よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

佐屋街道を歩く(その2)(愛知県津島市~名古屋市熱田区)

2017-01-09 17:58:55 | 佐屋街道

(その1)から続きです。

津島神社を御参りしたのち、再び佐屋街道に戻りました。浄土宗清光院の所に「津島の一里塚」がありました。

  

このあたりに「埋田(うめだ)の追分道標」があるはずなんですが、一寸探すが見つからない。幸楽苑という中華そば屋さんの裏手を行くとありました!

道標には、「右 つしまみち 左 さやみち」と書かれています。その先には、常夜燈がありまた先には土台だけのものがあります。

ここには、津島神社の一の鳥居がありましたが、昭和34年(1959)の伊勢湾台風で倒れたそうです。

この一帯、江戸時代の終わり頃には、茶店などもあり通る人々で賑わい、大正時代までは松並木が続いていました。

今は、耕地整理や新しい町づくりで道筋も変わっています。

   

先へ進みます。日光川架かる「日光橋」に差し掛かりました。尾張名所図会では、「頗(すこぶ)る大河にして佐屋街道には大橋を架す。下流に百町、鹿伏兎、観音寺、大海用等の渡船あり」と書かれています。

   

津島市のマンホールです。津島神社の天王祭まきわら舟と市の花「藤」がデザインされています。津島市は藤の花の名所としても知られています。

越津町の信号の所で道を間違えてしまいました。ここは道が二手に分かれており間違えて県道68号の方に行ってしまいました。

神守(かもり)町下町の信号で気づき佐屋街道に戻りました。

万場宿と佐屋宿との間があまりに長かった為、正保4年(1647)に神守の宿が定められました。憶感神社を中心に宿屋・商家が建ち並び近くの村々の手助けによって宿駅の役割を果たしていました。

神守宿は、本陣1、旅籠12でした。神守という地名から想像すると神社の仕事をされてた人々の集まりしょうか?ここで言う神社は、津島神社かな?

 

 

   

神守町信号の手前に「神守の一里塚」があります。また、この一帯は、海抜-1mの地帯で海よりも低い所です。

「莪原(ばいはら)」というバス停がありました。莪という字が読みにくいです。難解地名にあげられますね。調べてみると莪は、きつねあざみ、つのよもぎなど湿地に自生し、若葉を食用とする。

と書いてます。薬草でしょうか。

  

 街道はあま市七宝町に入りました。下田橋を通り、あま市役所七宝支所の近くに「七宝焼原産地」の道標があります。

   

あま市の七宝焼は、天保年間(1830~1844年)、尾張国の梶常吉が、オランダ船により輸入された七宝の皿を手がかりにその製法を発見し、改良を加えたのが始まりとされています。

ここから約600m先の遠島で現在でも約10軒の業者が七宝焼に携わっているそうです。

大治(おおはる)町に入りました。ここは、海部郡大治町ですが、マンホールは、名古屋市のマンホール採用されています。

  

富田町に入りました。ここから名古屋市中川区になります。

  

 

 

八剣社を通ると「万場宿」です。万場宿は、万場の渡しをはさみ、岩塚宿と向き合って寛永11年(1634)御伝馬所に指定され宿場が置かれました。

この両宿場は近距離にあるため、制度上は、一宿と見なされ、月の上半分を万場宿が、下半分を岩塚宿が交代で人馬継立の役務を行った。

明治5年(1872)御伝馬所は廃止された。天保年間の規模は、家屋160軒、人口672人、問屋場1、町並6町10間、本陣1、旅籠10。

   

  

庄内川に架かる万場大橋を通り、「岩塚宿」に入ります。

 

岩塚宿は、天保年間の規模は、家屋212、人口1038人、問屋場1、町並4丁9間、本陣1、旅籠7でした。

ですが、宿場の跡は残ってなく、近所の人に聞くと、本陣は、八幡宮横にあったそうです。

  

神社の横に行くと「岩塚綱次郎先生之碑」が建っていました。説明文は消えており、ネットで調べてもわかりません。この方が岩塚宿に関わっていたのではないでしょうか?

  

時計も4時半を過ぎました。あたりはだんだん暗くなってきました。ちょっと急ぎます。

長良橋を渡ると「二女子」とか「五女子(ごにょうし)」という地名があります。かつては一女子から七女子まで村があったそうです。由来は、昔ある尾張の豪族に七人の娘がおり、

その娘を七つの村にお嫁に出しそこを領地としたことから村の名が変えられたとのことです。

新幹線のガードを通り、17:45金山総合駅に到着。時間も遅いし今日はここまでとします。

金山駅からJRで今夜の宿泊ホテルがある名古屋駅に向かいました。

  

名古屋といえば名古屋メシ・・・・・今晩は、みそカツをいただきました。

   

1/3 GPS

 

 

 

 

 

 

 

 

 


佐屋街道を歩く(その1)(愛知県愛西市~愛知県津島市)

2017-01-08 15:06:34 | 佐屋街道

2017年新年あけましておめでとうございます。

1/3~1/7まで今年の初歩きとして東海道脇街道「佐屋街道」と東海道「宮宿」~「吉田宿」を歩きました。

佐屋街道

東海道の宮(熱田)宿と桑名宿との間は、伊勢湾を海路で行く七里の渡しを利用しなければならなかったが、天候次第で船が出ない日もあり、船が出ても安全とは言えない場合もありました。

そのため佐屋街道は、船酔いをする人や、犯罪に巻き込まれやすい女性や子供の旅人からも七里の渡しは敬遠され、七里の渡しの迂回路として盛んに利用されました。

佐屋街道は、三重県桑名から三里の渡しで佐屋湊に着きそれから陸路、神守、万場、岩塚を通り宮宿に向かいました。

博多を6:05の始発の新幹線で名古屋に行き、名古屋から名鉄尾西線に乗り換え佐屋駅へ。佐屋駅には10:20到着。

準備を整え、10:30から歩き出します。 

   

   

新田交差点を左折し、しばらく歩くと「佐屋代官所跡」「佐屋舟場跡」の碑があります。

案内板には、「佐屋はその昔、慶長20年4月家康が大坂夏の陣にここから船出し、大勝した徳川方吉祥の地である。藩祖義直もこの事を嘉し寛永11年佐屋街道佐屋宿佐屋湊佐屋御殿を設け、

更に承応2年船番所を置くに及んで、佐屋は天下に知られるに至った。そのため元禄8年奉行所が、ついで天明元年所付代官制実施の時にも最初の代官所となり、

海東海西郡中の百九ヶ村七万四千石余の主邑として民政と治安の大任を司どりつつ、明治廃駅迄、寛永文久と、二度の将軍の上洛と明治帝の東幸還幸再幸の三度の大任をも果たした。

その後駅路の変革と母なる佐屋川を失った佐屋には盛時を語る物もそれを知る人もない。」

  

佐屋川が埋め立てられ、今、現在この地に立つと昔は湊町だったとはとても思えません。

往時、佐屋には、本陣2、脇本陣1、旅籠31もあり、大きな宿場町でした。町を歩くと、所々に旧家が建ち並んでいます。

   

内佐屋信号の手前には、「佐屋海道址」の碑が建っています。いままで佐屋街道と思っていましたが、石碑には、「佐屋海道」と書いてます。

西愛宕の信号の所が、愛西市と津島市の境界線。佐屋街道は、ここから津島市に入ります。

   

西愛宕信号から路地に入ると右角に「愛宕神社」があります。境内に入ってみますが、参拝客が少ない。このあたりの人は、初詣は「津島神社」に行くのかな・・・・・・

そう思い、私達も津島神社に行ってみることにしました。津島市民病院の先から右に約1,5kmが津島神社です。

津島神社参宮道の所にお饅頭やさんがあり、ここの「やき大福」が美味しそうでしたので買ってみました。ちょっと小腹がすいていましたので美味しくいただきました。

  

津島神社参宮道を通ると、「津島湊」の碑があります。それによると、

津島湊は、天王川の上流は、萩原川・渕高川と呼ばれ、約五百年前、この辺りは三百メートルほどの広さの川幅であった。津島神社参詣の人々のために天王橋(幅三間・長さ七二間)が架けられ、

その両岸には数千軒の町屋が並び、数千艘の出船入船で活気を呈した。津島湊はこの一帯で広さ五~六ヘクタールに及ぶ当地方随一の湊町・門前町として頗る繁昌した。

商都津島を支配した勝幡城の織田家は、信定・信秀と次第に勢力を広め、信長は天下布武をとなえ天下統一の基礎を築いた。信長は天王橋から津島天王祭を見物した。また、江戸時代になると、

代々の殿様も見物に訪れて、たいへんなにぎわいであったという。天王川は、天明五年(1785)に水害防止のためここでしめ切られ埋立地に町ができた

  

津島神社正門の横には、「堀田家住宅」があります。

堀田家は津島神社の神官に連なる家系で、初代之理(ゆきまさ)が福島正則に仕えた後、正則が広島へ国替えとなった際に帰郷し、祢宜町に家を構えたという。

近世に入り酒造業、金融業や新田開発を営んで財をなし、尾張藩の寺社奉行所御用達(ごようたし)を勤め名字帯刀を許されていた。屋敷は、居室・台所・座敷を設ける主屋と、茶室、土蔵群からなる。

最も古い主屋居室部は前身建物の材を用いた明和2年(1765)の建造、座敷部は明和7年(1770)の建造であることが棟札に記される。台所部は19世紀の増築という。

都市計画道路拡幅のために方位を45度北に振って曳屋され、現在はほぼ北を正面としている。

  

津島神社

御祭神は、天照大神の弟、「建速須佐之男命」

社伝によると、 欽明天皇元年(540)、西国対馬より大神が御鎮座されたのが始まりとされ、古くより「津島牛頭天王社(つしまごずてんのうしゃ)」と言われ、全国天王総本社として凡そ三千社の御分社があり、

現在でも「津島の天王様」として尊称崇拝されています。

  

まだお正月も3日ということで境内には、参拝する方で一杯です。本殿で御参りしようと思ったのですが、長い列ができており、諦めました。

本殿は家康の四男清州城主松平忠吉の妻女が寄進しました。また楼門は、天正19年(1591)秀吉が寄進しています。どちらも国の文化財に指定されています。

 

    

尚、津島神社の「天王祭り」は、昨年のユネスコ無形文化遺産「山・鉾・屋台」で他の候補と一緒に登録されました。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


東海道脇街道「佐屋街道」へ その1(桑名市~愛知県弥富市)

2016-07-14 19:12:23 | 佐屋街道

東海道を桑名宿まで歩きましたが、江戸時代、七里の渡しから船を使って名古屋の宮宿まで行っていました。

然し、天候次第で船が出ない日もあり、船が出ても安全とは言えない場合もありました。船酔いをする人や、犯罪に巻き込まれやすい女性や子供の旅人からも七里の渡しは敬遠され、

七里の渡しの迂回路として盛んに利用されたのが、この佐屋街道です。

佐屋街道(佐屋路)は、尾張初代藩主である徳川義直が開いた道だといわれています。宮宿から佐屋宿まで陸路で6里(約24km)を行き、佐屋宿から桑名宿までは川船による三里の渡しで結ばれ、

宮から桑名まで9里(36km)あり、七里の渡しよりも2里(8km)ほど長くなりました。宿場は東海道のものに比べれば小規模であり、渡し場のあった佐屋以外は本陣も一軒ずつしかありませんでした。

折角東海道を歩いているのですので、私達もこの佐屋街道を歩いて宮宿へ行きたいと思います。

 

6/25 七里の渡しを12:30に出発。

揖斐川の堤防の所に「住吉神社」があります。

桑名は古くから伊勢湾、木曽三川を利用した広域的な舟運の拠点港として「十楽の津」と呼ばれ、木材や米等の集散する自由活発な商業都市として発達してきました。

住吉浦は、廻船の舟溜りで、全国から多数の廻船業者が集まっていました。この人たちによって航海の安全を祈り、住吉神社(現大阪市)から勧請してこの住吉神社が建立されました。

神社前の石灯篭2基は、江戸時代の材木商達が寄進したものです。なお、近年は太一丸堤の上にあった神明社が合祀されています。

ここから、伊勢大橋・多度山方面の眺めは水郷桑名ならではの趣があり、水郷巡りの発着点として利用されています。(桑名市観光HPより)

また、初日の出は、鳥居の下からおがめるということで人気スポットです。

 

  

木曽三川公園に来ました。このあたりは、揖斐川、長良川、木曽川が合流し伊勢湾に流れる所です。

公園事務所では、「桑名の折鶴」が展示されていました。一枚の紙でたくさんの折鶴を折ることは、前回のNHK朝ドラ「あさが来た」で風吹じゅんさんが折っていましたね。

  

公園事務所から紹介され公園の向かい側にある「六華苑」に行きました。

  

六華苑」(旧諸戸清六邸)は、山林王と呼ばれた桑名の実業家、二代目諸戸清六の邸宅として大正2年(1913)に竣工しました。特にその洋館部分は、鹿鳴館などを設計し、

「日本近代建築の父」と呼ばれた、ジョサイア・コンドルが手がけ、地方に唯一残る作品として注目されています。揖斐・長良川を望む約1800㎡余の広大な敷地に、洋館と和館、蔵などの

建造物群と「池泉回遊式」日本庭園で構成されたこの邸宅は、創建時の姿をほぼそのままにとどめている貴重な遺構です。桑名市は、平成3年に土地を取得し、建物は諸戸家からの

寄贈を受け、整備工事の後、平成5年に「六華苑」という名称で一般公開しました。その構造物のうち、洋館及び和館は、平成9年に国の重要文化財に指定され、他に6棟が、

三重県有形文化財、離れ屋は桑名市の有形文化財に指定され、大切に保存されています。また、庭園は一部を除き平成13年に国の名勝に指定されました。(六華苑パンフより)

諸戸家は戦国時代、一向宗門徒として織田信長に抗した丹羽定直に発するといわれています。定直は織田軍との戦闘の際、城中の戸坂を集め、これによって矢や石を防ぎつつ

縦横無尽の働きをしたため、証意上人より「諸戸」の姓と違鷹の羽紋とを賜わり、これが諸戸家の始まりとされています。一向宗徒が信長によって駆逐された後は郷里の

西外面村(現三重県長島町)で、後には自ら開墾した加路戸新田(現三重県木曽岬町)で代々庄屋を勤め、幕末に至りました。

しかし、その諸戸家も江戸時代末期の清九郎の代に塩の売買が不調に終わり、2000両もの負債を抱えてしまいます。そのような時期、清九郎の長子として

弘化3年(1846年)正月に生まれた清六は、一家で移住した桑名で、父の死後文久3年(1863年)18歳の頃から資金80両をもって米穀業を営み、わずか3年で負債を完済しました。

明治維新の後も新政府高官の知遇を得、また西南の役や米相場で利潤を上げるなど30万円を蓄財、明治19年には海防費2万円を政府に献上し、翌年には特旨をもって

従6位に叙せられました。また一方で田畑、山林を購入、経営し、日本一の大地主となりました。

 その当時まで桑名は、東海道の宿場町として、また海運を利用して米を伊勢神宮や大阪、関東へ輸送するための港湾、商業都市として栄えていました。清六はこの地の利を生かし、

時流にもうまく乗ったのです。

清六は晩年の明治37年、桑名の飲料水不良を解消するため15万円を投じ、独力で小野山に貯水池(煉瓦造、市指定文化財)を設け、上水道を完成させ、これを無料で町民に開放しました。

清六の死後、水道設備は遺志により桑名町に寄附されました。(桑名市HPより)

桑名の民謡で「桑名の殿様」というのがありますが、(ここでいう殿様とは、大旦那衆のこと)このモデルになった方でしょうか?????

 

 

 

六華苑を後に再び街道歩きへ出発。

 

伊勢大橋の袂には、木曽川下流三川事務所(揖斐川、長良川、木曽川)があります。

伊勢大橋は、昭和9年(1934)に完成、全長1105,8m。橋の途中で揖斐川と長良川に分かれます。

  

  

伊勢大橋を渡ると長島町です。今は、桑名市に合併していますが、合併前は、桑名郡長島町でした。

右側に「富士山」が見えます。何だろうと思って調べると、なばなの里「アイランド富士」です。

  

長島町に入りました。長島町は、木曽三川の河口部に位置し、長島温泉やなばなの里で有名です。

又木茶屋」は、郷土の画家佐藤昌胤画伯の生前の屋敷を長島町が譲り受け、情報交流施設として完成した又木茶屋。敷地内には画伯の愛した多種の椿や、

旧長島城の庭園の石で組んだ枯れ山水の庭園が整備され、立ち寄った人の目を楽しませています。施設内には画伯のギャラリー、道路案内、まちの特産やまちの人が

作成した手工芸品を紹介・販売しているほか、交流のひろばや庭園で抹茶をいただくことができ、憩いの場としても利用されています

   

歩いていると「伊勢湾台風の時の水位」がありました。概算で7~8mぐらいあるでしょうか?

伊勢湾台風は私が小学生低学年の時でしたが、この台風は、覚えています。

   

「尾張大橋」が見えてきました。この橋の中間部から愛知県になります。

尾張大橋は、木曽川に架かり、全長878,8m。昭和8年に完成しました。

  

橋を渡ると愛知県弥富市です。

  

今日は、名古屋発17時ぐらいの新幹線で帰る予定ですので、今回はここまでとします。