よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

「博多じょうもんさん福重市場を訪ねるウォーク」下見(大濠公園~城南区役所~祖原公園~じょうもんさん福重市場~姪浜駅)

2021-01-29 10:06:43 | ウォーキング

ふくおかウォーキング協会楽しいウォーク「博多じょうもんさん福重市場を訪ねるウォーク」これもコロナで緊急事態宣言が発出されたのでボツになったウォーキングです。

本来は、1/13に行われる予定でした。下見は、昨年12/3に行ってきました。※じょうもんとは、博多弁で「上等」という意味。

集合場所は、大濠公園能楽堂。

 

大濠から鳥飼を通り、城南区役所へ。この辺りは、旧国鉄筑肥線が通っていました。旧鳥飼駅のあった所です。

旧筑肥線は、1983年(昭和58年)福岡市地下鉄と相互乗り入れの為、姪浜~西新~鳥飼~小笹~筑前高宮~筑前簑島~博多の区間が廃止されました。

 

鳥飼から祖原公園に向かいます。下見の時は、入口だけでしたが、後日行ってきました。

 

祖原公園では、冬桜?が咲いていました。

  

祖(麁)原公園には、元寇遺跡があります。

鎌倉時代中期、1274年(文永11)10月、当時大陸を支配していたモンゴル帝国(元)とそれに属した高麗王国の連合国は、日本を侵攻するため、朝鮮半島を出航しました。(文永の役)

対馬、壱岐、平戸島、鷹島、能古島に襲来した元軍は、博多湾に現れ、今津、百道原に上陸します。これを迎え撃った日本軍は、赤坂、鳥飼の一帯で元軍と交戦し、元軍は麁原(現在の祖原)に

陣を構えました。その後、元軍は侵攻を断念して日本から撤退します。この文永の役後、鎌倉幕府は、再度の元の襲来に備えて石築地(元寇防塁)の築造をすすめ、1281年(弘安4)5月、

再び日本に襲来した元軍を退けました。(弘安の役)ここ麁原山(祖原山)(33m)は、元寇の記憶を今に伝える大切な役割を担っています。(説明文より)

  

 

今から約750年前、この地で壮大な戦が繰り広げられたのですね。今は、静かな住宅地になっています。ここ麁原山(祖原山)からの眺めも素晴らしいです。

 

この祖原を調べていると、祖原、鳥飼には、炭鉱があったと記されていました。

現在の城南区鳥飼一帯の地下に石炭層があることは明治20年代から知られていた。現在の早良区昭代一丁目にある「祖原(そはら)公園」の東南に位置していた「西新町炭鉱」は明治末期から

採掘が始められるが、出炭量は年産2~3万トンと小規模であった。1912(大正元)年、同地域に新たに有望な炭田が発見され、1914(大正3)年に「福岡鉱業株式会社」が設立となり、

既存の「西新町炭鉱」の鉱区を含む「福岡炭坑」が開かれた。現在の城南区鳥飼四丁目の「福岡市立鳥飼小学校」付近に新たな坑口(「東坑」と称された)が開かれ、翌年から本格的に採炭が

始められた。旧「西新町炭鉱」は「西坑」と称された。「福岡炭坑」では1917(大正6)年に「第二坑」(現・西区姪の浜付近)を本格的に稼働、翌年に「第三坑」(現・西区小戸付近)で

採炭を開始している。出炭量は「第一次世界大戦」に伴う好況で増加し、「第一坑(東坑・西坑)」においては1916(大正5)年~1918(大正7)年に年産約12万トンとピークを迎える。

その後、「第一坑(東坑・西坑)」の出炭量は減少し、1923(大正12)年~1925(大正14)年には年産約4万トンとなり、1927(昭和2)年の年産約1万4千トンを最後に出炭量の記録は

なくなっている(正確な閉坑時期は不明)。(「戦前期の城南地区の産業~福岡城南このまち」から抜粋)

祖原公園から再び歩き始めます。

 

旧筑肥線跡地を通り、小田部に出ます。ふと、右側を見ると「将軍神社」(宇賀神社)。名前が珍しいので調べてみると、祭神は、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)。

倉稲魂命は、稲に宿る精霊を意味するそうです。このあたりは、小田部大根が有名ですのでそういったのが起因するのかな?

 

小田部大橋を渡ると西区に入ります。

「博多じょうもんさん」は、JA福岡市が運営する産直店です。地産地消 や、食における「安全」と「安心」への関心が高まり、 食品における残留農薬や添加物の基準があらたに設定される 中、

JA福岡市では、環境に十分な配慮をもって管内で生産された青果物を 「博多じょうもんさん」ブランドとして認定し、地域の皆様にお届けしています。

※店内の写真は、省かせていただきます。

 

博多じょうもんさん市場から室見川の遊歩道に出ます。

 

ゴールの姪浜駅に到着。約2時間40分のウォーキングでした。

この日のGPSです。

 

 

 

 

 

 


カキ小屋までウォーキング(福岡市西区)

2021-01-25 09:50:52 | ウォーキング

1/22   朝からの雨も上がり、お昼を兼ねカキ小屋迄歩きました。

ここのカキ小屋は週末はお客さんが多く、密になりそうなので平日に行ってきました。

入るとそこでカキを購入します。(1Kg@1000)カキ飯もおいしそうだったからこれも買います。

  

 

実も大きくおいしかった。

お腹いっぱいになり、隣のビーチでブランコに乗って童心に返りました。

  

   

 

 

 

 


糸島海岸をウォーキング(福岡県糸島市~福岡市西区)

2021-01-22 07:02:12 | ウォーキング

1/19(火)天気がいいので糸島海岸までちょっと長めのウォーキング。

途中、カワセミ、タイの三輪タクシー「トゥクトゥク」に出会う。

桜井神社へ

絵馬には、アイドルグループ「嵐」に関するものが多かった。福岡市西区、糸島市には、嵐のメンバーと同じ名前の神社があります。(潤神社、二宮神社)

桜井神社から筑前二見ヶ浦へ。

今日は天気も良く、二見ヶ浦の左後方には、壱岐島が見えます。

二見ヶ浦から西区西浦の方に歩きます。

海沿いのブランコ。海に向かって思い切って漕いだら気持ちいいでしょうね。

どこでもドア。

カメラが置ける台もあります。

自販機のオブジェ。顔出しができます。

4時間のウォーキングを満喫しました。

 

 


「小郡城山公園とカエル寺(如意輪寺)を訪ねて」下見(福岡県小郡市)

2021-01-20 08:01:20 | ウォーキング

ふくおかウォーキング協会は、福岡県の緊急事態宣言の発出で1/14以降のウォーキングを中止しました。

下見はもう全部終わっていたのですが、このうち私の担当の分を紹介します。

「小郡城山公園とカエル寺(如意輪寺)を訪ねて」 本来は、1/27に行われる予定でした。下見に行ったのは、昨年の12/10です。

小郡市は、福岡県南部、筑紫平野の北、佐賀県との県境に位置し、南東を大刀洗町と久留米市、西は佐賀県、東は筑紫野市、筑前町に接しています。人口約6万人弱。

スタートは、西鉄津古駅。このあたりは、小郡市と筑紫野市の境界線です。

 

 

 

乙隈の所の薩摩街道に筑後国・筑紫国の国境石があります。案内文を見るがもう字が薄くなり見にくいです。ネットで調べてました。

昔の薩摩街道沿い、筑前の黒田藩、筑後の有馬藩との国境に建てられたものです。
国境を境に、北側に「従是北筑前國」の境石が、南側に「従是南筑後國」の境石が建っています。筑後國の境石のほうが大きいのは、先に筑後側が国境石を建てたのですが、後に筑前が筑後のものより大きい境石を建てたことを有馬藩では快く思わず、より大きなものに建て替えたからと言われています。元々の筑後側の境石は、埋蔵文化財調査センターに移築されています。

現在の住所では、筑後國の境石は「小郡市乙隈字境石」、筑前國の境石は「筑紫野市大字西小田字筑前島」という地名になり、二つの境石の間が今でも両市の境になっています。

 

四三嶋の信号から県道54号線に出ます。少し歩くと、私が現役時代にお世話になった会社があります。ここは、「干潟工業団地」です。干潟を埋め立てて工業団地にしたのかな?

「四三嶋」という地名も何か干潟に関するものかな?

   

城山公園は小郡市で唯一の山である標高120メートル花立山(城山)に作られた公園です。園内には桜やツツジ、菖蒲などが植えられており季節折々の花を咲かせて見物客を楽しませてくれます。

園内には池があり水鳥が羽を休めにやってきます。豊かな自然を感じながら散策をするには絶好のスポットなっています。

 

どういうわけか知りませんが、池には水が溜まっていません。

 

城山公園から県道を抜け乙隈の方に向かいます。ここも薩摩街道でしょうか、「薩摩街道干潟野越堤」というのがあります。

 

説明文によれば、「平成28年の道路工事中に、旧薩摩街道の全長約90メートルにわたって石垣・石敷が発見されました。道路西側法面に高さ1.5メートルにわたって6段に石が積まれ、

下面には幅1.5メートルにわたって5石分の石敷きがあり ます。確認調査の結果、粘土と砂を交互に積み重ねて造った街道に、石垣と石敷を施していることがわかりました。

使用された石材は大きさ30~60センチメートルの花崗岩で、石質・色味から花立山古墳群の石室に使用されていたものを再利用した可能性が考えられます。
 この野越堤は、参勤交代道である薩摩街道を北側を流れる草場川の洪水から守るための施設です。洪水で水がオーバーフローした際に、流水で街道が壊されることを防ぐため、

石垣・石敷によって野越しの機能を持たせました。これにより、洪水による崩壊を最小限に食い止め、破損個所も限定させて復旧を速やかに行うことができるようになります。

当時の人々の自然災害に対する考え方や工夫が分かる重要な発見で、水利土木史上貴重な遺跡です。

 

宝満橋の手前には、「彼岸土居古戦場」という看板が立っています。看板は消えていて読みにくいのでネットで調べました。

明治十年(1877)四月一日、明治新政府に不満の旧福岡藩士の一部百五十名は、轟警察署(鳥栖市)を襲ったが失敗し、秋月の党と合流するため秋月に向かう途中、

旧三原郡乙隈村(乙隈)彼岸土居(この付近)で昼食の為休んでいた。 その時、松崎通りの往還(現県道)を福岡から熊本に輸送する弾薬等を積んだ車、数十両が通過するのを見つけ、

これを奪おうとした。政府軍はこのことを予期して、近くまで来ていた久留米の一個中隊と巡査隊六十名は、たまたま小倉から冷水峠を越え、木葉(熊本)に向かっていた広島鎮台一個中隊に

連絡した。 広島鎮台兵は丸町村より西小田村、津古村に廻り、横隈村の井ノ浦溜池付近に陣をとった。久留米から来た鎮台兵と巡査隊は、干潟村側の往還より夜須川(草場川)の新井手の上に

注いでいる三国用水(冬期には水がない)に陣をしき、残党めがけて発砲した。
残党は蜘蛛の子を散らすように逃げ、主力は横隈村隼鷹神社の北方八竜付近に逃げて、井ノ浦溜池付近の広島鎮台兵との挟撃にあい、その場にたちまち三十余名が戦死したという。

ここの戦いでその外遁走中に討ち取られた者五名、捕縛十余名、自首七名、残りの者は秋月の方へ遁走したといわれている。
                                                                     昭和五十五年二月 小郡市教育委員会 小郡市郷土史研究会  

この前の年明治9年(1876)には、秋月の乱※が起っています。

  

さて、本日のメイン「カエル寺(如意輪寺)」に着きました。如意輪寺(カエル寺)は、729年(天平年間)行基により開寺しました。ご本尊は、如意輪観音像です。

 

 

如意輪寺は「カエル寺」という別名でも有名で、住職が中国から翡翠でできたかえるを持ち帰ってきたのをきっかけに、このお寺には現在8,000ものかえるが並んでいます。

かえるは腰が低く、常に前へと飛び跳ね、目的を達成するといわれており、古くより中国では仙人の使いとされていました。

7~9月は、風鈴祭りが行われます。

 

下見に行った日は、12月半ばでしたが、まだ紅葉が楽しめました。

 

  

 

 

 

  

 

このほかにもたくさんのカエルがいました。いつか、ゆっくり廻ってみたいですね。

12:20ゴールの西鉄三国が丘駅到着。

 

この日のGPSです。

 

 

 


ふくおかウォーキング協会楽しいウォーク「イヤーラウンド10km」(福岡市博多区)

2021-01-15 17:24:45 | ウォーキング

福岡県のコロナ感染者は正月以来増え続けているので、県も緊急事態宣言してもいいのではないかと思っていましたが、県知事の話では、まだベッド数に余裕があるので要請はしないと

言われていましたが、1/13政府の追加の緊急事態宣言には、7府県に福岡県も入っていました。期間は、先に宣言した東京など1都3県と同じ2/7迄。

この決定を受け、「ふくおかウォーキング協会」では、1/14以降2/7迄のウォーキングの中止が発表されました。

というわけで1/13の楽しいウォークは、今月最後のウォークになりました。

コースは、「博多阪急イヤーラウンド10kmコース」。このコースは、本来は住吉神社の方に廻るコースなんですが、今回は逆コース(東公園の方から)です。

集合場所は、博多駅。参加者47人。9:30スタート。

 

 

博多千年門

博多千年門は、博多を訪れた観光客を歴史的文化財が多く残る寺社町エリアへと導くウエルカムゲートです。博多の繁栄を願う地域住民、地元企業、行政が一体となって建設に取り組み、平成26年3月に完成しました。名称は公募で決定。博多のこれまでの千年の重みとこれからの千年の繁栄を願ったものとなっています。

歴史的文献によれば、博多から大宰府政庁へ延びる官道には、江戸時代に「辻堂口門(つじのどうぐちもん)」と呼ばれる博多の入り口となる門が存在していました。博多千年門は、かつての「辻堂口門」にならった木造の四脚門様式で、切妻本瓦葺(きりづまほんかわらぶき)、中世博多の寺社様式が採用されています。また、門扉の板材には太宰府天満宮より寄贈された樹齢千年の「千年樟(せんねんぐす)」を用い、欄間の彫刻には博多織の献上柄模様が刻まれています。(YOKAナビより)

 

 

東公園入口には、今でも銭湯があります。銭湯といえば、富士山の絵、この銭湯にもあるそうです。

 

東公園には、亀山上皇と日蓮上人の像があります。

亀山上皇は、13世紀後半の元(モンゴル)軍の来襲の際に、「我が身をもって国難に代わらん」と伊勢神宮などに敵国の降伏を祈願された亀山上皇の故事を記念し、

福岡県警務部長(現在の警察署長)だった湯地丈雄氏等の17年有余の尽力により、明治37年(1904年)元冠に緑あるこの地に建立されました。高さ約6メ一トルを誇るこの像の原型となった

木彫像は、当時、高村光雲門下で活躍していた、博多櫛田前町生まれの彫刻家山崎朝雲の代表作のひとつで、現在は筥崎宮の奉安殿に安置されています。(説明文より)

仏教・日蓮宗の開祖で「立正安国論」を唱えた日連上人の銅像は、日本で3番目に大きい銅像といわれている。原型作者は竹内久一(東京美術学校教授)。台座壁画の著者は矢田嘯雲(やだしょううん)。高さ約10.66m、重量75tあり。日蓮上人は「立正安国論」の中で外国からの侵略を予言し、「文永の役」「弘安の役」と2度の元軍の侵攻により適中させたといわれている。その古戦場である東公園に、戦没者の霊を慰め世界平和を祈るために銅像が建立された。(クロスロード福岡より)

 

東公園から馬出(まいだし)に向かいます。昭和54年迄は、ここを西鉄市内電車が走っていました。

私が子供の頃、馬出に叔母が住んでいましたので夏休みの時には、この電車を利用して遊びに行っていました。

 

崇福寺は、臨済宗大徳寺派で、山号は横岳山。仁治元年(1240)、湛慧が大宰府横岳に創建した。翌年、宋から帰国した聖一国師(円爾弁円)が招かれ、開堂説法を行なった。

文永9年(1272)に大応国師(南浦紹明)が入寺し開山。その後多くの高僧を輩出し、慶長5年(1600)、初代福岡藩主・黒田長政により現在地に移転され、黒田家の菩提寺として庇護を受けた。

墓所には嶋井宗室などの墓もある。
山門(さんもん)は、旧福岡城の表御門を移築したもので、黒田家との関わりの深さがうかがえる山門。切妻造、本瓦葺の二階建てで、左側に潜戸があるため、

扉は中央よりやや右側に設けられている。これも福岡城本丸の表門として使用されていた面影だ。県指定文化財の建造物。(yokaナビより)

崇福寺の境内にあるお饅頭屋さんは、美味しいお饅頭ということで評判です。名物は「官兵衛まんじゅう」です。

  

濡衣塚は、濡れ衣という言葉の発祥地です。その昔、聖武天皇の時代(8世紀頃)に、筑前の国司として、佐野近世が妻と一人娘・春姫を連れて赴任したが、在任中に妻が亡くなったため、

土地の娘を後妻として迎え一女を授かったそうな。ところが、連れ子の春姫が疎ましく思えた後妻が、漁師に「春姫様が釣り衣を盗むので困っている」と近世に訴えさせ、その証拠にと、

濡れた釣り衣を着て眠っている春姫の姿を見せられた近世は逆上してその場で春姫を切って捨てたとか。一年後、近世の夢枕に無実を訴える春姫が現れ、

自分の行動を悔いた近世は出家して石堂川の畔に濡衣塚を造ったとされています。 

 

コースは、博多の寺社に入ります。

聖福寺(しょうふくじ)は建久6年(1195年)に鎌倉幕府初代将軍源頼朝みなもとよりとも公よりこの地を賜り、栄西禅師ようさいぜんじ開山かいさんとして創建された日本最初の禅寺ぜんてらです。山号を安国山あんこくざん、寺号を聖福至仁禅寺しょうふくしぜんじといいます。元久元年(1204年)後鳥羽天皇ごとばてんのう(後上皇じょうこう)より、日本で最初の禅寺である「扶桑最初禅窟ふそうさいしょぜんくつ」の勅額を賜りました。又、栄西禅師は中国(南宋)よりお茶の種子を請来し、茶樹の栽培、喫茶の方法を伝え、その普及に大いに貢献し、後に茶祖と称されました。栄西禅師が京、栂尾高山寺の明恵上人に茶の種を分けてあげた話は有名な事です。(聖福寺HPより)「

 

 

櫛田神社 博多の総鎮守として、「お櫛田さん」の愛称で広く市民から親しまれている神社。
祭神は大幡主命(櫛田宮)・天照皇大神(大神宮)・素盞嗚尊(祇園宮)。天平宝字元年(757)、孝謙天皇の御代。この櫛田神社は伊勢松坂の櫛田神社を勧進したものだと考えられ、

天正15年(1587年)の豊臣秀吉が博多復興にあたり、現在の社殿の建立寄進がなされた。当社に奉納される博多祇園山笠は、博多の夏の風物詩として全国的にも有名。
境内には「櫛田の銀杏」が葉を繁らせ、その根元には2点の蒙古碇石がある。(yokaナビより)

 

本来のコースは、櫛田神社から川端商店街の方に行くのですが、47人もの団体ですので歩道のある大きな道を歩きます。それと時間も大分経過しましたので少しショートカットします。

コースは、福岡の歓楽街「中州」へ。

 

中州は、昼間ということで人通りも少ないですが、明日から緊急事態宣言の為、益々寂しくなってくるのでしょうか?

歩道では、お正月のイルミネーションの取り外しが行われていました。

 

これから春吉橋を渡るのですが、春吉橋工事中の為迂回します。

清流公園にある「高灯籠」。昔は、このあたりを整備し遊園地「向島」を開きました。この灯籠は、明治33年(1900)に建設されて住吉神社に寄進されたものです。

灯籠には、建設に協力した福博の商家や魚市場の人々の名前が刻まれています。この中には現在でも実在する会社名もあります。

旧園地の市街化により昭和29年(1954)清流公園内の現在地に移されました。

   

時刻も12時近くなりました。一応博多駅がゴールですが、住吉神社で仮ゴールにします。

 

住吉神社は、全国2千数百社ある住吉神社の始祖で、大阪の住吉大社、下関の住吉神社とともに「三大住吉」の一つです。

12:03 住吉神社へゴール。

 

今日のGPSです。

緊急事態宣言は2/7までですが、私の予想ですが、どうも2月末ぐらいまで延長になりそうです。

明日からご近所ウォークをします。

 

 


大宰府新春三社詣り(福岡県太宰府市)

2021-01-08 18:29:55 | ウォーキング

1/6(水)ふくおかウォーキング協会楽しいウォークで今年の初歩きをしました。コースは「大宰府新春三社詣り」です。

三社詣りというと、全国的な行事と思っていましたら、これが違うんですね。この三社詣りについて調べました。

三社詣(三社参り)とは、正月の初詣として、三つの神社を詣でることをいいます。
福岡県を中心として九州地方・中国地方の一部で強く根付いた風習です。
地域によって「一日のうちに三社詣でなければならない」「三が日の間に詣でなければならない」といった決まりごとが聞かれることがありますが、これと言ったルールはありません。
また、「三社」は具体的にどの三つの神社を詣でるべきか?どういう順番で詣でるべきか?という事を聞かれることがありますが、これは定番がはっきりと定まっている地域もあれば、

まったく定まっておらず好きな三社を詣でる、という地域もあります。

三社詣の由来

三社詣(三社参り)の由来については諸説がいくつかあります。

諸説1

元々朝廷が伊勢神宮、石清水八幡宮、賀茂神社の三社に奉幣し、これが庶民にも三社詣でる(三社に参拝する)風習として広まった、という説。

諸説2

もともとは先祖代々の守護神である氏神様、出生地の守護神でありその人の一生の守り神である産土神様、現在住んでいる地域の守護神である鎮守神様の三つの神様に挨拶をする意味で三社詣(三社参り)でていた、という説。等がありますが、はっきりした由来はわかっていません。

新年のスタートと言えば、初詣。 初詣をすることで様々なご利益があると言われてます。 三つの神社を詣でることで、よりたくさんのご利益をいただけるかもしれません。

ふくおかウォーキング協会の初歩きの時は、この三社詣りです。歩いた後、新年会を行うのが通常でしたが、昨年からのコロナの影響で今年は新年会は取りやめています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

集合場所は、JR水城駅。参加者は46人。今年の初歩きということで皆で記念写真を撮りました。

 

9:30スタート。水城跡  (※クリックすると説明文が出ます)   ふくおかウォーキング協会のチビッ子会員の蒼汰君、葵唯ちゃんも参加。

  

最初の休憩地は、大宰府歴史スポーツ公園。

  

筑前国分寺跡 ここには、山上憶良の句碑が建っています。 大野山 霧立ち渡る わが嘆く 息嘯(おきそ)の風に 霧立ちわたる

  

文化ふれあい館で2回目の休憩。

  

最初の初詣は、「坂本八幡宮」。

応神天皇をご祭神とし、坂本地区の土地神、産土神として崇拝されています。平成31年4月新しい年号「令和」が発表されました。その令和とゆかりのあるのが坂本八幡宮です。
大宰帥(だざいのそち)として大宰府に赴任した大伴旅人は、730年自身の邸宅にて「梅花の宴」を開きました。元号「令和」は、その時詠まれた梅花の歌三十二首の序文

初春の令月にして 気淑く風和ぎ 梅は鏡前の粉を披き 蘭は珮後の香を薫らす」から引用されました。大伴旅人邸は諸説ありますが、坂本八幡宮付近であったといわれています。

近くを通る西鉄電車の駅の名前「都府楼前」がサブ名「令和の里駅」になりました。

 

  

大宰府展示館には、「梅花の宴」のミニチェアが展示されています。

  

 

観世音寺を歩いているとき、雪が降ってきました。今年最初の雪ですが、寒くなってきました。

  

二番目のお宮は、観世音寺裏の「日吉神社」です。この神社は知ってはいましたが、初めてお詣りします。

日吉神社は、観世音寺の鎮守で、地元では「ひよし神社」と呼ばれる。比叡山の日吉(ひえ)大社を分霊したもので平安時代末には建てられていたようだ。
豊臣秀吉が九州統一の後ここに陣を張ったが、観世音寺別当は輿に乗ったまま秀吉の面前に出て怒りを買い、寺領を没収されたと伝えられる。(太宰府史跡案内より)

  

太宰府天満宮の駐車場は、例年正月は、満車状態ですが、「空」があります。貸し切りバスが1台も停まっていませんでした。

 

最後は、「太宰府天満宮」です。例年、受験生で多いのですが、参拝客はまばらです。菅原道真は、845年丑年生まれだそうです。

道真公は、承和12年(845)に京都でお生まれになりました。幼少期より学問の才能を発揮され、努力を重ねられることで、一流の学者・政治家・文人としてご活躍なさいました。

しかし、無実ながら政略により京都から大宰府に流され、延喜3年(903)2月25日、道真公はお住まいであった大宰府政庁の南館(現在の榎社)において、ご生涯を終えられました。

門弟であった味酒安行うまさけ やすゆきが御亡骸を牛車に乗せて進んだところ、牛が伏して動かなくなり、これは道真公の御心によるものであろうと、その地に埋葬されることとなりました。

延喜5年(905)、御墓所の上に祀廟しびょうが創建され、延喜19年(919)には勅命により立派なご社殿が建立されました。 その後、道真公の無実が証明され、「天満大自在天神てんまだいじざいてんじん」という神様の御位を贈られ、

「天神さま」と崇められるようになりました。長い年月、道真公へのご崇敬は絶え間なく続き、御墓所でもある太宰府天満宮は全国約12,000社ある天神さまをお祀りする神社の総本宮と

称えられ、今日でも多くの参拝者が訪れています。 (太宰府天満宮HPより)

  

参道も人がまばらです。いつも行列ができている「梅ヶ枝餅屋」さんも今日は並ばず買えました。

この日のGPSです。

 

 


九州オルレ「久留米・高良山コース」(福岡県久留米市)

2021-01-07 12:57:57 | 九州オルレ

1月4日、2021年の初歩きで九州オルレ「久留米・高良山コース」を歩きました。

福岡の自宅を8時に出発し、スタート地のJR久留米大学前に着いたのが9時。世間では今日から仕事始めで車が渋滞しているのでは?と思いましたが、そんなに渋滞してなくスムーズに走れました。

久留米大学駅前のパーキングに車を置いて9:18オルレスタート。

 

    

南筑高校(歌手藤井フミヤさんの母校)を通り、高良大社の大鳥居へ。(国指定有形文化財。久留米二代藩主有馬忠頼公寄進)

 

大鳥居のある御井地区は、昔の防津(薩摩)街道府中宿でした。近くには、古民家などが立ち並んでいました。本陣跡は、現在の御井小学校です。

  

鳥居を潜り先へ進みます。

  

高良大社の登り口です。これから長い階段を登っていきます。

耳納連山の最西端、標高312メートルの高良山に鎮座するのが、旧国幣大社で筑後国一の宮である高良大社です。祭神は高良玉垂命。
 この高良玉垂宮の創建は、履中天皇元年(400)と伝えられ、寛平九年(897)には正一位を授けられ、また延喜式内の名神大社として高い地位にありました。

中世にはその勢力は国司と拮抗するまでになり、南北朝のころは征西将軍懐良親王の祈願をうけ、山下に征西府がおかれる由緒ある社です。 現在の本殿、幣殿、拝殿は、

久留米藩主有馬頼利(三代)の建立で、いずれも重要文化財です。 また、社宝に「紙本墨書平家物語」(重要文化財)、「絹本著色高良大社縁起」(県文化財)などがあり、

山中の孟宗金明竹(国の天然記念物)や高良山神眥石(国指定文化財。史跡)なども貴重なものとして保存されています。(久留米観光ガイドより抜粋)

 

中学の朝練でしょうか、野球部の生徒が階段を走って登っています。私は気持ちは若いのですが、体力的には中学生にはかないません。なのでゆっくり登っていきます。

階段の途中に「夫婦榊・愛のさざんか」という看板があり、そちらに向かいます。夫婦榊迄は、ハート形の置石があります。

  

夫婦榊は、二本の榊の木が枝でつながり、手を取り合う夫婦のように見えるから夫婦榊というそうです。

  

高良大社本坊跡

  

孟宗金明竹林(もうそうきんめいちくりん)(国天然記念物)

案内板によると、竹はイネ科に属し、金明竹はその変種です。高良山の孟宗金明竹は、昭和9年(1934)頃突然発生したもので現在では約300本あります。

一般に竹類の表皮は外層・中層・内層の3つに分かれています。孟宗金明竹は、外層の緑色の遺伝子が黄色に突然変異したもので黄色の中に緑色の小さな幅の縦縞が節と節の間に左右交互にあり、

これは外層組織の芽溝部で内部の緑色が淡い黄色の組織を透かして見えるためです。

真竹の金明竹は、全国各地にありますが、孟宗金明竹は、福岡県遠賀郡岡垣町、宮崎県延岡市、高知県高岡郡日高村のほか発生例も少なく貴重なものです。

 

 

高良山参道入口に着きましたが、オルレではこれから「奥宮」の方に向かいます。

  

恋実る展望台   ハート形の木立の向こうには遠く雲仙普賢岳が望め、写真映えするコース2か所目の「愛のパワースポット」です。

今日は少し薄い雲があり、普賢岳は薄く見えていました。

 

高良山奥宮(奥の院)霊水が湧く聖地で、高良大社の奥宮です。諸願成就の神として民間の信仰が極めて驚く、現在も「寅」の日には、多数の参拝があります。(オルレガイドブックより)

 

 

奥宮の横を通り菖蒲池に向かいます。

菖蒲池というから池と思いましたが、水もなくただ菖蒲があるくらいでした。

 

このあと久留米つつじ公園に向かいます。このあたりは、久留米つつじマーチのコースに入っており見慣れた光景です。つつじのシーズンにはたくさんのつつじが迎えてくれるのですが、

ツツジはまだ蕾も小さかった。昨年、つつじマーチはコロナの影響で中止になりましたが、今年はどうなるかな?コロナが収まって開催してほしいです。

 

久留米森林つつじ公園   久留米つつじマーチでは、チェックポイントです。黒棒が振舞われます。ここには、久留米つつじ約100種61,000株が植えられています。

     

ここから見る筑後平野です。

  

つつじマーチでは、公園から下りて行って山川町に向かうのですが、オルレは公園の裏手を通ります。

毘沙門嶽城跡は、南北朝時代の正平14年(1359)筑後川合戦の時、懐良親王の本城だったと伝えられます。

  

飛雲台という見晴らしのいい所に来ました。ここには夏目漱石の句碑があります。(※クリックすると説明文が出ます)  菜の花の 遥かに黄なり 筑後川

漱石は、明治30年(1837)3月久留米に友人を訪ね、その足で高良山に詣り、耳納連山を越えて山を下り草野町の発心の桜を見学しています。

  

 

下りてくると奥宮の鳥居があります。ここからも奥宮に行けるのですね。

杉城址は、別名住厭(すみあき)城ともいい、南北朝時代に菊池氏によって築城されました。ここからの眺めも素晴らしいです。

  

急こう配のアップダウンを過ぎて高良大社にやってきました。今日は平日ですがまだお正月休みの所があり、少し混雑しています。

 

お詣りして先へ進みます。カンセの通り進みますが、どうも下りる所を間違ったみたいです。大楠の所から下りなくてはいけなかったのですが、大きな道の方にでてしまいました。

そこからヘアピンカーブを登り、高良大社の参道の鳥居に出てきました。

 

望郷亭で名物「ところてん」をいただこうかと思いましたが、店の中が混んでいましたのでここはパス。

 

オルレは、望郷亭の横から下りていきます。

  

妙見神社   祭神は、妙見菩薩(高皇産霊尊 たかむすびのみこと) 

 

歩いていると、コース上に崩落の為通行止めの表示があります。ここは、迂回していきます。

王子池は、95本の桜があり桜の名所です。

   

   

山川の町に入ってきました。ここにも漱石の句碑がありました。明治32年(1899)1月7日 漱石は豊前耶馬渓への旅からの帰り道、吉井を出てここ山川追分を通りかかった所、

車屋さんから「親方」と呼びかけまれました。 「親方と 呼びかけられし 毛布哉」  ※クリックすると説明文が出てきます。

  

 

熊野神社を通り、山川町のため池を通ります。ここから御井駅までは、久留米つつじマーチのコースです。

13:23 無事ゴールしました。本来は、8,6kmのコースでしたが、途中でコースを間違え9kmになってしまいました。

  

このコース、春先に歩くと桜やツツジの花が楽しめそうです。次回は春に歩きたいと思ってます。この日のGPSです。

 

 

 

 

 


2021年新年あけましておめでとうございます。

2021-01-01 13:41:58 | ウォーキング

2021年新年明けましておめでとうございます。

昨年はコロナコロナで明け暮れた一年でした。まだまだ感染が拡大していますが、早く収束して、また元の生活に戻りたいですね。

毎年、元旦には、近くの日の出スポットに行って初日の出を見に行くのですが、今年は時々小雪が舞い散り初日の出は、見ることができませんでした。

下記写真は、何年か前に撮った近くの日の出スポットです。

  

仕事をリタイヤして始めた忘備録(日記)です。3年分記録できますが、今年で4冊目になりました。

今年もどうぞ宜しくお願いします。