よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

中山の大藤(福岡県柳川市三橋町)

2014-04-27 20:56:10 | JR九州ウオーキング

GWの初日(4/26)、JRウオーキングで柳川市三橋町にある「中山の大藤」を見に行きました。

スタート場所は、JR筑後船小屋駅。

筑後船小屋駅周辺には、福岡ソフトバンクホークスの2軍の練習場、合宿所建設が発表され、2016年春には、オープンとのこと。

駅周辺一帯は、ソフトバンクホークス一色になるでしょう。

                    

中山の大藤の由来は、享保年間(1716~1735)、中山村で酒造業を営んでいた通称「万さん」が上方見物に出かけた際に「吉野の桜」「野田の藤」と並び称された藤の名所として

有名な河内野田(現 大阪市福島区)から藤の実を持ち帰り、自宅に植えたものと伝えられている。

数十年後、毎年4尺(約1.2m)の見事な花を咲かせるようになり、花見の時期には見物客で賑わうようになりましたが、酒に酔った武士が刀を抜き乱暴を働いたために

藤の木は、熊野神社境内に移されました。

現在は、地元保存会の皆さんが手入れをし、毎年4月中旬から末頃には、多くの見物客で賑わいます。(案内文より)

今日は、天気も良く、藤の花見学にたくさんの方がこられていました。

    

私、この藤を見るのは初めてで、藤のトンネルには驚きました。

一本の木からでしょうか、横に伸び、それはそれは見事な藤です。

  

   

藤の周りには、藤の香りが漂っていました。夜にはライトアップされるそうです。

      

 

 


久留米つつじマーチ2014(第2日目20km)

2014-04-23 06:00:00 | ウォーキング

4/20 朝から雨模様。合羽などを着て会場に向かいました。

第2日目の20kは、「やきものの里 皿山・田園コース」です。会場で出発を待っているとこんな方がおられました。

   

大阪の方で「Tさん」。昨日、今日と両日40kmを歩かれるそうです。お顔を拝見しましても、とても89歳には見えません。

雨が降りしきる中、7:30 スタート。

梅林寺を通り、筑後川を渡って佐賀県みやき町に入ります。

    

千栗八幡宮の先の交差点が、40k、20kの分岐点。20kは、佐賀カントリー倶楽部を通って「皿山」に向かいます。

    

   

白石焼」は、文化3年(1806)、白石鍋島藩が本藩御用窯「大川内」(伊万里)から陶工を呼び寄せ、白石で御用焼を命じたのが始まりです。

有田が、西目の皿山、白石が東目の皿山と称されました。

白石神社から下ってくると、先ほど千栗交差点で分かれた40kmの方とすれ違います。ウオーキング友達のNさんと、ここですれ違いました。

天吹酒蔵では、新酒ではなく、お酒の仕込み水が振る舞われました。

  

コースは、長閑な田園地帯を歩きますが、時折 風が吹いて少し寒くなります。

筑後川を渡り、水天宮へ。

  

久留米の水天宮は、全国水天宮の本山で、社伝によれば、寿永4年(1185年)、高倉平中宮に仕え壇ノ浦の戦いで生き延びた按察使の局伊勢が千歳川(現 筑後川)のほとりの鷺野ヶ原に逃れて来て

建久年間(1190年 - 1199年)に安徳天皇と平家一門の霊を祀る祠を建てたのに始まる。伊勢は剃髪して名を千代と改め、里々に請われて加持祈祷を行ったことから、当初は尼御前神社と呼ばれた。

そのころ、中納言平知盛の孫の平右忠が肥後国から千代を訪れ、その後嗣とした。これが現在まで続く社家・真木家の祖先である。

幕末の志士・真木和泉守保臣は第22代宮司であり、境内社・真木神社に祀られている。

    

境内の案内板には、

  「真木和泉守保臣」(1813~1864)は、明治維新の中心的人物である。

  水天宮神職の家に生まれ、早く父を失ったが、よく母に仕え、かねてから学問に励み、武道、音楽にも長じ、藩校明善堂(現 明善高校)から表彰を受けた。

  傍らに流れる筑後川は、菊池一族の誠忠を語り、少年の時愛読した絵本「楠公記」は、尊王愛国の精神を培い、長じては、水戸学を中心に学識を深め、しかも身を以って実践した。

  藩政改革を企ててならず、一時水田(現 筑後市水田)に蟄居したが、後に脱出して東奔西走、国事に盡し、諸国に志士から「今楠公」と謳われ、その中心的指導者と仰がれた。

  彼は、蘭方医「工藤謙同」と親しく、外国の事情にも通じ、久留米の医学刷新に盡し、久留米藩医学館の生みの親といわれる。

  また、早くから薩長連合を唱えたが、時到らず、長州藩と共に倒幕の軍を起し、禁門の変に敗れ、同志16人と天王山に登り、辞世の和歌を残して自刃した。

          大山の峰の 岩根に埋にけり  わが年月の 大和魂

境内には、水田で暮らした「梔子窟」が再現されています。

 水天宮から久留米市中心部へ向かいます。荘島公園では、お味噌汁の接待がありました。雨で少し寒くなってきましたので暖かいものは、本当に助かります。

ふと、周りを見ると自衛隊の調理車が・・・・・・・  この味噌汁、調理車で作っていたのですね。

    

ゴールまであと2km。朝から降っていた雨もようやく上がりました。

ムーンスターの本社前を通り、「青木繁旧居」へ。中に入ろうかと思いましたが、他のコースの人でいっぱいでしたのでここはパス。

東町、西鉄久留米駅を通りゴールの中央公園へ。今日は雨で散々でしたが、昨日みたいな急坂もなく無事ゴールしました。時間は11:45でした。

  

    

この大会、ゴール後のお楽しみで抽選会があります。完歩証の番号によって商品が当たります。昨日は何番か違いで何にも当たりませんでしたが、今日はというと・・・・・・・

                                                  当たりました   

    

アサヒコーポレーションの「メディカルウオーキングシューズ」です。定価22,000円(税別)。

新しいウオーキングシューズが欲しいなと思っていましたのでホントラッキーでした。

どうも有難うございました。大事に大事に履きます。

 

 

 

 

 


久留米つつじマーチ2014(第1日目20kmコース)

2014-04-22 10:42:12 | ウォーキング

4/19~4/20は、JWA久留米つつじマーチ20kコースに参加しました。20kは、高良大社・森林ツツジ公園コースです。

   

会場の中央公園には、花ミズキがきれいに咲いています。

つつじ公園の見事なツツジに魅せられてもう6年連続の参加です。

7:30 またいつものように40kmコースの方と一緒にフライングスタートです。

今年のコースは、高良大社を登るコースに変更されていました。久留米大学の構内を通り、御井町の高良大社の大鳥居を左折し、御井(みい)小学校に入っていきます。

御井町は、昔の防津街道(薩摩街道)「府中宿」があった所です。そういえば、大鳥居の近くには、旧家がありました。こういう街道を見ると歩きたくなりますね。(笑)

この大鳥居は、承応4年(1655)に建立され、高さ6,8mです。

    

さあ、高良大社へ向かいます。ここから急な坂道が待っています。

   

私、坂道はそんなに苦手ではないのですが、もう心臓がパクパクしてきます。息を整えながら登っていきます。

約30分かけて登ってきました。然し神殿までには131段の階段が待ち構えています。

  

高良大社、「高良玉垂命」(こうらたまたれのみこと)、住吉大神、八幡大神の三柱の神々を祀る旧国幣大社、筑後一の宮です。

古くは「高良玉垂命神社」と呼ばれていました。大社に伝わる「絹本著色高良大社縁起」によれば、今から1600年前、仲哀天皇の御世、異国の兵が筑紫(九州)に攻め込んできました。

西に下った神功皇后が追い返し、筑紫国四王子嶺に登って神仏に助けを祈られたとき、高良玉垂命という神が住吉の神と共に初めて出現されたと伝わります。(高良大社HPより)

高良玉垂命は、武内宿祢と言われています。

今月初め、山陽道・明石の稲爪神社を歩いた時、異国の鉄人が来たとありましたが、この時代やはり異国から攻められたみたいですね。

話を元に戻します。ここ高良大社には久留米ツツジの原木があります。

江戸時代末、久留米藩士坂本元蔵(1785~1854)が、キリシマツツジを原種として苦心の末、新種の改良に成功したことで知られています。

坂本は、高良山及び梅林寺の境内に二千本余りのツツジを植えたといわれ、そのツツジから種子を採取しました。

現在、梅林寺にはツツジの古木は見当たらず、古木群生は高良山に残るだけです。(案内板より)    これが久留米ツツジの原木です。↓

   

高良大社の裏を通り、第一回のチェックポイント久留米森林ツツジ公園へ。ここはかつて南北朝時代に菊池一族が拠点としていた山城跡です。

ツツジ公園には、久留米ツツジ100種、62000株が植えられています。

  

  

  

  

高良山を降りていくといろんなお花が咲いています。「シャガ」「踊り子草」・・・・・・・

    

分岐点を過ぎると20kコースを歩く人は、まばらになりましたので、民家のお花を見ながらゆっくり歩きます。

   

     

二回目のチェックポイントの山川小学校では、地元さくら味噌の味噌汁、白玉ぜんざいが振る舞われました。

   

山川小学校を出てJR久大本線沿いに歩いていると、特急「ゆふいんの森号」に会いました。手を振ったけどわかったかな??

  

もう「なんじゃもんじゃ(ひとつばたご)」の花が咲いていました。

高良川では、5kmコースの方と合流します。こちらは、子供さん連れでウオーキングを楽しまれていました。

12:05 ようやくゴールしました。

明日も20kを歩きます。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 


直方(のおがた)チューリップ祭り2014

2014-04-15 21:46:57 | JR九州ウオーキング

4/12は、直方へチューリップ祭りに行ってきました。

先ずは、煎餅で有名なもち吉本店のチューリップ園へ。

     

遠賀川河口では、チューリップ祭りが開かれていました。いろいろなチューリップがあり、目を楽しませてくれました。

  

  

  

  

会場では、「ふくおか官兵衛」君も駆けつけていました。

また、黒田節で有名な「母里太兵衛」は、福岡藩鷹取城主としてこの直方に入城しました。

    

 

 

 

 


山陽道(西国街道)を歩く(須磨~三ノ宮)35日目

2014-04-14 11:19:55 | 山陽道(西国街道)を歩く

4/06 JR三ノ宮駅から昨日のゴール須磨駅へ。JR須磨駅8:17到着。

昨日は山陽電鉄で帰ったのですが、運賃は@330。これに対しJRは@180 距離にもよりますが運賃があまりにも違いすぎます。

さて、今日も街道を歩きます。2号線を千守の信号に向かっていくと左側に「村上帝社」があります。

平安期の末期、太政大臣藤原師長は、琵琶の名人だったが、さらに奥義を極めたいと入唐の忠をもってこの須磨の地にきました。

ところが村上天皇と梨壺御女の神霊が現れ琵琶の奥義を伝えたので入唐を思いとどまり帰京した。

一説に龍宮から師長に捧げた琵琶の明記を埋めた所であると伝えられている。

街道は、千守の信号から斜め左に行かなくてはならなかったが、道を間違え「綱敷天満宮」まで来てしまいました。

綱敷天満宮は、大宰府へ左遷された菅原道真が風波を避けて須磨に上陸した時、美しい松の木の下に地元の漁師たちが作った漁網の大綱を巻いた円座で休息された。

道真の死後、このことに因んで創建された。須磨の天神さんとも呼ばれている。春には境内の梅林で綺麗な梅が咲く。

   

天満宮を見て、「千守」の信号まで戻ります。山陽電鉄のガードを潜り、「現光寺」に着きました。

「現光寺」は源氏物語の主人公光源氏の住居跡と伝えられ、昔は「源氏寺」と呼ばれていた。境内には、松尾芭蕉や正岡子規の句碑がある。寺の近くには、「藩架(ませがき)」とかヤグラという

字名が残されたことにより、古代の須磨の関跡とも言われている。

   

街道へ戻ります。山陽電鉄「須磨寺駅」には、「平 重衡(しげひら)とらわれの松跡」があります。

「平重衡」(平清盛の五男)は、生田の森の副将軍だったが、敗走の途中追われて、味方の船にも乗れず、馬も失い、自害を覚悟しようとしたところ、此の地で捕まった。

源氏の捕虜となり、土地の人が哀れに思い名物の濁り酒をすすめたところ、重衡はたいそう喜んで「ささほろや波ここもとを打ちすぎて須磨でのむこそ濁り酒なれ」の句を詠んだ。

のち、鎌倉へ送られ処刑された。

  

ここで街道から離れ「須磨寺」へ寄り道します。

須磨寺は、福祥寺が正式な名称です。真言宗須磨寺派の大本山。和田岬の海中から引き上げられ会下山の寺に祀られていた「聖観音像」が仁和2年(886)現在の場所に

祀ったのが始まりです。それよりも源平ゆかりの寺として有名です。ちょうど桜が満開でした。

  

   

境内には、源平合戦のものが祀られています。「源平の庭」では、平敦盛と熊谷次郎直実 戦いの場面が再現されていました。

  

本堂に行くと、「敦盛首洗い池」や「源義経腰掛の松」「敦盛首塚」などがあります。

  

一の谷の戦いで悲哀として歌われているのが「青葉の笛」。

一番は、平 敦盛のこと。二番は、平 忠度のことです。

      一   一の谷の軍(いくさ)破れ  討たれし平家の  公達あわれ

          暁寒き  須磨の嵐に 聞こえしはこれか  青葉の笛

 

     二    更くる夜半に  門を敲(たた)き  我が師に託せし 言の葉あわれ

          今わの際まで 持ちし箙(えびら)に 残れるは 「花や今宵」の歌    

一、  平敦盛は、清盛の弟経盛の末子。

 一ノ谷の戦いに参加。源氏側の奇襲を受け、平氏側が劣勢になると、騎馬で海上の船に逃げようとした敦盛を、敵将を探していた熊谷直実が

「敵に後ろを見せるのは卑怯でありましょう、お戻りなされ」と呼び止める。敦盛が取って返すと、直実は敦盛を馬から組み落とし、首を斬ろうと甲を上げると、

我が子直家と同じ年頃の美しい若者の顔を見て躊躇する。直実は敦盛を助けようと名を尋ねるが、

敦盛は「お前のためには良い敵だ、名乗らずとも首を取って人に尋ねよ。すみやかに首を取れ」と答え、直実は涙ながらに敦盛の首を切った。

首をとって身分を調べると兜の裏から出てきたのが「小枝」という笛。夜毎嵐のように聞こえていた笛の音は、この方のものだったのか!!

その時、直実は世の儚さを怨み敦盛の菩提を弔うため出家した。(一部ウィキペディアより引用)

二、 平忠度は平忠盛の六男。

歌人としても優れており藤原俊成に師事した。平家一門と都落ちした後、6人の従者と都へ戻り俊成の屋敷に赴き、門を敲いて師匠に面会を求め、自分の歌が百余首おさめられた巻物を俊成に託した。

『千載和歌集』に撰者・俊成は朝敵となった忠度の名を憚り「故郷の花」という題で詠まれた歌を一首のみ詠み人知らずとして掲載している。

『千載和歌集』以降の勅撰和歌集に11首が入集。なお、『新勅撰和歌集』以後は晴れて薩摩守忠度として掲載されている。

源頼朝討伐の富士川の戦い、源義仲討伐の倶利伽羅峠の戦い等に出陣。一ノ谷の戦いで、源氏方の岡部忠澄と戦い41歳で討死。平家物語によると源氏に紛れる作戦をとっていたが、

源氏の多くが付けていないお歯黒を付けていたので見破られて討たれた。その時箙(えびら)に結びつけられたふみを解いてみると、「旅宿の花」という題で一首の歌が詠まれていた。

         行(ゆき)くれて 木(こ)の下かげをやどとせば 花や今宵のあるじならまし

千載和歌集に、詠み人知らずとして掲載されている歌は、

         さざ波や 志賀の都は 荒れにし 昔ながらの山桜かな

 

     

この「青葉の笛」は明治39年に尋常小学校の唱歌として教科書に載せられました。

私が学生の頃はこの歌は、教科書には載っていませんでしたが、初めてこの歌を聞いたのは中学の歴史の時間ちょうどこの「一の谷戦い」で

歴史の先生が歌ってくれました。何か悲しい歌で心に浸みこみました。(女の先生だったからかな?)

尚、この「青葉の笛」はこの須磨寺にあるそうです。

 

再び街道に戻ります。

天神町に「菅の井」があります。大宰府へ左遷された菅原道真が須磨で休息されたとき際に、須磨の旧家「前田家」から井戸の水を汲んで差し上げた。

道真公は、たいそう喜び自画像を前田家に与えたそうです。

前田家ではその井戸を「菅の井」と名付けた。その水で銘酒「菅の井」を造り毎年太宰府天満宮に献上したと伝えられています。

  

今日の天気予報では、10時ごろから雨が降り出し、午前中は雨。昼からは上がるとのこと。その雨が降ってきました。

ガード下に行き、Dバックから合羽を取り出します。

妙法寺川にやってきました。ここには川沿いに桜が植えられています。雨でなければお花見の方でいっぱいでしょう。

    

長田区に入りました。

平成7年(1995)1月17日5時46分淡路島北部を震源とするマグニチュード7.3の地震が発生しました。この長田区では火災が発生し多くの方が亡くなられました。

あれから19年、町を見るとモダンな家が立ち並び、また道路も整備され一見新しい住宅地みたいな感じです。

歩いていると私のDバックの「博多から旧山陽道を京に向けて歩いています」を見て、自転車で来られた70代の男性の方が声をかけてきました。

「僕もリタイアしたら、あなたたちみたいに歩いて全国を廻りたかった・・・・・。しかしあの地震がね・・・・・・いまだに借金を背負っているからそれもできない・・・・でも君たちを見ていると元気が出てきた」

その言葉を聞いた時、何かグッとくるものがありました。定年後の楽しみとして始めたこの「街道歩き」。歩きたくても歩けない方もいらっしゃいます。

生意気な言い方ですが、そういう方に「元気」を与えていればいいのですが・・・・・・・

「元気」といえば、やはりこれでしょう。鉄人28号です。

ビルのまちに ガオー  夜のハイウエーにガオー  ダダダダダーンとたまがくる  バババババーンと破裂する  ビューンと飛んでく鉄人28号

阪神淡路大震災の復興シンボルとして2009年(平成21年)9月30日に完成しました。鉄人28号の高さは15.6mです。自転車の方と比べてください。

 

  

新長田駅に来ると雨が強くなりました。しばし商業施設に入り雨宿りをします。

雨も小降りになった所で再び街道に合流します。

西代の交差点から高架橋の下を通ると左側に「蓮の池跡」があります。

昭和6年まで、ここには「蓮の池」という四町二反(約4ha)の大きな池がありました。奈良時代に周辺の田に農業用水を供給する「ため池」として作られ、僧「行基」が作ったと

言い伝えがあります。池が完成したとき「蓮の花が美しく咲いているという極楽浄土の池のようにこの池にも蓮の花が咲き乱れ、この水で人々が豊かになるように」と願って

行基は一株の蓮の花を池に投げ入れたといわれています。

また、この辺りは西国街道にあたり、南北両側に「大路通」という町名があります。この町名の由来は西国街道だといわれています。

古代(律令時代)には、街道の重要性、利用頻度などから大路、中路、小路に分けられ、そのうち山陽道は唯一大路でした。

山陽道は、道幅が9~12mだったといわれ、西国街道と呼ばれる頃には、幅3~6mぐらいだったそうです。

現在の中央幹線は、道幅50mです。昔ながらの言い方をすれば「超大路」ですね。

    

新湊川を渡ります。今回は、行きませんでしたが、長田神社はこの左の奥にあります。

新湊川橋を渡った所に「平知章之碑」があります。寿永3年(1184)源平一の谷合戦で討ち死にした「平通盛」、源氏の「木村源吾重章」、同じく「猪俣小平太則綱」らの碑が

この西国街道に面してあった。

   

国道28号線一番町交差点が、長田区と兵庫区の区境です。街道はこの交差点から斜め右に入ります。

「兵庫」という地名の意味は、天智天皇の治世に、兵の武器の倉庫(つわものの蔵)があったことが由来。

因みに「神戸」は、生田神社の神戸(かんべ)(神社に所属してその経済を支えた)が由来だそうです。

兵庫駅前を通り、柳原の信号を斜め左に入ると蛭子(ひるこ)神社の北側に「柳原惣門跡」があります。

西国街道を通って兵庫の町に出入りする場所、即ち西の柳原口と東の港口には惣門が設けられました。門前には高札所があり番所が置かれていました。

周辺には旅籠が立ち並び駕籠屋が列をなすほどでした。当時の人口は2万人ほどだったそうです。 

   

兵庫宿」はその昔「福原京」。江戸時代には西宮と大蔵谷(明石)の間の宿場町として賑わいました。神明町には、本陣(井筒屋)があり、その南側には、脇本陣など4軒ありました。

その本陣を探しますが、分らず、街道を歩いた先輩方のブログの写真を見ると確かこの辺りだと思います。

  

本陣跡から少し脇道にそれると能福寺に「兵庫大仏」、「平清盛公墓所」「滝善三郎正信碑」があります。

    

  

平清盛公墓所」は、平清盛が京都で荼毘にふされたときこの寺の住職円実法眼が遺骨を持ち帰り、寺領内に葬りました。

兵庫大仏」は、日本三大大仏(奈良の大仏、鎌倉の大仏)の一つで身丈11m、重量60t、蓮台高3m、台座高4m、総高18mあります。

兵庫開港以来、急速に増えたキリスト教信者に危機感を抱いた仏教徒らが仏教のシンボルと言われる大仏を建立したといわれています。

明治23年(1891)豪商南条荘兵衛の寄進により建立されました。当時の大仏は、座高が8.5m。

昭和19年(1944)太平洋戦争下、金属回収令で国に」供出されましたが、平成3年(1991)再建されました。

滝善三郎正信碑」は、開港間もない神戸で起きた外国との紛争で発足後最初の外交問題で苦境に立たされた明治新政府を救い、

日本が外国に植民化されるのを未然に防いだのが神戸事件の滝善三郎正信の切腹であった。
 慶応4年(1868年)1月11日、三宮神社付近で西宮警備の命を受けた備前藩士の行列を横切った外国人を傷つけたのが発端となり、

衝突が起こり、神戸事件として国際問題になったのである。  備前藩では滝善三郎正信(32歳)を責任者として同年2月9日、各国代表者立ち会いのもと永福寺で

切腹させ事件の解決を図ったとされている。これで一応の解決をみたのであるが、市民は滝善三郎を事件の犠牲者として哀れみ、永福寺に慰霊碑を建てた。

永福寺は、昭和20年の神戸大空襲で焼失したが、昭和44年百回忌にあたり、慰霊碑が能福寺に移された。

   

岡方惣会所」は、

徳川時代、兵庫津の行政機構は全域を三分し、岡方、南浜、北浜とした。 これを三方(みかた)と称し、大阪奉行支配であった。三方には、それぞれ惣会所があり、

名主が総代や年寄などを指揮して行政を行っていた。岡方は浜に接しない町々を含めて総称し、 岡方惣会所をここに設けていた。

札場の辻跡」(又は、高札場)  

幕府の布達等を掲示する場所で、兵庫には、ここ(南仲町)と東西の惣門、来迎寺の4ヶ所にありました。

写真の左側には、道標がありますが、半分以上土に埋っていて読めません。

古代大輪田泊の石椋(いわくら)」 

大輪田泊は平安時代の初めに律令国家の管理のもと造営された泊(港)です。承知3年(831)には、当時の中国や東アジアの最新情報を取り入れるための

遣唐使船が暴風雨を避けるため入港していました。「石椋(いわくら)」は、石を積み上げた防波堤(波消し)や突堤の基礎などの港湾施設であったと考えられます。

 

港の方にやってきました。ここが旧兵庫津です。その昔、廻船問屋の高田嘉兵衛」がここで活躍していました。

嘉兵衛は、津名郡志本村(現:兵庫県洲本市五色町)に生まれ、22歳の時、西出町廻船問屋「堺屋嘉兵衛」のもとに身を寄せ、持ち前の勇気と努力によって、わずか4年後には

千五百石の辰悦丸を建造し、船持ち船頭となった。やがて廻船問屋として独立し、蝦夷地(北海道)の開発、日露間の紛争の解決などに活躍し、兵庫津の繁栄に尽くしました。

竹尾稲荷神社には、「顕彰碑」が、西出町には、「高田嘉兵衛本店の地」があります。

    

街道に戻ります。この辺りは阪神高速道があり、横断歩道は、七宮の信号から渡ります。

信号の手前、「えびす八幡神社」の所に「湊口惣門所跡」があります。

案内板によれば、「西国往還に設けた兵庫の出入り口の惣門」とあります。
また、「兵庫の惣門は天正年間、池田信輝が織田信長の命によって花隈城を攻略し、その功によって兵庫を直し城を築く」とも書かれています。

   

街道は、湊町公園から右折。しばらく歩くとJR神戸駅が見えてきます。神戸駅は東海道本線の終点、山陽本線の起点です。

相生町の古い瓦煎餅屋さんの向い側には「湊川神社」があります。折角ですのでここに立ち寄ります。

  

 湊川神社は湊川の戦いで敗れた楠木正成を祀った神社である。門を入って右に正成の墓があり、本殿の西側付近は正成自害の場とされる。元々は小さな塚だったものを、

江戸時代の初めに尼崎藩主青山幸利(あおやまよしとし)が墓標とし、17世紀末には徳川光圀(水戸黄門)が「嗚呼忠臣楠子之墓(ああちゅうしんなんしのはか)」と

刻んだ石碑を立てました。幕末には倒幕志士の尊王のシンボルとなり、王政復古後、伊藤博文らの請願によって1872(明治5)年に神社が創建されました。

地元では、「楠公さん(なんこうさん)」の名で親しまれています。

再び街道へ。神戸駅のガードを潜ると、右側にD51のSLが展示されています。そして元町商店街の前には、「兵庫県里程元標」があります。

    

案内板によれば

旅は道づれ世は情けというが昔の旅人たちにとって唯一の道しるべは里程標でありこれによって明日への旅の希望を抱かせる心の糧ともなったのである。
兵庫県の里程元標は元相生橋の西詰に在ったが昭和6年10月国鉄高架線の完成により相生橋の撤去と共に取り除かれ保存されていたのであり

往時を偲ぶよすがとしてここに移転復活したものである。    文:及川英雄
(元の所在地より西へ約150米移す)
昭和35年年5月吉日

街道は、元町商店街に入っていきます。途中、右側に走人(はしうど)神社」があります。境内には「筆塚」がありました。

   

ちょっと回り道して南京町の中華街へ。中国か台湾の人でしょうか、周りには中国語があふれていました。

豚饅頭の「老祥記」には長い行列ができていました。他にもユーハイム「ミートパイ」やコロッケの「森谷商店」などにも行列です。

並んで買いましたけど、やはり美味しいですね。

   

街道は、大丸の前も通ります。ここに来ると人が多く、急に立ち止まったりされますので普段のスピードでは歩けません。

  

三宮神社」、祭神は、湍津姫命(たきつひめのみこと)。旧神戸村の氏神様です。境内には、神戸事件(滝善三郎正信)の碑が建っています。

生田神社」は創建は3世紀頃と伝えられる長い歴史がある神社で、祭神は稚日女尊(わかひるめのみこと)。西暦201年に神功皇后が三韓外征の帰途に神戸港で船が進まなくなったため、

神占を行ったところ、稚日女尊が現れたと日本書紀に記されている。境内の松尾神社にある杉の木に向かい、恋愛成就の願い事をすると願いが叶うとのいい伝えから「縁結びの神様」としても親しまれています。

生田の神を守る家、神戸(かんべ)が由来となって神戸という地名が生まれました。生田は元々は活田であり、活き活きとした生命力溢れる場所という意味です。

近年はアスリートやアーティストの参拝も多く、神戸中心市街地に位置することから訪れる参拝客も多数です。

 

  

三宮駅のガードを越えると「西国街道」の石碑が建っています。時間は15:25。山陽道・西宮までは、あと約18km。

次回は山陽道のゴールです。

 

  

今日のGPS

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


山陽道(西国街道)を歩く(西明石~須磨)その2

2014-04-11 19:58:14 | 山陽道(西国街道)を歩く

その1からの続きです。

2号線山田橋を渡り、その先を斜め右に入っていきます。左側に「舞子六神社」があります。

元禄2年(1689)播州明石郡山田村にて創建。祭神は、「伊邪那岐命」、「伊邪那美命」、「天照皇大神」、「素戔鳴尊」、「月夜見大神」、「蛭子大神」の六社。

「ひがし橋」というのがあります。この橋、橋の欄干はありますが、川がありません。

  

明石海峡大橋の下にきました。

明石藩舞子台場跡(舞子砲台跡)があります。これは、幕末に外国船の侵攻に備えて、文久3年(1863)に幕府の命を受け勝 鱗太郎(海舟)の指導のもと、明石藩が

築造した砲台場です。対岸の淡路島にある徳島藩松帆台場と協力して、明石海峡を通過する外国船を挟み撃ちにしたと考えられます。

明石海峡大橋は、全長3.911m、中央支間1.991mの世界最長のつり橋です。1998年(平成10)供用が開始されました。

建設当初は、全長3.910m、中央支間1.990mであったが、1995年(平成7年)の阪神淡路大震災による地盤のズレが生じ、図らずとも全長が1m伸張することになった。

  

明石海峡大橋の側は、舞子公園になっています。この中には、「孫文記念館」、カネボウの中興の祖「武藤 山治邸」などがあります。

また、明治天皇は舞子の地がお気に入りで行幸は7回にもなります。ここには、明治天皇の歌碑がありました。

  はりまがた 舞子の浜に 旅寝して 見し夜こひしき 月の影かな

  あしたつの 舞子の浜の 松原は 千代をやしなう  処なりけり

  はりまがた 舞子の浜の 浜松の かげに遊びし 春惜しぞ思ふ

   

  

舞子公園を出て左側を見ると神戸牛のお店があります。実は昨夜、折角神戸に来たのだから神戸牛が食べたいと思い、三ノ宮近くのお店を探しましたが、それぞれコースで

1万円以上します。これに飲み物などを含めると15000円ぐらいになります。ちょっと予算オーバーですね。

現在1時20分。ランチだったら少しぐらい安いのでは?と思い店の中へ。店には団体の方がおられ店の方が忙しそうにされています。待つこと20分ようやく店内へ案内されました。

この店はしゃぶしゃぶがメインみたいでどのコースにもしゃぶしゃぶが付いています。思い切って舞子ランチを注文しました。

やはり本場の神戸牛です。柔らかくとても美味しかったです。プチ贅沢しました。

   

お腹もいっぱいになった所で、再び街道へ出発します。

垂水駅の先には「海(わたつみ) 神社」があります。

今から千八百年前くらいの昔、神功皇后(ジングウコウゴウ)が三韓よりの帰路、暴風雨のため、どうしても御座船を進めることができなくなりました。

皇后御みずから綿津見三神をお祭りになり、御祈願されましたところ、たちどころに風波がおさまり御無事に都へ御還りになりました。

その時神功皇后が綿津見三神をお祭りになったところに御社を建て、御神徳を仰いだのが鎮座の由来であります。(海 神社HPより)

福田川にかかる「福田橋」を渡ります。この橋は、大正15年建設の橋です。

  

 街道は2号線を歩きます。塩屋駅近くの「菅公橋」では、工事が行われ、迂回します。

後ろからジョギングで来られた方が私のDバックの「博多から・・・・・・」を見て声をかけて頂きました。

  

須磨区に入りました。ここには「境川」と言って小さい川があります。ここが攝津と播磨の国境になります。

   

 須磨浦公園に入りました、入って左側には「敦盛塚」があります。

このあたりは、源平一の谷合戦場として知られ寿永3年(1184)2月7日、当時16歳の「平 敦盛」が「熊谷次郎直実」によって首を討たれ

それを供養するためにこの塔を建立したという伝承から「敦盛塚」と呼ばれるようになりました。

  

この須磨浦公園は桜の名所で約3000本の桜があります。また、この「敦盛塚」に因み、須磨浦一帯の桜を「敦盛桜」とも呼ばれています。

昨日は、姫路城の桜を鑑賞しましたが、この須磨浦公園の桜も今が満開です。夜にはライトアップされるそうです。

  

   

公園の中央には、「みどりの塔」があります。

1995年(平成7年)1月17日、阪神・淡路大震災で塔の横にあった「地球」のモニュメントが落下したそうです。

  

源平 戦(いくさ)の濱の碑

源氏、平家の一の谷の戦いは、この辺りが主戦場でした。山手に陣を敷いた平家は、赤旗で周囲を埋め尽くしたが、「源義経」の鵯越えの奇襲によって敗走した。

    

17:20山陽電鉄「須磨駅」到着。明日はこの駅から出発します。

今日のGPS

 

 

 

 

 

  


山陽道(西国街道)を歩く(西明石~須磨)その1

2014-04-10 21:33:42 | 山陽道(西国街道)を歩く

4/05 三宮のホテルから新快速で前回ゴール地「西明石駅」へ。西明石駅構内で西国街道のパンフをゲット。

8:30このパンフを見ながら街道歩きスタートです。

西明石駅から山陽道が分らず、近所の人に聞きやっと街道に入りました。この辺りも新幹線の駅ができたりしてすっかり変わったそうです。

葬祭場あたりから左折します。「和坂」と書いてありますが、これは「かにがさか」と読むそうです。難しい読み方ですね。

    

 この一帯、昔は山に囲まれ険しい坂道で坂の上には狐が住み、坂の下の池には蟹が住みそれぞれ旅人を困らせていた。

ある時、狐と蟹は、この坂の勢力争いをする。勢力争いに勝った蟹は、以前にも益して旅人を困らせた。

そこへ諸国を巡行していた、弘法大師が通りかかり蟹を封じ込めた。蟹を封じ込めた場所が、「蟹塚」、蟹が出没していた坂を「蟹和坂」と呼ばれていたが

いつしか「蟹和坂」の蟹がとれ、「和坂」と呼ばれるようになった。

明石市のパンフには、公園の一角に「蟹塚」の石碑があると書いてますが、探してみても見当たりません。通りかかりの方に聞いても知らないとの返事。

多分この倒れた石碑ではないでしょうか?

王子小学校の所に「王子公園」があります。公園内を見てみると石碑に「夏の歳時記園」と書いてあり、横には「山上憶良」の歌碑があります。

  妹が見し  あふちの花は  散りぬべし  わが泣く涙  いまだ干なくに

  (妻のながめた あふち(せんだん)の花は 今頃はもう散ってしまったことだろう 私の涙はまだ乾いていないのに)

公園の先には、「十輪寺」。ここには「太閤さん縁の木」があります。

秀吉が戦勝祈願で手植した杉の苗木が高さ25mほどになり、この付近の名物となった。昭和20年の戦火で本堂及び境内の全てが焼失した。

その時焼けた杉の幹がこれです。

    

十輪寺の先を左折すると山陽電鉄のガードを潜ります。この右側が山陽電鉄「西新町駅」。

南王子の信号を左折すると、県道に合流。大観橋を渡ります。右側を見ると海が見えてきます。久しぶりの海です。

その先には、明石港があります。ここから淡路島行の高速船が出ています。淡路島の岩屋まで13分です。いつか行ってみたいですね。

  

  

本町商店街を過ぎ、鍛治屋町交差点の所に「道標」が建っています。「ひだり 大坂道、みぎ ひめぢ道」。

  

近くを見ると「玉子焼」の看板が・・・・・・・時間は10:30でまだお腹は空いていませんが、匂いにつられ店内へ。

一皿20個入り。家内と一緒にこれをいただきます。これで明石焼き(玉子焼き)は3回目。なにかクセになりそうです。

店内には、美味しそうな「タコのおでん」。明石と言えば「タコ」ですね。早速注文しました。

柔らかく味もよく浸みこみ、まさに絶品です。

   

 明石市の街道パンフには、この辺りに「ラジオ塔」があると書いてます。どんなものかわからず通行中の方に聞いてみますが、皆さん「わからない」とのこと。

地図を見ながら、そのあたりをしらみつぶしに探してみますと、ありました!

中崎公園内にそのラジオ塔がありました。見てみると古めかしく「塔オヂラ」「市石明」と書いてます。

ラジオの送信塔かな?と思いましたがアンテナも建っておらず、案内板もありません。

ネットで調べてみますと昭和初期まだラジオが高価で普及していない頃、公園や寺院などにこのような「ラジオ塔」を設置したそうです。

戦後テレビが普及し始めたころの「街頭テレビ」みたいなものですね。

    

先を進むと「忠度公園」があります。ここには、「冬の歳時記園」があります。前述の丸山公園では、夏の歳時記園でした。

柿本人麻呂の歌碑があります。

 白真弓  石辺の山の  常盤なる  命なれやも  恋ひつつをらむ  

(石辺の山にある岩のように 永久に続く命なら いつか逢えるかもしれないと 恋しく過ごしもできようが 常盤(永久)ではない命なので ただ恋しく思っているだけではいられない)

 

裁判所を過ぎると、天文館みたいな交番があります。これが子午線交番。その横には、「大日本中央標準時子午線通過地標識」があります。

明治17年(1884)ワシントンで万国子午線会議において世界の標準時の取り決めがあった。日本では、この決定に基づき明治21年(1888)1月1日から東経135度子午線時刻を日本標準時として使用することになった。

当時、一般民衆は日本標準時が明石郡内を通過していることを知らなかったのでこの重要性に気付いた明石郡小学校の先生方が給料を割いて建設費を負担し、

明治43年(1910)にこの標識を設置した。

   

ここには、道標や花壇がありました。

     

ここで少し街道を離れ、「人丸神社」「明石天文科学館」に行ってみます。山陽電鉄「人丸前駅」を過ぎると右側に「馬塚」の案内板が立っています。

平 経盛の子である平 経正(敦盛の兄)の馬を埋めたそうです。

  

明石天文科学館は、東経135度の日本標準時子午線の真上に建つ「時と宇宙をテーマ」とする博物館です。1960年に建てられました。高さは54m。

天文科学館に通じる歩道には、星座の説明版もありました。山陽本線や山陽電鉄の車窓からも見える建物で明石のランドマークにもなっています。

天文科学館の横には、「人丸神社」があります。

人丸神社は柿本大明神とも称される「柿本人麻呂朝臣」を祀っています。祭神は歌道の神としての信仰を集め学問文芸の神、また「人麻呂」を「人生まる」(人うまる)と解し、安産の神、

江戸時代からは、「火止まる」と解し、火防の神としての信仰もありました。(ウィキペディアより)

神社からは、遠くですが、明石海峡大橋も見られます。

  

  

人丸神社から再び街道に戻ります。山陽電鉄のガード下には、「両馬川旧跡」があります。嘉永3年(1184)一の谷の戦いのあと、平忠度が岡部六弥太に追いつかれ二人の馬が川を挟んで

戦ったので両馬川という名前が付いたそうです。

街道は、大蔵町に入ります。明石宿は、西の大久保と東の大蔵に宿場があったそうです。

大蔵院」があります。嘉吉元年(1441)赤松祐尚は大蔵谷に陣を構えたが、居城を三木城に移すとき陣屋の跡を寺院とした。

ここの墓地には、赤松祐尚夫妻の墓があり夫妻の法名「見江院」「大蔵院」が山号と寺名になっています。

   

大蔵院の先には、稲爪神社があります。

神社の由緒は、推古天皇の時代に不死身の鉄人を大将とした三韓(高句麗・百済・新羅)の軍勢が日本に攻めてきたが、九州では退治できなかった。
四国の伊予の役人、小千益躬が退治せよという命令を受け、一族の守り神「三嶋大明神」に祈ると、神様が現れ、「鉄人の弱みは、鎧兜で守られていない足の裏だから、これを矢で射よ」と言われた。
 益躬は、降参したふりをして、朝廷へ向かう先導役となった。明石の浜で鉄人達が休息をした時、空が突然曇り、稲妻がおき、おどろいた馬から鉄人が落ち、足の裏を見せた。益躬は弓矢で足裏を射て鉄人達はほろんだ。
 この矢を【鬼ざしの矢】という。益躬は、神の現れたこの地へお社を建て、守護神三嶋大明神を奉って「稲妻神社」と名づけ、後に名前は稲爪神社と変わった。

稲爪神社から東に八百メートルの大蔵八幡町の八幡神社[元小千(越智)神社]に稲爪神社創建者の益射は祀られている。

ここで疑問が生じます。私達が学校で習ったのは、神功皇后が「三韓征伐」に北部九州から出発し勝利をおさめ凱旋したということ。

三韓から攻められたということは、習っていません。

   

   

大蔵海岸に通じる道路があります。案内板に沿って大蔵海岸に行ってみます。2号線のガードの横には、明石市マダプトプログラムということで三寿会いきいきクラブの皆さんが

綺麗な花を植えています。

 大蔵海岸と言えば、2001年花火大会の帰る途中、歩道橋で群衆雪崩現象が起き、258名の死傷者が出るという惨事が起こりました。

またその年の12月、大蔵海岸で砂浜陥没死亡事故がありました。こんなきれいな海岸で悲惨な事故が起こったのですね。

この事故以降、花火大会は中止されたそうです。

大蔵海岸の反対側には、明石海峡大橋が聳えています。向こう側が淡路島ですね。

再び街道に戻ります。

大蔵八幡町には、旧家が残っています。このあたりに本陣があったはずなんですが、わかりませんでした。

明石宿は、西の大久保と東の大蔵八幡にあり、大蔵宿には、宝永元年(1704)には、屋敷294、人口1781人、本陣1、旅籠60があり、その繁栄は明治末期まで続いたそうです。

  

穂蓼(ほだて)八幡宮は、前述の稲爪神社と同じ「小千益躬」を祀っています。

   

街道は、2号線と合流。しばらく行くと「神戸市」に入ります。

  

                                                                                                                                              (続く)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


デジブック 『「国宝姫路城」の桜』

2014-04-08 15:59:54 | お花

4/4 以前入っていましたSNSのブログ友達Kちゃんと(友達といっても年齢は随分随分離れています)一緒に桜が満開の姫路城に行ってきました。

Kちゃんとは、4年前加古川ウオークの帰りに初めてお会いし、久々の再会です。

姫路城で桜を見ていると地元のアマチュアカメラマンの方が姫路城案内役をかってくれました。

普段観光客の方が行かない撮影スポットや、櫻撮影の構図のとり方など教えて頂きました。

姫路城を一周歩いているとあっという間に午後3時を廻りました。

この姫路城の桜をデジブックにしました。少しはカメラの技術が上がったかな??????

写真は、「姫路のおでん」「山陽本線「軍師 官兵衛」のラッピング電車です。

姫路のおでんは、出汁に生姜がはいっています。

   

 

 

 

 

デジブック 『「国宝姫路城」の桜』 http://www.digibook.net/d/f985a7ffb19aa2d03120dfa224ab1b5c/?viewerMode=fullWindow


中津城の桜(大分県中津市)

2014-04-02 17:03:46 | JR九州ウオーキング

大河ドラマ「官兵衛」ブームですね。

10日前は、官兵衛が生まれた姫路の町を歩いてきました。

今回は官兵衛が1588年に初めて築城をした「中津城」に行きました。

そのあと細川家、小笠原家と続き1717年奥平家の居城となり廃藩置県まで統治しました。

この中津城、官兵衛が初めて造ったお城ということで今、見物客が多くなっています。

中津城でも桜が満開になりました。

 

    

中津城の特徴は、石垣が黒田家と細川家で組み方が違っています。

       

 右側は、黒田家、左側が細川家です。

黒田長政家臣の中から24人の精鋭を選出した呼称を「黒田二十四騎」といいます。この中でも最も優れた家臣は「黒田八虎」です。

24人は、次の方です。やはり播磨地方からの出身者が多いですね。

     

     

     

     

藩祖「黒田官兵衛孝高」、嫡男の城主「黒田筑前守長政」です。

       

関ヶ原の戦いのあと、1600年長政は52万石を以って 筑前の国「福岡」に築城しました。

 

黒田家に関するものとしては、「合元寺(ごうがんじ)」があります。

官兵衛が姫路から恵心僧都作と伝わる阿弥陀如来を移して空誉上人という僧を開山に迎えて寺院を建立した。

黒田氏入国に反対した宇都宮鎮房が中津城に誘殺されたとき鎮房の従臣たちが待機していた「合元寺」にも黒田の手勢が押しかけた。

鎮房の従臣は奮戦したが、ことごとく切り伏せられ、壁はその血で赤く染まった。その後、壁は何度も白く塗っても血が染み出してくるので

ついに赤く塗った。寺は「赤壁寺」とも呼ばれている。

   

中津と言えば、慶応義塾の創立者「福沢諭吉」の出身地として有名ですが、今年はドラマの影響でしょうか、中津城を含めて観光客が多くなったそうです。