よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

九州オルレ奥豊後コース(大分県豊後大野市~大分県竹田市)

2020-09-29 12:27:46 | 九州オルレ

9/27(日)は、九州オルレ奥豊後コースに挑戦しました。

自宅から奥豊後コースのスタート地JR朝地駅まで車で約3時間。9時現地到着を目標に自宅を午前6時に出発しました。

大分道湯布院ICを下り、ここから約50km一般道を走ります。朝早かったせいか朝地駅には、8時50分に到着。

観光案内所でスタンプをもらい、9:10奥豊後コーススタート。

 

  

 

踏切を渡ると坂道が待っています。

  

2kmぐらい歩くと人の塊でしょうか?私たちを出迎えてくれています。よく見ると「案山子」でした。

  

歩いていると彼岸花が・・・・

 

朝地町には、水を田んぼに供給するため道路の上に水路を設けています。

    

用作(ゆうじゃく)公園にやってきました。用作公園は、江戸時代に岡藩主が家老の中川平右衛門長伸に賜った別荘地で、明治13年には吉良家に譲り受けられ、

現在では朝地町が管理しています。岡藩の参勤交代の経路に位置するこの地には、藩主中川氏が参勤交代の途上などにたびたび立ち寄るとともに、田能村竹田や頼山陽といった文人墨客も多く

来訪し、岡藩の玄関、接客所としての役割を果たしました。心字池を中心に、500本を越えるモミジやカエデなどの紅葉樹が植えられ、11月の紅葉期間中の週末や祝日にはライトアップが行われ、

多くの見物客で賑わいます。(大分県観光情報公式サイトより)

※ 用作公園の紅葉写真

 

丹字池を見ると少し紅くなっています。見ごろは、11月中旬だそうです。次回このオルレを歩くときは、紅葉のシーズンがいいかな?

  

  

用作公園を後に里山に戻ります。この風景いいですね。のどかで時間が経つのを忘れそうです。

  

普光寺の近くまでやってきました。ここまでスタートして1時間10分。約4kmです。

  

普光寺に着きました。普光寺は、高さ11,3mと全国でも最大級の摩崖仏は、約12万年前の阿蘇火山大噴火でできた「阿蘇溶結疑灰岩」の岩壁に彫られたものです。

初夏にはあたり一面に咲くアジサイが美しいことでも有名です。(奥豊後オルレパンフより)

「豊後国志」によると、6世紀九州出身で百済の王に仕えた「日羅」によって創建。日羅は豊後国内に7か所の寺院を創建し、それぞれに磨崖仏を彫ったといい、普光寺磨崖仏は

その一つとされています。

本殿の前には、「撫で仏」があります。真言「オンカカカビザンマエイソワカ」を唱えながら体の悪い処と同じ部分をさすると治るといわれています。また、知恵を授かるともいわれています。

私も頭と、ひざ、腕などをさすってみました。

  

お寺の境内から磨崖仏の方に行ってみます。

  

窟の中にも石仏があります。

   

 

普光寺で少し休憩し再スタート。遠くに傾山、祖母山が見えています。

  

このあたりが豊後大野市と竹田市の市境かな?コースは、万里が坂に差し掛かります。この舗装した道路の下には、昔の石畳があります。お殿様もこの道を通ったのでしょうね。

     

歩いていると、川の音が聞こえてきます。十川の柱状節理ももうすぐです。濁淵川にかかる狭田橋を渡ります。

  

   

旧城下町の十川(そうかわ)地区は鎌倉時代・室町時代(志賀氏)に竹田の城下町があった場所です。1594年(文禄3年)に岡城に入封した岡藩初代藩主・中川秀成(なかがわひでしげ)が現在の

竹田市大字竹田町に城下町を移転させました。現在では数軒の民家があるだけの静かな集落となっています

  

十川(そうがわ)の柱状節理です。柱状節理は、火山の噴火の際に起こる火砕流が冷えて固まる際にできる縦方向のひび割れの事。十川の河岸に見られる柱状節理は、

約9万年前の阿蘇火山大噴火の際にできたもので、太古の地球のダイナミズムを今に伝えています。(オルレ案内文より)

  

コースは、発電所の横を通り旧岡城址に向かいます。

  

右の小高い丘を走っていくものがあります。イノシシです。そういえば途中、猪が掘った穴などがありました。こちらに来たらどうしようか?と考えましたが、

イノシシは私たちには目もくれず走り去っていきました。この日、リュックにクマよけの鈴をつけていましたがこれが効果を発揮したのかな?

  

岡城址は、奥豊後の山深く、稲葉川と白滝川に挟まれた断崖絶壁の地に、天高く聳え立つ高石垣。広大な敷地に広がる山城「岡城」は、総石垣のまさに「難攻不落の堅城」です。

岡城は、兄である源頼朝に追われた源義経を迎えるため、文治元年(1185)に緒方三郎惟栄が築城したという伝説にはじまります。

時は流れ、やがて岡城は豊後国守護大友氏の一族である志賀氏の居城となります。天正14年(1586)、薩摩の島津義弘率いる大軍が、志賀親次の守る岡城を3度にわたり攻撃します。

島津軍は、険峻な要害である岡城を落とすことができずに撤退し、岡城は「難攻不落の城」として世に広く知られることになりました。その後豊臣秀吉の朝鮮出兵で主家の大友氏が失脚すると

志賀氏はこの地を去ることになりました。代わって播磨国三木城から中川秀成氏が岡城の城主となり、総勢4千人余で入部、明治4年(1871)の廃藩置県により城を去るまでの277年間、

岡城は中川氏の居城となりました。中川氏の時代に岡城の大改修が行われ、要害堅固な地形を土台とした総石垣の広大な近世城郭へと変貌していきました。

明治になり、廃城令の施行に伴い、役目を終えた岡城の構造物は、明治7年(1874)に競売にかけられ、石垣のみが残る城跡になりました。少年時代を竹田で過ごした作曲家「滝廉太郎」は、

岡城をモデルにして名曲「荒城の月」を作曲したと云われています。阿蘇くじゅうの山々や祖母山を遠方に望む岡城址では、雄大なスケールの石垣と、四季折々に変化する自然が唯一無二の

景色を楽しむことができます。(岡城址パンフより)

  

  

遠くには、くじゅう連山が見えます。

  

岡城址の駐車場で入城料金300円を払い、岡城址を後にします。ゴールまであと2km。竹田市には、大きな岩があります。これも火山の副産物でしょうか?

  

トンネルを抜けると右側に広瀬神社があります。日露戦争の旅順戦で戦死した軍人広瀬武夫は、幕末岡藩勤王の志士 広瀬重武の次男として竹田茶屋の辻で誕生。

彼を顕彰するために昭和10(1935)年に広瀬神社が建立されました。境内には広瀬武夫記念館があり遺品などを展示。鳥居の前に広瀬武夫胸像があり、神社の境内には伊豆坂から丘越えで

弥五兵衛坂を通って武家地の鷹匠町と城下町の上町通りを結ぶ江戸時代の城下道も残されています。(おんせん県大分観光より)

 

  

コースは終盤に差し掛かりました。豊後竹田駅が見えてきます。ゴールは駅の横の竹田温泉花水木です。

 

花水木には、足湯がありました。

 

スタートしてから3時間50分(13:00)にゴールしました。ここからスタート地点の朝地駅まで戻ります。発車時間まで(13:52大分行)時間があるので駅周辺をブラブラします。

 

今日のGPSです。

このコース、カンセやリボン、矢印が整備され間違わずに歩くことができました。次回は紅葉のシーズンに歩きたいと思っています。

 

 


九州歴史資料館と周辺文化財を訪ねて(筑紫野市原田~小郡市~佐賀県基山町)

2020-09-19 18:07:04 | ウォーキング

9/16(水)ふくおかウォーキング協会楽しいウォークで「九州歴史資料館と周辺文化財を訪ねて」に参加しました。

生憎、今日は朝から小雨。それでも42人の参加でした。スタートはJR原田(はるだ)駅。

原田駅前には、日本全国の測量をした伊能忠敬の銅像が建てられています。ここ原田駅前は、長崎街道の一部です。

  

9:30 スタート。雨の為、傘をさしてのウォーキングです。10分ぐらい歩くと「五郎山公園」に着きました。

五郎山公園は、五郎山古墳を有する公園です。

 

五郎山古墳は、

筑紫野市原田にある装飾古墳で、昭和22年(1947年)3月、盗掘坑が陥没したことにより石室の一部が発見され、同年11月に福岡県教育委員会によって発掘調査が行われた墳丘径約32m、

高さ5.5mの筑紫野市最大級の古墳時代後期(6世紀)の円墳です。石室は前・後の二室を持った全長11.2mの横穴式で、南西に開口しています。一番奥の遺体を安置する部屋(玄室)は、

長さ約4.5m、幅約3m、高さ約4mで比較的大きな規模です。盗掘によって副葬品はほとんど残ってはいませんでしたが、金環、管玉、勾玉、刀子、須恵器が採集されています。

五郎山古墳の最大の特徴は、石室内部の壁面に黒・赤・緑の三色の顔料によって彩色された具象画が描かれていることです。その壁画は武器(弓・靫ゆぎ(矢を入れる容器)・鞆とも

(弓の弦から手を守る防具))、人物(巫女・騎馬像・力士)、動物(犬・猪)、船、旗、家、太陽などの多くの図柄で構成されています。おそらく、被葬者の生前の様子、

あるいは黄泉の世界を表現したものと考えられます。このような古墳壁画は他に類例は少なく、非常に貴重な装飾古墳であると言えます。おそらく6世紀に筑紫平野を治めた地域の

豪族首長の墳墓であると考えられます。 現在では、国指定の史跡に指定され、「五郎山古墳館」とともに、内部の見学をすることができます。

(筑紫野市歴史博物館『筑紫野の指定文化財』より)
この五郎山古墳は、筑紫神社の近くにあり、埋葬された方は、筑紫神社と何か関係があるのでしょうか?

  

 

五郎山公園を下りてしばらく歩くと、右側に大きな建物があります。「善隣教本部」と書いてありますが、善隣教は、まったく知りませんでした。

福岡県小郡市に入りました。雨はまだ降り続けています。小郡市は、昭和47年(1972)福岡県が「小郡・筑紫野ニュータウン計画」を打ち出したことで市北西部の丘陵地帯で

宅地開発が進み、人口増加につながりました。現在人口約58000人。余談ですが、私の先輩のお父様が一時小郡市長を務めておられましたが、残念ながら交通事故で他界されました。

  

三国の鼻遺跡は、現在の宝満川浄化センターから三国ヶ丘団地に広がっていました。遺跡は、弥生時代と古墳時代を中心とする複合遺跡で、中でも注目されるのは、弥生時代後期の

環濠集落と古墳時代前期の前方後円墳です。環濠集落は全長356mの巨大な環濠と竪穴住居群で編成されています。環濠は、最大幅4,5m、深さ2,3mで34軒の竪穴住居群を守るように

取り囲んでいます。環濠や竪穴住居の内部からは大量の土器、石器が見つかっています。前方後円墳「三国の鼻1号墳」は、全長66mの市内最大の古墳で造られたのは、4世紀中頃で

「津古生掛古墳」から始まる古墳時代前期の津古古墳群の最期を飾るに相応しい巨大古墳です。(案内板より抜粋)

   

コースは西鉄「三国が丘駅」に着きました。この三国というのは、筑前、筑後、肥前(対州領)と接しているから三国と呼ばれています。

因みに、九州は7つの県ですが、どうして九州と呼ばれたかというと、古くは、筑紫の国、豊国、火の国、日向の国と4つに分かれていましたが、律令時代、筑前、筑後、豊前、豊後、日向、

薩摩、大隅、肥後、肥前と9つに分けられましたので九州と呼ばれています。

三国が丘駅東口から構内を渡り、西口に出ます。

西口には、「三沢(みつさわ)遺跡」があります。

 

九州歴史資料館の東隣の丘陵は、三沢遺跡(みつさわいせき)という福 岡県の史跡に指定された弥生時代の集落遺跡です。弥 生時代のはるか2,000年前、この地に人々が生活し、周 辺の水田を耕し、

生活を行っていた痕跡が発掘調査で 明らかとなっています。 かつて小郡の三沢の地は風光明媚な行楽地で、近く のピクニックセンターには県内から多くの行楽客が訪 れ、

周辺に数多くある池ではカモ猟が行われ、三沢遺 跡の丘は福岡県種畜場の牧草地でした。  昭和40年代はじめ、九州自動車道建設に伴い、三沢 の地が道路建設の土取り用地の

候補地として選定され ました。それを契機として昭和45年(1970)に福岡県 種蓄場跡地の分布調査が行われて遺跡が確認され、そ の翌年の確認調査で、良好に保存された弥生時代の

集 落「三沢遺跡」が発見されたのです。  当初の予定では、土取りにより消滅することとなって いましたが、遺跡の保存活動は市民の間にも広がり、新 聞各社はその重要性や活動を報じました。

その結果、 発見された弥生時代の集落は、集落構造や当時の生活 様式を考える上で、非常に重要な遺跡であり、なおかつ 保存状態も良好であるとして、昭和47年に現状保存が 決定、

さらに昭和53年に福岡県史跡に指定され、永久 に保存されることが決定したのです。  その後、遺跡の周辺は宅地開発等により大規模に開 発されましたが、遺跡は自然豊かな森として

市民の憩 い、散策の場となっています。(九州歴史資料館展示物より抜粋)

 

この下に2200年前の「ムラ」が眠っています。

 

三沢遺跡を下りた所が「九州歴史資料館」です。ここで休憩します。

九州歴史資料館は、1973年(昭和48)に大宰府に開館。開館して30年以上経ち隣接地に「九州国立博物館」が開館することから2010年(平成22)筑後小郡レクセンター跡地に

移転しました。

  

15分の休憩の後再スタート。

 

歩いているとまた、遺跡の案内板がありました。

一ノ口遺跡  南北450m、東西190mの大きな独立丘陵地に位置していました。多くの弥生時代の集落が存在する三国丘陵の中でも中心となる集落でした。

弥生時代前期後半から中期前半(約2200年前)の竪穴式住居119軒、貯蔵穴278基、建坑228基、堀立柱建物跡4棟、道状遺構4条、棚列状遺構などが見つかりました。

道状遺構の一つは全長約600mの大規模なもので途中に門が存在したことが考えられます。その南側斜面には集落の内部と外部を隔てる棚列のあとと考えられます。

柱状群が確認されそれに囲まれた2棟の堀立柱建物群は、物見櫓の可能性も確認されています。当時の地域社会が集落への出入りを監視しなければならないような緊張状態にあったことを

知ることができます。貯蔵穴からは、炭化米、栃の実、猪の骨の他、海産物のカキ、オキシジミなどが多く出土しています。これらの貝類は有明海から持ち込まれていたと考えられ、

当時の経済活動の広さをうかがわせます。弥生前期から中期にかけて村落共同体が発展し、「クニ」になる前の段階の社会を表す集落遺跡として非常に注目されています。

(平成23年11月 小郡市教育委員会)

私は、小郡にこんな大きな弥生遺跡があるとは、知りませんでした。弥生遺跡として有名なものは佐賀県吉野ヶ里遺跡ですが、この小郡から吉野ヶ里までは約25kmです。

昔は吉野ヶ里との交流もあったのではないでしょうか?  

※(参考)クリックしてください 吉野ヶ里遺跡 

 

11:48ゴールの佐賀県けやき台駅に到着。

 

今日は雨が降っていたので急ぎ足のウォーキングでしたが、機会があれば、もう一度この遺跡群をゆっくり廻りたいと思います。

今日のGPSです。

 


宗像市を歩く(福岡県宗像市)

2020-09-14 19:21:24 | ウォーキング

9/9(水)は、ふくおかウォーキング協会楽しいウォーク「宗像市を歩く」に参加しました。

宗像市は、福岡市と北九州市のほぼ中間に位置し、古代より中国、朝鮮との交易で繁栄した地域で宗像大社の神領で世界文化遺産「沖ノ島」があります。現在人口約97000人。

集合場所は、JR東郷駅。参加者は、39人。9:30ウォーキングスタート。

 

1kmぐらい歩くと、日の里団地が見えてきます。1971年(昭和46年)九州最大級の団地として開発され、現在70棟の集合住宅棟、3000の一戸建て住宅があり、約12000人の方が

お住まいです。建設当時、小生、まだ会社に入ったばかりの駆け出しの営業マンでしたので毎日この現場へ売り込みに行っていました。(あんまり成果はありませんでしたが)

もうあれから約半世紀が経ちます。団地では、建て替え工事などが行われていました。

 

日の里東小学校から左折。長浦池を通り、久原澤田古墳群に向かいます。

 

久原澤田古墳群は、4基の古墳で、もともとこの地にあった久原古墳群のうち、前方後円墳1基と円墳3基を1500年前の姿で復元し、周囲を散策できる公園にしました。

前方後円墳は、墳丘の全兆5m、2段築城、後円部直径26mで6世紀中ごろに築造されました。

 

 

  

古墳群の先が「宗像ユリックス」です。ここで1回目の休憩。宗像ユリックスは、1988年(昭和63年)に開業された総合複合施設です。全日本女子駅伝予選会の発着点にもなっています。

ユリックスの名前は、市の花「ユリ」と市の木「クスノキ」をかけた造語です。

 

光岡八幡宮です。この神社には、樹齢500年の大楠があります。

 

光岡八幡宮の大楠は、幹回り9,2m、高さ29,5m、枝張りは、東へ18m、西へ24m、南へ22,5m、北へ19,5m、1956年(昭和31)県の天然記念物に指定されています。

  

2回目の休憩は、産直店「かのこの里」です。時刻は10時半ですが、野菜類が安いということを聞いていたので中に入るとほとんどの野菜が売り切れです。

宗像市には「道の駅むなかた」がありますが、道の駅は、観光客が主体、一方のかのこの里は、地元の方が買いに来られるそうです。

  

かのこの里の前は、唐津街道です。2010年(平成22)初めて唐津街道を歩いた時、この道を歩いたっけ・・・・・

案内板によれば、「原町宿は、赤間宿と畦町宿の中間にあり、黒田藩(福岡藩)、唐津藩の参勤交代の時の休憩所になった」と書いてます。

 

唐津街道沿いに歩いていると自由ヶ丘という住宅地です。小生がまだ中学生の頃はこの辺りは「森林都市」という分譲地だったのでは?

  

自由ヶ丘から田久へ。

11:30 JR赤間駅にゴールしました。距離は約8km。

  

今日のGPSです。

 


9月度例会「那珂川沿いを歩く」(福岡市博多区)

2020-09-09 17:53:42 | ウォーキング

9/5(土) ふくおかウォーキング協会9月度の例会は、「那珂川沿いを歩く」です。

集合場所はJR南福岡駅。JR九州ウォーキングも9/19から再開ということで駅でパンフをいただきました。参加者39人。

那珂川というと、九州一の歓楽街「中州」をイメージしますが、福岡市早良区板屋の脊振山に源を発し、那珂川市と佐賀・吉野ヶ里町との県境を通り、五ヶ山ダムから北に流れを変え

南畑ダムを経由して那珂川市を南北に貫き、老司、警弥郷で福岡市内に入り、山陽新幹線の支線「博多南線」と平行する形で流れます。

福岡市内に入ると、桜並木や河畔公園が整備されており、途中、日佐江取水場、塩原取水場(番托堤)など福岡市の水がめとしても利用されています。河畔には博多温泉が湧いている所も

あります。河口では、博多川に分流して中州を形成します。

9:30スタート。

 

 

春日市に入ります。

 

那珂川河畔公園で休憩。ここから那珂川沿いに歩きます。

 

 

 

台風10号に備えでしょうか?窓ガラスを目張りしてます。今度の台風10号は、強力で九州の東シナ海沿いを通るそうです。

私もウォーキングが終わったら姉の家シャッター補修にお手伝いに行く予定です。

香蘭女子短大の折立交差点から新幹線博多南線沿いに歩きます。

  

高木公民館で休憩。この辺りは、マンションが立ち並んでいますが、一角には、田んぼがありました。

 

歩いていると、「番托堰復旧碑」と書かれた石碑が建っています。

番托井堰(ばんたくいぜき)の近くに井堰を作るのために活躍した豊田徳作の碑があります。豊田徳作は1713年に大庄屋に生まれました。昔の井堰は木でできていたので、

たくさん雨がふるたびに流されたりして、まわりの農家の人たちは困っていました。これを見た徳作は55歳の時に自分のお金を使って石で井堰を作ることを計画しましたが、

その時代は一般の人の土木工事が禁止されていたため、許可されず、何度も申請した徳作はついにとらえられてしまいました。しかし、それを聞いた当時の藩主黒田継高が

徳作を牢屋(ろうや)から出してやり、工事も始められたそうです。この功績をたたえられて碑が明治13年につくられました。また、豊田徳作のお墓は博多区の西林寺にまつられています。

その後番托井堰は、何回も改修工事が行われ今日に至っています。

 

 

毎年夏には、アサヒビール博多工場見学のウォーキングを行っていますが、今年は、残念ですが、コロナ禍で中止になっています。

 

博多駅近くの音羽交差点です。ここを左折した音羽公園がゴールです。12:08無事ゴールしました。

今日のGPSです。

台風が近づいているのですぐ家に帰りました。


糸島の広大な干拓農地を歩く(福岡県糸島市)

2020-09-05 19:25:33 | ウォーキング

9/2(水)。9月最初のウォーキングは、「糸島の広大な干拓農地を歩く」。

集合は、JR加布里駅。参加者32名。

福岡藩初代藩主黒田長政は、関ヶ原での功績を認められ、1600年筑前福岡に入国しています。黒田藩は、52万石といわれていますが、入国当初は、そんなに石数が多くありませんでした。

そこで藩主長政以来、新田開発には、特に意を用い奨励しています。糸島(当時は、怡土郡と志摩郡)の新田開発には、黒田二十四騎の一人「菅和泉正利」を郡代として派遣しています。

   

     

コースは糸島平野に入ります。可也山は、通称「糸島富士」365m。糸島市のシンボルです。

  

千早新田は、案内板(前原市による)によると、天保4年(1833)ここより北500m、東西約1kmにあった川洲が干拓工事により田園化されたという。

同案内板によれば、当時この地は天領で日田代官塩谷大四郎の訓令により天保3年に起工、 翌4年に築堤が完了した。総面積3768アール。 加布里の富豪東屋こと末松政右衛門と、岩本の油屋こと

牛原藤蔵が協力し、私財を支出して完成させたという。

地蔵堂前には完成を祝う博多聖福寺の仙厓和尚の歌碑がある。御年83歳の時の作という。

千早振(ちはやふる)神代の海を田作りて(たみ)もゆたかなに歌ひ舞里(まいさと)

ちなみに、この地の南側一帯の田園は「岩本」といい、元和3年(1617)、唐津藩主寺沢志摩守の命により干拓された集落である。その後、岩本地区とこの千早新田地区は天領となり

明治を迎えたという。

 

   

弁天橋を渡ります。  

   

渡った後、産直店で休憩。

  

加布羅橋から泉川はまぼうロードを歩きます。雷山川下流(通称泉川)の加布羅(かぶら)橋から河口に向かう一帯は、730本以上のはまぼうが群生しており、九州有数、福岡県最大の

はまぼう群落であることから平成28年(2016)3月25日県の天然記念物に指定されました。また糸島市の市の花として市民に親しまれています。

はまぼうの花は、7月初旬に開花し、下旬まで花が楽しめます。朝咲いて夕方には萎む一日花です。はまぼうの説明はこちら  

はまぼう

 

下水道処理センターの横を通り、ゴールの糸島市役所へ。今日は雷山(らいざん)が良く見えます。雷山の説明はこちらです。  

雷山

 

11:35糸島市役所へゴール。

 

今日のGPS

台風9号が近づいているので筑前前原駅では、今日21時から便に運休が出ています。

 


樋井川下流の橋巡りウォーク(福岡市城南区~福岡市早良区)

2020-09-01 17:57:37 | ウォーキング

8月最後の土曜日(8/29)は、ふくおかウォーキング協会のサタデーウォーク「樋井川下流の橋巡りウォーク」に参加しました。

樋井川は、油山市民の森を源流とし、河口は福岡ペイペイドームの横で川の長さは、約13kmの二級河川です。

平成21年(2009年)7月の九州北部豪雨では、田島橋周辺に浸水の被害が起きています。

樋井川の名前は、昔、田んぼに送るための「樋」が川の上を横切っていたからその名が付いたそうです。

集合場所は、地下鉄七隈駅近くの「菊池神社」です。

 

ストレッチの後、9:30スタート。写真右に見える山が樋井川源流の油山です。

この周辺は、近くに「福岡大学」がありますので学生中心のお店、マンションがあります。

私もこの大学の卒業生です。卒業してもう約半世紀ですが、私が通っていたころは、周辺には何もなくて、ただひたすらに勉学に励んでいました(笑)     

  

今日も暑いです。最高気温は36度まで上がるそうですので小まめに給水をします。

 

 

  

下長尾北公園で休憩

 

イオンでも休憩。休憩後、金桜橋を渡ります。

  

川沿いに歩いていると中村学園グラウンドがありました。そこでは、女子学生がラケットみたいなものを持って練習しています。どういうスポーツかと聞いてみますと、

ラクロスというスポーツ知りませんので、調べてみました。

ラクロス (Lacrosse) とは、クロスと呼ばれる先に網の付いたスティックを用いて、直径6cm・重さ150gの硬質ゴム製のボールを奪い合い、

相手陣のゴールに入れることで得点を競う球技の一種だそうです。

 

 

別府橋から中央区草香江の方に進みます。江戸時代は、このあたりまで河口が広がっていたそうです。

 

城西橋の向こう側が今川橋です。その先が福岡ペイペイドームです。本来は、ペイペイドーム前の地行中央公園まで歩く予定ですが、暑さの為、今川橋の所で今日はゴールです。

 

今日のGPSです。