よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

東海道道草ウォーク№38「箱根関所~箱根湯本」(神奈川県箱根町)

2018-04-20 07:05:35 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

4/10(火) 箱根関所資料館を出ると恩賜箱根公園の所に「箱根八里」の歌碑があります。この歌1番が昔の箱根、2番が今の箱根をうたっています。尤も明治34年(1901)の作品です。

そもそも「箱根」の地名の由来というのが気になって調べてみると、箱根の由来には、いろいろな説があります。例えば。。。

・ハコは「神仙」、ネは「山」という意味で、ハコネとは神の住む山である

・火山により、カルデラと外輪山ができ、地形が凹んだ箱のようなことから  など。由来として正しい解釈は、未だ判明していません。

 

  

箱根~三島間が西坂に対し、箱根~湯本間を東坂とよんでいます箱根~権現坂ー天ヶ石坂ー白水坂ー於玉坂(甘酒茶屋)-追込坂ー猿滑坂(見晴茶屋)-橿木坂ー西海子坂ー(畑宿)-

大澤坂ー割石坂ー女転し坂ー葛原坂ー観音坂になります。

恩賜箱根公園から旧街道に入ります。このあたりは、「箱根八里」の歌詞「昼猶闇き杉の並木」に出てくる箱根杉並木。恩賜箱根公園から元箱根まで約500m続きます。1618年(元和4)、

幕命によって川越城主・松平正綱が植林したと伝えられています。400本を越える樹齢400年近くの杉が連なり、夏の強い日差しや冬の寒風から旅人を守っていました。

なかには幹回り4mの大木もあります。

    

 箱根神社は箱根大神(瓊瓊杵尊、木花咲耶姫命、彦火火出日尊)をお祀りしています。

身替わり地蔵は、宇治川の先陣争いで名高い梶原景季は、ある時、箱根を通りがかった時、何者かに襲われました。当時弁舌巧みで度々人を陥れた平景時と間違えられたそうです。

幸いにも傍らにあった地蔵が身替わりになって、命が助かりました。それ以来この地蔵を身替わり地蔵と呼ぶようになったそうです。

   

賽の河原は、芦ノ湖畔や元箱根にあった石仏、石塔をここに集めたものです。

ケンペルとバーニーの碑は、およそ300年前、ドイツ人医師であり博物学者のケンペルが来日。箱根の山を越えて、江戸に参府した。その時の印象を記したのが『日本誌』。箱根の美しさを称え

世界に初めて箱根の植物(ハコネグサ)を紹介したことでも知られます。イギリス人貿易商バーニーはケンペルの書いた『日本誌』に感激し、箱根の自然保護を訴えました。

この2人の功績を称える石碑です。ここから権現坂に入ります。

   

 お玉観音堂」は元禄15年(1702)、お玉という10代の少女が江戸の奉公先の家から伊豆の実家に逃げ帰ろうとしたが、関所手形を持っていなかったため箱根関を通ることができませんでした。

そこで、関を通らずに周囲の山にあった柵を通って関所破りをしましたが、関所の番人に捕まり2か月後に処刑されました。その後、「那津奈可池」(なずながいけ、お玉ヶ池の旧名)で

お玉の首を洗ったという伝説ができたことから「お玉ヶ池」と呼ばれるようになりました。お玉の霊を供養するための観音堂です。

 箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川 という箱根馬子唄の碑がここに建っていました。

   

ゆっくり坂を下っていると、後ろから大きな足音が聞こえます。僕らはゆっくり下っていますので道を譲りました。外人のカップルでした。外人にもこの石畳は人気なんでしょうか?

この外人のカップルは、この先の甘酒茶屋まで歩かれていました。

    

恩賜箱根公園から約1時間10分で「甘酒茶屋」に到着。説明文によると、湯本~箱根関所間は、道が大変険しく、当時の旅人が普通1日10里(約40km)を費やすところ、箱根地区では、

8里(約32km)しか歩けなかったそうです。 ※僕らは、写真を撮ったり、寄り道をしたりで1日20kmぐらいしか歩けません。

江戸時代この地には4軒の茶屋がありましたが、明治13年(1880)国道1号線も開通などから街道を歩く人が減少し、現在ではこの地に1軒のみとなっています。

因みに、この店の店主は13代目だそうです。店内は、観光客それも半数は外国の方が多かったです。

中に入ってみると、ちょっと薄暗い感じですが、甘酒ではなく、力餅を注文しました。餅は暖かくそんなに甘くもなく大変おいしかったです。

また、この店には、赤穂浪士の一人神崎与五郎の詫状伝説が残っています。赤穂浪士神崎与五郎が、同志と江戸へ下る途中、箱根の山中で馬子の丑五郎から馬をすすめられたが断った。

そこで丑五郎は悪態の限りをついたので、与五郎は思わず刀に手をかけ切り捨てようとした。しかし大事の前の小事と涙を飲んで我慢をし、甘酒茶屋にて詫証文を書き土下座して謝った。

月日が経ち、丑五郎の耳にも仇討ちの話が入り、あの時の浪人がかの神崎与五郎と知り悔い改めたという

  

笈ノ平は、坂道が一旦途切れて道が平坦になっています。そのため茶屋などが設けられていたそうです。

ここには、親鸞上人が、関東での布教を終えて西国に帰る時、関東に残る弟子たちと別れる時、笈を渡したことから親鸞上人御舊蹟の碑があります。

この時、「病む子をば預けて帰る旅の空 心はここに残りこそすれ」と詠んでいます。

   

猿滑坂、橿木坂を通ります。猿滑坂は、新相模国風土記には、殊に危険、猿猴といえどもたやすく登り得ずよって名とす。と書かれています。

旧街道は一旦広い道に出ます。ここが、箱根駅伝コースかな?と思いましたが違うようです。ここからヘアピンカーブが連続します。ここが箱根七曲がりです。

  

再び旧道へ。

  

畑宿一里塚です。一里塚の横には、芹沢光治良の箱根八里歌碑「箱根路や往時をもとめ登りしに未来の展けてたのしかりけり」が建っています。

  

間宿畑宿の本陣は屋号を茗荷屋と呼ばれた名主の本屋敷跡です。家屋は大正元年(1912)全村火災の折に消失しましたが、庭園は昔を偲ぶそのままの姿で残されました。

小規模ながら旧街道に日本庭園として他に無かったようです。畑宿は、今から百二、三十年前の江戸時代の中期には本街道の宿場として今より多く栄えた集落で、

郷土の伝統工芸「箱根細工(箱根寄木細工)」が生まれ育ったところです。畑宿で木地細工が作られた記録はかなり古く、小田原北条氏時代までさかのぼります。

江戸時代畑宿は箱根旧街道の間(あい)ノ村として栄え、たくさんの茶屋が並び、名物の蕎麦、鮎の塩焼き、箱根細工が旅人の足を止めました。

安政4年(1857)11月26日、米国初代領事で伊豆下田に於けるお吉物語で有名なハリス・タウゼントが江戸入りの途中、ここに休憩鑑賞しました。

ハリスの箱根越えはエピソードが多く大変だったようです。下田から籠で上京したハリスが箱根関所で検査を受ける際、ハリスは「私はアメリカ合衆国の外交官である」と

検査を強く拒否すすて関所側とトラブルを起こしてしまいます。下田の副奉行が中に入って、ハリスを馬に乗せて籠だけ検査をすることを提案し、関所側は妥協しました。

ハリスは怒ったり笑ったりで関所を通り、そして畑宿本陣に着いてから彼がはじめて見る見本式庭園の良さに心なごみ機嫌はすごぶる良好になったといいます。

明治元年十月八日明治天皇が東京遷都の御途次や翌年皇后の京都還幸の御途次等で小休ならせらした聖跡の碑も建てられています。(説明文より)

  

大澤坂を通り、須雲川自然探勝歩道に入ります。ここは、一部が旧東海道です。途中に東坂の接待茶屋跡がありました。

  

割石坂は、曽我五郎(曽我兄弟の弟)が富士の裾野に仇討に向かう途中、腰の刀の切れ味を試そうと路傍の石を真っ二つに切割った所と伝えられています。

江戸時代の石畳は、石全体が丸くなっており、雨が降った時など、滑りやすくなっています。

   

歩いていると「丸太橋」を渡ると書いてます。そろりそろりと下りていくと、丸太橋でなく木橋が2つ架かっています。何となく江戸時代に返ったようで渡りました。

  

女転し坂は、寛永年間(1624~1644)に女の人が馬に乗って坂を越えようとしましたが、傾斜のあまりにも厳しさに落馬して亡くなったことから坂の名前がついたそうです。

鎖雲寺には、初花・勝五郎の墓があります。浄瑠璃(じょうるり)歌舞伎の登場人物。「箱根霊験躄仇討(はこねれいげんいざりのあだうち)」の主人公夫婦。飯沼勝五郎は妻の初花とともに 

父の敵(かたき)をもとめて旅をするが,病から両足が不自由となる。箱根で初花は返り討ちにあうが,亡霊となって滝にうたれて祈願すると,勝五郎の足がなおり敵討ちをはたす。

享和元年(1801)司馬芝叟(しそう)が実録を浄瑠璃に脚色。

    

ホテルの名前にも「初花」が使われています。

葛原坂、昔、観音堂があったとされる観音坂・・・・・これで箱根東坂を越えてきました。

  

旧湯本茶屋村の村境には、「男女双体道祖神」があります。男女が手をつなぎ、寄り添う姿から仲睦ましい道祖神と呼ばれています。

   

正眼寺は鎌倉時代に地蔵信仰から生まれたお寺。仇討で有名な曽我兄弟に関係するお寺です。

裏山にある曽我堂には県、および町の重要文化財指定の曽我兄弟木造地蔵菩薩立像が祀られており、境内には供養塔、槍突石など、曽我兄弟ゆかりのものが多く残っています。

  

三枚橋を渡り、今日のゴール「箱根湯本駅」に向かいます。

17:25 小田急箱根湯本駅に到着しました。今日は、8:45にスタートし、約9時間歩きました。石畳が多く疲れました。

  

 


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8 コメント

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Unknown (セロリさん)
2018-04-20 17:47:03
詳細まで行き届いたブログを拝見して、とても勉強になります。
箱根の石畳は、諸大名の江戸への攻撃を防ぐため要塞的な意味から、石の大きさや高さをわざと変えてあるのでとても歩きずらいのだと、東海道歩きの先輩に聞いたことがあります。
甘酒茶屋の佇まいは、江戸時代にタイムスリップしたような気分になりますよね。(少し薄暗い広い土間など)本当にお疲れ様でした。
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セロリーさん (よっくん)
2018-04-20 19:48:38
コメント有難うございます。
やっと神奈川県に入りました。
箱根は、うわさには聞いていましたが、こんなに多くの坂があるなんて知りませんでした。特に急勾配の坂を下る所なんか、ポールを使ったからよかったけどなかったら大変だったろうと思います。今回、小田原まで歩きましたが、小田原守谷のアンパンに惚れました。11月の小田原ウォークにも参加しようかと思っています。
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Unknown (kumasan)
2018-04-20 23:09:33
箱根の難所をなんと9時間も歩きとおされたとは驚きました。
滝廉太郎の箱根八里はまさにその天下の険たることをメロディに表現されていて、いまでもよく歌っています。
詳しくレポートしていただき有難うございます。
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お疲れ様でした。 (サンカヨウ)
2018-04-20 23:33:57
箱根峠越えの詳細なレポーを、楽しくなつかしく読ませていただきました。緩やかな西坂はだらだらと長く意外に疲れますよね。そして、険しい東坂と本当にお疲れ様でした。甘酒茶屋で昼食休憩した時に、私も力餅を食べました。美味しいですよね。
よっくんさんのブログにはいつも元気をいただいております。
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Kumasan (よっくん)
2018-04-21 05:05:15
おはようございます。
箱根の坂道を下るときは、時速3kmぐらいでした。
ゆっくりゆっくり下りてきましたので後ろから来た人に抜かれました。然し、天気も良かったので富士山も見られちょっときつかったですが、いい思い出になりそうです。
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サンカヨウさん (よっくん)
2018-04-21 05:10:05
コメント有難うございます。
箱根の山を通りながらサンカヨウさんもここを通られたんだなと思いながら歩きました。下りは、楽だろうと思ってましたが、なんの何の急勾配があり、余計に力が入り翌日は足がこっていました。
甘酒茶屋は、観光客(それも外国の方)が多かったです。
外国の方は、元箱根から甘酒茶屋までの石畳が観光スポットになっているのでしょうね。
これで江戸が近くなりました。
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Unknown (country walker)
2018-04-22 19:45:31
東海道五十三次の内でも難所中の難所の箱根越え。
箱根八里も湯元まで来れば後は小田原まで緩やかな下りの街道になります。
かつて、自分が歩いた懐かしい場所の数々、月日の経過と共に薄れ行く記憶が呼び戻された感じで本当に懐かしく拝見いたしました。
此の地から江戸までは箱根駅伝で知られた権太坂以外は平坦な路だったと記憶しております。
残り100kmを割った旧東海道、ご夫妻共々、存分に楽しんで歩いてください。
ここ迄踏破すればゴール地の日本橋が見えてきましたね。
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countrywalkerさん (よっくん)
2018-04-23 20:38:25
コメント有難うございます。
やっと箱根越えをしました。思ったより難所ですね。
次の日足がこりました。(笑)湿布薬を貼って小田原に向かいました。これからは箱根駅伝のコースですね。しっかり楽しみながら歩きたいと思っています。
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