7月2日福岡県糸島市にある「桜井神社」に行ってきました。
この日は、境内にある「岩戸宮」開きが行われます。朝4時からの祭事でしたが、その時間は、まだ夢の中。
バイトが終わり昼から行ってきました。
桜井神社は、慶長十五年(1610)六月朔より二日の暁にかけて、大雷雨が起こり突如電光一閃のうちに岩戸神窟が開け、ご神霊が顕現されました。
それから、様々な霊験あらたかなことが起こり、それを聞き及ばれた福岡藩二代目藩主黒田忠之公は家臣を二回に渡り遣わして問われるに、
その答え寸分も違わず御験(みしるし)があったので、益々ご神威に感謝され、寛永9年(1632)に現在の豪華絢爛なご社殿をご創建され、
現在もその当時の姿を留め本殿・拝殿・楼門は福岡県の重要文化財に指定されております。 (桜井神社HPより抜粋)
本殿裏側に、「岩戸宮」があります。普通は扉が閉まっていますが、一年で7月2日だけ扉が開けられ、参拝できます。
本殿でお参りし、岩戸宮の方に廻ります。
岩戸宮の中は、狭く、順番を待って入っていきます。中に入るとひんやりとした空気が漂ってきます。
ろうそくの明かりで照らされた祭壇には、神聖な感じがしてきます。
また、ここから1kmぐらい離れた所に「浦姫宮」があります。
この地方が大暴風雨に襲われた時、桜井の三郎畑という小高い丘に大きな岩屋が出来ました
これを見ようと村人が大勢集まりました。その中の山伏が「神様の岩屋だから人は出入りしてはならない」と厳かにいうと、人々は跪き拝むのでした。
その人たちの中に時の岩松城主浦新左衛門の妻女がいました。
その夜妻女が眠りについていると夢の中にその岩屋が現れ、その中に運ばれていきました。
奥深い所で神々のお姿にふれ、伏し拝みますとキラキラ輝く小石が飛んできて額に当たりました。
夢から覚めた妻女は神のお告げの元、5年の辛い修行を行い、正確な予言をするようになりました。
その後、「浦姫様」と呼ばれ評判が福岡藩二代藩主「黒田忠之公」にまで届きました。
忠之公は真偽を確かめるため、使者を遣わしましたが、「私には人の心の中がわかるのです」と言って
使者の浦姫への疑念や城を出るときの様子を見透したように言い当てたのです。
敬服した使者が福岡に戻り、忠之公に事の始終を報告しますと忠之公はすっかり感心されました。
その後、黒田藩にはお家騒動が起こり、幕府から呼び出されることになりました。
忠之公は、家老を江戸に上らせたのですが、不安でならず、浦姫のもとへお忍びで行かれました。
江戸の成り行きを尋ねますと浦姫は、庭にある榎の大木に登り、江戸の方をみつめ、一心に思いを
凝らします。しばらくすると浦姫の心に江戸城の裁きの様子が映り家老の明快な返答ぶりを教えてくれました。
忠之公は、その信じられないような能力に驚かれ、後に浦姫の話が事実と少しも違わないことを知ると、
その信頼は益々深まり難しいことがおこる度に相談されたそうです。」(浦姫伝説より)
因みに黒田家のお家騒動とは、
世に知られている「黒田騒動」は、元和9年(1623年)長政没後から始まります。
新藩主になった忠之のわがままは治まらず、家臣をむやみに打ち叩いたり、近臣を集めては毎日酒宴におぼれ、剛健・質素の家風は忘れられていきます。
大膳をはじめ藩の重臣たちが忠之に何度諫言してもとりあってもらえず、藩政は険悪な状況になっていきました。忠之は、幕府が最も嫌う軍船を建造し幕府のとがめを受けます。
大膳などの謝罪で事なきを得ましたが、忠之の乱行は治まりません。
忠之は、領主になる前から小姓として仕えていた倉八十太夫をかわいがり、食禄は加増を重ね9000石にまで取り立てています。
さらに、重臣のだれにも相談なしに十太夫を家老にし、十太夫の権威は藩随一になります。忠之のわがままは益々ひどくなり、藩の乱れは承知しながらも藩の重臣たちも口をつぐみます。
諫言をなすのは大膳のみとなり、諫言してもしりぞけられ続けました。
忠之は、独断で新規に足軽200人を抱え、一銃隊を編成して十太夫につけます。この時代、大名が城郭を補強・修理したり士卒を雇い入れたりすることは禁止されていて、
幕府による藩取り潰しの口実にされかねない出来事です。大膳は、若輩の十太夫に頭をさげ、諫言書を藩主忠之に届けるよう依頼します。十太夫はこれを握りつぶし、
大膳の悪口を言いつけて忠之をたきつけます。こうして忠之と大膳の間には修復できない亀裂が生じてしまいます。忠之は大膳の殺害を口にしますが、大膳は職を退いて杷木志波の邸に帰り、
藩をつぶすことなくこの急場を乗り切る方法を考えていました。
寛永9年(1632年)6月、大膳は九州大名の総目付け日田代官・竹中采女正に「藩主に反逆の企てあり」との訴状を差し出します。
これは、裁きの庭で長政と家康の関係を幕府高官に再確認させることが目的で、自身は「主に対する反逆の罪」に問われることを覚悟しての行動でした。
思惑どおり寛永10年(1633年)3月、大膳は裁きの庭で諸老中を前に「御老中の御威光による御意見をいただく以外には、主・忠之をして神君・家康公の御厚志を守り通さす方法見当たらず
公訴の手段をとりました。家康公の御意思をふみにじってはなりません」と釘をさしています。大膳の命をかけた訴えによって、次のような幕府の評定が出されました。
「治世不行き届きにつき、筑前の領地は召し上げる。ただし、父・長政の忠勤戦功に対し特別に旧領をそのまま与える。」
「大膳は主君を直訴した罪で奥州盛岡に配流。150人扶持を生涯与える。」
こうして黒田藩はとりつぶしを免れ、その後忠之は島原の乱や長崎警護の任で活躍し、城下町の賑わいのために尽力しています。
大膳は、盛岡で罪人あつかいされることなく、62歳で生涯を終えました。お墓は岩手県盛岡市にあります。(福岡県朝倉市HPより)
この桜井神社の奥には、桜井大神社があります。祭神は、天照皇大神、豊受皇大神。
此の地に天照皇大神、豊受皇大神を勧請すべきという神託があり、二代藩主忠之公は、神明造りの三殿を造営し、寛永2年(1625)伊勢神宮外宮、内宮両宮の御分霊を勧請しました。
この桜井大神宮も20年ごとに式年遷宮を行ってきましたが、第13回目で止まり、現在の社殿は、慶応2年(1866)のものです。
森の中の参道を歩いていくと、神聖な場所に建っていました。何かパワーが宿っているようでした。