よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

うきは「桜並木と白壁の町並み」を楽しむ(福岡県うきは市)

2021-03-26 13:20:36 | ウォーキング

3/24(水)ふくおかウォーキング協会楽しいウォークは、「うきは《桜並木と白壁の町並み》を楽しむ」ウォークでした。

集合場所は、JRうきは駅。参加者は、37名。このうち、1名が広島からの参加。

 

9:50 うきは駅スタート。

 

 

流川の桜並木に到着。

うきは市流川地区を流れる巨瀬川の南側約2kmにわたって続く約1000本の桜は、圧巻です。

 

桜のトンネルです。

 

 

 

 

流川橋から市街地に向かいます。

   

最初の休憩地は、若宮八幡宮。

  

八幡宮から吉井の町へ。

吉井小学校の前のクリークには、たくさんの鯉幟が泳いでいます。

 

吉井小学校生徒さんの卒業製作でしょうか?「ふるさと吉井に誇りをもち、志をもって学び続ける子」など書いてます。

 

吉井町は、江戸時代に久留米有馬藩と日田天領を結ぶ豊後街道宿場町として栄えました。蝋燭、酒、麺、精油などの製造で財をなした「吉井銀」と呼ばれる豪商たちを輩出し、

彼らにより、明治2年(1869)の大火を機に火災に耐えられる白壁土蔵造りのほぼ現在の町並みになりました。

 

毎年2月11日から4月上旬までは、筑後吉井ひなまつりが開催されています。

中町の信号より左折。久大本線にかかる巨瀬川沿いにも桜並木があります。

 

延寿寺の櫨並木 案内板が古くて読みにくいですが、耳納山麓延寿寺谷川沿いの堤防に植えられたハゼ並木。この櫨の実から木蝋の生産が江戸中期から昭和の初期ごろまで行われていました。

春の若葉の頃もよいが、秋には約800m続く130本の櫨が燃えるような深い秋色に染まり、遊歩道に多くの見物客が訪れ賑わう。紅葉期間中の夜には、ライトアップされ昼とは違う櫨の

美しい紅葉見物が楽しめます。

 

2回目の休憩は、産直店「にじの耳納の里」です。

 

休憩後リスタート。

 

12:00 筑後吉井駅にゴール。

今日のGPSです。

今週末は、JR九州ウォークで流川の桜ウォークが行われます。

 

 


春爛漫 「福岡市内桜の名所をウォーキング」

2021-03-25 12:13:27 | ウォーキング

3月22日 福岡地方の桜の満開宣言が出されました。そこで市内の桜の名所を歩いてきました。

【西公園】

  

 

 

光雲神社は、福岡藩祖 黒田如水、黒田長政を祀っています。

 

福岡県民謡「黒田節」の原型は、雅楽「越天楽」のメロディを様々な歌詞に置き換えた「筑前今様」です。

 

 

 

【舞鶴公園・福岡城址】

 

 

 

 

このあと福岡城址へ

 

 

 

 

 

 

  

 

天神中央公園の桜も満開です。

 

桜を見ると気分が陽気になりますね。福岡地方の桜も今週末天気が悪くなるそうで桜も散ってくるのではないかな?

明日は、うきは市流川の桜並木を見に行こうと予定しています。

 


春の今津湾沿いを歩く(福岡市西区)

2021-03-19 06:02:57 | ウォーキング

3/17(水)のふくおかウォーキング協会楽しいウォーク「春の今津湾沿いを歩くウォーク」でした。

集合場所は、JR九大学研都市駅。参加者39名。

 

9:40スタート

 

今山は、標高85mの小さな山ですが、弥生時代の石斧製作遺跡の国指定「今山遺跡」があります。

また、桜の名所としても有名ですが、まだ咲いていません。

  

横浜は、江戸時代糸島各地から集められたお米がここに貯蔵され、筑前五ヶ浦廻船によって大坂、江戸に運ばれていました。

横浜の信号から今津湾の海岸線に出ます。私が中学生のころまでは、ここは、長垂(ながたれ)海水浴場でした。友達の家が貸しボートを経営していましたので何回かボートを漕いで

沖に出たこともありました。遠泳を覚えたのは、このころです。

 

今津湾からは、能古島、志賀島などが見えます。

壱岐や釜山へ向かう航路にもなっています。ちょうど壱岐・対馬行のフェリーが通っていました。

 

アイドルグループ「嵐」の二宮さんと同じ名前の「二宮神社」もここにあります。主祭神は、埴安命で稲の生産豊穣と疫病厄除。

糸島の桜井神社、潤(うるう)神社と共に「糸島の嵐神社」としても有名です。

  

長垂海浜公園が最初の休憩。

今日は天気も良く近くの園児が遊びに来ていました。

毎年8月には、ここで花火大会が催されます。(昨年はコロナで休止)海からの花火は綺麗です。

 

10分ぐらい休憩後再スタート。

市道千代今宿線(旧国道202号線、旧唐津街道)を歩きます。ここは、歩道が狭く一列で歩きます。

 

長垂公園には、山桜が満開です。

長垂には、「長垂の含紅雲母」というペグマタイト岩脈があります。ペグマタイトは、主に石英、長石、雲母からなる火成岩で巨品花崗岩又は鬼みかげともいいます。

ここのペグマタイト岩脈は、珍しい紅雲母を含んでいますが、旧陸軍の採掘により現在は美しい紫紅色を見ることは難しくなっています。

私が中学一年の頃、友人とここを探検したことがあります。雲母という言葉もその時初めて知りました。もう半世紀以上の話です。

 

生の松原は、神功皇后三韓征伐の折、神功皇后が松を逆さに植えながら、『願いが叶うなら生きよ!』と唱え、その松が無事に生きたという伝説の木を示しています。

その後松原へと種子を増やすことになり、そんなことから、松原の名は生の松原となったと伝えられています。

 

 

 

11:30姪浜駅にゴールしました。

今日のGPSです。

 

 

 


大野城市・御笠川流域の文化財めぐりウォーク(福岡県大野城市)

2021-03-16 16:06:28 | ウォーキング

3/13(土)のふくおかウォーキング協会サタデーウォークは、「大野城市・御笠川流域の文化財巡りウォーク」でした。

集合場所は、JR大野城駅。参加者46名。

 

  

御笠川にやってきました。

 

御笠川沿いの大文字公園が最初の休憩地。大文字公園は毎年9月の大野城市最大とも言われている「おおの山城大文字まつり」の会場となっています。

「おおの山城大文字まつり」とは、昭和57年に始まった日本最古の朝鮮式山城「大野城」が眠る四王寺山の山腹にまつりのシンボルとなる『大』の文字が灯され、たくさんの団体が

ステージやパレードでまつりを盛り上げ、市内外から約6万人の人出がある、秋の一大市民まつりです。

公園内には、河川の改修事業を終えた記念碑が建てられていました。

  

10分ぐらい休憩の後再スタート。

 

宮添井堰とは、

大野城市に残る「ひんどの人柱と火の玉」の伝説の記念碑です。平成15年1月に建てられました。
山田村や乙金、金隈村(かねのくま)へ水を引くための宮添井關は、御笠川が氾濫(はんらん)するたびに流されていたので、修理の話をしているときに人柱(ひとばしら)をたてて

井堰を築くと壊れないという話が持ち上がりました。

生きたまま井堰の下に埋められるのですから、自分から進んで人柱になろうとする者はいないでしょう。
そこで庄屋(しょうや)の甚兵衛(じんべえ)さんは翌日の公役(こうやく)の時に横縞(よこじま)の襟(えり)の着物を着ているものを人柱にしようと決めたそうです。

翌朝横縞の襟の着物を着た人がいたので、その人を井堰の下に埋めましたが、甚兵衛さんの姿が見当たりません。甚兵衛さんは自ら犠牲になり井堰の下に埋め込まれ人柱になったのでした。

完成した宮添井堰は、その後の大洪水にも壊れず田畑をうるおし、山田村は豊かな村になったそうです。その後毎晩のように堤防(ていぼう)の上に火の玉が出るようになりましたが、

庄屋の甚兵衛さんが火の玉となって見守ってくれていると考え、火の玉に向かって手を合わせ感謝したということです.。(まどかぴあHPより)

※ひんど(貧土)とは、やせている土地の事。

   

 

二回目の休憩地は、仲畑中央公園です。

 

ここは、福岡空港の南側に位置し、飛行機が間近に見れます。

 

 

御笠川の名前の由来になった「御笠の森」にやってきました。

「仲哀(ちゅうあい)天皇のお后(きさき)である神功皇后(じんぐうこうごう)が、荷持田(のとりだ)(甘木市秋月字野鳥)に住む羽白熊鷲(はじろくまわし)という豪族を従わせようとして、橿日(かしい)の宮(福岡市東区香椎)から松峡宮(まつのおのみや)(朝倉郡三輪町)へ向われていると、突然つむじ風が起こり皇后のかぶられていた笠が吹き飛ばされて、

この森の木にひっかかったため、御笠の森というようになった。そして、この地の地名も御笠郡と名づけられた。」
また、神功皇后の笠が脱げたところを「笠抜」、笠の紐が高い楠の木にひっかかり神様にお願いして取っていただくために舞を奉納(ほうのう)した場所を「舞田(まいでん)」と

呼ぶようになりました。今は旧小字名(こあざめい)は廃止されています。昔の地名にはいろいろな由来がありました。
御笠川の名前も、御笠の森から名づけられています。(大野城市HPより)

御笠の森には、太宰大監「大伴宿祢百代」が、坂上郎女に送った恋の歌の一首があります。

 念(ねが)はぬ思ふといはば 大野なる 御笠の森の神し知らさむ

  

 

山田4丁目の交差点で信号待ちをしていたら、前の集団から取り残されてしまいました。この信号の近くにある観音様が見つかりません。

ちょうど近所の方が通りかかりましたのでこの場所をお聞きしました。

  

前の集団から遅れましたのでこれからは地図とにらめっこしながらのウォーキングです。

雑餉隈恵比寿神社:雑餉隈(ざっしょのくま)地区は、中世以降は博多宿と二日市宿の中間に位置し、間の宿として旅籠や茶店、日用雑貨の商店が軒を並べて繁栄していた宿場町で

あったため、商売繁盛の神様である「恵比寿様」と防火の神であり、疫病の侵入を防ぐ塞神である愛宕様を宿場の鎮護の神として勧請しました。

さて、福岡の方だったら読めますが、難解地名の一つ「雑餉隈(ざっしょのくま)」の地名の由来は、太宰府の官人の一つ、「雑掌」の人の居があったこと、又はその昔大宰府へ向かう人々を

主な対象とした多くの店が連なっていた場所であったこと、などがあげられます。

 

錦町の所には、「郡境界標」が建っています。西那珂郡、東御笠郡。尚、本物の境界石は、大野城市歴史資料展示室に置かれています。

御笠郡とは、筑紫野市、太宰府市の全域、大野城市の大部分。那珂郡とは、春日市、那珂川市、福岡市博多区一部、南区一部、東区一部のことです。

御笠郡と那珂郡は、明治29年(1896)筑紫郡と改められました。(現在それぞれの町が市に昇格し、筑紫郡はなくなりました)

  

日田街道とは、江戸時代に博多・久留米・中津・熊本・別府の各地から日田に通じる街道の総称ですが、筑前を通る街道の中で日田街道は、長崎街道や薩摩街道と共に九州では目立って

往来が多い街道でした。

江戸幕府は、天領(幕府直接の支配地)であった日田を支配するために西国郡代を配置していました。当時は郡代をはじめ、長崎奉行など地方に派遣されていた幕府の役人は一年で交替する

ことになっていました。また、各地の領主である大名は、 1年おきに在府・在国する三勤交替の制度が設けられ、それに相まって全国の街道や宿場が整備されてきました。                              筑前の日田街道は、博多から宰府・二日市・甘木などの宿を経て日田へ至る街道で、別名代官道とも称されていました。現在の大野城市内の経由地は、山田・雑飼隈・筒井・瓦田・白木原・東大 あい 利で、

中でも雑飼隈は間の宿(中間の宿)としてにぎあっていたようです。この通りを、古い記録には宰府往還ともしるされ、天満宮参詣客や物流関係者などの往き交いも多かったそうです。

歴史ある日田街道も、昭和7年の国道開通によってその役割りに終止符が打たれました。 

一度日田街道を歩いてみたいですね。 

  

旧日田街道の所に新川を整備し、遊歩道ができています。

   

 

大野城市まどかぴあ。大野城まどかぴあの「まどかぴあ」とは、ふれあいの象徴的な言葉「円(まどか)」と未来にはばたく所「トピア」の合成語です。

12:12 ゴールの西鉄白木原(しらきばる)駅に到着しました。

※白木原の地名は、かつて朝鮮半島にあった「新羅」の国に由来し、かつてこの地に朝鮮半島から渡来した新羅人の集落があったことから付いた地名です。

 

大野城市には、「大野城トレイル」があります。大野城トレイル」とは、本市の豊かな景観・自然・文化財・街並みをつなぎ、市民や訪れた人が安全で快適に歩くことができる散策路のことです。
 
計画策定においては平成26年度にアンケートの配布など、市民の皆様から意見を頂きながら検討を行い、7つのテーマに分けトレイルの設定を行いました。

このコースも今度ウォーキング教室のルートにも入れたらいいですね。

今日のGPSです。

 

 


三日月山遊歩道から旧唐津街道を往く(福岡市東区)

2021-03-12 15:13:50 | ウォーキング

3/10(水)のふくおかウォーキング協会の楽しいウォークは「三日月山遊歩道と旧唐津街道を往く」でした。

集合場所は、JR香椎駅東の香椎駅東公園。参加者は47名。

  

9:30 ウォーキングスタート。如意論寺は、禅体験ができます。

 

JR香椎線の鉄橋の横を通ります。

 

県立香椎高校です。今日は、高校入試が行われています。香椎地区は文教地区で高校が県立3校、私立2校、大学が福岡女子大、九州産業大学と2校あります。

香椎高校の正門には、黒門が建っています。

旧制香椎中学校の「黒門」は、同中学校の創立者・第4代太田清藏氏が、東京にあった奥州中村藩の流れを汲む旧相馬子爵邸を買い取った際、その表門であった「黒門」を

旧制香椎中学校初代校長・長沼賢海氏が譲り受け、昭和18年に学校の正門として移築したものである。長沼校長は「東に東大の赤門あり、西に香椎中学の黒門あり」として

中学のシンボルとし、建学の士気を高め、門に「西海第一校」の額をかかげようとした。創立は太平洋戦争の時期と重なったため、門の移築は容易ではなかったようだ。

ようやく移築された門も台風などのために倒壊した。

 旧制中学の卒業生を中心とする同窓会会員の中から、中学のシンボルであった「黒門」を現高校に復元し、在校生の士気高揚にも役立てたいと募金活動が行われてきた。

そして、平成8年の校舎大改築完成と創立75周年記念に合わせて「黒門」を復元することになった。(香椎高校HPより)

尚、香椎高校の校歌は、作詞火野葦平、作曲古関祐而だそうです。

 

香椎高校を過ぎたあたりから少し上り坂になります。

 

宅地造成の工事でしょうか、また新しい町ができますね。

 

長谷(ながたに)ダム竣工記念広場に着きました。多々良川につくられた長谷ダムは、下流の水をくみ上げて貯水する全国でも珍しいタイプのダム。このダム湖、

三日月湖(みかづきのうみ)のまわりを1周するコース。湖の北東側には桜の名所、長谷ダムふれあいロードがあります。

 

広場には、桜の木もあります。蕾も大きくなっていました。JR九州ウォーキングコースにもなっていますが、私、ここを歩くのは初めてです。

  

 

三日月山霊園の先から遊歩道に入ります。

  

急こう配の所を下りていきます。まるでオルレのコースみたいです。

  

10分ぐらいで下ってきました。

 

三日月山から立花山への縦走コースもあるそうです。

 

下原のバス停を折り返し、ゴールの香椎駅に向かいます。

 

九州産業大学付属九州高校の所からは、旧唐津街道です。

  

香椎駅から北へ7~800mの所に兜塚(かぶとつか)があります。

説明文によると、兜塚(香椎宮飛地境内)

この兜塚は、香椎宮の御祭神、神功皇后がこの地で兜をお着けになったとも、この地に兜をお埋めになったとも伝えられている神域です。

また、ここにある二つの石には、次のような物語が残されています。「享保(1716~1735)の頃、この塚から発掘された兜の形に似た松化石を博多の医師萩野玄庵が

運び去り庭石としたが、玄庵の死後、子玄伯が父の墓石とした所、祟りにより一家悉く急症に罹り死亡せり。よって近隣の者等、神の祟りを恐れて、文化元年(1804)夏の

頃再び香椎に運び来り、不穢(けがれ)を除かん為に海浜(現在の香椎宮頓宮下辺り、昔のお汐井取場)に置いてあったものを二百余年余りの後、昭和元年(1926)に至り

この塚に返したものであり、今一つの石は、寛保年中(1741~3)上ノ府(新宮町)源四郎という者、玄庵が持ち去ったのを惜しみ、花崗岩に彫んで塚上に納めたものである。

(香椎宮旧記に依る)」このように様々な物語が兜塚には、残されています。古くから神域として伝えられているこの地を侵すことのないようにしましょう。

 

境内には、寒緋桜が咲いていました。

 

11:28 香椎駅にゴールしました。

 

今日のGPSです。

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 


もう桜が・・・・

2021-03-09 13:34:40 | ウォーキング

3/8 今日、近くの公園を散歩していたら、2月に植えられた桜(ソメイヨシノ)が咲いていました。

植えると、早く咲くとはいいますが、それでも早いです。因みにここ福岡の桜の開花予報は、3/13です。満開は3/21。(2/1からの最高気温を足して600℃になれば開花するそうです)

 

 

 

 


3月度例会「いいづかの雛のまつりウォーク」(福岡県飯塚市)

2021-03-08 15:49:57 | ウォーキング

3/6(土)は、ふくおかウォーキング協会の例会「いいづか雛のまつりウォーク」でした。

集合場所は、JR飯塚駅。参加者36人。

飯塚市は、福岡県の中央に位置し、旧藩時代は長崎街道の宿場町として賑わい、更には明治以降は、全国一の産出量を誇る筑豊炭田の商業文化の中心都市として繁栄した街です。

又、長崎街道は、砂糖の道「シュガーロード」とも呼ばれており、文化庁からも砂糖を広めた「長崎シュガーロード」として日本遺産に認定されました。

その街道では、菓子作りの文化が広まりました。かつての炭鉱夫達が甘いものを好んで食べていたこともあり、九州を代表する銘菓発祥の地として発達しています。(ひなまつりパンフより)

ですが、福岡県は1/14からの緊急事態宣言で、この飯塚の雛まつりも中止になってしまいました。

9:30JR飯塚駅スタート。

  

遠賀川を渡ります。

  

遠賀川の土手には、柳原白蓮の歌碑が建っています。 柳原白蓮の説明はこちら「柳原白蓮

「師の君の 来ますむかうと 八木山の峠の若葉 さみどりのして」

 意味は、「早春の頃に自分の師が遠い九州の地に来て頂く折に博多駅に出迎えに行く途中、八木山は新緑に燃え、若葉に自分の心境をだぶらせ、すがすがしい気分で峠を越え、

 師との再会に心も弾んでいた気持ちを表した歌です。」

  

嘉穂劇場は、昭和6年(1931)開場しました。

  

嘉穂劇場から東町商店街に向かいます。居酒屋の看板には、全部魚篇で「馬」が描かれています。

 

 

本町商店街へ。

 

お菓子の「ひよこ」の雛飾り。

 

納祖八幡宮 飯塚の総鎮守。子守の神様として信仰されています。約1700年前、神功皇后がこの地を訪れ、ここに祭壇を設けて戦勝報告の祭典を行い、その折別れを惜しむ兵士や郷民に「何日亦逢」

といわれたので「いつかの里」と呼ばれるようになったといわれています。

 

  

納祖八幡宮から飯塚緑道へ。飯塚緑道は、昔の飯塚川跡です。

 

千鳥屋本店(千鳥饅頭)

  

千鳥屋から商店街を抜け、太養院へ。西暦1600年頃、太閤秀吉高麗出陣の時、福岡藩初代藩主黒田長政が豊前の中津より出陣しましたが、往復とも父官兵衛と共にこの寺に宿泊しました。

飯塚宿の本陣は、片島交流センターにありました。

  

納祖八幡宮で「飯塚」の町の由来を書きましたが、由来のもう一つの説は、昔、明星寺という寺の造営が行われた時、その開堂供養の祭りに飯をたくさん炊いたのが残り、それをこの地に

集めたところ、飯の塚ができたのでそれから「飯塚」と呼ぶようになったともいわれています。

 

 

飯の山から勝盛公園に向かいます。勝盛公園は、飯塚市の中心部にある一番古い公園です。近隣の小学校が必ず遠足で訪れます。

園内には、ソメイヨシノが450本あり飯塚の桜の名所です。また、石炭輸送で活躍したD60型の機関車、6世紀ごろの櫨山古墳もあります。

池には、黒鳥もいました。

  

 

櫨(はぜ)山古墳  案内板の文字が消えかけています。文字を拡大して読んでみました。

この古墳は、対象10年8月、この地で行われた造成工事で偶然発見された。金銅製馬具など多数の副葬品が発見されたが、特に金銅製帯金具は有名で布製の帯に金銅透彫の金具を鋲留した

美しい飾り帯である。類品は、むしろ朝鮮半島南部の新羅時代の古墳の出土品にみられ、半島で作られたものがこの地に伝わったと考えたい。

この古墳の主人公は、朝鮮半島の国々と特別な関係を持っていた人に違いないが、その頃のこの地方の豪族たちには、このような例が決して少なくなかったのではないかと思われる。

古代飯塚地方の歴史や文化に日韓の交渉が深かったことを教える注目すべき古墳である。築造年代は、6世紀の頃であろう。

 

勝盛公園から飯塚宿西構口に来ました。ここからゴールの飯塚駅を目指します。

 

今日は、個人的に飯塚に住んでいる姉に会うことにしていますので、飯塚駅の途中の「トライアル」で仮ゴールしました。

飯塚ひな祭りが開催されていたらもっと雛飾り(伊藤伝右衛門邸、麻生大浦邸など)が見えたのですが、緊急事態宣言中では、中止もやむを得ないですね。

今日のGPSです。

 

 

 

 

 

 

 

 


久留米の梅名所巡りウォーク(福岡県久留米市)

2021-03-04 18:04:27 | ウォーキング

3/3(水)緊急事態宣言が解除され、ふくおかウォーキング協会の楽しいウォーキングが再開されました。

再開後最初の教室は、「久留米の梅名所巡りウォーク」です。集合場所は、JR久留米駅。参加者は38人でした。

この日の久留米は、5℃でしたが、風が強く体感気温は0℃ぐらいでした。寒いです。

  

9:36スタート。先ずは「梅林寺」へ。

 

梅林寺は、九州の代表的な修行道場として知られる古刹で、また久留米藩主有馬氏菩提寺となった寺です。 寺の起源は、初代藩主豊氏が故地丹波福知山の瑞巌寺を移したもので、

父則頼の分霊をここにうつし、その法号梅林院から寺号を改めたものです。 本堂正面には浮彫りの扉を持つ唐門が優れた威容を見せ、裏に廻ると始祖を初め歴代藩主の霊廟や墓塔が、

静かな小松林の中に風格のあるたたずまいを見せています。

この寺宝は六百余点を数え、絹本著色釈迦三尊像(重要文化財)のほか、尾形光琳の富士山の図、長谷川等伯の屏風、狩野が描く襖絵なども収蔵されています。 隣接の外苑は、

梅林の名にふさわしく梅花が風情を競い、市民の憩いの広場として知られています。

<梅林寺外苑のウメ>
梅林寺は、その地に梅林があるので梅林寺と名づけられたのではありません。関が原の戦いで功を為した有馬豊氏公は久留米の土地を与えられ、当時有馬家の領土丹波篠山にあった

瑞厳寺(ずいがんじ)を移建し、その名を父則頼公の戒名「梅林院殿」にちなんで「梅林寺」としました。厳しい修行道場として知られ全国から多くの修行僧が集まる梅林寺ですが、

昭和33年開山和尚禹門玄級禅師(うもんげんきゅうぜんじ)350年遠諱(おんき)の記念事業の一環として筑後川沿いの一角を市民の人々が集まる公園として開放しました。

ブリヂストンの創業者・石橋正二郎氏を始め、多くの人々からご好意を受けましたが、現在の外苑の梅の木も当時市中の民家の庭先からの献木を受けたものだと聞きます。

平成20年には梅林寺開山和尚400年遠諱(おんき)、また、外苑設立50周年を迎え、益々多くの人々がこの地を訪れて下さる事を願ってやみません。(久留米観光サイトより引用)

  

例年ですと梅の花は、今が見ごろなんですが、今年は、梅の花の開花が早かったのか、もう散りかけていました。

梅林寺から筑後川へ。

 

筑後川沿いは、つつじの名所です。毎年4月に「久留米つつじマーチ」が行われるのですが、昨年同様今年もコロナ感染防止の為、昨日、中止との発表がありました。

全国的に人気のある大会ですが、コロナ感染防止の為でしたら仕方ないですね。

 

 

 

西鉄宮の陣駅が最初の休憩。

 

休憩後、再スタート。宮ノ陣神社へ。

 

宮ノ陣神社」は、正平14年(1359)8月、後醍醐天皇の皇子である征西将軍宮懐良(かねよし)親王は、菊池武光、草野永幸ら宮方の軍勢を率い、南下してきた小(少)弐頼尚をはじめとする

足利方の大軍と大保原(現在の小郡市~宮ノ陣にかけて)において九州における雌雄をめぐり激しい戦いをひろげました。これが日本三大合戦の一つとして有名な大保原の合戦クリックしてください

(筑後川の戦い)です。その際、征西将軍宮がこの地に陣を張られたことが「宮ノ陣」の地名の由来ともいわれています。

これらの故事にちなんで高良神社宮司船曳鉄門が主となり明治21年(1888)に神殿を創建し、後征西将軍宮良成親王(懐良親王の甥)を祀ったのが宮ノ陣神社の始まりです。

のち同44年(1911)に懐良親王の霊を合祀しました。

境内には、「将軍梅」という懐良親王お手植と伝わる紅梅や皇族お手植えの松樹があり、三月上旬頃から遠い昔の思いを秘めて美しい紅梅が咲き誇ります。(案内板より)

  

宮ノ陣神社から高良川に向かいます。高良川左岸より石橋文化センターへ。

 

ここの梅ももう満開が過ぎました。

 

 

ここまで約9km、石橋文化センターで仮ゴールします。石橋文化センターまでのGPSです。

私達は、ここからJR久留米迄歩きました。全行程14kmでした。