よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

東海道道草ウォーク№44「保土ヶ谷宿~川崎宿」(横浜市保土ヶ谷区~川崎市)

2018-10-13 12:36:44 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

先週の山形・鶴岡から今回の東海道歩きのウォーキングですが、さすがに5日間連続というと、疲れもピークに達してきます。天気予報では、明日(20日)は、雨ですので、できれば無理してでも

今回のゴール地川崎宿まで歩きたいです。

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№43からの続きです。

保土ヶ谷の追分を過ぎると、芝生村の入り口に「浅間(せんけん)神社」があります。神社には、「富士の人穴」と呼ばれる名所があります。

祭神木花咲耶姫命。承暦四年(一〇八〇)富士浅間神社の分霊を奉祀したものと伝える。旧芝生村鎮守。江戸時代別当香象院。相殿合祀、神明社(祭神天照皇大神。旧位置字神明)、

鹿島社(祭神武賓槌命。旧位置字鹿島)。境内社は小嶽社、稲荷社、招魂社。例祭日六月一日。本殿二階建浅間造。境内千四百坪。神殿の在る丘は袖すり山と呼ばれ、

昔時は山下がすぐ波打ち際であったという。この丘の斜面には十基の横穴墓があり、そのうち開口したものが「富士の人穴」と称され、このなかに安置されていた大日如来石像が現在社殿横に

置かれている。当社は近隣の富士講の中心地であり、また六十年に一度庚申祭りが盛大に挙行される。(「横浜西区史」より)

  

神奈川宿に入りました。

  

神奈川宿は、東海道有数の景勝地として知られる「袖ヶ浦」がありました。また、湊と東海道を持つ交通の要塞として栄え、船人や旅人はもちろん、観光で訪れる客も多く滞在。

最盛期には、近隣の宿の二倍の人口を抱えたといわれています。(国土交通省関東地方整備局・てくてく東海道より)

神奈川宿は、本陣2軒(石井本陣、鈴木本陣)、旅籠58軒。家数1300軒、人口6000人の規模でした。

安政5年(1858年)、神奈川湊沖・小柴(横浜八景島周辺)に碇泊していたポーハタン号上で日米修好通商条約が締結された。同条約では「神奈川」を開港すると定められていた。

しかし、街道を通行する日本人と、入港する外国人との間の紛争を避けるために、神奈川湊の対岸にある横浜村に港湾施設や居留地をつくり、開港した。これが現在の横浜港となった。

そのため、外国人に対しては横浜は神奈川の一部と称した。(Wikipediaより)

   

神奈川台の関門跡・・・・開港後外国人が相次いで殺傷されましたが、その犯人はなかなか捕らえられませんでした。そのため、各国領事の強い要望で横浜周辺に設けられたのが、

関所である「関門」です。神奈川宿でも東西の2か所につくられ、厳しい警護体制が敷かれました。碑が残されているのは、西側・神奈川台の関門です。

    

台町の茶屋・・・・・現在の台町あたり、ここはかつて、神奈川湊を見下ろす景勝地でした。弥次・喜多の「東海道中膝栗毛」にも「ここは、片側に茶店軒を並べ、いずれも座敷二階造り、

欄干つきの廊下桟などわたして、波打ちぎはの景色いたってよし」とあります。「おやすみなさいや~せ」・・・茶店女の声に引かれ、二人はぶらりと立ち寄っています。

鯵の塩焼きを肴に一杯ひっかけた後、気ままな旅を続けたのでした。(神奈川宿歴史の道より)

下の図の中に見える「さくらや」が現在の料亭「田中屋」あたりだと言われています。また、広重の東海道神奈川宿でもこの「さくらや」が描かれています。(右奥から3番目)

 

江戸時代は、台町の茶屋は、海に面していたのですね。(現在のJR横浜駅は、海の中だったそうです)

幕末の偉人、坂本龍馬の妻おりょうは、龍馬亡きあと、ここで住み込みの仲居として勤めてくれていました。月琴を奏で、外国語も堪能で、物怖じしないまっすぐな性格が、ことに外国のお客様に

評判だったといいます。横須賀に嫁いでいき、田中家をやめたあとも、ひいき客からいつまでも話題に上ったということです。(田中屋HPより) 

  

葛飾北斎の名作「神奈川沖浪裏」も神奈川沖を題材に描かれているのでしょうね。実際こんなに浪が高かったのでしょうか?

大綱金刀比羅神社・・・この神社は、社伝によると、平安末期の創立で、もと「飯綱社」といわれ、今の境内後方の山上にありました。その後、現在の地に移り、更に琴平社を合祀して

大綱金刀比羅神社となりました。かつて眼下に広がっていた神奈川湊に出入りする船乗り達から深く崇められ、大天狗の伝説でも知られています。

又、神社前の街道両脇に一里塚が置かれていました。

 

青木橋です。この橋から東神奈川方面を見て右側の幸ヶ谷公園のある丘と左側の本覚寺のある丘とは地続きでした。この丘を切り開き、明治5(1872)年に新橋~横浜間(現桜木町)に鉄道が開通し、

鉄道をまたいで旧東海道を結んで架けられたのがこの青木橋です。横浜駅が現在地に移設されるまで、青木橋周辺は鉄道(JR)・横浜電気鉄道(市電)・京浜電気鉄道(京急)・東京横浜電気鉄道(東急)

各線の神奈川停車場が集中し、交通の要所として賑わいました。(神奈川区いまむかしガイドの会より)

  

国道1号線に架かる幸ヶ谷歩道橋を渡ります。この1号線道路幅も広く、また交通量もすごく多いです。

 

開港当時、神奈川宿の多くの寺院が諸外国の領事館に充てられました。地図を見てみるとその寺院は道路の向かい側に多く集中しており、横断歩道は遠くにあるのでここは、パスしました。

鶴見区に入りました。子安通りを過ぎると、キリン横浜ビアビレッジがあります。

 

このビアビレッジの一角に「生麦事件碑」が建っています。

  

学校の歴史でも習った「生麦事件」は、文久2年(1862)、江戸から京都へ向かう途中だった薩摩藩の島津久光の行列が武蔵国橘樹郡生麦村(現横浜市鶴見区生麦)に差し掛かった際、

横浜在住のイギリス人4人が行列の前方を乗馬したまま横切りました。これに怒った一部藩士がイギリス人に斬りかかったという事件です。

この事件は、イギリスと日本の国際問題に発展し、翌年の薩英戦争勃発の原因となりました。明治16年(1883)、鶴見の黒川荘三がリチャードソンの死を悼み、事件の風化を防ぐために、

私費を投じて生麦事件碑を建立しました。

  

生麦1丁目信号より、旧道に入ります。旧道の生麦保育園近くには、生麦事件発生現場があります。当時この家は、豆腐屋さんだったそうです。

 

京急鶴見駅近くには、「覇王樹(さぼてん)茶屋跡」があります。さぼてんは仙人掌と書いていますが当時は覇王樹と書いていたのですね。また、江戸時代にサボテンがあったのも知りませんでした。

旧東海道鶴見 覇王樹茶屋跡    「みぎひだり   つのを出して世の中を   見たるもおかし   さぼてんの茶屋」  現在は、パン屋さんを営まれています。

  

鶴見の街中を歩いていると、私のリュックの後ろに付けている「東海道を歩いています・・・・」を見て、ある女性の方が声をかけて色々な所を案内してくれました。

聞くと、中国から来られたそうです。中国の方から日本の史跡を案内してもらうのは、少し違和感がありましたが、探し回ることがなく、スムーズに見ることができました。有難うございました。

    

鶴見橋関門旧跡・・・・安政6年(1859)の横浜開港後、外国人に危害を加えることを防ぐため横浜への主要道路筋に架けられた関門の一つで、万延元年(1860)に設けられました。

    

鶴見川橋を渡ります。渡ると川崎かな?と思いましたが、まだ鶴見区でした。

 

市場上町の信号から「川崎市」です。

   

京急八丁畷駅です。ここには、無縁塚があります。

江戸時代の記録によると、川崎宿は、震災や大火・洪水・飢饉・疫病などの災害にたびたび襲われ、多くの人々が命を落としています。おそらく災害で亡くなった身元不明の人々を川崎宿はずれの

松や欅の並木の下に埋葬したのではないでしょうか。不幸にして亡くなった人々の霊を供養するため、地元の方と川崎市は、昭和9年慰霊塔を建てました。この場所は、「無縁塚」と呼ばれ、

地元の方々により供養が続けられています。(説明文より)

 

八丁畷駅のガードを潜ると、「芭蕉の句碑」があります。麦の穂を たよりにつかむ 別れかな

松尾芭蕉は、元禄7年(1694)五月、江戸深川の庵を発ち、郷里の伊賀(三重県)へ帰る途中、川崎宿に立ち寄り、同道してきた門弟たちと別れる際に詠んだ句です。

同じ年の十月、旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる という辞世の句を残し51歳の生涯を閉じました。

  

川崎市中心部に入ってきました。時間も5時を過ぎ、帰宅を急ぐ人々で混雑しています。

小土呂橋の親柱・・・・・かつて、東海道と新川堀の交差地点にあった石橋が「小土呂橋」。現在は、暗渠となっており、地名とこの親柱が残っています。

   

川崎宿は元和9(1623)年、品川・神奈川両宿の伝馬負担を軽減するために開設されました。新宿(しんしゅく)・砂子(いさご)の2町から始まり、その後、久根崎(くねざき)・小土呂(ことろ)町を

加えた4つの村で構成されていました。町立てにあたっては、久根崎から小土呂に至る自然堤防(海がつくった砂州)を利用して盛土がなされていますが、これは六郷・鶴見両河川の出水被害を

抑えることが重視されたためです。 本陣3軒(兵庫(田中)本陣、惣左衛門(佐藤)本陣、惣兵衛本陣)、旅籠72軒、家数541軒、人口2433人の規模でした。

旧橘樹郡役所跡・・・・・明治十一年(1878)の郡区町村編制法により、神奈川町成仏寺に橘樹郡役所が設置され、橘樹郡内十町百十一村の行政を司った。明治二十一年(1888)同町内に

郡役所が新設されその後郡制が施行されると、郡長のもと各地代表の郡会議員により、道路・治水・教育。産業などが議せられた。

明治三十四年(1901)神奈川町の横浜市編入により、橘樹郡の中心は、産業開発著しい川崎町に移り、大正二年(1913)現在地の川崎町砂子に威風堂々とした郡役所が建てられ

川崎・保土ヶ谷二町と十七村の行政に当った。郡南部の臨海埋立地には京浜工業地帯が形成され、人口増加による都市化が進む一方、北部農村地帯も私鉄の沿線開発や近郊農業の発達などにより

大きく変貌した。大正十三年(1924)七月川崎に市制が施行され、大正十五年(1926)郡役所は廃止された。その後川崎・横浜の市域拡張により、昭和十三年(1938)には半世紀にわたり

親しまれた「橘樹郡」の名も消えることに成った。郡役所の川崎移転から九十年。ここに有志相集い、川崎市制八十周年を記念して、往年の地に「旧橘樹郡役所跡記念碑」を建立し、

万葉集にも歌われた橘樹の名を永久に留めることにした。(説明文より)

川崎信用金庫本店の所が「佐藤本陣跡」です。信用金庫の前には、詩人「佐藤惣之助」の碑が建っています。佐藤惣之助の生家がここです。

佐藤惣之助は、歌謡曲「赤城の子守唄」「緑の地平線」「大阪音頭」「青い背広で」などの作詞で知られています。また、プロ野球阪神タイガースの応援歌「六甲おろし」の作詞も手掛けていました。

 

中の本陣跡・・・・田中本陣と佐藤本陣の間に挟まれ「中の本陣」と呼ばれていました。江戸後期廃業しました。

   

兵庫(田中)本陣跡・・・・当主の休愚(兵庫)は、六郷川の渡し舟の権利を譲り受け、その渡し賃を得て、傾いていた宿場財政を再建しました。享保6年(1721)著した「民間省要」は、享保7年(1722)

八代将軍吉宗へ献上され、主張の一部は、享保の改革でも取り上げられました。

    

時刻は18時を過ぎました。今日は、朝9時から精力的に歩き、少々疲れました。JR川崎駅から今夜の桜木町のホテルへ戻りました。

  

東海道もあと19kmになりました。六郷橋を越えると江戸です。12月中旬に日本橋にゴールする予定です。

 


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2 コメント

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Unknown (セロリさん)
2018-10-14 09:46:21
長い時間&距離を勢力的に歩いた日だったのですね。
神奈川の宿場を歩く会に参加して、何度か歩いた場所でもよっくんのブログでまた改めて知った場所もありますよ。
丁寧に歩いておられるのでビックリです!
残り19キロもいっぱい発見のある街道歩きになることを祈っています。
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セロリさん (よっくん)
2018-10-14 19:07:15
保土ヶ谷から川崎までは30kmぐらいあったのでは?次の日が雨の予想でしたので何としても川崎までと思って歩きました。疲れました。神奈川宿は、大きな道路やビルが立ち並び場所を探すのに苦労しました。そんな中、本陣は見逃しました。
あと、19kmになりました。これで12/19のゴールに間に合いそうです。
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