よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

糸島泉川沿いを歩く(福岡県糸島市)

2015-09-29 17:07:57 | JR九州ウオーキング

9/27は、JR九州ウオーキングで糸島・泉川沿いを歩きました。

8:40 筑前前原駅をスタート。糸島市役所庁舎には、糸島のゆるキャラ「イトゴン」が描かれています。

糸島半島は、地図を見ると恐竜みたいな形をしているので、「イトゴン」というゆるキャラが誕生したそうです。

   

「荻浦古墳」に着きました。荻浦古墳は、初めてです。6世紀中ほどの古墳だそうです。

この一帯は、旧唐津街道沿いにあり、この先には、加布里「釜塚古墳」、一貴山「銚子塚古墳」があります。昔は、街道沿いに集落があったのですね。

  

荻浦には、境界石があります。江戸時代、糸島は、福岡領、中津領、対馬領、幕府領などに分割されていました。

荻浦の多久川から西が中津領、深江から西側が対馬領となっていました。幕府領は、香力など雷山地区でした。

  

 雷山川下流の「泉川」に来ました。泉川沿いは、春は、「桜」、夏は「はまぼう」、秋は、「彼岸花」と四季折々の花が咲いています。

今は、彼岸花です。よく見ると桜の花びらが数輪咲いています。この時期は、春の気候と同じで桜も間違えて花を開いたのではないかな???

 

 

病院近くの所には、初夏、きれいに咲いていたねむの木が実を付けていました。その横には、水面に菱が・・・・・・・

こんな身近な所にも菱があるのですね。桶みたいな船に乗って収穫されるのかな?

  

今日のコースは7km。ゴール近くの前原商店街に入ってきました。

今日は、日曜日で軽トラ市が開催されています。野菜なんかずいぶん安く売られています。

近くでアナウンスしている声が聞こえましたのでそちらに行くと、なんと糸島PR隊の「ラビッツ」です。

皆さん、高校生ぐらいかな?可愛いですね。糸島市内の各イベントに参加され糸島を盛り上げているそうです。

 

10:20 ゴールの筑前前原駅に到着。

今日は、昼からソフトボールの試合がありますのですぐ帰りました。

 

 

 

 


「新潟ブルース」 「信濃川慕情」の歌碑を訪ねて

2015-09-20 17:51:55 | 旅行

今でもカラオケで根強い人気のある「新潟ブルース」「信濃川慕情」。私も若いころは、よくスナックで歌ったものでした。

この歌は、1967年(昭和42年)美川憲一、黒沢明とロスプリモスの競作で発売されました。

美川憲一の方は、A面が「新潟ブルース」、B面が「信濃川慕情」。

一方のロスプリモスの方は、A面が「信濃川慕情」、B面が「新潟ブルース」でした。どちらも作詞「山岸一二三」、作曲「山岸英雄」のご兄弟でした。

新潟ブルース歌詞

      1 想い出の夜は 霧が深かった
        今日も霧がふる 万代(ばんだい)橋よ
        別れの前に 抱きしめた
        小さな肩よ ああ…
        新潟は 新潟は 面影の街

      2 しあわせの夜を 二人過ごしたね
        いつかより添った 古町通り
        ほのかに白い 指先で
        涙をふいた ああ…
        想い出の 想い出の 新潟の女(ひと)

      3 忘られなくて ひとりさまよえば
        青い灯がゆれる 新潟駅よ
        愛した訳じゃ ないんだと
        強がりいえば ああ…
        新潟は 新潟は 霧に更けてゆく

 

 信濃川慕情歌詞

       1、 町に流れる 長い川 今もあの日と 変らない

          愛を誓った 君なのに

         川面に浮ぶ 木の葉のように 流れていずこへ

         教えておくれ 教えておくれ信濃川


       2、思い出させる 長い川 君とみつめた あの夜を

         肩を抱いたら うつむいて

         何も云わずに 泣いてた君が 心に残るよ

         返しておくれ 返しておくれ信濃川


        3、遠く流れる 長い川 恋の嘆きの 信濃川

          君を求めて 今日もまた

          ひとり来てみた 万代橋(ばんだいばし)は 小雨にけむるよ

          教えておくれ 教えておくれ 信濃川

この2つの歌碑が、信濃川沿いに建っていると聞きましたので、それを訪ねてみたいと思います。

先ず、新潟ブルースに出てくる「新潟駅」。

ここは、万代口と南口があります。南口は、新幹線側でかなり整備されていますが、万代口は、ただ今工事中です。やはり万代口の方が風情がありますね。

   

新潟駅から万代シティの方に歩いて行きます。バス停では、今月5日から運行を始めた「BRT」が停まっていました。このBRT,福岡市でも導入が検討されています。

    

萬代橋に着きました。

萬代橋は、現在の橋は、3代目でRC造六連アーチを持つ全長306,9mの橋です。1929年(昭和4年)完成。

平成16年には、国の重要文化財に指定されました。いつまでも新潟の街が発展に尽くすことを願って「萬代橋」と名づけられました。

今では、新潟市のシンボルとなっています。

  

  

渡って河川敷は、「やすらぎ堤」の遊歩道になっていて、ここでは、市民の皆さんのジョギングやウオーキングコースとなっています。

  

「新潟ブルース」の歌碑は、萬代橋を渡って「ホテルオークラ」の向かい側のビルの1階に建てられています。新潟市制100周年を記念して造られました。

萬代橋を渡ると、古町方面です。歩道の横には、ガス灯があります。 

   

その近くには、「道路元標」があります。東京まで442km、京都まで592km、青森まで578kmです。

   

古町は、江戸時代初期まで本町と呼ばれていました。現在の本町は、あら町、新町と呼ばれていました。

古町6,7は、旅籠、古町7は、塗り物、紙の専門店街でした。明治17年(1884)、古町に3階建ての勧商場(デパートの全身)などが出来、明治22年(1889)市制施行後、古町は、商店街として発展しました。

明治末期に古町5,6に夜店が開かれ、大正3年(1914)に電気館(活動映画館)が出来ると、更に人気が高まって、北陸有数の商店街と成長していきました。

盆の花市、歳末のお歳市には、近在はもちろん、遠くの町から来た人たちで賑わいました。

  

新潟市のマンホールです。左のマンホールは、萬代橋を図案化したものです。右は、新潟市の花、チューリップ、真ん中にひまわりがデザインされています。

     

観光循環バスで市内を廻ろうかと思いましたが、このバス1時間に1本しか発車してなく、仕方なく歩いて次の目的地に行きました。

白山神社

新潟市の中心部に位置し新潟の総鎮守として千有余年の歴史のある神社。白山さまは、別名を菊理媛「くくりひめ」という女の神様で、夫婦の神様がケンカをした際に仲をとりもったと

日本書紀にあり縁結びの御利益のある神社です。(新潟ナビより)

  

白山神社より、信濃川河道(やすらぎ堤)に行きます。

「信濃川慕情の歌碑」は、確か、このあたりにあるのですが・・・・・・・・

  

昭和大橋があります。

昭和大橋は、昭和39年新潟国体前に完成しましたが、国体終了後の6月、新潟地震で崩壊しました。

  

歌碑を探しましたが、見つけられませんのでウオーキング中の方に聞きましたが、わからないとのこと。

新潟ブルースに比べ、この信濃川慕情は、少し知名度が落ちるからでしょうか?

信濃川沿いに探すと体育館の近くにありました。近くには、面白い形をしたものがありました。これで木を支えているのですね。

  

そのあと、新潟の北前船記念館、豪商小澤家などに行こうと思いましたが、今日月曜日は、どこも休館日です。

仕方がないので、帰りの飛行機の時間は、まだありますが、昼食を兼ね、新潟駅に向かいました。

初めての新潟でしたが、こんどは、ゆっくり月曜日でない日に行きたいと思います。

 


山古志&信濃川ウオーク2日目(信濃川ウオーク)(新潟県長岡市)

2015-09-18 19:30:23 | オールジャパンウオーキングカップ

2015.9/13 山古志&信濃川ウオーク2日目です。

昨日は、絶好のウオーキング日和でしたが、今日は、朝からどんよりと曇っています。予報では昼から雨とのこと。

会場は、アオーレ長岡。今日は、新潟のゆるキャラ、「小太郎」「よいたん」「かわぐっち」「ナッちゃん」が応援に駆けつけました。

今日も「とほ娘さんご夫妻」と一緒です。

   

8:00ゆるキャラに見送られスタート。

   

私は、23kmコースで歩きましたが、膝の具合を見て23kmか15kmどちらかに決めたいと思います。

大手通りを通り、長生橋(ちょうせいばし)東詰に到着。長生橋を渡るのかな?と思いましたが、長生橋の手前から左折していきます。

  

約20分ほどで「フェニックス大橋」に到着。この橋は、2013年(平成25年)11月完成。信濃川と渋海川をまたぐ全長1272mの橋です。

  

「信濃川」は、新潟県と長野県を流れる一級河川。このうち信濃川と呼ばれているのは、新潟県域で長野県に遡ると「千曲川」と呼ばれています。

全長367kmのうち、信濃川は、153km、一方の千曲川は、214km。河川法上では、千曲川を含めた信濃川水系の本流を信濃川と規定しているため、信濃川は、日本で一番長い川となっています。

渡り終えると右折。このあたりが5km地点です。今の所、私の膝の状態も順調です。然しいつ痛くなるかわからないため、いつもよりスローペースで歩いています。

 

河川敷の横の民家の屋根を見てみると、梯子がかかっている家が多くみられます。6月に札幌に行ったときもこのような光景が見られました。やはり屋根の雪下ろしに使うのでしょうか?

 

フェニックス大橋から河川敷に歩くと先ほど東詰を通った「長生橋」が見えてきます。

長生橋、現在の橋は、三代目です。昭和12年(1937年)完成しました。全国的にも大変珍しい構造をしており、現在でも長岡市民の生活を支える重要な橋として活躍しています。

歩道橋は、1972年(昭和47年)に付けられました。

毎年、8月1日~3日は、長生橋、大手大橋一帯で「長岡まつり」が開催されます。昭和20年8月1日に長岡空襲が起こり、旧市街地のほとんどが焼け、約1500人もの方が亡くなられたそうです。

そのことを忘れないようにと、この日に「長岡まつり」を開催したそうです。長岡まつりの最大の呼び物は、なんといっても「大花火大会」です。

写真は、ホテルに展示されていた中越地震復興祈願花火「フェニックス」です。(ホテルの了解を得ています)

    

一回この目で大花火大会を見てみたいのですが、この日は、全部旅行会社がツアーを組んでいますので、個人で直接ホテルへの予約は、かなり難しそうです。

長岡市のマンホールにもこの花火がデザインされています。(左側、花火、スキーヤー、悠久山公園の城と桜、長生橋) (右側、花火、悠久山公園城と桜、火焔土器)

     

長生橋を渡ると、与謝野晶子の歌碑、杉本鉞子(えつこ)「武士の娘」の碑があります。

与謝野晶子は、昭和9年ごろ長岡を訪れた夫妻が悠久山で遊んだあと、信濃川に来て当時木橋だった長生橋を渡って詠んだものです。

              あまたある  州に一つづつ 水色の 越の山乗る 信濃川かな

杉本鉞子は、長岡藩家老稲垣恒平の娘。鉞子は、大正12年、アメリカで自叙伝風小説「武士の娘」を出版。全米でベストセラーとなり、その後世界7か国語に翻訳されました。

この時、日本と世界の懸け橋になったことを記念して建てられました。鉞子が少女の頃、信濃川の土手で若草を摘んだ思い出を綴った一説が刻まれており、この地に碑を建てたそうです。

   

8km地点を過ぎました。工事用の単管バリ、新潟県は、県のゆるキャラ「トッキッキ」です。トッキッキは、男の子の「とっぴー」と女の子の「きっぴー」のコンビだそうです。朱鷺をイメージしています。

  

大手大橋を渡ります。大手大橋は、1985年(昭和60年)完成。全長878mです。

  

大手大橋を渡ると右折します。ここには、陸上競技場やスーパー、赤十字病院などが建ち並び、遊歩道は、ジョギング、ウオーキングを楽しむ人がおられます。

  

三島億二郎の銅像があります。

1825-1892 明治時代の実業家。
文政8年10月18日生まれ。もと越後(えちご)(新潟県)長岡藩士。明治2年同藩大参事。小林虎二郎などと戊辰(ぼしん)戦争後の長岡復興につとめ,長岡洋学校,長岡病院を創立。

17年長岡第六十九国立銀行(現北越銀行)の頭取となり,19年北海道開拓の北越殖民社をつくった。明治25年3月25日死去。68歳。

      

 長岡赤十字病院の近くが、チェックポイントです。チェックを終えると23kと15kの分岐点。

23kにするか、15kにするか迷いましたが、膝の具合もさることながら、天気が悪くなりそうで15kmを選択しました。

23kコースは、長岡大橋を渡らずに先の蔵王橋を渡って長岡大橋に戻るコースです。

  

長岡大橋は、全長1078mで1970年(昭和45年)に完成しました。橋の照明灯には、鳥、花火などのモニュメントがありました。

  

長岡大橋を渡り、西神田二の所が、12,5k地点。あと2,5kです。

 

西福寺があります。ここに「維新の暁鐘(ぎょうしょう)」があります。

 慶応4年(1868)5月19日、榎峠の攻略が難しいと判断した新政府軍は、大島、槇下から信濃川を渡河し、直接長岡城を攻撃してきました。
この時、新政府軍の侵攻を城下に知らせるため、一藩士が鐘楼にかけのぼり、この鐘を乱打したといわれています。
説明文によると、
 西福寺の梵鐘は、明和3年(1766)に長岡藩お抱えの鋳物師田中多左衛門尉重定が造ったものです。鎌倉時代の作風を伝え、美しい龍頭が特徴。江戸時代の長岡の鋳物業は、新町村の土屋を中心にして栄えました。
 北越戊辰戦争では、長岡藩が落城した慶応4年(1868)5月19日の早朝、西軍来襲の際この鐘が乱打されました。
 長岡の歴史にとって、近代の夜明けを告げたことから「維新の暁鐘」と呼ばれるようになりました。

  

コースは、長岡市街地に入ってきます。信号を待っていると、23kコースのトップ集団がやってきました。時間は、まだ11時前。

トップ集団の速度を計算しましたら、8k/hぐらいです。膝を痛めている私は、せいぜい早く歩いて時速5kぐらい。

一回でいいから私もトップ集団に加わりたいな~(写真ばかり撮っていると無理です。

11:10  15kmゴール

膝の痛みをこらえながらのゴールでした。参加者は、2日間で1282名です。

  

   

ゴールでは、豚汁のお振舞がありました。

    

会場で待っていると、12時05分ごろ「とほ娘さんご一行」がゴールされました。23kmを歩かれたそうです。

本日のGPSです。出発の時、スタートのボタンを押し忘れ、途中からのGPSになりました。

今回、初めて新潟・長岡の町を歩きました。美味しいお酒とグルメに大変満足しました。機会があれば、また参加したいです。

明日は、新潟市内を歩いてみます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


長岡の美味しいもの

2015-09-17 18:46:51 | グルメ

山古志ウオークのあと、夕ご飯を長岡駅構内にある「あさひ山」に行きました。

ここは、新潟のお酒「久保田」や「朝日山」などで知られる朝日酒造のアンテナショップです。

席に着くとすぐ乾杯用の日本酒「朝日山」と付きだしが出てきました。

  

ビールは、サッポロの新潟限定「風味爽快ニテ」。

サッポロビールの生みの親、育ての親は、新潟県人だったそうです。

お酒は、もちろん「朝日山」です。長岡には、全国に名の知れた日本酒がありますね。「久保田」「八海山」「朝日山」・・・・・・・・・

新潟のお酒は、ミネラル分の少ない超軟水。さっぱりとした辛口のお酒です。

  

  

〆サバも九州で食べるよりは、切り方も違うし、どちらかというと、刺身に近いかな。

エゴは、見た感じは、コンニャクですが、九州のおきゅうとみたいです。酢味噌でいただくと本当においしい。

 

  

今日の締めは、コシヒカリのおにぎりと日本海海鮮丼。

 

  

新潟のお酒とグルメを堪能した一日でした。

明日(9/13)は、信濃川ウオークです。

 

 


山古志&信濃川ウオーク1日目(山古志ウオーク)16km(新潟県長岡市山古志)

2015-09-17 13:09:02 | オールジャパンウオーキングカップ

2015.9.12 新潟長岡市で行われた「第10回山古志・信濃川ウオーク」に参加しました。

初日は、山古志コース16kmです。

長岡駅からバスで山古志へ移動。約1時間で山古志に着きました。会場では、昔のSNSの仲間「とほ娘さんご夫妻」が迎えてくれました。ご夫妻は、東京から3時間半かけて車でこられたそうです。

とほ娘さんとは、5年前、東京国際3DMでお会いして以来の再会です。今は、ご夫妻と各地の大会に参加されているそうです。

今回、山古志ウオークを選んだのは、7~8年前、中越地震の実話「マリと子犬の物語」という映画を見て、山古志村(当時)の自然の素晴らしさに感動し、いつか機会があれば歩いてみたいと思ってました。

  

山古志は、平成16年10月23日に発生したM6,8の地震で被害を受けました。もうあれから11年です。山古志も復興し地震の爪痕もあまり見えなくなりました。

来賓で元山古志村村長で現衆議院議員長島清美氏の挨拶のあと、山古志小中学生が「山古志」の紹介をパネルを使って説明されていました。

この子たちの中には、あの地震の年に生まれた子もいます。

  

    

そのあと、山古志小中学生が皆で「幸せ運べるように」を歌っていただきました。

この分Youtubeで公開しています。

https://youtu.be/Bujyi5OFqHw

9:45希望の鐘の音と共にスタート。

 

  

山古志は19世紀ごろから錦鯉の養殖がおこなわれるようになりました。冬場の非常食用として休耕田に鯉を養殖したのが始まりだそうです。

養鯉場と棚田の風景は、素晴らしいです。

  

コースは、上り坂が続きます。汗が噴き出てきますが、空気も澄んでおり、本当に気持ちのいいウオーキングです。

こんな看板もありました。九州では、見れませんね。

  

遠くに越後三山(越後駒ヶ岳2003m、中ノ岳2085m、八海山1778m)が見えます。八海山というと、お酒の銘柄だと思ってましたが、山の名前だったのですね。

  

4km地点が、11k(ショートコース)と16k(ロングコース)の分岐点。16kコースは、ここから金倉山を目指します。

  

分岐点には、薬師堂があります。説明文を見てみると、「薬師堂」は、病気を治し安楽を与える医薬の仏「薬師如来」を祀っています。その昔、冬に峠を越えようとした人が

お堂で一晩過ごした夜、幼子を亡くした女性の幽霊が薬師如来を頼りに子供の蘇生を願って現れたと言われています。

薬師堂の横には、追分地蔵があります。(右ハ やまみち、左ハ こぐりやま)

  

5kmを過ぎました。スタートしてから約1時間です。ここからの光景も素晴らしいです。

  

  

やっとの思いで金倉山駐車場のチェックポイントに到着しました。時間は、11:10。ここで事前に頼んでいたお弁当を受け取りますが、まだお腹がすいていませんので、お接待で出された

豚汁をいただきます。この豚汁具だくさんで美味しいです。  山古志中学の生徒さんも登っていました。

   

  

折角ですので、金倉山山頂の展望台に行くことにしました。

  

ここからは、越後三山、信濃川が見渡せます。信濃川の右側には、天気がいい日には、佐渡島が見えるそうですが、今日は、少し霞んでおり見ることができませんでした。

金倉山を折り返すと急な下り坂です。まるで走るように下りて行きます。

  

  

走るように下ったのがいけなかったのか、私の持病の右ひざに痛みが走りました。新潟に来る前にお医者さんで注射を打ってきたのですが、この急な下り坂でまた痛みがぶり返しました。

途中で停まり、ポールを出して歩きますが、膝をかばうように歩いたのがいけなかったのか、今度は足にマメができてしまいました。

すぐ応急処置をしてまた歩き出します。途中、民家の方が糸瓜のお漬物を接待してくれました。美味しかったです。

  

小千谷というと、縮緬(ちりめん)ですね。水戸黄門で黄門様が自分のことを「越後の縮緬問屋の隠居 光右衛門」と言ってました。越後の縮緬というと、小千谷のことだったのかな

小千谷の縮緬は、市内中央部で作られているそうです。

歩いていると太いフトン篭で土止めしている棚田がありました。フトン篭の径は、8mmぐらいでしょうか?

  

岩間木という所から、国道291号線に合流します。交差点の角には、闘牛の牛がいました。見ていると強そうな牛です。相撲でいうと「白鵬」クラスかな?

  

12km地点に来ました。下り坂もこのあたりで終わり。また緩やかな登りに入ってきます。ふと、右側の木を見るとイチゴみたいな実がなっています。ヤマボウシの実かな?自信がありませんが・・・・・・。

  

変わりメダカというと、色がついているのかな・・・・・・・・

  

幸福市という産直店では、スイカの差し入れがありました。ちょうど汗をかき、水分を欲していたので有りがたかった。

幸福市は、竹澤小学校の跡で、竹澤小学校は、統合し「山古志小学校」になっています。

  

幸福市の所には、天皇皇后両陛下の碑が建っています。平成16年の中越地震の時、両陛下が山古志村にお見舞いに来ていただきました。

その時、天皇陛下は、「地震により 谷間の棚田 荒れにしを 痛みつつ見る 山古志の里」という歌をお詠まれました。

  

あれから11年、山古志は、住民、官と一体になり、見事復旧されました。

  

13:55 膝の痛みに耐えながらようやくゴールしました。ゴールでは、先にゴールされたとほ娘さんご夫妻からお迎えしていただきました。

 

   

とほ娘ご夫妻とは、ここでお別れし、私たちは、接待の豚汁とチェックポイントでもらったお弁当をいただきました。

お弁当は、山古志の食材で作られていました。お米もおかずもすべて美味しかったです。サービスでいただいたキュウリとナスの浅漬けもおいしくてついついお代わりをしてしまいました。

  

お弁当も食べ落ち着いたところで山古志支所横にある山古志復興館「おらたる」に行きました。あいにく外壁工事中の為足場がかかっていましたが、内部は見ることができます。

「おらたる」は、私達という意味でしょうか、甚大な被害を被ってなお、それを乗り越えて復旧・復興へと歩みを続けている山古志を、写真や映像、プロジェクションマッピングなどで紹介しています。
 また、里山の魅力へと誘うフィールドミュージアムの拠点としての機能も合わせ持っているそうです。

  

 

 

映画「マリと子犬の物語」のパンフもありました。 マリは、現在15歳でまだ生きているそうです。また、「おらたる」の職員の方がマリの子供を飼っているそうです。

その子供も今は、11歳になったそうです。

今回の山古志ウオークは、日本でも有数の高低差があるコースということを聞いていましたが、GPSをみるとかなり登って下っています。

9/12山古志ウオークのGPS

 

高低差と速度(600m近く上っています)

 

 

 

 

 

 

 

 

 


長岡せっかくウオーク(新潟県長岡市)

2015-09-16 15:20:16 | ウォーキング

9/11(金)長岡駅で「へぎ蕎麦」を食べ、14:00からのせっかくウオーク「戦後70年長岡市の歴史めぐり」に参加しました。

集合場所は、「アオーレ長岡大型ビジョン前」です。

アオーレ長岡は、長岡市庁舎東西棟、アリーナ、また、3棟に面して屋根付き広場「ナカドマ」があります。市役所の中には、ホテルみたいな「コンシェルジェ」がいます。

屋根の分の空間には、杉材ですの子状のパネルを付けています。ここには、長岡の歴史などが書かれています。アリーナ部は、バスケットコート3面があり、議場は、ガラス張りですので市民の皆さんが見ることができますので、

議員さんも議会の時、お昼寝もできませんね。(平成24年完成)

  

  

火焔土器は、縄文時代中期に信濃川流域の新潟地方で作られた火焔状に見える装飾を施した土器です。長岡で初めて出土されました。

アオーレ長岡の敷地は、昔、長岡城があった所です。本丸は、JR長岡駅の所でしたが、アオーレの所は、二ノ丸がありました。

  

二ノ丸跡地には、「城内稲荷神社」があります。ここは、昔、石油で有名になった「宝田(ほうでん)石油」(現新日本石油)があった所です。

 

お賽銭箱は、銅製のガマガエルの形をしています。

  

手水鉢は、明治24年(1891)頃から石油株式の取引が盛んになり、株式仲買人の中には、女性もいて女株券師と呼ばれていた。最盛期には、男性20人、女性百余人がいて、女株券師は、2人又は3人組で仕事をし、

中でも堀田タミ、渡辺キイの組がよく知れれています。この手水鉢は、明治末期にこれらの株式周施人が奉納したもので鉢の側面に刻まれた名前から女株券師の存在が証明されています。

 

14:00近くになりました。会場には、せっかくウオークに参加の方が集まられています。

ここで「長岡」の町を紹介します。

長岡に人が住み始めたのは、縄文時代中期ぐらいからだと言われています。室町時代には、永らく上杉氏の支配下に置かれていました。
江戸時代、上杉景勝の会津移封にともない、大名は堀氏から松平氏、また、堀氏と代わり、牧野氏の時代となりました。

 牧野氏は三河出身の譜代大名で、三河以来の伝統である、「常在戦場の精神」を精神風土とし、「質実剛健」な気風をつくりました。

日本が明治を迎えようとした、幕末維新期。幕府方の長岡は戊辰戦争に巻き込まれ、戦火に城も町も村も、一面焼け野原になりました。

 明治時代を迎え、長岡は新しい指導者として、三島億二郎、小林虎三郎らが登場し、米百俵物語として残るような、復興の努力をしました。

 昭和二十年八月一日、アメリカ軍のB29百二十五機による空襲によって犠牲者千四百六十余名。市街地の85%以上が焼失。と、
長岡はまたも一面焼け野原に。しかしまた不死鳥のように甦りました。(長岡市HPより抜粋)

                                                                                       

せっかくウオークは、「戦後70年長岡市の歴史巡りコース」と称し、観光ボランティアの方と、長岡戦災資料館~如是蔵博物館(日本互尊社)~山本五十六記念館~全国初タニタカフェの約3kmのコースです。

空からは、雨が降り出しました。

  

【長岡戦災資料館】

1945(昭和20)年7月20日、左近地内に1発の爆弾が投下されました。長岡に投下された初めての爆弾でした。(後に模擬原子爆弾と判明)
 その12日後、8月1日の午後9時6分、長岡の夜空に警戒警報のサイレンが鳴り響きました。続いて午後10時26分、警戒警報は空襲警報に変わり、直後の10時30分にB29による焼夷弾(しょういだん)爆撃(ばくげき)が始まりました。

 B29は一機また一機と焼夷弾を投下しました。夜間低空からの容赦無い無差別爆撃によって、長岡のまちは瞬(またた)く間に炎に包まれていきました。
 猛火の中を、母の名を呼び、子の名を叫んで逃げ惑う人びと。多くの人が炎に飲み込まれていく様子は、地獄絵さながらだったといいます。
 空襲は、8月2日の午前0時10分まで続きました。1時間40分に及ぶ空襲で、市街地の8割が焼け野原となり、1,486人の尊(とうと)い生命が失われました。
 925トンものE46集束(しゅうそく)焼夷弾等が投下され、163,000発余りの焼夷爆弾や子弾(しだん)が豪雨のように降りそそぎ、長岡を焼き払ったのです。(長岡戦災資料館パンフより)

長岡戦災資料館は、長岡空襲を風化させることなく語り継ぐとともに平和の尊さを次世代に確実に伝えていくための施設です。

館内は撮影禁止でしたが、空襲のビデオを見ると戦争の悲惨さなどが伝わってきました。

【如是蔵(にょぜぞう)博物館(日本互尊社)】

互尊文庫を創設し、明治から大正時代に学校、社会教育などの公共事業に力を注いだ実業家、野本恭八郎をはじめ長岡出身の偉人の遺品や資料などを展示してあります。
 山本五十六専門コーナーもあり、長岡の偉人たちの心にふれることができます。

-互尊社(互尊文庫)の由来-
 日ごろから熱心に主張していた「我人独尊皆互尊(ワレヒトドクソンミナゴソン)」の深い考えを広めようとしてつけられました。(自分の尊さを自覚するとともに、他人を尊び敬うことが大切である) (長岡市HPより)

  

 

    

【山本五十六記念館】

明治17年(1884)、儒学者の家系に生まれた高野五十六は、聡明で、中学の頃からベンジャミン・フランクリンを尊敬、猛勉強するなど広い視野をもっていた。
 旧長岡藩家老・山本帯刀家を継ぎ、旧会津藩士族の娘と結婚。文武両道、質実剛健、常在戦場の長岡らしい精神に磨きがかかる一方、石油や航空に早くから注目。リンドバーグの大西洋横断にも触発され、

特に航空の重要性を力説。太平洋戦争開戦時、その先見性を世界に実証した。

 開戦にはあくまでも反対だった。「この身滅ぼすべし、この志奪うべからず」と、わが身の危険を省みず、日独伊三国同盟に断固反対した姿勢は、人々を愛し、郷土を愛し、慈愛の心を強く保っていたからこそである。

だが、その意に反し連合連合艦隊司令長官として未曽有の大戦争の指揮をとった。
 昭和18年(1943)ブーゲンビル島で戦死。激動の世紀に、しなやかかつ強い心で生きた山本五十六の人間性を、21世紀に語り伝えたいと願う。(山本五十六記念館パンフより)

※山本帯刀は、戊辰戦争で河井継之助を軍事面で支えた若き大隊長。

  

山本五十六の名言

やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。

話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。

やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。

「やってみせて・・・・」は、上杉鷹山の「してみせて 言って聞かせて させてみる」が基本にあるそうです。 

 男の修行

苦しいこともあるだろう。

云い度いこともあるだろう。

不満なこともあるだろう。

腹の立つこともあるだろう。

泣き度いこともあるだろう。

これらをじつとこらえてゆくのが男の修行である。

 アメリカとの戦いについて

是非やれといわれれば、初めの半年や一年は、ずいぶん暴れてごらんにいれます。

しかし二年、三年となっては、全く確信は持てません。

三国同盟ができたのは致し方ないが、かくなった上は、日米戦争の回避に極力ご努力を願いたいと思います。

(日米開戦後の見通しについて、当時の近衛文麿首相から聞かれた時の言葉)

戦争が長期化すれば日本は負けると予想していたのですね。

  

ウオーキングの後は、全国初のタニタカフェです。

  

ここは、体験型のカフェです。ハンモックや足湯コーナーがありリラックスしながらこころと体を温めるスペースになっています。

  

このタニタカフェのすぐ近くには、「米百俵の碑」があるということで立ち寄ってみました。

「米百俵」は、平成13年5月当時の小泉総理が所信演説で述べたことで有名になりました。

小林虎三郎は、文政11年(1828)に生まれ、晩年病翁と改めた。佐久間象山に学び、吉田松陰と象門の一虎と称された。

戊辰戦争後、敗戦の末、焦土と化した長岡の大参事に抜擢された。、「教育こそ人材を育て、国やまちの繁栄の基になる」という教育第一主義を唱え、支藩三根山藩の救米百俵を赤貧にあえぐ藩士の強要を

「食えないからこそ学校を建てて、人材を育てるのだ」と言って退け、国漢学校設立の資にあて、長岡復興の礎を作った。この碑が建てられた所が、国漢学校の跡地です。

この事跡は、山本有三著「米百俵」によって広く世に伝えられました。明治10年50歳にて病歿。

この学校から、山本五十六など輩出された。

ホテルへの帰り道通った「河井継之助記念館

大河ドラマ「八重の桜」でも出ていた「河井継之助」。

文政10年(1827)元旦、長岡藩の中堅藩士・河井代右衛門秋紀の長男として城下に生まれ、江戸に出て佐久間象山に学び、備中松山を訪ねて山田方谷に師事。
長崎を見学して西洋の事情を知り、攘夷論に反対した。
後に継之助は異数の昇進を遂げると、長岡藩の上席家老となり、藩政改革を断行。
藩の財力を養い、雄藩も目を見張る近代武装を成し遂げていった。
戊辰の戦いには中立を唱えたが受け入れられず、遂に抗戦を決意。
軍事総督となった継之助は、巧みな戦術で敵を惑わせ、一旦は敵の手に落ちた長岡城を、奇襲で奪還。
雪深い越後の国の小藩・長岡藩の名に、新政府軍も恐れ慄いた。
しかし、次第にふくれあがる敵の兵力には太刀打ちできず、再度の落城で長岡軍は会津へと向かう。
傷を負った継之助も、再起をかけて会津をめざすが、途中、塩沢村(現在の福島県只見町)で悲運の最期を遂げた。
幕末の風雲を駆け抜けた継之助の、生涯をまとめたのが司馬遼太郎の<峠>。(長岡市HPより)

  

 

 

 

 

 

 

 

やまもと


新潟・長岡へ

2015-09-15 14:33:44 | 旅行

9月11日。9/12~13に行われる「越後長岡ツーデーマーチ」に参加の為、新潟・長岡へ行きました。

福岡空港8:05のANAで新潟空港へ。福岡は、天気が良かったのですが、新潟は雨模様。

  

空港前からリムジンで新潟駅へ。空港では、新潟の宣伝課長?「トッキッキ」が迎えてくれました。

  

新潟駅からは、信越本線で長岡に行きます。新潟駅では、特急「いなほ」が停車していました。

  

約1時間15分で長岡駅へ到着。お腹も減っていましたので、前から食べてみたいと思っていた、長岡名物「へぎ蕎麦」の専門店に入りました。

 

へぎ蕎麦の前に、越後の地酒「吉乃川」をいただきます。少し辛口ですが、大変飲みやすいお酒です。

へぎ蕎麦は、小嶋屋のHPによると、

さて、そば通の方であればすでにお聞き馴染みの「へぎそば」。
へぎそばといえば近年では関東でも知られた名前になりましたが、ではこの「へぎ」とは一体なんでしょう?
この「へぎ」、実は「剥ぐ=はぐ=へぐ」のなまりで、木を剥いだ板を折敷にしたもののことであり、ざるそばやせいろ同様、「へぎ」という器に盛られたそばのことを言います。

また持論ではありますが、私どもではへぎに一口ずつ美しく盛ったそばを、“手振り"“手びれ"と呼んでおり、これも織物をする時の糸を撚り紡いだ(よりつむいだ)“かせぐり”などからきた手ぐりの動作を言ったもので、

全国的にも珍しい織りの目に模した並べ方も織り文化の美的感覚・感性から生まれたものと推察できます。
さらに付け加えれば、この手ぐりはフノリをつなぎに使った滑らかなそばでなければ、美しく盛り付けることが出来ません。手ぐりにしろフノリつなぎにしろ、

「へぎそば」は長きに渡る織物文化とそばの食文化が融合して生まれた賜物なのです。

  

  

  

歯ごたえも良く、とても美味しくいただけました。食べ終わったらそば湯も味わうことができます。

1年前は、福井のおろし蕎麦にも感動しましたが、このへぎ蕎麦も感動ものです。

お腹も一杯になった所で14:00からのせっかくウオークに行ってきます。

  

 

 

 

 

 

  

 

 


赤米の田んぼアートへウォーキング(福岡県糸島市)

2015-09-09 21:30:22 | ウォーキング
9/9はふくおかウオーキング協会の「田んぼアートウオーキング」に参加しました。
9:00 筑肥線福吉駅集合。ストレッチのあと出発。

    

今日は、朝から風が強く、あいにくの雨。雨具を付けてのウオーキングです。

    

天気が良ければ、「浮岳」が見えるのですが、雨で煙っています。

    

「まむしの湯」を通過。

    

右側には、「十坊(とんぼ)山登山口」があります。

    

少し坂を登って行くと、「吉井田んぼアート」が見えてきます。

    

昨年は、「つんのうて走ろう糸島へ」でした。今年は・・・・・・・・

    

  「めでタイ よっ 日本一」

真ん中には、鯛がイラストされています。

    

    

赤米の穂

    


見学の後、海岸へ向かいます。途中民家の庭先には、キウイが実をつけていました。

    

カンナ

    

彼岸花と蝶々

    

約10kmのウオーキングでした。