の落馬を止めたのがこの天神の御加護だそうです。

  

第一京浜(国道15号)に沿って歩きます。

右側に「六郷神社」が見えてきました。御祭神は、誉陀和気命(ほんだわけのみこと)「応神天皇」。

天喜5年源頼義、義家の父子が、白旗を立てて軍勢をつのり、石清水八幡に武運長久を祈ったところ、前九年の役に勝利をおさめたので、凱旋後、その分霊を勧請したのが、創建と伝えられています。

   

京急蒲田駅を過ぎ梅屋敷駅の近くに「梅屋敷公園」があります。

文政(ぶんせい)年間(1818年から1830年)の初めに、和中散(わちゅうさん)という道中常備薬を商う山本久三郎が、梅の名木を集め、東海道を往来する旅人を相手に茶店を開きました。

かつては蒲田梅屋敷として、亀戸の梅林とともに江戸近郊の梅の名所の一つとして有名になり、広重の浮世絵にも描かれました。現在公園になっているところは、その屋敷跡の一部です。

 

広重の江戸名所図会にも載っています。

    

第一京浜の大森警察署交差点から旧道に入ります。江戸時代旧東海道であったこの付近は、品川宿と川崎宿の中間に位置し、旅人の休憩の為設けられた「間の宿」として賑わっていました。

中でも江戸時代から大森名産として海苔、麦わら細工とともに大森和中散(旅人の常備薬)が有名でした。美原(三原)通りは、旧大森村の小字である北原・中原・南原を通ることから

三原と呼ばれ、現在は美原と記されています。また、大森は、海苔養殖発祥の地とも言われ、現在でも海苔屋さんが何軒か残っています。

 

羽田道の出発地である内川橋は、昔、「するがや橋」といわれ、「駿河屋」という旅宿があったので、現在のするがや通りという名が残されています。

歩道には、昔の海苔作業のタイルが支柱に立っています。

  

  

大森スポーツセンターの所から第一京浜に合流します。道路の左側には「磐井神社」があります。境内の案内板には、「式内社と呼ばれる古い格式をもつ神社である。『三代実録』によれば

貞観元年(859)「武蔵国従五位磐井神社官社に列す」とあり、この神社を武蔵国の八幡社の総社に定めたといわれ、また平安時代(十世紀)に編纂された『延喜式』の神名帳に記載されている。

別名、鈴森八幡宮とも呼ばれ、当社の由緒書によれば、江戸時代には、徳川家の将軍も参詣したことが記されている。

万葉集の「草陰の荒蘭の崎の笠島を見つつか君が山路越ゆらむ」の歌にある笠島とは、ここの笠島弁天を指したものという説もある。」

この神社は、月替わりの朱印をもらえるということで有名です。もらったのは、イチョウの入った朱印でした。

   

神社の歩道側には、「磐井の井戸」があります。もう蓋で閉められていますが、案内板によると、「社名の由来となった、この井戸「磐井」と呼ばれる古井で、東海道往来の人に利用され、

霊水又は薬水と称されて古来有名である。・・・中略・・・土地の人々は、この井戸水を飲むと「心正しければ清水、心邪(よこしま)ならば塩水」という伝説を昔から伝えている。

  

大森海岸駅、しながわ水族館を過ぎると、「鈴ヶ森刑場跡」があります。江戸時代の処刑場。丸橋忠弥、平井権八、八百屋お七など歌舞伎にも登場する人物がここで処刑されました。

   

先へ進むと、浜川橋があります。工事中で片側通行ですのでちょっと通りにくいです。浜川橋は、別名涙橋と呼ばれ、鈴ヶ森処刑場近くにあり、罪人とその家族が涙ながらに別れた場所です。

このあたりに坂本竜馬の銅像があるとガイドブックに記載されていますが、探してもわからず通行の人に聞いてやっとたどり着けました。

嘉永6年(1853)黒船4隻によるペリー艦隊来航の折、龍馬は土佐藩品川下屋敷の近くにあった浜川砲台の警備にあたりました。

浜川砲台・・・旧街道浜川橋より海沿いの地域は、土佐藩の鮫洲抱屋敷がありました。1854年黒船来航の際し、防衛の為土佐藩もこの屋敷内に砲台を築きました。実際は、八門の砲台を

備えていましたが、中でも一番大きかった六貫目ホイッスル砲を再現しました。

    

蕎麦の吉田屋は、安政3年(1856)創業。龍馬や山岡鉄舟も舌鼓を打ったそうです。

鮫洲駅の裏側に「鮫洲八幡神社」があります。建長3年(1251)品川の海上に大鮫が死んでいるのを漁師が腹を裂いた所、腹中から木造の観音像が出現しました。

この観音像を本尊にしたのが、海妟寺(かいあんじ)で頭は八幡神社に祀られました。そこから地名が鮫頭→鮫洲となったそうです。

  

品川寺(ほんせんじ)・・・品川区最古の寺。江戸六地蔵が道往く人の交通安全を見守っています。樹齢600年の大銀杏があります。

品川区の品川は、この品川寺からつけられたのかな?と思っていましたが、品川の中心部を流れる目黒川の河口付近は、湊として栄え、多くの品物が飛び交ったということで品川になったそうです。

  

品川にあった釜屋は立場茶屋(宿場間で旅人がお茶や食事をして休息する場所)でしたが、本来の休息所から旅籠に発達し、幕末には本陣のような構えに改造し幕府御用宿となりました。
慶応3年10月21日(1867年)に新撰組副長の土方歳三等が訪れた記録が残っており、翌4年1月15日(1868年)には鳥羽伏見戦から江戸に戻った新選組隊士たちがしばらく滞在しました。

街道松の広場・・・浜松宿から送られた松。品川には、保土ヶ谷宿、関宿、三島宿などから送られた松がありました。

  

目黒川にかかる品川橋を渡ります。左手には、源氏、徳川氏、上杉氏にゆかりのある「荏原神社」です。

 

橋を渡った右側には、「品川宿交流館」があります。ここで少し休憩します。

品川宿本陣は、聖蹟公園内にありました。明治天皇が京都から東京に移る際、宿泊したため、聖蹟公園と名付けられました。

品川宿: 本陣1、脇本陣2、旅籠93、家数1561軒。

 

東京の12月は、日が暮れるのが早いです。まだ4時ぐらいですが、陽が西の方に沈みかけています。先を急ぎます。

品川神社:源頼朝が安房国の洲崎明神を勧請して創建したという歴史を持ち、徳川家とゆかりの深い神社。裏手には、土佐藩主板垣退助の墓がありました。

刺客に襲われたとき、「板垣死すとも自由は死せず」と叫びました。

  

品川神社の先には「東海禅寺」があります。三代将軍家光が禅僧・沢庵を迎えて開いた寺です。たくわえ漬けが考案された地です。

家光は、「海近くして東(遠)海寺とはこれ如何に」。これに対し、沢庵和尚は「大軍を率いて将(小軍)というがごとし」と言ったという伝えがあります。

沢庵和尚の墓は、少し離れた大山墓地の中にあります。暗くなりかけていますが、行ってみることにしました。

この大山墓地には、2013年に亡くなられた歌手「島倉千代子」さんの御墓もあるそうですが、暗くなったため見つけることができませんでした。何でもピアノの形をした墓碑だそうです。

   

再び街道に戻ります。八ッ山橋は東海道とJR東海道線を立体交差させるために、明治5年(1872)に架けられた橋。大正2年(1913)、昭和5年(1930)、昭和60年(1985)に架け替えられ、

現在の萌黄色の橋は4代目となります。日本の映画史に残る名作『ゴジラ』で、ゴジラが上陸の第一歩を印したのは、この八ッ山陸橋でした。

八ッ山は武蔵台地の突端の丘陵で、地名は海岸に突き出た岬が八つあったことに由来します。

17:10今日のゴールJR品川駅到着。川崎から約12kmですが、結構時間がかかってしまいました。

  

東海道も日本橋まであと7kmです。


速報!「東海道日本橋へゴールしました」

2018-12-21 10:30:04 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

2018年12月19日午後2時50分「東海道(京都~日本橋)道草ウォーク」無事日本橋にゴールしました。

  

ゴールの日本橋には、歩友、ブログ友、飛び入りの方などたくさんの方がお迎えしてくれました。

  

これで長崎・出島から東京・日本橋まで約1500km(公称は約1300km)歩きました。途中、寄り道が多く約1500kmになりました。

夕方、5時から11/21にオープンした半蔵門・ふくおか会館「福扇華」で皆さんと一緒に打ち上げ会を行いました。

   

長崎街道は、2010年6月に長崎出島をスタートし2012年1月門司港駅へゴール。宿場数25宿。約240km。

     

山陽道(西国街道含)は、2012年12月下関・永昌寺をスタートし2014年11月京都・東寺へゴール。宿場数52宿。距離約541km。

  

東海道(佐屋街道含)は、2016年3月京都三条大橋スタート。2018年12月東京日本橋にゴール。宿場数53宿。距離約536km。

 

  

実に8年半かけての「長崎~日本橋」ウォーキングでした。

この間、応援していただいた皆様に厚くお礼申し上げます。お陰様でゴールすることができました。本当に有難うございました。

東海道「川崎宿~日本橋」のブログは、写真整理してからアップしたいと思っております。

   

 

 


第31回名護やんぱるツーデーマーチ2日目名護湾・大浦湾ちゅらながみーコース20km(沖縄県名護市)

2018-12-15 14:09:31 | ウォーキング

12/9(日) 名護やんぱるツーデーマーチ2日目。朝から雨が降っています。ポンチョを着て出発式に向かいます。

こども太鼓と共に8:00スタート。名護さくらの女王、てだこレディ、久米島観光レディが見送ってくれました。

 

今日のコースマップ。

  

名護の市街地を抜け、オリオンビール前、東江中学校前を通ります。

  

じんが森大橋から緩やかな上りです。

 

  

ここからトンネルを3つ通ります。

  

雨は止む間もなく降り続いています。ポンチョを着ていますが、濡れて少し寒くなりました。

県道18号線「アグー村」の看板から右折し、急な坂を下りていきます。急な下り坂は、ひざ痛の私には酷です。

アグー村は、アグーブランド豚を生産している我那覇畜産がアグーをもっと身近に見て欲しい、ということで作られたテーマパークです。ここでは、豚君がお座りをしたり、お手もしてくれるそうです。

この雨の中、立ち寄らずに先へ進みます。

  

大川区に入りました。民家には、いろんな花が植えられています。

  

大浦マングローブロードに着きました。2年前の大会では、コースにはありませんでした。

マングローブは、熱帯・亜熱帯の海岸や加工などの汽水域(海水と淡水の混ざり合う所)に発達する植物群落で、ヨタカ名生態系と生物多様性を育みます。

琉球列島は、その分布の北限地にあり、生態学、地理学上でも貴重な群落といえます。

大浦のマングローブ林は、主にメヒルギとオヒルギで構成され、面積、保存状態の点でも沖縄島において最も良好な林の一つであり、平成7年、名護市天然記念物に指定されました。

マングローブロードは、全長726mの水上遊歩道です

 

  

  

大浦マングローブの終点「わんさか大浦パーク」がチェックポイント。

   

  

わんさか大浦パークからは、大浦湾が見えます。山の向こう側が「辺野古」です。今日の30kmでは、辺野古を歩くコースになっています。

大浦湾の遠くを見ると、辺野古基地工事の船舶でしょうか?何隻か見えます。

  

わんさか大浦パークを再スタートします。2年前は、ここから橋を渡って二見トンネルを通るコースでしたが、今回は、橋の手前で右折します。

  

歩いていると「二見情話メロディロード」というのがありました。二見情話は、沖縄戦中、南部の人々(首里)は、故郷を離れ、二見に避難し、二見の人々と共に生活をしました。

その時お世話になった二見の人々や自然への感謝の気持ちを込めて作られた「ウチナーラブレター」。

二見情話は、こちらからどうぞ。 https://www.youtube.com/watch?v=ex7lzU5aUNk

 

  

闘牛場跡の所から国道329号線に出ます。ここが30kmコースとの合流点。ここには、辺野古基地建設反対の看板が立っていました。

 

二見の里から長い下り坂です。

 

長堂橋(ながどうばし)には、名護親方・程順則(てい じゅんそく)の像があります。

近世の沖縄を代表する政治家。
1663年、那覇の久米村に生まれた。順則というのは中国名で、沖縄の名前では「寵文(ちょうぶん)」という。66歳のとき、名護間切の総地頭(今の市長)となり、名護親方と称するが、その功績や人徳から尊敬を集め、名護聖人とも呼ばれた。また、文学者、教育者としても名高く、漢詩集を出したり、1718年には琉球で初めての学校『明倫堂(めいりんどう)』を設立している。
20代の頃から5回、中国に渡って学問を深め、彼が中国から琉球に持ち帰った教訓書『六諭衍義(りくゆえんぎ)』には人が人として守らなければならない6つの教え(六諭)が分りやすくまとめられている。この本は、八代将軍吉宗に献上された後に和訳され、江戸時代の寺子屋の教科書として全国に広く普及し用いられた。 彼が亡くなったあと、名護間切番所(今でいう市役所)では、毎年旧暦の元旦に『御字拝み(ミジウガン)』といって『六諭』の書を掲げ、遺徳を偲んでいる。この儀式は現代にも引き継がれている。

程順則の「六諭衍義」は、◎「孝順父母」-父母に孝順なれ:(父母に孝行しなさい。) ◎ 「尊敬長上」-長上を尊敬せよ:(目上の人を尊敬しなさい。)
 ◎「和睦郷里」-郷里を和睦せよ:(村里にうちとけなさい。) ◎「教訓子孫」-子孫を教訓せよ:(子孫を教え導きなさい。)
 ◎「各安生理」-各生理に安んぜよ:(各々の生業にあまんじなさい。)  ◎「母作非為」-非為を作すなかれ:(悪いことをしてはならない。)

  

名護市街地へ入ってきました。

 

名護は、2014年製作された「がじまる食堂の恋」のロケ地でした。この映画は、主演は波瑠さんでした。

  

最後の接待は、名護市営市場です。

  

12:45 ゴールしました。実際は、23,3kmです。

この大会で私達夫婦は、日本マーチングリーグ(JML)のマスターウォーカーとして表彰されました。マスターウォーカーは、全国の大会を8ブロックに分けその大会を20km以上完歩することです。

JMLは、昨年3月の倉敷大会から参加し、1年半でマスターウォーカーになりました。

雨は最後まで降り続けました。

 

   

 


「第31回名護やんぱるツーデーマーチ1日目勝山と屋部みどりの道コース20km」(沖縄県名護市)

2018-12-13 18:30:21 | オールジャパンウオーキングカップ

12/8(土)2年ぶりに名護やんぱるツーデーマーチに参加しました。

2年前は、天気も良く絶好のウォーキング日和でしたが、今日は、風が強く、時折雨が降る悪天候です。それでも気温は20度近くあります。

8:00 勝山と屋部みどりの道コーススタート。

 

歩いていると道路の角などに「石敢當(いしかんとう)」があります。2年前歩いた時、石敢當という姓の人かな?と思いましたが、これは、中国起源の魔よけの石。〈せきかんとう〉とも読む。

中国では,770年に福建省莆田県の知事が県内の安寧繁栄を願って建てたのが最古とされているが,起源年代は不明である。現在では,多く丁字路に造立されている。

日本では,石敢当は青森県黒石市を北限とし,沖縄県まで分布するが,沖縄県が最も多い。多くは石敢当と刻した石を丁字路に造立するが,なかには石敢堂,石当散などの誤刻もある。

徳島県下には,中国同様,石将軍と刻んだものがある(世界文化事典より)

    

屋部の久護家

沖縄県指定有形文化財。久護家は名護市(なごし)屋部の久護集落にある旧家で、屋号(やごう:家名)がそのまま集落名にもなっています。
1906年の建造で、この地方の豪農の住宅形式をよく伝えています。母家は東寄りに南面して建ち、屋根は寄棟造りの赤瓦による本瓦葺きで、雨端(あまはじ・庇)は深く裏までまわしてあります。
南側に配された門の正面には、切石積みのヒンプンがあり、屋敷の周囲には石垣が巡らされ、石垣の内側はフクギなどの屋敷林で囲まれています。

   

沖縄を歩いていると民家の前などに「シーサー」が置かれています。それぞれ、「阿」「吽」を意味しています。これは、日本の神社にある狛犬も同じですね。

阿吽」とは、インド・サンスクリット語のアルファベットの最初の字音である「ア」と最後の字音である「フーム」をさす言葉。密教では,この2字が万有の始原を究極を象徴するとし,

それぞれ万有の原理,それらの帰着する智徳を示すとする。また,前者を悟りを求める心 (菩提心) ,後者をその結果としての涅槃(ねはん) にあてることもある。

つまり阿吽とは、初めから終わりまでという意味だそうです。人の一生を表しているのですね。また、「阿」がオスで「吽」がメスだそうです。

 

このコースには、韓国からのウォーカーも参加されていました。沖縄には、いろいろな花が咲いていました。

  

  

コースは、長い上りです。

 

12km地点「勝山シークワーサー」がチェックポイント。

  

チェックポイントを過ぎると下りになります。坂の上からは、名護湾が見えてきます。

  

途中、「安和のくばのうたき」というのがありました。「安和のくばのうたき」は、村の祖先神をまつった御嶽(うたき)です。安和の村の背後にある標高40m位の丘で、この土地の人たちは

「くばのうたき」と呼び、神人たちは「ムラヌフサティ」とか「フバヌタキバン」などと呼びます。聖木と称される、くば(ビロウ)の木は200本あまり群生し、村人の信仰の場となっています。

    

名護湾に出ました。パイナップルに似たものは、「アダン」です。

  

フクギの並木を歩き、屋部の町に入ります。

 

地元の子供さんから「黒糖」をいただきました。

  

コースは、名護湾の砂浜を歩きます。大会で砂浜を歩くのはめったにありません。砂浜には貝殻やサンゴなどがあります。

  

再び遊歩道へ。

 

12:10  20kmゴールしました。今日は雨が心配でしたが、そんなに雨に降られませんでした。然し風が強かったです。

  

会場では、16時からウォーカーの集いが行われますが、まだ時間がありますのでホテルに戻ります。

道中、沖縄の木々の説明がありました。

   

 


古宇利島へ(沖縄県今帰仁村)

2018-12-12 05:53:03 | ウォーキング

12/8~9に行われる「第31回名護やんぱるツーデーマーチ」参加の為、12/7(金)7:15発のJTAで沖縄に向かいました。

約1時間半のフライトで那覇空港へ。今回の遠征は、旅行会社にお願いし、レンタカー付きのパックですので那覇空港からレンタカーで古宇利島に向かいました。

途中、伊芸PAで休憩。ここからは、金武湾が見渡せます。

  

沖縄自動車道許田インターで降り、古宇利島に向かいます。

橋の駅「リカリカワルミ」で休憩。このあたりは、「名護やんぱるツーデーマーチ1日目40kmコース」に入っています。ここからの眺めも最高です。

橋の駅では、日本一早い「スイカ」が売られていました。

 

   

古宇利大橋を渡って古宇利島へ。古宇利大橋は、屋我地島と古宇利島を結ぶ1960mの橋です。

今日は、曇って時折雨が降る天候ですが、天気がいい日には、橋の上からウミガメなどを見ることができます。また、海の色がエメラルドグリーンでとてもきれいです。

  

島を一周して古宇利島オーシャンタワーに来ました。

  

レストランからの眺めです。

レストランでは、タワーカレー?を注文しました。ライスがタワーの形をしています。

 

このあと、名護市内に戻り、明日の大会の事前受付をしました。

夕食は、ホテル近くの食堂でゴーヤチャンプル定食、家内は豚キムチ定食を注文しました。